2026/08/08 - 2026/08/16
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rome†juri§さん
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※こちらは旅行記ではありません※
今回ウズベキスタンに行くにあたり、ウズベキスタンの事前知識(歴史とか)がほぼ皆無の状態でした。ただただ、テレビに映ったサマルカンドブルーが美しくて、直に見てみたいと思って渡航を決めたのです。
けれど、歴史を理解した上で訪れた方が旅が楽しめるタイプなので、訪れる都市についてネットや本で調べてみると、シルクロードやティムール帝国と深い繋がりがあることが分かりました。
とはいえ、ウズベキスタン、そして中央アジアの歴史はとても広く長く、とてもじゃないけど一度にすべてを理解するのは大変です。。
ですので、現在残っている建築物が造られた時代を中心に、旅行前に知っておくとより楽しめそうな歴史を自分なりにまとめてみました。
理解を整理するための備忘録も兼ねていますので、せっかくなので「歴史編」として残しておこうと思います。
こちらは旅行記ではありませんので、旅行記だけで結構、という方は次の旅行記へ。歴史に興味のある方はドウゾ。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- ウズベキスタン航空 アシアナ航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
サマルカンドやブハラは、紀元前6世紀頃にはオアシス都市として発展していました。
この地域には後にソグド人が暮らし、シルクロード交易を支える重要な商業都市へと発展していきます。
ソグド人とは、古代~中世初期のシルクロード交易を支えた、中央アジアのイラン系商人民族です。
この周辺地域は、ソグド人が暮らしていたことから、古代には「ソグディアナ」と呼ばれていました。 -
アレクサンダー大王の中央アジア遠征(紀元前4世紀)では、ソグディアナ地方が征服され、その中心都市の一つがサマルカンド(古名マラカンダ)でした。
このように中央アジアには古くから交易都市が存在していましたが、現在私たちが「シルクロード」と呼ぶ広域の交易路は、もう少し後になって成立します。 -
では、シルクロードはいつから存在したのでしょうか。
一般的には、前漢武帝の時代、張騫の西域遠征が行われた紀元前2世紀頃に、シルクロードが成立したとされることが多いようです。
もちろん、それ以前からも中央アジアには交易路が存在していました。
オアシス都市同士の交流や、遊牧民ネットワークも既に形成されていましたが、まだ中国~西方世界が大規模に結びついてはいませんでした。
張騫の西域遠征は、匈奴対策、西方諸国との外交、良馬の獲得を目的にしており、その結果、中国~中央アジア~ペルシア方面を結ぶ交易ルートが活発化し、これがシルクロードの始まりとされることが多いそうです。
その歴史は、陸路交易が徐々に衰退していく16世紀以降まで続きます。
シルクロードはとても長い歴史を持つため、厳密な公式区分があるわけではありませんが、自分なりにざっくりと時代区分を分けてみました。下の図参照。 -
私はずっと、「シルクロード=古代の交易路」というイメージを持っていました。しかし現在サマルカンドで目にすることができる壮麗な建築の多くは、14~15世紀のティムール帝国時代に築かれたものです。
・・・「シルクロード」と聞いて思い浮かべる景色と、実際に現地で目にする歴史には、思っていた以上の時代のズレがありました・・・笑笑
7世紀頃からのイスラム勢力の拡大などを経て、シルクロードは黄金時代を迎えます。そして14世紀後半、この地にティムール帝国が誕生し、サマルカンドは世界有数の都として大きく発展することになります。
では、そのティムール帝国はどのようにして誕生したのでしょうか。 -
ティムール帝国(ティムール朝)は、モンゴル帝国の後継国家が弱体化したことで生まれた、新たな帝国です。
モンゴル帝国は1206年にチンギス・ハンによって興された国家です。チンギス・ハンは東西への遠征を続け、モンゴル帝国は急速に領土を拡大します。やがて全盛期には、ユーラシア大陸をまたぐ巨大帝国へと発展しました。 -
1227年にチンギスハンが死去すると、モンゴル帝国はチンギス・ハンの子孫によって、それぞれのウルス(国家・統治集団)に分かれて統治されるようになります。
代表的なものとして、
・チンギス・ハンの長男ジョチの系統、ジョチ・ウルス
・チンギス・ハンの次男チャガタイの系統、チャガタイ・ウルス
・チンギス・ハンの三男オゴデイの系統、オゴデイ・ウルス
・チンギス・ハンの四男トルイの系統(後にモンケ・フビライらを輩出し、元(大元ウルス)やフレグ・ウルス(後のイル・ハン国)へ発展)
などがあります。
しかし14世紀に入ると、各ウルスは内紛や後継者争いなどによって次第に衰退していきます。 -
その中でも中央アジアのチャガタイ・ウルスでは権力争いが激化し、やがてチャガタイ・ウルスは事実上、西チャガタイと東チャガタイに分かれ、東側はモグール・ウルス(モグーリスタン)と呼ばれるようになります。
ティムールは、西チャガタイのバルラス部に属する家に生まれました。生誕地は現在のウズベキスタン南部にあるシャフリサブスで、古代にはソグディアナ、イスラム時代にはマー・ワラー・アンナフルと呼ばれた地域に位置しています。 -
ティムールが活躍した14世紀の中央アジアは、一人の王が支配する時代ではありませんでした。西チャガタイではチャガタイ家の権威が衰え、各地のアミール(有力者)が互いに勢力を争っていました。
一方、東のモグール・ウルスもたびたび西へ侵攻しており、中央アジアは混乱の時代を迎えていました。
ティムールは、そのような群雄割拠の中で、巧みな外交と軍事力を武器に勢力を拡大していきました。
モグール・ウルスがマー・ワラー・アンナフルへ侵攻すると、ティムールはいち早く服属し、支配者であるトゥグルク・ティムールから所領(キシュ(現在のシャフリサブス))を与えられました。この所領を足掛かりに勢力を拡大していきます。 -
その後、西チャガタイ内の同盟者であったフサインとともにモグール・ウルスに対抗しましたが、やがて西チャガタイの主導権を巡ってフサインと対立し、これを破ります。
・・・この時代、本当に敵味方がよく入れ替わりますね(笑)。もっとも、群雄割拠の時代には、こうした離合集散は決して珍しいことではありませんでした。
モグール・ウルスへの服属と離反も、フサインとの同盟と対立も、情勢が変われば敵味方は入れ替わり、まさに「昨日の友は今日の敵」の世界ですね。 -
こうしてティムールは、西チャガタイの主導権を握り、オゴデイ家出身のハンを擁立して、自らはアミールとして実権を握りました。
-
ここまでで、私が気になったことが2つあります。
①なぜティムールは、自ら「ハン」を名乗らなかったのか? -
ハンとは、「君主」「王」などの意味の称号です。(例:チンギス・ハン、フビライ・ハン等)
アミールとは、「司令官」「指導者」「総督」などの意味の称号で、名前ではありません。(恥ずかしながら、本を読むまではティムール・アミールさんという名前だと思っていました・・・汗)
当時の中央アジアでは、チンギス・ハンの男系子孫のみが君主「ハン」になる資格をもつという、「チンギス統原理」が強く意識されていました。
つまり、「チンギス・ハンの男系子孫だけが正式なハンになれる」というルールです。
ティムールは、チンギス・ハンの血筋ではなかった為に、「ハン」を名乗れませんでした。そこで、チンギス・ハンの血筋の者を名目上の君主として擁立し、自らはアミールとして実権を握りました。
②チャガタイ・ウルスを治める名目上のハンでありながら、ティムールは、チャガタイ家ではなくオゴデイ家の血筋の人物を、ハンに擁立しているんです。
チャガタイ・ウルスはもともとチンギス・ハンの次男チャガタイの系統が治めていた国です。だから私は、「チャガタイ・ウルスなのだから、チャガタイ家の人物をハンに立てるのでは?」と不思議に思いました。 -
調べてみると、オゴデイ家もチンギスハンの男系子孫なので、「ハン」としての資格は備えていたと考えられています。
私の中では、「チャガタイ・ウルスは国や政権の名前、チャガタイ家は血筋の名前」と整理すると、ようやく腑に落ちました。
チンギス家の男系なら資格としては問題なかった、ということなんでしょうか。必ずしもチャガタイ家である必要はなかったようですね。
意外と柔軟!w
このように「ハンを立てて実権を握る」という政治形態は、当時の中央アジアの政権では珍しいことではなかったようです。 -
また、ティムールはチャガタイ家のハンの娘を娶り、「キュレゲン(ハン家の女婿)」の称号を得ました。その後もティムール家は、チャガタイ家をはじめとするチンギス・ハン家の諸系統との婚姻を重ね、一族の正統性を強めていきます。
-
一方で、ティムールは宗教指導者や聖者を尊重し、モスクやマドラサを保護するなど、イスラム世界との関係も重視しました。その象徴の一つとして、サイード(預言者ムハンマドの子孫とされる人々)から、統治者としての権威を象徴する太鼓と旗を授けられたと伝えられています。こうして、ティムールはイスラムの守護者としての立場も築いていきました。
-
ここまでを整理すると、ティムールは
1. オゴデイ家出身のハンを擁立する。(チンギス家による統治の正当性)
2. 自らはチャガタイ家と婚姻し、さらに子孫もチンギス家との婚姻を重ねる。(チンギス家との結びつき)
3. 宗教指導者やサイードとの関係を築き、イスラム世界での支持を得る。(イスラム世界での宗教的権威)
という形で、モンゴル世界とイスラム世界の双方から支配者としての正統性を獲得し、ティムール帝国成立への土台を築きました。 -
では、ティムール帝国の建国とはいつなのでしょうか。
実際、ティムール自身が自らの国家を「ティムール帝国」と名付けていたわけではありません。「ティムール帝国」や「ティムール朝」という呼び名は、後世に付けられた歴史上の呼称です。
歴史的には、1370年にティムールがフサインを破り、オゴデイ家出身のソユルガトミシュを名目上のハンとして擁立し、自らはアミールとして実権を握ったことが、現在では一般にティムール帝国(ティムール朝)の成立とされています。
建国後、ティムールは周辺諸国への遠征を開始します。 -
ティムールはサマルカンドを拠点に周辺地域を平定した後、さらに遠方へ遠征を重ね、軍事力を示すことで各地に大きな影響を与えました。
モグール・ウルスを皮切りに、ホラズム方面、ジョチ・ウルス、イラン、インド北部、シリア、アナトリア……。ティムールはまさに東奔西走しながら、各地へ遠征を重ねていきます。
①それまで西チャガタイへたびたび侵攻してきたモグール・ウルスに対し、今度はティムールが軍を動かします。5度にわたる遠征の末、モグール・ウルスの勢力を弱体化させました。
②ホラズム方面にも4度にわたる遠征を行い、最終的にホラズムを征服しました。その後はホラズムのスーフィー朝と婚姻を結び、関係の安定を図っています。
こうした遠征を続ける一方で、国内では反乱や謀反への対応にも追われていました。
建国直後には、チャガタイのアミールたちによる謀反が相次ぎましたが、その都度迅速に鎮圧し、政権の安定を図りました。
しかし、最大の危機はティムールの遠征中に訪れます、ティムールが不在のサマルカンドを、ジャライル部族の反乱軍が包囲したのです。ティムールは子のジャハーンギールを急派して反乱を鎮圧させ、この反乱を主導したジャライル部族を解体しました。
こうしてティムールは国内の基盤を固め、再び各地への遠征を続けていきます。
③ジョチ・ウルスでは、当時トクタミシュがハンの地位に就いていました。トクタミシュは、もともとジョチ・ウルス内の後継者争いに敗れ、ティムールのもとへ身を寄せていた人物です。
ティムールはトクタミシュを支援してジョチ・ウルスへ送り返し、その結果、トクタミシュはハンの地位を手にしました。しかし、ハンとなった後はティムールの領土へたびたび侵攻し、両者は対立するようになります。
最終的に1395年のテレク河畔の戦いでティムールが勝利し、ジョチ・ウルスは大きな打撃を受けました。
④当時のイランでは、イルハン国(フレグ・ウルス)の滅亡後、ジャライル朝をはじめとする諸勢力が争う群雄割拠の状態となっていました。さらに、ティムールが従来のように擁立できる有力なチンギス・ハン家の人物も見当たらなかったため、新たな正当性が必要でした。
そこでティムールは、「イランはもともとチャガタイ家の領土であり、フレグ家が支配するようになったにすぎない」という論理を掲げ、イラン遠征を正当化し、その大部分を支配下に置きました。
⑤ティムールはインド北部へ遠征し、デリーを攻略しました。しかし、インドを領土とすることはなく、莫大な財宝を得るとサマルカンドへ帰還しました。
⑥シリアへ遠征したティムールは、ダマスカスを包囲しました。当時のシリアはマムルーク朝の統治下にあり、その君主ファラジュは首都カイロからダマスカスへ赴きティムールを迎え撃とうとしました。しかし、カイロでクーデター計画の情報が届いたため帰還を余儀なくされます。ファラジュの撤退によってダマスカスは孤立し、最終的にティムールへ降伏しましたが、その後、町は略奪され、多くの職人がサマルカンドへ移されました。
その勢いのまま、ティムールはさらに西のアナトリアへと軍を進めました。
⑦アナトリア地方はオスマン帝国の統治下にあり、当時のスルタンは「雷帝」と称されたバヤズィド一世でした。バヤズィド一世は、ティムールと対立していた勢力を受け入れ保護していたため、両者の対立は避けられないものとなっていました。
ティムールはオスマン帝国の背後を揺さぶるため、ビザンツ帝国やヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国などのキリスト教諸勢力と接触します。それを受けたバヤズィド一世は、当時包囲していたビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの包囲を解き、アンカラへと軍を進めました。
1402年、ついに両軍はアンカラで激突します。これが、歴史的にも有名な「アンカラの戦い」です。
オスマン軍の一部がティムール側へ寝返ったこともあり、戦況はティムール軍に有利に進みました。やがてバヤズィド一世は捕虜となり、オスマン帝国のスルタンが敵の捕虜となるという歴史的な出来事となりました。
その後、バヤズィド一世は捕虜のまま翌年に亡くなります。彼の死後、オスマン帝国では後継者争いが始まり、「オスマン空位時代」と呼ばれる約10年間の混乱の時代を迎えました。
ティムールは各地で圧倒的な勝利を収めましたが、ローマ帝国のように征服地を属州として直接統治することはあまりありませんでした。遠征先では服属を求め、戦利品や優れた職人・技術者をサマルカンドへ移すことを重視していたとされています。
こうしてサマルカンドには各地から富や優れた技術が集まり、ビビハニムモスクやグーリ・アミール廟、シャーヒ・ズィンダ廟群など、現在も残る壮麗な建築群が築かれていきました。 -
ティムールは、東はインドから西はアナトリアに至るまで、その圧倒的な軍事力を示しました。その勢いは衰えることなく、ティムールは東方への遠征を計画します。次なる目標は、中国を支配していた明でした。
しかし、その遠征の途上──
1405年、ティムールはシル河中流域のオトラルで病により死去しました。
死の直前、ティムールは既に他界していた嫡出の次男ジャハーンギールの次男、ピール・ムハンマドを後継者に指名していました。しかし、当時ピール・ムハンマドは遠方に赴任しており、すぐにサマルカンドへ戻ることができませんでした。 -
その隙を突いたのが、ティムールの三男アミーラーン・シャーの子であるハリール・スルターンです。ティムールの死から約1か月後、いち早くサマルカンドへ入城し、マー・ワラー・アンナフルの実権を掌握しました。
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一方、ティムールの四男シャー・ルフは、ティムールの遺言を守り、ピール・ムハンマドを正当な後継者とすることを掲げて挙兵します。帝国内の諸勢力も両陣営に分かれ、内乱へと発展しました。
その後、ピール・ムハンマドはハリール・スルターン側の策謀により自身の臣下によって暗殺され、ティムールの遺言は実現することなく終わります。しかし、この出来事はハリール・スルターンへの反発を招き、多くの離反者を生む結果となりました。 -
1409年、シャー・ルフはハリール・スルターンを破って内乱を終結させ、結果としてティムール帝国の後継者となりました。
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シャー・ルフはマー・ワラー・アンナフルの統治を子のウルグ・ベクに任せ、自らは帝国の本拠地を、現在のアフガニスタン西部にあるヘラートへ移しました。こうしてティムール帝国は再び安定期を迎えます。
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ウルグ・ベクは約40年にわたってサマルカンドを統治し、学問や天文学を保護するとともに、多くの建築事業を進めました。レギスタン広場のウルグ・ベク・マドラサや天文台なども、この時代を代表する建築です。サマルカンドは彼の治世のもとでさらに繁栄します。
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シャー・ルフが死去するとウルグ・ベクが帝国を引き継ぎますが、その治世は長くは続かず、即位から約2年後、実子アブドゥッラティーフによって殺害されました。
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ウルグ・ベクの死後、ティムール帝国では再び後継者争いが激化し、帝国は内乱と分裂を繰り返すようになります。こうして国力が衰えたところへ、1500年、シャイバーニー・ハン率いるウズベク族がマー・ワラー・アンナフルへ侵攻し、ティムール帝国はこの地での支配を失いました。その後、この地域はシャイバーニー朝の支配下に入り、ティムール帝国は歴史の幕を閉じます。
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一方、ティムールの子孫であるバーブルは、何度もサマルカンド奪還を試みましたが、その願いは叶いませんでした。やがて中央アジアを諦めて南へ転じ、北インドへ進出します。
そして1526年、バーブルはムガル帝国を建国しました。以後、およそ300年にわたり、ティムールの血統はインドでムガル皇帝として続いていくことになります。 -
ティムール帝国は滅びましたが、ティムールやウルグ・ベクが築き上げた壮麗な建築群は現在もサマルカンドに残り、「青の都」として世界中の人々を魅了し続けています。
ティムール帝国、サマルカンドの歴史はひとまずここまで。 -
次はブハラの歴史をちょっとだけ。
ブハラはサマルカンドと同様、古くからシルクロードのオアシス都市として栄え、多くの商人や文化が行き交う都市として発展しました。
9~10世紀にはサーマーン朝の都となり、イスラム文化や学問の中心地として大きく繁栄しました。現在も残るイスマイール・サーマーニー廟は、この時代を代表する建築です。
サーマーン朝滅亡後は、カラハン朝、ホラズム・シャー朝、モンゴル帝国、ティムール帝国と支配者が移り変わりました。
1500年、ジョチ家の血を引くシャイバーニー・ハンは、ウズベク族を率いてマー・ワラー・アンナフルへ侵攻し、ティムール帝国を滅ぼしました。シャイバーニー・ハンはチンギス・ハンの長男ジョチの男系子孫であり、ティムールにはなかった「チンギス家の正統性」を備えた支配者でもありました。
シャイバーニー朝は当初サマルカンドを都としていましたが、その後、都はブハラへ移されました。
以後、マー・ワラー・アンナフルではブハラが政治・文化の中心として発展しました。
1599年にシャイバーニー朝が断絶し、アストラハン朝(ジャーン朝)の支配下に入りました。
シャイバーニー朝、アストラハン朝(ジャーン朝)の時代は、現在では「ブハラ・ハン国」と呼ばれています。
その後、マンギト朝が政権を握ると、支配者はハンではなくアミールを名乗るようになり、「ブハラ・アミール国」と呼ばれるようになりました。
ティムール帝国滅亡後、ブハラ・ハン国からブハラ・アミール国へと続く政権は約400年にわたりこの地を支配しました。最後のブハラ・アミール国は1920年にソビエト・ロシアによって滅ぼされました。
現在のブハラ旧市街に残る代表的な建築物の多くは、ブハラ・ハン国からブハラ・アミール国時代に建設、あるいは大規模な改築が行われたものです。 -
次は城塞都市・ヒヴァをちょこっとだけ。
ヒヴァはウズベキスタン西部、ホラズム地方に位置するオアシス都市で、現在は城壁都市「イチャン・カラ」で知られています。
ホラズム地方の中心都市だったクフナ・ウルゲンチは、1388年にティムールの遠征によって大きな被害を受けました。
ホラズムはティムール帝国の支配下に入りますが、その後はシャイバーニー・ハンの支配下に置かれます。しかし、シャイバーニー・ハンがサファヴィー朝のシャー・イスマーイールとの戦いで戦死すると、ホラズムは一時サファヴィー朝の支配下となります。
1511年、イルバルス・ハンはホラズムを奪還し、ヒヴァ・ハン国を建国しました。
イルバルス・ハンも、ブハラのシャイバーニー朝と同じく、ジョチ家(チンギス・ハン家)の系統にあたり、「ハン」を名乗る正統性を持っていました。
当初の都はクフナ・ウルゲンチでしたが、16世紀末にアムダリヤ川の流路が変わったことで水不足となり衰退し、都はヒヴァへ移されました。以後、政治・文化の中心はヒヴァへ移り、ハン国の都として大きく発展しました。
現在世界遺産となっているイチャン・カラの街並みの多くは、この時代に形づくられました。
ティムール帝国滅亡後の混乱期を経て成立したヒヴァ・ハン国は約400年にわたりホラズムを支配しました。その歴史も、ブハラと同様に1920年、ソビエト・ロシアによって幕を閉じます。 -
シルクロードから始まって、ティムール帝国とサマルカンド、ブハラ、ヒヴァの歴史をまとめてみました。
いやー、難しかった~~~。
本を読みながらWikipediaも参考に、チャッピーにも手伝ってもらいながらまとめてみました。
歴史好きな素人が、旅行をより楽しむために、自分なりに理解しやすく整理した内容です。そのため、一部細かな出来事や人物などは省略しています。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
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