2026/03/08 - 2026/03/08
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bunbunさん
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昔近くに住んでいた水戸の偕楽園、常盤神社、大洗磯前神社に行ってきました。
今回の旅行の主たる目的は、2月11日~3月22日に偕楽園で開催されている第130回水戸の梅まつりですので、今回はまずこれについてご報告します。
偕楽園は水戸藩第9代藩主水戸斉昭(1800年~1860年)によって設計・造園され、1842年に開園しました。偕楽園の名称は、「孟子」の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」という一節からとったものだそうです。
水戸の梅まつりの会場は、上記偕楽園の約8割の面積にあたる偕楽園本園(本文で説明します。)と弘道館の2ヶ所になっていますが、偕楽園本園は広さ13 haで、ここに約100品種3000本の梅が植えられています。
水戸斉昭が、借楽園と弘道館に数多くの梅を植えた理由は、弘道館公園内の種梅記碑に刻まれています。
春の魁として咲く梅の花は詩歌のよい題材になり、また、実は梅干にして軍事や飢饉の際の非常食となることから、実用を重んじた斉昭は領内に広く植樹することを奨めた、とのことです。
偕楽園本園の梅の木の多くは名札が付けられていますが、本旅行記では100品種もの梅の名称を記載するのは無理ですので、適宜名称記載し、それ以外は単に梅、白梅、ピンクの紅梅、赤の紅梅、梅林、といった記載をします。
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東京駅から常磐線特急ひたちで約1時間20分、梅まつりの週末のみ停車する偕楽園駅に10:15に着きました。
偕楽園東門に通ずる常磐神社参道の階段です。(写真は帰りに撮影したものですが、アクセスが分かり易いようにここで示します。) -
階段を上って東門手前まできました。
脇にあった「常磐神社・偕楽園公園周辺案内」図。下方が北です。
偕楽園は東門から右側で、有料エリアは、常磐線の下部と水路の左側です。
詳細図はこの後で示しますが、4トラさんでは文字が小さくて読めない可能性があります。 -
ここで、偕楽園入場券を購入します。
日曜で快晴とあって凄い人です。
係員に聞いたら待ち時間は15~20分位でしょう、とのことでしたので、並んで購入しました。
料金は大人230円/人、70歳以上110円/人、小中学生120円/人です。
ちなみに、事前に、もしくは当日でもスマホで購入できるそうです。 -
東門に来ました。
ここから入園です。
ここも凄い人でしたが、入園券を見せるだけなので意外とすんなり入園できました。 -
入園したところにあった「偕楽園」案内板。下方が北です。
一点鎖線で囲まれた部分が偕楽園本園=有料エリアで、面積は約13 haです。
本園と言いうからには、本園でない偕楽園部分もあるのではないかと気になるところですが、偕楽園公園センターに問い合わせたところ、歴史的には本園にその西にある桜山と丸山を加えたエリアを偕楽園と呼んでおり、その面積は15.7 haだそうです。
本園の南(図の上)側にも田鶴鳴梅林や猩猩梅林がありますが、その意味ではこれらの梅林は偕楽園に含まれません。しかし、慣習的には、これらの梅林も偕楽園に含めることがあるようです。
またウキペディアには「偕楽園の本園は約13 haであったが、茨城県は1999年(平成11年)、隣接する千波公園や桜川緑地などと合わせて広域公園として運営する構想を発表、面積の合計は300 haとなった。茨城県営の都市公園「水戸県立自然公園」として管理・運営されている。」と記載されていますが、これは構想時点の話で、現在は没となっているため、この記載は誤りだそうです。
4トラさんの写真そのままでは分からないと思いますが、ご興味がありましたら拡大してご覧ください。
それでも分からないかも知れませんが。 -
園内のピンクの紅梅と白梅。
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好文亭方向(東方向)。
人が多いね。
かく言う私もそう思われているでしょうけど。 -
梅林。
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白梅。
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白梅とピンクの紅梅。
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梅。
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梅林。
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梅林。
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白梅。
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八重のピンクの紅梅。
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青空に映える八重のピンクの紅梅。
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ピンクの紅梅。
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赤の紅梅と白梅。
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赤の紅梅と白梅。
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白梅。
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白梅。
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好文亭。
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好文亭とピンクの紅梅。
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好文亭前のピンクの紅梅。
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好文亭。
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好文亭前のピンクの紅梅。
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椿も綺麗に咲いています。
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好文亭に向かいます。
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好文亭への芝前門。
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門をくぐったところにある好文亭の料金所です。
料金は大人230円/人、70歳以上170円/人、子供120円/人です。
ここも凄い人ですね。 -
チケットを購入して南に進み、振り返った北方。
ピンクの紅梅や椿が見えます。 -
好文亭とピンクの紅梅。
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少し南に進んで、好文亭とピンクの紅梅。
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また少し南に進んで、好文亭奥の院です。
見学の皆さんは白いポリ袋を提げています。 -
また少し南に進んで、好文亭奥御殿です。
手前のピンクの紅梅は「高砂枝垂」です。 -
好文亭入口にあった「好文亭ご案内」板です。
図の横にあった説明文を以下に示します。
「 好文亭は水戸藩9代藩主徳川斉昭によリ偕楽園の中心に建設された休憩のための施設です。誰でも入ることができた好文亭と、藩主専用の奥御殿からなリます。
昭和20年(1945) の水戸空襲により全焼し、昭和32年(957)に再建されました。
17の部屋からなる3層2階建、面積770 m^2の建物で、園内の最も景色が良い場所に立てられました。」
また、好文亭料金所の横にあった説明板の説明文も以下に示します。
「好文亭(こうぶんてい)
好文亭は、水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌・管弦の催しなどをして家中の人々とともに心身の休養をはかるために天保13年(1842年)に建てたものです。
好文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」 という中国の故事にもとづいて名付けられました。
建物は木造二層三階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、 全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたといわれています。
奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場所として備えられたためと、当時藩内では管弦など禁制であったので城中の婦人達のため遊息の場所としたという配慮があったようです。
昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲で全焼しましたが、昭和30年(1955年) から三年をかけて復元されました。 昭和44年(1969年) 9月落雷により奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和47年(1972年)2月に復元されました。
平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では壁の崩落など大きな被害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成24年(2012年)2月 に復旧しました。」
漢数字は適宜アラビア数字に変換しております。
この図では好文亭と奥御殿が別の建物のように記載されていますが、上記説明のように、また、偕楽園公園センターの説明でも、奥御殿は好文亭に所属します。
ここで靴を脱ぎ、提供されたポリ袋に入れて、これを持って順路にしたがって内部見学をします。 -
奥御殿に入ったところにあった羽衣の松。
「「羽衣の松」
偕楽園には、天翔の松・羽衣の松、三公園の兼六園には、根上りの松・唐崎の松、特別名勝の栗林公園には、鶴亀松・根上り五葉松と、それぞれ名木がある。
天翔の松や羽衣の松は、兼六園、栗林公園の松のように、人為的に創られたものではなく、永年の風雪に耐えた自然な姿である。この松の樹容は、偕楽園の自然式大名庭園を象徴するものであろう。
梅林から眺めた天翔の松は、空高く天を衝く黒松である。(省略)
羽衣の松は、仙奕台の南岸に根を生やし、やや斜めに立ち上がって、全ての枝を南崖に垂らす。(省略)
羽衣の松も黒松であって、幹周り2.4 mで天翔の松より若い。白梅を白砂、波、衣にたとえ、黒松を添えると、三保の松原に連なる。
磐公園攬勝図誌には「仙奕台の辺りに松樹ひと根は駿州三保の松原羽衣の松苗をうつされしとなり」とある。真偽はともかく、この松の由来はここにみられる。(以下省略)
松崎睦生著「偕楽園歳時記」より
昭和53年(1978年)11月25日
天翔の松伐採(松喰い虫〕
昭和54年(1979年)10月10日
羽衣の松伐採(マツノザイセンチュウによる)」
―説明板の説明文より―
この後見晴広場でたくさんの枝ぶりの良い松を見ますが、足立美術館庭園(https://4travel.jp/travelogue/12026902)同様黒松ということですか。 -
菊の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
これは見事なもんですねえ。
たまんねえな。
ここで説明板にあった説明文を以下に示します。
「奥御殿の襖絵は東京芸術大学で教鞭を執った日本画家の須田珙中と田中青坪によって描かれました。襖絵の制作の基本方針は、その部屋の名称を画題として、作家の自由な発想で描くというものでした。
制作は第一期と第二期に分けられます。まず瑛中が萩、梅、紅葉、松の間を完成させましたが、竹の間の制作に移ろうとした頃、病に倒れ、残りの制作は青坪へと引き継がれました。青坪は竹、菊、桃、桜、つつじ、入側の間 (南天)を制作しています。」
「須田瑛中(すだきょうちゆう)
[明治40年(1907)~昭和39年(1964)]
福島県生まれ、本名・善二。中学生の頃、藤島武二に入門して洋画を学んだのち21歳で東京美術学校に入学しました。在学中は松岡映丘に学び、卒業後は前田青邨に師事します。在学中から頭角を現し、活躍の場を帝展から新文展、そして院展へと移していきました。 好文亭の障壁画を描いていた頃の瑛中は、芸大の助教授に就任し、院展でも高い評価を受け始めた時期でしたが、病に倒れ惜しくも昭和39年に57歳の若さで没しました。
瑛中は帝展や新文展に出品していた時期は、明快な写実による風景画などを手がけていました。その後は院展において、鵜飼いや正倉院など日本の伝統を感じさせるモチーフを主題としながら、形態の単純化、抽象化を追求し、重厚な色彩を伴った作品を発表しました。好文亭の襖絵を描いた時期は、まさにこの画業の充実期に当たっています。襖絵を描くにあたっては、装飾性に重点がおかれ、瑛中の新しい画境を感じさせるものとなっています。」
「田中青坪(たなかせいひょう)
[助治36年(1903)~平成6年(1994)]
群馬県生まれ、本名・文雄。太平洋画会研究所で洋画を学んだ後、小茂田青樹に師事し、日本画に転向しました。院展を中心に活躍し、大正13年に初入選したのちは継続して入選を果たし 昭和7年、29歳のときに最年少で日本美術院同人になっています。同19年に東京美術学校助教授、同34年に教授となって後進の指導に尽力しました。
青坪の初期作品は、徹底した細密描写が特徴で、師である小茂田青樹の影響が強く見受けられます。鳥や草花などの写生を精力的に行い、自然を丹念に観察した描写は生涯を通じて作品制作の土台となりました。昭和期に入ってからは新しい日本画を模索して、洋画の構図や色彩を取り入れたモダンな作品を次々と発表しました。好文亭の襖絵も伝統的な画題を取り扱いながら、青坪作品に共通する自由で伸びやかな明るい色彩が見られます。」
1つ上の写真の説明、および後示す説明板のように、好文亭は1945年の空襲で全焼していますの、現在の襖絵は復元時の1955年~1958年に描かれたものです。それ以前も部屋名に合った襖絵はあったと思いますが、画風は現在のものとは異なっていたと想像します。 -
菊の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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菊の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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菊の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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菊の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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菊の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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桃の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
「桃の間
田中青坪筆
桃の間は総板敷きで厨 (くりや:食事の準備の場所)として使用された部屋です。
桃の樹を配した襖十四面が三峰を囲んだ空間をつくっていす。地面は描かれていませんが、樹の根元を描写することで画面に奥行きを暗示させています。桃のほかに青々とした松葉が画面を分断するように描きこまれ、青坪の画面構成に対する大胆さがよくあらわれています。」
―桃の間の説明板の説明文より― -
桃の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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桃の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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躑躅(つつじ)の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
後で反対(右)側をもう一度通ります。 -
躑躅の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
1つ上の襖の対面です。 -
紅葉の間の須田瑛中画伯筆の襖絵。
「紅葉の間
藩主夫人が城中から好文亭においでになった時、お付きの御殿女中のおもだったも者が控えていた部屋です。」
―紅葉の間の説明板の説明文より― -
松の間の須田瑛中画伯筆の襖絵。。
「松の間
この部屋は藩主夫人がお城から好文亭においでの折休息されたところです。」
―松の間の説明板の説明文より― -
松の間の須田瑛中画伯筆の襖絵。
同じ襖絵を1つ上写真とは反対側から撮影したものです。 -
松の間をぐるっと回って先ほどとは異なる方向から見た、紅葉の間の須田瑛中画伯筆の襖絵。
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竹の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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1つ上の写真の上部。
欄間も竹ですね。 -
竹の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
2つ上の襖の対面です。 -
梅の間の須田瑛中画伯筆の襖絵。
「梅の間
明治2年から同6年まで藩主夫人の居室となり、明治35年大正天皇が皇太子の時ここにお泊りになられました。
また、大正元年、昭和天皇が皇太子の時、秩父宮、?松宮殿下とご一緒に御来亭の折、御休息なされ、大正15年には三笠宮殿下が御休憩なされた部屋です。」
―梅の間の説明板の説明文より―
中央は満月かな。これはいい。金箔を張り付けているようです。 -
梅の間入側の田中青坪画伯筆の襖絵。
「梅の間入側
梅の間と清の間をつなぐ部屋で、清の間とともに梅の間の付属室としてしようされたと考えられます。戦後の好文亭再建にあたり、奥には田中青坪により南天が描かれました。」
―梅の間入側の説明板の説明文より― -
先ほどとは反対側から撮影した、竹の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
先ほどは気づきませんでしたが、右上の鳥は雀のつがいですかねえ。 -
萩の間の須田瑛中画伯筆の襖絵。
圧巻だね。
「萩の間
藩主夫人がお城から好文亭においでになった時、お供の御殿女中が休息した控の部屋です。
隣の桜の間も同様です。」
―萩の間の説明板の説明文より― -
萩の間の須田瑛中画伯筆の襖絵。
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萩の間から見た好文亭庭園の梅。
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桜の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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先ほどとは反対側から撮影した、躑躅の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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先ほどとは反対側から撮影した、躑躅の間の田中青坪画伯筆の襖絵。
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「太鼓橋廊下
この太鼓型の橋廊下は奥御殿と好文亭を結んでいます。
廊下の左側に烈公が創案した篠で作った格子窓があります。この窓は外からは窓であることが判らないように工夫して作られています。」
―説明板の説明文より―
と書かれていますが、この写真の廊下は太鼓橋廊下ではありませんね。
この廊下は奥御殿南側を東西に結ぶ廊下です。
太鼓橋廊下はこの左につづく廊下です。 -
太鼓橋廊下を通り終え、東塗縁から東南東に見た庭園と、左奥の見晴らし広場、右奥の仙波湖。
松と梅がありますね。あと竹があればめでたさのシンボル松竹梅ですか。
竹林にはこの後行きます。 -
見晴らし広場、ズームイン。
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仙波湖方向、ズームイン。
近くに住んでいた頃、仙波湖周辺をよく散歩しました。
懐かしいなあ。 -
右はカフェ「樂」です。
「好文亭ご案内」の図には記載されていませんが、このカフェは図で「西塗縁」と書かれた場所の南(下)側です。 -
御座之間
「藩主の間
藩主斉昭(烈公)が好文亭にお成りの時、ここで文人、墨客、庶民などに接しました。 部屋は紗張戸を用い左右が透かして見えるように工夫され、特に床の間は設けず簡素に竹の柱だけが下げてあります。」
―説明板の説明文より― -
ということで、御座之間(藩主の間)から見える南側の景色です。
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御座之間(藩主の間)から見える南東の景色
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西塗縁広間にあった空襲による好文亭全焼の説明板。
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全焼した好文亭復元の説明板。
復元は1958年(昭和33年)2月で、3月1には一般公開だそうです。 -
江戸時代の建物ですねえ。天守なみの急な階段を2階に上ります。
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2階に上ったところにあった配膳用昇降機です。
「階下の調理室で作ったお膳や酒肴を運搬する滑車式昇降機です。」
―説明板の説明文より― -
下を覗いてみました。
こりゃ落ちたら死ぬな。
下にあるのは滑車のロープですかね。 -
2階楽寿楼ベランダから見た東南東方向。
左は見晴広場、右は仙波湖です。 -
東方。
左は梅林、右は見晴広場です。 -
梅林、ズームイン。
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南方。
田鶴鳴梅林(無料エリア)とその奥は仙波湖です。 -
南西方向。
下から田鶴鳴梅林。沢亘川に架かる花追橋、猩猩梅林、その上は桜川です。 -
階段を下りて玄関にやってきました。脇にある何陋庵(かろうあん)です。
「簡素な草庵風の茶室で、何陋庵といいます。この床柱は、つつじの古木で、鹿児島県屋久島の産です。
この庵の名称は「論語」にあることばをとったもので、孔子の住居がいかにも狭苦しいのを弟子が見てそのことを申したところ、孔子は
君子居之何陋之有(君子が中にいるのだ 何でむさいことがあろうか)といわれたということからきています。」
―説明板の説明文より― -
外に出て見た何陋庵。
茶室用の蹲踞(つくばい)があります(左下)。 -
好文亭の敷地から出る途中のピンクの紅梅と椿。
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ピンクの紅梅。
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芝前門脇の売店。
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孟宗竹林にやってきました。
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西に進んで孟宗竹林。
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北に進んで孟宗竹林。
「ここの竹は、弓の材料とするために斉昭が京都の竹を移植したものがはじまりです。」
―説明板の説明文より―
めでたさのシンボルじゃないのか。 -
目指すは表門。
今度は杉並木だ。
戸隠神社の参道(https://4travel.jp/travelogue/11273535)を思い出すねえ。あれはきつかった。 -
表門にやって来ました。
正確には「好文亭表門」と言うのか。 -
また梅林に戻って東門方向に進みます。
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梅林。
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白梅。
造園当初からの梅ですかねえ。枝ぶりがいい。 -
藤牡丹枝垂
中崎 八重
淡紅色 -
月影
「開花期は2月中旬から3月上旬。青白い花色と言われていますが、うすい黄緑に見えます。丸くて暑い花弁、しべが豪華で落ち着いた雰囲気をもちまる。花の輪郭が特に美しく、香りも強いです。」
―説明板の説明文より― -
ということで、月影の花をズームイン。
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ピンクの紅梅と白梅。
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梅林。
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開運
遅咲き 八重
淡紅色
裏紅が濃い -
塒出の錦(とやでのにしき)
中崎 八重
紅色
若い枝に虎斑が入る -
芳流閣
中咲き 一重
白色
一重では最大輪である
左下のお二人、モザイクをかけましたが、りくりゅうさんかと思った。 -
白梅。
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梅林。
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中央の背の高い梅は、
玉牡丹
早咲き 八重
移り白
銘花日本三牡丹の一つ -
白難波(しろなにわ)
「開花期は1月下旬から2月下旬。やや早咲きの白色中輪で、ほころびたときの微かな淡紅色が開花したのちも花の外側に残るのが特徴です。」
―説明板の説明文より― -
滄溟の月
中咲 一重
移り白
明治時代の月の名がつく三銘花のひとつである -
梅林
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黒田
中咲 八重
紅色
雄しべが膨大である -
黒田、ズームイン。
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ピンクの紅梅。
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難波紅(なにわこう)
中咲き 薄紅色
スモモ系 八重 -
難波紅
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梅林。
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白加賀(しらかが)
-
白加賀
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春日紅(かすがこう)
中咲き 紅色
スモモ系 八重 -
春日紅
-
輪違い(りんちがい)
中咲き 八重
咲き分け
一輪一輪花色が異なるという意味の名前をもつ -
輪違い
私には全部白にみえますがねえ。 -
東門近くに戻ってきました。
西方。
中央奥に見える建物は先ほど行った好文亭です。 -
ピンクの紅梅
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西南西に移動して見晴広場から北西に見た梅林と松。
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かっこいい松なので近づいて梅と一緒にまた一枚。
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方向を変えてもう一枚。
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見晴広場を東に移動して北西に見た松。
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北に見た白梅。
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東門から西に延びる通りを西に見た両側の梅林。
中央奥に見える建物は先ほど行った好文亭です。 -
西南西に大きく移動してまた好文亭の東にやって来ました。
右が奥御殿です。 -
少し近づいて望遠でもう一枚。
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南に移動して偕楽園本園台地の南縁にやって来ました。
南方の風景です。
下に常磐線の線路が見えますが、その上右側は田鶴鳴梅園(厳密には偕楽園ではありません。)、その斜め左上が仙波湖です。 -
偕楽園本園台地の南縁を東に移動した所にある仙奕台*)東からの南東の風景。
下に見える散策路から、偕楽園本園台地を南に下りることができます。
後で行きます。
上は仙波湖です。
*) 「千波湖(仙湖)に向かい突き出た台地で、ここからの眺望は、崖から伸びる松と合わせて湖の美しさを実感できるものです。
石造りの碁盤、将棋盤などが置かれ、景色を眺めながら楽しめるよう にエ夫されていました。 「奕」は囲碁を意味します。
昭和20年(1945年)の空襲により、好文亭や園内の梅樹とともに碁盤 は失われましたが、常陸太田市町屋産の石で復元されました。」
―説明板の説明文より―
現在、仙奕台は策で囲われていて中に入ることはできません。 -
偕楽園本園台地の南縁を東に移動した所からの南東の風景。
-
先ほど見えた散策路を下りてきました。
途中にあった石碑。
「僊湖暮雪碑(せんこのぼせつひ)
徳川斉昭(烈公)が、中国の瀟湘(しょうそう)八景になぞらえ水戸藩内の景勝の地 八ケ所を選び「水戸八景」と定めました。
水戸八景は、単に風流のためだけではなく、藩士の子弟の八景めぐりを奨励し、心身の鍛錬を目的にしたものでもあります。
碑は斉昭の書で、 「暮」の字に古典文字の「莫」の字を当てています。」
―説明板の説明文より― -
さらに西方に下った西方。
綺麗な梅の横を常磐線が走っていす。
撮り鉄の皆さんには絶好の撮影スポットのようで、電車が来るのをたくさんのカメラマンが待ち構えており、撮影が終わると一斉に去っていきました。 -
東に戻った東方。
これで偕楽園本園の見学は終わりです。
坂を上って東門から出、次は常磐神社に向かいます。
常磐神社については後日ご報告します。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- nichiさん 2026/03/21 17:35:31
- 綺麗ですね~
- bunbunさん
こんにちは、
いつも「いいね」ありがとうございます。
偕楽園は昨年3月上旬に訪れたこともあり、夫婦でbunbunさん の旅行記を拝見しました。
隅から隅までじっくり丁寧に巡っていらっしゃいますね。
色々勉強にもなりました。
私共が訪れた時より梅が多く咲いているように思えます。
好文亭はあまりの長い行列だったので入るのを諦めた所です。
中はこんな感じなのですね。
襖絵が素敵なのと、転記された説明文をじっくり読んじゃいました。
羽衣の松の説明文の興味深いですね。
そして楽寿楼の2階からの景色も素敵です!
偕楽園の細かい所を色々教えて頂きありがとうございました。
- bunbunさん からの返信 2026/03/22 13:44:29
- RE: 綺麗ですね~
- nichiさん、こんにちは。
ご訪問、私の拙い旅行記にいつも投票ありがとうございます。
私は何でも知らないと気に食わない質で、こまごまとしたことまで旅行記に書いてしまいます。読んでくださる方々にはいい迷惑だろうと思っていますが、確信犯です。
そんな私の旅行記を丁寧にお読み頂いき、少しでもお役にたてたようでしたら、まことに光栄で嬉しく、心より感謝いたします。
遠隔地の花を見に行くには、花の開花状況、天気、ホテルの部屋の空き具合のマッチングを取らなければならないのでいつも苦労しています。今回はこの日にしましたがちょっとだけ遅かったかな、という気がしました。特急電車やホテルを予約したあと天気予報が変わり、4日前の3月4日が快晴となりましたので、この日がベストだったのではないかという気がしております。それでも綺麗な梅をたくさん見ることができましたので、満足はしております。
伊豆の旅行記拝読いたしました。
伊豆は大好きで札幌に転職する前は、東も西も中央もよく行きました。温泉、食事、眺望は言うことなしですね。特に東京より一足早い春は大好きです。
これからもnichiさんの旅行記を楽しみにしております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
bunbun
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