2026/02/05 - 2026/02/15
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しにあの旅人さん
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奈良県香芝(かしば)市「大坂山口神社」
なんで香芝なのに大坂?
土偏の「坂」です。こざと偏の「大阪」は古くは難波と呼ばれました。
古代大坂は、二上山の東山麓、現在の香芝市あたりの地名でした。
3世紀後半-4世紀初め、大坂でヤマトの崇神天皇に反旗を翻した女将軍吾田媛(あがたひめ、あたひめ)の跡をたどってみました。
「崇神天皇」は8世紀に淡海三船がつくった名前で、この時代にはふさわしくないのです。本名は「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」という、どこで区切っていいのかも分からない長い名前なので、勘弁してください。「崇神天皇」で通します。
歴史上ヤマトナデシコがおとなしくなったのはいつごろからか。
古代は女の天下でした。天照大御神はもちろん、推古天皇から称徳天皇まで、14代中半分は女帝です。
やきもちで仁徳天皇を振り回した磐之媛(いわの・ひめ)さんはもちろん。「男なんて、あんなつまらんもの」と言い放った飯豊(いいとよ)さんは、推古天皇に先立つ最初の女帝だったのではないかと言われております。
3人は美女でありました。見てきたわけではありませんが、美女を妻とするBy夫がいうので間違いなし。
一書に曰く
かなりの歴史好きの人でも?と思うのではないですか。
吾田媛さんです。
既婚者です。
ツオイのですよ。
by夫クン、ツオイ女がお好きだそうです。
へえ。
By妻
参考書は次の通り。
「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟訳/講談社学術文庫/1988年
「日本書紀」日本古典文学大系67/坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋/岩波書店/1967年
「口訳万葉集」折口信夫/中央公論社/昭和29年
「万葉集・全訳注・原文付」中西進/講談社文庫/1980年
「現代語訳付き・古事記」中村啓信訳注/角川ソフィア文庫/平成21年
「新訂・古事記・付現代語訳」武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説/角川文庫/昭和52年
「葛城の王都・南郷遺跡群」坂靖・青柳泰介/新泉社2011年
「葛城忍海の歴史を歩く」葛城氏歴史博物館/2023年
「葛城の考古学」松田真一編/八木書店/2022年
「増補版・海を越えたつながり・倭の五王と東アジア」堺市博物館/令和3年)
「日本城郭体系第10巻」新人物往来社/昭和55年
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
文中の地図は別記なければグーグルマップです。
投稿日:2026/07/08
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
大坂の地名は、この神社と近くのもう一つの穴虫大坂神社に残っています。両方とも式内社です。吾田媛と関連させたいところですが、10世紀では新しすぎる。吾田媛は3~4世紀。
-
神社の由緒書きにも吾田媛由来のものはありませんでした。葛城の歴史は古事記や日本書紀にとっても昔の話で、神話からやっと一歩進抜け出たところ。
-
黒〇が大坂山口神社。このあたりが古代大坂です。
赤〇が崇神(すじん)天皇の磯城瑞籬宮(みずかきのみや)桜井市の北です。
青〇が祝園神社。
真ん中に〇がいくつかありますが、現在の東大寺あたりです。そんなものができるより、350年ほど前のことです。 -
磯城瑞籬宮は「崇神天皇磯城瑞籬宮趾」という石碑が立っているだけです。JR桜井駅から徒歩30分くらい。三輪神社のすぐ近くです。
-
現在は「志貴御縣坐 (しき・みあがたに・ます)神社」という神社です。歴史文献初出は730年の「大和国正税帳」だそうです。10世紀の式内社がどうのというレベルではなく、3-4世紀にルーツをもちます。
-
無人でした。観光客向けではなく、石碑以外崇神天皇を偲ぶものは何もありません。百パーセント歴史オタク向けです。
-
拝殿と、
-
その奥の本殿。
鉄柵があって、正面に回れません。何回も建て直されているのでしょう、それほど古いものではありません。 -
磐座(いわくら)
祭祀の場ではありますが、詳しいことは分からないそうです。
説明版を書き起こします。
★
古代の祭祀趾
「磐座」
古代の時代、神を依代とした磐座に降臨を願い祭祀を行っていました。磐座が四つ一直線に並んでいる珍しい形態をなしています。
★ -
ここで思い出したのは、大分県宇佐市安心院(あじむ)町の妻垣(つまがき)神社の元宮。撮影2021年。
-
これ一つで「足一騰宮(あしひとつ・あがりの・みや)という神社です。
説明は長くなるので↓をどうぞ。
「諸国寺社旧跡めぐり 豊前国4 妻垣神社、足一騰宮と松本清張」
https://4travel.jp/travelogue/11741584
これも磐座です。
日本の祭祀の場の最も古い形です。
一書に曰く
磐座って、なんでしょうね。
日本人は、大きな岩に、神性を感じるってことだったのでしょうか。
現代でも、和風庭園には、きっと岩があります。
私の母の実家の庭には、大岩がごろごろ置いてありました。
幼い私は、夏の暑い日、その岩の上で、よく昼寝しておりました。
大きな背の高い岩の後ろに、ちょうどよいへらべったい岩があって、ひんやりして、余所からは見えず、いい場所でした。
安心院の妻垣神社の神主さんは、母の故郷と同じ言葉を話されました。
そして、山の斜面にごろごろ置いてある大岩を拝んだ時、母の実家の庭に思いは飛びまして、恐れ多いことですが、懐かしく思ったものでした。
By妻 -
志貴御縣坐神社というより、磯城瑞籬宮のルーツという感じです。3-4世紀というと祭政一致、この磐座の前で大王が政治の決断をしていたという雰囲気です。
三輪山に三方をふさがれ、地図でみてもそれほど広いものではなく、大きな建物を並べられる地形ではありません。
天武持統朝の飛鳥浄御原(あすか・きよみはら)宮以前の天皇宮はみんな小さかったようです。
私たちが見てきた推古天皇の豊浦宮は、現在の向原寺を中心に、南北は分かりませんが、東西は甘樫丘と飛鳥川に挟まれていますから、せいぜい100m。小墾田宮(おはりだのみや)だって、バスの折り返し場の周囲ですからね。
敏達天皇(在位6世紀後半)の訳語田幸玉宮(おさだ・さちたまの・みや)は、7世紀に大津皇子宮となり、さらに南北朝時代14世紀地元の豪族戒重(かいじゅう)氏が、跡地に城を造ったので規模がほぼわかります。東西220m×南北235mです。(「日本城郭体系第10巻」P387)
この時代の天皇は全国の豪族の連合体のトップですから、全国の統治機構、つまり大規模な官僚制をもつ必要がありません。
7世紀の天武持統朝になって律令制で全国支配をもくろみました。官僚機構が必要になって、飛鳥浄御原宮は1000m四方くらいあったようです。
それでも狭いというので、藤原京に引っ越しました。
この崇神天皇の磯城瑞籬宮もそうですが、後世の城と違って歴代天皇の宮は、防御施設が全くありません。つまり敵に攻められるということを想定していないのです。古代のヤマト盆地は平和だったのです。
城のかわりに古墳をのんきに造っていた。
古代、天皇宮を大規模な武力で襲おうとした豪族はあまりおりません。そのうちの一組、それが今回の主人公、吾田媛とその夫の武埴安彦(たけ・はにやすひこ) -
ことの発端は天香久山でした。
以下現代語訳日本書紀崇神天皇より、P126あたり。
崇神天皇の四道将軍の一人大彦命は、遠征の途中で不思議な少女から不思議な歌を聞きます。
★御間城入彦(崇神天皇)よ、あなたの命を殺そうと、時をうかがっていることを知らないで、若い娘と遊んでいるよ。★
大彦は引き返して報告しました。天皇の姑(おば)、倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・もも・そ・ひめの・みこと)によると、
★これは武埴安彦(たけ・はにやすひこ、孝元天皇の息子)が謀叛を企てているしるしであろう。聞くところによると、武埴安彦の妻吾田媛(あたひめ)がこっそりきて、倭の香久山の土をとって、領巾(ひれ、女性が襟から肩にかけたきれ)のはしに包んで呪言をして、「これは倭の国のかわりの土」といって帰ったという。これでことがわかった。速やかに備えなくてはきっと遅れをとるだろう。★
「これは倭の国のかわりの土」倭の代表の土、それを持って帰る、つまり天皇にとって代わるという意味になるそうです。
この部分がよく分からなくて、岩波の書紀を読んだら、頭注に香久山の土を盗み取ることは倭の国を盗み取ることになる、と書いてありました。(P200)
東征の最終段階、神武天皇は宇陀で、ヤマトを目前にして苦戦しました。
★夢に天神が現れ教えて言われた。「天の香久山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祇をお祀りせよ。また身を清めて行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう。★
★手前(弟猾、おとかし)は天皇のために案じます。今、天の香久山の赤土をとって平瓦をつくり、天神地祇をお祀りください。それから敵を討たれたら討ち払いやすいでしょう。★
(P98)
天皇はその通りにしました。
★天皇は前年の秋9月、ひそかに天香具山の埴土を取り、沢山の平瓦を造り、自ら斎戒して諸神を祀られた。そして天下を平定することができた。★
(P106)
香久山の土は神武東征の締めくくりのキイポイントだったのです。
だからその土を盗むというのは、国を盗むということになるのか。
なるほど、よく分かりました。
一書に曰く、
武埴安彦という名前、武は、強いということですから、これは男性に与えられる一般的な美称です。
埴からが、この人物の個性を表していると思われます。
埴、埴土となれば、よくわかります。この人は、土器を焼くのに関係した人だったのですね。
すると、妻である吾田媛が、香久山の土を取ったということも、香久山の土は、陶土だということなら、納得できます。
古代において、古墳の埴輪つくりにも、また生活に必要な器つくりにも、陶土は、必要だったし、貴重だったのではないでしょうか。
そこらの泥団子で、埴輪はできないのです。
香久山は、いい陶土が取れる山だったのです。
香久山は、香具山とも書きます。
古墳の円筒埴輪は、火を燃やしてかがり火にしたと言われております。
古墳での祭祀を行うとき、よい香りの草木を燃やしたのではないか。
そういう香材を燃やす器を作る土の山。
それが香具山でした。
By妻 -
飛鳥旅で香久山近くは何回車で通ったか覚えていません。
この道路の先から登ってきました。
神社は山のてっぺんにあると思っていましたが、意外に麓にありました。ここから先も車で行けるようでした。道が細そうでやめました。恐るべき奈良の細い道。
一書に曰く、
ヤマトに行って、大和三山に行かないことがあろうか?
あるんですねえ。
by夫は、目的に直進する人ですから、いかに近くに何があろうとも、ただ今の目的に関係なければ、無視です。無視。
ということで、何回大和に行こうが、香久山も畝傍も耳成も、見るだけでした。
なんなら、フォルムの違いがわからないby妻に至っては、三山の違いが分からない。
わかるのは、二上山だけ。
大和三山は、地図を見て、ここから見えるのだから、、、とかいうばかり。
情けない。
ということで、来てみました。
香久山。
よい神社でした。
大人気の大スターが、話してみたら、さっぱりしたいい人だったって感じ。
畝傍、耳成にも行ってみたいです。
あ~、また来なきゃ。
By妻 -
有名な割には皆さん来ていないようです。
-
参道の奥には、
-
質素な拝殿と、
-
その奥には本殿。
8世紀には神社があったことは間違いないようですが、くわしいことは分かりませんでした。
神武天皇のとき「天の香久山の社の中の土を取って」と書紀に出てきます。これは書紀の創作でしょうが、書紀の成立以前かなり古くから神社らしきものがあったことは間違いないようです。たかが10世紀の延喜式神明帳が口出しするレベルではないのです。
吾田媛のときは「倭の香久山の土をとって」です。社は出てきません。 -
いずれにしても香久山の土は古代倭成立の鍵になる、きわめて重要なものでありました。
それに関係あるかどうか分からなかったのですが、拝殿の前の露出した土、なにか由来があるのでしょうか。 -
吾田媛武埴安彦挙兵
▲▲▲▲▲▲▲▲▲
崇神天皇の時代に戻ります。
倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・もも・そ・ひめの・みこと)の予言にしたがい、崇神天皇側は準備を整えました。
すると予言通り吾田媛、武埴安彦は兵を挙げました。
武埴安彦は現在の奈良市の北、木津川南岸で気勢を上げたようです。直線で30㎞くらいあります。
書紀は夫婦どちらが先に挙兵したか書いていないのですが、夫が先のはずです。ここで大いに騒いで、天皇側の兵を北に釣り上げる作戦でした。陽動作戦です。
崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずかきのみや)が手薄になったところを、大坂から妻の吾田媛軍が突っ込んでくる。直線で15㎞です。
この時代難波から葛城への通路は穴虫峠越えで、そこから東の飛鳥へは道路が整備されていました。崇神天皇が気付いて兵を戻しても間に合わないという、理にかなった作戦です。
この作戦を予想していた天皇側は、ただちに軍勢をおくりました。
以下現代語訳日本書紀P126-127。
★そのとき天皇は五十狭芹彦(いき・せりひこ、吉備津彦の別名)を遣わして吾田媛の軍を討たせた。大坂で迎えて大いに破った。吾田媛を殺してその軍卒をことごとく斬った。★
戦場は大坂ですから、迎撃どころか、一気に吾田媛の本拠に攻め込んだのです。
一方武埴安彦には大彦と彦国葺(ひこくにふく)を差し向けました。両軍はまず平城山で戦い、ついで木津川を挟んで挑みあいました。
★そこで先に射ることを争った。武埴安彦がまず彦国葺を射たが当たらなかった。ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸に当たって殺された。★
ここに数々の地名伝説が書かれております。
奈良
★官軍が多数集まって草木を踏みならした。それでその山を名づけて奈良山とよんだ。★
現在でも地面を平らにすることを「ならす」といいます。同じ語源だそうです。官軍云々はこじつけですが、「奈良」の語源としては、「ならす」説が専門の学者には支持されているそうです。
泉川(木津川)
★また奈良山を去って輪韓(わから)河にいたり、埴安彦と河をはさんで陣取りいどみ合った。それでときの人は改めて、その河を挑(いどみ)河とよんだ。今、泉(いずみ)河というのはなまったものである。★
祝園(ほうその)
★(埴安彦が討たれたあと)その部下たちはおびえて逃げた。それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍が溢れた。そこを名付けて羽振苑(はふりその、屍体を捨てた場所、今の祝園)という。★ -
祝園神社です。
〒619-0241 京都府相楽郡精華町祝園柞ノ森1 -
8世紀には存在が確認できる神社だそうです。
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神社の伝承によると、神護慶運4年の創建です。西暦770年、称徳天皇の時代ですが、そろそろ道鏡の弓削一族が目立ち始めたころです。
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拝殿です。
-
鈴が拝殿の内部にあります。変わったつくりです。
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三つの鈴から鈴緒が垂れておりました。
-
この神社には「いごもり祭」という行事が伝えられています。
精華町のホームページによると
★祝園神社は、崇神天皇に敗れた武埴安彦(たけはにやすひこ)の亡魂を鎮めるため、春日大明神を勧請して創立したと伝わっており、正月に行われる居籠祭(いごもりまつり)は、奈良時代の起こりと伝えられる神事で、「音無しの祭」ともいわれる天下の奇祭として京都府の無形民俗文化財の指定を受けています。★
詳しくはこちら、
祝園神社の「いごもり祭」/精華町
https://www.town.seika.kyoto.jp/kakuka/shogai/1/kannkoubunnka/2/3713.html
やはり武埴安彦が祟ったようです。 -
神社はそれほどの高台ではないのですが、神社の西側が急な崖になっておりました。不思議な地形です。私は気が付きませんでした。
これはby妻が撮った写真です。2人で写真を撮ると、こういうのも見逃しません。
いごもり祭の1日目の非公開の祭り「風呂井の儀」が行われるのが、ここらしい。
詳しいことはわかりません。
はふりその、屍体を捨てた場所、というのはここではないか。
ここは書紀原文で「羽振苑(はふりその)」古事記でも「破布理科曾能(はふりその)」です。「屠る」を連想してしまいます。「風呂井の儀」とはここで犠牲になった武埴安彦とその兵士たちを鎮魂するものではないのかと、思うのですが。 -
神社の南300mくらいの住宅地の一角に「いずもり」があります。
「崇神帝十年役 武埴安彦破斬旧跡」という石碑が立っています。
何やら燃えた跡があります。「いごもり祭」で使われた青竹と各家のしめ縄を燃やした跡らしい。撮影は2月の半ばですから、まだ今年の祭りのあとが生々しく残っておりました。
「樟葉」「加和羅」
★(羽振苑のあと)またその兵たちが恐れ逃げるとき、屎(くそ)が褌(はまか)より漏れた。それで甲(よろい)を脱ぎ捨てて逃げた。逃れられないことを知って、地に頭をつけて「我君」(あぎ、わが君お許し下さい)といった。時の人はその甲をぬいだところを加和羅(かわら)という。褌から屎が落ちたところを屎褌(くそばかま)という。今、樟葉(くすは)というのはなまったものである。★
いつの時代も勝者は敗者に残酷です。
「加和羅」は現在の京都府京田辺市河原付近だそうです。祝園神社から木津川に沿って北、現在では徒歩7㎞くらい。
楠葉は大阪府枚方市楠葉。楠葉駅まで祝園神社から18㎞あります。「楠葉」は書紀漢文の表記です。
(地名考証は岩波の日本書紀P246頭注)
なお、継体天皇は一時期ここに宮をおいたことになっています。
★(継体元年)1月12日天皇は河内国交野郡(かたの・ごおり)葛葉(くずは)の宮(現在の大阪府枚方市楠葉)においでになった。★
(書紀上348)
書紀では継体朝以降の年代はほぼ正しいと言われます。継体元年は507年に相当します。
武埴安彦軍の敗北を4世紀初めの史実とすると、約200年後です。天皇宮を置くにはややバッチイので、屎褌(くそばかま)という地名伝説を疑いたくなります。
楠葉は8世紀初頭の書紀成立以前に遡る古い地名であることが分かりました。継体紀が史実ならば6世紀、崇神紀だと4世紀ということになります。
枚方市のホームページをさがしてみましたが、地名の由来は出てきませんでした。まあ、あんまり表ざたにしたくない地名ではあります。
一書に曰く、
埴安彦は、こてんぱんに負けたってことですね。
祝園神社は戦いのむごさ、おぞましさを、語り伝えているのです。
これこそ平和祈念の神社です。
神社のつくりは、きっと、一つ一つに、いわれがあるのでしょうが、それを教えて頂くにも、どなたもいらっしゃらなくて、まことに残念でした。
そして、いごもり祭。
音を立てないというので、すぐに出雲大社の神迎祭を連想しました。
が、ここのいごもり祭は、戸の開け閉めの音さえないように開けっ放し。
それどころか、牛馬は、遠くに預けるほどの無音の夜にするそうです。
犬ネコも、同じなのでしょうかね。
そして、絶対秘儀の風呂井の儀。
これが、申の日から始まる決まりだとか。
なぜ申?猿田彦と関係ある?
とか考えると、
もう、わっくわく。ドッキドキ。おめめギンギン。
でも、残念。今は昼間で、今の景色はなんの変哲もない村の鎮守様ふう。
こんな普通の神社で、実は、なぞに包まれているなんて、人は見かけによらない。
By妻 -
崇神記の吾田媛に戻ります。
★そのとき天皇は五十狭芹彦(いき・せりひこ、吉備津彦の別名)を遣わして吾田媛の軍を討たせた。大坂で迎えて大いに破った。吾田媛を殺してその軍卒をことごとく斬った。★
香芝市大坂には吾田媛に由来する神社、地名などはありません。
ひとつだけ香芝市のホームページ、
香芝の伝説 - 香芝市公式ホームページ
https://www.city.kashiba.lg.jp/soshiki/5/4163.html
に穴虫西に伝わる伝承として、つぎのようにありました。
★昔、崇神天皇の頃、夫婦そろって謀反をおこした人があったといいます。夫の名は武埴安彦といい、山城の国からその妻の吾田姫(あだひめ)は大坂から大和の三輪の都をおとさんとしたそうです。天皇は五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)を遣わして伐たれた。五十狭芹彦命は、吾田姫の軍をさえぎって大いに破り、姫はこの穴虫峠で命を落としたと伝えられています。★
穴虫西はバス停や「穴虫西公民館」などの地名に残っています。大坂山口神社の近くです。穴虫峠まで3.4㎞です。
峠まで行ってみましたが、なにもありません。
一書に曰く、
女性で、軍を率いて戦うと言えば、神功皇后。立花千代(ぎんちよ、1569-1602、秀吉の時代の九州の女性武将)、巴御前も、実は軍を率いたそうですね。
巴さんは、個人的に強い人で、言ってみれば、吉田沙織さんかと思っていたら、女性版の森保監督だったんだって。
千代さんも巴さんも美人で有名でした。
選手なら、顔の美醜をとやかく言うだろうけれど、監督の美醜は関係ないのかと思っていたのは、森保さんのせいなのか。
いやいや、森保さんだって充分可愛いけれどね。
率いた軍は、男性だったのだろうか、それともアマゾネスみたいに女性だけの軍だったのだろうか。
一族を挙げての戦いなら、女性だって、若くて健康なら、武器を持って戦ったかもしれません。
戊辰戦争の時の会津の女性たちも戦いました。
また古来日本には、うわなり討ちと言って、前妻が後妻を襲うという習俗があったとか。すべて、女性だけでの戦いで、武器も箒や台所用品とかの制限があったらしいですが、大将をつくり、作戦を立てての戦だったと聞きます。
ギリシャ神話では、アマゾネス軍団以外、女性は戦いません。
ヘレネという、絶世の美女は、トロイ戦争を引き起こしながら、何度も何度も結婚を繰り返し、流されて生きてゆきます。
対して日本の戦いに翻弄される美女代表の、織田信長の妹、お市の方も、いろいろあったにしろ最後は柴田勝家との最期を選びます。
自分の始末をつけたのです。
潔いです。
これが日本人ってことですかね。
By妻 -
この先大阪に下ります。
-
こっちが香芝。
-
「あなむしとうげ
こせんきょう」
の石碑がなければ、ここが穴虫峠であることも分かりません。
峠の旧道があるらしいのですが、歩いてみたかったなあと思います。
香久山の土を領巾に包んで、武埴安彦の乱の口火を切った葛城の女将軍の最期は、これ以上分かりませんでした。
武埴安彦に比べて下品な地名伝説などはありません。
勇者は勇者を知るといいます。桃太郎のモデルと言われる吉備津彦、敵とはいえ最後まで勇敢に戦った吾田媛とその兵士に敬意をもって、遺体をどこかに丁重に葬ったと解釈することにいたしましょう。
一書に曰く、
吉備津彦は、桃太郎ですからね。
だとしたら、吾田媛は、、、鬼?
あら、吾田媛さんは、ラムちゃんなのね。
ダーリン、頼りなかったものね。だから負けちゃったんだ。
吾田媛さん、なんで負けたんでしょうね。くやしい。
その古戦場なのに、ひどいです。ただの道路以下の、ゴミだらけの汚い峠でした。
もちろんなんにも、それらしいことを示すものはなし。道路わきに車を停めて、歩いてみますが、道路わきは、草ぼうぼう。ごみだらけ。
しつけのゆきとどかない野良犬みたいなヤツが、運転席の窓からポイって、ゴミ捨てるんだな?
だめだぞー。ごみ捨て禁止!
あの凛々しくも悲しい、吾田媛さんの最期の地なのに。
ああ、もう、吾田媛さん、祟ってやれ!
箪笥の角に小指ぶつけろ!
By妻 -
峠から香芝に下ってすぐ左にあったお祠、地蔵さまだそうです。
吾田媛さんによろしく伝えてくださいとお祈りして、峠を下りました。
一書に曰く、
吾田媛は破れました。勝者は崇神天皇、ヤマトトトヒモモソ媛でした。
舌かむようなお名前。
余りに長くて、早口言葉みたい。
「なまむぎなまごめなまたまご」のノリで、練習しちゃいました。
今や、by妻ちゃん、特技です。
何、ただ、ヤマトトトヒモモソヒメって、いえるだけですけどね。
吾田媛さんは、この人に負けたんだー。
イメージとしましては、吾田媛さんは、お若い。対してモモソさんは、白髪のおばあさん。
呪力が違う呪力が。とか言ってそう。
By妻 -
崇神天皇紀に不思議な物語があります。
この古墳は箸墓。撮影は2021年。
築造当初は葺石で覆われていたそうです。
宮内庁により武埴安彦・吾田媛の乱に勝利した立役者、倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・もも・そ・ひめの・みこと)の陵と治定されております。現在この説を支持する学者はほとんどおりません。
長いし読めないので「やまと・ととひ」さんとします。
書紀によれば、
★その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造った。山からは墓に至るまで、人民が連なって手渡しにして運んだ。★
(書紀上129)
葺石の現物はこんなもんです。撮影2021年。 -
堺市の博物館でみた本物です。仁徳天皇陵から大量に発掘されました。
触れます。 -
私も持ってみました。5㎏くらいかな。人が一列になって手渡しできます。10リットルのバケツでバケツリレーをしたら半分くらいこぼれて、そんなものでしょう。戦時中の消火のバケツリレー、祖母や母の話しには聞いたことはあります。
-
それを敷き詰めるとこうなります。
石運びはもしかすると本当にやったかもしれない。川原石くらいの大きさです。西2㎞くらいには大和川が流れています。その先は大坂。
書紀の作者が言いたかったのは、武埴安彦・吾田媛の本拠地大坂から人民が運んだのは、反乱の情報ではなかったか。やまと・ととひさんは大坂に情報網をもっていた。今日日インテリジェンスとか言うそうです。
つまり二人の反乱計画のインテリなんとかは、やまと・ととひさんに筒抜けだった。
武埴安彦が北方で兵を挙げたとき、崇神天皇は形ばかりの軍勢を送った。だから奈良山や木津川でかけごえだけの挑み合いばかりしていた。
同時に、崇神天皇は温存しておいた主力全軍を大坂に送った。大坂から三輪を急襲できるのは、逆もまたしかりなのです。
結果は、
★そのとき天皇は五十狭芹彦(いき・せりひこ、吉備津彦の別名)を遣わして吾田媛の軍を討たせた。大坂で迎えて大いに破った。吾田媛を殺してその軍卒をことごとく斬った。★
吾田媛軍は一瞬で全滅です。
その後ほぼ無傷の主力を木津川に回せばいいだけです。
4世紀のヤマトの女の戦いは、やまと・ととひの霊力の圧勝に終わりました。
霊力などというのは建前、実際には当時のヤマトの豪族たちは崇神天皇の情報網に恐れおののいたのではないか。これなら理解できる。
「何やってもすぐばれる!」
その後、崇神朝の天下が続きます。
記紀に書かれる神武天皇から2代綏靖‐9代開化まで8人は、実在しない天皇、闕史八代といわれます。崇神天皇でやっと実在したかもしれない。それでも4世紀の崇神朝に先立って、3世紀半ばには崇神朝とは別の王朝が巨大な箸墓古墳を作ったのは考古学的事実です。
箸墓古墳は卑弥呼のお墓ではないかと言われておりますが、この際だれでもかまいません。
その先代王朝の生き残りが武埴安彦と吾田媛で、リターンマッチを試みたとすると、話の筋はたちます。
破れたりとはいえ、ヤマトの大王に戦いを挑んだ吾田媛さん。
古代、巫女でもある女が甲冑をまとい、戦さで陣頭に立つのは珍しくなかった。勝った例が神功皇后。負けた例が吾田媛。
日本の女はやるときはやるのです。
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