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先祖のお墓参りへ毎年長崎へ出掛けて、10年になります。父方の祖父までをお祀りしていますが、江戸時代からの墓石が十基あり、広い墓地です。長崎は坂の町ですので、駅前から福斎寺への上り坂を上がり、お寺の裏手から更に石段をどんどん上がって行くという良い運動になること間違いなしの立地条件です。最初の頃は、長崎の名所、旧跡などを市電に乗って、よく歩き廻ったものです。長崎が気に入って、移り住んだという東松照明さんの本を読みながら、歩いたこともあります。<br />今年は、中島川に架かる橋を歩いて見ることにしました。幾度か洪水に遭い、流された橋ですが、その度に架け替えられて、現在に至っています。快晴の下、修学旅行生に人気の眼鏡橋辺りから上流へ歩き、また日焼けしてしまいました。翌日は朝から雨でしたが、濡れた石橋もなかなか良いものでした。

中島川に架かる橋廻り

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2014/05/13 - 2014/05/14

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belledune

belleduneさん

先祖のお墓参りへ毎年長崎へ出掛けて、10年になります。父方の祖父までをお祀りしていますが、江戸時代からの墓石が十基あり、広い墓地です。長崎は坂の町ですので、駅前から福斎寺への上り坂を上がり、お寺の裏手から更に石段をどんどん上がって行くという良い運動になること間違いなしの立地条件です。最初の頃は、長崎の名所、旧跡などを市電に乗って、よく歩き廻ったものです。長崎が気に入って、移り住んだという東松照明さんの本を読みながら、歩いたこともあります。
今年は、中島川に架かる橋を歩いて見ることにしました。幾度か洪水に遭い、流された橋ですが、その度に架け替えられて、現在に至っています。快晴の下、修学旅行生に人気の眼鏡橋辺りから上流へ歩き、また日焼けしてしまいました。翌日は朝から雨でしたが、濡れた石橋もなかなか良いものでした。

旅行の満足度
4.5

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  • 河口から直ぐの大波止橋、玉江橋、出島橋、長久橋、中央橋、鐵橋、万橋、賑橋、常盤橋は、新しく架け替えられました。まず、常盤橋辺りから歩き始めることにしました。

    河口から直ぐの大波止橋、玉江橋、出島橋、長久橋、中央橋、鐵橋、万橋、賑橋、常盤橋は、新しく架け替えられました。まず、常盤橋辺りから歩き始めることにしました。

  • 橋の袂に建つサンアウグスティン教会址。慶長17年(1612)にベルナルド・アヤラ神父がアウグスチノ会本部教会として、中島川沿いの常盤橋の袂に建てました。ここから現在の観光通りまでが、ほぼ

    橋の袂に建つサンアウグスティン教会址。慶長17年(1612)にベルナルド・アヤラ神父がアウグスチノ会本部教会として、中島川沿いの常盤橋の袂に建てました。ここから現在の観光通りまでが、ほぼ

  • 中島川上流の風景

    中島川上流の風景

  • 第11橋の袋橋は、記録がなく、架設年月日、架設者ともに不明です。石造アーチ橋では、眼鏡橋に次いで古い石橋と言われていますが、確証はありません。度々の洪水でも、流失を免れていて、壁面を積んでいる長崎型石造アーチ橋の形態を残しています。この橋は、袋町(現在の栄町)に架かるので、袋町橋とも呼ばれていましたが、明治15年に袋橋と命名されました。

    第11橋の袋橋は、記録がなく、架設年月日、架設者ともに不明です。石造アーチ橋では、眼鏡橋に次いで古い石橋と言われていますが、確証はありません。度々の洪水でも、流失を免れていて、壁面を積んでいる長崎型石造アーチ橋の形態を残しています。この橋は、袋町(現在の栄町)に架かるので、袋町橋とも呼ばれていましたが、明治15年に袋橋と命名されました。

  • 昔の袋橋

    昔の袋橋

  • 翌日は朝から雨だったので、雨に濡れた袋橋もなかなか良いものでした。

    翌日は朝から雨だったので、雨に濡れた袋橋もなかなか良いものでした。

  • 眼鏡橋が見えてきました。

    眼鏡橋が見えてきました。

  • 道路から袋橋の下へ下りてきました。道路から見る景色と下から見上げるはしの景色とは全く違うものですね。

    道路から袋橋の下へ下りてきました。道路から見る景色と下から見上げるはしの景色とは全く違うものですね。

  • 修学旅行生がたくさんいます。

    修学旅行生がたくさんいます。

  • ここを渡って、反対側へ行ってみます。

    ここを渡って、反対側へ行ってみます。

  • 寛永11年(1634)に興福寺二代目住持の唐僧・黙子如定によって架設された中島橋で最古の石造アーチ橋です。西道仙が眼鏡橋と正式に命名し、それ以来めがね橋と呼ばれています。長崎大洪水でアーチ部分を残して崩落しましたが、その後復元されました。

    寛永11年(1634)に興福寺二代目住持の唐僧・黙子如定によって架設された中島橋で最古の石造アーチ橋です。西道仙が眼鏡橋と正式に命名し、それ以来めがね橋と呼ばれています。長崎大洪水でアーチ部分を残して崩落しましたが、その後復元されました。

  • 黙子如定の像  中国・江西省の僧、黙子如定(1597〜1657)が寛永9年(1634)、日本へ渡来し、日本で最初のアーチ型石橋を完成しました。

    黙子如定の像  中国・江西省の僧、黙子如定(1597〜1657)が寛永9年(1634)、日本へ渡来し、日本で最初のアーチ型石橋を完成しました。

  • 雨が多く降るとここは歩けなくなるんでしょうね。

    雨が多く降るとここは歩けなくなるんでしょうね。

  • 復元工事の際に行なわれた解体調査で、左岸側橋端に階段の跡が発見されたので、被災前までスロープだった橋端は、元の姿に復元するため、階段へと変更されました。水害被災前から高欄には擬宝珠付きの柱が用いられています。

    復元工事の際に行なわれた解体調査で、左岸側橋端に階段の跡が発見されたので、被災前までスロープだった橋端は、元の姿に復元するため、階段へと変更されました。水害被災前から高欄には擬宝珠付きの柱が用いられています。

  • 明治中期の眼鏡橋

    明治中期の眼鏡橋

  • 昭和40年代の眼鏡橋

    昭和40年代の眼鏡橋

  • 昭和57年の長崎大洪水の後の眼鏡橋

    昭和57年の長崎大洪水の後の眼鏡橋

  • 魚市橋は、元禄12年に岡正恒が私費で建造した石造アーチ橋でした。近くに魚市場があったことから西道仙が命名したと言われています。水害が極めて酷い位置にあったため何度も流失し、架け替えが行なわれていました。明治36年(1903)に鉄橋となり、大正14年(1925)に鉄筋コンクリート造で橋脚のあるT字型の橋となりました。平成18年(2006)の拡張工事で、幅4mから9mと広くなりました。既存の高欄はそのまま使用していますが、橋脚は撤去されています。

    魚市橋は、元禄12年に岡正恒が私費で建造した石造アーチ橋でした。近くに魚市場があったことから西道仙が命名したと言われています。水害が極めて酷い位置にあったため何度も流失し、架け替えが行なわれていました。明治36年(1903)に鉄橋となり、大正14年(1925)に鉄筋コンクリート造で橋脚のあるT字型の橋となりました。平成18年(2006)の拡張工事で、幅4mから9mと広くなりました。既存の高欄はそのまま使用していますが、橋脚は撤去されています。

  • 鯉が群れになって泳いでいるのですが、背中に乗ったりして、じゃれているように見えました。親子なんでしょうか。

    鯉が群れになって泳いでいるのですが、背中に乗ったりして、じゃれているように見えました。親子なんでしょうか。

  • 東新橋

    東新橋

  • 東新橋は、中島川第8橋。寛文13年(1673)、石造アーチ橋が仮設されました。架設者は不明。その後、享保6年(1721)閏7月の洪水で流失しました。架け替えられた橋も、昭和57年の洪水でも流失しましたが、この位置で3度目の石造アーチ橋で、寛政12年(1800)長崎奉行所によって銀12貫目で仮設されたものでした。新橋町(現在の諏訪町)にあったので、明治15年位東新橋と命名されました。

    東新橋は、中島川第8橋。寛文13年(1673)、石造アーチ橋が仮設されました。架設者は不明。その後、享保6年(1721)閏7月の洪水で流失しました。架け替えられた橋も、昭和57年の洪水でも流失しましたが、この位置で3度目の石造アーチ橋で、寛政12年(1800)長崎奉行所によって銀12貫目で仮設されたものでした。新橋町(現在の諏訪町)にあったので、明治15年位東新橋と命名されました。

  • 昔の東新橋

    昔の東新橋

  • 昔の興福寺観音堂と麹屋町の写真です。文久4年(1864)頃、幕末から明治初期にかけて、F.ベアトが撮った興福寺観音堂と現在の麹屋町の通りだそうです。背後に見えるのは風頭山、正面奥には重層の楼閣があります。文政8年(1825)に荒廃していた開山堂を併合した観音堂でしたが、戦火で焼失しました。道路の中央には石畳が舗装され、突き当たりの寺町通りへは現在の斜路に改修される前の石段が見えています。両脇の民家の1階軒先には、尾垂れが連なり、通りに面した家の前にはバンコ(下に倒して物を並べたりする板)があるという町家の特徴が見られます。

    昔の興福寺観音堂と麹屋町の写真です。文久4年(1864)頃、幕末から明治初期にかけて、F.ベアトが撮った興福寺観音堂と現在の麹屋町の通りだそうです。背後に見えるのは風頭山、正面奥には重層の楼閣があります。文政8年(1825)に荒廃していた開山堂を併合した観音堂でしたが、戦火で焼失しました。道路の中央には石畳が舗装され、突き当たりの寺町通りへは現在の斜路に改修される前の石段が見えています。両脇の民家の1階軒先には、尾垂れが連なり、通りに面した家の前にはバンコ(下に倒して物を並べたりする板)があるという町家の特徴が見られます。

  • 現在のススキ(クサカンムリに千)原橋辺りの景色です。延宝9年に石造アーチ橋架設という記録があるのですが、架設者は不明です。橋の周辺は草が生茂って(センセンとしていた)ことから西道仙が命名しました。文化元年(1804)に架け替えられた橋が一部コンクリートにかいしゅうされて、昭和期まで残っていましたが、長崎大水害で流失しました。その後、鉄筋コンクリート製の石張りで再架設されました。幅を4mから10mに拡げています。現在の橋は擬宝珠付きの柱を持つ高欄になっていますが、水害被災前は角柱でした。

    現在のススキ(クサカンムリに千)原橋辺りの景色です。延宝9年に石造アーチ橋架設という記録があるのですが、架設者は不明です。橋の周辺は草が生茂って(センセンとしていた)ことから西道仙が命名しました。文化元年(1804)に架け替えられた橋が一部コンクリートにかいしゅうされて、昭和期まで残っていましたが、長崎大水害で流失しました。その後、鉄筋コンクリート製の石張りで再架設されました。幅を4mから10mに拡げています。現在の橋は擬宝珠付きの柱を持つ高欄になっていますが、水害被災前は角柱でした。

  • すすき原橋

    すすき原橋

  • 明暦3年(1657)に東通事高一覧が、浄財を募って架設した一覧橋です。洪水で何度か流失しましたが、享和元年(1801)に架け替えられた橋が昭和期まで残っていました。これも長崎大水害で流失し、現在の石造アーチ橋が架設されました。中国風で石材は中国福州市の花崗岩を使用しています。現在の橋は擬宝珠付きの柱を持つ高欄になっていますが、ここも水害被災前は角柱でした。

    明暦3年(1657)に東通事高一覧が、浄財を募って架設した一覧橋です。洪水で何度か流失しましたが、享和元年(1801)に架け替えられた橋が昭和期まで残っていました。これも長崎大水害で流失し、現在の石造アーチ橋が架設されました。中国風で石材は中国福州市の花崗岩を使用しています。現在の橋は擬宝珠付きの柱を持つ高欄になっていますが、ここも水害被災前は角柱でした。

  • 昔の一覧橋と光永寺の景色です。

    昔の一覧橋と光永寺の景色です。

  • 浄土真宗の光永寺は慶長19年(1614)に慶西(唐津久兵衛)が幕府より寺地を与えられて創建しました。

    浄土真宗の光永寺は慶長19年(1614)に慶西(唐津久兵衛)が幕府より寺地を与えられて創建しました。

  • 光永寺  約四百年前、長崎開港当時、長崎は一時キリシタン領となって、神社、仏閣は焼かれ、仏教徒は領外へ追放されました。これを嘆いて、当山の開祖慶西は肥前の国唐津から来て、浦上に庵室を設け、仏教復興のために身を挺して奮闘しました。その功に因って、幕府は寺地として与えられ、慶長19年(1614)光永寺を創建したそうです。

    光永寺  約四百年前、長崎開港当時、長崎は一時キリシタン領となって、神社、仏閣は焼かれ、仏教徒は領外へ追放されました。これを嘆いて、当山の開祖慶西は肥前の国唐津から来て、浦上に庵室を設け、仏教復興のために身を挺して奮闘しました。その功に因って、幕府は寺地として与えられ、慶長19年(1614)光永寺を創建したそうです。

  • 山門は、県下における唯一の朱印地様式の遺構となっています。元々、桶屋町通りに面していましたが、文化元年(1804)東向きの位置に移され、「向陽山」と山号を定めて、筋塀とともに完成しました。

    山門は、県下における唯一の朱印地様式の遺構となっています。元々、桶屋町通りに面していましたが、文化元年(1804)東向きの位置に移され、「向陽山」と山号を定めて、筋塀とともに完成しました。

  • 江戸期の本堂は、原爆で大破し、現在の本堂は昭和60年秋に再建されました。平成元年に落慶法要を行い、戦時供出の梵鐘も平成6年原爆50回忌を期して改鋳されました。明治12年(1879)ここで最初の県議会が開催されました。

    江戸期の本堂は、原爆で大破し、現在の本堂は昭和60年秋に再建されました。平成元年に落慶法要を行い、戦時供出の梵鐘も平成6年原爆50回忌を期して改鋳されました。明治12年(1879)ここで最初の県議会が開催されました。

  • 本堂横のちょっと古めかしい構えの建物は?

    本堂横のちょっと古めかしい構えの建物は?

  • 19歳の福沢諭吉葉、当寺を頼って、長崎へ来ました。ここは明治12年(1879)に県一時当寺に寄宿し、その後、出来大工町にあった高島秋帆門下の砲術家山本物次郎の家に移り、蘭学を学んだということです。安政5年(1858)、江戸に出て、築地に蘭学塾を開いたのが、慶応義塾の始まりでした。

    19歳の福沢諭吉葉、当寺を頼って、長崎へ来ました。ここは明治12年(1879)に県一時当寺に寄宿し、その後、出来大工町にあった高島秋帆門下の砲術家山本物次郎の家に移り、蘭学を学んだということです。安政5年(1858)、江戸に出て、築地に蘭学塾を開いたのが、慶応義塾の始まりでした。

  • 上流に見える古町橋

    上流に見える古町橋

  • 元禄10年(1697)に河村喜兵衛と母妙了によって私費で架けられた第五橋の古町橋です。同じく長崎大水害で流失しましたが、現在の橋は、唐津市小十の安山岩を使用したアーチ橋になっています。現在擬宝珠付きの柱を持つ高欄になっていますが、ここも水害前は角柱でした。長崎大水害後の石橋復旧工事の際、どうした訳か、80mほど上流で初代古町橋の親柱が発見されたそうです。水害時の水の流れは複雑ですね。

    元禄10年(1697)に河村喜兵衛と母妙了によって私費で架けられた第五橋の古町橋です。同じく長崎大水害で流失しましたが、現在の橋は、唐津市小十の安山岩を使用したアーチ橋になっています。現在擬宝珠付きの柱を持つ高欄になっていますが、ここも水害前は角柱でした。長崎大水害後の石橋復旧工事の際、どうした訳か、80mほど上流で初代古町橋の親柱が発見されたそうです。水害時の水の流れは複雑ですね。

  • 尺八文化史碑

    尺八文化史碑

  • 元禄12年(1699)に来志村氏が架設した第四橋の編笠橋で、中島川で最後に架設された石造アーチ橋でした。大井手橋に次いで合流点に近く、ここも幾度洪水で崩落や流失しています。1800年代に架け替えられたと思われる橋が昭和期まで残っていましたが、やはりここも長崎大洪水で流失しました。現在の橋は、小長居町帆崎の安山岩を使用したアーチ橋が架設されました。水害前は角柱を用いていましたが、現在は擬宝珠付きの高欄になっています。

    元禄12年(1699)に来志村氏が架設した第四橋の編笠橋で、中島川で最後に架設された石造アーチ橋でした。大井手橋に次いで合流点に近く、ここも幾度洪水で崩落や流失しています。1800年代に架け替えられたと思われる橋が昭和期まで残っていましたが、やはりここも長崎大洪水で流失しました。現在の橋は、小長居町帆崎の安山岩を使用したアーチ橋が架設されました。水害前は角柱を用いていましたが、現在は擬宝珠付きの高欄になっています。

  • 昔の編笠橋です。今博多町と麹屋町に架かる橋ですが、今博多町は当時「あめがた町」と呼ばれていたことから、明治15年に編笠橋と命名されました。

    昔の編笠橋です。今博多町と麹屋町に架かる橋ですが、今博多町は当時「あめがた町」と呼ばれていたことから、明治15年に編笠橋と命名されました。

  • 元禄11年(1698)に岡正敏が施主となって架設された第三橋の大井手橋。中島川と西山川との合流点にあります。何度も流失し、文化元年(1804)に架け替えられた橋が昭和初期まで残っていましたが、ここも長崎大洪水で流失しました。現在の橋は、唐津市小十の安山岩を使用して、鉄筋コンクリート造の石張りで架設されました。ここも幅を4mから10mに拡げて、近代式の橋になっています。

    元禄11年(1698)に岡正敏が施主となって架設された第三橋の大井手橋。中島川と西山川との合流点にあります。何度も流失し、文化元年(1804)に架け替えられた橋が昭和初期まで残っていましたが、ここも長崎大洪水で流失しました。現在の橋は、唐津市小十の安山岩を使用して、鉄筋コンクリート造の石張りで架設されました。ここも幅を4mから10mに拡げて、近代式の橋になっています。

  • 昔の大井手橋

    昔の大井手橋

  • 手摺りの石が少し間が開いていて、ちょっと危険な感じがします。

    手摺りの石が少し間が開いていて、ちょっと危険な感じがします。

  • 下流方向

    下流方向

  • 支流の堂門川に架けられている桃渓橋は、延宝7年(1679)に僧ト意が在留唐人の寄付を募って架設しました。河畔に多くの桃の木があったので、こう呼ばれていました。合流点よりも上にあり、寛政7年(1795)に破損した記録がありまうsが、流失したという記録はありません。長崎大洪水で、アーチ部分を残して、上部が流されましたが、原石を出来る限り回収して復元されました。被災前とほぼ同じ形で新造されています。

    支流の堂門川に架けられている桃渓橋は、延宝7年(1679)に僧ト意が在留唐人の寄付を募って架設しました。河畔に多くの桃の木があったので、こう呼ばれていました。合流点よりも上にあり、寛政7年(1795)に破損した記録がありまうsが、流失したという記録はありません。長崎大洪水で、アーチ部分を残して、上部が流されましたが、原石を出来る限り回収して復元されました。被災前とほぼ同じ形で新造されています。

  • 鎮西橋は堂門川に架設されていましたが、橋をバスや電車が走っていて、路面電車の諏訪神社前電停がその端の真上に位置しています。そのため、写真が撮れませんでした。その次の大手橋は、堂門橋と呼ばれていましたが、橋の上を市電が走っています。享保6年の大洪水で破損し、掛り町の北馬町、南馬町、新大工町の三町で修理した記録が残っています。現在は原形を留めておらず、下部のアーチ部分のみが残されています。ここも写真が撮れませんでした。

    鎮西橋は堂門川に架設されていましたが、橋をバスや電車が走っていて、路面電車の諏訪神社前電停がその端の真上に位置しています。そのため、写真が撮れませんでした。その次の大手橋は、堂門橋と呼ばれていましたが、橋の上を市電が走っています。享保6年の大洪水で破損し、掛り町の北馬町、南馬町、新大工町の三町で修理した記録が残っています。現在は原形を留めておらず、下部のアーチ部分のみが残されています。ここも写真が撮れませんでした。

  • 下流方向。右手の建物の影にト意地蔵という地蔵堂が建っています。

    下流方向。右手の建物の影にト意地蔵という地蔵堂が建っています。

  • 承応元年(1652)に興福寺の檀徒で蘇州府出身の人が寄付して石造アーチ橋を架設したのが、高麗橋です。新高麗町(現在の伊勢町)に架かっていたので、こう呼ばれていました。中島川の合流点よりも上流にあり、崩落の記録はありません。慶応2年(1866)に麹屋町の池島正助が私費で架け替えを行い、その後、大正4年に橋面をコンクリートで増設したという記録が残されています。長崎大水害後に架け替えられ、元の橋は、平成5年に西山ダム下に移築復元されています。その復元された橋は、擬宝珠付きの柱を使用していました。

    承応元年(1652)に興福寺の檀徒で蘇州府出身の人が寄付して石造アーチ橋を架設したのが、高麗橋です。新高麗町(現在の伊勢町)に架かっていたので、こう呼ばれていました。中島川の合流点よりも上流にあり、崩落の記録はありません。慶応2年(1866)に麹屋町の池島正助が私費で架け替えを行い、その後、大正4年に橋面をコンクリートで増設したという記録が残されています。長崎大水害後に架け替えられ、元の橋は、平成5年に西山ダム下に移築復元されています。その復元された橋は、擬宝珠付きの柱を使用していました。

  • 下流方向に見えるのが、大手橋です。

    下流方向に見えるのが、大手橋です。

  • 上流方向の阿弥陀橋が見えています。

    上流方向の阿弥陀橋が見えています。

  • 元禄3年(1690)園山善爾が私財で架設した第一橋の阿弥陀橋です。純粋の日本人町人の寄付で架けられた橋は、これが最初です。架設当初、橋の傍に阿弥陀堂があったため、極楽橋とか阿弥陀橋などと呼ばれていました。寛政7年(1795)の洪水で破損しましたが、完全な流失の記録はありません。やはり長崎大洪水後に架け替えられて、元の橋は移築復元のため、解体して保管してあるそうです。

    元禄3年(1690)園山善爾が私財で架設した第一橋の阿弥陀橋です。純粋の日本人町人の寄付で架けられた橋は、これが最初です。架設当初、橋の傍に阿弥陀堂があったため、極楽橋とか阿弥陀橋などと呼ばれていました。寛政7年(1795)の洪水で破損しましたが、完全な流失の記録はありません。やはり長崎大洪水後に架け替えられて、元の橋は移築復元のため、解体して保管してあるそうです。

  • 倉田水樋源跡  本五島町の廻船問屋倉田次郎右衛門が延宝元年(1673)に7ヶ月の歳月を掛けて作ったと言われています。宅地3箇所と回漕船3隻を処分しても資金が足らず、長崎奉行所が白銀三百文を援助したそうです。水樋によって、長崎66町中50余町に給水され、延宝8年(1680)以降、次郎右衛門は水樋掛に任命されて、以後、倉田家が世襲していました。明治維新後、水樋掛は廃止され、明治17年(1884)以降、水理士巧会が運営していました。明治24年(1891)本河内水道の完成によって、約218年館使用された水樋は廃止されました。

    倉田水樋源跡  本五島町の廻船問屋倉田次郎右衛門が延宝元年(1673)に7ヶ月の歳月を掛けて作ったと言われています。宅地3箇所と回漕船3隻を処分しても資金が足らず、長崎奉行所が白銀三百文を援助したそうです。水樋によって、長崎66町中50余町に給水され、延宝8年(1680)以降、次郎右衛門は水樋掛に任命されて、以後、倉田家が世襲していました。明治維新後、水樋掛は廃止され、明治17年(1884)以降、水理士巧会が運営していました。明治24年(1891)本河内水道の完成によって、約218年館使用された水樋は廃止されました。

  • 銭屋橋辺りから上流は新しいコンクリートの橋が続くようなので、戻って、反対側の上流へ行ってみます。

    銭屋橋辺りから上流は新しいコンクリートの橋が続くようなので、戻って、反対側の上流へ行ってみます。

  • 長崎聖堂跡  中島聖堂とも呼ばれ、正保4年(1647)向井元升が東上町に設立した立山書院を前身として、正徳元年(1711)にここへ移し、長崎聖堂と改称しました。祭酒に向井元升の三男元成が命ぜられ、以後向井家が世襲しました。敷地545坪で、本殿の大成殿をはじめ、大学門など多くの建物がありました。明治以降、荒廃し、昭和34年に大学門と規模を縮小した大成殿が興福寺境内へ移築されました。

    長崎聖堂跡  中島聖堂とも呼ばれ、正保4年(1647)向井元升が東上町に設立した立山書院を前身として、正徳元年(1711)にここへ移し、長崎聖堂と改称しました。祭酒に向井元升の三男元成が命ぜられ、以後向井家が世襲しました。敷地545坪で、本殿の大成殿をはじめ、大学門など多くの建物がありました。明治以降、荒廃し、昭和34年に大学門と規模を縮小した大成殿が興福寺境内へ移築されました。

  • 当時の長崎聖堂

    当時の長崎聖堂

  • 当時の上野撮影局と中島橋  上野彦馬は文久2年(1862)、日本で最初の商業写真家として、撮影局を開業しました。当時の内外の要人、明治7年の金星観測の様子、明治10年の西南の役を撮影し、貴重な写真を後世に残すと共に多くの弟子を養成しました。左手の屋敷が長崎聖堂で、右手は水神神社で、倉田水樋の水源がありました。

    当時の上野撮影局と中島橋  上野彦馬は文久2年(1862)、日本で最初の商業写真家として、撮影局を開業しました。当時の内外の要人、明治7年の金星観測の様子、明治10年の西南の役を撮影し、貴重な写真を後世に残すと共に多くの弟子を養成しました。左手の屋敷が長崎聖堂で、右手は水神神社で、倉田水樋の水源がありました。

  • 当時の馬町と新大工町の町並み 中央の石畳は、長崎街道の入り口で、両脇に人力車や荷車が留めてあります。中央に大手橋の親柱が見えています。大手橋の名称は、曾て長崎氏が領主だった頃に、この橋が城の大手方向にあったことに由来しています。

    当時の馬町と新大工町の町並み 中央の石畳は、長崎街道の入り口で、両脇に人力車や荷車が留めてあります。中央に大手橋の親柱が見えています。大手橋の名称は、曾て長崎氏が領主だった頃に、この橋が城の大手方向にあったことに由来しています。

  • 合流点から上流に向かって左側、西山川へ行ってみます。

    合流点から上流に向かって左側、西山川へ行ってみます。

  • この先左手に行ってみましたが、恩賜団済生会支部済生会長崎病院でした。その先は長崎大学、西山ダムへと繋がっています。日焼けし過ぎたので、今日はこの辺で引き返します。また次回、お墓参りの時に、西山ダムへ行って、移築された橋を探してみようと思います。

    この先左手に行ってみましたが、恩賜団済生会支部済生会長崎病院でした。その先は長崎大学、西山ダムへと繋がっています。日焼けし過ぎたので、今日はこの辺で引き返します。また次回、お墓参りの時に、西山ダムへ行って、移築された橋を探してみようと思います。

  • 西山御薬園跡  オランダ船や唐船で持ち込まれた薬草を栽培するために設けられた施設でした。初め、十善寺郷(現在の館内町)にありましたが、元禄元年(1685)、唐人屋敷が造られたこにになったため、長崎奉行所立山役所内に移転し、文化7年(1810)以降、西山郷のこの地に設けられました。敷地は約1169坪で、西61間、北東66間、南50間のほぼ三角形の土地に薬守小屋(管理人小屋)、神農祠などがありました。

    西山御薬園跡  オランダ船や唐船で持ち込まれた薬草を栽培するために設けられた施設でした。初め、十善寺郷(現在の館内町)にありましたが、元禄元年(1685)、唐人屋敷が造られたこにになったため、長崎奉行所立山役所内に移転し、文化7年(1810)以降、西山郷のこの地に設けられました。敷地は約1169坪で、西61間、北東66間、南50間のほぼ三角形の土地に薬守小屋(管理人小屋)、神農祠などがありました。

  • 上の方に見えるのが、料亭・富貴楼です。後で上って、正面玄関へ行きます。

    上の方に見えるのが、料亭・富貴楼です。後で上って、正面玄関へ行きます。

  • 浜の町アーケード街のある長崎オリジナル・ショップ nill で、Tシャツを買ってしまいました。

    浜の町アーケード街のある長崎オリジナル・ショップ nill で、Tシャツを買ってしまいました。

  • 浜の町アーケードのドンシューズに展示してあった坂本龍馬のブーツは、1990年の長崎博覧会で実際に龍馬が履いたと思われる靴を復元し、展示したということです。龍馬の靴の寸法、靴の絵型などをあつめ、製作した高級ブーツです。ジェフリー・チューダーの「龍馬のブーツ その起源を追って」の冊子を頂きました。<br />

    浜の町アーケードのドンシューズに展示してあった坂本龍馬のブーツは、1990年の長崎博覧会で実際に龍馬が履いたと思われる靴を復元し、展示したということです。龍馬の靴の寸法、靴の絵型などをあつめ、製作した高級ブーツです。ジェフリー・チューダーの「龍馬のブーツ その起源を追って」の冊子を頂きました。

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