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旅初日の夜に眺めた坪井川沿いの長塀と、2日目に歩いた熊本博物館から高麗門付近の様子をまとめました。

熊本城無料エリア(1) 長塀・三の丸周辺

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2026/09/14 - 2026/09/16

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chemire

chemireさん

旅初日の夜に眺めた坪井川沿いの長塀と、2日目に歩いた熊本博物館から高麗門付近の様子をまとめました。

  • 旅初日の夜、坪井川(堀)沿いを散策。<br />坪井川に面した242mの長さをもつ長塀は、国指定重要文化財となっています。<br /><br />2016年(平成28)の熊本地震により東側80mが倒壊する被害がありましたが、2021年(令和3)に復旧が完了。<br />今年7月の地震での大きな被害は無かったようで良かったです。

    旅初日の夜、坪井川(堀)沿いを散策。
    坪井川に面した242mの長さをもつ長塀は、国指定重要文化財となっています。

    2016年(平成28)の熊本地震により東側80mが倒壊する被害がありましたが、2021年(令和3)に復旧が完了。
    今年7月の地震での大きな被害は無かったようで良かったです。

  • 坪井川(堀)沿いに設置されている水門の開閉用ハンドル(手動式バルブ開閉装置)。江戸時代の石垣とレトロな鉄製の装置の取り合わせが気に入っています。

    坪井川(堀)沿いに設置されている水門の開閉用ハンドル(手動式バルブ開閉装置)。江戸時代の石垣とレトロな鉄製の装置の取り合わせが気に入っています。

  • 復旧工事に伴う調査で、江戸時代の控石柱や明治初期に散乱したとみられる瓦、明治10年(1877)の西南戦争で使用された銃弾が出土。

    復旧工事に伴う調査で、江戸時代の控石柱や明治初期に散乱したとみられる瓦、明治10年(1877)の西南戦争で使用された銃弾が出土。

  • 長塀下の石垣が、明治22年(1889)の地震で大きく崩壊した歴史もあるそう。これ以上、災害が起きませんように。

    長塀下の石垣が、明治22年(1889)の地震で大きく崩壊した歴史もあるそう。これ以上、災害が起きませんように。

  • 奥に見える素屋根は復旧中の宇土櫓かな。

    奥に見える素屋根は復旧中の宇土櫓かな。

  • 下馬橋跡。かつて花畑邸前付近から本丸へと通じていた橋は、1902年(明治35年)に行幸橋や行幸坂が新設されたことにより撤廃。

    下馬橋跡。かつて花畑邸前付近から本丸へと通じていた橋は、1902年(明治35年)に行幸橋や行幸坂が新設されたことにより撤廃。

  • 加藤清正公

    加藤清正公

  • 桜の馬場城彩苑にある熊本城ミュージアムわくわく座は、今年7月の地震の影響により臨時休館中で、12月に営業再開が予定されています。

    桜の馬場城彩苑にある熊本城ミュージアムわくわく座は、今年7月の地震の影響により臨時休館中で、12月に営業再開が予定されています。

  • 定時ガイドツアーも一部中止。<br />ここで散策を終了して折り返しました。

    定時ガイドツアーも一部中止。
    ここで散策を終了して折り返しました。

  • 旅2日目。熊本博物館見学のため市電を杉塘停留所で下車し、歩いて三の丸へ。

    旅2日目。熊本博物館見学のため市電を杉塘停留所で下車し、歩いて三の丸へ。

  • この辺りを歩くのは初めて。<br />熊本城の広さに、今さらながら驚きました。

    この辺りを歩くのは初めて。
    熊本城の広さに、今さらながら驚きました。

  • Googleマップによれば、ここは砂薬師坂らしいのですが説明板はなかったです。それと、付近には三丸桜所の表示もあったので桜の季節に歩くのも楽しそう。<br />今回は通り過ぎるだけだったけど、次は、ゆっくり三の丸を攻めてみよう。

    Googleマップによれば、ここは砂薬師坂らしいのですが説明板はなかったです。それと、付近には三丸桜所の表示もあったので桜の季節に歩くのも楽しそう。
    今回は通り過ぎるだけだったけど、次は、ゆっくり三の丸を攻めてみよう。

  • この先に博物館があります(博物館の様子は別の旅行記へ)。

    この先に博物館があります(博物館の様子は別の旅行記へ)。

  • 旧 細川刑部邸<br />博物館向かいの建物は、子飼にあった藩主細川家の分家の細川刑部家の下屋敷で、1993年(平成5)に城内へ移築されています。<br />全国有数の上級武家屋敷ですが、2016年の熊本地震で被災し復旧工事のため見学休止中。2028年2月末(または2028年度中)の完全復旧と一般公開再開を目指しているそうです。

    旧 細川刑部邸
    博物館向かいの建物は、子飼にあった藩主細川家の分家の細川刑部家の下屋敷で、1993年(平成5)に城内へ移築されています。
    全国有数の上級武家屋敷ですが、2016年の熊本地震で被災し復旧工事のため見学休止中。2028年2月末(または2028年度中)の完全復旧と一般公開再開を目指しているそうです。

  • 二ノ丸と三ノ丸は時代によって区割りが異なり判然とせず、現在の三ノ丸にある旧細川刑部邸は、以前は二ノ丸屋形跡と言われていたそう。<br />江戸時代前半には曲輪(丸)の名称も時代によって大きく変わり、江戸時代後半は本丸と二ノ丸になっています。

    二ノ丸と三ノ丸は時代によって区割りが異なり判然とせず、現在の三ノ丸にある旧細川刑部邸は、以前は二ノ丸屋形跡と言われていたそう。
    江戸時代前半には曲輪(丸)の名称も時代によって大きく変わり、江戸時代後半は本丸と二ノ丸になっています。

  • 博物館見学のあと、三の丸駐車場を抜け二の丸方面へ。

    博物館見学のあと、三の丸駐車場を抜け二の丸方面へ。

  • 城郭北西側の外周路を進むと、右側に熊本県護国神社が見え、

    城郭北西側の外周路を進むと、右側に熊本県護国神社が見え、

  • さらに進むと、右側に藤崎台球場が現れました。1960年開場の歴史ある球場だそうです。

    さらに進むと、右側に藤崎台球場が現れました。1960年開場の歴史ある球場だそうです。

  • 球場バックスクリーン後方の藤崎台のクスノキ群は、国の天然記念物に指定されています。

    球場バックスクリーン後方の藤崎台のクスノキ群は、国の天然記念物に指定されています。

  • 球場先にある熊本城南側を通る行幸坂に隣接する宮内(みやじ)トンネル(宮内隧道)。<br /><br />このあたりはGoogleマップによると藤崎城跡と表示されるのですが、現地には説明板などはなかったので調べてみました。<br />藤崎台は平安時代から藤崎八旛宮が鎮座していた境内地で、南北朝時代の激しい戦乱期(1377年頃)に境内(宮山)が一時的に城塞化し藤崎城と呼ばれたと考えられ、戦乱が落ち着くと元の境内へと戻り城としての記録が途絶えたとされています。<br />加藤清正は、この藤崎台の地形を活かし、熊本城の西側の防御を固める重要な曲輪として城の縄張りに組み込み、藤崎城の遺構は熊本城の一部と同化することになりました。<br />その後、西南戦争の激戦によって藤崎八旛宮は社殿を全て焼失し、戦後、現在の井川淵町へと移転。空いた藤崎台の土地は、現在の球場へと至っています。<br /><br />2020/05 藤崎八幡宮を参拝<br />https://4travel.jp/travelogue/11899206

    球場先にある熊本城南側を通る行幸坂に隣接する宮内(みやじ)トンネル(宮内隧道)。

    このあたりはGoogleマップによると藤崎城跡と表示されるのですが、現地には説明板などはなかったので調べてみました。
    藤崎台は平安時代から藤崎八旛宮が鎮座していた境内地で、南北朝時代の激しい戦乱期(1377年頃)に境内(宮山)が一時的に城塞化し藤崎城と呼ばれたと考えられ、戦乱が落ち着くと元の境内へと戻り城としての記録が途絶えたとされています。
    加藤清正は、この藤崎台の地形を活かし、熊本城の西側の防御を固める重要な曲輪として城の縄張りに組み込み、藤崎城の遺構は熊本城の一部と同化することになりました。
    その後、西南戦争の激戦によって藤崎八旛宮は社殿を全て焼失し、戦後、現在の井川淵町へと移転。空いた藤崎台の土地は、現在の球場へと至っています。

    2020/05 藤崎八幡宮を参拝
    https://4travel.jp/travelogue/11899206

  • トンネル近くにあった西南の役激戦地跡の碑。<br />西南戦争時、熊本城の戦いで激戦地となった段山の戦いは藤崎台の真下でしたが、段山自体は現在は道路を造るため削られ面影はありません。

    トンネル近くにあった西南の役激戦地跡の碑。
    西南戦争時、熊本城の戦いで激戦地となった段山の戦いは藤崎台の真下でしたが、段山自体は現在は道路を造るため削られ面影はありません。

  • 西郷隆盛率いる薩軍が熊本城を包囲・攻撃し、周辺の花岡山から砲撃。大砲は新町や段山方面に落下し、激しい攻防戦が繰り広げられたそうです。

    西郷隆盛率いる薩軍が熊本城を包囲・攻撃し、周辺の花岡山から砲撃。大砲は新町や段山方面に落下し、激しい攻防戦が繰り広げられたそうです。

  • 新町にある高麗門(櫓門)跡へ。<br />明治時代に入り、熊本鎮台司令により門などの建物はことごとく破壊されてしまいました。また、かつて門の横にあった堀は、明治24年(1891)の九州鉄道(現在の鹿児島本線)の線路敷設に伴って埋め立てられています。

    新町にある高麗門(櫓門)跡へ。
    明治時代に入り、熊本鎮台司令により門などの建物はことごとく破壊されてしまいました。また、かつて門の横にあった堀は、明治24年(1891)の九州鉄道(現在の鹿児島本線)の線路敷設に伴って埋め立てられています。

  • JR九州の鉄道高架橋(新幹線・鹿児島本線)下のスペースと向かい側に説明板が設置されていました。<br /><br />加藤清正は、薩摩藩からの攻撃を恐れ城の南側と西側の防衛を強化。そのひとつとして、城の南西部に設けられた高麗門は防衛上とても重要な役割を担い、門の前には勢溜と呼ばれる広場もあったそうです。

    JR九州の鉄道高架橋(新幹線・鹿児島本線)下のスペースと向かい側に説明板が設置されていました。

    加藤清正は、薩摩藩からの攻撃を恐れ城の南側と西側の防衛を強化。そのひとつとして、城の南西部に設けられた高麗門は防衛上とても重要な役割を担い、門の前には勢溜と呼ばれる広場もあったそうです。

  • 熊本城ってホントに広いなぁと、ここでも思う。

    熊本城ってホントに広いなぁと、ここでも思う。

  • 高麗門の名前の由来は、慶長・文禄の役で加藤清正が攻め入った開城(ケソン)にあった城門の高麗門を模して造った、又は、朝鮮の形式(通用門)に準じ敵からの死角をなくし屋根を小さくして簡素化・強固にしたという説から。

    高麗門の名前の由来は、慶長・文禄の役で加藤清正が攻め入った開城(ケソン)にあった城門の高麗門を模して造った、又は、朝鮮の形式(通用門)に準じ敵からの死角をなくし屋根を小さくして簡素化・強固にしたという説から。

  • 御成道跡<br />門の外から南には寛永19年(1642)に2代熊本藩主の細川光尚が父 忠利を弔うために建立した妙解寺に向かう参道が伸びていました。<br />2011年(平成23)のJR鹿児島本線の高架化工事に伴う発掘調査によって高麗門跡とともに遺構が発見され、2018年(平成30)国の特別史跡熊本城跡に追加指定されています。

    御成道跡
    門の外から南には寛永19年(1642)に2代熊本藩主の細川光尚が父 忠利を弔うために建立した妙解寺に向かう参道が伸びていました。
    2011年(平成23)のJR鹿児島本線の高架化工事に伴う発掘調査によって高麗門跡とともに遺構が発見され、2018年(平成30)国の特別史跡熊本城跡に追加指定されています。

  • 高麗門跡を背にして静かな町並みを抜け、辛島町方面に向かいました。

    高麗門跡を背にして静かな町並みを抜け、辛島町方面に向かいました。

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