2026/05/31 - 2026/06/04
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しにあの旅人さん
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清寧天皇の時代、5世紀末の葛城です。
★秋7月、飯豊皇女(いいどよの・ひめみこ)が角刺宮(つのさしの・みや)で、男と交合(まぐわい)をされたが、人に語って、「人並に女の道を知ったが、別に変ったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ」といわれた。★
(現代語訳日本書紀上P317)
え!?
日本書紀を読んでいて、もっともビックリしたのが、これ。
まったく前後の脈絡に関係なく、この文章が出てくるのです。
書紀の編集者は、なんのつもりでこういうことを書いたのだろう?
一書に曰く、
じゃーん、葛城女傑シリーズ 第三弾!
飯豊皇女です!
!付きで、叫びましたが、「えっ、だれ?」って、思いませんでしたか。
実は、私も、つい最近まで知りませんでした。
非常にマイナーなヒロインです。
ところが、ここ葛城では、大人気。
博物館の入り口にパネルがありまして、日本最初の女帝!とか書いてありました。
その人を追いかけての旅でございます。
By妻
白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかの・たけひろくに・おしわか・やまとねこの・すめらみこと)、区切りがあっているか自信なし。清寧天皇のことです。古代の天皇に漢風諡号をつけてくれた淡海三船さん、助かります。
雄略天皇は実在が確実です。中国の正史・宋書や、熊本県の江田船山古墳(えたふなやま・こふん)、埼玉県の稲荷山古墳から発掘された鉄剣の銘文で間違いなし。在位も5世紀後半で、最長463年-489年くらいらしい。
そのあとが清寧天皇です。飯豊皇女は同時代ですから、5世紀末にこういう個性豊かな女性が葛城にいたのです。
参考書は「葛城縦の旅1」に並べました。
引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
文中の地図は別記なければグーグルマップです。
投稿日:2026/08/02
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
角刺神社です。
一時期飯豊皇女の宮廷があったとされています。
忍海は現在は「おしみ」と読みますが、当時は「おしぬみ」でした。
一書に曰く、
飯豊皇女は、何をしたのか、そもそも実在の人物かは、わからないのですが、強烈な一言があって、by夫は、大喜びであります。
いかなる場面で、いかなる意図で語られたのでしょうか。
だいたい古事記にでてました?
完全にby夫が掘り出したネタでございますよ。
わたくしは、へえーでございます。
By妻 -
飯豊さんの名セリフにこだわります。
書紀原文をあたってみました。
★秋七月、飯豊皇女、於角刺宮與夫初交、謂人曰「一知女道、又安可異。終不願交於男」★
(岩波書紀上P507)
「ひとはし(わずかばかり)女の道を知りぬ。又いずくにぞ異(け)なるべけむ」と訓むそうです。
書紀原注に「比に夫有りと曰へること、未だ詳ならず。」と書いてありました。「夫」は一般的な「男」ではなく「配偶者」のようです。
漢文の「與夫初交」
「與(略字だと与)」を与えると解釈すると、「初交を夫に与える」なんか、偉そう。皇女だからいいのかな。
漢和辞典だと「與」には「・・をともにする」という意味があるそうです。「与党」の使い方です。「夫と初交を共にする」こっちのほうが意味が通る。
原文のほうが具体的です。
この種の話を漢文で読むと、それなりに趣があります。 -
★
5年春1月、清寧天皇は崩御された。
この月皇太子、億計王(おけのみこ)と、天皇(後の顕宗天皇)が位を譲り合われた。ながらく位につかれなかった。このため天皇の姉の飯豊青(いいどよ・あおの)皇女が、忍海(おしぬみ)の角刺宮で、仮に朝政をご覧になった。自ら忍海飯豊青尊と名乗られた。
★
(書紀上P324)
飯豊皇女が、推古天皇に先立つ初代女帝だといわれる根拠です。
少なくても実質的に称制(しょうせい)です。菟野皇女が夫の天武天皇の死後、天皇位が空位のまましばらく称制として政務を代行しました。
古事記だと、忍海の郎女またの名は飯豊の王(おおきみ)という名で出てきますが、角刺宮で仮にでも朝政を取ったとは書いてありません。
(現代語訳古事記P444)
初体験エピソードもありません。
古事記はこういう色っぽい話は特別リキをいれて書くのですがね、残念。 -
By妻さんによると、古事記は古代宮廷のガキ皇子、おしゃま皇女に歴史を教えるための歌謡劇、ミュージカルの台本だそうです。あんがいあっているかも。
するとこの部分はやや18禁ぽいので、古事記ではカットされたかもしれません。
古事記冒頭の伊弉諾と伊弉冉の「成り成りて成りあわぬところ云々」よりはましと思うけれど。
「知らないわ」By妻 -
一書に曰く、
角刺神社は、葛城博物館を、ぐるりと回った裏側にあります。
近隣は、住宅街で静かです。
神社は、村の鎮守様って感じです。
境内には鏡池というのがありました。
この池を鏡にして、毎朝、飯豊皇女は、身だしなみを整えたそうです。
精進潔斎して、朝のお勤めをなさった、御手洗池だったのでしょう。
当麻寺の中将姫が、ここの蓮の糸で、曼荼羅を織ったという言い伝えもあります。
女性の祭神に、女性のエピソード。
この辺りに住民は、きっとフェミニストですね。
この近所の方々は、飯豊さんが大好きで、この神社を守り続けてきたそうです。
日本最初の女性天皇は、愛されていらっしゃいました。
何世紀にもわたって、地域に限定とはいえ、愛され続けてきて、今もあり続ける。素晴らしいことです。
ぜひぜひ、沢山の人に、飯豊皇女が知られますように。
By妻 -
書紀によると、
★
当時歌の上手な人が、歌に詠んで、
倭のあたりで見ておきたいものは、忍海の地のこの高城にある、立派な角刺の宮である。
★
(書紀上P324) -
神社は葛城市歴史博物館の広い駐車場に面しています。
博物館は旧忍海村立忍海中学校の跡地に建てられました。 -
「旧忍海中学校跡地」の記念碑があり、校歌に「古き宮後の忍海中学校」と書いてあります。このあたり一帯が角刺宮の跡地だったみたいです。
一書に曰く、
跡地ってことは、移転したのか、それとも閉校?
移転ならいいなあ。と思ったのですが、残念ながら閉校でした。
1960年に新庄中学校に合併だそうです。
1960年、、、おやっ昨今よく聞く過疎化とは、ちょっと違うようです。
何があったのでしょうか。
この辺り、古代史ばかりか現代史も興味深いですねえ。
栄枯盛衰、世の常です。
でも、ついさっき、小さい子供を連れたママの姿を見かけたばかりです。
また、ここに中学校ができる日が来るかもしれませんよ。
飯豊さんとともに、復活しますように!
By妻
古代葛城氏の前半の本拠地南郷まで直線6㎞くらい、手工業団地があった寺口忍海古墳群まで2㎞ちょっとです。
磐之媛は葛城襲津彦の娘。飯豊皇女は磐之媛から数えると孫かひ孫になります。葛城氏の直系円大臣(つぶらの・おおおみ)は5世紀半ばに雄略天皇に滅ぼされますが、磐之媛経由で葛城の一族です。このころまだ忍海の手工業団地は生産を続けていたので、飯豊皇女が忍海に宮を構えていたのは、偶然ではないでしょう。
お金持ちだったはず。
歌に詠われた立派なお宮だった根拠はあります。
磐之媛があかんぼうの飯豊ちゃんを抱いて「男に負けるな!」と言い聞かせた、というのは年代的にまず無理。でも飯豊ちゃんは乳母などから話には聞いていたんじゃないかと思います。
磐之媛はそうとう気合の入ったばあちゃんだった。この痛快さは、ばあちゃんの遺伝かも。 -
飯豊天皇陵
▲▲▲▲▲
いつもの宮内庁三禁立て看がありました。 -
飯豊皇女を天皇と認めているようです。
-
「飯豊天皇埴口(はにぐち)丘陵」となっています。
-
角刺神社から北1kmくらいです。
-
南からの写真です。鳥居が見えます。
南東が正面の、全長83mの前方後円墳で、これが前方部です。 -
西より。
-
↑とつなげると全景です。
考古学上は「北花内大塚古墳」と呼ばれます。専門家によると5世紀後半-6世紀前半の築造だそうです。
飯豊皇女の陵にしても年代は矛盾しません。
日本書紀だと、清寧天皇5年、
★冬11月、飯豊青尊は崩御された。葛城の埴口(はにぐち)丘陵に葬った。★
古墳の所在地名「北花内」の花内(はなうち)は「埴口」が転訛したものだそうです。
(「飯豊皇女と忍海」P9)
地元では飯豊皇女の陵として古くから伝承されています。
宮内庁の治定は適当なものが多いそうですが、これは信じていいかもしれません。 -
そうであってほしい気むんむんです。
他に飯豊皇女の真陵と言われるものもないようです。 -
古墳はめちゃくちゃ
▲▲▲▲▲▲▲▲▲
後世かなりつくり変えられた痕跡があるそうです。
13-14世紀に古墳上に城館が造られました。
つぎに天和元年(1681年)に当時の大和新庄藩主桑山一尹(かずただ)が墳丘の頂上に八幡宮を造りました。
(「飯豊皇女と忍海」P11) -
出典(「飯豊皇女と忍海」P10)
19世紀中葉の古墳です。
古墳はめちゃめちゃでしょう。手をつけたのは桑山一尹(かずただ)。
そのバチがあたったのか、新庄藩は1682年改易されています。
ここまでいじくりまわされたのがはっきりしているのだから、宮内庁は発掘を認めてもいいのではないかと思います。どうせたいしたものはもう出てこないでしょう。 -
現在は一重の周濠があります。鳥居の向こうがお堀です。
これは幕末元治元年(1864年)の修復工事で掘られたものです。もとの姿に戻そうとしたらしい。幕末、尊王思想が高まり、宇都宮藩などが競って御陵の修復を行いました。
調査の結果、周濠は現在よりも大きいか、二重だった可能性もあるそうです。
(「飯豊皇女と忍海」P11,9)
一書に曰く、
飯豊皇女さんの周囲には、ドラマがいっぱいです。
弟たちとも、いや甥だったとも言われる、顕宗天皇、仁賢天皇の兄弟が、お互い譲り合って、なかなか位に就かないから、その間、彼女が施政したといわれております。
譲り合うというところが、もう物語でしょ。
飯豊皇女の周囲には、仁徳天皇だの雄略天皇だの有名人がいっぱい。
英雄なんとやら。もうもう、ドラマてんこ盛り。
陰謀、殺戮、愛あり、恋あり、裏切りあり、暗殺、兄弟愛。なんだってあり。
あ~、韓国ドラマじゃないんだから!
ということで、この古墳。
あなた、実在したのね。と、しみじみ思いました。
By妻 -
(「飯豊皇女と忍海)P15より)
忍海の葛城三代
▲▲▲▲▲▲▲
北花内大塚古墳の西に大型の前方後円墳が2基あります。襲津彦以降の葛城の首長層の古墳だそうです。築造は5世紀中葉から後半。 -
屋敷山古墳。全長135m。
直線距離1.2㎞。
ここも江戸初期に桑山氏が陣屋を造りました。だから屋敷山古墳と言われます。飯豊皇女陵をレジャーランドみたいにした桑山氏です。よっぽど古墳を馬鹿にしていたのです。潰されて当然。 -
火振山古墳。95m。
1.2㎞
ただの竹やぶに見えました。反対側に周濠の一部が残っています。
葛城氏直系の円大臣(つぶらの・おおおみ)が5世紀半ばに雄略天皇に滅ぼされた後も、葛城氏は全滅したわけではないようです。忍海を中心に手工業団地を支配していました。
ふたつの古墳の被葬者はわかりませんが、葛城氏の一族だそうです。
(「飯豊皇女と忍海」P15)
火振山(5世紀半ば)→屋敷山(5世紀後半)→北花内(5世紀後半-6世紀前半)とつながります。
飯豊皇女は磐之媛の孫ですから、葛城の由緒正しいあとつぎとして忍海を治めたのは当然。
飯豊皇女は天皇に即位
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扶桑略記は11世紀末の歴史書です。作者は皇円(こうえん)
有名な本で、ちょっと詳しい古代史になると、よく名前が出てきます。ところが本になっている現代語訳はおろか、読み下し文もありません。
私たちは漢文は読めないのです。指をくわえて恨めしそうに見過ごすこと、たびたび。
今回も出てきました。ダメもとでさがしたら、「訓注扶桑略記(3)」(明治大学文芸研究会)を発見。
http://hdl.handle.net/10291/9719
からPDFをダウンロードできます。
よく飯豊皇女は天皇に即位したと言われますが、扶桑略記が根拠です。
★甲子歳春二月、生年四十五にて即位す。(中略)此の天皇、諸皇の系図に載せず。和銅五年上奏の日本紀は之を載す。仍りて、之を注し傳ふ。諸本の有無は同じからざるなり。★
和銅5年(712年)に古事記は成立していますが、飯豊天皇即位の記事はありません。720年の日本書紀にもなし。
ということは11世紀末の段階で日本書紀とは別の「日本紀」なる書物があったことになります。「日本紀」には年齢も書いてあった。
これ以外内容はほぼ書紀に同じです。
古代人もびっくり
▲▲▲▲▲▲▲▲
飯豊皇女の初体験。
前後の脈絡なくいきなり出て来て、私たちはびっくりしました。これは書紀の編集者も同じで、いろんな資料をあたっていたら、ある資料にこのエピソードがでてきた。
「マジかよ!」
びっくりした。おもしろいし、そのまま採用してしまった。
というのはどうでしょう。
扶桑略記にも初体験の話は書紀とほぼ同じ内容で出てきますが、冒頭は
「或本に云はく・・・」となっています。皇円は当然書紀を読んでいるので、出所が書紀なら「或本は」と書くはずはない。
書紀に先立つ別資料があって、書紀の作者はそれを読んだ。皇円が読んだのも同じ資料とすると、話があいます。
古代葛城の資料は現在では記紀しかありません。しかし記紀の書かれた8世紀初めでは、古代人もびっくりの、いろんな資料があったみたいです。
びっくりは現代まで引き継がれております。
一書に曰く、
飯豊皇女の、不思議なひとこと。
きっと意味があったに違いない。
でなければ、歴史書に残すはずないでしょ?
単なるエロ記録ってことないでしょ?
と思うのですが。
まさか、舎人親王って、露悪趣味のエロおやじだったの?!
By妻
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この旅行記へのコメント (4)
-
- へびおさん 2026/08/02 19:37:40
- 飯豊天皇
- しにあの旅人さん
こんばんわ
飯豊青皇女!
この方を取り上げてくださるとは。
私も天皇陵巡りをしている時にたまたまこの古墳を見つけて、「飯豊天皇?って誰??」と思って調べたら、推古天皇に先駆けた女帝であった可能性のある方と知って驚いたものです。
日本書紀には「陵」と記されていて、あの時代に天皇扱いだったことが窺えるそう。
例の「交合」のお話し、私も知っています。
相手は清寧天皇の可能性が高いそうです。
清寧天皇は白髪皇子と名がついたようにアルピノだったらしく、雄略天皇はその姿に神威を感じて彼を後継者にしたとのこと。
ただ生殖能力はなかったようでその後の後継者問題に相当悩んでいた。
それもこれも父王である雄略天皇が親戚を殺しまくったからなのですが・・・
で、播磨で億計皇子と弘計皇子が見つかって清寧天皇は非常に喜んだということです。
その2人が皇位に即く前に中継ぎとして政務を行っていたとされるのが飯豊青皇女らしいです。
この辺は色々入り組んでいて面白いですよね。
皇位があっちこっちにいって。
億計皇子の娘達が今上天皇に血を繋いでいっている点も感慨深いです。
因みに弘計皇子(顕宗天皇)の宮が明日香にあったそうで、その跡とされる神社に6月の奈良旅で行って参りました!
奈良は古事記・日本書紀の記す場所がたくさん遺されていて本当に面白いです。
これからも一緒に歴史を感じる旅をしていきましょう!
- しにあの旅人さん からの返信 2026/08/03 17:47:23
- Re: 飯豊天皇
- 飯豊天皇陵にいらしたのですか。
私たち以上の天皇陵オタクですね。
あのあたりはふつーの人は行かないところです。
例の「與夫初交」の相手の「夫」がだれか、ブログ第1稿のBy妻説では旅猫さんと同じ清寧天皇でした。1000文字くらいの大論文。
この件で喧々諤々、議論の末夫婦喧嘩になりましたが、落ち着いて、頭を冷やした結果、清寧天皇ではないという結論にしました。
漢文原文だと、これは「夫」を強烈に馬鹿にする文章です。
扶桑略記と読み比べると、8世紀初頭、日本書紀編纂の時代まで伝わっていた文書からの引用です。書紀編集部の上の方が、現場のライターを無視して、強引に押し込んだのではないかという感じ。
8世紀では、清寧天皇を馬鹿にする理由が見当たらないのです。
そのくらい不自然です。全文カットしても、書紀の記述の流れにまったく影響がありません。
当時の人は、ここまで書いておけば「ああ、あの人の先祖ね」と分かった。
今となってはその文書が失われてしまったので、だれだかわかりません。
失われた文書とともに、当時藤原京ではやっていた、猥雑な里謡のようなものがあったんじゃないか。
日本霊異記には、孝謙天皇の死後奈良の都ではやった、天皇と道鏡を揶揄する卑猥な流行り歌が採録されています。あんな感じのものを想像しました。
私は、乙巳の変で滅ぼされた蘇我氏の先祖のだれかではないかと想像しています。蘇我氏は葛城は先祖の土地だからよこせと、推古天皇に要求して断られています。このあたり調べ始めたらきりがないので、今回はやめました。
弘計皇子(顕宗天皇)の宮が明日香にあるのですか、ブログになっていたら教えてください。
飛鳥奈良は行くたびにこれで卒業と思うのですが、毎回単位を落として留年です。8月半ば、9月末にまた行きます。
- しにあの旅人さん からの返信 2026/08/05 08:36:12
- Re: 飯豊天皇追伸
- 飯豊皇女コメ返事追伸
弘計皇子神社のブログ見つけました。25回目の奈良旅ですね。
写真が多くて、読み落としたようです。
別途コメントお送りします。
- へびおさん からの返信 2026/08/05 21:19:54
- RE: Re: 飯豊天皇追伸
- 写真が多くてすいませーん汗
わざわざ旅行記に足を運んでいただきありがとうございます。
弘計皇子神社は小さすぎで御由緒書もないのでよく分からなかったです。
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