2026/03/29 - 2026/03/29
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kirinbxxさん
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大帝国・唐の遺跡巡り、午後は兵馬俑から西安市内へ戻る途中にある温泉宮へ。
平安時代の文学に大きな影響を与えた漢詩に、白居易の長恨歌があります。そこに描かれた、大帝国としての唐の最後を飾った玄宗と楊貴妃ゆかりの場所です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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昼食後は、西安市街へ戻る途中(市街から東へ約30km)の驪山(りざん)のふもとに位置する華清宮(華清池)という場所です。
華清池(驪山温泉) 温泉
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華清池は、かつて歴代の中国王朝の皇帝たちが愛用した高名な温泉保養地(離宮)です。現在はこのように広場になっていて、夜間にはライトアップされた驪山と池を舞台にした大規模な実写歴史舞踊劇『長恨歌』が上演されているそうです。
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唐代の詩人・白居易が二人の悲恋を詠んだ有名な漢詩「長恨歌」にちなみ、玄宗皇帝と楊貴妃が華麗に舞い踊る様子を描いた像がありました。1991年に九龍湖のエリアに作られ、その後観光エリアの再整備に伴ってここへ移設されました。
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「天に在りては願わくは比翼の鳥と作らん、地に在りては連理の枝と為らん」と誓った二人の踊る像の下には唐代の廷臣や侍従たちの彫像が置かれていました。
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左上は、現代中国の著名な書家であり、かつて政治家でもあった郭沫若の筆によるもの、下の2枚はここにあった「昭応県城南門遺址(昭応県城の南門跡)」についての説明です。747年に唐によって建設された昭応県は、北宋の時代1014年に臨潼県と改名され、 宋、元、明、清の各時代に都市の壁(城壁)が拡張・改修され続けました。
右上は「温泉銘」と呼ばれている中国書道史上極めて重要な書についての説明です。
紀元前8世紀の周の時代にはすでにここの温泉の存在が知られており、始皇帝や漢の武帝も、ここに石造りの浴場を造らせていました。644年、唐の太宗がここに大規模な離宮を建設して「温泉宮」と命名、それを讃える銘を自ら書いたそうです。太宗李世民は王羲之の書に傾倒し、自らは虞世南に師事して書道を学びました。その書は碑となって宋の時代まではここにありました。その後戦乱の中で失われたようですが、なんとその拓本が清の時代、1907年にに敦煌で発見されました。あいにく発見者はフランス人探検家、当然の如く彼はそれをフランスに持ち帰りました。現在は、パリ国立図書館が所有しています。基本非公開ですが、デジタルアーカイブはいつでも鑑賞することができます。 -
驪山ロープウェイです。驪山は標高1,302メートルの名山で、非常に見晴らしがよいようです。
また、西周の幽王が愛妾・褒姒を笑わせるために嘘の烽火(のろし)を上げ、国を滅ぼす原因になったという有名な歴史寓話の舞台となった烽火台もありますので、時間があれば登ってみたいところです。 -
この施設は、事前のオンライン購入だけではなく、チケット売場で当日券を購入することもできます。この日は日曜日でしたが特に混雑はありませんでした。もっとも、普通は兵馬俑とセットで観光することになるのでこちらもオンライン購入が推奨されています。料金は120元とあります。我が家はもちろんプライベートツアー料金に組み込み済み。
スマートロッカーも整備されていました。 -
華清宮梨園遺址博物館、玄宗皇帝自らが校長役となり、才能ある若者たちに音楽や舞踏を教えた、中国史上初の「国立芸術学校」の跡地に建てられた施設です。この庭に梨の木が植えられていたことから、そこで学ぶ人々を「梨園の弟子」と呼んだ、という故事が明・清の時代に役者や演劇界を指す「梨園」へ、そして日本の歌舞伎界の呼び方に繋がりました。
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華清池が温泉保養地として本格的に整備されたのは唐の太宗の時代ですが、この地で起こった中国史上(というよりは世界史上)もっとも重要なことは、「西安事件」です。高校で世界史が必修だった時代に高校生だった日本人なら誰もが知っている筈の大事件。この碑は1982年に作られたようです。
古代王朝の主達の優雅な保養所と、血生臭い政変(その後の展開はさらに血生臭い)が起きた場所が同じとは。 -
エリアの全体図。このエリアは国家5A級観光地(最高ランクの観光地)に指定されています。
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1930年代に改装された浴室で、蒋介石滞在時は彼専用となっていました。
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清王朝末期の1878年、荒廃していたこの場所が清様式の庭園として再整備されました。1900年にはこの建物が完成しましたが折しも義和団の乱が発生、北京はこれに八カ国連合軍に占領・略奪されてしまいました。西太后と光緒帝は北京を脱出して西安へ、そのとき行宮としたのがここです。
右側の建物は5つの部屋が連なっていたことから五間庁と名付けられました。 -
群青色の字に金文字の扁額は、建物の完成に合わせ、清代きっての文人・学者として知られている兪樾(ゆえつ)によるものです。曾国藩、李鴻章などの政治家、皇帝にその博識を讃えられ、日本の漢学にも親しみ書も良くした人物だそうです。
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もともと1900年に造営された時には、清王朝様式の建物だったそうですが、1930年代にこのような西洋風の設えになりました。中華民国の時代になると、高級官僚や高級軍人なども保養に訪れるようになりました。
そして1936年、督戦のために西安へ赴いた蒋介石もまた、ここに逗留しました。西安市内より、ここの方が警備もしやすく、いざとなれば逃げる場所もあり、神経痛持ちにはありがたい温泉も・・・ということだったらしいですが。。。 -
こちらは蒋介石の執務室。
これらの部屋の調度品は、当時の実物そっくりのレプリカです。 -
蒋介石が使用していた寝室や、応接室も保存されています。
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この左には寝室が。銃声に気付いた蒋介石は隣の寝室からこの部屋に来て、窓から外へ飛び降りて裏山に逃げたとか。
その裏山には「兵諌亭」と名付けられた、蒋介石が隠れた場所も保存されているそうです。「兵諌」とは「左氏伝(左伝)」という中国の古典に登場する故事に由来する熟語で、「兵(武器・軍隊)をもって諫める」という意味です。まぁ、中華人民共和国という国からすれば、張学良や楊虎城の行動は「諌」なんでしょう。 -
こちらは会議室と、側近らが執務していた部屋も。
このあたりでは激しい銃撃戦が行われたそうで、そのときについた弾痕などもそのまま保存されています。多くの死傷者が出た末に裏山へ逃れた蒋介石も捕らえられてしまいました。 -
西安事件は、抗日よりも共産党掃討に熱中していた蒋介石を、張学良と楊虎城が武力を用いて拘束した「兵諌」、もしくは「クーデター」です。毛沢東は当初、蒋介石の処刑を主張したそうです。その後の詳細な経過は今も謎、ともあれ蒋介石は国共合作を受入れ、張学良はその後長らく幽閉、楊虎城は極めて悲惨な最期を遂げました。
このとき共産党側の全権代表としてこの地へやってきたのが、周恩来でした。そのとき使用した浴室だそうです。この当時すでに「外交」なら周恩来、と定評があったとのこと。どういう話がされたのやら。 -
五間庁の二階部分から下を覗くと人だかりが。みなさんがのぞき込んでいるのは、今もこんこんと湧き出ている「温泉の源泉(古源)」の遺構です。華清宮には数カ所の源泉がありますが、ここは今も43度くらいのお湯が湧き出していました。
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血生臭い西安事件の現場を出て外へ。ちょうどこんなきれいどころが。ここで行われる劇の宣伝をしていました。
「斉胸襦裙(せいきょうじゅくん)」という、唐の時代に流行したデザインをベースにした衣装に、髪型も高髻、侍女の役ででも出演するのでしょう。 -
唐代を模した衣装で見学する人達も。
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華清宮の「血生臭くない遺構」へ。まずは有名な温泉遺構である「海棠湯」へ。白居易が長恨歌で「春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂」と詠った、唐の玄宗皇帝が、楊貴妃への贈り物として747年に作らせた専用の浴槽です。
1982年4月に偶然発掘され、土を払うとこの24個の石を美しく組み合わせた形状がはっきりと見て取れたそうです。元々、長恨歌や複数の史書に記述があったこの施設がどこにあるのか、考古学界でも長い間関心を持たれていたため話題になったのだとか。移設などはせず、保護すべき浴槽を覆う形で現在の建物が設計、建築されました。 -
こちらは玄宗皇帝専用の浴場であった「蓮華湯」の遺構。浴槽そのものは長さ10.6m、幅6m、深さ1.5m。広さはともかくとして、1.5mの深さは日本人からすると驚きですが、古代中国の入浴は座ってじっとしているのではなく、中にある台座も使って座ったり、立って歩き回ったり、時には泳いだりして楽しむものだったようです。
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突如現れた日本語の説明パネル。施設内のごく一部だけ、中国語、英語に加えて日本語表記のものがありました。
西安の他の場所でもそうですが、ところどころだけ、日本語表示があります。この華清宮に限ると、1980-90年代の「中国に来る観光客の殆どが日本人」だったころに整備されたところは日本語表記がある、ということらしいです。そのうち、「自国の言語+英語」が国際標準になり、韓国人観光客が増えるとハングルが追加されるようになったとか。 -
一方、「日本人は漢字を使っているから見れば大体判るだろう」と思われているのでスペースがなければ日本語はなし、が現在の主流だとか。
このパネル、「の」がちょっと右に傾いています・・・
もっともごく最近に整備された場所は、文字じゃなくてQRコードですが。 -
こちらは、太宗皇帝の専用浴槽。「星辰湯」と名付けられていました。644年に太宗によって建設されました。玄宗皇帝が自分用の浴槽を作らせたとき、湯を源泉から一度ここへ貯めるように設計しました。「貯水槽として使った」というとなにやら無礼な印象を持つ人もいますが、そうではなく太宗が一度お使いになった湯を・・・という意味ではないかと言われています。
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「温泉古源 一号出水口」と記された泉源もありました。
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尚食湯(しょうしょくとう)と名付けられた浴槽。皇帝に付き従う高位の官員や宮廷の「尚食局(皇帝の食事を司る部署)」などの内侍官たちのために用意された専用の浴池のようです。華清宮については、唐代の文人や宋代の学者が多くの書物で記述していますが、それらによれば16もの職掌・身分別に用意された共同浴場がありました。ただし、現在、遺跡として発掘・保存され見学できる主要な浴槽は5箇所(蓮花湯、海棠湯、星辰湯、太子湯、尚食湯)だけです。
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温泉古源 二号出水口、43℃の源泉が今も湧き出ています。
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温泉体験点、博物館の出口を出てすぐの場所に設けられている、観光客が華清宮の天然温泉に直接触れることができる「手湯・足湯の体験エリア」です。
これまで見てきた湯池(浴槽)は当然ながら入浴できるはずもないし、そこに湛えられている湯に触ることもできません。これまでに温泉というものを知らない人なら、触ってみたいと思うでしょう。 -
この噴水からは、現在も唐の時代と変わらず温かい天然温泉が絶え間なく湧き出ています。観光客が実際に手を洗ったりできます。
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これは九龍湖、1959年に唐代の「御湯遺跡(皇帝の温泉跡)」の山水格局(景観配置)をもとに、約6ヶ月かけて造られた約5,300平米の人工湖です。後ろには驪山が見えます。
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唐の玄宗皇帝は、毎年10月頃になると楊貴妃を伴ってこの華清宮(温泉離宮)を訪れ、年末まで滞在していました。その間の主要な生活の場がこの飛霜殿でした。
現在は、国賓クラスの外国人訪問客が西安を訪れる際にレセプション地として使われる事があります。まぁ、そのためにここでは「再現展示」などはされていないのですが。
さて、時刻も4時半を過ぎました。次の見学地である城壁へ移動です。
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