2026/02/05 - 2026/02/14
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しにあの旅人さん
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By妻さん、お待ちどうさま。
御ひいきの磐之媛太后(いわのひめの・おおきさき)の登場です。
仁徳天皇の皇后です。ヤキモチで有名です。あまり評判よくありません。
しかし夫が自分の留守中に妾を家に入れたのはけしからんと、現代なら当たり前のことを言っております。
5世紀の葛城にどうしてこういう現代的な女性があらわれたのかな。
一書に曰く、
私は、この人が大好きで、奈良、飛鳥の旅が、どんどん歴史をさかのぼってしまったのは、この人のせいなのです。
ギリシャ、ローマ神話なら、オリンポス12神から英雄たちの話になったところでしょうか。
ヘラクレス、ペルセウス、アキレス、オデュッセウス、、、
日本にも、真実と神話とが混ざった時代があったのです。
欠史八代に次ぐ時代。
第十代崇神天皇のとき、前回の吾田媛は生きました。
ギリシャ神話のトロイ戦争は、本当にあったらしいですね。
トロイの木馬はあったのです。
日本でのそういう時代。
英雄時代。
磐之媛太后は、第十六代仁徳天皇の皇后として、日本の英雄時代を生きた女性でした。・
By妻
仁徳天皇の本名は、大鷦鷯天皇(おほさざきの・すめらみこと)。淡海三船さんのお世話になって、ここでは仁徳天皇といたします。
「天皇」という称号も後世のものです。当時は「大王」らしいのですが、まあいいということで。
参考書は「葛城縦の旅1」に並べました。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
文中の地図は別記なければグーグルマップです。
投稿日:2026/07/24
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
御所市、南郷遺跡群を見下ろします。葛城氏一族の本拠地です。
磐之媛は、葛城氏の祖、葛城襲津彦(かつらぎの・そつひこ)の娘としてこのあたりで生まれました。
その後仁徳天皇の皇后となります。この天皇は実在の天皇と推定されており、在位は4世紀末~5世紀前半だそうです。
磐之媛もこのころの人物ということになります。
ここにやってきたのは2月9日、雪でした。この坂を下れば遺跡群のひとつ極楽寺ヒビキ遺跡です。しかし、下ったら、二輪駆動の車では上がってこられないでしょうね。
あきらめることにしました。 -
県道30、五条市方向。
-
葛城市方向です。
道路は凍っていて、冬タイヤではありましたが、カメも驚く徐行運転でした。
葛城って、こんなに雪が降るところだとは知りませんでした。
8日の飛鳥も雪でした。でも道路はこんなアイスバーン状態ではありません。この黒い部分が曲者ですよね。12㎞くらいしかはなれていませんが、このあたりの気候はかなり違うようです。
後年磐之媛は現在の京田辺あたりで故郷を懐かしがります。
★山城河を遡ると、奈良を過ぎ、私の見たいと思う国は、葛城の高宮のわが家のあたりです。★
(書紀上P239)
その高宮がこのあたりです。 -
遠景はたぶん橿原あたり。
-
一書に曰く、
磐之媛太后は、万葉集の巻二の巻頭の歌の作者です。
巻一の巻頭は、雄略天皇のお歌です。
巻三は柿本人麻呂。巻四は、諸説あり。巻五は、大伴旅人と続いてゆきまして、第二十巻の最後は大伴家持の
新たしき年の初めの初春の 今日降る雪のいやしけよごと
で終わります。
巻四の巻頭の歌も、実は、磐之媛さんに関係あります。
難波の天皇への恋歌なのです。
難波の天皇は、孝徳天皇かもしれませんが、仁徳天皇かもしれないのです。
だとしたら、仁徳天皇の妹が、皇兄に詠った歌だそうですから。
妹を、そのまま妹と解釈するか、いも と読んで妻ととらえるかで作者が変わるらしいです。
いも なら、磐之媛太后なのです。
すごいでしょう。
磐之媛太后の恋は、万葉集巻頭歌に二首も!
さて、万葉集が、なぜ雄略天皇から始まっているのか?
それは、彼が、雄略だったかららしいです。雄なのですね。
雄々しく、激しい人なのです。
略は?この際聞かないでください。
万葉集作った人は、激しい人をトップに置いて、まあまあ まあ。ということだったらしいです。
ということで、磐之媛さんも、なだめなくてはならない人だったのですね。
強い人だった。
この女性は、夫が自分以外の妻を娶ることを許さないひとでした。
夫である仁徳帝は、それでも姑息な手段を用いて、なんとか複数の妻を得ることになります。
民の竈はにぎわいにけり。とかいいながら、いいおんなを探していたのかもしれません。
彼女は、そのことを、決して許しませんでした。
そのいきさつが、彼女を、歴史に残る烈女と呼ばせることになりました。
By妻 -
宮山古墳
▲▲▲▲
半分雲に隠れているのが葛城山。あの中腹あたりから下りてきました。 -
南郷遺跡をあきらめて、室(むろ)宮山古墳にやってきました。
全長238mの大きな古墳で、葛城では最大、全国でも18番目の規模です。
被葬者は葛城襲津彦(そつひこ)と言われております。磐之媛の父親です。4世紀~5世紀前半に、実在したことが確実な人物です。 -
上の2枚をつなげると、北側からのほぼ全景です。
この道路から入ると古墳を一周できます。このころまでに奈良の狭い道路の怖さを思い知っていましたので、やめました。
古い奈良はとにかく歩く。
一書に曰く、
こんな立派な陵に、祀られるということは、磐之媛さんのお父さんは、
お金も権力もあった。
彼の名前は、「百済記」に似た名前があることが知られております。
葛城襲津彦という人は、武内宿禰の息子ということになっております。
武内宿禰は、かの神功皇后に仕えた人です。
神功皇后は、第十四代仲哀天皇の皇后です。
仲哀天皇はあのヤマトタケルの息子なのですね。
(こうやってみると、仲哀さんて、とうさんは英雄、妻も英雄。結構つらい立ち位置でしたねえ。)
武内宿禰は、景行天皇から仁徳天皇まで五代の天皇に仕えた忠臣とされる人物です。
景行天皇は、ヤマトタケルのおとうさん。仁徳天皇は、磐之媛さんの夫。
なんじゃこれ?
ですよね。
300年生きたそうですよ。
へえ。
それよりも、仁徳さんに仕えたのなら、襲津彦と、親子で働いていたってこと?
考えられることは、武内宿禰というのは、代々襲名されていた。
第十三代目団十郎みたいに。
磐之媛さん、おとうさんばかりか、おじいさんも超有名人。スーパーヒーロー。
カネと権力と名誉を持った家の娘でした!
これほど皇后にふさわしいお嬢さんはいないでしょう。
この家がバックに着くかどうかで、次期天皇レースは決まったにちがいありません。
一人の男が、いかに頭脳明晰であろうとも、武力に優れようとも、実行してくれる人間がいないと、何にもならない。
沢山の人を動かすには、お金が必要、体制が必要です。
夢ばかりで成功するなら、五歳児でもできるわ!
それらを、嫁さんに持ってきてもらって、成功した、、、と。
茨田堤も難波の堀江も、お金が必要だったのではないですかね。
もちろん技術も。
仁徳さん、おひとりの力だったでしょうかね。
なのに、天皇の位を手に入れた夫のしたことは、裏切りでした。
許せなかったのは、愛ゆえでしょうか。我とわが実家の献身を踏みにじられたという憤りだったのでしょうか。
いずれにしても、他人は、その怒りに、嫉妬という名前を付けました。
こうして磐之媛太后は、嫉妬深い女性として、歴史に名を残したのであります。
By妻 -
リターンマッチ
▲▲▲▲▲▲▲
26年6月、性懲りもなくやってきました。 -
今回は少し賢くなって、京奈和自動車道の御所南パーキングエリアに車を停めて歩きました。徒歩20分。
-
葛城山をバックに、右が室山古墳。左は古墳ではないようです。このあたりは巨勢山古墳群と言われ、小古墳が連続しています。
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前方後円墳の円墳部分を東から見ています。
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裾野までたどり着きました。
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現在は八幡神社があります。
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この先は恐怖の細い道と深い側溝が待ち構えているはず。
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八幡様の向かって左に、
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宮山古墳への登り口があります。階段がよく整備されていて、しかもそれほど長い登りではありませんでした。
-
古墳頂上は平でした。ここに竪穴式石室が2基南北に並んでいます。
これは南側石室。北側は未発掘。
私は竪穴式石室というのはもっと深い穴を掘るのかと思っていましたが、石室に棺を納め、その上を厚い石の板5枚で覆い、土をかけただけでした。
発掘時にはその上に大型の家型埴輪などが置かれていたそうです -
現地案内板より。
そのうちの一つが板状の柱を持つ家状埴輪。あとで出てきます。 -
現地説明版です。書き起こします。
★
雄大な長持形石棺
後円部に2つある主体部のうち、この南側の竪穴式石室には豪壮な長持形石棺が納められている。
長持型石棺は5世紀の大王墓級の古墳のみが採用できた石棺で、宮山古墳被葬者の当時の権勢の大きさが偲ばれる。
この石棺の石材は遠く兵庫県の加古川流域から運ばれた竜山石で、底板
1枚、側石2枚、蓋(ふた)石1枚の計6枚で構成され、全面に朱(しゅ)が塗られている。
蓋石の頂部には8区画亀甲形の装飾が彫られ、各辺には2個づつの縄掛突起がある。棺蓋の長さは、縄掛突起を含めると3.77mあって、稀にみる雄大なものである。側石の縄掛突起や小口石の方形の装飾突起2つにも注目してほしい。
この長持形石棺は、竪穴式石室に収められたままの状態で見学できる、全国でも唯一の貴重な資料である。
★ -
石棺の一部が露出しています。
-
「小口石の方形の装飾突起」
-
発掘時の長持型石棺。現地案内板より。
-
靫形埴輪。複製品。
南石室の東側から発掘されました。靫(ゆぎ)は矢をいれて背負う武具です。高さ1.43mの巨大なものです。 -
発掘された埴輪の解説。
その一部。
★
後円部にある南北2つの石室をそれぞれ長方形に取り囲み、幾重にも埴輪が並べられた。主体部の周囲の埴輪列の状況がこれほど見事にわかった古墳はまれである。
石室の南側には入口を南に向けた5棟の家型埴輪が軒を接して並べられ、被葬者が生前に居住した館の壮大さを偲ばせる。その内側には靫・盾・甲冑といった武具形の埴輪が取り囲む。(中略)
その正面はいずれも外側を向いて置かれており、まさに聖域への侵入を防ぐかのようだ。生前の被葬者を護衛した親衛隊の武装状態を表現したものかもしれない。(後略)
★ -
配置図の拡大です。
→の位置に靫はありました。 -
発掘された埴輪です。現在は橿原考古学研究所附属博物館に所蔵されています。現地案内板より。
-
考古学的事実と書紀のまとめ
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
被葬者は葛城襲津彦とする説が有力です。
日本書紀に初めて出てくるのは神功皇后5年です。
書紀の年代を西暦に換算する方法はいくつかあります。その一つだと神功皇后5年は西暦205年になるそうです。
もちろんその年代と出来事が史実かどうかはあやしい。4世紀後半以降の倭の朝鮮半島進出は中国の史書などで実証できるそうです。いずれにしても神功皇后5年西暦205年は早すぎる。
それはともかく150年にわたって書紀に名前が出てくるので、一人の人物とは思えません。
ヤマトタケル東征と同様に何人かの人物の業績を一人にまとめたと思います。ヤマトタケルの場合は複数の東国開拓者の記録をまとめて、能褒野での悲劇に集約させ、英雄悲劇叙事詩を創作するという、書紀の編集方針がはっきりしています。
書紀の襲津彦の記事四つは全部倭国の朝鮮とのやり取りです。しかしつなげても襲津彦物語というようなものにはなりません。
特に神功皇后62年の記事では、石穴に入って自殺したことになっています。そのあとも同じ名前の人物が出てくるということは、書紀の編集者、おかしいと思わなかったのかね。
それでも同じ名で押し通したということは、歌舞伎みたいに初代、二代目と襲名したと解釈したか、対朝鮮特務大臣というような役職名だとしたのかも。
磐之媛の父親の襲津彦は、書紀に最後に出てくる襲津彦よりもう1,2代あとになります。
この時代葛城に大古墳を築くほどの有力豪族であり、対朝鮮外交を一手に握っておりました。
百済や加奈諸国から招聘した先端技術者集団を在来の倭人と融合させ、葛城南郷の本拠地や忍海(おしみ)に工業団地みたいなものをつくり、鉄器、武器、機織などの生産で利益をあげました。仁徳王朝の強力な同盟者でありました。
磐之媛はその葛城氏の娘として、仁徳天皇にお嫁入りしたのであります。
お嫁入
▲▲▲
古事記によると、
★大雀命(おおさざきの・みこと)は、難波の高津宮においでになり 天下を統治なさった。★
(P394 )
書紀だと、宮廷は同じ難波高津宮で、
★2年春3月8日、磐之媛命をたてて皇后とした。★
(P230)
難波高津宮はどこだかはっきり分かりません。現在の大阪城の近くだそうです。
仁徳天皇は、ウイキペディアでは在位394年-427年となっています。根拠はいろいろあるようです。
当時の結婚は早かった。396年ごろ15歳で皇后となったと推定します。4人の子を産んでいますので当時の平均寿命30歳より長く、35歳で416年、40歳で421年ごろ崩御ではないかな。紀記とも仁徳天皇より前に崩御したことになっています。
健康な人だったようです。
ちょっとぽっちゃりタイプで、色白でした。なぜわかるかって?
あとで。
美人でした。夫に愛されて4人も子供を産んでいる。
磐之媛は、自分は葛城と大王家の同盟の証として皇后になった。跡継ぎを4人も生んで、立派に妻としての役目を果たした、という女の誇りを持っていたのです。
この夫が浮気者でした。
これが後年八田皇女の件で、磐之媛を激怒させることになるのです。
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