2025/12/28 - 2025/12/28
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さっくんさん
正月前の冬休み、近場を散策しようと多摩の地図と睨めっこしていました。町田市の小山田と言う地名が気になって、調べて見てビックリ。あの戦国時代の絶世の裏切り者、小山田信茂の祖先が勢力を張っていた地だったと知りました。
そんなこんなで小山田氏の事を深掘りしたく、でも小山田信茂を知るなら、町田じゃなく現地でしょ。…でも、小山田信茂を語るなら、勝頼抜かしては語れないでしょ…。と徐々にイメージは広がり、早速甲斐を目指す私なのでした。
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小山田信茂、武田勝頼、共に人生最期のターニングポイントとなった岩殿山城へ向かいます。武田勝頼にとっては、配下に土壇場で裏切られ、この城に入城出来なかった事により、行き場を失い、武田家滅亡へと繋がった城。小山田信茂にとっては、主君を裏切り、この城に主君を迎え入れなかったばっかりに、頼った先の織田信忠に斬首される事になりました。まるで裏切った主君の後を追うかの様に…。
岩殿城の城主も、入城を拒まれた城主の君主も、わずか数日のうちに死を遂げる事となったある意味呪われた城とはどの様な城なのでしょうか?
調べて見れば低山とは言え、結構登り応えのある山の様なので、始発に乗って向かいました。 -
岩殿山城がある山梨県大月に到着しました。駅のホームから岩殿山城がある岩殿山を眺める事が出来ます。思わず昨年訪れた石田三成の居城佐和山の城を思い出してしまいました。(佐和山城のある佐和山も、彦根駅から眺められます。)
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岩殿山城の城主は小山田信茂。小山田家は鎌倉時代、現在の町田市小山田町周辺に勢力を張っていた桓武平氏秩父氏流の名門でありましたが、源氏が滅び、北条家が執権になると、それまで源氏の重臣を務めていた梶原家や畠山家等は北条家にとって目の上のたん瘤となり、討伐対象となっていきました。
小山田家は、北条義時の奸計にかかり、大きく勢力は縮小。そんな中活路を見出す為町田から甲斐に移動した一族は、最初こそ甲斐武田と争ったものの、やがて従属。武田家に国衆として従属していく事になりました。 -
この国衆と言うキーワードは、後々重要になるので覚えていて欲しいです。武田家の支配体制は、その後の織田家や豊臣家の様な中央集権的な新しい体系では無く、古来の統治体制でした。
血縁や政略結婚等で血が繋がった家は、一門衆と呼ばれ、現代の企業で言えば直営店の様な存在だったのに比べ、国衆は現代の企業に例えるとフランチャイズの様なもの。武田の暖簾は掲げ、武田家の庇護は受けつつ、武田の方針に従うものの、国の運営に関して多くの自治権を保有していました。武田軍団とは、そんな国衆の寄せ集めでした。 -
そんな武田家の国衆として小山田信茂の重要な任務は、嘗て当時の後北条の領地である小山田に拠点を置いていた事もある故に、北条氏との外交担当でした。武田家は東に北条、南に徳川、北に上杉、西に織田と競合に囲まれていた故、外交担当は重要な任務であり、信茂は徳川との窓口担当だった武田家のアナ雪こと穴山梅雪と共に大活躍し、北条に留まらず上杉との外交に於いても活躍しました。
しかし、時は過ぎ、武田の代は信玄から勝頼に変わり、長篠の合戦の大敗からは立ち直ったものの、外交の失敗等から武田家は階段を転げ落ちる様に衰退していきました。そして織田信長の甲州征伐を前に、新造した新府城では防ぎきれない窮地に立たされ、全てを失った勝頼が頼った先こそ、小山田信茂が守る岩殿城でした。そして、小山田信茂はそんな勝頼を裏切り、岩殿城には入場させなかったのです。
行き場を失った勝頼は、所縁の地である天目山を目指すものの、途中織田信長の配下、滝川一益の軍勢に発見され、田野の戦いの最中、切腹。武田家は滅亡を遂げるのです。 -
小山田信茂が居城とした岩殿山城がある大月は、相模湖を挟んだ向こうには、北条氏照の居城八王子城があり、正に北条氏との国境を守る城として機能しており、岩殿山は、葛野川が桂川に合流する川に挟まれた地形に聳える様に立つ天然の要害と言えます。また川の多くの部分も深い谷を形成しており、流れも急で、淵が少ないので渡り辛く守りの固い地形でした。
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現代では橋も完備され、近くには中央道も走っています。そんな訳で一気に渡河を終え、振り返ればなんと富士山が真後ろに控えていました。大月は盆地故、夜明けは終わってはいますが太陽は山に阻まれ未だ顔を出していません。
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強瀬登山口に到着しました。全く偶然だったのですが、後から調べて見ると、山崩れによりこの登山路は長らく通行止めであり、登山客は山の反対側の登山道からアプローチしていたのですが、私の訪れる三日前、即ち25年12月25日に漸く開通の運びとなったとの事です。
なんか、岩殿山に呼ばれた様な気がしました。いつも閃くままに旅するので、一週間前なんて岩殿山なんて思いつきもしていませんでした。私が行こうと思った矢先に開通!だなんて嬉しいですね!小山田信茂公、大義であった! -
いやぁ、でもこれは嬉しく無いなぁ。アフガニスタンよりイラクより恐ろしいです。だって話が通じる相手ではありません。私は登山家では無いから鈴持ってくるの忘れました。でも歌は歌えます。声は人一倍煩いと言われます。だから歌いましたよ!
「ある日、森の中、熊さんに、出逢った♪」
で、ええ、出逢いましたよ!熊さんの様な地元の散歩のオジサンに(笑)
ええ、恥ずかしくなって逃げましたよ!スタコラさっさっさのさ!
https://youtu.be/-lpE9ohRL7c?feature=shared -
冗談は兎も角、歴史を振り返りましょう。と、此処で伝えておきたいお願いがあります。これは旅行記なので、旅した順番通りに書いています。武田家の滅亡をテーマに、岩殿山、景徳院、新府城の順番で旅しましたが、実際の流れはこの順番ではありません。以下の様になります。
1新府城。高天神城が落城し、それを救援できなかった武田氏の威信は潰え、織田徳川連合軍に加え、東から北条も進軍を開始。武田勝頼は軍議の末、小山田信茂の居城岩殿山城に入り再起を試みることになる。
2武田勝頼は軍議通り此処岩殿山城を訪れるが、寸でのところで小山田信茂は勝頼を裏切り入城を拒む。そして勝頼は途方に暮れるのであった。(現在は此処)
3途方に暮れた末、勝頼は天目山を目指しますが、織田方の滝川一益の軍勢に感づかれ、現在の田野にて戦闘となり、息子の信勝が時間を稼ぐ中、北条夫人と共に切腹。此処に武田家滅亡となります。
順番が混ぜこぜになってしまいますがご了承ください。 -
史実のものとは違いますが、冠木門が雰囲気を盛り上げてくれます。
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イチオシ
途中登山路から未だ太陽が山から顔を出す前の富士山が見えました。流石日本一の山、富士山だけが陽の光を浴びています。
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登る事約10分、丸山公園に到着しました。大月自体高い位置にある街なので、丸山公園の標高は既に444m。岩殿山の標高はスカイツリーと同じ634mなので約200mの登山です。
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丸山公園は岩殿山城の麓なだけあって、歴史好きに配慮した造りになっています。到着時間が早過ぎた為営業はしていませんが、ふれあいの館と言う資料館があり、様々な資料を入手出来る筈です。
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さて、戦国時代は裏切りは朝飯前の世界観でしたが、そんな中でも一番醜悪な裏切りとも言われる裏切りの舞台となったのが此処岩殿山城です。それはその対象が武田家と言う名門を屠ったものであった事もさる事ながら、そのタイミングが最早抵抗する力も無くなった、勝頼が信茂を頼るしか方法が無い状態での裏切りであった事が、そう言われる所以でしょう。
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しかし、現代であったとしても倒産するだろう会社に最期迄残ろうとする人はあまりいないと思います。会社が傾けば、能力がある者からどんどん他の会社へ移ってしまうものです。戦国時代なら猶更の事です。木曽義昌が織田信長に靡き、武田家の重臣アナ雪こと穴山梅雪でさえ徳川家康に鞍替えしてしまいました。武田家と血で繋がった一門衆ですらそうなのですから、国衆に過ぎない小山田信茂が裏切ったとしても何もおかしくは無かったのではないでしょうか?
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だけれど、戦国時代とは言ってもやって良い裏切りと、やってはいけない裏切りがあったのです。現代の会社でも同じですが、報連相です。木曽義昌は織田信長と、アナ雪は徳川家康と、事前に打ち合わせの上転職したのです。
これは関が原でも同様です。動かなかった吉川広家、関ケ原の勝敗を決した小早川秀秋、脇坂安治は戦いの前から報連相を行った上での行動でした。 -
一方、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の三名は合戦の勝ち目に乗って裏切りを決行しました。こうした風見鶏的な裏切りは戦国時代であったとしても忌み嫌われたのです。当然東軍に寝返ったにも関わらず、徳川家康の命により彼等は哀しい末路を辿りました。
小山田信茂の場合も、木曽やアナ雪とは違い、報連相を行わなかった事、更に彼等の離反とは大きく後れ、最早武田勝頼の命運にリーチがかかっている状態での裏切りだった事により、非常に後味の悪い結末を迎えてしまいました。
彼はその後、甲斐善光寺に出頭し、織田信忠と面会しますが、即答で家族もろとも斬首されてしまいました。当然の結果とも言えるでしょう。 -
丸山公園から本格的な登山コースとなります。4514番目の登山者。これは今月の登山者数でしょうか?
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但し歴史と言うものは、立場や場所、様々な角度から眺める事でまるで万華鏡の様に捉え方が変わってくるものです。小山田信茂の地元である大月では、小山田信茂、戦国最大の裏切り者とは、また違った見方をしている様です。
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足場材が敷かれています。これは本来のコースが崩落により通行止めとなった事で新コースを作らなければならなくなった事によるものと思われます。これは数年かかった様ですが、こうして復旧して頂けた事で、また駅チカから登山出来る様になったので感謝しなければなりません。
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漸く斜面に陽が差しました。と言う事は遅ればせながら太陽が山の上から顔を出したのでしょう。
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振り返れば、太陽君が遅ればせながら「おはようさん!」山国は山から顔を出し、山に沈んでしまうので、冬場は日照時間が限られます。
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大月での小山田信茂像は「自らを犠牲にし地元に戦を持ち込まなかった将。」として評価されている様です。全て納得と迄いかずとも理解出来る部分は多分に含みます。
武将としての行いは置いておくとして、此処に暮している人々の視点に立てば、もし信茂が勝頼を入城させていたら、信長の掃討作戦に街が巻き込まれ焦土化されていた筈です。彼等にしてみたら、勝頼と言う厄介者を追い払ってくれたから。村が助かったと言う事になるのでしょう。
更に着目すべき点は信茂は勝頼を入城は拒みましたが、彼を手にかけようとはしなかった事です。やろうと思えば出来た。更に裏切るのなら、その対象の首を手土産にする事が効果的であったにも関わらず、信茂はしなかった点です。
この様な事から、地元では信茂は、地元を守る為に汚れ役を買って出たとされているのです。
更に補足すれば、彼は国衆であって一門衆では無かった事です。一門衆なら血縁なので、何が何でも主君を守らなければならないでしょうが、彼は国衆に過ぎないので主君も大事ですが、自分の国を守る事も同等に重要な事なのです。だから彼は自分の国の安定を優先したと言う見方も出来ます。 -
登山路の脇に張られた真新しいロープには昨今の熊情勢に対応して鈴が装備されていました。ありがたい配慮です。ロープをブンブン回しながら登りました。
確かに考えさせられてしまいます。私は戦争と言うものは、攻め込んだにせよ、攻め込まれたにせよ、政治家の失策だと思っています。口で戦うべき人達が、制御を失い暴力に訴えるのが戦争だからです。只何時だってその代償を払わせられるのが一般市民なのです。一般市民の視点から見れば、確かに小山田信茂は良い選択をしたのかもしれません。 -
上部の岩山が見えてきました!
去る事ながら、私の見解では、そうなった事は結果論だったのでは無いかと思います。理由としては、裏切るのなら最初から岩殿山に勝頼を呼び寄せる事はしなかった筈(違う佞臣が岩殿山に向かう案を出した説もあります。でも、例えその案が他人の地から出されたものだとしても断れた筈です。)
更には、彼はあわよくば織田家に取り込んで貰おうと甲斐善光寺に出頭しています。彼が行った自分可愛さが、結果的に地元を戦場化から救ったと見るのが妥当なのではないでしょうか? -
織田徳川連合軍+北条の甲斐討伐が始まり、新設したとは言え、其処では防ぎきれないと悟り、新府城を焼き払い、行き場を決める軍議の中で真田昌幸が岩櫃城を勧め、小山田信茂が岩殿城を勧め(別人が勧めた説あり)意見は二分されたと言います。(真田説は信憑性を疑う説もあり)
ただ、真田昌幸は旧来の武田から見れば新参者、新参者の発言権を増幅させたくなかった古参の武将が、甲斐を捨てる気か?女子供も含めた逃避行を上州の岩櫃城迄続ける事は不可能だと言い張った為、勝頼は岩殿山城へ向かう決断をしたと言います。 -
私の人生初の鎖場です。鎖を握りしめながら登りますが、ほんのお手並み拝見な場所でした。
さて、先に述べた真田案と小山田案。小山田案に乗っかってしまったばっかりに、裏切りに遭い滅亡したと言う結果を知っている我々。そして真田家が、二度に渡るゲリラ戦で徳川家を撃退していると言う結果を知っている我々だからこそ、勝頼がもし、真田案を採用していたなら?と思わずにはいられません。 -
しかし、その真田の権謀術数は我々の斜め上を常にいきます。陰では当時敵対していた北条側と通じていたとも言われています。だからもし勝頼が苦闘の末岩櫃城に辿り着けたとしても、また更なる修羅場の始まりだったかもしれません。更にはこの真田案さえ、真田人気による後付けの可能性も秘めています。歴史を楽しむと言う事は、ある意味宗教と同じく、何を信じるか?見極める必要がある様です。
最早歴史と言う権謀術数にひっかかり、頭がこんがらがりそうです。でも、面白い! -
それにしても、一つだけ釈然としない事があるのです。新府城を焼き払い、何処へ逃亡するかの軍議での事。岩殿山城案を出したのは、小山田信茂本人だったとする説、長坂釣閑斎光堅だったとする説があります。このどちらかにより、この裏切りの意味合いは大きく変わってしまうと思うのです。
小山田本人が勝頼を岩殿山城に誘ったとすれば、それは、おびき寄せた上で奈落の底に突き落とした訳で、悪意の塊りの様なものです。しかし、長坂の案に、渋々受け入れるしか無く、道中、国の安全と君主の命運を天秤にかけ、悩みに悩んだ結果だったとすれば、未だ弁護のしようがある…嗚呼釈然としない…。 -
頭をこんがらかせながら岩山を登っていると、大小二つの岩山がまるで門構えの様に聳えているではありませんか!自然の岩場を利用した揚城戸跡に到着しました。岩殿山は、その名の通り頂上部には岩場が多く、その岩を上手く利用して城門にしています。此処からが城の本番です。
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揚城戸跡から眺める富士山。
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ゴツゴツした岩場を登って行きます。200m程の登り坂なので、単独に登ればあっと言う間です。強瀬登山口が通行止めだった時期は、山の反対側からしか登れなかった為、もう少し時間がかかった筈です。
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ちょっと先に番所跡がありました。私が勤めていたら、富士山に見惚れて敵の侵入を許してしまうかもしれません。あっという間に打ち首ですね。いやそうならない前に裏切ります。城主と同じ様に…。あ、その前に報連相です!
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馬屋とありますが、こんな場所まで馬が辿り着けたのでしょうか?
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イチオシ
南物見台に到着です。嗚呼絶景かな!これを裏切り者が見ていたとは…。あ、失礼。そしてこれが、勝頼公が見る筈で見れなかった光景と言う事になります。(涙)
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しかし、此処は物見台であり岩殿山山頂、即ち本丸迄はあと一息。此処は…馬場跡と言ってもジャイアントではありません。やっぱり馬は登って来れた様ですね。…いったい何処から?
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そして此方は倉屋敷跡。いったいどうして解るのですか?礎石でも見つかったのかな?食料や武器が納められていたと言いますが、何か痕跡や資料でも見つかったのでしょうか?私には山の平坦な部分にしか…。
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気を取り直して最期のひと踏ん張りです!
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そして遂に岩殿山山頂に到着、と同時に岩殿山城本丸に到着です。富士山が…ただただ絶景です!
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イチオシ
標高は634m、奇しくも東京スカイツリーと同じ高さです。
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富士山の絶景を眺める事が出来る岩殿山山頂で、裏切りと言う似つかわしくない人間の暗部について想いを巡らせます。戦国時代早期、それは裏切りは日常でした。どの武将もドングリの背比べ。そんな環境では裏切りこそがゲームチェンジャーとして機能しました。裏切りとは聞こえが悪い!小山田信茂の声が聞こえてきます。
「あんた等だって同じじゃないか?昭和時代は終身雇用で一つの会社に働き続けた人が多かった様じゃが今はどうじゃ?誰だって簡単に転職している時代じゃないか!それをあんた等裏切りとは呼ばんだろうが!ワシ等とて同じじゃ!強い者に付く!お家の存続の為じゃ!」 -
イチオシ
「あんた等資本主義の連中にはワシを中傷する資格なんてありゃせんわい!羽振りが良い金持ちには取り巻きが散々集まるけど、彼が没落して一文無しになったら、その彼が君の家をノックしたとしても、君は扉を開けはしないだろ?」
「ワシだって同じ事じゃ、全てを失った勝頼に扉を開ける訳にはいかないんだ。ワシは扉を開けなかっただけだ。暴力は奮っていない。後は勝頼の問題だ。あんた等だって良く言ってるだろ?自己責任だって!それにワシは勝頼に血縁は無い、一門衆では無く、国衆なんだ。そう自治国を守る責任があるんだ。解っただろ?ワシはあんた等現代人の生き写しの様なものだ!」 -
なんかそう考えてしまうとグーの音も出ない気がします。我々資本主義社会も金の切れ目が縁の切れ目なんて事は痛い程知っています。結構我々は戦国武将に近いのかもしれません。そして決して武田勝頼を殺めようとはしなかった小山田信茂は戦国時代の価値観としては、転職に違い考え方であり、裏切ったとは思っていなかったのかもしれません。だからこそ織田方に採用されようとノコノコと甲斐善光寺に出頭したのでしょう。
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しかし我々の社会が終身雇用から転職の時代に変わったように、昭和の時代と例話の時代ではコンプライアンスについて天と地の差がある様に、時代により裏切りと言う言葉の意味も大きく違ってくるのです。
ドングリの背比べだった戦国早期なら未だしも、織田、豊臣の時代になると覇者の時代に変わります。覇者は秩序ある社会を築かなければなりません。そして其処にはもう裏切りと言う言葉は大罪としか映らなくなるのです。その点、小山田信茂は大きく時節を見失ってしまったとしか言い様がありません。 -
空堀跡がありました。
コンプライアンスが叫ばれる昨今に於いて、何でもやりたい放題出来る芸能人が、好き勝手な事をやらかして、大炎上してしまう。昭和なら爆笑を獲れたネタも、令和となった今では炎上のネタにしかならない事は山とあります。
戦国早期なら、手柄となったかもしれない裏切りも、覇者の到来する時代となっては、忌み嫌われるだけの存在に変わったのだと思います。小山田信茂の裏切りは、報連相も無く、そのタイミングも最悪で、出頭した相手も全く受け入れる見込みの無い相手を選んでしまった。あらゆる意味でシクジリだったと思います。只唯一救われたのは、此処が戦場にならなかった、その一点です。 -
では、小山田信茂以前に武田勝頼を裏切った者達の運命はどうなったのでしょう?政略結婚と人質の差し出しと言う、まるで不平等条約の様な形で武田家と血縁となり臣従した木曽義昌は、美濃の織田と国境で対峙する武田家にとって重要な盾でもありました。そんな木曽も信長の調略により離反、反旗を翻します。
この大事件は、それ以降の武田家 離反ドミノの大きなきっかけとなりました。木曽義昌は以降も、徳川、豊臣とお家を守る為離反を繰り返しますが、繰り返す度に痩せ細っていき、最後は僅か1万石の大名として人生を終え、子供の時代で改易されました。 -
イチオシ
勝頼を裏切ったもう一人の大物、アナ雪事穴山梅雪は、武田家の大物中の大物、母は武田信玄の姉、妻は信玄の次女であり、武田姓を名乗る権利もあった程です。そんな事もあり、信玄の四男で元々敵の諏訪氏の血を引く勝頼を低く見ていたに違いありません。長篠の合戦ではろくに戦う事無く、勝頼に「古参の武将をむざむざと死なせおって!」と詰め寄ったと言うエピソードも残ります。
そんな一門筆頭のアナ雪の裏切りは武田軍団に大きな動揺を与えました。そんなアナ雪は駿府地方で対徳川の外交を務めていましたが、余程勝頼を信頼していなかったのでしょう。彼は家康に甲斐の領土安堵と、武田家の存続(決して勝頼では無い)を約束に武田家を裏切りました。
写真の手間にある木々、全部桜だそうです。桜の季節に訪れたなら、桜と富士山の大絶景となる事でしょう。 -
その後、本能寺の変が起きた時、アナ雪は家康と一緒に行動を共にし、伊賀越えを行いましたが、家康は間一髪危機を逃れたものの、アナ雪は落ち武者狩りに遭い落命したとされています。そして彼が望んだ武田家再興も、家康が尽力したにも関わらず早世が続き途絶えてしまいました。
やはり、裏切りは因果応報を呼ぶのでしょうか?そう願った人々のこじつけでしょうか? -
さて、これで岩殿山城見学は終了ですが、登山はこれにて終わりません。尾根伝いにちょっとした縦走コースとなっていて縦走気分が味わえます。しかも、全く歴史に関係無い訳では無く、岩殿山城もしもの時の脱出ルートとして機能しており、実際の悲話を元にした伝承も残されているとの事。しかもこのコースは単にお気楽低山登山とは呼ばせない、ちょっとした冒険気分が味わえるとか!
では、早速チャレンジじゃ! -
思った以上に標高を下げたところに分岐を発見!稚児落としと言う不気味な名称を頼りに進みます。普通の城見学者は単に往復する人が多いので、新しく完成した登山道には鈴が設けられていたり、至れり尽くせりですが、此処からは登山者の領域、気を引き締めていきましょう!
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高尾山とか登山者より観光客が多い山では、坂道に段差が設けられていたりしますが、此処ではそうした段差はありません。急な部分では所々鎖場だったりロープが設けられているので安心ですが、何気無い下り。それが私にとって何より難関でした。事もあろうにスニーカーなのでグリップが無さ過ぎです。只でさえ(街中でも)下り坂では足が笑ってしまうのに、最早大爆笑してしまいそうです。
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しかしその途中、一瞬にして私の大爆笑を止めてしまうものを発見しました。誰ですか?こんな場所で糞漏らしたのは?鹿さんですか?イノシシさんですか?まさか熊さんではありませんよね?未だ湿り気があると言う事は新しいもの…。
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そんでもって、すぐ傍にこんな看板あるんですよ…。勘弁してくださいよ!誰もいない事良い事に大声で歌いましたよ。
「花咲く森の中♪熊さんに出逢ったぁ~♪」 -
築坂は、大手口に備えられた空堀で岩殿山城の入り口にあたるそうです。現在では下り坂はありませんが、当時はお馬さん共々、此処から下界へと下って行ったのでしょう。先程かなり標高を下げたのも頷けます。此処から尾根は標高を上げながら目指す天神山へと続きます。敵襲の時、城と反対方面の尾根へ脱出を図ったのでしょう。彼等の足跡を辿ろうと思います。
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何やら不届き者が鉄塔を建ててしまったと思われます。鉄塔を潜って先を進みます。時折後ろを振り返ります。
「敵(熊)襲無し!」
素人には茂みの中で鳥さんがガサゴソやっただけで縮みあがります。 -
尾根伝いは登山隙にとってご褒美だとか聞いた事がありますが、実際歩いてみて本当頷けます。冬なので落葉樹が葉を落とす事で陽が当たりとても明るい雰囲気だし展望も良い。更に富士山が良く見える。とても快適な尾根伝いが続きます。
以前友人が、木は暑い夏は葉を茂らせ直射日光を遮ってくれ、冬は葉を落とし暖かい日光を届けてくれると言っていましたが、本当だなぁとつくづく思います。 -
そんな事に感心していたら、あへ?あへ?これなんですか?これ、登れって言ってます?
実は安心してください。これは無理!と言う方にも迂回路が用意されています。つまり、これはチャレンジ・コース。 -
エッサカ、ホッサカ、鎖を手繰り寄せながら、もう少しの所で今度は角度を変えてロープを頼りに岩を登っていきます。
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垂直に近い岩場を登りながらも富士山が応援してくれています。(ヨイ子は鎖場で鎖を持ちながらの写真撮影はやめましょう。)
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一難去って、また一難。今度は所々に足場が打ち込まれているのですが、どう言う歩幅の人が作ったのか?なんか歩幅が合わないんだよなぁとか思いながらも結構楽しい!
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でも、足元どうなってるのかな?と下を覗いて、自分が高所恐怖症だった事を思い出します。滑ったら一巻のオシマイだよこれ!(だから、ヨイ子は鎖場で鎖を持ちながらの写真撮影はやめましょう。)
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でもね、これを登り切ったら、ちゃんとご褒美があります。この景色観たら報われるでしょ!
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松の木々の向こうに富士山を眺めながら尾根歩き!登山のベテランさんには笑われそうですが、高尾山と山城程度しかしらない初心者にとっては、登山の面白さを低山に凝縮した山なのではないかな?と感じます。鎖場とか尾根伝いの縦走とか、標高の高い山とか難易度の高い山では怖気づいてしまう様なアトラクションでも、こんな低山なので気軽に味わう事が出来る。こうした体験から山の魅力に繋がっていく…。そんな魅力がある山だと感じました。そして何より絶景続き!
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イチオシ
稜線上の松と富士山。和を象徴する素敵な風景ですが、岩殿山は桜の名所とも知られ、先に訪れた丸山公園からは桜の向こうに富士山を眺められる絶好のポイントとなるそうです。こんな素敵な山が駅チカにあるなんて知りませんでした。小山田信茂公、教えてくれて大手柄だ!
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山梨県の人々の間では、もしかすると富士山は見飽きた風景なのかもしれませんが、山城に訪れた時くらいしか登山しない私にとっては、大はしゃぎしたくなる様な絶景が続きます。
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目前に巨大な一枚岩、兜岩が見えてきました。凄い迫力です。以前はこの一枚岩の富士山側を鎖場を駆使しながら向こう側に渡れたそうですが、残念ながら現在は崩落の為通行止めです。当時はいったいどうやってルートをとっていたのでしょう?
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兜岩直前から富士山を眺めます。木が真横に幹をのばしています。恐ろしや…。
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展望台から富士山を眺めるのも美しいものですが、尾根伝いに散策している最中、少しづつ角度を変えながら、ずっと富士山に見守られているのも有難い事です。これから岩の後ろを周って来るから、ちょっとばかりのお別れです。
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はい、此処から先は通行止めです。崩落してしまったからか?この先どうやって進んでいたのか解らない程断崖絶壁が続いています。では迂回路はどうかと言えば、視界は効かず、ロープを駆使しなければ転げ落ちそうな斜面が続き油断出来ません。岩の部分を迂回して、漸く向こう側の尾根に戻り胸を撫で下ろします。
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兜岩の向こう側の尾根に復帰してから岩場に登り振り返れば、ご褒美の様に岩殿山からこれまで歩いてきたルートを見渡す事が出来ます。この道は、岩殿山城の危急の時の脱出路と聞きましたが、脱出も命懸けです。当時は鎖もロープも無かった筈で、どうやって乗り越えていったのでしょう?
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再び尾根伝いに縦走を続けます。徐々に高度を上げていきます。縦走先の天神山山頂も目と鼻の先の筈です。
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天神山の山頂に到着しました。天神山の山頂自体には展望が望めませんが、ちょっと越した先で見晴らしが効きます。
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天神山山頂脇から富士山を眺めました。
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イチオシ
大月駅は河口湖方面に向かう富士急の基点ともなっているので、インバウンドも含め観光客の数は多いです。でも岩殿山に入るとグッとその数は疎らになります。更に天神山迄来ると、更にその数が減ります。訪れた時間が早いのもありますが、ほぼほぼ独り占めで富士山を眺める事が出来ています。何と言う贅沢!
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イチオシ
そして岩殿山最期の見所、稚児落としに到着しました。高所恐怖症には堪らないスポットでもあります。
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稚児落とし迄来ると、富士山も見ていられないかの如く、山の陰に身を潜めてしまいます。さて、どうして「稚児落とし」と此処が呼ばれる様になったのでしょう?
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小山田信茂が裏切りを決行し、しかしそれは許される事無く信茂は斬首になりました。が、それでも許される事無く織田軍は残党を狩る為岩殿城に侵攻しました。脱出を図った千鳥姫と二人の子供。兜岩を越え、天神山に辿り着き、やっとの思いでこの崖を通ろうとした時、余りの怖さに赤子の万生丸が泣き出してしまいました。
この岩場は音を良く反響します。此の侭では織田軍に居場所がバレると思った従者は、万生丸を谷底へと投げ込んだのでした。それ以来、地元の人はこの崖を「稚児落とし」と呼んだそうな。 -
勿論これは伝承で、ネットを検索しただけでも、少しづつ内容が変わり、実は落とされた稚児は生きていた。とか、母も悲しみに耐えられず、この崖から身を投げたとか、様々な逸話が派生しています。
また、小山田信茂の家族についても、甲斐善光寺に於いて、信茂と一緒に処刑されたとする説もあり、また地元の人々が言う「小山田信茂が勝頼の入城を拒んだお陰で、村が戦場とならずに済んだ。」と言う信茂に対する評価も、この物語を信じれば、織田軍が岩殿山城に侵攻した事になってしまう為、両者の言い分に齟齬が生まれてしまいます。 -
この伝承には数々のパターンがある故、昔何らかの形で稚児が落とされた、若しくは落ちてしまった悲しい出来事があり、それがやがて伝承化していった。それが更に戦国時代に起きた小山田信茂の処刑と絡められて、いつしか一体化していったのではないでしょうか?
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さて、後は下るだけです。その筈でした。でも下りに弱く、しかもスニーカーの私にとって、鎖場よりも、急登よりも、稚児落とし伝説よりも、断崖絶壁よりも、ずっとこのダラダラとした下りが怖かったです。滑る滑る。踏ん張り続ける私の太ももは悲鳴を上げ、思わず足が爆笑して猛烈にダッシュして駆け降りたくなる気持ちをなんとか抑えつつ、転ばない様に慎重に下山しました。
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漸く下界が見えてきました。「山登りは往きはヨイヨイ帰りは恐い」そのものです。登る時、人の視線は限定されます。斜面ばっかり見てる人さえいます。今回も下山中に登って来た登山客を待っていると、私の足元を見て漸く気付く人が沢山いました。だから脇道に気づかない。
しかし、一旦下り始めると見下ろす事になるから人の視界は登りに比べて一気に広がります。下るに連れて分岐も増えていきます。そしてその時?が頭に浮かぶのです。登った時こんな分岐があったっけ?これが道迷いのトリックの一つです。
でも岩殿山に関して言えば、分岐も少ないですし、表示もしっかりされているので道迷いはまずあり得ないと思います。足が笑うのだけ注意しましょう。登山靴とは言わずとも、トレッキングシューズを用意しましょう。 -
下界に降りてきました。岩殿山城、攻略完了です。私は常に不思議に感じていた事があります。登山している人が一方通行だと言う事です。鎖場とかあるから、鉢合わせになったらどうしよう?と不安に思っていたのですが、全行程ですれ違う事はありませんでした。
一方通行のルールの有無は私が調べた限り見受けませんでしたが、この登山口を見て、何となく理解出来ました。最寄りの大月駅から遠く離れている上に、初見じゃ絶対解りません。自然一方通行の様になるのでしょう。 -
桂川を渡ります。此処まで来ると桂川も、岩殿山付近と違って全然急峻では無いので、橋が無くとも攻め込む側は簡単に渡河する事が出来そうです。と思いきや、地図を見ると只の支流でした。そう簡単には入城させてくれません。
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さて縦走してしまっただけ、駅への帰り道はちょっと歩きます。時折振り返りながら、今日の登山を思い出しつつのんびり駅へと向かいましょう。
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目前を中央自動車道の高架が突っ走っています。静謐な村だったろう山村を、走り抜ける車の音が響き、申し訳ない気持ちになります。自動車道が、こんな上空を走っている事からも、此処が如何に高低差のある地形であるかを読み解けます。もう少し走れば、大事故で全国的に有名になった笹子トンネルに突入します。
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駅へと向かう足を止め、振り返り、今日歩いた縦走路を仰ぎ見ました。右手に城跡がある岩殿山、そして左に天神山。富士山を眺めながら、本当に気持ちが良い縦走路でした。城好きな人も、そうでない人も、楽しめる、素敵な散策路でした。お勧めです。
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駅チカまでやって来て、今度こそ本物の桂川を渡ります。やっぱり此処でも桂川は急峻な谷を形成しており、天然の要害を形成していました。
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大月駅に戻って来ました。駅から岩殿山城を眺めます。武田勝頼は結局新府城から小山田信茂を頼って此処迄来たものの、小山田信茂に裏切られ、追い払われてしまったので、大沢誉志幸以上に途方に暮れた事でしょう。そして勝頼は天目山を目指しました。しかしそれを聞きつけた織田軍の滝川一益の襲撃を受け、現在の田野と言うところで切腹を遂げ、徳川家康が建立した景徳院に眠っていると言います。
当時は未だJRは走っていないので、勝頼は馬に乗って向かったのでしょうが、現在となっては馬がいないので、私はJRに乗って向かう事にします。 -
大月駅からJRに乗って3駅、甲斐大和で下車しました。一日3本しかないバスが丁度良く来る筈も無く、現代版の馬であるタクシーも一台も停まっている事も無く、バス停にあったタクシー会社に電話するも20分かかると言われ断念。地方都市の現状を思い知らされてしまい、登山したばかりで足がもたついている私も大沢誉志幸ばりに途方に暮れてしまうのでした。
https://youtu.be/Re8l4a48R70?si=dlvoItXPCjAJr1YW -
駅前には武田勝頼公の銅像が建てられていました。甲府でお見かけした信玄公の銅像に比べ重厚感が足りないんだよなぁ…。軍配を奮っているんだろうけど、卓球のラケットを振っている様にみえてしまう…。
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そんなこんなで是非に及ばず。歩いて向かう私でした。足を引き摺り項垂れながら坂を登る事約1時間。その光景は勝頼同様まるで落ち武者のそれだったと思います。追体験としてはその方が良かった?
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そして遂に鳥居畑古戦場に到着しました。勝頼終焉の地です。小山田に裏切られ天目山を目指した勝頼一行は夫人なども含めてもたった約50人程度だったと言います。あの武田軍がです。もう50人しか付き従う人がいないのです。凋落すると…人の世は恐いものです。
然しながら、小宮山内膳友晴の様に、嘗て勝頼に追放されたにも拘らず、勝頼の危機を知り駆けつけてくれた人物もいました。人の真意が解るのは、そんな時だと解ります。 -
迫りくる織田の追手に対し土屋惣蔵昌恒を筆頭に、勝頼の息子、齢16歳の信勝も、その場で元服を済ませると、織田方に猛然と攻めかかり、父勝頼の切腹の時間を稼いだと言われます。
勝頼に最期迄付き添った、政略結婚で北条から嫁いだ北条夫人は、家に帰る様勝頼に命じられたものの「戦国の妻の宿命」と命令に従わず、勝頼と運命を共にしました。そして後を追う様に勝頼も切腹、此処に武田家は滅亡しました。 -
歴史的にはこの武田が滅亡を遂げたこの事件を現地名から「田野の戦い」と呼んでいますが、歴史はいつだって勝者の目線で描かれるもの、イスラーム史に於いてもカルバラーの戦いと呼ばれる大事件がありましたが、この二つの事件に共通するのは圧倒的な戦力差があったと言う事。勝者目線では「戦い」であったとしても、平たく見れば、それは虐殺、若しくは処刑に近い行為であったと感じます。
日本史では、兎角最期の戦いを劇的に描く余りに土屋惣蔵昌恒の大活躍が描かれますが、実際のところは、一方的な展開が繰り広げられていたに違いないと思います。
何はともあれ、合掌。 -
景徳院に到着しました。曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来。開基は徳川家康です。
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寺院のすぐ傍には勝頼の首を洗ったと伝えられる首洗い池の碑が残されています。
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現在では池は無く、ほんの小さな流れの川が流れていました。
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景徳院本殿です。当然ながら勝頼存命時にはこの寺は存在しません。菩提を弔う為家康が建立しましたが、それと共にいずれ此処を領有するにあたり領民への懐柔政策の一環としての意味もあった筈です。
そこなんですよ、勝頼君!君は頑張り屋さんだし、実力もあるし、結果さえ十分出してた。だけど、家康の様に、民衆や家臣にフォローする気配りが決定的に欠けてた。言い換えれば、如才なさや強かさに欠けてた。もしそれらを持ち合わせていたら、もう少し君は生きながらえていたと思うよ。 -
寺院は何度か焼失してしまいましたが、山門だけが当時のまま残されています。
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あだに見よ 誰もあらしの 桜花 咲散るほどは 春の世の夢
武田 信勝 -
朧なる 月もほのかに 雲霞 晴れていくへの 西の山の端
武田 勝頼 -
黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒
北条夫人 -
武田勝頼 生害石 (切腹した場所)
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北条夫人 生害石
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世間では、武田勝頼を、長篠の合戦で多くの重臣達を死なせた上に大敗した事。そして武田家滅亡させてしまった事から、愚将扱いされる事も屡々あります。
然しながら、長篠の戦から武田家滅亡までは7年の隔たりがあり、長篠の合戦が直接的に武田家の滅亡の要因となった訳ではありません。寧ろ勝頼は長篠の合戦後、良く態勢を立て直しており、調子に乗って攻めて来た家康を押し返したりさえしています。信長でさえ、勝頼を油断すべきではない相手と評しているくらいです。 -
武田勝頼は本来は跡継ぎではありませんでした。武田家と敵対し、敗退、国衆となった諏訪氏の諏訪御両人を母に持ち、ゆくゆくは諏訪家の当主となる存在でした。しかし、武田家長男の義信が謀反の疑いで自害させられた事で、後を継ぐ形となりました。
いや、正確に言うと勝頼は正式な跡取りとしては認められていませんでした。信玄の遺言により信勝が成人(元服)したら信勝を跡取りとする、即ち勝頼はそれまでの繋ぎに過ぎず、風林火山の旗の使用すら許可されていませんでした。
現在以上に血の繋がりと言う事に重きを置いた当時の武家社会では、敵方の血を引いた勝頼と言う存在は、特に古参からの重臣達からは蔑んだ目で見られがちでした。
「軍旗の使用も認められていないリリーフの親方なんかどう信じろって言うんだい?」
そんな目線は、障害勝頼に纏わりつき、それは勝頼の軍団の運営を困難にさせ、精神的にも彼を追い詰めていた事と思います。 -
常に自分の出生にコンプレックスを抱え、更には伝説的な父親の後継ぎと言うプレッシャーを跳ね除ける為、勝頼が縋ったものは実力、そして結果です。結果を積み上げる事でしか、反抗的な重臣達を納得させられるものが無かったからです。そして、彼にはその実力がありました。勝頼は信玄が堕とせなかった高天神城を落城させ、信玄以上に領土を拡大しました。
-
しかし、常に結果を求めるその姿勢が時に大きな過ちに繋がってしまうのです。その最悪の例が長篠の合戦でしょう。余りにもの兵力の差に、重臣達は次々と勝頼に撤収を求めます。
しかし勝頼に必要なものは常に結果でした。そして目の前に織田と徳川と言う余りにも大きな結果が待ち構えています。それを目前に逃亡したとしたら、これ迄ずっと積み上げてきたものが、一気に崩壊してしまうかもしれません。きっと、彼は引くに引けなかったのだろうと私は感じています。 -
長篠の合戦は、織田徳川の最新式の鉄砲隊が古式の武田騎馬隊を破った戦国の先述の転換点として描かれてきました。信長の鉄砲三弾撃ち戦法等が有名ですが、現在ではそれらは虚構だったとする説が濃厚です。実は武田軍も数多くの鉄砲を所持していたし、騎馬は言う程多く保有していなかった。いや、いたとしても長篠の地形は、狭くぬかるみ、騎馬隊の活躍には向いていませんでした。
では何故いったい、織田徳川連合軍の鉄砲隊が、大きく取り上げられたのでしょう?それは、鉄砲の数では無く、鉄砲の弾の数だったのです。鉄砲は購入し蓄えられても、弾は消耗品です。練習に消費しなければ鉄砲隊の精度は上がらず、でも練習に弾を消費してしまえば実戦で使えません。
堺と言う海外にも通じた交易港を所持していた織田と内陸の武将武田では、弾に使う鉛の保有量に雲泥の差があったのです。だから、開戦の景気づけに鉄砲を撃ち、その後刀に持ち替えて突撃せざる得なかった武田方に対して、織田徳川連合は反復して鉄砲で攻撃出来た。はたから見れば、それは鉄砲を三段撃ちしているかの様に見えていたのかもしれません。
私は長篠の合戦の勝敗は、鉛の所有量にあったと考えています。(勿論それだけじゃないですが。) -
さて、話題を勝頼に戻して、長篠の合戦以降も勝頼はそのメンタルの強さ発揮して素早く立ち直ります。現代の会社でもそんなタイプの上司たまにいますが、彼は実力がありますし、結果を出さないと何を言われるか解らないと言う強迫概念に捉われている様なタイプなのでガンガン前に突き進んでしまいます。しかし、それに追随せねばならない部下はたまったものではありません。
領民から無理な兵役を負担させ、新府城を築く為重税を課す。やがて領民からはそっぽを向かれ、そして国衆、やがては一門衆からも嫌われてしまう。最初は一門衆や国衆から、なめられまい、納得させたいと思って、結果を追い求めたばっかりに、頑張り過ぎた事で、彼等にも重い負担をかけてしまい、結果、頑張れば頑張る程そっぽを向かれてしまう。
そんな彼の不器用さが、武田家を滅亡に繋げたと私は感じています。もし、彼が、もうちょっとフォロー上手だったのなら、もう少し武田は生き残れたかもしれません。私はそんな気がします。でも、勝頼のその不器用さ…。私は、嫌いじゃ無いぜ! -
大和駅に戻りました。いつも食事を犠牲にしてしまいがちな私ですが、甲斐に限っては「ほうとうを食べたい!」と言う強い意志がありました。問題はこの駅に食事処はあるのか?と言う問題でしたが、大菩薩峠等、登山客が乗降する駅の様で、駅前に格好の食事処がありました。雅さんです。早速お邪魔します。
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メニューは様々ありますが、一目散にほうとうの項目をチェック。その中からイノシシほうとうをチョイスしました。いやぁ美味しかったです!具沢山でヘルシーなのですが、実はこれ、苦肉の策から生まれたものなのです。甲斐は山に囲まれ耕作地が少なく、冷涼な為お米が余り収穫出来ず、粉ものとて貴重品でした。だから多くの野菜を取り入れて、粉ものの代わりとしていたのだと言います。
こんな美味しい料理にも関わらず、東京では余り一般的に食べる事が出来ません。たまに冬場にスーパーでレンチンモノが売っているので食べますが、甲斐に来たのなら、絶対本物を食べたいと思っていました。これぞ、此処迄来た甲斐がありました!
今回、私を此処迄おびき寄せた小山田信茂の手柄に御座る。 -
お店に入る注意書きとして「作るのに時間がかかる」と明記されていましたが、実際ほうとうを作るのには時間がかかりました。味は保証しますが列車の時間に間に合わせる必要がある旅人さんは注意が必要です。
実際私はすんでのところで列車に乗り遅れてしまいました。いや、でも美味しかったので一片も悔いはありません。それより中央本線と本線がつくにも関わらず、こんな時刻表になってしまった、現在の状況に驚きを隠せません。でも登山と景徳院往復でへたった体を癒すには丁度良い待ち時間。勝頼公の銅像に見守られながら、ベンチに大の字になり体を癒しました。 -
甲斐大和から電車に乗って甲府を通り越し、韮崎の1駅向こう新府駅に到着しました。甲斐大和で食べておいて大正解。新府駅は無人駅で駅前には万屋さえありません。
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果樹園の向こうに富士山を眺めながら新府城を目指します。新府城はそれまでの武田家の居城、甲府の躑躅が崎館から、防衛力を上げる為勝頼が急造した城です。勝頼は織田徳川軍等の侵入を想定した上で、必要に迫られて築いた城ではありましたが、そのスピードを上げる為にも、領民に課した負担は大きく、領民の心を離す大きな要因の一つとなってしまいました。
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新府城は八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食する事で生まれた七里岩大地の上に建てられた連郭式平山城です。現在では神社のある本丸迄、一直線の階段で直接アプローチする事が出来ますが、これまで沢山登ったり下りたりを繰り返してきた私にはトドメに近い階段です。
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さて、繰り返しになりますが、長篠の合戦での大敗北以来、勝頼は態勢を立て直し、信長を感心させる程、良く頑張って来ました。そして遂に信玄以上に領土を拡大するに至ります。しかし頑張れば、頑張る程、配下の負担も増え嫌われてしまう、勝頼の不器用さも限界に達しようとしていました。そんな中、とある外交上の失敗から武田家に暗雲が立ち込める事となります。
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武田家は本当に不幸な立地に有ったと言えるでしょう。北に上杉、東に北条、西に織田、南に徳川。四方を強豪に囲まれ、何処かに攻め込めば他方から背後を取られてしまう危険に満ちています。故に同盟こそが命運を分ける鍵でした。
長篠の合戦で刃を交えた織田徳川とは難しいものの、それでも上杉と北条とは上手く付き合ってきました。北条とは同盟も結んでいます。しかし、上杉謙信の死から始まった上杉のお家騒動、そんな他家の騒動から武田家の不運は始まってしまうのです。 -
本丸の片隅に、勝頼と長篠の合戦で散った武将達の慰霊碑が建ち並んでいます。
上杉のお家騒動は、謙信の後継ぎを巡り、景勝と景虎が戦ったものですが、景虎は北条氏康の7男で謙信の養子となった事から、同盟関係にある北条氏から勝頼に景虎を支援して欲しいとの要請が出されたのでした。
しかし、勝頼はこの要請に対しヘマを犯してしまい、結果景虎は破れ、怒った北条家は武田家との同盟を破棄してしまいます。 -
本丸北側からは八ヶ岳連峰が眺められました。
北条との同盟関係の破綻は武田家にとって忌々しき出来事でした。お家騒動で北の上杉は頼りにならず、織田徳川との和睦は無理に等しい。更に北条までそっぽを向かれてしまうと言う事は、四面楚歌になると言う事でした。
以前は足利義明が提唱していた織田信長包囲網に賛同していた勝頼でしたが、逆に武田勝頼包囲網が完成しつつある状態に陥ってしまったのです。 -
これにはさすがの勝頼もメンタルをやられてしまった様です。無理と解っていながらも織田との和睦に一縷の望みを期待する始末です。対する織田は冷たい視線で無視するばかりでした。
そして一方、案の定と言うべきか、武田との同盟を破棄した北条は徳川と同盟を締結。徳川はしたりとばかりに勝頼に奪取されていた高天神城を包囲します。高天神城の城主はたまらず勝頼に救援要請を出しました。 -
しかし、勝頼は動けませんでした。勝頼は織田との和睦に一縷の望みをかけていいたからです。一片たりとも望みが無いにも関わらず、健気な程縋っていました。
「織田は徳川と同盟を結んでいる。その徳川が高天神城を攻撃している。高天神城の救援に私が向かえば、信長は怒り、和睦の願いは断ち切られてしまう。だから高天神城は救いに行けない!」
この期に及んで、勝頼は叶わぬ和睦を望んだ事で、高天神城を見殺しに知ってしまいました。そしてそれこそ、武田家滅亡の第一幕だったのです。 -
勝頼が高天神城を見殺しにした事は、武田軍団を大いに動揺させました。フランチャイズに過ぎない国衆は元より、親族である一門衆に至る迄、こんな奴の下に従って大丈夫なのか?いざと言う時、助けてくんねぇんじゃ意味無くね?鞍替えした方が良いんじゃね?的な風潮が蔓延りました。
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そしてその口火を切ったのが木曽義昌の離反でした。木曽義昌は織田と国境を接する重要な役割がありました。彼が織田方に寝返ってしまったら、武田の領地は鎧を剥がれた武者の様になってしまいます。これには溜まらず勝頼本人が救援に駆け付けますが、土地勘に優れた木曽勢と彼等の救援に到着した織田勢に返り討ちにされてしまいます。
そして、この時点で勝頼が望んでいた織田との和睦の道も決定的に閉ざされました。 -
そんな折り大自然でさえ勝頼に味方しませんでした。浅間山が噴火したのです。浅間山の噴火は凶兆と信じられていました。現代では無く、戦国時代です。武将だけでは無く、民衆でさえも、武田の滅びる前兆だと囁きあいました。新府城の急造等で労役から納税迄、苦しめられてきた農民達だから、余計口が悪くなります。
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そんな中、決定的な裏切りが発生します。駿府にて対家康の外交を担当していた武田家の一門衆筆頭のアナ雪こと穴山梅雪が、家康に寝返ってしまったのです。これにて武田家は駿府を失う事になりますが、そんな領土の問題以上に、重臣中の重臣が寝返った事実は武田家を精神的に打ちのめしました。
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そんな泣き面に蜂状態の武田家に、織田徳川連合軍はトドメを撃たんとばかりに攻め込みます。所謂甲州征伐と呼ばれる戦いです。更には東から北条も便乗する事となりました。もう完全袋叩き状態です。嗚呼血も涙も無い。
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織田軍の進むところ抗うもの無しの状態だったと言われます。織田軍が城に近づくと、「キ、キタァーーーーー!」って状態で城中の武田勢は、戦う事無く逃げ去り自壊していったと言います。高天神城の見殺しから始まった離反ドミノは、最早武田軍から、戦意を全く喪失させてしまったのです。
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そんな中、高遠城を守っていた勝頼の弟仁科盛信だけは必死の抵抗を試みましたが、敢え無く高遠城は一日で落城してしまいました。その一報は勝頼にとって衝撃でした。仁科盛信の勇敢さ、高遠城の守りの固さからしても、もっとずっと、持ち堪えてくれると信じていたからです。
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イチオシ
高遠城は現在の長野県伊那市に位地し、勝頼の拠点新府城とは甲斐駒ヶ岳を挟んだ対面に位地します。高遠城のある伊那市から諏訪湖を経由し新府城のある韮崎迄はそれほど遠い訳ではありません。そして新府城は完成間近かとは言え未完成の状態。最早新府城では織田軍団を防ぐ事は出来ない。それが諸将の一致した見解でした。
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そして此処でこれからどうするか?と言う軍議が、冒頭で話した軍議に繋がっていくのです。齢16歳の勝頼の息子信勝は、此処で自決する潔さを述べたと言います。それを抑え、真田昌幸が岩櫃城入りを勧め、小山田信茂が岩殿山を勧め、勝頼が小山田案に乗ってしまった結果、先に述べた不幸へと繋がってゆくのです。
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武田勝頼が入城してから僅か68日。折角多くの領民の犠牲を払って建てられた新府城は多くの人質を残したまま火を放たれ、焼き払われる事となりました。
-
イチオシ
こうして新府城から、勝頼の岩殿城への滅亡への旅が始まります。新府城大手門からは、まるで東映映画の開幕の様な富士山の姿が。ずっと眺めていると、そのうちスタッフロールが流れてくるような気がします。
勝頼も大手門から、富士を眺めつつ、最期の旅立ちをしたのかな…。 -
残された遺構を辿りながら出口を目指します。藪化してしまっている部分が多く、鳥がガサゴソやっていただけにも関わらず、ビビりな私は心拍数が上がってしまいます。
「何奴じゃ!」
と叫ぶと鳥が一斉に飛び立ち、安堵の息を零します。 -
新府城を見学して、勝頼の夢の跡を見た様な気がしました。彼が本当にヤバいと感じていながら、もっと防御に適した場所に、防御に全振りした城を築いていた筈です。少なくとも新府城を建設し始めた、即ち滅亡より1年前には、彼は未だ夢を見ていたのだと思います。
私の見た限り、この城は、単に防御の為だけでは無く、此処で政務を執り行っていくべく造られた城の様に見受けました。躑躅が崎館で政務を執り行った信玄を越す城を作ろう!越す国を作ろう!新府城はそんな彼が見た夢の跡だったのだと思います。 -
出発点迄戻って来ました。私はいつも詰めが甘いのですが、今回も富士山に感動してお腹いっぱいになってしまい、北部の見所を見逃してしまいました。大反省です。
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新府駅に戻って来ました。ホームからは夕陽に照らされた富士山が美しいです。一日かけて武田家の滅亡、武田勝頼、最期の逃避行を追いました。戦国時代の歴史を追う旅は常に考えさせられます。命懸けで戦いあう。つまり殺し合う。とんでもない世界観ですが、そんな極限状態の中で、人の人間性は浮き彫りになります。生き延びる為に世にも悍ましい行為に走る者、悍ましい世界観の中でも、決して汚れる事の無い美しい心を保った者。そんな時私ならどう決断すべきか?彼等は身を以て私に語りかけてくれる様な気がします。
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今回の旅は武田勝頼にターゲットを絞りました。彼は武田家を滅ぼした人物です。でも、完璧な人物なんて一人もいません。彼の人生を生涯苦しめた彼の出生、それに打ち勝つ為に備えた実力と頑張りが、返って身を亡ぼす要因になろうとは彼も考えもしなかった事に思います。
思えば武田軍団は、徳川家臣団の様に血縁で結びついた強固な家臣団では無く、国衆と呼ばれた自治権を持つフランチャイズの集合体の様な軍団でした。それは、かのジンギス・ハーンやティムール等遊牧民族の構成に類似します。そしてジンギス・ハーンもティムールも、彼の死後、早々に彼等が築いた大国が見事に分裂していきました。彼等の下に従った数多くのフランチャイズも、強烈な彼等がいたからこそ一つに纏まっていたに過ぎないのです。
武田信玄と言うカリスマが去り、バラバラになってもおかしくない国衆と呼ばれたフランチャイズ軍団を、代理でしかなかった勝頼が、そのコンプレックスを抱えながらも9年間纏め上げ、持ち堪えた。それは評価してよいのでは無いかと私は感じます。
上杉家の跡目争いに上手く立会い、北条との同盟を維持出来ていたら?織田との和睦の未練を打ち払い、高天神城に籠る味方の救援が出来ていれば?色々指摘点は多いですが、そんな不器用な部分も含め、心に秘めた闇の部分も含め、共感出来る部分も多い武将ではあります。
今回も、多くの教訓ありがとうございます。 -
甲府までローカル線に乗り、ちょっとズルして八王子まで甲斐路に乗ってショートカット、大満足の中帰路につきました。今の時点で痛んではいるけど、明日の筋肉痛が怖いです。でも年末の旅はまだまだ続きます。次回は小山田のルーツを辿り、町田市小山田を歩きます。
最期迄ご覧になってくださり、ありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- 城megrist KAZさん 2026/01/11 23:20:07
- 面白過ぎです。
- このまま書籍にしていただきたいくらいです。有難うございました。
- さっくんさん からの返信 2026/01/12 20:13:58
- RE: 面白過ぎです。
- 最高の賛辞、ありがとうございます!涙出そうです。
> このまま書籍にしていただきたいくらいです。有難うございました。
-
- ほいみさん 2026/01/11 11:12:29
- 岩殿山日記を拝見しました。
- 私も友人に誘われて、2022年に同じ様なコースを歩きました。
歴史のある山だとは聞いてましたが、下調べもしなかったので普通の山歩きとなってしまいましたが、「稚児落とし」のところでは友人の説明で驚いてしましました。
さっくんさんの分かり易いというかユーモアのある説明で、岩殿山の歴史をそれなりに理解出来たかも知れません・・・最近直ぐに忘れちゃいますが。事前に勉強しておけば、もっと楽しく歩けただろうに…と反省してます。
熊には困ったものです。こんな状態が続いたら、日本の登山・ハイキングは廃れてしまうかもしれません。子供や孫を気軽に「山に行こう」なんて誘えなくなるし。クマが寝てる(だろう)冬に行こう・・・ってわけにもいかないのが山ですからね。
アルジェリアやイラクの旅日記も興味深く拝見しました。
ほいみ
- さっくんさん からの返信 2026/01/11 20:17:51
- RE: 岩殿山日記を拝見しました。
- 暖かいコメント、ありがとうございます。
実は私は出不精で、歴史好きのお陰で、普段なら尻込みしてしまう登山も、歴史が背中を押してくれたからこそ、出かけられる事が出来ました。でも、もし歴史を知らなくても、十分楽しめる山が岩殿山だと思います。多分見たところ、殆どの人が純粋な登山客だと感じました。
勿論、そんな一握りでも、歴史の面白さに触れるきっかけになると嬉しいのですが、昨今の熊騒動がそれに大きく水を差してしまっていますね。ちょっと昔は、熊なんて本格的な登山者が運が悪いと出くわす程度に考えていましたが、山城がある低山とは言え甘く考えてはいけなくなってしまいました。今後は山城歩きも熊鈴必携ですね。
> 私も友人に誘われて、2022年に同じ様なコースを歩きました。
> 歴史のある山だとは聞いてましたが、下調べもしなかったので普通の山歩きとなってしまいましたが、「稚児落とし」のところでは友人の説明で驚いてしましました。
>
> さっくんさんの分かり易いというかユーモアのある説明で、岩殿山の歴史をそれなりに理解出来たかも知れません・・・最近直ぐに忘れちゃいますが。事前に勉強しておけば、もっと楽しく歩けただろうに…と反省してます。
>
> 熊には困ったものです。こんな状態が続いたら、日本の登山・ハイキングは廃れてしまうかもしれません。子供や孫を気軽に「山に行こう」なんて誘えなくなるし。クマが寝てる(だろう)冬に行こう・・・ってわけにもいかないのが山ですからね。
>
> アルジェリアやイラクの旅日記も興味深く拝見しました。
>
> ほいみ
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