2007/04/23 - 2007/04/24
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jijidarumaさん
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【双子のブライザッハの町とは、ライン川を挟んだドイツのBreisach am Rheinブライザッハ・アム・ラインと、フランスのNuef Brisachヌフ・ブリザック(ドイツ語はNeu Breisach ノイ・ブライザッハ )である。】
二つの町は要塞都市の意味で、趣旨が似た町として歴史的に存在した。
ドイツを長い間、走り周ってみたが、こうした例は今まで見たことが無かった。独仏という国境の町以外にも、何処にでもありそうなことだが、私自身、初めて見た例なのだ。
<双子の町>は今は仲良く、2000年からStädtepartnerschaften姉妹都市となったが、かつての歴史は敵対の歴史でもあった。
フランス語的にはフラン側の町をNuef Brisachヌフ・ブリザックと称し、ドイツ語では Neu Breisachノイ・ブライザッハである。
ドイツ側の町Breisach am Rheinブライザッハ・アム・ラインをVieux-Brisachヴィユー・ブリザック、つまり、ノイ・ブライザッハに対するAlt Breisachアルト・ブライザッハと言う。
フランスのNuef Brisachヌフ・ブリザックは2008年、「ヴォーバンの防衛施設群」(後述)の1つとしてユネスコの世界遺産に登録された。
参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザックの要塞都市のLuftbild俯瞰写真が見事に要塞全体をとらえている・・・右手のコルマール門から入り、写真中央にマルクト広場があり、その右上にラートハウス(庁舎)がある。整然とした街並みはなかなか見事だ。
やはり要塞都市の縄張りは俯瞰写真が無いと分かりにくい。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
英語でいう twin cities双子都市(ふたごとし)という呼称がある。
ここで言っているのは、地理的に近接した2つの都市で、双方の都市の成長により一体的な都市圏を形成するに至ったもののことだそうだ。
例えば、ドナウ川沿いのハンガリーの首都Budapestブダペストはドナウ川の対岸に位置する2つの都市BudaブダとPestペシュトが成長して単一の都市圏を形成したのが代表的なものだそうだ。
参考写真:2007.04.24.バーデンワイン街道のKaiserstuhlカイザーシュトゥール(皇帝の椅子)巡り Map ・・・左下にブライザッハ・アム・ラインの町、右下に古都フライブルクの町がある。 -
“ドイツ 南西部・黒い森とボーデン湖・シュヴァーベン地方の旅”
:黒い森・バーデンワイン街道・高-上ライン川とボーデン湖・
シュヴェービッシュ-アルプ地方・オーデンの森:
期間 : 2007年4月19日(木)~5月3日(木)15日間
目的地:今回の旅の目的地は Baden-Württembergバーデン・ヴュルテンベルグ州と呼ばれている、ドイツの南西部の地域が中心の旅になります。
Breisachブライザッハ は人口12千人の町だが、4000年の歴史をもつ町である。
聖シュテファン大聖堂の建っている場所はケルト人の砦が設けられた地でもある。その後はローマ軍団の根拠地にもなり、古くから、ライン川の要衝として、軍事・交易の中心であった。
12世紀にシュタウフェン王朝によって町が建設され、17~8世紀にはハプスブルグ帝国とフランスとの領地争いもあって、町の重要さが増し、強大な要塞都市になった。
1793年には仏革命軍の砲撃により、町は壊滅する。
第二次大戦末期の1945年にも連合軍によって、町の85%が破壊されてしまうが、1950年には早くも町は再建されたと云う。
参考写真:Wappen von Breisach am Rheinブライザッハ・アム・ラインの紋章 -
4.23(月) 快晴 28℃ 、 242km
朝食後、9:15 Baiersbronn =>黒い森 B462/294/B33 64km Gutachグータッハ・野外博物館 10:30~13:30 昼食:Vogtbauernhof 13:00~13:15 =>18km(Triberg)=>B500 18km Furtwangenフルトヴァンゲン・ドナウ源泉(元祖) 14:05~15 =>L? 37km Donaueschingenドナウエッシンゲン・城(改装中で見学不可)、市教会、ドナウの泉(本家)、市庁舎、Jugendstilユーゲント・シュティールの建物 15:00~16:00 =>B31 105km(Freiburg) Breisachブライザッハ・Hotel Rheinblickラインブリック 18:00着。市内散策:St.Stephans-Münster聖シュテファン大聖堂
参考写真:2007.04.23.Breisachブライザッハ・聖シュテファン大聖堂と旧市街1644年メリアン作・・・ここにはライン川の対岸まで含めたブライザッハ・アム・ラインの要塞都市が形作られている。
メリアンが作成した1644年は、1618~48年の30年戦争(新旧キリスト教徒の争い)の最中であり、オーストリア帝国・ハプスブルグ家の支配下にあった。
30年戦争後はフランス・ブルボン王家の支配となった。 -
この俯瞰図には左上(赤矢印)にフランス領のNuef Brisachヌフ・ブリザックがあり、中央を流れるのはライン川、大きな中州も見える。
写真中央にはドイツのブライザッハ・アム・ラインの町、その高台に聖シュテファン大聖堂の姿がある。周辺一帯はブライザッハ・アム・ラインの旧市街だ
参考写真:2007.04.23.Breisachブライザッハ・アム・ラインの俯瞰 -
ホテルに到着後、まだ明るい内に市内散策する。まず高台にと、この城門、グートゲゼレントアー門(牢獄)をくぐって山頂の聖シュテファン大聖堂に向かう。
グートゲゼレントアー門(牢獄)は1402年建設され、1415年*教皇ヨハネス23世が捕らえられて、この門(牢獄)に収容されたのだが、看守ファミリーのグートゲゼレが牢獄の看守をしていたそうで、それに因んで門名に看守の名を取った。
グートゲゼレントアー門の2階Museum der Breisacher Narrenzunft は見ていないが、この地域のカーニバルの衣装や仮面などが展示されているとのことだ。
グートゲゼレントアー門の事を調べたら、さらに大きな話が出て来た。
*ヨハネス23世(Ioannes XXIII (antipapa)、1370年頃~1419年、在位:1410年 ~1415年5月29日)は教会大分裂の時期の対立教皇である。
ヨハネス23世は教会大分裂の事態を解消する為、1414年11月、ドイツにコンスタンツ公会議(異端者フスの断罪=火刑に処された事でも知られる)を召集する。
公会議では自分の思惑と違う展開に進んでいることに気付くと、ヨハネス23世は1415年3月20日にオーストリア公フリードリヒ4世の手引きでコンスタンツから逃亡した。フリードリヒ4世には追討軍が差し向けられ降伏した。庇護者を失ったヨハネス23世は5月17日に捕らえられて29日に廃位宣告、公会議で彼を含む3人の教皇は廃位された。
捕らえられた後、ブライザッハのグートゲゼレントアー門(牢獄:看守グートゲゼレ)に一時、収容されていたと云う。
写真:2007.04.23.BreisachブライザッハのGutgesellentorグートゲゼレントアー門の前で。 -
登る道に関所の様なHagenbachturmハーゲンバッハ塔(1319年築)がある。
この門もくぐり、更にSt.Stephans-Münster聖シュテファン大聖堂のある高台に登っていく。
参考写真:2007.04.23.Breisachブライザッハ:Hagenbachturmハーゲンバッハ塔(1319年築)も牢獄として使用された。 -
登った高台(海抜226m)からは町の中心部の旧市街や、フライブルグの方向に黒い森がみえる。
写真:2007.04.23.Breisachブライザッハの高台から旧市街の景観を望む。 -
そして意外に川幅が狭く見える、ライン川の流れや大きな中州、さらにライン橋の向こうにはフランス領も見える。
写真:2007.04.23.Breisachブライザッハのライン川畔の景観・・・向こう岸はフランス領。 -
高台は広い。
大きな聖シュテファン大聖堂傍にピンク色したRATHAUS 市庁舎もある。
写真:2007.04.23.Breisachブライザッハ:RATHAUS 市庁舎 -
ブライザッハの聖シュテファン大聖堂は12世紀末~15世紀にロマネスク・ゴシック様式で建てられた、ブライザッハの象徴的建造物である。
ひときわ高い塔からは、東はライン平野から黒い森、西はヴォージュ山脈が見渡することができる。聖堂内の見どころは、*Martin Schongauer マルティン・ションガウアー(1448年~91年)による壁画(最後の審判:Das Wandbild eines Jüngsten Gerichts )、Silberschrein銀の聖櫃(15世紀末)など。
第二次大戦では高台(海抜226m)の目立つ場所にあった為か、ひどく破壊されたが、内部は被害から免れ、戦後に再建された。現在も修理作業中である。
(18:30~19:00)
*ドイツの画家マルティン・ションガウアーは1473年「Muttergottes im Rosenhag薔薇の生垣の聖母」を制作している。この頃、コルマールのイーゼンハイムの修道院のために祭壇扉画を2枚描いた。
1489年頃にコルマールとフライブルクの丁度中間に位置するブライザッハに移住し、1491年にその地で亡くなるまでMünster St.Stephan聖シュテファン大聖堂の大壁画「最後の審判(Das Wandbild eines Jüngsten Gerichts )」の作成に取り組んだ。116枚の銅版画と52葉のスケッチが残されている。
画像の愛らしさと均整の取れた構成のゆえに存命中に「Hübsch Martin雅びのマルティン」という尊称を与えられた。
写真:2007.04.23.Breisachブライザッハ:聖シュテファン大聖堂 -
マルクト広場近くに観光事務所があり、明日の9時オープンを確認してから、予定の中華レストランを訪ねた。
参考写真:2007.04.23.Breisach・聖シュテファン大聖堂と旧市街 -
イチオシ
<夕食: Breisach ・Hotel Schiff - China Restaurant Mandarin文華酒家にて>
(19:00~20:40 Euro 33)
旅程の三分の一、5日目辺りにはどうも中華を欲するようになる。19時にブライザッハのHPで調べたホテル内の中華店に入る。
昔に比べてドイツの小さな町にも中華料理の店が進出して目につく。
広東出身で10年前にドイツにきて、6年前に創業したという“槙”のような名前の中年の女性が注文を聞きに来た。
ワンタンスープ、春巻、牛肉のチョプシー、グリーンサラダ。それに、ピルス・ビール0.4x2、0.3Lx1。デザートはバナナの蜂蜜付けにアイス添えと三色アイス。これで充分ですから中華はありがたい。
写真:2007.04.23.Breisachブライザッハ:スポットライトで照らされた聖シュテファン大聖堂の夜景も美しい。 -
今晩のホテルは月曜日が休日である。メールのやりとりで2泊することもあってか?!ホテルの鍵の在り処を教えてもらった。自由に入って、使ってくれとの事だが一抹の不安もあり、先を急ぐ。
ドナウエッシンゲンから西へ、ライン川を目指す。道はボーデン湖畔からBreisach まで横に走るDie Grüne Straße緑の道と呼ぶB31である。
(Titisee湖)=>(Freiburg)を経由し、105kmでライン川畔の独仏国境の町、宗教都市Breisachブライザッハに到着する。
Hotel Rheinblickラインブリックは大聖堂の真下、ライン川畔にありました。
途中、通行止めの区間があり、フライブルグの街中を走ることになったので、予定よりも遅れた18:00にホテルの駐車場に入る。
メールだけで予約した際は、オーナーから『ホテルの鍵の在り処を伝えるので、自由に部屋を利用してくれ。何かの時は携帯に電話してくれたら良い。』と、『このスタイルで何十年もホテルをやってきたのだから---。』とも。
外国人(日本人?)を信用してメールに書かれてあったものの、こちらの方が心配した鍵はオーナーに言われたのでしょう?!、コックの方が洗車をしながら私共を待っていてくれた。
夜間の出入口の側に椅子が置かれ、その上の座布団の下に鍵の入った封筒が隠してあり、コックさんがそれを取り出して、渡してくれた。
ドイツの田舎は旅人にやさしい!!!
参考写真:2007.04.23.Hotel Rheinblick:ホテルの前景 -
<(2泊)Hotel&Restaurant Rheinblick ホテル・ラインブリック>
D-79206 Breisach am Rhein 、Rheinuferstrasse 2
Euro 67x2=134 ;?星、全25室、101号室(2F)
TEL:49(0)7667-7172 http://www.hotel-rheinblick.com
ドイツ・フランス・スイスの三国の国境となるライン川畔にある。
Freiburg(独)、Strassburg(仏)、Basel(スイス)の大都市とも車で1時間の距離にあり、また、黒い森やバーデンワインの産地(Kaiserstuhlカイザーシュトゥール・Markgräflerlandマルクグレーフラーラント)も身近にあるという絶好のホテルは1991年に開業している。
町の中心まで徒歩5分と大変便利。2階の部屋は廊下の奥まった所で、広い部屋であった。窓の外は道路を隔てて公園も見える。午後の日差しが強く入り込む所為か、窓はブラインドシャッター付きだ。
室料はこの旅一番の安さで、宿泊料金の平均を下げてくれた。その割に朝食は立派な内容でした。
写真:2007.04.24.Hotel Rheinblick:ホテルの朝食 -
4.24 (火) 快晴 28.5℃ 、 77km
朝食後、9:15 Breisach =>;バーデンワイン街道:Kaiserstuhlカイザーシュトゥール(皇帝の椅子)巡り; =>L? 11km Vogtburg-Burkheimブルクハイム城址、マルクト広場 9:35~10:10 =>L? 6km Sasbach-Jechtingen Sponeckスポネック城址 10:20~10:40 =>Totenkopfトーテンコプフ(しゃれこーべのかしら ・557m)、 L?(V-Bischoffingen) =>L? 26km V-Oberbergen :Gasthof und Weingut Schwarzer-Adler Franz Keller黒い鷲・フランツケラー にて昼食 11:40~14:40、 =>L?(Boetzingen) =>L?14km Ihringen・郷土博物館 15:00~15:20 =>B31 12km Nuef Brisach (フランス領にある新ブライザッハ;函館五稜郭のような防塁に囲まれた町)・旧市街 15:35~15:55 =>B31 8km Breisach・Hotel Rheinblick 16:20
*今日も快晴が続き、今までのドイツ旅行でかってないほど、天候に恵まれた毎日である。勿論その分、日焼けをしてしまう。
ホテルの前はライン川につながる港になっていて、小さなボートなどが繋留されている。その先はライン川の観光船の船着場もあり、二、三隻の観光船が停泊していた。ライン川畔の散歩では殆ど人も見ない、のどかなものだ。
向こう岸はフランス領だ。
写真:2007.04.24.BreisachブライザッハのRheinuferライン川畔の散歩 -
Rheinuferライン川畔から見る、朝日を浴びた大聖堂も美しい。
改修中の様子も見える。
9時に観光案内所を訪ね、パンフレットを頂いた。
現在、ドイツン側のブライザッハ・アム・ラインとフランス側のヌフ・ブリザック、二つの要塞都市はラインの両側の町として、国境を越えた友好都市となっている。観光案内所で頂いたパンフレットの両面を読んでみると、歴史・文化などこの両都市を等しく説明している。この事でも、その友好度が理解できる。
写真:2007.04.24.Breisachブライザッハのライン川畔から見上げた聖シュテファン大聖堂 -
9:15にブライザッハのRheintorラインの城門(1678年フランス軍により、建てられた要塞の一部、現在は町の博物館)の佇まいを見てから、大昔は火山地帯であったと云う、バーデンワイン街道:Kaiserstuhlカイザーシュトゥール(皇帝の椅子)巡りにでかける。
ライン川沿いを少し北上すると、もう緑豊かな農村地帯である。道も狭く、曲がりくねってくる。
(中略)
参考写真:2007.04.24.Breisachブライザッハ・Rheintorラインの城門(町の博物館) -
参考写真:Breisachブライザッハ・聖シュテファン大聖堂と旧市街(1908年)
-
参考写真:Breisachブライザッハ・聖シュテファン大聖堂と旧市街(1945年第二次大戦後の戦災の様子)・・・第二次大戦末期の1945年にも連合軍によって、町の85%が破壊されてしまうが、1950年には早くも町は再建されたと云う。
-
参考写真:Breisachブライザッハ・聖シュテファン大聖堂と旧市街(現在)
-
4.24 (火) 快晴 28.5℃ 、 16km
Breisach =>B31 8km Nuef Brisach (フランス領にある新ブライザッハ;函館五稜郭のような防塁に囲まれた町)・旧市街 15:35~15:55
=>B31 8km Breisach・Hotel Rheinblick 16:20着。
*フランス領にある新ブライザッハに向かった。
アルザスの平原に広がるNuef Brisachヌフ・ブリザックは、対ドイツ国境となっているライン川にかかる橋から西に3.5kmの距離にある都市である。
参考写真:アルザス地方のコルマール地域のMap・・・Neuf-Brisachヌフ・ブリザック(赤の範囲)はコルマールの近郊である。(ブライザッハ・アム・ライン=>3.5km ヌフ・ブリザック=>20km コルマール 総計23.5km) -
フランス領にある新ブライザッハ(人口2200人)はB31の延長線にあり、ライン橋を渡った先である。
EUになって、国境が無くなり、お互いが簡単に行き来できる。
フランス側に行くと、道路沿いに昔の国境事務所跡やバリケードも見られる。Breisachブライザッハから8km、アッという感じで、ヌフ・ブリザックの町の門をくぐる。
函館五稜郭のような防塁に囲まれた町は、今も星のような8角形(ヒトデ形)の旧市街を残している。
参考写真:Wappen von Neuf-Brisachヌフ・ブリザックの紋章・・・町の建設者ブルボン朝Louis XIV ルイ14世(1638年~1715年:ブルボン朝第3代フランス国王。ルイ13世の長子)を象徴したデザイン。 -
参考写真:Vaubanヴォーバンによるヌフ・ブリザック都市図・・・フランス各地には、軍事技術者Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vaubanセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(1633~1707年:ルイ14世に仕えた軍事技術者。彼は軍人であり、築城の名手でフランス元帥になった人物)によって建造された防衛施設が今でも点在していて、稜堡式要塞や都市の城壁など12箇所が登録されている。
これらは17~18世紀の典型的な軍事建築で、ヨーロッパだけではなく、日本を含めた世界各地の軍事建築に影響を与えたと云われている。
そんなこともあって、この町は2008年、「ヴォーバンの防衛施設群」の1つとしてユネスコの世界遺産に登録された。 -
【ヴォーバンの防衛施設群】
2007年4月当時のブライザッハの観光局のパンフレットは「Fortifications de Vaubanヴォーバンの防衛施設群」については、書かれていない。
2008年に新ブライザッハ(ヌフ・ブリザック)要塞は“ヴォーバンの防衛施設群”の一つとして、世界遺産に登録されたのが背景にある。
フランスのBesanconブザンソン市が主導権を握り、世界遺産を検討した事もあってか、パンフレットにその記載が無かったのだろう。
<星形要塞(伊fortezza、 仏Fort、Citadelle、独 Festung 、Zitadelle)>は火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式。あるいはイタリア式築城術、稜堡式城郭、ヴォーバン様式という名で分類される。
最終的に考案したヴォーバン式星型要塞は死角が無い星型で、攻め寄せる敵に十字砲火を浴びせ、防御力を高めた。
・・・私の中では日本の函館・五稜郭のイメージが強く、それもオランダがこの様式を作り、オランダから日本はその知識を得たと思っていたのだが・・・
ルイ14世に仕えた軍人で築城の名手と云われたSebastien Le Prestre, Seigneur de Vaubanセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(1633~1707年)が築いた稜堡式要塞など、要塞や都市の城壁を対象とするものであり、ブザンソンをはじめとするフランスの12ヶ箇所(以下参照)に残るものがまとめて登録された。
それらは防衛上の必要性から、いずれもフランスの国境に沿って、円を描くように存在する。
Arrasアラス、
Besanconブザンソン、
Blaye/Cussac-Fort-Medocブライとキュサック・フォール・メドック、
Brianconブリアンソン、
Camaret-sur-Merカマレ・シュル・メール、
Longwyロンウィ、Mont-Dauphinモン・ドーファン、
Mont-Louisモン・ルイ、
Neuf-Brisachヌフ・ブリザック(ドイツのBreisachブライザッハも含む)、
Saint-Martin-de-Reサン・マルタン・ド・レ、
Saint-Vaast-la-Hougueサン・ヴァースト・ラ・ウーグ、
Villefranche-de-Conflentヴィルフランシュ・ド・コンフラン
参考写真:Carte_des_sites_majeurs_de_Vauban「ヴォーバンの防衛施設群」・世界遺産2008年 -
【(独)ブライザッハ・アム・ライン と(仏)ヌフ・ブリザックについて】
この独・仏にある双子のような二つの要塞都市は17世紀の中頃まで、共有の歴史を見ることができる。
2000年の昔、上ライン川の両岸はケルト人一族の植民地として、支配されていた。
紀元1世紀、ローマ軍がこの地を侵略し、ゲルマンに備えて、ローマ軍の砦がライン川に沿って作られる。
4世紀にはブライザッハの丘(現在の聖シュテファン大聖堂の建つ場所)の重要性を知ったローマ軍により、砦が建設される。
その後、この地域一帯はゲルマン人が支配し、中世になると、神聖ローマ帝国(ヒットラーのドイツ第三帝国にたいし、第一帝国とも云われる)の領地になる。
そしてElsassアルザス・Breisgauブライスガウ(カイザーシュトゥール地方から、ラインに沿った南部の地方の総称で、中心はBreisachやFreiburg)はオーストリア帝国・ハプスブルグ家の支配下となる。
1618~48年の30年戦争後はアルザス・ブライザッハがフランス・ブルボン王家に支配が移る。
1697年、デン・ハーグ郊外のレイスウェイクで結ばれたレイスウェイク条約によって、ルイ14世とアウクスブルク同盟諸国の間の大同盟戦争が終結、ブライザッハはオーストリアに譲渡され、このとき初めて、ライン川がフランス王国とオーストリア帝国との国境線になる。
つまり、フランスはライン川右岸のドイツ側にあったブライザッハの要塞を失ったわけで、ルイ14世はこの要塞の損失により生じたストラスブールとミュルーズの間の防衛上の空白を埋めるため、ブライザッハの対岸であるフランス側に新たに防衛都市(要塞都市)を築くことにし、ヴォーバンとジャック・タラドに検討させた。それが、Neuef Brisachヌフ・ブリザック(=ノイ・ブライザッハ、または新ブライザッハ)である。
その後も1870~1年の普仏戦争、第一次、二次大戦と歴史はめまぐるしく、この地域の支配を変遷させた。
参考写真:新旧ブライザッハの地図(レイスウェイク条約後の1700年)・・・左上にヌフ・ブリザック(新ブライザッハ)、右中央に旧ブライザッハの城塞都市が描かれている。 -
この写真は双子のブライザッハの要塞都市が、ライン川を挟んで相対している。
参考写真:新旧ブライザッハの城塞都市図(1743年)・・・上部がフランス側のヌフ・ブリザック(新ブライザッハ)、ライン川(当時のライン川には中州が多かった様子が見られる)が中央を流れ、中央下に旧ブライザッハの城塞都市が描かれている。 -
イチオシ
俯瞰写真の右手にColmar Torコルマール門、左手にBasler Torバスラーの門、写真中央にマルクト広場があり、その右上にラートハウスがある。
整然とした街並みはなかなか見事だ。
やはり城塞都市の縄張りは俯瞰写真が無いと分かりにくい。
参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック(新ブライザッハ)の城塞都市のLuftbild俯瞰写真が見事な城郭全体をとらえている。 -
参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック(新ブライザッハ)のPorte de Colmarコルマール門一帯の俯瞰
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参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック(新ブライザッハ)のPorte de Colmarコルマール門
-
要塞都市(1702年)の中心に泉があるマルクト広場があり、この日は何かの催しが予定されているのか、幾つものテントが張られ、作業員が忙しく働いていた。
広々としたマルクト広場だが、市民の祭りや催しに使用されていたのだろう。今は軍事的な意味合いも薄れて、駐屯軍はいないが、かつては此処で軍事訓練が行われたようだ。
参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック:マルクト広場とSaint-Louisサン・ルイ教会(1736年) -
イチオシ
小さな町を防塁に登る為、街中を歩いてみたが、やはりフランスの地方は貧しい。
中央集権国家のフランスは、パリだけが繁栄したようで、地方の農村地帯を訪ねると、少々気の毒に終えるほど格差が激しい。
家々が汚く、人々も貧しそうな格好をしていて、教育も今ひとつのようだ。ラインの対岸にある町なのに若い人はドイツ語が通じないのだ。
1753年建設の石造の庁舎だけがいやにきれいで、立派なのがフランス(権力的)らしくて、可笑しい。
この町は2008年、「ヴォーバンの防衛施設群」の1つとしてユネスコの世界遺産に登録されたが、この町にとって、皮肉なことに唯一の勲章と言えるだろう。
写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック:立派な庁舎前で。 -
数メートルの高さの防塁上から見る空掘りは草々が生い茂っているが、かつての要塞都市を明確に形を残し、防塁が長々と伸び、町を囲んでいるようだ。
車で入ってきたBasler Torバスラーの門も見える。
写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック:防塁に登る。 -
イチオシ
写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック:防塁から城門を望む。
-
参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック:高々とした城壁
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参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック:城内の通りも防塁に面している。
-
参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザック:広大な城壁と空堀
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参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザックのPorte de Colmarコルマール門前の橋と空堀
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参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザックの強固な城壁
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Nuef Brisach=>B31 8km 、Breisachの町に入った所で、給油(35.11L Euro47.01)する。 この間491kmを走った。
明日は総走行距離が1000kmを超えることになる。
Hotel Rheinblickに16:20、早い帰還となった。
参考写真:2007.04.24.仏領Neuef Brisachヌフ・ブリザックの城塞都市のLuftbild俯瞰写真 -
<夕食: Breisach・ Hotel Schiff - China Restaurant Mandarin文華酒家にて>
19:00~21:00 Euro33
19時、昨日と同じお店に。
昼に3時間のミシュラン1星の大ランチを楽しんだので、夕食はやはり中華を食べることにする。“槙”さんが、又来てくれたの!と嬉しそうに注文を聞きに来る。
北京風ワンタンスープ、北京風春巻、シュウマイ、鶏肉のチョプシー。それに、ピルス・ビール0.4x1、0.3Lx2。ジャスミン茶。デザートは又、バナナの蜂蜜付けにアイス添えと三色アイス。フレンチの昼食後は中華が一番と思う。
写真:2007.04.24.Breisachブライザッハでの夕食
・・・・・
4.25(水)快晴 29℃最高の暑さに 、182km(ここまでの合計 1,088km)
朝食後、8:30 Breisach =>B31 35km、Freiburgフライブルグ:大聖堂、新旧市庁舎、アウグスティーナー博物館・マドンナ像(グリューネヴァルドの祭壇画は全館改装中もあって、見られず。)、旧市街 9:15~12:45 昼食:Heiliggeist Stueble 11:35~12:35 =>B31/E5 63km (Weil am Rhein) =>A41/B316 10km Loerrach・Burg Rottelnロッテルン城址 13:45~15:05 =>E98/B316/L?13km Inzlingenインツリンゲン・水城 15:20~15:35 =>L?B316/34 28km Bad Saeckingenバード・ゼッキンゲン ・Schloss Schoenau トランペット城(博物館は水休み)、聖堂、ライン橋 16:20~17:00 =>B34 25km (Waldshutヴァルトフット-)=>8km ?Tiengenティェンゲン (今年は町の創立から1150年となる記念年)旧市街・Hotel BercherTiengenベルヒャー・ティェンゲン 17:50着。
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(2025年11月28日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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この旅行記へのコメント (4)
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- kawakoさん 2025/11/30 18:37:12
- 懐かしいなぁ~
- ヌフ・ブリザックには行ったことがあるのですが、見事な城壁とは裏腹に中の町の寂れっぷりに驚いた記憶が蘇りました。
↓
https://4travel.jp/travelogue/11483937
「小さな町を防塁に登る為、街中を歩いてみたが、やはりフランスの地方は貧しい。」
や~よく分かります。なんというかフランスの地方って観光地以外はホント貧しい感じがしますよね。
実は、スイスから来ると、ドイツでも場所によってはちょっと貧しさを感じる時もあるのですが、フランスやイタリアはその比じゃないです。
- jijidarumaさん からの返信 2025/12/01 01:55:55
- Re: 懐かしいなぁ~
- kawakoさん、
今晩は。コメントありがとうございました。
御案内の旅行記は先に拝見しましたよ。
「やはりフランスの地方は貧しい。」にご賛同頂き有り難うございました。
フランスは農業国と言うと、意外に思う方も多いですけど、パリの華やかさにごまかされてはいけません^^。
スイスは多民族国家なのに経済的に恵まれた国故、そこと比較すると、皆貧しいかもしれません。
ただ、ドイツの地方は歴史的にも地方分権が行き届いていた為、地方は豊かで、教育が行き届き、私は学ぶことも多かったですね。
メルケル政権が長く続いたこともあり、その政権下で外国人対策が甘くなって、ドイツの経済を貶めたのは残念な事でした。
それではまた。
jijidaruma
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- ハッピーねこさん 2025/11/30 16:41:05
- 双子のブライザッハ!
- jijidarumaさん、こんにちは。
双子のブライザッハにフォーカスされた新しい記、読み応えたっぷりに拝見しました。特に、私の見ていないヌフ・ブリザックのことが詳細に記されており、目を見張りました。
よくもあのような強固な城壁を・・・と感嘆しきりです。
jijidarumaさんは、お写真や資料をきっと山のようにお持ちなのでしょうが、
そこからすぐに必要な情報を引っ張ってこられており、どのように整理していらっしゃるのか、そこも大変気になるところです。
ハッピーねこ
- jijidarumaさん からの返信 2025/12/01 01:24:37
- Re: 双子のブライザッハ!
- ハッピーねこさん、
今晩は。コメントありがとうございました。
先のやり取りで、≪ドイツのブライザッハとフランス領にある新ブライザッハ≫の事をコメントとしましたが、
これに触発されて、双子のブライザッハ!を纏めてみました。
時々こうした事をやります。
勿論手元には基本となる旅行記、写真があって、それぞれ必要に応じて引っ張り出し、更に資料を読むと新たな話しにぶつかります。
旅行記を書いていた頃は書くことに気が入り、疑問点を掘り下げずに流してしまいますが、こうしたきっかけで、
今回は双子のブライザッハの要塞都市が、ライン川を挟んで相対している写真を見つけたり、マルティン・ションガウアー(1448年~91年)による大聖堂の壁画の事を知ったことや、twin cities双子都市のこと、グートゲゼレントアー門(牢獄)のこと、ヨハネス23世・対立教皇の事など、付随して知った事は有り難いことでした。
何しろ歴史好きには、面白かったのですよ(笑)。
それではまた。
jijidaruma
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