2025/05/18 - 2025/05/18
362位(同エリア376件中)
gianiさん
- gianiさんTOP
- 旅行記238冊
- クチコミ54件
- Q&A回答0件
- 806,754アクセス
- フォロワー16人
この旅行記スケジュールを元に
平戸島西岸の2つの集落を回ります。春日集落は世界遺産に指定されています。根獅子には市立の切支丹資料館が立地するので、やはり重要なスポットですが、公共交通機関から3km離れています。春日は資料館/博物館的要素が希薄で、分かりにくいのが難点です。
生月島/春日/根獅子を全てバスで回るなら、初日朝に平戸を出て午前を春日、午後は生月島と島の館を訪れて宿泊、翌日朝は生月島から大江高校へ向かうバスに乗って根獅子へ向かい、午後に平戸へ戻るのが効率的です。島の館は月曜休館、切支丹資料館は水曜休館/大江高校行は登校日かつ登下校時間帯のみの運行なので要注意です。生月島へはアクセスが良いので、消化不良の分は2日目午後以降に再訪問あるいは、観光/捕鯨文化学習を兼ねて2泊するのがベストです。
細かい歴史的説明や信仰用具/行事の説明は全編を参考にしてください↓
https://4travel.jp/travelogue/11996907
- 旅行の満足度
- 5.0
-
生月島の島の館を後に、平戸島へ戻ります。
生月大橋は1991年に開通、2010年に無料開放しています。
写真では、春日集落が海に張り出しているのが見えます。生月大橋 道の駅
-
白石バス停で下車
-
とにかく険しい平戸島西岸は、人を寄せ付けません。
一方の生月島は、なだらかな地形で対照的です。 -
県道を曲がって、春日集落へ通じるトンネルに入ります。一応平戸島を縦断するメインロード県道19号線です。
-
小春日集落まではバス停から徒歩10分ほどです。
春日集落へは、更に10分ほど歩きます。 -
案内所かたりな
トイレ/駐車場/売店があります。
本来は、住民の説明と雑談を楽しむウィンウィンの関係を意図していますが、本日は塩対応でした。小春日集落にあります。春日集落案内所 グルメ・レストラン
-
ビデオを拝見。あと、書籍が充実しています。実は、生月島のネット上で公開されていない多くの情報は、ここで仕入れました。熟読すれば丸一日あっても足りないでしょう。一方で、春日に集落に関する資料は少ないです。ひとえに、旧生月町の学芸員だった中園成生氏の功績です。
-
世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に指定されています。指定理由は、宣教師不在の中で育まれた日本独自の宗教的伝統です。
12の構成資産から成り、すべてを回ると①潜伏キリシタンがどのようにして既存の社会/宗教と共生しつつ信仰を継続していったのか②禁教が解かれた後に彼らの宗教伝統がどのように変容し終焉を迎えて行ったかかが分かります。
平戸市域ではNo.2中江ノ島/No.3春日集落と安満岳の2か所が指定され、平戸の聖地と集落というタイトルが付されています。 -
歴史的背景は①宣教者不在とキリシタン潜伏のきっかけ②潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み③潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み④宣教師との接触による転機と潜伏の終わりに分類されます。
①は禁教/鎖国/摘発で17世紀中にキリシタン共同体の多くが崩壊(棄教/殉教)した②は長崎と天草地方は18世紀になっても共同体が維持され独自に信仰を実践する方法を模索し独自の対象を秘かに拝む(自然界/神社/聖画像/生活に根差した身近なもの)③人口増に伴う開拓移住が外海地域で行われ、キリシタンが移住先として選んだ理由④鎖国と禁教が終わってもカトリックへ復帰せず独自の伝統を続けた人たちの末路を意味します。平戸の聖地と集落では②に該当し、安満岳(山)や中江ノ島(島)を信仰対象として実践しました。 -
春日集落
平戸島西岸部に位置し、外洋(東シナ海)に面しています。海岸線は急峻で、小春日集落と春日集落のある2つの谷が存在します。平戸島最高峰の安満岳(538m)の稜線2本と海岸線の3面に囲まれた地形です。他の集落との往来は海路が一般的で、1kmほど離れた生月島との交流が一番密です。急峻な山道も存在します。 -
カトリック伝来までの歴史
春日沖は7-9世紀頃には遣唐使船の航路(大洋路)が確立され、寄港地補給地として機能した地域です。宋の時代には中国人海商(綱主)が行き来していました。室町時代は倭寇の時代で、近隣の海賊を纏めた松浦党の支配を受け、明の海商も平戸を拠点に活躍します。春日も後背地として恩恵を受けます。 -
航海の発達と山岳信仰
安満岳は霊山として信仰され、718年に加賀白山から勧請された白山比賣神社、修験道場(真言宗)が開かれ、西禅寺開山に繋がり100名以上の修行僧が籍を置く大所帯でした。
陸地から見る安満岳は不格好ですが、海上から見ると美しい稜線を見せ、尚且つ最高峰ということで、航海の目印として安全に寄与し、海商や日常的に船を操る住民から航海安全の祈願を受けました。 -
平戸と春日の布教史
日本にキリスト教をもたらしたザビエルは、鹿児島に次いで1550年に平戸を訪れ、200名を改宗させます。城主松浦隆信は改宗しませんでしたが、筆頭家老の籠手田安経は熱心な信者となり、1558年に春日集落を含めた知行地で住民の一斉改宗を行います。
1561年にアルメイダ修道士が訪れた際に教会が設立されます。 -
日本の特殊事情
ローマと地続きの西洋では布教の歴史も長く、地域(≒教会)毎に司祭を配置して教区/司教区/大司教区と組織だって聖職者/信徒を信仰/生活(経済)面で支配できました。西洋/中南米/アフリカは、カトリック政権(含む植民地)なので教会/聖職者の配置や経済的支配も容易でした。日本の支配者は仏教徒で、布教の歴史も浅く、西洋から遠いので聖職者の供給/地元育成もままなりません。春日では住民の一斉改宗を行ったので、信徒の信心深さも玉石金剛です。本来ミサ/洗礼等を行う資格を持つ聖職者も数年ごとに巡回するのみの希薄な環境です。
それゆえイエズス会は、教会設立に併せて「慈悲の会」と呼ばれる信者組織を設立させます。慈悲の会は、教会での礼拝以外の事(教会運営雑務/信者の生活援助/冠婚葬祭等の臨時行事等)を行い、コミュニティの存続を助けました。慈悲役と呼ばれる複数名の慈悲役(平信徒)を中心に行われました。 -
1599年に松浦隆信が亡くなると徹底弾圧が始まり、領主の籠手田氏は亡命し、宣教師や司祭が完全不在になります。遅れて幕府も弾圧を始め、国内で逃げ場がなくなります。
平戸藩域は1622年に潜入したカミロ神父を最期に聖職者との接触が250年ほど絶たれます。資格ある宗教指導者や聖書が1冊もない環境で残された信徒たちは、慈悲の会/慈悲役をベースに信仰組織を再構築します。年間行事を太陰暦に適応して日にちを決める帳方1名をトップに、聖職者に代わって洗礼を行う水方(お授け役)、彼らを補佐する聞方(触役)です。 -
詮索と迫害を逃れるために、幕府の統治システム(仏教寺院を通して全住民を管理する)を表面的には受け入れ、表面的には神仏への崇拝行為を行いつつ、秘かに集まり合ってキリシタンの信仰も続けました。帳方宅に信仰対象を祀り、オラショと呼ばれるラテン語の祈祷文を唱えました。信仰対象は、人目に付かないように納戸にしまったために納戸神と呼ばれます。個人宅では、神棚(氏神:春日では春日神社)や仏壇があり、カムフラージュの役目のみならず神仏も併せて信仰していました。
※典礼ではラテン語で行わなければないため、オラショ文句は翻訳されず信者にとって意味不明の言葉です。オラショを彼らが「もんじゃもんじゃ」と呼んでいることからも分かります。ラテン語以外でミサが行えるようになったのは、つい最近(第2バチカン公会議後の1969年)です。 -
生計手段
古来より漁撈と畑作を生業としていましたが、石を積んで棚田(稲作)も築いていきました。1656年に作成された「田方帳」(写真)には、現在と変わらぬ棚田分布が見られます。豊富な湧水で水源にも困らなかったことも背景があります。農業/商業集落との交易も盛んでした。山が迫り平地が皆無の海岸集落にも拘らず。豊かな生活基盤があったのが注目に値します。これは経済的負担の大きい潜伏キリシタンの信仰維持に大きなアドバンテージとなります。 -
お札様
慈悲の会は5世帯を基本とするコンパイヤ(小組)に分かれ、各組にはお札様が設置されました。毎月お神酒を供えて、集まり合ったコンパイヤ内の信徒が札を引いて吉凶を占いました。禁教前に小組単位で日曜日ごとに集まって、信仰について語り合ったことの名残です。 -
親札と十五玄義を書いた札(合計16枚)で構成されます。聖母マリアをめぐる15の神の教えという意味で、受胎告知に始まる「喜び」/キリス ト受難を描く「苦しみ」/キリスト復活とマリア昇天までの「栄光」の各5場面から成ります。
親札はお袋様と呼ばれ、袋の絵が描かれ(上段右から2枚目)ており、これを引くと大吉に相当します。お袋様を引くとお札様を家に持ち帰り、次の会までの1カ月間ご飯を供える特権を享受します。 -
オペンテンシャ
キリスト受難の時期に苦行を行う際に使用した鞭が起源。春日では用途は完全に変化し、お祓いの道具となっています。病人を叩いて、お祓いしました。 -
メダイ/ロザリオ
メダイ(英:メダル 写真左)は聖人等が刻まれたもので、ロザリオは数珠と同じ役割を果たし祈りの回数を数えるのに使用します。信仰用具にすぎませんが、潜伏キリシタンは信仰対象とみなしました。写真右は宣教師がロザリオを分解して各家庭へ配ったものです。
※信仰用具自体を信仰対象にする経緯は、1591年に教皇グレゴリウス14世による大赦(聖具を所有し祈ることで贖罪が与えられる)が大きく関係しています。 -
中江ノ島信仰
春日集落から数キロの所に浮かぶ島で、宣教師時代から病気が治る聖水が湧く場所として九州全体で広く知られました。1622/24年に宣教師を支援した生月島の信徒らが中江ノ島で処刑されると、殉教の地/聖水の地を兼ねた聖地となり、信仰対象となります。春日集落でも、中江ノ島を拝んだり聖水を採取して洗礼等の儀式に使用します。純粋にキリスト教に関係した経緯で信仰します。 -
安満岳信仰
春日集落ではオラショで神寄せ(祈祷文を唱える前に誰に対する祈りなのか対象を列挙する)する際に、安満岳様/安満岳の奥の院様という文言もあり、潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかります。古来からの神仏習合の山岳信仰をキリスト教と融合したものです。
キリスト教由来の御神体は隠して保管し目に見えないのに対し、安満岳は集落のどこからでも見える分かりやすい信仰対象です。 -
潜伏時代の終わり以降
明治6年(1873年)に政府が禁教を撤廃すると、春日にも宣教師が再布教に訪れ潜伏時代が終わりますが、春日/小春日集落は全世帯がカトリック復帰を拒み、かくれキリシタンとして先祖代々の独自の信仰を実践します。平戸島全体ではほとんどがカトリックに復帰したのとは対照的です。ロザリオやメダイといった御神体は、神棚などに収納しました。戦後に禁教期の信仰形態は次第に失われ、春日・小春日地区にはそれぞれカクレキリシタン組織がありましたが、春日地区では1970年頃、小春日では1997年頃に解散され、組織的な行事はおこなわれなくなりました。現在では個人的に信心具を祀る程度になっています。 -
座学を終え、現地へ向かいます。
小春日集落は、棚田と牛の放牧地のバランスが見事です。納戸神を祀った家屋が一軒存在しますが、場所は秘匿されています。世界遺産指定エリアは、1年に1回現状調査が行われHPで公開されています。2024年5月現在の情報がアップされています。 -
小春日/春日集落を分ける稜線の麓に沿って、ぐるりと回ります。小春日バス停は、大江高校行の路線バスが登校日の朝夕に運行されます。自販は、集落で唯一です。
-
春日集落に入ると、小学校分校跡に建つ春日公民館があります。その横を通る細い道には、祟る石があります。触ると祟られるそうですが、小石を上に置くとセーフみたいです。
-
説明書き
-
春日集落は春日川の浸食でできた谷間で、標高150mの地点までに450枚の棚田があります。500年程変わらない景観が魅力です。
-
海岸線には、氏神である春日神社がまつられます。平戸の潜伏/かくれキリシタンは、キリスト教以外の信仰に対する嫌悪感がないのが特徴です。キリシタンの行事にも神主や僧侶を呼んで儀式をしてもらったりします。
-
小春日と併せて18世帯70名が生活しているそうです。家は、海岸沿いに集中します。
-
三界万霊碑
仏教の石碑で、宗門改めの証となります。1761年設置と刻まれています。村にキリシタンがいないことを証明するアイコンです。 -
1639年に元藩士の浮橋主水が、平戸藩はキリシタンを擁護していると幕府へ訴えたために、キリシタンが忌み嫌う仏教を擁護していることを示す三界万霊碑を領内各地に設置し始めます。特に寛文11年(1671年)の設置が多いです。
-
三界万霊碑のそばには、キリシタン共同墓地(堂山遺跡)が公開されているとHPにはありますが、見つけられませんでした。
気を取り直して谷を進みます。あいにくの天気で安満岳は見えません。 -
人形岩
大きな岩が重なっているのに倒れないのが不思議な自然の為せる業。 -
牛舎の裏には、簡易水道施設。
現在も湧水を飲用に使用しています。水が豊富かつ清潔な証。 -
安満岳が見えると、こんな感じです。
-
棚田は傾斜が急なほど幅が狭くなります。石垣の高さは2-3mで、国の重要文化的景観に指定されています。
-
春日川は、2つの沢を水源とします。
-
棚田の最も上の場所
-
田植えが終わっています。
-
丸尾山が見えます。
-
ふしぎな切り通し
実は、安満岳への登山道。
昭和まで、集落外へ通じる唯一の陸路でした。一度安満岳まで迂回して、中野地区へ通じる道でした。 -
昭和40年代に春日地区へ自動車がアクセスできるようになるまで、生活道路でした。
-
棚田の先に丸尾山が突き出ています。
-
害獣除けのために何度もフェンスの門を越えます。
-
馬洗川
藩の牧場として馬を放牧していた歴史を背負った名前です。 -
川上には、馬を洗える窪みがありました。
昭和40年代に植林が進むまでは、春日集落周辺は草地でした。
何気に景観が数十年で大きく変化しているみたいです。 -
丸尾山頂上には、祠があります。
発掘調査でキリシタンの墓地が見つかっています。
禁教までは大きな十字架が立てられ、聖地とみなされてきました。 -
棚田のベストショット
-
春日を後に、バスで根獅子を目指します。3km手前の根獅子バス停で下車。
-
山道を歩くと見えてきました。
根獅子は壱部勘解由領で、1665年にカブラル神父によって一斉改宗が行われました。
潜伏経緯等は、春日と同じです。 -
ここには市営切支丹博物館があります。
内部は、一切が撮影禁止です。
でもなかなかの内容でした。平戸市切支丹資料館 美術館・博物館
-
浜の近くには、根獅子教会跡があります。禁教期に畑になりましたが、人糞肥料の使用禁止など、聖地としての面目を保ちます。位置情報↓
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%A0%B9%E7%8D%85%E5%AD%90%E6%95%99%E4%BC%9A%E8%B7%A1%E9%81%BA%E8%B7%A1/@33.2924227,129.4463947,18z/data=!4m14!1m7!3m6!1s0x356ae66229763895:0x59e76204bea0345a!2z5bmz5oi45biC5YiH5pSv5Li56LOH5paZ6aSo!8m2!3d33.2901!4d129.447253!16s%2Fg%2F1236b3pr!3m5!1s0x356ae7e815ebfc0d:0x8f7e72ad4f0f43e4!8m2!3d33.293423!4d129.447074!16s%2Fg%2F11j6zgvq_0?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDgyNS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D -
向かいの浜には、八幡神社鳥居の横に昇天石があります。潮位の関係で海中に沈んでいます。
平戸の夫婦と3人娘の家族は、働き者のよそ者を気に入り長女に婿入りさせ懐妊します。安心して婿にキリシタン信仰を打ち明けると姿を消し、役人に密告して昇天岩と呼ばれる岩の上で処刑されます。 -
写真のように、こんな感じで沖に見えるはずです。
村人庇って、キリシタンは自分たち家族だけだと告白することで、約1000名の命が救われます。 -
彼らの遺体は、翌日根獅子の浜に打ち上げられます。
他にも、1635年には70余名の信徒がこの浜で処刑されます。
根獅子の浜は殉教地であり、聖地とされています。
根獅子では、1645年を最期に殉教はなくなります。根獅子の浜海水浴場 ビーチ
-
おろくにん様の森(ウシワキの森)
先述の家族は胎児を含めて6名なので、おろくにん様またはウシワキ様と呼ばれて、キリシタン資料館横の森に手厚く埋葬し、塚を築きました。聖地扱いです。現在は、利用者のマナー低下が原因で、立入禁止です。2008年の発掘調査で、疫病対策の墓だと判明。 -
先述の教会跡の横には聖水信仰のシンボルであるルルドのマリア像)(ルルドの泉のモニュメントがあります。写真右奥の茂みの中にはおろくにん様が使用したとされる井戸があり、ここから汲む水は聖水とされ、潜伏/かくれキリシタンが洗礼などの秘跡を行う際に使用されます。
-
チチャの木
切支丹資料館前の道を進むと、チチャの木があります。キリシタンの母子が麦畑に隠れましたが、赤子が泣き出して発見され処刑されます。この木は親子の血を吸って、今でも切ると血の色をした樹液が出るといいます。 -
切支丹資料館横の丘上に建つ小学校では、人骨が大量に発掘されています。
-
根獅子の浜を南進すると、分岐点にお墓が。かくれキリシタン墓地の特徴である長方形に石を積んだ墓碑がたくさんありました。
位置情報↓
https://www.google.co.jp/maps/@33.2888263,129.4442907,21z?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDgyNS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D -
グーグルマップにも載っている山口商店を右折すると
-
三界万霊塔
ここのものは、最もポピュラーな1671年設置のもの。 -
情緒ある道を進むと
-
小麦様の墓の案内板
-
小麦様の墓
朝鮮出兵で松浦鎮信が1598年に現地から誘拐した女性で、王族ともいわれます。1599年に鎮信の次男を生み、御三家筆頭松浦蔵人信正となります。家老として1000石を拝領し、母をここへ埋葬します。 -
小麦様の由来は、小麦畑に隠れていた彼女を捕まえたからです。戦利品と言ってしまえばそれまでですが、朝鮮出兵で多くの技術者(主に陶磁器関係)を日本へ連れ帰った日本の武将たちの事を考えると、拉致問題も複雑に思えます。
-
踏絵所跡
禁教時代の平戸藩では宗門奉行/宗門目付を設置し、根獅子は宗門目付を配属しました。1645年には長崎奉行所から借り受けた踏み絵を住民にも踏ませました。
ちなみに宗門目付の牧山家屋敷は、かくれキリシタンで辻元(総元締)を務めた辻家屋敷の上に位置し、力関係を示しました。 -
根獅子では、集落全体で一つの組が組織されていて、その長である辻元様と、洗礼を行う役である水の役7名が行事を行ってきました。組は、数軒の家で組織された触(小組/(慈悲仲間)で構成され、お札を御神体にしています。津元/垣内に相当する中規模の組が存在しないのが特徴です。
-
1988年の時点で5つの触(四触/松山/中番/美野/崎)から成る組が存在しました。辻方と呼ばれる総元締は辻家が世襲し、洗礼等を行う水子は7名(いずれも四触より輩出)で、触役は各触に1名という組織でしたが、1992に解散しています。
-
3kmの道のりを歩いて戻ります。
-
平戸へ戻る西肥バスは、紐差教会の前にバス停があります。鉄川与助設計で1929年に竣工させました。潜伏キリシタンよりも仏教徒の改宗者が多いのが特徴です平戸島には5つの教会と5つの巡回教会があります。
次は、生月島へ戻って捕鯨にピックアップします↓
作成中カトリック紐差教会 寺・神社・教会
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったグルメ・レストラン
平戸・生月島(長崎) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
73