2019/03/16 - 2019/03/23
4293位(同エリア6421件中)
noriyosiさん
- noriyosiさんTOP
- 旅行記40冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 11,637アクセス
- フォロワー3人
2019年3月ドイツ・オーストリアハイライト周遊8日間の旅13 ウィーン編3-3
2019年3月16日から3月23日の予定でドイツ・オーストリアの旅に出かけました。
3回目の海外旅行です。年に一度の骨休み。もう一度二人で行こうと思い立ちました。
今回は3月21日(木)6日目昼から午後にかけての オーストリア・ウィーン編3-3(ハプスブルク家ゆかりの地巡り)です。
前日の午後にはホテルに着いていたので、周辺を散策しました。この辺の夜は寂しくなるようで自由行動でホテルに戻るルートはメトロとトラムを乗り継ぐ方がよさそうに思えました。
6日目、3月21日(木)の概略スケジュールです。
午前
8:30 ホテルから、シェーンブルン宮殿~ウィーン歴史地区観光に向けて出発。
9:00 シェーンブルン宮殿
10:00 ベルヴェデーレ宮殿
昼~午後
12:00 シュテファン大聖堂~オペラ座
13:00 昼食
13:30 オプションツアー:ハプスブルク家ゆかりの地巡り観光
アウグスティーナ教会など
(今回はここから)
14:30 シシィ博物館
15:30 カプツィーナー霊廟
16:20 自然史博物館
17:20 美術史美術館
19:40~ メトロでトラム乗り継ぎ
20:10~20:30 トラムでホテルへ帰還
(前回からの続きです。)
いま、王宮中庭にいます。
中庭中央にあるブロンズ像は
Denkmal Kaiser Franz フランツ2世/1世像です。
フランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(1768年2月12日フィレンツェ生まれ、1835年3月2日ウィーン没)は、最後の神聖ローマ皇帝で、 1792年から1806年までフランツ2世として統治した。1804年にオーストリア帝国を建国し、1835年亡くなるまで フランツ1世として統治した。文献では祖父のフランツ1世ステファンと区別するためにフランツ2世/1世と呼ばれることが多い。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
シシィ博物館にはどの門から入るんですか?
(ガイドさんについていこう。) -
ウィーン・ホーフブルク宮殿内にあるシシィ博物館にこれから入場します。
-
シェーンブルン宮殿文化運営会社が運営するシシィ博物館の入口は、ミヒャエルトラクト(聖ミヒャエル翼)のドームホールにあり、展示室はかつてハプスブルク家の冬の宮殿であった帝国首相官邸翼内にあります。
-
Sisi Museum シシィ博物館
ホール受付で待機。
エリザベートに関する常設展に加え、皇帝の居室と銀器コレクションも収蔵されており、オーストリア史において最も多くの来場者を集める場所の一つとなっています。 -
「ウィーン・ホーフブルク宮殿内にあるシシィ博物館です。皇帝の居室ではフランツ・ヨーゼフとシシィの私生活が垣間見えます。エリザベートの数々の私物を通して、しばしば誤解されがちな皇后の真の姿を垣間見ることができます。」
-
オーストリア=ハンガリー帝国のシシィの愛称で親しまれた女王、エリーザベト (オーストリア皇后) =エリーザベト・フォン・エスターライヒ(独: Elisabeth von Österreich、1837-1898)の博物館です。
-
1837年に生まれた時はエリザベート・アマーリエ・ウジェニーでした。16歳で従弟の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚してから様子が変わりました。宮廷生活になじめないようでした。
1889年マイヤーリング事件が起りました。狩猟小屋で一人息子のルドルフ皇太子と17歳の愛妾マリー・ヴェッツェラ男爵夫人が心中した事件はエリザベートにとって大きな傷跡を残しました。 -
(わたしも、オードリーヘップバーンの幻の名画マイヤーリングをみて大きな悲しみに包まれました。)なんですか?
1898年、ジュネーブ旅行中、エリザベートはイタリア人アナーキスト、ルイジ・ルケーニに心臓を刺され亡くなりました。それでも彼女の在位期間は44年で、オーストリア皇后の中で最も長い期間でした。 -
申し訳ありませんが、当時撮影禁止でしたので、内部写真はありません。今はフラッシュを使わなければ撮影可能です。
(サインのどこが違うん?)
分かりにくいでしょう。カメラの右上のカミナリマークでフラッシュではだめと言っているのです。このことで誤解をして悲しいことになりました。
(なに。)次回のお楽しみ。 -
(どこからでてきた?)
出口から。 -
BUNDESKANZLERAMT ÖSTERREICH
BUNDESPRESSEDIENST
Medienakkreditierung
オーストリア連邦首相府 連邦報道室 メディアクレジット承認?とかプレートが掛っています。 -
(これはなに?)
なにをわらいよん。真っすぐ通りをいってもいいのですが。 -
どこかの中庭に入りますね。
-
ガイドさんによるスペシャルコースです。
-
(さっきはいったところや。)
-
(みおぼえがある。)
-
(え?時間が戻って場所がループしているみたい。)
もう一度みせたいという強引なやさしいガイドさんの配慮です。 -
Michaelerkirche (Pfarrkirche zu St. Michael)
ミヒャエル広場の聖ミヒャエル教会(または聖ミヒャエル教区教会)
「よくきたな。」
やはりミカエル様ではございませんか。お会いしたかったです。
「ほんとうか。」 -
ガイドさんに連れられて今回寄れないのが残念です。
「まあ楽しんでお帰り。」
有難うございます。
(大天使様に慣れ慣れし過ぎるけどいいの?)
いけませんが、話しかけていると親しみが湧くのです。
(ほどほどにね。あぶないよ。) -
写真はアドルフ・ロースのロースハウスです。ミヒャエル広場にある衣料品会社ゴールドマン&ザラッチ社のために設計したロースハウスは1910年、その装飾のないファサードで国内外で大きな注目を集め、論争を巻き起こした。ホーフブルク宮殿の向かいに位置し、窓のコーニスがなかったことから「眉毛のない家」というあだ名が付けられた。フランツ・ヨーゼフ皇帝(1830~1916)はホーフブルク宮殿からミヒャエル広場を眺めることを拒絶したと言われている。装飾を徹底的に排除し、庇すら設けなかったが、一部の窓に花壇を付けることで建築許可が出ました。
「装飾は無駄な労働であり、したがって無駄な健康です...今日ではそれは無駄な材料も意味し、両方とも無駄な資本を意味します… 建築は芸術に属しません。建築のうち芸術に属するのはごく一部、つまり墓と記念碑だけです。目的を果たすべきものはすべて芸術の領域から排除されるべきです」(わからん)そうですね。 -
アドルフ・ロースは高額の建材を求めて海外にいくほどで、コストダウンのためではありません。いわば装飾のないデザインを好みました。境遇から心に深い傷がある人でやさしさ、楽しさ、おおらかさ、謙虚さ、敬意に欠けているように思えました。王宮に対抗して王宮の正面にこれを建てるのが望みでした。
Kohlmarktコールマクルトの通りを進みました。コール(石炭)の市場があったことが通りの名の由来です。
一般車は通行止めで歩行者専用道になっています。 -
Apothekeアポテーケです。
(だれがアポテーケじゃ)お店で薬屋さんですけに。
装飾は飾りじゃないのよ。はは。
すべて意味があるのよ。ほほ。
ニコスがないのは違うと感じてた。
眉毛がないじゃない。ほほ。
建物はやさしいのよ。はは。
話しかけてくれるのよ。ほほ。
忘れてはいけない、昔から変えられない
かけがえのないものがあるよ。はは。
楽しくないとつまらないと感じてる。ほほ。
笑ってみせたり、きどったり、
派手にきかざったり、
変顔をしておどけてみたり。
楽しくわらってみせてよ。
きれいなだけでいいといっているのじゃないのよ。
表情がでないのは違うと感じてた。
コンクリートでもいいのよ。はは。
ガラスでも。ほほ。
ときどき余計なものもあるけど。
高額の大理石の上がのつぺらぼうじゃ悲しすぎると感じてた。
装飾は飾りじゃないのよ。はは。
すべて意味があるのよ。ほほ。
ララララ ララララ・・
御静聴有難うございました。
(ポカ。笑かすな。) -
振り返ると王宮聖ミヒャエル翼のドームが正面に見えるのが不思議に思えました。
(ミヒャエル広場がサークルになっていて王宮が湾曲しているからヘレンガッセから見ると小さなドーム。コールマクルトから見ると聖ミヒャエル翼のドームが正面になります。) -
(DIOR GUCCIよ。)
そうですね。 -
(TOPSKINのFENDIよ。)
わからんですね。 -
ますますわからんです。
(右Breitling Boutiqueは時計店
左BREGUET Wien Boutiqueの先がBurberry
その先Google Österreich(Google Vienna)
あのグーグル様なら良くお世話になっておりまして、有難うございます。 -
Cartierカルティエ
時計は3時15分 -
(ここで通りを曲がる。)
鋭角なので方向が分らなくなるグラーベン通りです。
TOD’S Vienna Storeはブティック店 -
Josefsbrunnen
ジョセフ(ヨセフ)の泉
八角形の噴水盤の中央には、古典的な正方形の台座が立っています。エジプトへの逃避と、夢の中で天使がヨセフに現れる様子を描いた2枚の金属製レリーフパネルが南東軸に沿って配置され、水を噴き出す金属製のライオンの頭が東西軸に沿って配置されています。台座上部の像は、古典的な衣装をまとった聖ヨセフが杖を持ち、ヨセフの系図を描いた巻物を持つ少年に身を乗り出している様子を描いています。 -
Peterskirche
聖ペーター教会(イタリアならサンピエトロとなります。)
現在は何も残っていない最初の教会は中世初期に遡り、ウィーン最古の教会ではなかったかという憶測もあり、ローマ軍の駐屯地跡に建てられたものです。
1701年頃、レオポルト1世は新しい教会の建設に着手した。数世紀に渡って使用され、かなり荒廃していた古い聖ペーター教会は取り壊され、周囲の墓地は更地にされて放棄された。計画は1702年に完了し、礎石の設置から建設が始まったが、以前の建物の正確な場所には建設されなかった。建設は1722年までにほぼ完成しましたが、教会の奉献式は1733年5月17日、ジギスムント・コロニッチ枢機卿が式を執り行うまで行われませんでした。新しい教会はバロック様式でウィーン最初のドーム屋根の建物となり、ドームの高さは56メートルです。 -
ペスト記念柱
Wiener Pestsäule 1693
ペスト記念柱(ドイツ語:die Wiener Pestsäule)または 三位一体柱(ドイツ語:Dreifaltigkeitssäule)
1679年、ウィーンで最後の大規模なペスト流行の一つが猛威を振るった。ウィーンから脱出した皇帝レオポルト1世は、ペストが終息したら恩寵の柱を立てると誓いました。 -
この円柱は複雑な図像的プログラムを特徴としており、その基本的なメッセージは、皇帝自身の敬虔さと執り成しによってペストとオスマン帝国(第二次ウィーン包囲戦、 1683年)が回避、あるいは撃退されたというものです。したがって、この円柱はレオポルト1世の(勝利の)記念碑でもあります。
-
Spiegelgasseとの角にある
H&M 衣料品店です。 -
Spiegelgasse シュビーゲルガッセの
Roberto Schuhe (Roberto & Sons)靴屋さんです。 -
プランケンガッセ(通り)まで戻ってきました。
このあたりの1階テナントは入れ替わっているでしょう。
この通りを曲がればNeuer Markt(新市場広場)に出ます。 -
正面に見えてきたのは、
ホテル アンバサダーHotel Ambassador
右奥の突き当りにあるのは
ホテル インペリアム レジデンス
(くっ付いて建っているのでわからん。) -
右が カプチーナ教会です。
Katholische Kapuzinerkirche (Hl. Maria von den Engeln)
(天使のマリア教会)
天使の聖母教会は、カプチン修道院内にあるローマカトリック教会です。ウィーンのカプチン修道院とその教会は、何世紀にもわたってハプスブルク家の埋葬地として使われてきたカプチン納骨堂として知られています。 -
KAPUZINERGRUFT
KAPUZINERKLOSTER
・・・Cripta degli Imperatori
カプチン会納骨堂 カプチン会修道院・・・皇帝の墓所
(カプツィーナー霊廟という方がかっこいいぞ。) -
ガイドさんが受付をしてくれました。
-
KAPUZINERGRUFT
Nächste Führungen
14:00 Uhr (Deutsch)
15:30 Uhr (Englisch)
Next guided tours
2 pm (German)
3.30 pm (English)
独英列記ですが、
カプチン会納骨堂
次回のガイドツアー
午後2時(ドイツ語)
午後3時30分(英語)
私たちはガイドさんが付いているので安心。
(右から左へ聞き流しでしょう。) -
階段を下りて墓所に向かいます。
パブリックドメイン:Imperialcryptvault付けました。 -
地下の納骨堂です。ぞくっとしたので黙祷。
(霊気を感じたか)
自分の気持ちを鎮めるためです。照明が消えて一人でここにいたらどう思う。
(わたしはへっちゃら。)
アーメン。 -
左下のボードの説明をしますと、
警報注意!
(ボードの下から2行目はイタリア語です。)
allarme =「all'arme 武器をとれ 」
14世紀英語に借用され英語のalarmとなりました。
独語のAlarmはアラルムと発音します。
(そんな情報いるか?) -
LEOPOLD JOSEPH 1700-1701 レオポルト ヨーゼフ
(有名?)
しらないけど、レオポルト・ヨーゼフ大公(1700年10月29日 - 1701年8月4日) -ヨーゼフ1世皇帝の息子
幼くして一歳で亡くなったお子様の棺なのでプレートしか写らないほど小さいが私の悲しみは大きい。(?)
似た名前があるけど、皇帝です。
レオポルト1世(1640年6月9日 、ウィーン生まれ、 1705年5月5日、ウィーン没)、ハプスブルク家の第6代皇帝、本名レオポルト・イグナツ・ヨーゼフ・バルタザール・フランツ・フェリツィアン
レオポルト2世
(独語:Peter Leopold Joseph Anton Joachim Pius Gotthard von Habsburg-Lothringen)
レオポルドはオーストリア大公妃マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ・シュテファン・フォン・ロレーヌの9番目の子として生まれ、洗礼名はペトルス・レオポルドス・イオアンネス・アントニウス・ヨアキム・ピウス・ゴッタルドゥスです。
(困ったもんだね。)フルネームにしないとわけわからなくなる。他の国にも同名の方がいらしゃるから注意。(以降手短に。アーメン。) -
(正面はマリア・テレジアの石棺ですか。)
-
マリア・テレジアとフランツ・シュテファンの二重石棺
-
マリア・テレジアの納骨堂で合掌
-
横側にはマリア・テレジアの娘、嫁、孫娘が納められた合計6つの石棺があります。
-
納骨堂の天井、壁も荒々しい。
-
ここの墓所でプレートが掛っています。
ZUM GEDENKEN
AN DIE ERSTEN OPFER DES WELTKRIEGES 1914 - 1918
ERZHERZOG FRANZ FERDINAND VON ÖSTERREICH-ESTE
GRAZ 18.12.1863 + SARAJEVO 28. 6.1914
UND SOPHIE HERZOGIN VON HOHENBERG
STUTTGART 1. 3.1868 + SARAJEVO 28. 6.1914
BEGRABEN IN DER GRUFT ZU SCHLOSS ARTSTETTEN
「1914年から1918年にかけての第一次世界大戦における最初の犠牲者を偲んで
オーストリア=エステ家のフランツ・フェルディナント大公
・グラーツ 1863年12月18日 + サラエボ 1914年6月28日
そしてホーエンベルク公爵夫人ゾフィー
・シュトゥットガルト 1868年3月1日 + サラエボ 1914年6月28日
アルトシュテッテン城の地下聖堂に埋葬」
2人は貴賤結婚をしたために、ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々が埋葬されるカプツィーナー納骨堂に入れないことを生前から悟っていました。夫妻は、居城であったアルトシュテッテン城内の納骨堂に埋葬。もしかしたら国王になれる方でした。サラエボで暗殺されました。 -
フランツ・ヨーゼフ1世納骨堂ホールの天井は立派だけれど。
-
エリザベート皇后の棺
花束が絶えないようです。 -
フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)の棺
フルネームはフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
(やめなさい。)
国王になっても、長生きしてもつらいこともあったでしょう。かけがえのないものを失った悲しみがここにはある。
右に皇太子の棺が並んでいます。 -
1階のカプツィーナー教会です。
-
簡素にみえる単廊式ホール教会ですが、樽型天井と小さな玄関ホール、および 2つのサイド礼拝堂、皇帝礼拝堂 (左) とピエタ礼拝堂 (右) があります。
-
「しばらく椅子に座りましょう。」はい。
-
目を閉じて瞑想
-
「静かに思いをめぐらせてみましょう。」
-
そろそろ人生について考えるころですが、悟りを会得できるわけでもない。
-
(天井が丸い。)
おちゃらけ雑念ばかりじゃ。そんなことでは成仏できん。 -
通りに出ました。
見えているのは
マルコ・ダヴィアーノ(カプチン会の修道士1631~1699)の銅像
時刻は16時になるころです。 -
ガイドさん、早い。
-
(何となくが見覚えがある)
さっき行ったでしょう。 -
(ここは何回目?)
-
ガイドさんに挨拶しないと。
同じところを通っているようですが、オプションツアー2「宮殿クラシックコンサート」に参加する人と離れて、ここで私たちはお別れです。
「お達者で。」
はぁ、達者でな、風邪ひくな、忘れるな、また逢おな。
(それにつけてもおやつはカール。)
違う。
ガイドさん、有難うございました。 -
さあ、どうやって美術史美術館に行こうか。
(いけるかな)
よろよろとした街歩きの概略地図付けました。
突然ですが、今回はここまで。できたところまでです。次回はお待ちかねの最終回になるよう頑張ります。
(ええ加減にせえよ。)
実はウィンドウズ11にするときに、知らずにバックアップをOneDrive にしたようで、容量を超えたから課金しろとメッセージがでて面倒なので、途中でファイルごと削除したら、本体まで消したようです。100GB分ドキュメントからピクチャまで紛失しました。復元ソフトを使って、再現しましたがすべて開けないファイルになっておりますので、最初からやり直しです。この1か月でローカルファイルを作り制作していますが、一部のOneDrive名ファイルは削除できないようで同名のファイルはどちらのファイルに入るかソフト次第です。
皆様はお気を付けください。
(気を付けるのはお前じゃ。それで、へこんで機嫌が悪いのかい。試練はまだ続くみたいです。性格が悪いだけで根は適当なので期待せずにおおらかにお待ちください。)
見捨てないでお待ちください。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
noriyosiさんの関連旅行記
ウィーン(オーストリア) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
ウィーン(オーストリア) の人気ホテル
オーストリアで使うWi-Fiはレンタルしましたか?
フォートラベル GLOBAL WiFiなら
オーストリア最安
478円/日~
- 空港で受取・返却可能
- お得なポイントがたまる
0
66