2010/01 - 2010/01
6095位(同エリア7148件中)
ドクターキムルさん
- ドクターキムルさんTOP
- 旅行記7542冊
- クチコミ134件
- Q&A回答247件
- 6,572,105アクセス
- フォロワー39人
鎌倉には戦前に建てられた石碑が多くある。それを巡ろうと出かけた。鎌倉市教育総務部教育センターのWeb:鎌倉市GreenNet「鎌倉の石碑」(http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouikuc/sekihi18.html)を頼りに、ここに掲載されている84の石碑を順次巡った。結論から言うと、このWebでは石碑の所在地の番地や時には町名までに間違いがあり、これを頼りに全部巡ることはとても出来ない相談だ。実際に鎌倉市教育総務部教育センターの者が石碑の所在地を確認してWebに掲載したものと思われるが、まるで小学生以下の仕事ぶりだ。少なくとも、鎌倉町は昭和14年11月3日に鎌倉市になっているのであるから、これ以降の昭和15年3月や昭和16年3月に建てられた石碑が鎌倉町青年団ということはありえようか。石碑には鎌倉市青年団と彫られている。碑銘が正しくないものも何碑か見受けられる。税金を払っている鎌倉市民は抗議すべきかも知れない(。電話番号:0467(23)3000 Fax番号:0467(24)5569 内線番号:2465 メールアドレス:kenkyu@city.kamakura.kanagawa.jp)。実際に行かれる場合には鎌倉史跡碑事典(http://www.kcn-net.org/sisekihi/menu.htm)(83石碑)で調べてからの方が確実であろう。
日蓮上人の所謂「辻説法」の旧跡を示す石碑も、今も大路の2箇所にある。「日蓮大聖人辻説法之旧地」(本興寺、建立年は不明)(大町の本興寺門前)と「日蓮上人辻説法之阯」(鎌倉町青年団、昭和11年)(小町2丁目)である。当時は大町、小町ともに鎌倉の繁華街であり、そこの辻で日蓮上人が説法したことはあっただろう。どちらとも言えない。しかし、「俊基朝臣墓所」(鎌倉町青年会、大正6年)と「玉縄首塚由来」(玉縄史蹟顕彰会、昭和43年)と「稲村崎」(鎌倉町青年団、大正13年)と「主馬盛久之頸座」(鎌倉町青年団、昭和10年)と「勝長寿院旧蹟」(鎌倉町青年会、大正6年)の5つは建てる必要のないものである。墓前に立つ大きくて立派な「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と古くて(建立年は剥離して判読できない)立派な「玉縄首塚碑」、公園の石碑群の中心となる古い「稲村崎碑」(明治27年)の石碑があり、「主馬盛久之頸座」の横には古い「盛久頸座」の石碑(大正8年)があり、「勝長寿院旧蹟」(大正6年)の横には古い「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)があるからだ。また、「玉縄城址」は2つあり、何やら「大森貝塚」碑のようだが、団地内にある新しい石碑(鎌倉友青会、昭和31年)は記載内容に乏しい。これに対し、諏訪壇(城祉)登り口にある石碑(鎌倉同人会、大正15年)の方が古く、記載内容もしっかりしている。したがって、「玉縄城址」(鎌倉友青会、昭和31年)は蛇足である。石碑建立当時に「事業仕分け」があったならば、蓮舫議員でなくても「2つはいらないでしょう。」となる。付け加えると、平成12年に建てられた頼朝墓前の「頼朝公顕彰碑」(源頼朝会)は新し過ぎよう。
全てが公開されている訳ではない。「偏界一覧亭旧跡」は瑞泉寺裏山にあるが、鎌倉石の階段が磨り減ってしまったとして公開中止になっている。実際に公開中止に到った理由は、この史跡がいたずらされたことがきっかけのようだ。一人の心ない行為が鎌倉を訪れる人たちの楽しみを奪ってしまう。
現在、石碑がないものもある。「和賀江嶋」(鎌倉町青年団、大正13年)は昨年秋の台風で倒壊し、市文化財課で修復中である。
民家の敷地内にあるものがある。「永安寺址」(鎌倉町青年団、大正15年)は造園業を営む植政さんの庭にある。「荒居閻魔堂阯」(鎌倉町青年団、昭和13年)は民家(借家)の庭端に建っている。これらは民家の人に断ってからでないとならないのは言うまでもない。また、「玉縄城址」(鎌倉同人会、大正15年)は女子校(清泉女学院(中・高校))の敷地内であり、校門でその旨を告げ、校内受付で申請書をもらい、その書面に必要事項を記載して許可を受ける必要がある。
石碑の中には立地場所が悪いものがある。「西御門」(鎌倉町青年団、大正15年)と「桑ケ谷療養所跡」(長谷上町文化会、昭和37年)は道路上にある。いつ車が衝突するとも限らない。「桑ケ谷療養所跡」は新しいものだが表面には車であろう、こすれた痕が見られる。壊れてからでは遅い。道路から奥に引っ込めてほしいものだ。
最も重要なことは、これら大正6年以前にも鎌倉には石碑が建てられていることだ。「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年)と「玉縄首塚碑」と「稲村崎碑」(明治27年)、「盛久頸座」(大正8年)、「勝長寿院旧蹟址碑」(明治42年)は上述したが、他にもある。目に付いたところでは、光則寺石碑、御霊神社石碑(大正2年)、大江広元墓所石碑、毛利季光墓所石碑、「明治天皇閲兵之処」石碑(八幡宮)(明治6年)、「鉄道轢死之碑」(明治42年)、「復興寄師芳君之碑」(海蔵寺)、「竺僊梵僊和尚顕彰碑」(葛原ヶ岡ハイキングコース)(昭和15年)、「道路開墾記念之碑」(稲村ガ崎)(昭和13年)、「ローベルト・コッホ碑」(稲村ガ崎)(大正元年)、関東大震災慰霊碑」(浄泉寺)などが挙げられる。
一番気になる碑は、寸松堂(鎌倉市笹目町5)前の「これより東海道」の石碑である。昭和11年に有形文化財に指定されている店舗(木造2階建搭屋付(一見木造3階建)、九輪が上がる)を建てる際に、庭にあった石碑が邪魔になったので店先に移したものだそうだ。この裏には「塔之辻」(鎌倉町青年団、昭和4年)があるが、道路は交差していない。かつては辻であり、道路傍には道標があったのであろう。中砥にするような石の材質にも見え、丈夫そうだ。かつては藤沢から鎌倉を経由し、朝夷奈切通を越え六浦に至り、走水から房総に渡る「古東海道」があった。その道標である可能性もある。それならば400年以上前のものであり、貴重である。
まずは、JR北鎌倉駅から葛原ヶ岡ハイキングコースを辿り鎌倉山に至り、化粧坂を下ってJR鎌倉駅へ行くコースと、大船界隈から湘南モノレールで湘南町屋駅に行き、湘南深沢駅から湘南江の島駅に出て、江ノ島駅から江ノ電を乗り継いで稲村が崎に到るコースから始める。
湘南江の島駅はホームが4階にあるために、遮る建物もなく、富士山が綺麗に見えたのだが、窓ガラスが汚れたり、鉄芯が入っていたりして写真に収めることができなかった。湘南モノレールで訪れる多くの観光客のために、この素晴しい光景を観光資源化してほしいものだ。
(表紙写真は東慶寺の「夏目漱石参禅百年記念碑」石碑)
-
「夏目漱石参禅百年記念碑」説明板(東慶寺)。
-
歌碑(東慶寺)。
-
歌碑(東慶寺)。
-
頌徳碑(安宅弥吉)(東慶寺)。
-
歌碑(東慶寺)。
-
野田卯太郎墓誌(東慶寺野田家墓地)。
-
向陵塚由来(東慶寺)。
-
竺僊梵僊和尚顕彰碑(碑葛原ヶ岡ハイキングコース途中)。
-
竺僊梵僊和尚顕彰碑の傍には石の五重塔と「天柱峰」の石碑が立つ。写真は石の五重塔。
-
竺僊梵僊和尚顕彰碑の傍には石の五重塔と「天柱峰」の石碑が立つ。写真は「天柱峰」の石碑。
-
顕彰碑の傍には石の五重塔と「天柱峰」の石碑が立つ。
-
葛原岡神社の看板。、
-
葛原岡神社の社殿。
-
葛原岡神社の鳥居。
-
「藤原仲能之墓」(鎌倉町青年団、昭和11年)。源氏山葛原神社の社務所前の道の向こう(梶原5-9-1)。
-
石碑後の伝藤原仲能の墓。
-
「贈従三位日野公墓碑銘」(明治17年) 。源氏山(梶原5-9-2)、俊基朝臣墓所にある。
-
「俊基朝臣墓所」(鎌倉町青年会、大正6年)。源氏山(梶原5-9-2)、俊基朝臣墓所にある。
-
日野俊基の墓所。
-
「国指定史跡日野俊基墓」の説明板。
-
「桜」の石碑。
-
公園で遊ぶ園児たち。
-
源氏山公園の頼朝像。
-
昭和55年に建った「源頼朝公銅像」石碑。
「この銅像は治承4年(1180年)10月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し よりよい鎌倉づくりに市民が心を通い合わせることを誓い合った証として有志の方々から寄せられた尊い浄財によって建立されたものです
この像が中世日本の政治経済文化の中心として栄えた鎌倉の歴史と郷土鎌倉の象徴として永遠に守り継がれることを願うものです
昭和55年10月
源頼朝公銅像建立実行委員会」 -
源氏山公園の桜の木に掛けられた注意書き。鎌倉でのお尋ねものはカラス、アライグマ、台湾リス、とんびのようだ。
-
化粧坂。
-
化粧坂。石碑が見える。
-
化粧坂。石碑が見える。
-
化粧坂。道の真ん中に岩がある。
-
化粧坂の注意看板。
-
化粧坂。
-
化粧坂。
-
化粧坂。
-
化粧坂。
-
「化粧坂」(鎌倉市青年団、昭和15年)(扇ガ谷4-14-7)。
-
「水鑑景清大居士」の墓石((平(藤原))景清の岩屋跡(景清土牢))。
-
崖のやぐら(景清の岩屋跡(景清土牢))の風景。
-
海蔵寺境内の「復興寄師芳君之碑」。
-
底脱の井(海蔵寺)。
-
海蔵寺の説明看板。
-
岩船地蔵の六角堂。
-
薬王寺の説明看板。
-
やぐらには祠が(薬王寺前)。
-
大きなやぐらは民家の物置に(薬王寺前)。
-
この地にもやぐらと四方竹が(薬王寺界隈)。
-
参道の向こうにはやぐらがあり、墓前には花が手向けられていた。
-
「相馬次郎師常之墓」(鎌倉町青年団、昭和7年)(扇ガ谷3-8-10 近く)。
-
相馬次郎師常やぐらの説明書き。
-
相馬次郎師常やぐら。菊の花が手向けられている。
-
藤谷黄門遺蹟(鎌倉町青年団、昭和4年)(浄光明寺入り口)。
-
浄光明寺門前の「冷泉為相(ためすけ)卿旧跡」の石碑。
-
浄光明寺入り口の石碑。
-
浄光明寺の案内看板。
-
浄光明寺山門。真言宗準別格本山泉涌寺派とある。
-
浄光明寺本堂。
-
浄光明寺不動堂。
-
「扇谷上杉管領屋敷迹」(鎌倉町青年団、大正11年)(扇ガ谷2-4、英勝寺より北 の踏切渡り左)。
2011年春に移設されました。これまでは傾いていて、大事にされていない感じでしたが、敷地左端に移設され、他の石碑と遜色ない扱いになるようです。 -
「太田道灌邸旧蹟」(鎌倉町青年団、大正10年)(英勝寺)。英勝寺山門は現在修理中です。
-
「源実朝をしのぶ」生誕800周年記念の石碑。平山郁夫画伯の書。1992年(平成14年)、鎌倉同人会。
-
「源氏山」(鎌倉町青年団、昭和3年)(寿福寺入口)。
-
岩窟不動。
-
岩窟不動尊。
-
参道横の五輪塔。
-
参道横の庚申塔。
-
「鎌倉彫再興碑」(昭和54年(1979年))。
-
常楽寺山門。
-
常楽寺山門に架かる扁額。大船の地名は粟船が訛ったとされる。
-
粟船山中腹の姫宮(泰時の娘)の墓。
-
粟船稲荷。
-
「木曽冠者義高之塚」(鎌倉同人会、大正15年)(大船5-8)。
-
「木曽清水冠者義高公之墓」。
-
粟船山山頂の木曽義高の墓。
-
涼蔭(常楽寺)(昭和14年)。
-
「涼蔭」石碑に謳われた銀杏。
-
大船観音。
-
大船軒。
-
「玉縄首塚碑」(戸部会館前)。
-
「怨親平等 玉縄首塚由来」(玉縄史蹟顕彰会、昭和43年)。
この結びには、経云我観一切普皆平等(お経には、すべての人は敵味方なく皆絶対平等であると説いております)と書かれているが、玉縄側の武士の首だけが玉縄首塚に葬られたのであり、玉縄側の武士の首と安房里見氏側の武士の首が一緒に葬られた訳ではないので怨親平等・経云我観一切普皆平等とは言えない。史実からかけ離れた鎌倉ではワースト1の史跡碑だ。(怨親平等とは、日本では一般に、戦いによる敵味方をとわず、一切の犠牲者を供養し救済しするなど、平等に応じる意味に使われる。) -
馬頭観音と六地蔵の後には「玉縄首塚碑」が建つ。
-
六地蔵。
-
五輪塔。
-
お地蔵さま。
-
馬頭観音。
-
龍宝寺山門。
-
歌碑(龍宝寺境内)。
-
龍宝寺本堂。昭和35年に大岡博士の設計で建立された。廊下の9間半の一本柱は見事だ。
-
「玉縄城址」(鎌倉同人会、大正15年)(清泉女学院校門横)。
-
諏訪壇に登る階段。
-
諏訪壇。テニスコート3面分ぐらいある。
-
諏訪壇の空堀跡か。
-
諏訪壇から降りる階段。
-
かつての玉縄城には校舎とグランドが広がる。
-
学院の坂南側に咲くタンポポ。
-
平井邸長屋門(江戸時代の名主の屋敷)。鎌倉市が設置している説明プレートには、「鎌倉にある農家の中で最大規模の建築物です。」とある。2階建ての大きな長屋門だ。
-
「玉縄城址」(鎌倉友青会、昭和31年)(植木433-6)。
-
庚申塚に建てられた。
庚申塚は街道脇などに建てられるものだ。街道とは大手門を出たところにあり、城とは大手門の内側を言う。「玉縄城址」(鎌倉同人会、大正15年)に遅れること31年、不要なもので、かつ意味のない石碑だ。鎌倉ではワースト2の石碑だ。
鎌倉友青会の会長宅の近くに石碑を建てたかっただけなのだろうとかんぐってしまう。 -
山道には下水管が埋設されている。昭和30年代頃のコンクリートで固められた小道(地元の人は獣道と呼んでいる)が続く。とても歴史など感じることができない。それでも最後にはやぐらが2つほど見えた。
-
玉縄城址の城山で宅地開発されて残った森は保全されている。
-
小阪邸長屋門(江戸時代の名主の屋敷)。おばあさんが平井家から嫁いできているので昔の名主同士で親戚だそうだ。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
鎌倉(神奈川) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
99