2010/09/16 - 2010/09/16
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comevaさん
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貼絵を習得した清は次々に見事な作品を仕上げていった。
そして学園に入り、6年の月日が流れ昭和15年11月18日、突然清は学園を飛びだし放浪の旅に出るのである。
清は戦争への恐怖感を人一倍抱いていた。
『僕は今年20歳で来年は21歳になるので もうじき正月で21歳になると兵隊検査がある もし甲種合格だったら兵隊へ行って散々殴られて 戦地へ行って恐い思いをしたり 敵の弾に当たって死ぬのが一番おっかないなと思っていました』
戦争=死と言うイメージが次第に強くなり、徴兵される事の恐怖感から放浪の旅に出たとも言われています。
そんな清を母親は無理やり徴兵検査(1943年)へ連れて行ったのですが、結果不合格となり彼は徴兵を免れました。
山下清の手紙等の文章には句読点がない。
その訳は「人と話をする時は点やマルとは言わないんだな カッコとも言わないんだな」と本人の弁。
●放浪の旅(放浪時期 放浪場所)
昭和15年11月(1940年:18歳)〜18年5月(1943年:21歳)千葉県各地
↑↑↑
この間に徴兵検査を受ける
↓↓↓
昭和18年12月(1943年:21歳)〜21年1月(1946年:23歳)千葉県各地(この間数回は新宿の実家へ戻る)
昭和21年6月(1946年:24歳)〜昭和22年5月(1947年:25歳)千葉・埼玉・栃木
昭和22年8月(1947年:25歳)〜昭和23年3月(1948年:26歳)千葉・埼玉・栃木
昭和23年6月(1948年:26歳)〜昭和24年1月(1949年:26歳)千葉・埼玉・栃木・茨城・福島
昭和24年5月(1949年:27歳)〜昭和24年9月(1949年:27歳)千葉・茨城・福島・栃木・群馬・新潟・長野
昭和25年5月(1950年:28歳)〜昭和25年11月(1950年:28歳)千葉・埼玉・茨城・福島・栃木・群馬・山梨
昭和26年(1951年)〜昭和28年(1953年)2年8ヵ月
1951年 千葉・茨城・福島・宮城・山形・福島・栃木・群馬・東京・神奈川(熱海から門司まで汽車で移動)福岡・大分・宮崎・鹿児島
1952年 鹿児島・熊本・福岡(門司から東京まで汽車で移動)千葉・茨城・栃木・群馬・新潟・山梨(東京から門司まで汽車で移動)福岡・大分・宮崎・鹿児島
1953年 鹿児島・熊本・福岡・山口・広島・岡山・兵庫・大阪・京都・岐阜・福井・石川・富山・新潟・富山・石川・福井・京都・大阪・兵庫・岡山・広島・山口・福岡・大分・宮崎・鹿児島
昭和29年(1954年)4月〜12月 関東・甲信越・近畿・四国・九州
昭和30年(1955年)1月〜6月 九州・山陰・近畿・北陸・東北・北海道
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知人からもらった勲章
『僕が兵隊の位を覚えたのは メンコです メンコでそれを覚えたので なかなか忘れません メンコ遊びをすると何が何より強いか知らないとダメです 僕はこのメンコをやって兵隊の位を頭に入れてしまったので 何を見てもすぐに位に直して考える癖がついてしまいました』 -
放浪中に使用したリュック
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放浪中に使用した浴衣と帯
TVドラマのイメージと違うかも知れませんが、実際は浴衣で放浪していたようです。 -
放浪中の認識票
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◆放浪へと導いた戦争◆
観兵式 貼絵 1937年 -
軍艦 貼絵 1938年
『夕飯がすんでから 一室に本があったので その本を見ると 戦争の絵が出ている 軍艦の絵を見ていると そばにいた友達が軍艦の絵を見て「日本の軍艦は大きくて かっこうがいいだろう 日本は世界で一番かっこうのいい軍艦だぞ」と言った』 -
高射砲 貼絵 1938年
『夜の空襲の時 外へ出て見ると 飛行機が飛んでいて 照空燈を照らして 良く見ると 照空燈の灯りがきれいで 高射砲を撃つ音が花火があがっているようで ちょうど花火をみているようだ 飛行機の音や高射砲の撃つ音がして 空がにぎやかで 空のお祭のようだ けれども良く考えて見ると もし爆弾や焼夷弾を落とされたらおしまいだ』 -
鉄条網 貼絵 1938年
『みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんて 起きなかったんだな』 -
◆清が歩いた日本◆
学園から出かけるところ 鉛筆画 1955年
『僕は八幡学園に6年位いるので学園が飽きて 他の仕事をやろうと思って ここから逃げて行こうと思っている 下手に逃げると学園の先生に捕まってしまうので 上手に逃げようと思っていました むやみにうろうろ歩くと巡査に見つけられて調べられて ひどい目に遭わせられるだろうと思って 逃げる前に良く考えて 人に嘘を言って騙して よそで使ってもらおうと思っていました』 -
汽車道を歩いているところ 鉛筆画 1954年
『俺は毎日汽車道を歩いているので 都合によってたまに道を歩く時もあるのです 俺がどうして汽車道ばかり歩いているかと言うと 駅と駅との間を歩くには 道を歩くと 初めての道だから 右へ曲がる道だの左へ曲がる道だの 突き当たる道だの 十字路の道があって どの道を通って行けばこの次の駅に行けるかわからないのです』 -
袋井で夕飯を貰っているところ 鉛筆画 1954年
『掛川駅に行って電気機関車に乗って 袋井で降りて すぐ方々の少しずつ金を貰いに行った 夕方になったので 夕飯を貰いに行くと 途中で停電になってしまって どこの家でも皆真暗になってしまって 電気がつかない どこの家でもロウソクをつけて夕飯を食べているので 停電になった所に夕飯を貰いに行くと よその家の人が「停電になって電気がつかなくて 真っ暗になって家でも困っているから 人の事を助ける事は出来ない お前は何も食べなくて困っているんだろう こっちも停電で 真っ暗になって困っているんだから 困っているのはお互い様だからご飯をやる事は出来ない」と言われた』 -
草津温泉の電車道を歩いているところ 鉛筆画 1954年
『貰った金で軽井沢から電車に乗って 草津温泉に行こうと思って 軽井沢から電車に乗っていると この電車は走るのがのろい 電車の窓から覗いて外を見ると 草や木ばっかりで家が少ない だんだんとこの電車が山を登って行く 山と言っても低い山か平地が高くなっているんだろうと思う 電車の窓から外を見たら 景色の良いのが見られた お昼頃になってから 軽井沢でもらったむすびを食べた この電車はあっち曲がったり こっち曲がったり 遠回りしながらだんだん山を登って行く しばらく電車に乗っていると 草津温泉へ着いた』 -
トンネルをくぐる時のこと 鉛筆画 1954年
『大津港の駅で泊ってから 勿来まで歩いて行く 都合によって道を歩かないで 汽車道を歩く時も時々あるので 毎日歩いていると海や山も見えて「景色が良い トンネルも時々くぐる 初めてトンネルをくぐった時はトンネルの中は真っ暗で淋しかった この頃何回も何回もトンネルをくぐるから 淋しいのに馴れてしまって 長いトンネルをくぐった時少し淋しいだけでトンネルをくぐるのがおもしろくなった』 -
新しいリュックの中へ品物をしまうところ 鉛筆画 1954年
『荷物を手に持って歩くより 荷物を背負って歩いた方が楽だから リュックサックを買おうと思って 三島の町の中の人に聞きながら 探して歩いても リュックサックは売ってないのでリュックサックを売っている店が見つかるまで探したら やっとリュックサックを売っている店が見つかった リュックサックを買ってから 駅へ行って リュックサックの中へ自分の荷物を皆仕舞ったので 今度はどこへ行こうかと思って しばらく考えていた』 -
寝る時の事 鉛筆画 1954年
『駅の待合室で泊る時は 小さな駅だと待合室も小さいので 小さな待合室で泊っていると駅の人の目につく 駅の人に見つかると駅の人が「お前はどこへ行くの 汽車に乗るのか 乗らないのか」と言われるので その訳を話すと 駅の人が「駅は人を止める場所じゃないんだ 汽車に乗る人の待つ場所だから 汽車に乗らないんだったら駅から出て行け 泊るんだったら宿屋へ行って泊れ」と言われるので その訳を話したら「宿屋へ泊るだけの金を持っていないのか 金がなければ警察か 役場へ行って その訳を言って一晩くらい泊めて貰えよ」と言われた』 -
熱海の海岸の景色を見ながら歩いているところ 鉛筆画 1954年
『昼飯を貰ってから また熱海の海岸の景色を見ようと思って しばらく歩いて行くと 海の隣に水族館があった いくら金を出してみたのか忘れてしまったけれど 貰った金が少しあったので その金を出して 水族館を見に行ったら 色々な魚がたくさんいるので 見ていると面白い しばらくたってから 水族館から出て 熱海の海岸の景色を眺めながら 道をどこまでも歩いて行くと 景色のいいのがたくさん見られて 見ていると美しい』 -
水に溺れた時の事 鉛筆画 1954年
『手足の動きが鈍いので急に海の中へ潜りかかった 水に溺れたら命はないと思って夢中になって手足を動かして 泳ごうとしてもだんだんと海の中へ潜ってしまうだけでした この時生まれて初めて一番怖い思いをした もう助からないな もう命はないな 死にたくはないと思っていても だんだん海の中へ潜ってしまうので 自分の思うようにはいかない 助からなければ どうしても死んでしまうので 死んでから先の世の中の事はわからないので 死んでから良い事が来るか 悪い事が来るか 死んで生き返って見なければ分からない』 -
東海道線の島田で夕飯を貰いにいくところ 鉛筆画 1954年
『島田駅から少し遠くまで歩いて行って 夕飯を貰いに行ったら 夕飯を貰いに行くのが遅かったので くれる人が「今頃夕飯を貰いに来ても もう遅いよ もう夕飯は皆食べてしまったから 貰いに来るんだったら もっと早く貰いに来なければだめだよ おはちだの鍋はもう空っぽになってしまったから ご飯をやりたくてもご飯をやる事が出来ないから 他へ貰いに行け」と言われた 言われた通り 他の家へ夕飯を貰いに行ったら なかなか夕飯を貰えないで やっと夕飯を貰えたので 島田駅へ行って 駅の人の目のつかない所で泊って少し考えていた』 -
易者に運勢を見て貰った時の事 鉛筆画 1954年
『「人の見えない所で仕事をしていても人は知らないけれども 神様が知っている 人の見えない所で悪いことや 良い事を神様が見てる 神様が人間の目じゃ見えないけれども ちゃんと見て しまいには人の見えない所で 悪いことや良い事を神様が知らせてくれる」と言われました 僕は「さっき人の見えない所で薪を割っても 人に遊んでたんだと思われたので それは神様が知らせなかったのか」と言ったら 旦那さんは「それでも神様は知っている その時は知らせないがいつか知らせる すぐ知らせると誰でも人の見えない所で良い事をするようになるからだ」と言われました』 -
うすい峠 鉛筆画 1954年
『横川から電気機関車になっているので 横川から汽車の窓から覗いて見ると 電気機関車が走った時 横川から軽井沢までの間は 碓氷峠の景色の良い所が見られた 碓氷峠の人が通る道は蛇のようにあっち曲がり こっち曲がりになっていて 普通の道と違っているから珍しくて面白い 碓氷峠は山中で 電気機関車の窓から覗いて見ると 景色のいいところが沢山見られたのでおもしろかった』 -
熊谷の花火 鉛筆画 1954年
『今晩熊谷にはなびがあがるので それを見るのが一番楽しみです 早く花火を見ようと思って いつもより三十分くらい早く 夕飯を貰いに行っている時 もう花火が上がっているので 夕飯を貰ってから 花火を見に行った 花火を見るにはどこが一番良い場所かと思って 少し迷ってしまった 迷ってばかりいると決まりが付かないから 思い切って花火を見る場所を 自分の好きな所に決めて 腰を降ろして花火を見物している 花火には大きい花火と小さい花火と 電気花火や仕掛け花火も上がって 見ていると美しくて面白い』 -
◆色褪せぬ才能・放浪期の貼絵◆
清は子供の頃から、人並み外れた記憶力があった。この記憶力は清の創作活動にも大きく影響し貼絵作品を制作する場合、彼の脳裏には二つのイメージが存在する。
一つは彼が見た風景や出来事、もうひとつはそれをもとに作られた貼絵のイメージである。一般的に清は放浪中の旅先で絵や貼絵を描くと思われているが、実際は放浪が終わったあとから、旅先の出来事等の記憶を持ち帰って自宅や学園で、制作活動が行われていた。
彼の記憶は克明に旅の様子捉えており、原風景と寸分違わない絵を描くことも可能であったという。
上野の五重塔 貼絵 1940年 -
上野のしのばずの池 貼絵 1940年
『少し駅で休んで昼飯を貰ってから 洗濯をしようと思って 駅に井戸端があるので 井戸の所でシャツとズボンを洗って 駅の傍へ干して置いたら 駅の人に見つかって 駅の人が「このシャツとズボンは誰が干したんだ お前がここへ干したのか ここは洗濯物を干す所じゃないから 他へ持って行け」』 -
群鶏 貼絵 1940年
『おばさんが「お前はここから出かけて行ってからどこへ行くの 自分の家の事を思わないか お母さんに会って見たいとは思わないか」と言われたので「ここから出かけてからどこへ行こうかとは まだはっきりと考えていない これから考えるところです お母さんに会ってみたいとはたまに思う時もあります」』 -
秋のキリン草 貼絵 1943年
『待合室から出て 汽車が通るのを見物しようと思った 見ていると遠くの方に汽車の車庫がある 車庫の所で四五人の人が働いている 電気花火をあげているようの見えるので 傍に行ってみると 花火をあげてるように見えてきれいです 人が線路を直しているので 花火をあげてるように見える』 -
菊 貼絵 1949年
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金せん花 貼絵 1949年
『僕は太っているが力が弱く 中学生くらいの力しかない だから男と腕相撲をしてもみんな負けてしまう 負けるのは悔しい いやな気がするそこで僕は勝ちそうな女の人と腕相撲をする』 -
遠足 貼絵 1950年
『俺が旅行する癖は急には治らないので だんだんと癖が直ってから 旅行しないで同じ場所でいつまでも長く絵を描こうと思う 癖が治るまでは一年位旅行をすると癖が治ると思う』 -
神宮外苑 貼絵 1950年
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金町の魚釣り 貼絵 1950年
水面に映る人物が精巧に表現されている。 -
山の頂上から見た景色 貼絵 1950年
『ここは山の頂上で ここからしばらくの間 景色を眺めた 遠くの方にある家や 田や畑が小さく見えて 遠くの方にある山も見えて 景色がいいので 少したってから頂上から下へ降りはじめた』 -
伊豆大島の風景 貼絵 1954年(未完成作品)
伊豆大島へ旅した山下清は、旅から戻るとすぐに、《伊豆大島の風景》の制作に着手した。しかし、半分ほど貼ったところで、清の放浪心が頭をもたげ、またまた旅に出てしまったのである。結局、未完成に終わった《伊豆大島の風景》だが、この作品は、清の貼絵制作の過程を垣間見る作品となった。清の心に映った風景を、まず鉛筆で描く。手前からだんだんと色紙を貼る。清が繰り返す、根気強い貼絵作業の様子が、私たちにも伝わってくるようでした《伊豆大島の風景》が、もしも完成していたならば山下清の代表作のひとつになっていたに違いない
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この旅行記へのコメント (2)
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- Yattokame!さん 2011/01/15 05:06:42
- 山下清!
- comevaさん
こんにちは。
山下清の貼り絵はその精彩な表現が驚きですが(特に欧州への取材旅行をもとに制作した絵は、帰国後に記憶だけを頼りに正確な描写を行っており驚嘆します)、若いころの学園生活の絵も味があっていいですね。アンリ・ルソーを思わせながら、アンリ・ルソー以上に情感のある絵という感じがします。
いいもの見せていただき、ありがとうございます。
Yattokame!
- comevaさん からの返信 2011/01/15 06:28:31
- RE: 山下清!
- > comevaさん
> こんにちは。
> 山下清の貼り絵はその精彩な表現が驚きですが(特に欧州への取材旅行をもとに制作した絵は、帰国後に記憶だけを頼りに正確な描写を行っており驚嘆します)、若いころの学園生活の絵も味があっていいですね。アンリ・ルソーを思わせながら、アンリ・ルソー以上に情感のある絵という感じがします。
> いいもの見せていただき、ありがとうございます。
> Yattokame!
Yattokame!さん おはようございます。
ご訪問にコメントと有難うございます!
ここでは初期作品等を通じて彼のこれまで歩んできた生い立ち等を紹介させて頂きました。
これらが後に代表作を生む土台となったのは間違いなさそうですが、その欧州旅行等の代表作や貼絵以外の作品等はこのあと第?、第?シリーズでご案内させて頂く予定です。
時間がかかってなかなか前に進みませんが、又御訪問下さい。
C
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