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上毛電鉄大胡(おおご)駅から北進、かつての城郭の一部であった大胡支所を経て約10分の大胡城(おおごじょう、群馬県前橋市河原浜町)は平安時代に平将門の乱を平定した藤原秀郷(ふじわら・ひでさと)の流れを汲む系譜と伝えられる大胡氏が築城したとされます。<br /> <br />鎌倉時代には御家人として源頼朝に臣従、南北朝時代では尊氏方に属しますが次第にその勢いが衰え、若松氏重臣である金山城主由良氏に奪われてからは箕輪城の長野氏に属します。<br /><br />戦国時代後期では上野国は越後の上杉、甲斐の武田、小田原北条の三者が覇権を狙う係争地となり、大胡城も当然その争いに巻込まれますが、その後謙信並びに信玄の没を機に大胡城は小田原北条氏の勢力圏に組み込まれ、北条氏没落徳川家康の関東入部後は家臣牧野氏の知行地となります。<br /><br /><br />二の丸の空堀付近に立っている説明板によれば次のことが記されています。<br /><br />「県指定史跡 大胡城跡<br /><br />城跡は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根古屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大巾310mの規模を測り、枡形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っている。<br /><br />城主は、大胡氏及び牧野氏であった。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である。天正18年(1890)徳川家康の関東入部により牧野氏は大胡藩2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。元和2年(1616)に長嶺に転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代に城代が置かれたが、寛延2年(1749)姫路へ転封し廃城となった。<br />                        群馬県教育委員会」

上野大胡 頼朝御家人として赤城山麓を支配し戦国時代には上杉謙信・武田信玄・小田原北条氏の係争地となった東毛の大胡氏築城『大胡城』訪問

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2015/01/10 - 2015/01/10

256位(同エリア434件中)

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滝山氏照

滝山氏照さん

上毛電鉄大胡(おおご)駅から北進、かつての城郭の一部であった大胡支所を経て約10分の大胡城(おおごじょう、群馬県前橋市河原浜町)は平安時代に平将門の乱を平定した藤原秀郷(ふじわら・ひでさと)の流れを汲む系譜と伝えられる大胡氏が築城したとされます。
 
鎌倉時代には御家人として源頼朝に臣従、南北朝時代では尊氏方に属しますが次第にその勢いが衰え、若松氏重臣である金山城主由良氏に奪われてからは箕輪城の長野氏に属します。

戦国時代後期では上野国は越後の上杉、甲斐の武田、小田原北条の三者が覇権を狙う係争地となり、大胡城も当然その争いに巻込まれますが、その後謙信並びに信玄の没を機に大胡城は小田原北条氏の勢力圏に組み込まれ、北条氏没落徳川家康の関東入部後は家臣牧野氏の知行地となります。


二の丸の空堀付近に立っている説明板によれば次のことが記されています。

「県指定史跡 大胡城跡

城跡は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二ノ丸を囲郭的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根古屋、西には西曲輪の平野部が附加され、南北670m、東西最大巾310mの規模を測り、枡形門、水ノ手門虎口、空堀り、土塁等の跡が良く残っている。

城主は、大胡氏及び牧野氏であった。大胡氏は秀郷流藤原氏の一族で、東毛の豪族である。天正18年(1890)徳川家康の関東入部により牧野氏は大胡藩2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。元和2年(1616)に長嶺に転封後、前橋藩領となり、酒井氏時代に城代が置かれたが、寛延2年(1749)姫路へ転封し廃城となった。
                        群馬県教育委員会」

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル 私鉄
  • 上毛電鉄・大胡駅<br /><br />大胡駅を下車、やがて車輌が出発するのが見えます。

    上毛電鉄・大胡駅

    大胡駅を下車、やがて車輌が出発するのが見えます。

  • 大胡駅舎<br /><br />無人駅が多い中で当駅は駅員が勤務しています。

    大胡駅舎

    無人駅が多い中で当駅は駅員が勤務しています。

  • 大胡歴史探訪寺社巡り地図<br /><br />駅前の道路を北進すると途中に歴史探訪地図が見えます。

    大胡歴史探訪寺社巡り地図

    駅前の道路を北進すると途中に歴史探訪地図が見えます。

  • 大胡城跡・入口

    大胡城跡・入口

  • 大胡城跡入口<br /><br />トンネルに入る脇には大胡城跡の案内板が立っています。

    大胡城跡入口

    トンネルに入る脇には大胡城跡の案内板が立っています。

  • 二の丸<br /><br />トンネルを過ぎると本丸南端(右側)と二の丸(左側)との間に造られた通を経て城郭に入り込みます。(この道は大手道ではないと思われます)

    二の丸

    トンネルを過ぎると本丸南端(右側)と二の丸(左側)との間に造られた通を経て城郭に入り込みます。(この道は大手道ではないと思われます)

  • 二の丸<br /><br />本丸を囲むような形の二の丸が広がり、本丸と二の丸を隔てる空堀が本丸に沿って施されています。<br /><br />

    二の丸

    本丸を囲むような形の二の丸が広がり、本丸と二の丸を隔てる空堀が本丸に沿って施されています。

  • 大胡城枡形門

    大胡城枡形門

  • 大胡城二の丸

    大胡城二の丸

  • 大胡城二の丸跡標柱・説明板

    大胡城二の丸跡標柱・説明板

  • 説明板

    説明板

  • 大胡城想像図

    大胡城想像図

  • 大胡城二の丸<br /><br />深い空堀が向かいの本丸を取り囲んで敵の進入を防御します。

    大胡城二の丸

    深い空堀が向かいの本丸を取り囲んで敵の進入を防御します。

  • 大胡城本丸<br /><br />二の丸から本丸への急峻な石段を捉えます。後にこの石段から本丸に進みます。

    大胡城本丸

    二の丸から本丸への急峻な石段を捉えます。後にこの石段から本丸に進みます。

  • 枡形門跡<br /><br />二の丸内側から枡形門跡方向を捉えます。

    枡形門跡

    二の丸内側から枡形門跡方向を捉えます。

  • 升形門跡<br /><br />逆に二の丸外側から升形門を見ます。門跡には石垣は積まれ江戸期に牧野氏らにより補修時などに配されたものと思われます。

    イチオシ

    升形門跡

    逆に二の丸外側から升形門を見ます。門跡には石垣は積まれ江戸期に牧野氏らにより補修時などに配されたものと思われます。

  • 水の手門跡<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    水の手門跡





  • 欄干石材<br /><br />中央部の欄干には「ねこやばし」と刻された銘板が装着されていますが、城郭のどの部分に配されたのか不明です。

    欄干石材

    中央部の欄干には「ねこやばし」と刻された銘板が装着されていますが、城郭のどの部分に配されたのか不明です。

  • 大胡城本丸跡展望<br /><br />二の丸跡から本丸跡方向を一望します。二の丸が本丸を取り囲むような配置をしながら本丸との間には空堀を以て防御しています。

    大胡城本丸跡展望

    二の丸跡から本丸跡方向を一望します。二の丸が本丸を取り囲むような配置をしながら本丸との間には空堀を以て防御しています。

  • 大胡城本丸跡<br /><br />石段を昇り切ると石垣にて上段(奥)・下段(手前)に分かれた本丸跡が広がります。使用された石垣は江戸期に牧野氏らによって配されたものと思われます。<br /><br />

    大胡城本丸跡

    石段を昇り切ると石垣にて上段(奥)・下段(手前)に分かれた本丸跡が広がります。使用された石垣は江戸期に牧野氏らによって配されたものと思われます。

  • 大胡城本丸跡標柱

    イチオシ

    大胡城本丸跡標柱

  • 本丸土塁<br /><br />二の丸側には他よりも極めて高い土塁が南北に走っており、この土塁の高さが本丸の高さを裏付けていることが判ります。

    本丸土塁

    二の丸側には他よりも極めて高い土塁が南北に走っており、この土塁の高さが本丸の高さを裏付けていることが判ります。

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 市街展望<br /><br />大胡城本丸から市街展望、中程に荒砥川がありこれが外堀の役割をしていたと思われます。

    市街展望

    大胡城本丸から市街展望、中程に荒砥川がありこれが外堀の役割をしていたと思われます。

  • 本丸跡土塁<br /><br />本丸跡の北側を土塁が走り、外側は堀切が造られ断崖となっています。

    本丸跡土塁

    本丸跡の北側を土塁が走り、外側は堀切が造られ断崖となっています。

  • 堀切<br /><br />本丸跡と現在は保育園となっている北城(越中屋敷)とは大規模堀切で隔離され敵の進入を断っています。<br /><br />

    堀切

    本丸跡と現在は保育園となっている北城(越中屋敷)とは大規模堀切で隔離され敵の進入を断っています。

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 土橋<br /><br />本丸北西部には本丸と二の丸とを繋ぐ土橋があり、土橋の左右には空堀が造られています。

    土橋

    本丸北西部には本丸と二の丸とを繋ぐ土橋があり、土橋の左右には空堀が造られています。

  • 土橋<br /><br />

    土橋

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