2025/11/04 - 2025/11/08
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funasanさん
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萩市内は見所満載です。まずはホテルから徒歩で「萩城下町」を散策し、高杉晋作や木戸孝允の成家を見学しました。
私は以前から疑問に思っていました。高杉晋作は何故、奇兵隊を作り維新への巨大なエネルギーを結集できたのか?
今回、AI(Claude)さんを利用して奇兵隊の盛衰を深読みしてみました。そこには奇兵隊の知らぜらる悲劇が隠されていました。ここから明治維新の真実?も見えてきました。
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目覚めの朝、バルコニーに出ると一面に穏やかな青い海が広がっていました。ここは「快水浴場百選」に選ばれた菊ヶ浜(写真)。透明度の高い海と白い砂浜が続き、夏には多くの家族連れで賑わうそうです。
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砂浜越しに見える小高い山は、国指定天然記念物の「指月山(しづきやま)」(写真)。ここは絶好の海水浴場で2025年の菊ヶ浜海水浴場開設期間は7/19~8/24でした。
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朝食の前、露天風呂に行ってみました。残念ながら趣向を凝らした露天ではなく、単純な屋外大浴場の感じでイマイチでした。それでも、目の前はビーチなので気分は爽快です。ここは天然自家源泉(萩指月温泉)です。泉質はカルシウム・ナトリウム塩化物泉で舐めるとちょっとしょっぱいです。
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さて、お待ちかねの朝食。夕食と同じレストランですが、夜とは違って大きなガラス窓の向こうに海が広がり、開放感があります。テーブルには既に料理が用意されており、配膳を待つ必要はありません。
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窓際の席(写真)に座れば、浜辺の松や波打ち際の景色を眺めながら豪華な朝食を頂けます。料理は地元の食材を中心とした和食で、胃袋の小さくなったシニア世代の旅の朝にふさわしい。
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朝食のお品書き
【小付】小芋鶏そぼろ餡、飛竜頭含め煮、茄子とインゲン煮、豚の角煮・南高梅・ちりめん山椒・小松菜漬
【名物】白子豆腐
【鍋物】真河豚の生麦鍋
【焼物】カレイのみりん干し、紅生姜玉子、青のり玉子
【蒸物】セイロ蒸し
【飯物】白御飯、味付け海苔
【止碗】粕汁
料理長 高井 秀明 -
日頃はビュッフェの朝食に慣れているので、テーブルいっぱいに配膳された料理の数々(写真)を目にすると新鮮な驚きがあります。ワオー、凄い!
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朝食後、妻と一緒にホテルのビーチ側の庭(写真)に出て、朝のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込みました。このホテルは萩随一の菊ヶ浜ビーチに面していて、しかも、横に長い巨大なホテルです。
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萩の一等地のビーチにこれだけの敷地を確保し巨大ホテルを建てて運営するとなると相当な資本と運営能力がいると思われます。そこで、スタッフにこのホテルの変遷を聞いてみました。
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すると驚く答えが返ってきました。何と、このホテルはかつて介護施設(有料老人ホーム)として利用されていたのです。
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以前の名称は「厚生年金ハートピア萩」で、2009年6月まで厚生年金老人ホーム(有料老人ホーム)として事業を継続していました。
写真:朝の菊ヶ浜 -
ハートピア萩は厚生年金事業振興団などが運営する老人ホームの一つで、国の社会保険庁関連施設の整理・廃止に伴い、2009年6月30日をもって運営を終了し、民間に売却されました。
写真:朝の菊ヶ浜 -
恐らく安く売却されたと思われますが、「株式会社 萩城観光ホテル」が購入し、2009年7月1日から「萩指月温泉 ホテル 萩の浜」として営業を開始しました。
写真:朝の菊ヶ浜 -
株式会社 萩城観光ホテルは2014年にホテルを改築し「リゾートホテル美萩」としてリニューアルしました。
写真:ホテルのロビー -
これで納得です。厚生年金から大量のお金をつぎ込んで豪華な介護施設「厚生年金ハートピア萩」が造られ、それが民間に売却され、現在のホテル(写真)になったのです。
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宿泊した「リゾートホテル美萩」から萩城下町までは徒歩圏内です。朝のひんやりした風を受けながら、いつもの“歩け・歩け”スタイル(写真の青い破線)で観光に出発しました。
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白壁と黒い石垣が続く道の先に、どっしりとした木造の門が姿を見せます。ここが萩城三の丸の入口、「萩城北の総門」(写真)です。
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北の総門の両側には古い石垣(写真)が残り、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような雰囲気に包まれます。
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萩城下町は、城跡や武家屋敷群、町人地区などが近世の姿をそのまま残していることから、2015年にユネスコ世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として登録されました。江戸から明治へ、日本の変革を支えた地として評価されています。
写真:「萩城北の総門」に掲示されていた説明パネル -
この総門は、江戸中期の絵図や発掘調査に基づいて復元されたものです。北側外堀の地形や石垣を現存資料に基づいて整備し、往時の城下町の姿を再現しています。
写真:「萩城北の総門」に掲示されていた説明パネル -
萩城下町の通りには、藩祖・毛利輝元を偲ぶ「毛利輝元公 四百年祭」ののぼり(写真)が掲げられていました。萩藩を築いた初代藩主の没後400年にあたる節目を記念し、萩のまち一帯でさまざまな歴史行事が行われていることを伝えています。
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萩城下町の入口には、世界遺産登録10周年を記念する案内板(写真)が設置されていました。この区域には幕末期の町並みや志士ゆかりの史跡が今も残されています。
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いよいよ歴史散策のスタートです。朝の陽射しに照らされた国道295号(写真:萩城址線)を歩き始めます。道の先には白壁と瓦屋根の武家屋敷が静かに並び、賑やかだった往時を想像させます。
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城下町の写真スポット菊屋横町(写真)に入ると、白壁やなまこ壁が整然と続き、時代を隔てたまま街道が残されています。この路地を進むと、近代政治史に名を残す田中義一の生誕地があります。
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田中義一は幕末の1863年、萩藩の下級武士の3男に生まれました。13歳の時には萩の小学校の代用教員になり、その後、陸軍大学を卒業し、日清戦争に従軍、さらに、ロシアに留学して徹底してロシア研究もしました。
写真:田中義一の説明パネル -
その後、陸軍大臣や総理大臣まで上り詰め、萩が生んだ近代国家形成の立役者の1人とされています。貧乏な下級武士の3男に生まれた彼が何故成功したのでしょうか?
写真:田中義一生誕地 -
田中義一の成功要因は、苦労して陸軍大学を出て、さらに、仮想敵国であるロシアに留学した学歴と時代の要請がうまくマッチしたのでしょう。明治期は能力主義が比較的機能した時代で、出自よりも実力が評価される風潮がありました。また、連続する戦争(日清・日露)により、軍事的才能を持つ人材への需要が高まっていました。田中義一はこの時代の波に乗る形で昇進の機会を得たと言えます。
写真:菊屋横町にあるホテル「椿庵」 -
菊屋横町の中ほど、静かな住宅街の一角に、質素な木門が立っています。維新の英雄「高杉晋作」の誕生地(写真)です。幕末の血気盛んな志士になったつもりで、石畳の続く細い小路に入ってみましょう。
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奥まった所に高杉晋作が浸かった「初湯の井戸」(写真)があります。高杉家は戦国時代以来、代々毛利氏に仕え藩政に関わる要職を歴任した家柄で、晋作(1839~1867年)は高杉家の長男として生まれました。
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晋作は藩校の明倫館に入学し、柳生新陰流剣術も学び、のち免許も皆伝されています。吉田松陰が主宰していた松下村塾に入り「松下村塾四天王」(注)と呼ばれるほど頭角を現しました。
注:久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一 -
さらに、安政5年(1858年)、藩命で江戸へ遊学し、文久2年(1862年)には藩命で、幕府使節随行員として上海留学までしています。まさに長州藩の若きエリート(写真)でした。そんな彼が奇兵隊を結成し維新に突き進んでいきます。
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近くの公園には、剣を携え、毅然と立つ高杉晋作の銅像(写真)があります。私は以前から疑問に思っていました。彼は何故、奇兵隊を作り維新への巨大なエネルギーを結集できたのか?そこを深読みすると奇兵隊の光と影、さらに言えば、明治維新の“暗部”が見えてきます。
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上海留学の翌年、1863年6月、高杉晋作は外国艦隊からの防備を目的として奇兵隊を組織(写真)しました。長州藩が下関海峡を通過する外国船に砲撃した下関戦争では、奇兵隊は外国艦隊との戦闘に参加し、長州藩の軍事力の一部として重要な役割を果たしました。
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しかし、長州藩は下関戦争で列強に完璧なまでに敗北し、幕政下での攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の増強に努め、倒幕運動を推し進めることになりました。
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奇兵隊の身分構成を見ると当時の革新性が分かります。詳細な研究によると、隊員622名のうち判明している559名の内訳は、士分格が約49%、農民が約42%、町人が約5%、僧、等その他が約5%という比率でした。つまり、武士と庶民がほぼ半々という、革命的な混成部隊だったのです。さらに注目すべきは、被差別部落民も取り入れられていました。
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士分格には下士・軽卒が多く、農民は中下層農民の次男・三男が多数参加していました。町人には萩や下関地方の者が多く見られました。生活が苦しく未来が見えない若い彼らには封建的身分制度への不満が巨大なマグマのようにたまっていました。
写真:江戸屋横丁 -
一方で、奇兵隊には武士的イデオロギーが要請されました。武士の「忠義」「名誉」という価値観を、身分を超えて共有し、さらに、人生一発逆転の「論功行賞」のインセンティブもありました。このようにして、強力な集団意識が形成されました。
写真:青木周弼旧宅地 -
そして、外圧です。上海で西洋列強による清国支配を目撃した高杉晋作の「外国の脅威」という危機感は隊員たちに共有されました。「国を守る」という大義名分は、身分差を超える強力な結集軸となりました。
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奇兵隊は1864-1866年にかけて大活躍します。第二次長州征伐(四境戦争)で幕府軍に勝利し、薩長同盟締結にも貢献しています。しかし、高杉晋作は肺結核を患い、1867年5月17日に満27歳8ヶ月の若さで死去しました。大政奉還(1867年11月)の半年前、明治維新を見ることなく世を去りました。
写真:木戸孝允(桂小五郎)旧宅 -
明治維新後、1868年 、奇兵隊は新政府軍の一員として戊辰戦争で活躍するも多くの犠牲者を出しました。ここまでが奇兵隊の“光”です。この先、旧転落が起こります
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1869年(明治2年)11月、新政府は常備軍編制を決定し、財政難により、奇兵隊など諸隊の大半の隊員に帰郷を命じました。山口藩は占領地から吸い上げていた税収を失い、奇兵隊など諸隊を養う財源を失いました。そこで、奇兵隊の規模を半分に削減しました。戊辰戦争に勝利して凱旋したばかりの英雄たちは、突然「財政難だから半分クビ」を告げられたのです。
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ここで約束違反です。5000人ほどいた諸隊から2250人を精選して常備軍とし、残りを解散させる兵制改革が行われました。しかし、論功行賞も不十分で、旧士族階級を中心にした兵を残し、農商兵の解体に踏み切ったのです。つまり、奇兵隊が掲げた「身分を問わず力量で評価する」という革命的理念は、維新達成と同時に捨てられました。
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解雇された者の多くは農家の次男、三男などで、故郷に帰ったところで自分たちが耕作できる田畑もなく、彼らはだからこそ奇兵隊に入り、武士や軍人になるのを夢見ていました。ここで彼らの夢が絶たれました。
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奇しくも1869年は凶作で、1870年にかけて農民一揆が発生し、脱隊兵のなかにはこれを扇動する者もいました。そして、1870年1月24日には山口藩議事館(注)が包囲され、付近の農民一揆も合流した結果、山口藩議事館が1800人規模で包囲され続ける事態となりました。
注:長州藩は幕末期に藩庁機能を萩から山口に移し、文久3年(1863)から現在の山口県庁所在地(山口市滝町一帯)に政事堂(新屋形)を建設しました。ここが包囲されたのです。 -
農民出身の脱隊兵と農民一揆が結びつけば、それは単なる軍事反乱ではなく、身分制度と土地所有に基づく新しい支配体制そのものへの挑戦となります。新政府はこの事態を本心で恐れ、徹底的な弾圧をしました。その弾圧の親分が、高杉晋作の盟友、木戸孝允(桂小五郎)なのです。彼は帰藩して討伐軍の指揮を執り、脱隊軍と激戦の末、1870年2月に鎮圧しました。
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木戸孝允は、明治維新の元勲であり、脱隊騒動の鎮圧に際して重要な役割を果たしました。特筆すべきは、奇兵隊創設者・高杉晋作の父である高杉小忠太も、山口藩権大参事として旧奇兵隊士を鎮圧する側で活躍したという皮肉な事実です。
写真:萩城跡 -
この事件から明治維新の本質が見えてきます。奇兵隊は「志があれば身分は問わない」という理念で戦いました。それ故、未来が見えない社会の下層階級の若者たちが結集し明治維新に突き進みました。
写真:松陰神社 -
しかし、維新達成後、新政府は天皇を頂点とする新しい身分秩序(華族・士族・平民)を再構築したのです。この脱隊騒動は、明治維新が決して「四民平等」の理想社会を実現した革命ではなく、旧支配階級が西洋化という形で権力を再編成した「上からの革命」だったことを示しています。
以上、AI(Claude)を利用して私なりに要約したものです。
写真:松下村塾
→萩市内観光2(吉田松陰の死生観)に続く
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