2025/11/04 - 2025/11/08
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funasanさん
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私は若い時に司馬遼太郎の小説が好きになり、幕末・明治期の多くの作品を読みました。その時から1つの疑問が解けずに残っていました。それは、何故、長州藩は倒幕運動の中心になったのか?です。
もう1つ、吉田松陰は失敗したら処刑されることを分かっていながら、何故、黒船に乗り込もうとしたのか?その信条にも迫りたかったです。今回の広島・岩国・萩の旅でその答えが見えてきました。
また、広島に帰る途中、山口市にある「サビエル記念堂」を訪問しましたが、知られざる(単に私が知らなかっただけですが…)山口のヒストリーとフランシスコ・ザビエルの功績にも触れます。
写真:松下村塾
※新著出版しました。
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私のホームページに著書紹介、旅行記多数あり。
『第二の人生を豊かに』
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歴史を幕末から戦国時代にもどします。毛利輝元(もうり てるもと)(1553-1625)は、中国地方の覇者・毛利元就(もとなり)の孫で、毛利隆元(たかもと)の長男として生まれました。幼くして家督を継ぎ、叔父の吉川元春(きっかわ もとはる)や小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の補佐を受けて毛利家を統治しました。
写真:広島城にある毛利輝元の像 -
毛利輝元は織田信長や豊臣秀吉と覇を競い、中国地方8か国、約120万石を領有する大大名に成長し、天正17年(1589)広島に居城を築きました。豊臣政権下では五大老の一人となり権勢を誇りました。
写真:広島城 -
1600年、運命の分かれ目「関ヶ原の戦い」がはじまります。輝元は石田三成らに擁立されて西軍の総大将となります。大坂城西の丸に入り、名目上は西軍の最高責任者でしたが、実際の戦略決定には深く関与していませんでした。
写真:広島城 -
ここで活躍するのが、後の岩国城主の「吉川広家」(きっかわ ひろいえ)です。彼は毛利輝元の従兄(いとこ)で、抜群の情報収集力と分析力を持っていました。彼は関ケ原の戦いで東軍有利と判断し、早くから徳川家康に接近し、毛利家の存続を図りました。関ヶ原本戦では、広家率いる毛利軍は東軍の黒田長政と対峙していましたが、密約により戦闘を回避しました。
写真:岩国にある吉川広家の像 -
しかし、戦後の処分交渉で問題が生じました。広家は家康に「輝元は大坂城を退去し、領地は安堵される」との約束を取り付けたと考えていましたが、甘かったです。家康にとって中国地方に120万石の大大名毛利家が存在することは脅威です。家康は様々な難癖をつけて大幅な減封処分にしました。
写真:錦帯橋と岩国城 -
毛利家の領地は戦前の約120万石(中国地方8カ国)から戦後の周防・長門2カ国、約37万石(実質36万9千石)へと劇的に削減されました。つまり、約80万石以上を失い、3分の1以下に減封されたのです。これは実質的な改易に近い処分でした。この結果、広家と輝元の間には確執が生まれ、広家は岩国に3万石を与えられて事実上独立的な立場となりました。
写真:岩国城 -
慶長9年(1604)、毛利輝元は居城を萩に選定し、同年11月11日、萩城に入城しました。萩開府にあたって、城下町の建設を推し進めるとともに、萩藩経営の安定に腐心し、寛永2年(1625)73才で没しました。
写真:萩城址にある毛利輝元の像 -
長州藩にとって最大の問題は、この大減封に伴う士族の処遇です。減封前に推定5,000人以上の武士とその家族がいましたが、彼らを約37万石の領地で養う必要があるからです。
写真:毛利輝元の説明パネル -
ここで名君「毛利輝元」の決断が光ります。毛利家は家臣を大量にリストラすることはせず、ほぼ全員を召し抱え続けたのです。これは主君としての責任感と、将来への備えという意味がありました。
写真:萩城址 -
しかし、これは「言うに安く行い難し」です。実際には「給与の大幅削減」です。家臣の俸禄(給料)を大幅に減らしました。その結果、多くの武士が困窮状態に陥りました。毛利藩は実質的な石高と家臣の数が見合わない「過剰な家臣団」を抱えることになりました。
写真:萩城址 -
居住地の振り分けもしました。上級家臣は萩城下に居住し、中級・下級武士は萩近郊の村々に分散配置され、半農半士のような生活を強いられる者も多数いました。さらに、毛利藩の支藩「長府藩(5万石)徳山藩(3万石)清末藩(1万石)岩国領(3万石)」も設置し、家臣を分散させることで、過剰な家臣団を養う負担を減らしました。
写真:萩城址 -
この長州藩の「石高に見合わない多数の武士団」を抱え続けたことは、その後の江戸時代全般に長期的影響を与えました。藩財政の慢性的な逼迫と下級武士の貧困と不満の蓄積です。彼らには「憎くっき徳川、いつか徳川を倒す」という意識が共有されました。
写真:萩城址 -
この長州藩の下級武士の貧困と不満がマグマのようにたまり、幕末に大量の武士が倒幕運動の担い手となった訳です。この困窮した下級武士の中から、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋といった幕末維新の英傑が生まれました。その大親分が吉田松陰です。
写真:萩城址 -
歴史は幕末に飛びます。ここから吉田松陰のドラマティックな生涯と死生観に迫ります。吉田松陰は1830年に長州藩の下級武士の家に生まれました。6歳で山鹿流兵学師範である叔父の吉田家の養子となり、8歳で別の叔父・玉木文之進が開いていた松下村塾で学問を学びます。
写真:松陰神社 -
成績は極めて優秀で、11歳で長州藩主・毛利敬親に武教全書の講義を行い、19歳には藩校明倫館の師範になりました。彼は神童と呼ばれる存在で、長州藩の若き超エリートでした。
写真:松下村塾にて -
彼はアヘン戦争で清が英国に敗れるのを見て西洋列強の力を痛感し、1850年、西洋兵学を学ぶために平戸へ留学しました。1851年には許可なく脱藩して東北を遊学し、藩士の身分を剥奪されます。
写真:松下村塾にて -
1853年にペリーが来航すると黒船を視察し、海外留学を決意。そして、翌年、1854年にペリーが再来すると、小さな船で黒船に乗り込み密航を企てました。しかし、黒船から拒否され、密航は失敗しました。
写真:松下村塾にて -
国禁を犯し囚人となった松陰は萩市内の野山獄に投獄されます。その獄中にいた約3年の間に、彼は何と1460冊もの書物を読破しています。実に1カ月あたり約40冊というハイペースです。
写真:松下村塾 -
松陰は、そこで仲間の囚人たちに孟子の講義をするとともに自らも俳諧や書を学びました。また獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたといわれており、前例のない教育活動を行いました。
写真:松下村塾の説明パネル -
松蔭のここでの門下生は、囚人だけに限らず、門番や役人までが講義に耳を傾け、またその結果、囚人たちの環境も改善され本当に獄中を福堂にしてしまったようです。その後、実家での幽囚処分に減じら、1857年、松下村塾の名前を引き継ぎ、実家で授業を始めました。松下村塾には武士はもちろん、農民や町民など様々な身分の人が通い、月謝も存在しませんでした。
写真:松下村塾の講義室 -
松下村塾の大きな特徴は授業形式で、吉田松陰が壇上に立って講義するよりも、塾生同士が討論する方が多く、時には塾生が自ら教壇に立って授業をすることもありました。高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、その後幕末・維新で活躍する志士を教育しました。
写真:松下村塾の講義室の前にて -
日米通商条約締結後、吉田松陰は幕府の老中暗殺を計画したため再び野山獄へ投獄され、松下村塾は閉鎖されました。時は「安政の大獄」、倒幕派の志士たちの大弾圧下でした。彼は江戸に送致され、厳しく罰せられ、1859年に斬首刑に処されました。享年29歳という若さでした。
写真:松下村塾 -
さて、ここから吉田松陰の深層心理に迫っていきたいと思います。私は以前から、彼は鎖国という“国禁”を犯して黒船に密航しようとした罪で処刑された、と思っていました。しかし、それは違っていました。
写真:松陰神社内 -
萩市内観光を終えてから車を秋吉台(写真)まで走らせ「鍾乳洞」見学をしました。ここは素晴らしい天然の贈り物で、お勧めの観光地です。添付写真をご覧ください。ただし、文章は吉田松陰の心理を深堀します。
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吉田松陰の処刑理由は2つありました。1つは黒船密航未遂(1854年)です。でも、この時点では死刑にはなりませんでした。野山獄での投獄後、実家での幽囚処分に減じられ、その間に松下村塾を開いて教育活動を行うことができました。つまり、黒船密航は「死罪」ではなかったのです。
写真:鍾乳洞アプローチ -
松陰処刑が決定的になったのが「老中暗殺計画」(1859年)です。松陰は幕府が朝廷の許可なく外国と通商条約を結んだことに対して激しく批判し、老中・間部詮勝の暗殺を計画するなど、具体的な行動を起こしていました。
写真:鍾乳洞入口 -
この計画は未遂に終わりますが、何と松陰自身が取調べの場でそれを自ら進んで告白してしまったのです。ここから事態は一気に悪化します。幕府側はこの自白を重大な「幕政転覆の謀反」とみなし、松陰に死罪(斬首)を言い渡しました。
写真:鍾乳洞内部 -
実は、松陰が黒船密航に失敗した時も同じです。彼は役人につかまった訳ではなく、わざわざ自分の密航を告白したのです。死罪を覚悟して、それでも罪を告白したのです。
写真:鍾乳洞内部「百枚皿」 -
ここから松陰の深層心理に迫ります。松陰は黒船密航の前に次のことを明確に認識していました。
・外国渡航は国禁であり、死罪に相当する重罪である
・自分がこれから犯そうとしているのは死罪に値する行為である
・それでも「世界を見る」という志(こころざし)のために決行する
写真:鍾乳洞内部「大黒柱」 -
覚悟の上とはいえ、海外密航という重大な国禁を破った松陰らでしたが、重い処分でなく蟄居で済んだのは、ペリーが松陰らの行動に“感動”したこともあり、寛大な処分を幕府に求めたからとされています。また、松陰が自ら自首した(逃亡しなかった)ことや密航は未遂に終わったことも影響したのでしょう。
写真:鍾乳洞内部 -
吉田松陰の「死罪覚悟の密航」は、当時の基準でも異常に純粋で危険な行動でした。なぜなら:
1.彼は藩の兵学師範という安定した地位にあった(絶望的貧困ではない)
2.密航は確実に死罪と分かっていた(博打ではなく確信犯)
3.「学問のため」という個人的動機で国禁を破った(組織的反乱ではない)
つまり、安定した地位があり将来も約束された人間が、純粋に理想のために死を選んだという点で、当時の人々にも衝撃的だったのです。
写真:鍾乳洞内部「黄金柱」 -
現代的な感覚では「無謀」「非現実的」と見えるかもしれません。しかし、この「死を恐れない純粋さ」こそが、弟子たちに最も強烈な影響を与えたのです。
写真:鍾乳洞出口 -
高杉晋作も久坂玄瑞も、師の「志のためには命を惜しまない」姿勢を受け継ぎ、明治維新を推進しました。吉田松陰は、まさに「生き方」ではなく「死に方」を教えた教育者だったと言えるでしょう。
写真:鍾乳洞を源流とする小川 -
松陰の思想 の核心には「至誠は必ず通じる」がありました。「志(こころざし)が純粋であれば、たとえ法を破っても理解されるはずだ」という信念です。これは儒学、特に孟子の思想に基づく考え方で、「法」よりも「義」を重んじる思想です。
松陰にとって、形式的な法律より、国を救うという大義の方が大事、個人の生命より志の実現の方が大事。だからこそ、死罪を覚悟しながらも「これは正しいことだ」と信じて行動したのです。
松下村塾や奇兵隊に結集した若者たち(特に長州藩の下級武士)は長年の徳川に対する恨みを背景に、松陰の思想と行動に感動し、命をかけて明治維新に突き進んでいったのでしょう。
写真:鍾乳洞に行く小路の売店 -
秋吉台の鍾乳洞を観光した後、車を山口市にある「サビエル記念堂」に走らせます。ここからは知られざる(単に私が知らなかっただけですが…)山口のヒストリーとフランシスコ・ザビエルの功績にうつります。
写真:山口市中央公園 -
実は中世の山口は「西の京」と呼ばれたほど洗練された文化都市でした。南北朝時代の武将、守護大名であった大内弘世(おおうち ひろよ)が京都の街並みに感銘を受け、山口でも大路・小路の京都風道路や地形配置を取り入れ、一の坂川を鴨川に見立てた京風都市を築いたのです。
写真:スターバックスコーヒー山口市中央公園店 -
さらに日明貿易と石見銀山の莫大な利益を背景に、五重塔などの華麗な文化施設が建ち、雪舟や宗祇といった一流文化人が集いました。唐本屋も並ぶ国際色豊かな都市として発展しました。
写真:山口情報芸術センター -
ザビエルが訪れた1551年頃、山口は「一万人以上が住む」と書簡に記され、史料によっては五万人とする説もあるほどの大都市でした。京都に次ぐ人口規模を誇り、応仁の乱以後、荒廃した京から公家や学者が避難してきたことで知的水準も高まりました。
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前関白を含む多くの公家、文化人が滞在し、連歌の宗祇、水墨画の雪舟、さらに将軍・足利義稙までもが山口に長く暮らしました。教養あふれる人々が集い、都市文化は大きく花開きました。
写真:山口サビエル記念堂 -
山口は学問・芸術の中心地として、歌道、有職故実、装束、管弦、儒学などを学びに僧侶や学者が集まる場所でした。大内氏の庇護のもと、都から来た公家文化と東アジア交易の最新文物が融合し、国内でも稀有な国際都市として成熟していきました。
写真:山口サビエル記念堂 -
明や朝鮮から舶来した織物や書画は中央政権にも献上され、大内氏の存在感は全国に及びました。国内外の人と文化が行き交うこの地で、ザビエルは日本宣教の大きな手がかりを掴むことになります。
写真:山口サビエル記念堂 -
ここからフランシスコ・ザビエルの生涯にうつります。彼は1506年、スペイン・ナバラ王国に生まれました。若くしてイエズス会を創設したイグナチオと出会い、宣教師として世界布教の道へ進みます。
写真:山口サビエル記念堂の内部展示 -
ザビエルは1541年にインドへ向かい、ゴアを拠点に東南アジア各地で布教を開始。貧しい人々に寄り添う姿勢で信頼を得て、宣教師としての経験を深めました。
写真:山口サビエル記念堂の内部展示 -
1549年、鹿児島に上陸。日本初のキリスト教布教が始まりましたが、島津氏の支援は得られず、鹿児島では布教が十分に進まず苦戦を強いられます。
写真:山口サビエル記念堂の内部展示 -
ザビエルは布教の道を求めて京都へ。しかし当時の京は応仁の乱後の荒廃期で、将軍にも面会できず成果はほとんど得られませんでした。失意のまま西へ向かいます。
写真:山口サビエル記念堂の内部展示 -
1551年、文化都市として栄えた山口で布教を許可され、説教所を開設。多くの人々がキリスト教に関心を寄せ、ザビエルは日本布教で初めて大きな成果をつかみました。
写真:サビエル城の模型(ザビエルはこのお城で生まれました) -
しかし、関ヶ原の戦い後、徳川幕府はキリスト教を禁じ、山口でもザビエルゆかりの教会や信徒は厳しく取り締まられました。布教は完全に途絶え、多くの信徒が潜伏を余儀なくされました。
写真:ザビエルの日本・アジアでの宣教の足跡を各地の風景と共に物語形式で描いた大屏風状の絵画作品 -
禁教令により、踏み絵や宗門改が徹底され、キリスト教徒は改宗を迫られました。山口でも信仰を守ろうとした人々は弾圧の対象となり、キリスト教の痕跡は深く地下へと潜りました。
写真:ザビエルと日本人たちとの出会いや布教の場面を題材にしたステンドグラスの大壁面作品 -
再び歴史は激変します。明治維新後、キリスト教は再び公認され、山口ではザビエルの功績が再評価されました。近代化を進める中で、国際性を象徴する存在としてザビエルは市民に親しまれていきます。
写真:スペインナバラ州政府寄贈のステンドグラスの説明パネル -
山口市ではザビエルは文化交流の先駆者として語り継がれ、市民に敬愛される存在になりました。街にはザビエルにちなんだ施設や行事も生まれ、地域アイデンティティの一部となりました。
写真:焼失前の山口サビエル記念堂 -
残念ながら、1991年の火災でサビエル記念聖堂が全焼し、市民に大きな衝撃が走りました。長年守られてきた祈りと文化の象徴を失った悲しみは深く、再建への願いが今も強く語り継がれています。そして、7年後の1998年、新サビエル記念堂が完成しました。
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参考までに、山口の人々はフランシスコ・ザビエルを一般的な「ザビエル」ではなく「サビエル」と呼び、山口サビエル記念聖堂などの施設名にも反映させています。
◎呼び方の違いの背景
ザビエルの本名はスペイン語由来の「Francisco Xavier」で、ポルトガル語経由で日本に伝わった際、全国では「ザビエル」と濁音化しましたが、山口では当初のポルトガル語風の発音「サビエル」が残ったとされます。
◎山口のこだわり理由
山口の人々は「サビエル」を独自のアイデンティティとして大切にし、他地域との違いを自覚的に守っています。 このこだわりは、ザビエルの功績を称える地元文化の象徴として、観光や教育でも強調されています。 -
祈りましょう。何を?私は今回の旅で歴史の大きな流れと、その中でうごめく人々の運命を見ました。人々はその歴史の流れに気づかず、忙しく日々の活動に右往左往しています。そして、ある時、 歴史を根底から変える大変動が起き、新しい歴史がはじまります。
写真:サビエル記念堂「ステンドグラス」 -
関ケ原の戦いと幕藩体制、明治維新と日本の近代化、そして、1945年の広島・長崎への原爆投下と敗戦、そして日本の戦後復興。それぞれの時代を先読みし、時代に合わせた戦略をとって大胆に挑戦した人たちは成功し、今まで安泰だった多くの既得権者は脱落していく。これが歴史の流れ。
写真:サビエル記念堂「パイプオルガン」 -
そして、今(2025年12月)日本は超高齢化に直面し、日本経済と日本円の弱体化に拍車がかかっています。さらに、ここにきて生成AIというモンスターも襲ってきました。従来の既得権にしがみついて安泰な生活を送ってきた人々の未来は???どうやら近い将来、日本は1945年に続く「歴史の大変動」が来そうです。
写真:サビエル記念堂「主祭壇」
→ヒルトン広島滞在に続く
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