2007/08/01 - 2007/08/09
360位(同エリア756件中)
ねいちゃさん
8月7日 とうとうやってきました!ヴェルサイユ!!
「バラは~バラは~」♪とベルばらのテーマ曲が頭の中で鳴ってます。
突然「オスカル!」と叫びたくなる衝動も・・・ウソです。
この日一日ツアーはフリー、午前中はマイバス社さんのヴェルサイユ・ツアーに参加、午後からは自分たちだけでパリの街を歩くという予定。
なので、どうでもいいことですが、旅行記は「ヴェルサイユ編とパリ編PartⅡ」と分けて作成いたします。
では、早速旅行記を見ていただきましょう。
< 旅 程 >
☆8月1日(関空→パリ→ニース)
☆8月2日(ニース→モナコ→エクス=アン=プロヴァンス)
☆8月3日(エクス=アン=プロヴァンス→アルル→アヴィニヨン→リヨン)
☆8月4日(リヨン→ロワール古城→トゥール)
☆8月5日(トゥール→サンマロ)
☆8月6日(サンマロ→パリ)
★8月7日(パリ→ヴェルサイユ→パリ)
☆8月8日(パリ→関空)
☆8月9日(関空→自宅)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 2.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩 飛行機
- 航空会社
- エールフランス
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 日本旅行
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-
自由の女神像[Statue de la Liberte]
これはアメリカからのお礼でフランスがもらったものです。除幕式は1889年ですから、1789年のフランス革命百周年のお祝いですねー。セーヌ川のグルネル橋の近くにあって、アメリカにあるものの大体3分の1サイズ。
アメリカのは銘板に1776年7月4日独立記念日の日付が刻まれてるのに対して、こっちは1789年7月14日革命記念日が刻まれてます。 -
イチオシ
朝陽に浮かぶエッフェル塔
これいいでしょ〜、やっぱり。橋に下がってる電灯もシルエットになってて・・・。
とても車窓から撮ったとは思えない・・・。
もうどっから見てもフランスぅー。 -
エッフェル塔とセーヌ川
ホントに絵になる風景が多いですよね、今度パリ行くときはもうちょっと上等なカメラ買って、慌ただしく観光地巡りをするんじゃなくて、じっくり腰すえていい風景を切り取ってきたいものです。 -
オルセー美術館[Musee d'Orsay]
今日は開館日、たぶん。けどね今思うと、印象派って当時はどーしても見たいって思ってなかったのね。帰国後あれこれ調べたり学んだりして、すっごい美術館だったと認識を新たにしたのです。
BSで「世界の名画」なんかも欠かさず見てると、俄然行きたくなってきたのですよね、興味関心は常に流動するものかもしれません。
次は見てきますよ、必ず! -
オペラ=ガルニエ[Opera Garnier]
このオペラ座は1860年ナポレオン3世の第二帝政期に建設計画が始まり、デザイン公募の結果、35歳の若き建築家シャルル=ガルニエの案が採用されました。1875年1月5日に落成式を迎え、「ガルニエ宮」と名づけられています。
大階段・ロビー・ホール等は毎日10:00〜16:30まで見学可能。
ただし、ホールはリハーサルなどの理由で見学不可能の場合もあり。
料金は大人8ユーロ(2011年10月現在)。 -
オペラ座大通り[Avenue de l'Opera]
オペラ座の建設に伴い、ガルニエ宮正面からパレ=ロワイヤルへ直に南下するオペラ座大通りがこの建設工事の一環として開かれました。
マイバス社のOPツアーの集合場所はこのへんだったので、早朝の車もまばらな大通りをパチリ、これもとってもパリらしい一枚です。 -
イチオシ
エトワール凱旋門
昨日とはうってかわっての晴天。
凱旋門を写真におさめるなら「朝」がお奨め。
朝日にメッチャ輝いています。 -
ラ=マルセイエーズ[La Marseillaise]
ルージュ=ド=リール大尉作曲の現フランス国歌なんですが、歌詞が余りにも過激なので、一時は改正しようかとも言われたものです。どれほど過激かというと・・・。
♪ 進め 祖国の子らよ 栄光の時が来た 我らに対し 暴君の
血塗られた軍旗は 掲げられた 血塗られた軍旗は 掲げられた
聞こえるか 戦場で 獰猛な兵士の怒号が 奴らは来る 汝らの元に
喉を掻ききるため 汝らの子の
市民らよ 武器を取れ 軍隊を 組織せよ
進め! 進め! 敵の汚れた血で 田畑を満たすまで ♪
とまぁ、こんな具合で7番まであります。我が国の国歌は天皇の御代が幾千年も続きますように・・・という歌なのとは、余りにも違いすぎますよね。 -
ヴェルサイユ宮殿メインゲート[La Grille D'Hunneur]
この宮殿はもともと、ルイ13世の狩猟用の館として建築された小さな規模のものでした。
幼年期にフロンドの乱を経験し、パリ嫌いになったルイ14世がここに壮麗な宮殿を建設し、今日見るようなフランス古典芸術を結集させた絶対王政のシンボルとなったのです。
ヴェルサイユ宮殿公式HP
http://jp.chateauversailles.fr/jp/the-palace-
宮殿内インタラクティブマップ
http://jp.chateauversailles.fr/jp/prepare-my-visit-/single/plan-interactif-jp -
ヴェルサイユ宮殿左翼
ついにこの地に足を降ろしました。フランス史を学ぶ度に何度も出てくるこの宮殿。
アンシャン=レジーム(旧制度)の元での搾取が生み出した富の洪水、必要以上の豪華絢爛さ。
革命がある意味必然であったと誰しも思うであろうこの宮殿を、これからこの目で見てまいります。 -
ヴェルサイユ宮殿右翼
予約客の入場口は右翼からとなっております(個人のお客様は左手からどうぞ)。
朝早くにもかかわらず、すでに長蛇の列です。
さすがはヴェルサイユ、手荷物検査を終えてさぁ入場しましょう! -
右翼入場口手前のファサード
ファサードに書いてあるこの文字は「フランスの栄光の全てへ[A TOUTES LES GLOIRES DELA FRANCE]」。
どうだ!これがヴェルサイユだぞぅ、という荒い鼻息が聞こえそうな一文。
上等じゃないですか、たっぷり見てあげましょう。 -
ヴェルサイユ宮殿構造図−ガイドブックからスキャンしたものを加工
あまり鮮明ではなく文字も小さいので、役に立つとは思えませんが・・・。
とりあえず雰囲気だけでも・・・。
順路は、入場してすぐ2階へ上がります。
「礼拝室の間」から「王室礼拝堂」を2階部分からのぞき見る感じとなります。
いきなりテンションUPの見せ方ですっ! -
イチオシ
「王室礼拝堂」
国王は「礼拝堂の間」から階上席へ入ってミサに出席されました。私たち観光客も同じルートで礼拝堂を見ることになります。
なんという装飾なんでしょうね〜、いきなりのキンキラで度肝をぬかされます。
王家の先祖である聖ルイ(サン=ルイ)に捧げられたこの礼拝堂は、ルイ14世時代に建てられた構造物としては、最後の建造物となっています。
祭壇上の丸い天井画はシャルル=ド=ラフォス作の「キリストの復活」。
天井画はアントワーヌ=コワベル作の「救世主の到来を世界に告げる永遠の父」・・・なんか、長い題名ですっ。永遠の父って誰? -
「礼拝堂の間」の扉
これでもかと言わんばかりの装飾です。最初はこれも「珍しや」とばかりに撮影しておりましたが、ヴェルサイユはこんなもの?しかありませんから、いちいち撮影していたらキリがない。
本来なら「この時の私はこの後とんでもない事態に巻き込まれることになるなど、予想だにしておりませんでした。」などと書いて「旅行記によくあるフレーズ」となるのですが、ちょっとめんどくさいので、いきなり結論を。(笑)
「カメラのメモリがなくなって、写真とれないよ〜」となっちゃいます。
皆様もここを訪れる際には、メモリは余裕をもってご持参くださいますよう、重ねてご要望いたします。 -
「王の正殿」入口に位置する「ヘラクレスの間」
順路的には、この部屋を右に回って「王の正殿」と入ることになります。
この部屋の天井には、フランソワ=ルモワンヌ作の「ヘラクレスの神格化」があるのですが、その規模にまずは圧倒されてしまいます。
中央で棍棒を握りしめてる方が、おそらく「ヘラクレス」様かと。
左下の大理石の女神様も、壁の境の模様も、全て「絵」です。
ちょい「だまし絵」なんですが、ぱっと見ただけではわかりませんよー、見事なものです。
もともとは第四礼拝堂だったらしいのですが、ルイ14世により改修。
1736年に完成いたしました。 -
ヴェロネーゼ「パリサイ人シモン家の宴」1664年寄贈
この部屋はホントはこの絵を飾るために作られたんですが、なんせ「ヘラクレス」様の存在感が凄くて、この絵にあまり注目しておりません。^^;
このヴェロネーゼの絵は、ヴェネツィア共和国からルイ14世に送られたものなのですが、ヴェロネーゼといえばルーブルの大作「カナの婚宴」(モナリザ前にあったヤツね)が有名。
あれはナポ公がパクってきたもの、こっちは正攻法?で手に入れたヤツです。
ちょっと画像不鮮明で見にくいですが、よく見てみると・・・ああ、椅子の下に同じような犬が登場しておりますね。
ヴェロネーゼの犬、なんか好きですっ! -
「王の正殿−豊饒の間」
「正殿」は当初王の住居でしたが、「鏡の間」を中心とする祝宴用の広間・夜会の広間として使われるようになります。
夜会は月・水・木の6〜10時まで開かれたそうですが、ナンボ娯楽が好きやねんという状況。
この「豊饒の間」は、「ルイ16世の娯楽の間」に繋がっており、写真のだまし絵の下の扉から、その部屋にぬけるような構造となっております。
観光客は入れませんが・・・。 -
「王の正殿−ヴィーナスの間」
ここは夜会の際、軽食をとる部屋。テーブルには菓子・砂糖漬けの果物など所狭しと並んでいたといいますから、豪勢なものだったのでしょう。
これが週3であるんですから、高貴なお方はやっぱちゃいまんなぁー。
天井画はルネ=アントワーヌ=ウアス作「神々と強大国を従わせるヴィーナス」で、この部屋の名前の由来。 -
ジャン=ヴァラン「ローマ皇帝姿のルイ14世全身像」
ヨーロッパの君主は、なぜかローマ皇帝姿が好きですねー。古代への憧れというより、その権威への憧れだったのでしょうか。
もっとも「太陽王」ルイ14世の権勢からすれば、ローマ皇帝の方が下かもしれませんがね。
ではでは、ルイ14世にズームイン!
あら〜。お鼻どうしちゃったんでしょう???
その傲慢さに鼻高々、重すぎてこけちゃいましたか?
政敵に鼻持ちならないヤツと、へし折られたのかな?
「見てるだけでハラがたつ!」と革命闘士のみなさんから、たたき割られたのでしょうか? -
ヴィーナスの間から外を見ると・・・。
なんとも優雅な空間が広がっています。毎日毎日こんな景色見ながら、豪華な食事に、ド派手な夜会・・・こういう生活をしながら、貧しい第三身分の生活を推し量るなどムリというものです。
こんな暮らしが未来永劫続くわけはありませんよね。 -
「王の正殿−ディアナの間」
ビリヤードの名手だったルイ14世は、この部屋の深紅のビロードの絨毯の中央に台をおいてゲームに興じます。女性たちは側の長椅子に腰掛けて王に声援をおくったそうです。
「きゃあ〜、王様ぁ〜、頑張ってぇ〜〜〜」
「7番を右隅のポケットに・・・カーン・・・よぉーし!!」
なんてねぇー、もう好きなようにしてくださいっ。
写真はル=ベルナン作の「ルイ14世の胸像」 -
ガブリエル=ブランシャール「エンデュミオーンの眠りを見守るディアナ」
この部屋の装飾はディアナ女神一色となってます。ディアナ[Diana]は、ローマ神話に登場する狩の女神で、ギリシア神話では狩猟と純潔を司るアルテミスに相当する神様。
ある山の頂で眠っていたエンデュミオーンを見た月の女神セレーネーは、一瞬にして恋に落ち、歳をとらないように彼を永遠の眠りにつかせます。その後毎夜セレーネーは地上に降り、眠るエンデュミオーンのそばに寄り添っているそうです。
(コレってある意味猟奇殺人ですよねー、よかったぁイケメンに生まれなくて・・・)
この話は月の女神セレーネーのお話ですが、アルテミスと同一視されたことから、ディアナの話にもなるわけで・・・ややこしいですねー。 -
シャルル=ド=ラフォス「イフィゲネイアの生贄」
ギリシア神話では、イフィゲネイアはスパルタ王アガメムノンの娘さんで、トロイア遠征の時父の命によって生贄にされそうになるのですが、アルテミス女神が救い出して巫女にしたというお話。 -
「王の正殿−マルスの間」
1682年までこの部屋は「衛兵の間」であったので、装飾は軍事的なものが多め。
天井の大理石風のだまし絵も、戦いのエピソードになってます。
後になって、夜会の際には音楽会を開く場所となって、暖炉の両側に演奏壇が置かれていたそうです。
豪華な食事に、ビリヤード遊び、そして楽士たちによるナマ演奏ですか・・・勝手にしてくださいっ。 -
ジャン=バプティスト=ド=シャンペーニュ「2羽のニワトリに引かれた戦車に乗るメルクリウス」
メルクリウスは、ギリシアのヘルメス神と同一視される神格で、主に伝令・通商・泥棒を司り、優れた知恵と狡猾な性質を持つとされています。英語読みはマーキュリー。
この神のアトリビュート(持物)は鶏・羽根付きの靴と帽子・二匹の蛇が絡み合う杖などで、これがあると「あぁ、メリクリウスね」と分かるそうです。
写真の絵では、このアトリビュートが全てしっかりと描かれていて面白いですねー。 -
「王の正殿−メリクリウスの間」
この部屋と隣の「アポロンの間」は、ヴェルサイユの中でも最も豪華な部屋だったそうで、1682年には王の寝室とされておりました。
七月王政を現出したルイ=フィリップは、ヴェルサイユを美術館にするに当たって、当時の寝室を再現するため、ルイ14世の豪華な寝台を造らせてここに設置しました。
「太陽王」の装飾が美しい寝台ですが、実際にルイ14世が眠られたわけではないようですね。 -
「王の正殿−アポロンの間」
1706年時計職人アントワーヌ=モランが、ルイ14世に献上したカラクリ時計。
この時計は1時間ごとに、14世の像と雲から降りるファーマ女神が現れる仕掛けとなっているそうですよ。
カラクリ時計は、最初は面白いけど、飽きるとめんどくさいって思いません?
時計はシンプルが一番。 -
この部屋にはルイ15世時代の金箔つきの木製の椅子が置かれていますが、もともとは高さ2.6mもある銀の玉座があったそうで「玉座の間」とも呼ばれていたいたそうです。
1689年に溶解されて跡形もありませんが、アーチの曲線部にその痕跡が残っているとのことで、注意すると見つかるかもしれません。
え?釘なんかを探している場合ではない?
ごもっとも。この部屋にはそんなものより、もっと有名な絵画がありましたねー。 -
リゴー「ルイ14世の肖像画」1702年 313×205?
教科書によく出てくる有名な作品です。ルイ14世といえばこの姿を思い出すといっても過言ではありませんよね。
髪はカツラをおつけになっていて、目にも鮮やかな白タイツ姿で、威風堂々とされてますが、実物は髪の毛薄めの貧相なオヤジだったそうですよ。
リゴーはシャルル=ル=ブランのもとで修行を重ね、モデルの顔や体型の特徴だけでなく、その身のこなしから身分をも表す肖像画を描くことに成功し「フランスのヴァン=ダイク」とも異名をとったと言います。
ヴァン=ダイクを知らなければ、意味のない例えですが・・・。
この作品はルーブルにあって、これは同名の異作となっております。
やっぱりルーブルにあるのが本物?なのかなぁ。 -
アントワーヌ=フランソワ=カレ「ルイ16世の肖像画」1779年 278×196?
14世の肖像画と対面する位置にあるのが、これも有名なルイ16世、25歳の時の絵です。
この何とも頼りなさげの表情が、彼そのものを語ってくれているようで・・・。
16世の趣味は「錠前作り」。
日がな一日カチカチと鍵の開け閉めをして楽しんでおられました。
時代が時代なら穏やかな王様だったのでしょうけれど、革命の犠牲者として歴史に選ばれるのですね。
この方の欠点は、ズバリ「優柔不断」。
物事を決断できない弱さが自らの死を招くことになりました。
きっと今も向かいの14世から「しっかりせんかい!」と叱られているのかもしれません。 -
ドミニキーノ「竪琴を奏でるダヴィデ」
おや、ガイドブックでは「マルスの間」にあると書かれてましたが、こちらに移されたんでしょうか?
それとも私の写真の順番が狂った???
どなたかお分かりの方がおられましたら、教えてください。 -
シャルル=ド=ラフォス「太陽の戦車」
立派なシャンデリアの上にも、これまた見事な絵があります。
もうこのあたりでメモリがなくなって、なんとか鏡の間までにスペース作らないと・・・と、おおわらわの最中。
王の正殿はこんな調子でゆっくり見学できませんでした。 -
「鏡の回廊−戦争の間」
この部屋は、オランダ侵略戦争(1672-78)の勝利と終戦条約であるナイメーヘンの和約をテーマに製作されました。内装はシャルル=ル=ブランのデザインです。
アントワーヌ=コワズヴォックス「敵を踏みしだく馬上のルイ14世」
このレリーフは、1672年6月12日にフランス軍がライン川渡河の際のローマ皇帝に扮したルイ14世を描いています。
この作品は、池田理代子さんの「ベルサイユのばら」で出てきたオスカルの肖像画のモデルだそうですよ。
OP曲「薔薇は美しく散る」、何気に歌えたりしますっ。
なつかしー。(^^)
♪ 草むらにぃー 名も知れず 咲いている 花ならば〜
ただ風を うけながら そよいでいれば いいけれどぉ〜
わたしは バラの運命に うまれた
華やかに 激しく 生きろとうまれた
バラは バラはー 気高く さぁーいーて
バラは バラはー 美しく 散ーるぅー ♪ -
「鏡の回廊−鏡の間[La galerie des Glaces]」
ヴェルサイユ宮殿の白眉と言えば、この部屋をおいて他にないでしょうね。
1684年に完成したこの回廊は、全長約73m・幅約10.5m。
357枚の鏡がはめこまれていることから「鏡の間」と名付けられています。
「王の寝室」から毎朝「礼拝堂」に赴く国王を、一目見ようと宮廷人がここに集まったそうです。
ここでは結婚式の盛装舞踏会や仮面舞踏会などの大きな祭典も行われました。 -
イチオシ
経年劣化のため薄汚れてきたこの部屋を、完成当時の煌びやかな姿に戻す修復作業は2004年から始まりました。
総額1200万ユーロ(当時のレートだと約20億円?!)もかかったそうです。
傷みのあった鏡は48枚が交換。天井画も最新技術を駆使して修復され、ルイ14世がご覧になったであろう当時の色調が蘇っています。
修復中は、写真撮影的にはカバーが掛かっていたりして残念だったりするんですが、こういう作業のおかげで昔日の姿を今見ることができる。
感謝しなければいけませんね。 -
大燭台
1770年ルイ16世とマリー=アントワネットの御成婚を機に新調されたものです。
現在ここで見られるものは、「アポロンの間」に保存されていた6本を、オリジナルとして鋳造復元されたものだそうです。
シャンデリアもほとんどが、複製で古くはないそうですが、どこかにあった1個だけが当時のオリジナルだと、ガイドさんから聞きました・・・確か写真は撮ったはずなのですが・・・わかんなくなっちゃった。 -
イチオシ
鏡の間から広い庭園をのぞむ。
やや薄暗い空間から外を見ると、息をのむ景色を見ることができます。
この美しすぎる庭園を毎日眺めていた王妃マリー=アントワネットは、ある日を境に太陽すら満足に届かない牢獄に幽閉される・・・彼女は一体その体験をどんな気持ちで受け止めたのか・・・想像することすら、なかなかできないものです。 -
1871年1月普仏戦争後の集結条約は、ここ「鏡の間」で締結されました。
フランスは、第二帝政が崩壊し、臨時政府が樹立。
アルザス・ロレーヌ2州を割譲し、莫大な賠償金を課せられ、重苦しい船出となったのです。
さらにフランスにとっての最大の屈辱は、この部屋で敵国ドイツの皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式が行われたことで、栄光のヴェルサイユの尊厳が甚だしく傷つけられました。
これって日本の皇居でアメリカ大統領の就任式をやるようなもんで、フランス国民にとってはとっても悔しい出来事だったのです。
WW?後、フランスはドイツにその何倍もの報復を行います。
アルザス・ロレーヌを取り返した上、絶対に返却できない天文学的な金額を賠償金として求めたんですね。
当然返せるわけもなく、その後減額されたもののドイツの痛手は大きく、破局的なインフレを迎えて、ドイツ経済はほぼ崩壊することなります。 -
日々の生活に疲れたドイツ国民は、やがて強力にナショナリズムを鼓舞するヒトラーを歓喜をもって迎えるんですね。
WW?によるドイツの侵攻は、瞬く間にパリを陥落させていきました。
報復の連鎖・・・世界の歴史は戦いの歴史。そういう連鎖が、実は何も産み出さないということを、人間はもう学べるだけの教材をいっぱい手にしてます。でも戦いは終わらないし、無くなりもしない。
9.11の死者数よりもイラク戦争での米兵戦死者数が越えたという記事を見ました。
数だけの問題ではないですけれど、とても複雑な気分になります。 -
「鏡の回廊−牛眼の間」
「第二控えの間」との窓の形が、牛の眼のように見えるところから「牛眼の間」と呼ばれています。この部屋は、王の起床と就寝の儀式の際の待合室として使用されていました。
写真は王家の人々を神話風に描いたジャン=ノクレの大作です。 -
「鏡の回廊−王の寝室」
鏡の回廊の丁度裏手に位置する「王の寝室」。当初は「鏡の間」と繋がっていましたが、1701年ルイ14世がここを寝室と定め、直接入れないように別部屋としました。
「太陽王ルイ14世」は、1715年9月1日この部屋で息を引き取り、その後ルイ15世もこの部屋で起床と就寝の儀式を行ったそうです。
1789年10月6日パリへ連行される前、ルイ16世とマリー=アントワネットは、大理石の中庭に集まった群衆の前に、この部屋のバルコニーから現れ、毅然とした態度で深々とお辞儀をしたと言われています。事実はどうかわかりませんが、映画化されて名シーンとなっておりました。
まさに色んな歴史がここで繰り広げられたわけです! -
「鏡の回廊−閣議の間」
中央にテーブルが置かれたこの部屋で、毎週日・水と閣議が行われ、火・土に財務閣議が開かれました。また月1度ないし2度臨時の閣議も行われました。
王は常に肘掛け椅子に座り、大臣たちには折りたたみ椅子が用意されたようです。
ルイ14世治世以降は、王子たちの結婚についての登録簿の署名など、いくつかの儀式の際にも一族を召集しました。
スペイン継承戦争後に、フィリップをフェリペ5世として認めたのも、この部屋だったそうです。 -
「鏡の回廊−平和の間」
この部屋は、フランス歴代の国王が築き上げてきた平和を表現しています。
ただ早い時期に隣の王妃の居殿の一部となって「娯楽の間」として使用され、取り外し可能な仕切りが設けられました。
写真はフランソワ=ルモワンヌ「ヨーロッパに平和をもたらすルイ15世」
フランスの優位と正統性を示し、ルイ15世によって平和がもたらされたことを賛美している大作です。 -
「王妃の居殿−王妃の寝室」
ヴェルサイユ宮殿は左右対称の様式で、「王の正殿」と同じ部屋数と同じ装飾に飾られています。異なるのは絵画だけとなってます。
王妃はこの部屋で、実際に王位継承者を出産されたそうです。
マリー=アントワネットの出産時のご様子は、付き人の回想録によると
「王妃がご出産ですという声で、多くの人々が寝室に入って騒がしくなり、王妃がお亡くなりになるのではと思われるほどでした。
2人のサヴォワ人などは暖炉の向かいのお産用ベットに横たわる王妃を、一目見ようと家具の上にのぼる始末でした。」と語っています。
なんかスゴイ話です。王妃にはプライバシーもなにもない時代とはいえ、女性としては堪らないものだったのでしょうね。 -
「王妃の居殿−貴人の間」
この広間では王妃の公式な接見や新たに宮廷に迎え入れられた婦人たちの紹介などが行われました。
この部屋の調度品は、1785年にマリー=アントワネットのために作られたもの。
写真はヴィジェ=ルブラン夫人「マリー=アントワネットの肖像画」
窓から明かりが入ってきて、鮮明な写真が撮れないのでわかりにくいですが、この絵も有名な絵ですね。
この絵の左には、赤い服を着たルイ15世の娘、アデライード王女の肖像画もかけられています。 -
「王妃の居殿−大会食の間」
この部屋は、王妃の接見がかなった招待客の待合室。
この広間はまたコンサートや芝居にも使われたそうで、「大会食」というのは、みんなの前で王が食事をとる儀式に由来しているそうです。1764年1月1日、ここでルイ15世と王妃が共に食事をした相手が、少年期のモーツァルト。とても有名なお話です。
写真はヴィジェ=ルブラン夫人「マリー=アントワネットと3人の子供たち」
この絵には、革命を生き抜いたマリー=テレーズ。牢獄で死亡した後のルイ17世。1789年亡くなった王太子が描かれています。無人のゆりかごは、この絵の完成前に亡くなったソフィー王女を暗示しているそうです。
この絵は見ているだけでも、なんか辛いです。幸せな家族が一瞬で崩壊していく・・・この子供たちには何の罪はないのに、この時代に王家の子として生まれたというだけなのに。 -
「歴史の回廊−戴冠の間」
「王妃の衛兵の間」を過ぎれば、最後の「戴冠の間」となります。「衛兵の間」では写真撮れてないですっ。1789年10月宮殿に押し寄せた群衆から、衛兵たちは王妃を王の元へ逃すため、ここで戦い命を失った場所、くぅ、写真が・・・ない。
「戴冠の間」はかつては倉庫として使用されておりましたが、現在の様式はルイ=フィリップ時代のもの。
「戴冠」という命名はもちろん、このダヴィッド「ナポレオンの戴冠」(ヴェルサイユ版)が置かれたからですね。
この絵についてはルーブルですでに考察?しましたので、ここではパス。 -
宮殿内観光はここまで。OP半日ツアーでは、この後庭園でしばらく休憩してパリに戻る行程、トリアノンなどには立ち寄れません。
ヴェルサイユ宮殿も、まだまだ見ていない所が多く消化不良でした。
やっぱり個人で来て、できればヴェルサイユに1泊ほどして、ゆっくりと見て回りたいですよね〜。
ツアーでご一緒の女の子たちは、ここでも離団してシャルトルに向かったそうで、なかなか計画的でいらっしゃる。メモメモ。 -
南花壇から宮殿をのぞむ。
気持ちの良い天気です。人もいっぱいで、満員電車のようで、慌ただしいツアーでしたが、それでもいいものを見ることができました。
まだまだ見足りないですが、「今日はこのへんで勘弁しといたろー」と宮殿をあとにしますっ! -
イチオシ
では「ヴェルサイユ編」はこのへんで~。
次は「フランス窓便り・・・⑨(パリ編PartⅡ)」へ続きます。
いよいよ最終章ですーーーー。
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