2014/02/27 - 2014/03/01
6位(同エリア3733件中)
montsaintmichelさん
- montsaintmichelさんTOP
- 旅行記374冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 3,067,413アクセス
- フォロワー141人
実は旅程を立てるまで名前さえ知らないノーマークのお寺でした。「るるぶ」でも小さな記事しかなかったのですが、ネットで調べていったら孔子廟を蹴散らして急浮上したのが崇福寺(そうふくじ)。九州にある国宝はわずか5つ。そのうち3つは長崎県にあり、2つがこの崇福寺にあります。また、国指定重要文化財5件を含む計21件もの文化財の宝庫。京都・奈良を除けば西日本随一の規模だそうです。
聖壽山崇福寺は日本最古の中国様式の寺院。海外貿易拠点だった長崎には、華僑と呼ばれる中国渡来の人々が多く住んでいました。キリシタンでないことを証明するために出身地別に唐寺を建立するため、1629年に福建省出身者が福州から明僧 超然を招いて創建した禅宗派 黄檗宗の寺院です。部材や仏像は現地調達し、建築は日本人棟梁が携わりました。同様の唐寺が長崎市内に4ヶ所あり、興福寺・福済寺と共に長崎三福寺にも数えられています。因みに、第4代の住持が有名な隠元禅師です。国宝の第一峰門、大雄宝殿や重要文化財の三門、護法堂、媽姐堂、鐘鼓楼など唐様の伽藍は見応えがあります。
ご本尊:釈迦如来坐像。ご利益:癒やし。
「解夏」や「龍馬伝」にも登場し、境内に入ると街の喧騒が嘘のようにフェードアウトし、静寂感が身に染み入ります。国宝やユニークな意匠の文化財が沢山あるだけでなく、ゆったりとした時間が流れる癒しの異空間であることも魅力のひとつです。
<日程>
2月27日:伊丹空港ANA161(9:50)→長崎空港(11:10)
長崎空港<長崎県営バス>(11:20)==JR長崎駅(12:10)
JR長崎駅~グラバー園~大浦天主堂~崇福寺~風頭公園~
若宮稲荷神社~亀山社中~眼鏡橋~JR長崎駅~
稲佐山(夜景観賞)
JR長崎駅(21:12)==JRハウステンボス駅(22:45)
ウォーターマークホテル 連泊
2月28日:ハウステンボス
3月1日 :ハウステンボス==(西肥バス)長崎空港
長崎空港ANA164(13:35)→伊丹空港(14:40)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス ANAグループ JRローカル
PR
-
崇福寺 三門 国指定重要文化財
グラバー坂を下った所にある市電「大浦天主堂下」駅から、築町乗り継ぎで「正覚寺下」駅で下車すると、徒歩3分程で崇福寺に到着します。
入口にある龍宮城を彷彿とさせる華麗な姿の楼門は、龍宮門とも称される三門。三門とは、3つの門扉を有する楼門の総称。寺院では外門を山門、禅宗では三門と呼び、三解脱門の略とされて悟りの境地に至るために通る三つの門、「空解脱門」・「無想解脱門」・「無作解脱門」を意味します。紅色に近い朱色の三門を持つことから、「赤門さん」の名でも親しまれています。
1673年の創建当時は、三間一戸八脚門入母屋造り単層で、現在のものとは全く違う形だったそうです。現在の三門は、游龍彦十郎・鄭幹輔の発願によって1849年に再建されたもので、棟梁 大串五良平の施工。中国 明末期〜清初期の南支建築様式をそのまま輸入し、国内では他に類を見ない造りです。シルエットがとても優美・端麗で、日本寺院の雰囲気とは一線を画し、異国情緒の琴線に触れます。 隠元禅師 筆の山号「聖壽(しょうじゅ)山」の扁額が楼上正面に掲げられ、県有形文化財に指定されています。左側の小さな門は「如意」、右側の門は「吉祥」と命名されています。 -
崇福寺 三門
崇福寺の最大の特徴は、建築様式と聨額(れんがく)です。建築様式は、明朝末期〜清朝初期(17世紀)の南支建築様式を輸入したもので希少価値が高いそうです。もうひとつの見所が聨額。享保年間(18世紀初)に唐僧の渡来が途絶えたのですが、それ以前に渡来した唐僧は書画に秀で、寺院に掲げられている扁額や柱聯はその唐僧の墨跡だそうです。扁額は1655〜1695年の書と推定されています。江戸時代に流行した唐様の書風の源流とされ、即非禅師の楷書は宇治 黄檗山にもない貴重なものだそうです。因みに、対句を分けて左右の柱に掛けたのが柱聯で、中国では民家にもこの風習があるそうです。また、門や室内に掲げた額が扁額で、これらを合わせて聯額と言います。 また、崇福寺は石を投げれば国宝や重要文化財に当たるくらい文化資産の密度が高い唐寺です。長崎=キリスト教というイメージが強かったのですが、中国様式の寺院もあり、まさに和華蘭が高いレベルで融合した街と再認識しました。異国情緒溢れる長崎というのは、こんな所から感じられるのかもしれません。 -
崇福寺 三門 狛犬
目を惹きつけるのは三門の両脇に鎮座する狛犬。どこか日本の神社の狛犬とは違う印象です。動きがあってしなやかなフォルムは、漫画家 故谷岡ヤスジ氏のキャラクターにありそうな、とぼけたユーモラスな顔をしています。また、子獅子を抱く仕草も妙に人間っぽい感じがし、どことなく温かみが感じられます。 -
崇福寺 三門 狛犬
日本の狛犬の定義は、向って左が雄の狛犬で阿吽の吽、右が雌の獅子で阿なのですが、ここの狛犬の口はどちらも阿。調べてみると、中国では口の開閉は意味を持たず、向かって左の毬を抱えているのが雄で、右の子獅子と戯れているのが雌だそうです。因みに、雄が抱えている毬を繍球と呼び、この中から獅子の子が生まれると考えられており、縁起物とされているそうです。 -
崇福寺 三門 獣環(じゅうかん)
門扉に嵌め込まれた恐ろしい顔をした獣の装飾品。これは獣環と呼ばれ、中国では門扉に付けられる一般的な装飾品ですが、国内では唯一のものだそうです。以前盗難に遭い、幸い戻ってきたそうですが、現在では大2面小4面共に扉から外されて寺院で保管されているそうです。というわけで残念ながら現在のものはレプリカです。強面ですので、門番や厄払いの役目でも担っているのでしょうか?
それを知ってか知らずか、盗んだ人にはどんな天罰が下ったのか、推して知るべしです。
こちらは「如意」門に取り付けられているものです。 -
崇福寺 三門 獣環
こちらは中央門のもの。脇にある門とは意匠が異なります。
鼻の頭がピカピカに光っているのは、拝観者に愛でられた印と言えます。 -
崇福寺 三門 鯱(シャチ)
門の天井の梁の両端にちょこんと載っているのは、鯱または魔伽羅(まから)と呼ばれる動物です。聖域結界の象徴でもあり、サンスクリット語で「ワニ」を意味する想像上の生き物で、起源はガンジス川のワニです。
天井板には龍の絵が描かれているらしいのですが、ご覧のようにイメージできないほどに劣化しています。 -
崇福寺 三門 鯱
体が水分でできている動物とされ、三門が2度も火災に遭って焼失したため、火災から三門を守ろうとする意味を込めて取り付けられているそうです。 -
崇福寺 三門
三門を潜った先にプレハブの拝観受付があります。つまり、三門を潜った所までは無料ですので、時間がない方もちょっとだけ寄り道されてはいかがでしょうか?
拝観料は300円ととってもリーズナブルです。
第一峰門へ向かう途中の石段から見下ろす三門の雄姿です。
こうして見ると屋根の曲線がとても優雅に映ります。 -
崇福寺 三門
屋根の上に載っている鯱を望遠で狙ってみました。 -
崇福寺 袖石
第一峰門へ誘う階段の踊り場にある袖石には、西王母伝説の長寿の桃で有名な、6000年に一度実を付け、食べると不老不死となると言われる生命の果実 桃が彫られています。
「西遊記」の中で、孫悟空は天界の桃園に植えられた3600本の木の管理を任されました。手前の1200本は3000年に一度実を付け、それを食べると仙人になれ、真ん中の1200本は6000年に一度実を付け、それを食べると不老不死になれ、一番奥の1200本は9000年に一度実を付け、それを食べると未来永劫に生き続けられるとされていました。この桃は西王母の誕生日に食べる慣わしになっていましたが、孫悟空が盗み食いをしてしまったという伝説が残っています。 -
崇福寺 袖石
裏には鯉の滝登りなどの縁起物の彫刻があります。鯉は、龍門という急流を登り、やがて天まで登って龍になるとの故事が「三秦記」にあり、これを「登竜門」と言って出世魚として尊重されています。鯉幟もこの故事に倣ったものだそうですが、空を飛ぶ発想は日本独自のものだそうです。
因みに、この西王母の誕生日は、3月3日。日本では桃の節句です。そして鯉幟は端午の節句。偶然の一致なのでしょうか? -
崇福寺 第一峰門 国宝
階段を上ると第一峰門が見えてきます。名の由来は、扁額「第一峰」の文字。二の門・中門・唐門・赤門・海天門などの別名があります。1644年創建ですが、現存するものは1696年に改築されたものです。中国寧波で切組みし、唐船で運ばれて建てられた門で、唐通事(中国語の通訳。幕府役人で帰化唐人が世襲)の林仁兵衛と林守でん( 「でん」は、土の上に殿)の寄進。幕臣とはいえ、相当な財力を持っていたことの証と言えます。尚、1655年に隠元禅師を迎えた際の山門は、この第一峰門だったそうです。 -
崇福寺 第一峰門
国宝指定のポイントは、珍異奇巧を極める軒裏の斗きょう(「きょう」は、木偏に共)の詰組。その華麗さ、緻密さには圧倒されます。平垂木を放射状に割付けた扇垂木に鼻隠板打ち、極彩色の吉祥模様(宝尽くし)と呼ばれる瑞雲・丁子・方勝などの方形の首飾り、そして漢方薬で珍重される霊芝 別名「猿の腰掛」が丹念に描かれ、雨に晒される部分は朱丹一色塗りです。「四手先三葉きょう斗きょう詰組(よてさきさんようきょうときょうつめぐみ)」 と呼ばれ、国内ではこれ以外に例がなく、本場の華南地方でも珍重されています。当初材は広葉杉(こうようざん)。
正面に掛る「第一峰」の扁額は隠元禅師の弟子で住職を務めた即非禅師 筆で、県有形文化財に指定されています。 -
崇福寺 第一峰門
匠の技にただただ圧倒されます。
双眼鏡を持参されればじっくりと堪能できると思います。 -
崇福寺 第一峰門
軒裏を見上げているとぴたりと足が止まってしまい、なかなか先へ歩が進みません。
日光東照宮の陽明門のように、日がな一日眺めていても飽きないのでは!? -
崇福寺 第一峰門
横額の表「崇福禅寺」は林仁兵衛、裏「海天華境」は林大卿の寄進で、父子による寄進だそうです。 -
崇福寺 第一峰門
第一峰門を潜り抜け、内側から門を振り返ると中央に白い牡丹の紋、四隅には青い蝙蝠が配されてとても色鮮やかで華麗です。
牡丹の花は百花の王とされ、強さを表す縁起物だそうです。 -
崇福寺 第一峰門
愛嬌のある蝙蝠のデザインが光ります。
蝙蝠は中国語で「びぇんふー」と発音し、「蝠」が「福」と同じ発音であることから中国人の最も好むもののひとつだそうです。吉祥を意味し、慶事・幸運・幸福のシンボルとされ、日本の鶴亀のように福寿を祝う時に用いられるそうです。現在の日本では蝙蝠は不吉なイメージですが、かつては日本でも中国文化の影響を受け、また蚊など害虫を食べる益獣として縁起のよい動物とされていたようです。
因みに、寛永元年(1624年)創業のカステラの福砂屋の商標には、12代から蝙蝠のデザインが使われています。 -
崇福寺 第一峰門
斜め方向から眺める門も絵になります。 -
崇福寺 第一峰門
屋根を横から眺めてみてください。
屋根の破風(懸魚部分)にも蝙蝠が象られているのが判ります。
このように土産物屋と護法堂との間に入るとよく見えます。 -
崇福寺 金炉
「金炉:金路不断千年火」と書かれた、奇妙奇天烈な小さな祠のようなものがあります。
金紙と呼ばれる紙銭を燃やす炉だそうです。
中国では、神様へお願いする時もしくは願いが叶ってお礼をする時、まずお線香を焚き、最後に金紙を火にくべてお参りの儀式を終えます。金炉で燃やすことで、お金が神様や霊の手に渡るとされています。
まさかお賽銭箱やゴミ箱と間違える人はいないと思いますが、ご注意なさってください。 -
崇福寺 大雄宝殿(だいおうほうでん) 国宝
禅宗では、お釈迦様を「大雄」と呼び、それを祀る堂宇なので「大雄宝殿」。
「龍馬伝」では、龍馬が長崎にやって来て、渾然とした異文化にあんぐりと大口開けて見とれていた印象的なシーンに使われました。長崎県の3つの国宝が全て異邦人の手になるというのはちょっと複雑な気がします。因みに、もうひとつは「大浦天主堂」です。
1646年に唐商 何高材(がこうざい)の寄進で創建され、市内に現存する最古の建物。当初は単層屋根でしたが、1681年に魏之えん(「えん」は、王遍に炎)が日本人棟梁を使って入母屋屋根の上層を追加して現在の姿になりました。前面吹放ち廊下は、俗に黄檗天井と呼ばれるアーチ状の天井になっており、典型的な中国建築様式の意匠です。それに対し、上層部の建築様式は和様式を基調としています。しかも両者は違和感なく見事なまでに調和しています。上層部の意匠は、福済寺大雄宝殿(原爆にて焼失)に類似しているそうです。 -
崇福寺 大雄宝殿
ここの特徴は、軒回りの「擬宝珠付き垂花柱」。「逆擬宝珠束」とも呼ばれます。橋の欄干に立っているのはよく見かけますが、このように軒から吊り下げられているのは珍百景です。
垂花柱も花のような彫刻を施された礎石の上に立てられています。 -
崇福寺 大雄宝殿
前面にある吹放ち廊下は、俗に黄檗天井と呼ばれるアーチ状の天井をしています。 -
崇福寺 大雄宝殿
中央の須弥壇には、1653年造像のご本尊 釈迦如来三尊坐像、その左右には阿南尊者(左)と微笑する迦葉尊者(右)という中空乾漆像の脇侍が並びます。作者は仏師 徐潤陽ほか2名。その回りは、左右ズラリと18人の羅漢たちが居並ぶ一大仏教ワールドです。 -
崇福寺 大雄宝殿
このご本尊は、世にも珍しい内臓を持った仏像です。昭和初期の仏像修理の際、内部から銀製の五臓、布製の六腑が発見されました。他にも、羅漢奉加人数という巻物やお経が書かれた扇子も発見されています。内臓模型を入れるのは「生き身の釈迦」としてインドにその伝統があるそうですが、日本には伝わらなかったようです。体内に五臓があるのは、平安時代に中国から持ち帰った国宝 清凉寺 釈迦如来立像(絹製の五臓)に次ぐものだそうです。中国製の仏像で金属製内蔵を持つものは、昨年興福寺の釈迦如来三尊坐像にもX線透過撮影による発見があって国内11例、イタリアで1例あります。その中で祟福寺のものが国内最古と推されています。生きたお釈迦様を間近に拝みたいという熱い思いがこうした仏像を生み出したそうです。殿堂内の仏像仏具類は、いずれも中国人名匠の手によるもので、明朝末期文化の縮図と言えるものです。 -
崇福寺 大雄宝殿
左右に居並ぶ18人の羅漢たちです。
因みに、羅漢とは人々から尊敬や布施を受ける資格のある人の意で、悟りを開いた高僧を指し、阿羅漢の略称です。
釈迦の直弟子のうち高位のものはみな阿羅漢で、仏弟子の到達する最高の階位とされ、これ以上修すべきものがないという意味で無学とも言われます。 -
崇福寺 大雄宝殿
下層の屋根に載せられた鬼瓦の鳥ぶすまには崇福寺の「崇」の文字が配されています。
ここの鬼瓦の特徴は、角が長いことです。 -
崇福寺 大雄宝殿
上層の鬼瓦には「福」の文字が配されています。
2つ合わせて「崇福」となります。 -
崇福寺 護法堂 国指定重要文化財
大雄宝殿の向かいに建つのは、1731年創建の護法堂という堂宇。中国寺院にある、神様仏様を祀るお堂で、左から「天王殿、観音堂、関帝堂」と3つに分かれています。黄檗天井・柱上部藤巻・挿肘木・扇垂木・鼻隠板・半扉などは典型的な中国様式ですが、屋根の妻飾は和風であることから、軸部を中国で切組んで唐船で運び、日本人棟梁が建てたものと思われます。鹿、唐獅子、麒麟等の霊獣や梅花、蓮のレリーフのある柱の礎盤も中国製です。 -
崇福寺 護法堂
梅花のレリーフ。
柱に塗られた塗料が落ち、礎盤を染めているのが少し残念です。 -
崇福寺 護法堂 観音菩薩
中国風の飾りが目に鮮やかですが、中央が観音菩薩ゾーン。向かって左のゾーンには、韋駄天(いだてん)菩薩。向かって右のゾーンには、関聖帝君(かんせいていくん)が祀られています。
護法堂には面白い伝説が残されています。関帝像前に食べ物を供えると、よくネズミに食べられ、寺僧は供物を食べられるようでは霊験があるものかと笑っていました。ある日、即非和尚が関聖像に向かい、ネズミに食べられる罪を責めて右の頬を手で打つとその部分が剥げてしまいました。だが翌朝、韋駄天の剣にネズミが刺し抜かれていて、まるで関帝の命令で韋駄天が退治したようだったという。和尚も驚き、修理をさせたが剥げた部分にいくら漆を塗っても上手くいかず、今もその跡が残っているそうです。現代でも俊足の人を韋駄天と言いますが、護法堂の中を駆け回ってネズミを素早く退治するのは韋駄天にしかできない業でしょう。 -
崇福寺 護法堂 韋駄天菩薩
禅寺でも守護神として祀られ、スマートな甲冑姿が凛々しい俊足の神です。韋駄天は仏法や寺院を守護する神。元々はヒンズー教の神スカンダ(跳ぶ者)のことでしたが、仏教に取り込まれて戦さに強い善神と変じました。バラモン教の叙事詩「マハーバーラタ」では、スカンダはシヴァ神の子で悪魔を破る軍神。その姿は、甲冑に身を固めて腕に宝剣を捧げ、なかなか勇ましいです。中国では道教の影響を受けたために剣を地面に突き立てる像が多いそうですが、ここのものは和風を尊重した像となっています。 「太平記」に記されているように、お釈迦様入滅の直後、捷疾鬼(しょうしつき)という俊足の鬼がその歯を奪って須弥山へ逃走しようとしたところ、韋駄天が一瞬で1280万kmを駆け抜けて取り戻したという俗説があります。
スポーツをする人にご利益があり、また悪い人をすぐに捕まえてくれるので盗難除けにも威力を発揮します。三門から盗まれた獣環が無事に戻ってきたという逸話もご利益に箔をつけています。更に、お釈迦様のために駆け巡って食料を集めていたともされ、そのことが「ご馳走」の由来となり、食に不自由をしないという功徳もあります。 -
崇福寺 護法堂 関聖帝君
向かって右は、関聖帝君(かんせいていくん)。神戸や横浜の中華街 関帝廟でもおなじみです。神として祀られた三国志の関羽で、中国ではとても人気があります。両脇には周倉将軍と関平太子を従えています。向かって左の周倉将軍は、三国志上の架空の人物で関聖帝君の側近の将軍とされ、関聖帝君の青龍刀を守っています。関平太子は関聖帝君の長男。呉軍との戦いに敗れて関羽と共に斬首されました。関聖帝君の印綬を守るとされています。 -
崇福寺 鐘鼓楼 国指定重要文化財
上階に梵鐘を吊って太鼓を置き、鐘楼と鼓楼を兼ねた合理的かつ立派な楼閣です。元々、鐘楼は書院前庭の南隅にありましたが、1728年にここに移されて鐘鼓楼として新築されました。享保13年(1728)の年号と木匠頭 荒木治右衛門の墨書があります。妻の懸魚や破風の細部に和風様式が見られることから、軸部は中国で切組みされ、日本人棟梁によって建てられたものと思われます。上層には円窓や火灯窓等の開放部が設けられ、鐘鼓の音が拡散されるような工夫が見られます。 開創時の壇越と寄進額が刻まれた梵変鐘は、鍛冶屋町住の鋳物師 初代 阿山氏が1647年に造った鐘で、県有形文化財に指定されています。因みに、初代 阿山氏は6個造ったようですが、、改鋳されたり石火矢と化したり戦時中供出され、現存するのはこの鐘だけで貴重なものだそうです。 -
崇福寺 大釜 市指定有形文化財
鐘鼓楼の前には、赤錆びた大きな釜が祀られています。鉄製で口径が180cmを超えますが、実際に使われた釜だと言うから吃驚です。第2代住持 千呆(せんがい)禅師が飢餓救済の施粥(せじゅく)のために造らせた大釜です。萬人鍋とか済貧鍋とも呼ばれています。
1682年頃、凶作のために米価が上がり、長崎も飢餓に迫られる状況に陥りました。そこで崇福寺では住持が書物や什器を売って手に入れた米で施粥を始めたのですが、更に飢饉が続き普通の釜では間に合わなくなり、鍛冶屋町の鋳物師に注文して特製の大釜を造らせたそうです。一度に米630kg(4200合)を炊き、飢饉に苦しむ3000人に施粥したと伝えられています。多い時には5550人にも施したそうです。 -
崇福寺 媽祖(まそ)門 国指定重要文化財
媽祖堂の前に建ち、媽祖門・媽祖堂門と呼ばれますが、大雄宝殿と方丈とをつなぐ廊下を兼ねた巧妙な配置となっています。現在の門は1827年に再建され、和風を基調としていますが、扉前面には黄檗天井があります。 主要材はケヤキです。
大河ドラマ「龍馬伝」の中で、晋作や俊輔、聞多たちがまたいだところの敷居です。 -
崇福寺 媽祖門 鬼瓦
鬼瓦の鳥ぶすまには、三つ巴の絵柄が見られます。
崇福寺では、高杉晋作が宣教師たちから海外の情報を得ていたと伝えられています。 1862年、上海渡航の際に書き綴った晋作の日記「遊清五録」には、崇福寺のアメリカ人宣教師ウィリアムスとフルベッキを訪ね、欧米の状勢を尋ねたことが記されています。そうです、謎の「フルベッキ群像写真」で有名な謎の宣教師フルベッキです。グラバー、アーネスト・サトウ、フルベッキは倒幕白人御三家と称され、明治維新に深くかかわったとの説もあります。そしてこの3人の接点がフリーメイソンだと言われているのです。往時、ウィリアムスは広徳院、フルベッキは広福院の塔頭に下宿していましたが、両寺院は維新後に寺が衰退した際に失われ、現在は墓地になっているそうです。
晋作には、アメリカでは一般人が国のトップになれることが驚愕だったそうです。更に、大統領の地位を下りた途端、一般人に戻り、その人物の先祖や子孫など誰も気に留めることもない感覚は、封建社会に生きてきた毛利家家臣 高杉晋作にとって衝撃的なことだったのは想像に難くありません。
「フルベッキ群像写真」に興味のある方は、次のサイトをご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AD%E7%BE%A4%E5%83%8F%E5%86%99%E7%9C%9F -
崇福寺 魚鼓
媽祖堂門を抜けた傍に、大きな鯉の形をした木彫が吊るされています。黄檗宗のお寺の特徴かつ禅寺を象徴するのがこの魚鼓。「かいばん」とも呼ばれ、木魚の原型とされています。法要やお坊さんに食事の時を告げるために叩いたものだそうです。三門建築の棟梁 大串五良平らが寄進したものです。 叩かれ過ぎて、お腹が凹んでしまっているのがご愛嬌です。顎の下には天保2年(1831年)という年号が彫られています。 -
崇福寺 魚鼓
ところで何故魚なのでしょうか?
魚は目をつむって眠ることがなく、不眠不休です。それで「寝る間を惜しんで日々修行せよ」という戒めを表すそうです。そしてこの魚は、口に珠のようなものをくわえています。これにも深い意味があり、この珠は「人間の煩悩」を象徴しているそうです。身近な所では、三毒と称される「貪り・愚か・怒り」です。それで、魚のお腹を叩くことで「煩悩を吐き出させる」という解釈を持たせているのです。改めて仏教の奥の深さに感じ入りました。 -
崇福寺 媽祖堂 県指定史跡
大雄宝殿から右に連なる回廊を兼ねた門の向こうに佇む堂宇には、「媽祖」という女神が祀られています。10世紀、福建省に実在した天候予測能力を持った女性を神性化したものです。媽祖堂は、唐船が長崎の港に在泊中、海上守護神である媽姐像を船から揚げて安置し、航海安全をお祈りした所です。航海安全の女神として1571年のポルトガル船の入港以来、多くの船が往来する長崎港を見守り続けています。
媽祖堂は創建時、現状より小さな堂宇として建てられ、現存の建物は1794年に再建されたものです。興福寺にも媽祖堂があり、福済寺では観音堂の脇壇に媽祖を祀っています。唐人屋敷内の天后堂も媽祖堂です。かつての長崎唐寺の特色は、航海安全の祈願や先祖供養を主としたもので、海の神様である媽祖を祀る「媽祖堂」を持つことでした。その後、寄進によって大雄宝殿や山門などの整備が進み、寺院としての機能を持つようになったそうです。基壇上にある木製の朱塗り卍崩しの勾欄(手すり)は珍しいものだそうです。 -
崇福寺 媽姐堂
道教の要素が色濃く反映され、国内の寺院とは雰囲気が異なります。「媽祖」像を挟み、左が「千里眼(赤鬼)」像、右が「順風耳(青鬼)」像。この2神は、元々は金精(千里眼)、水精(順風耳)と呼ばれる妖怪でしたが、媽祖によって祓い清められて改心し、以降媽祖の随神となりました。「西遊記」では玉皇上帝の部下として登場し、「南遊記」では華光大帝の部下となっています。 -
崇福寺 媽姐堂 千里眼(赤鬼)像
手で庇を作って遠望しています。千里先のものを見分ける力を持ち、災害から媽祖を護るそうです。 -
崇福寺 媽姐堂 順風耳(青鬼)像
片手を耳に当てて物音に傾聴しています。千里先の物音や災いを聞き分ける力を持ち、悪巧みを瞬時に聞きつけて媽祖に報告する役目を担います。 -
崇福寺 媽姐堂
天井一面に朱色を背景に「崇」と「福」の文字がこれでもかと言うくらいに並べられ、壮観な光景です。 -
崇福寺 大雄宝殿
第一峰門から境内を見渡すとこんな感じです。
個々の建物自体は大きいのですが、建蔽率が高いので歩ける場所は案外限られています。ですからそんなに歩くことなく、ひとつひとつの建物をじっくり時間をかけて拝観できるのが魅力です。 -
崇福寺 石碑
第一峰門を潜った先の樹木の陰に楚々とした石碑が佇んでいます。入って来た時は、朱色の建屋に目を奪われて全く気付きませんでした。
ひょっとしたら見逃した方も多いのでは?
石碑自体は新しいのですが、礎石や石碑に載せられた石には時代を感じさせるものがあります。
石碑上段の文字から察するに、「崇福寺修理工事竣工」碑のようです。1982年の長崎大洪水で被った被害に対し、1986年に修復が行われたようです。 -
崇福寺 石碑の麒麟
礎石や石碑の上に載せられた石には彫刻が施されています。
透かし彫りと言う高度な技術で、麒麟の髭や足などが中空に浮き彫りされた素晴らしいものです。相当な技量を有した石工がいたという証です。
「この麒麟がキリンビールの初代ラベルの下絵になった」と土産物屋の方が言われていました。初代ラベルの起源にはグラバー邸の温室前にある狛犬など諸説あるようですが、胴体はこの麒麟がモデルなのかも!? -
崇福寺 石碑の麒麟
ネット情報には全くなかったので、新しい発見をしたかのように興奮状態です。
この髭の細さを透かし彫りにするとは…。感極まって言葉が出ません。
こうしてまじまじと眺めると、確かにキリンビールのラベルの麒麟に似ていないでもありません。 -
崇福寺 石碑の麒麟
向かって左側の麒麟です。 -
崇福寺 石碑の龍
石碑の上の彫り物は龍です。 -
崇福寺 石碑の龍
向かって右側の龍のズームアップです。 -
崇福寺 石碑の麒麟
礎石の裏側にも麒麟の彫刻があります。このような細い髭が折れることなく現存されているのは、奇跡としか言いようがありません。環境破壊が進み、酸性雨に晒されれば溶けて痩せ細るのは時間の問題かもしれません。透明コーティングなどを施す処置はないものでしょうか?確か、ポンペイ遺跡では樹脂カバーで覆っていました。
酸性雨つながりですが、千葉工大 大野上席研究員は、6500万年前に恐竜など生物の約6割が絶滅したのは巨大隕石の衝突で硫酸の海が生じたためとする新説を発表しました。これまでは、直径約10kmの隕石がメキシコのユカタン半島に衝突し、巻き上がった土やほこりが地球を覆って太陽光を遮り、寒冷化したためというのが通説でした。
隕石を想定した金属球を20km/sに加速してユカタン半島と同じ硫黄成分の多い岩に衝突させ、衝撃で高温になった岩から硫酸ガスが発生することを確認したそうです。そのガスが地球を覆い、酸性雨となって降り注ぎ、海水に硫酸が混じってプランクトンが死滅して食物連鎖が崩れ、やがて大型生物の絶滅につながったとの見解です。 -
崇福寺 石碑の麒麟
国宝級の建築物の見事な細工や意匠に埋もれて目立たないのですが、この寺院は魔可不思議な動物たちの楽園でもあります。中国の三大聖獣といえば、龍、鳳凰、麒麟。龍は天を駆け巡る力の象徴、鳳凰は聖徳を備えた天子が現れる吉兆、麒麟は聖人の出現の予兆と言われています。魚と蝙蝠は、福を運んでくる縁起の良い生き物として今もお祝い事に欠かせません。これらの聖獣や生き物の意味合いを考えながら、境内のあちこちに隠されているお宝を発見すると、往時の時代背景や人々の思いなどが垣間見えてくるようです。 -
崇福寺 境内の土産物屋
中国では旧正月に「福」という文字を逆さに飾る風習があります。「倒福」とは福の字を逆さにすることで、福が来ることを「到福」と中国では書くそうです。どちらも「ダォフー」と同じ発音になるため、縁起を担いで福の字を逆さに貼るらしいです。
因みに、「春」を逆さまに飾るものもあるそうです。
1時間弱の駆け足の拝観となりましたが、長崎の異国情緒を十分に堪能できました。皆さんにも「逆さ福」のご利益がありますように!!
最寄りの長崎県営バス停留所「崇福寺入口」(寺から徒歩2分)から、経路番号50番のバスで高台にある「風頭山」まで向かいます。(バスは時間帯にもよりますが、20分間隔で運行しています。運賃は150円で、所要時間は12分。)
長崎県営バスの路線図です。(JR長崎駅からは駅前東口から乗車:20分程)
http://www.nagasaki-bus.co.jp/bus/pdf/bus_shigaitirosenzu.pdf
時刻表は次のサイトでチェックしてください。
http://www.nagasaki-bus.co.jp/dia-search/
次回は、風頭公園〜若宮稲荷神社〜亀山社中〜眼鏡橋編をお届けします。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
montsaintmichelさんの関連旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
56