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鎌倉幕府創設に至る過程で多大な貢献を果たした三浦氏の総帥三浦義明(みうら・よしあき、1092~1180)を頼朝の意向により祀った満昌寺(まんしょうじ)から数分東進しますと近殿神社(ちかたじんじゃ、神奈川県横須賀市大矢部)があります。<br /><br />この辺りは大矢部と呼ばれ当該神社は鎮守として中核的な神社ですが、ご祭神は上述の義明の孫にあたる三浦義村(みうら・よしむら、1168~1239)です。<br /><br />治承4年(1180)頼朝が伊豆で旗揚げをして一時房総に逃れますがその後勢力を回復、ついに鎌倉に幕府を設立します。旗揚げ時から幕府設立に至る間、頼朝は各地豪族に参陣を呼びかけ、応じた豪族は頼朝の御家人としての立場となります。<br /><br />然しながら頼朝死後は幕府の要である将軍頼家の求心力は衰え、御家人の間に潜んでいた利害関係が表面化し権力闘争に発展、有力な御家人が次々と潰されてゆきます。<br /><br />その権力闘争の中で主導権を取っていたのは頼朝外戚の北条氏と鎌倉に隣接する三浦半島に最大の兵力動員数を有する三浦氏で、父である義澄(よしずみ、1127~1200)が正治2年(1200)に亡くなり家督を継いだ義村の頃になりますと顕著な権力闘争が展開されます。<br /><br />北条氏は時政は既に去り、息子の義時(よしとき、1163~1224)の時代となり持前の権謀術により巧妙な手段で有力御家人を潰してゆきます。<br /><br />三浦義村は何事にも慎重な義澄と異なり、北条氏との対立を意識する中で、義時と同一行動を取るなどして共通の政敵を策謀と裏切りにより抹殺します。<br /><br />例として初代侍所別当の和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)が北条氏の挑発に乗って武力対決に踏みきった際、従兄弟に当たる義村は義盛に同調する約束をしますが、戦いの最中義盛を裏切り北条方に与する事となり結果、義盛の敗北が決定的となります。<br /><br />その後も北条氏と三浦氏との権力闘争は収まらないなか決定的な段階までには至らない状況が続きますが、ついに宝治元年(1247)に当時の5代目執権北条時頼(ほうじょう・ときより、1227~1263)と義村の子である三浦泰村(みうら・やすむら、1204~1247)は実弟光村(みつむら、1205~1247)との武力対決に至り泰村・光村側は時頼軍攻撃を受けて敗死、三浦氏は滅亡します。<br /><br /><br />2022年8月16日追記<br /><br />当該神社に関する説明板には下記の通り紹介されています。<br /><br />『 由 緒<br /><br />神社名 近殿神社<br />鎮座地 神奈川県横須賀市大矢部1丁目9番3号<br />祭 神 三浦義村<br /><br />御祭神三浦駿河守義村は、三浦氏代々の頭領三浦為通ー為継ー義継ー義明ー義澄ー義村ー泰村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討死したと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。<br /><br />明治6年6月には村社に列格し、創建は不詳でありますが、以前にはこの大矢部には近殿神社の他に、同大矢部山下834番地に祭神達玉乃男命を祀る?野社、同大矢部山下722番地に天照天神を祀る皇大神社及び素?鳴命(別名、午頭天王)を祀る八雲神社とその境内社である本花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る浅間神社及び金山彦命を祀る金之比羅神社、更に同大矢部綾子畑250番地に日本武尊を祀る貴船神社、そして同大矢部綾子畑239番地に八街比古命(やちまたひこのみこと)を祀る山頂神社と数々の神社がありましたが、大正2年(1913)9月1日一村一社という国の指令で衣笠山の衣笠神社に合祀されてしまいました。しかし乍ら世界第二次大戦後に、衣笠山では遠隔不便なため、近殿神社と他の社を元の当境内地に遷宮し、昭和22年(1947年)10月28日に再建し、昭和24年(1949年)2月10日宗教法人近殿神社の設立登記届を出し、民主的運営のもと大矢部の氏子の方々により運営されています。社殿は明治11年(1878年)に木造茅葺の社殿を再建しましたが、老朽化して去る昭和51年(1976年)8月22日に改築造営して今日に至っております。<br /><br />   平成14年(2002年)9月<br />               三浦大介義明公八百年幣実行委員会 』  <br /><br /><br /><br />

相模三浦衣笠 創建時期不詳ながら三浦氏第六代の頭領で義明の孫である義村を祀る大矢部の総鎮守『近殿神社』散歩

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2012/10/20 - 2012/10/20

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滝山氏照

滝山氏照さん

鎌倉幕府創設に至る過程で多大な貢献を果たした三浦氏の総帥三浦義明(みうら・よしあき、1092~1180)を頼朝の意向により祀った満昌寺(まんしょうじ)から数分東進しますと近殿神社(ちかたじんじゃ、神奈川県横須賀市大矢部)があります。

この辺りは大矢部と呼ばれ当該神社は鎮守として中核的な神社ですが、ご祭神は上述の義明の孫にあたる三浦義村(みうら・よしむら、1168~1239)です。

治承4年(1180)頼朝が伊豆で旗揚げをして一時房総に逃れますがその後勢力を回復、ついに鎌倉に幕府を設立します。旗揚げ時から幕府設立に至る間、頼朝は各地豪族に参陣を呼びかけ、応じた豪族は頼朝の御家人としての立場となります。

然しながら頼朝死後は幕府の要である将軍頼家の求心力は衰え、御家人の間に潜んでいた利害関係が表面化し権力闘争に発展、有力な御家人が次々と潰されてゆきます。

その権力闘争の中で主導権を取っていたのは頼朝外戚の北条氏と鎌倉に隣接する三浦半島に最大の兵力動員数を有する三浦氏で、父である義澄(よしずみ、1127~1200)が正治2年(1200)に亡くなり家督を継いだ義村の頃になりますと顕著な権力闘争が展開されます。

北条氏は時政は既に去り、息子の義時(よしとき、1163~1224)の時代となり持前の権謀術により巧妙な手段で有力御家人を潰してゆきます。

三浦義村は何事にも慎重な義澄と異なり、北条氏との対立を意識する中で、義時と同一行動を取るなどして共通の政敵を策謀と裏切りにより抹殺します。

例として初代侍所別当の和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)が北条氏の挑発に乗って武力対決に踏みきった際、従兄弟に当たる義村は義盛に同調する約束をしますが、戦いの最中義盛を裏切り北条方に与する事となり結果、義盛の敗北が決定的となります。

その後も北条氏と三浦氏との権力闘争は収まらないなか決定的な段階までには至らない状況が続きますが、ついに宝治元年(1247)に当時の5代目執権北条時頼(ほうじょう・ときより、1227~1263)と義村の子である三浦泰村(みうら・やすむら、1204~1247)は実弟光村(みつむら、1205~1247)との武力対決に至り泰村・光村側は時頼軍攻撃を受けて敗死、三浦氏は滅亡します。


2022年8月16日追記

当該神社に関する説明板には下記の通り紹介されています。

『 由 緒

神社名 近殿神社
鎮座地 神奈川県横須賀市大矢部1丁目9番3号
祭 神 三浦義村

御祭神三浦駿河守義村は、三浦氏代々の頭領三浦為通ー為継ー義継ー義明ー義澄ー義村ー泰村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討死したと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。

明治6年6月には村社に列格し、創建は不詳でありますが、以前にはこの大矢部には近殿神社の他に、同大矢部山下834番地に祭神達玉乃男命を祀る?野社、同大矢部山下722番地に天照天神を祀る皇大神社及び素?鳴命(別名、午頭天王)を祀る八雲神社とその境内社である本花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る浅間神社及び金山彦命を祀る金之比羅神社、更に同大矢部綾子畑250番地に日本武尊を祀る貴船神社、そして同大矢部綾子畑239番地に八街比古命(やちまたひこのみこと)を祀る山頂神社と数々の神社がありましたが、大正2年(1913)9月1日一村一社という国の指令で衣笠山の衣笠神社に合祀されてしまいました。しかし乍ら世界第二次大戦後に、衣笠山では遠隔不便なため、近殿神社と他の社を元の当境内地に遷宮し、昭和22年(1947年)10月28日に再建し、昭和24年(1949年)2月10日宗教法人近殿神社の設立登記届を出し、民主的運営のもと大矢部の氏子の方々により運営されています。社殿は明治11年(1878年)に木造茅葺の社殿を再建しましたが、老朽化して去る昭和51年(1976年)8月22日に改築造営して今日に至っております。

   平成14年(2002年)9月
               三浦大介義明公八百年幣実行委員会 』  



交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩

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  • 近殿神社・全景<br /><br />小振りなコンクリート製の鳥居と参道の先に拝殿が見えます。

    近殿神社・全景

    小振りなコンクリート製の鳥居と参道の先に拝殿が見えます。

  • 近殿神社・拝殿<br /><br />鎌倉時代の一時期を華々しく生きた武将を祀るには粗末な感は拭われません。

    近殿神社・拝殿

    鎌倉時代の一時期を華々しく生きた武将を祀るには粗末な感は拭われません。

  • 近殿神社由緒・説明板<br /><br />かつては衣笠神社に合祀されていたそうですが遠隔地で不便なため当地に遷宮され、昭和51年改築造営され現在に至っています。

    近殿神社由緒・説明板

    かつては衣笠神社に合祀されていたそうですが遠隔地で不便なため当地に遷宮され、昭和51年改築造営され現在に至っています。

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