2026/05/31 - 2026/06/04
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しにあの旅人さん
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「え! なにこれ?」と思ったでしょう。同志社大学京田辺キャンパスの一角にある岡で、筒城宮(つつきのみや)跡地です。
仁徳天皇と別居した磐之媛太后がここに住み、崩御したとされています。
磐之媛は浮気した仁徳天皇を決して許しませんでした。5世紀の日本の女性では類例のない硬い決意でした。
なんでこういう個性が育ったんだろう。
一書に曰く、
同志社大学京田辺キャンパスは、葛城とは全然関係ない京都府にありました。
ご存じのように、同志社大学は、キリスト教系大学ですから、キャンパス内は、いかにもなおしゃれな感じです。
明るく爽やかで、広々としていて、涼しい風が吹き抜けてゆきます。
そこを、黒ブレザー黒パンツの青年が、何冊かの本を抱えて歩いてゆきます。
えっ、うそだろ。学生なのにジーパンじゃない。
そのうち、電車でも着いたのか、かたまりになって、若者たちがやってきます。
皆さん、黒服。
そういう学生達の中に、わが磐之媛さんの最期の家はありました。
こんもりと木々に包まれた小山でした。
暑い日でしたが、森に入ると、風が吹き抜け、空気の澄んでおりました。
小山は、掃除も行き届いて大切にされておりました。
ありがとう、ありがとう。
磐之媛さんに代わって、お礼を言います。
By妻
参考書は「葛城縦の旅1」に並べました。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
文中の地図は別記なければグーグルマップです。
投稿日:2026/07/26
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線
-
筒城宮は6世紀に継体天皇が一時宮を置いた所としても、知られています。丘の上には継体天皇の石碑ばかりで、我らが磐之媛については、
-
残念ながら案内板のこの1行だけ。
お餅のメーカーは「焼き餅の碑」を建てて、磐之媛を顕彰すべきと思います。
女の誇り
▲▲▲▲
以下の年代は書紀の年代のままです。機械的に西暦に換算しても意味がありません。だいたい5世紀前半の出来事のようです。
★
(仁徳天皇)22年春1月、天皇が皇后に語っていわれるのに、「八田皇女を召し入れて妃としたい」と。皇后は承知されなかった。天皇は歌にして皇后に乞われた。
「私がはっきりと表明したいのはこんなことだ。予備の弦としたいのだから、本物が切れた時だけ使う(お前が差支えのあるときだけ八田皇女に逢う)のだから、八田皇女を迎えたい。」
皇后が答歌されて、
「衣こそ二重かさねて着るのもよろしいが、夜床を並べようとなさるあなたは、おそろしいかたですね。」
★
磐之媛は激怒したはずです。
自分以外の女に手をだすことそのものが許し難い。それに加えて「予備の弦」つまりスペアにすぎないと、八田皇女の人格を否定するようなことを平気で言っている。
仁徳さんはこれで磐之媛のご機嫌をとったつもりなのでしょうが、完全に彼女の性格を読み違えている。
「私は、女の誇りを大事にしろと言っているの。スペアなんだよと言われた八田皇女の気持ちはどうなるの?」
天皇がまたごちゃごちゃ言ってくると、
★夏の蚕が繭を二重着て囲んで宿るように、二人の女を侍らせるのは良くないですね。★
この時代の習慣である一夫多妻を認めないと言っております。
女の権利の堂々たる主張です。
天皇はまだ歌をよこしましたが、皇后はどうしても許せないと思い沈黙してしまいました。
皇后の毅然たる態度に「こりゃだめだ」と仁徳さんも思ったようです。
しばらくはおとなしくしていました。
(以上書紀上P236-237) -
一書に曰く、
磐之媛は、太后と書いて、おおきさき と読みます。
ただのきさきでは、ありません。
磐之媛は、実に四人の男の子を産み、そのうち三人が、天皇になっています。
これほどの栄誉はありません。
正妃という意味と、皇太后、つまり天皇の母という意味が、おおきさきにはあるのです。
当時の、有力豪族の女性として、最高の身分です。
断固たる決意
▲▲▲▲▲▲
いま、その女性が、ここ田辺キャンパスの小山にある屋敷の階の上から、仁徳天皇から遣わされた使者を見ております。
使者は、庭に伏し、地面に頭をこすりつけて嘆願しております。
雨が降っておりました。
どうかどうか、宮へお帰り下さい。
その姿から目をそらす磐之媛に、
どうかどうか。
もはや、声も枯れんばかりです。
耐えきれなくなった磐之媛は、裏に逃げます。
使者は、屋敷の裏庭にまわり、さらに嘆願するのです。
表から、裏へ、裏から表へ。何度も何度も、使者の嘆願は続き、磐之媛の拒否は続きました。
雨は激しさをまし、いつしか、庭に伏す使者の膝までつかるほどに成りました。
使者が着ている衣の紐の紅の染料が溶けて、庭は赤く染まったと申します。
結局、磐之媛は、もどりませんでした。
だって、天皇は、決して八田皇女をあきらめるとはいいませんでしたから。
その場所が、ここなのです。
日差しは、少し暑いくらい。風が吹く木陰は昼寝を誘うよう。
小鳥のさえずり。
なにもかも、すべて夢なのです。
浮気者、仁徳天皇
▲▲▲▲▲▲▲▲
仁徳天皇は、そういう性質だったのか、それとも、その時代の高貴なる男のおしごとだったのか、複数の女性とのあれこれがありました。
日向出身の美女、髪長媛にも子供がいます。
身分が軽かったから相手にされなかったのか、磐之媛の前に、輿入れしていたのか、もめておりません。
吉備の黒日売は、天皇に召し上げられたものの、磐之媛の怒りにあい、逃げ帰ります。船で帰るのを、磐之媛に、引きずりおろされて、陸路を歩かされたと伝えられております。
荒ぶる魂。
おそろしい。おそろしい。
なだめておかないと、なにされるか。
そして、八田若郎女です。
古代では、異母兄弟は、結婚できました。
この人は、磐之媛が亡くなってから、皇后になりますが、子供はいません。
仁徳さんは、なぜか異母姉妹に情熱を燃やしまして、八田若郎女のほか、女鳥王(めとりの・ひめみこ)にもいいより、宇治稚郎女とも結婚します。
自己愛が強かったんだろうか。それとも、単なる身内がためだったのか。
とにかく、結婚話が、姉妹ばっかり。
他の異母姉妹とは違って、女鳥王は、仁徳天皇を拒否した女性です。
天皇は、異母弟の隼別王(はやぶさわけの・みこ)に、結婚の仲介を依頼します。
女鳥王は、それを断り、逆に隼別王にプロポーズします。
その時、女鳥王は、機を織っていたとか。
先進技術者ですわ。
そして、二人は、駆け落ちをしてしまうのですが、そのとき女鳥王が、隼別王に言うのです。
あなたは、はやぶさでしょ。すずめなんてやっちまいな。
仁徳天皇の名前は、オオササギの尊。大きい雀なのです。
このエピソードは、なぜか鳥の名前ばかりなのですね。
鳥やさんの依頼で作ったお話なのかしら?
でも言っちゃうのです!
やっちゃいなよ!って。
ここにもいた。吾田媛の係累が!
これで勝てたら、神功皇后だったのだけれど。
二人は逃げて逃げて、宇陀の蘇邇というところで討たれてしまいます。
彼女も、葛城の女傑のひとりに間違いはないでしょう。
道理を貫く
▲▲▲▲▲
ここからなのです。
私が、磐之媛さんに、ぞっこんほれ込むのは。
かけおちした女鳥王と、隼別王の二人は、討たれてしまいます。
女鳥王は、王族ですから、それにふさわしいアクセサリー、腕輪を身にまとっていたのです。
それを、女鳥王を討った将軍が、女房のお土産にしたのです。
戦争に略奪はつきもので、将軍はなんの考えもなく奪い取ったのです。そして、その妻も、当然として受け取った。
戦いとはそういうものだから、戦利品は我がもの。
凱旋パーティに、妻は、つけて参加したのです。
それを見た磐之媛は、烈火のごとく怒り、ふたりを処刑してしまいます。
処刑しちゃったんです。
この事変の功労者を。
磐之媛が、女鳥王に同情的だったことは、疑いようもありません。
それでも、天皇の命令に背いた二人は、反逆罪ですもんね。
言っちゃってるし。
やっちゃえ!って。
それでも、
死者からむしり取るとは!
と、死者への尊厳を語る磐之媛さんは、現代的です。
21世紀からのタイムスリッパーではないかしら。
By妻 -
破局
▲▲
それから数年後磐之媛は船で、宮中での大事な儀式に使うのでしょう、紀の國熊野岬に三つ柏をとりに行きました。
すると、
★天皇は皇后の不在を伺って、八田皇女を召して大宮の中に入れられた。皇后は難波の渡りに着かれ、天皇が八田皇女を召されたと聞かされ、大いに恨まれた。採ってこられた三つ柏を海に投げ入れて、岸にとまられなかった。★
(P238)
そりゃ怒ります。夫の家の大事な宗教儀式の柏をとりに危険な船旅に出かけたのに、その留守に妾を家にいれた、ということです。
磐之媛の船は難波の入江を遡りました。
天皇は使いを出して皇后を呼び戻そうとしますが、
★
皇后は帰らないで、なおも進んでいかれた、山城河においでになって、歌われて、
「山城河を遡ってくると、河の曲がり角に立って、栄えている葉の茂った気は、立派でわが大君にそっくりである。」
★
夫を愛していないわけではない。でも許せなかった。
★
奈良山を越え、ふる里の葛城を望んで歌よみして、
「山城河を遡ると、奈良を過ぎ、私の見たいと思う国は、葛城の高宮のわが家のあたりです。」
改めて山城に帰って、宮室を筒城岡の南に造ってお住みになった。
★
天皇は自ら筒城宮に謝りに来ますが、磐之媛は会いません。
妻を愛してはいたらしい。
要するに多情な男だった。
歌を送りました。
★
「山城女が木鍬をもって掘り起こした大根のような、真っ白な腕を巻き合ったことがなかったならばこそ、私を知らないともいえようが。」
皇后は人を遣わし申し上げさせられて「陛下は八田皇女を入れて妃とされました。私は皇女と一緒に、后として侍ろうとは思いません。」といってどうしても会われなかった。
★
決別の言葉
▲▲▲▲▲
「私の見たいと思う国は、葛城の高宮のわが家のあたりです。」
単なる望郷の歌ではありません。
「私は葛城の娘だぞ」脅し文句です。
女の誇りとともに、大王家と対等の葛城の娘として、たかが前天皇の娘というだけで、なんの力も持たない八田皇女ごときと同列に扱われたくない、という決別の言葉であります。
この時代の大王というのは、有力豪族の連合体のトップです。葛城氏はもとも有力な同盟者でした。
これは仁徳天皇も無視できません。
そもそも妻のご機嫌をとりに別居先まで訪ねてくるくらいで、彼女の政治的重要性は知っておりました。
八田皇女が立后されたのは磐之媛の死後でありました。
大根腕
▲▲▲
ところで、現在では大根足というと女性はいやがりますが、この時代では大根腕「大根のような真っ白な腕」は誉め言葉だったようです。
大根だから細くはない。
磐之媛はちょっとぽっちゃりタイプで、色白だったのです。 -
葛城再訪
▲▲▲▲
5世紀にどうしてこういう現代的な女性が育ったのだろうか。
ふたたび葛城に行ってみることにしました。
2月に雪で諦めた南郷遺跡です。葛城氏の本拠地。
「?」と思われたのは無理もない。
遺跡巡りの旅は、実際に行ってみると、林、たんぼ、荒れ地、なにもないのが特徴です。案内板でもあれば飛び上がって喜びます。 -
その飛び上がった案内板。
-
地図の「現在地」近くからの写真です。
例によって何もない林。これが南郷遺跡ですって。
今回は東の国道24号から住吉神社を目指します。住吉神社は葛城氏とは関係ありませんが、駐車できるスペースがありました。 -
遺跡巡りでは晴天の慈雨ともいうべき駐車場。
「防犯」といいますが、その必要もないくらいののどかな田舎です。 -
神社の南に「極楽寺ヒビキ遺跡」があるはずですが、残念ながら確認できず。遺跡は発掘後畑か原野に戻ったはずです。アクセスの道も確認できませんでした。
王都の高殿
▲▲▲▲▲
2004年-2005年のヒビキ遺跡の発掘調査で、西側に大きな建物の跡が出てきました。
掘立柱建物で、柱は幅58-84㎝、厚さ10-16㎝という平たい板柱でした。掘立柱はだいたい丸い柱ですから、板柱は珍しい。
ところが宮山古墳から板柱を使った家型埴輪が出てきたのです。 -
これが橿原考古学考古学研究所付属博物館に展示されていた現物です。
板柱です。
どのくらいの大きさかというと、 -
By妻の上半身、高さ70㎝くらいある大きなものです。
「こういうお家で、磐之媛は、仁徳さんからの使者、口子臣を泣かしたんですね。」By妻 -
これをもとに復元されたのが、この写真。
面積は220平米、5間×5間の巨大なものです。 -
それをヒビキ遺跡の西端に合成復元したものがこれだそうです。背景は現代の奈良盆地。
建物は生活に使われた形跡はなく、祭祀または政治の場であった。
★建物は王の「高殿」としての意義をもつものであり、王は、この高台にのぼり、南郷遺跡群や奈良盆地を見渡し、「国見」をおこなったと推測されるのである。南郷遺跡群という自身の支配拠点にある諸施設と、その傘下にあるひとびとを文字どおり見下ろし、ここで王がまつりを司っていることを内外に知らしめるための巨大構造物であったと想像される。★
(以上「葛城の王都・南郷遺跡群」P35-39)
もしかして、葛城の高宮?
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
すぐに思い浮かべるのは、磐之媛の歌、
★
奈良山を越え、ふる里の葛城を望んで歌よみして、
「山城河を遡ると、奈良を過ぎ、私の見たいと思う国は、葛城の高宮のわが家のあたりです。」
★
これか!と思いましたね。残念ながらこの高殿が造られたのは5世紀半ば、磐之媛はもうちょっと前の人物です。
しかし「葛城の王都」の坂・青柳によれば、
★(南郷遺跡群)は5世紀前半に突如、さまざまな施設が計画的に建設され、「葛城の王都」がこの地に現出したのである。★
(P28)
磐之媛の時代に南郷の工房はすでに稼働していたようです。 -
「葛城の王都」P21より
点線内がこの本の筆者が想定する葛城氏の勢力範囲です。
葛城四邑の最先端職人集団と渡来人
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
書紀・神功皇后5年3月7日、葛城襲津彦は神功皇后の命で新羅に行きました。人質を送り返すのが目的でしたが、襲津彦は騙されて人質に逃げられてしまいます。
★襲津彦は新羅に行き多大浦(たたのうら)に陣し、草羅城(さわらのさし)を攻め陥して還った。このときの捕虜たちは、今の桑原・高宮・佐糜(さび)・忍海(おしぬみ)など四つの村の漢人(あやびと)らの先祖である。★
(P200)
ここに書かれている葛城四邑の地名はそのうち三つが現在でもあります。
↑の地図の赤〇です。
高宮は南郷遺跡群のすぐ近く、忍海は5世紀後半に南郷から職人たちが移転しました。
書紀は「捕虜」(原文では俘人/とりこ)と書いていますが、発掘された遺跡を見れば、職人は優遇され、倭人を技術指導していたのが分かるそうです。むしろ先進技術者集団として招聘されたというのが正確です。
「葛城の古墳時代・渡来人と暮らす」(以下「渡来人と暮らす」とします)によれば、南郷では渡来人は在来系の人たちと一緒に暮らしていました。
出土した地方色豊かな土器から、倭人も葛城ばかりではなく、列島各地から集まってきた人々でした。
(P8,9)
最先端技術を教えるといったって、弟子がズブの素人ではこまる。国内各地から、ある程度以上のレベルの職人をかき集めたのではないか。西日本系というから、たぶん出雲。東日本は伊勢、尾張、東海以東。東海以東って、毛野国つまり今の群馬、栃木かな?
4-5世紀の毛野国を馬鹿にしてはいけません。榛名山麓に広大な水田を営んだ、豊かな国でした。
★さらに、渡来人のなかには、生産工程を統括してその親方のような役割を果たし、死に際しては小規模な古墳を築く者も存在したと考えられる。葛城の王により、当時の最新技術を保持するがゆえに優遇され、迎え入れられたのである。第1章にあげた「日本書紀」の記述のような新羅から得た捕虜の姿でないことは明白だ。★
(葛城の王都P27)
南郷では石垣をもつ立派な大壁建物が、鍛冶生産に関与していた渡来人の住まいだったと想定されています。一般層の住まいは掘立て柱建物という竪穴住居です。大壁建物の主は、渡来人の職人や在来人を従えた、鍛冶の親方だったのです。
(「渡来人と暮らす」P33) -
磐之媛の子供時代
▲▲▲▲▲▲▲▲
南郷では食料の自給はしていないそうです。葛城の平野部に依存していました。
4~5世紀くらいに突然あらわれた人工的な工業都市でした。
言葉は通じたんですかね。渡来人と倭人は最初は困ったでしょう。同じ倭人でも、尾張と出雲、毛野国じゃお互いに相当訛っていたんじゃないかなあ。
南郷は当時の日本では珍しい、インターナショナルな雰囲気だった。 -
奈良盆地中央部。
-
大和郡山あたりでしょうか。
-
向こうの山は三輪山かな。
-
畝傍山が見えてきた。
葛城からは奈良盆地の半分が一望のもとに見下ろせます。
磐之媛は毎日こういう景色を見ながら、外国や様々な土地からやってきた職人たちと暮らしていたのです。
こりゃ、偏見のない、広い視野をもった、おてんば娘に育ったなあ、と思いました。 -
寺口忍海古墳群
▲▲▲▲▲▲▲
5世紀半ば以降、南郷の手工業生産拠点は8㎞ほど北の忍海(おしみ)に移りました。南郷は馬の飼育が盛んになってゆきました。分業をしたようです。
忍海にはここに住んだ工人たちのお墓、約200基の群集墓が残されています。寺口忍海古墳群とよばれます。 -
現在は葛城市火葬場と墓地があります。古代のお墓ではありません。現代の普通の墓地です。古墳群の真ん中に墓地を造るというのはだれが考えたんだろう。でも千数百年の伝統を引き継いだと、言えばその通り。日本最古の現役の墓地かもしれません。
一書に曰く、
6世紀に亡くなった人と、21世紀に亡くなった人間が、隣り合って祀られているのですよ。
そして、その子孫が滑り台で遊ぶ。
恐るべし。葛城。
By妻 -
児童公園があります。
-
長い滑り台。
-
滑り台と古墳が隣り合っています。
公園には周囲に古墳がいっぱいあり、それがなんであるか、説明らしきものはなし。
この日は休日ではありませんでしたが、子供はおろか、大人もいませんでした。
私たちは日本最古の墓地で、ぼっちでした。 -
右がE-2と言われる古墳です。直径10mくらいでしょう。6世紀中葉の築造だそうです。
左の少し小さめの古墳E-1と仲良く並んでいます。被葬者は親子かな、兄弟かな。 -
E-2の羨道 が解放されていました。
By妻興味津々。 -
ちょっと不気味で、あまり中に入る気しません。古いとはいえお墓です。
-
へっぴり腰で中を覗いてみました。
玄室は右片袖式石室というそうです。石室の奥から見て右側が広がっています。
このような横穴式の片袖式石室は、百済から伝えられたものだそうです。
二人分の棺を並べて葬るスペースがあります。だれが葬られていたんだろう。
夫婦とすると、そのうちの一人は百済からの渡来人かもしれない。
古代、外国からの技術者の招聘は珍しくなかったようです。
そのなかに女性もいました。
仁徳天皇の先代、応神天皇37年2月1日の記事に、呉の国より4人の縫工女(きぬぬいめ)を連れてきたと書いてあります。連れてきた、とはいうものの、頼んで来てもらったんでしょう。
(書紀上P223)
「縫工女」というから、服飾デザイナー兼縫製技術者みたいなものです。
39年春2月
★百済の直支(とき)王は、その妹新斉都(しせつ)媛を遣わして仕えさせた。そのとき妹新斉都(しせつ)媛は7人の女をつれてやってきた。★
2つの記事は連続していますので、要するに縫いもの、または機織の女性が倭にやってきたということでしょう。
仁徳天皇の前から、外国の女性が海を渡ってやってきていたのです。
4-5世紀の朝鮮半島では、高句麗の南下により、南部の百済、伽耶諸国は倭の援助を求めていました。
「渡来人と暮らす」によれば、
★このような状況から、朝鮮半島南部の各地域との交渉を通じて、政情不安による亡命または政策的な役割を担った「渡来系貴人」、それに同行した工人集団・知識人などが海を渡った、と想定するのがふさわしいようです。いずれにしても、高句麗の南下による緊迫した情勢がおおきな要因であることは間違いないでしょう。★
(P7) -
「渡来人と暮らす」P10より。
倭人の豪族と百済の機織姫の夫婦
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
忍海古墳群の中にD-27号墳という、直径16.5mの小さな古墳のような円墳がありました。
D-27号墳の玄室です。右片袖式石室です。
木棺の位置は残っていた鉄くぎから推定されました。
古墳には埴輪が飾られており、古墳の主は倭人です。
副葬品から古墳の主は西棺に眠っていたと考えられます。
東棺は副葬品から百済系の女性です。機織の紡錘車があったので、おそらく機織姫。
二人は間違いなく夫婦。
妻は優れた機織姫であったのです。
何かの縁で、土地の中級有力者とむすばれました。
古墳は夫の生前、妻の希望で、故郷の百済の石室を内に収めて作られました。彼女もまた、夫とともに葬られることを望んでいたことになります。
葛城には、彼女のような百済や伽耶から来た女性技術者が少なくなかった。
見も知らない遠い異国に行きたいはずがありません。
それでも何らかの事情で行かざるをえなかった。
おそらく生きて再び故郷に帰ることはないと、覚悟を決めて、葛城までやってきた。
自分のもつ技術を倭人に伝授した。
自分のおかれた環境を甘受しながら、強く生きたのであります。
野生児磐之媛
▲▲▲▲▲▲
私は、娘時代の磐之媛は、そうした異国の機織姫、縫工女を身近に見ながら育ったのだと思います。
葛城のお姫さまのイメージが固まりません。どうしても平安時代の、十二単、なよなよとした女たちの姿をそのまま投影してしまします。
飛鳥時代の女性たちはすでにそんなやわなものではありませんでした。馬にも乗るし、賄賂をとって役人の便宜を図る後宮の女官もいた。服装だって、縦じまスカートのツーピースです。十二単よりはるかに動きやすい。
それより300年も前です。
いっその事、大胆につる姫をイメージします。 -
何をだしたのか!
ご存じありませんか、約半世紀前、一世を風靡したまんが「つる姫じゃ~っ!」
作者は土田よし子(1948-2023)
1973年-1975年に週刊マーガレットに連載。1974年集英社より単行本。
土田は従来の繊細な少女漫画を破壊した仕掛け人と言われております。
内容は著作権でお見せできません。
だいぶ年季が入っておりますが、By妻の嫁入り道具です。フランスはパリの友人間で回し読みされ、我が子はこれで日本語を学びました。
奥付は、 -
なんと1974年の初版じゃないですか。もうちょっと状態がよくて、カバーが残っていれば、アマゾンで高く売れたのに。
10歳くらいの磐之媛は、四捨五入すればつる姫に近かったのではないか。
とうちゃん(葛城襲津彦)にくっついて、南郷の火花散る鍛冶場を見て回り、「おっさん、何しとるん?」
渡来人の親方から「危ないつうの」と追っ払われ。
機織場では、遠い異国から来たおねえさんに故郷の話しを聞いたり。
こういう磐之媛が15歳になって仁徳天皇にお嫁に行ったら、天皇がおめかけさんを持つ持たないで大立ち回りを演じるのは、はっきりイメージできる。
天皇としても、葛城の娘がまさかつる姫とは思わないから、甘く見た。 -
磐之媛と人工的な工業都市
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
風の森峠です。
左が現在の国道24号線、右が旧道です。
この時代、葛城では製鉄はできませんでした。鉄製品の原料、鉄鋌は百済、伽耶諸国から輸入されていました。鉄鋌は瀬戸内海を通り、紀ノ川の河口・紀伊の水門(みなと)で小舟に積み替えられ、紀ノ川を遡り、五條辺りで陸揚げされ、陸路で葛城に運ばれました。
その入り口が風の森峠です。
ここから葛城氏の勢力範囲。
このあたり鴨神遺跡からは、重いものを運ぶために補強された道路跡が発掘されました。
東佐味(さび)、西佐味という地名が残るそうです。葛城四邑、桑原・高宮・佐糜(さび)・忍海(おしぬみ)の佐糜に相当します。
高宮は南郷遺跡群のすぐ近く。桑原は今のところ比定地がはっきりしません。
(以上「葛城の王都」P14、「葛城の考古学」P184あたり)
佐糜、高宮、桑原で始まった手工業生産が、計画的に集められたのが、南郷だったのです。
磐之媛が育った高宮は、この時代ではおそらく日本で唯一の、農業に依存しない、工業をなりわいとする都市でありました。
それもまた、異国の強く生きた女性たちと同じく、磐之媛に影響を与えたのではないか。
これが、5世紀の日本では考えられない、強烈な個性の女性を生み出した風土だったのではないか、というのが私の印象です。
磐之媛は、はっきりと女の権利を主張している。女を馬鹿にするなと言っている。
平塚らいてうに先立つこと1600年です。
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