2026/03/29 - 2026/03/29
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kirinbxxさん
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西安プライベートツアー、初日最後の見学地は西安城壁です。
現在西安に残っている「城壁」は、この地が最も栄えた唐の時代のものではありません。唐の都として、当時世界最大の人口を誇った長安の城壁は今よりも遥かに巨大でした。皇帝の宮殿(宮城)、役所街(皇城)はもちろん、一般市民の生活区域もすべて城壁内にありました。現代でも、海外では住宅地全体を壁で囲って内部の治安を保っているところが沢山ありますが、唐は首都全体を囲い、厳しく管理して治安を維持していたのですね。
その巨大な唐代の城壁は唐の滅亡から続く戦乱の中で殆どが破壊されました。当然ながら、人口も激減。そして長安はその後の中華統一王朝の首都となることはありませんでした。
時代が下って、明を建国した朱元璋は西北の防衛の要として次男を「秦王」として送り込み、堅固な要塞を築きました。唐の時代の皇城(役所街)の遺構をベースに、東と北へ少し拡張して造営したそうです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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車中から見えてきた、「西安城壁」です。城壁、といっても遠目には宮殿のような巨大な建物です。こんな外観のホテルもあります。
でもこの沢山ある窓は、矢窓、城壁に近づく敵を狙い撃ちするためのものです。生前と並んでいて美しい。「箭楼」というそうです。これが「壁の一部」とは・・・ -
まずはこちらの門から見学です。唐代には皇城の西側を守る門で、順義門と呼ばれていました。公的な貿易品や、西域からの重要人物はここを通って唐の王朝と西域を繋いでいたのです。
明代に順義門をベースにして新しく作られたのがこの安定門。西からの大砲や騎馬の攻撃に対抗するための様々な施設を備えた要塞であり、税関のような役目も果たしていました。 -
中華人民共和国政府によって建てられた碑。「安定」には、明朝が西域・チベット方面を「安泰に保ち、平定する(西方安定)」という極めて強い政治的・軍事的な願いが込められていました。まぁ、今の中華人民共和国にとってもそうなんでしょう。
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アーチの中には赤いランタンが吊されていましたが、このランタンの形はかつて皇族や貴族の宮殿、あるいは最高格式の儀式でのみ使用された「宮灯」という伝統的な提灯の形状を受け継いでいるそうです。
この城壁は上部より底部が分厚い実心城壁で、この部分の厚みは15m以上あります。 -
またまた赤。中国の政府系メディアは西安城壁のイベントなどを紹介するときによく「盛世長安の赤」という表現を使うそうです。
門釘というボルトが9×9の配列になっています。中国では「九」は陽の極まる最高に縁起の良い数字だそうで、この配列は国家的に極めて重要な、例えば皇帝が住む宮殿のようなところに使われています。(身分が下がると門釘の数は減るが、必ず奇数×奇数とのこと) -
一応警備はされていましたが、厳しさはなし。
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内側には爆発物に対応できる警備用品も置いてありました。
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これは単なるマンホールの蓋。1980年以降、この城壁を重要観光地として整備したおりに、近代的排水システムを導入したさいに置かれたようです。でも、ちゃんと周囲の雰囲気に溶け込んでいました。この渦巻きパターンは実は古代ギリシアと古代中国でほぼ同時に生まれ、やがてシルクロードを通じて融合したのだそうです。
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こちらは、中華民国時代初期に張鳳翽によって揮毫された碑。この人は清朝末期に軍人となり日本の陸軍士官学校に留学したこともある人です。
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さすがは大明国の西の守りを固めるだけのことはあります。明の太祖・朱元璋が徽州を攻め落とした後に朱升という儒学者に言われた「高築牆,廣積糧,緩稱王(城壁を高く築き、広く食料を積み、ゆっくりと王を称するように)」という言葉を忘れなかったことの象徴という人もいます。
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物売りや、大道芸をしている人なども。
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地上広場(城門付近)に設置されている馬の青銅像
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それでは城壁の上に登ります。
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コスプレ撮影隊が何組もいました。
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城壁の上にあったのは、伝統的なスタイルの城壁守衛小屋(鋪屋とか敵楼とか呼ぶようです)の再現建築でした。中国は戦乱の時期が非常に長く、特に木造建築は長く残っているものは非常に稀、修復は「隋唐の骨、明清の衣(土台は隋唐、見た目は明清)、そして「現代の技術で復元」されることが多いそう。
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城壁の幅は広く、自動車でも走れそう。
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こうしてみると、まったく普通の道路のようです。
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発掘された城壁の一部などが展示されていました。
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見つかった遺物や、設計図など。
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下を見るとこんな感じでした。
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大都市西安の大路を城壁から見下ろしてみました。
この日の観光はこれでおしまいです。 -
ホテルから徒歩数分のところにある、西安鐘楼。明朝初期の洪武帝の時代の1384年に建てられ(このときは別の場所に)西安市のシンボルとなりました。ところがその後明帝国が栄えるにつれ、西安という都市も拡大していきました。西と南の城壁は非常に頑丈な状態で残っており、北東には秦王に任ぜられた洪武帝の第二子のための王城を建設したため、西安市街は東と北へ拡張されていきました。
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当時、「街の東西南北の軸が交わる、完全な中心地(十字路)」に建てられるもの、ということで、新しく土台だけ造った現在地へ、高さ36mの木造建築を移築するという大プロジェクトを敢行したそうです。
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夕暮れになるとライトアップ。
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すぐ近くにある老舗の大型商業施設、開元商城(Kaiyuan Shopping Mall)も光り始めました。
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鐘楼を中心として地下通路が整備されています。なにしろ西安きっての繁華街、鐘楼の周囲は巨大ならランドアバウトで、東西南北から来る大通りの車が全てここへ流れ込んできます。しかも中国、とてもじゃないけど歩行者が安全に地上を横断するなど無理!ということです。
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これからどんどん人が増えてくる時間だそうです。
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私達はいまさらコスプレでもないし、お腹もすいたのでこの近くで有名な美食街とされている「回民街」へ向かいました。回民とは、中国に住むイスラム教(漢字文化圏では伝統的に回教と呼びます)徒のこと。西安には6万人以上いるそう。このあたり一帯にはシルクロードを通して伝わった独特の料理や菓子を売る店が集中しているということです。
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ふと見ると立派な楼が。これは西安鼓楼、かっては鐘楼とこの鼓楼と向き合っていました。鐘楼は西安の発展とともに移設され、鼓楼はここに残りました。古代中国の西安では鐘楼は日中、鼓楼は夜、決められた時間に鳴らされ人々の生活を制御していました。
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その裏手にはさらに回民街が広がっていました。道路の両側にはびっしりと食べ物を売る屋台や店が並び、大勢の人が歩き回っていました。私達も何か美味しそうなものを見つけようと歩きました。しかし、私達には一つ大きな懸念が・・・・
そしてそれは悲しくも的中。マレーシアやインドネシア、あるいはドバイのような国を訪ねたときも起きた悲しい出来事がここでも。。。そう、ここにはビールを飲める飲食店などほとんど(あるいは、まったく)ないのです。美味しそうな香りを漂わせている羊の串焼きなどそそる食べ物はあったのですが。。。。私達にとってはそれはお茶やご飯と食べる物ではなくて、ビールのおともです。 -
上の屋台は西安の伝統的なストリートフード「甑糕(ゼンガオ)」というものを売っていました。下の写真は、羊肉を串に刺して焼いていたお店の店頭にあった串です。その正体は「紅柳(タマリスク)の枝」、加熱すると独特の香りがたち、それが羊肉の臭みを消すのだとか。西安や新疆ウイグル自治区の焼串では竹串でも鉄串でもなく、これを使うそうです。ああ、ビールと一緒に食べたかった!
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大通りに戻ると目についたのがこれ。
うん、確かに私は西安にいる。
そして、腹が・・・・・減った! -
仕方ないので大通りにあり、ビールがあって、少量でも注文できるものがありそうな店へ。店の名前も場所も憶えてはいません。まぁ、そういう味でした。
でも、とりあえず空腹を抱えて寝る事態は回避できました。コンビニで良く冷えたビールを買って宿で飲み直しです。
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2026年 西安訪問記
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