2025/07/21 - 2025/07/21
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スネフェルさん
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日本海海戦で完勝を収めた東郷平八郎を知る人は多い。
しかし、東郷提督が
「日露戦争の勝利は幕臣・小栗上野介のお陰」
と言っていたのはどれほどの人が知っているのであろうか。
なぜかと言えば、小栗上野介は横須賀の造船所の建設を進めた人物であり、当時、軍艦が輸入に頼る中、日本海海戦に横須賀で建造された軍艦が参加できたため、数的劣勢を緩和することができたためである。
日本海海戦に参加した横須賀で建造された戦列艦は
第一艦隊第三戦隊:防護巡洋艦「音羽」「新高」
第一艦隊第一駆逐隊:駆逐艦「春雨」「有明」
第二艦隊第二戦隊:通報艦「千早」
第二艦隊第四戦隊:防護巡洋艦「明石」
第二艦隊第四駆逐隊:駆逐艦「朝霧」「村雨」
第三艦隊第五戦隊:防護巡洋艦「橋立」、通報艦「八重山」
第三艦隊第六戦隊:防護巡洋艦「須磨 」「秋津洲」
第三艦隊第七戦隊:巡洋艦「高雄」
日本海軍の主力艦(戦艦・巡洋艦)は27隻。
そのうち、7隻(26%)が横須賀造船所で竣工された艦であった。
対する露海軍の主力艦(戦艦・巡洋艦)は20隻。
横須賀造船所が無ければ、主力艦艇の数で優位に立つことはできなかった。
東郷提督が小栗上野介に感謝する所以である。
しかし、その小栗上野介は土佐の狂犬・豊永貫一郎に捕縛され、処刑された。
しかも、土佐の狂犬・豊永貫一郎は、碌に取り調べもせずに、小栗上野介の家臣と共に斬首した。
罪なくして斬られた、と言われる所以はここにある。
とはいえ、この狂犬。
上から捕縛し、処刑することを命じられていたにすぎず、独断で処刑したわけではないらしい。
しかし、狂犬が狂犬たる所以は小栗上野介を処刑した後、小栗家を略奪(乱取り)した事。
そのため、今回訪問した東善寺に残る小栗上野介の遺品は驚くほど少ない。
ちなみに、その後、豊永は歴史の表舞台から消え、狂犬・処刑人としてしか歴史に名前は残らなかっため、体よく体制側に利用されたに過ぎない存在ではある。
その意味では哀れな男であったともいえる(同じ利用された存在であっても人斬り以蔵は悪名であっても、有名な存在として名前を後世に伝えたたため、豊永の人生のピークは小栗上野介の処刑の時点で終わったのであろう。
ちなみに、狂犬・豊永が小栗邸を略奪したのには理由がある。
小栗上野介は勘定奉行をしていたため、幕府滅亡にあたり、徳川の軍資金を上州に持ち込み、隠したのだ、との噂が立った(その噂を聞きつけて、実際に暴徒が押し寄せた。)
恐らく、狂犬・豊永は小栗上野介から埋蔵金を奪う任務を帯びていたのであろう。
しかし、狂犬は狂犬ゆえ、「埋蔵金情報」を得ることなく、その情報を失わせてしまった。
まぁ、それが、新政府で狂犬が地位を得ることができなかった理由ではなかったか、と個人的には想像するのだが。
さて、小栗上野介は、その先見の明で横須賀造船所を建設し、日本海軍の近代化、ひいては前述のごとく、日本の国際的地位を上げる事に貢献した。
その一方で、薩長土の新政府はその功績を奪い、小栗上野介を歴史の闇に葬った。
やがて増長した日本軍はあ自分よりはるかに強い国(米国)に喧嘩を売り、完膚なきまで叩き潰されることになる。
敗戦である。
すると、責任逃れをするかのように、小栗上野介を
「軍国主義者」
として、罵詈雑言を浴びせかける輩(いわゆるパヨク)が現れる。
今まで、小栗上野介の存在を全く無視していたにも関わらずである。
ご都合主義も甚だしいが、このご都合主義はパヨクの得意とするところ。
歴史を知らず、あるいは歴史を直視せず、偏見と思い込みで他者に罵詈雑言を浴びせる輩に「知性」を有する者はいないのは歴史が証明するところである。
しかし、パヨクが度し難いのは、自分たちが「誰よりも知性にあふれている」と定義している点にある。
パヨクの心の故郷である某国の人民は「歴史を忘れた民族に未来はない」と日本人を誹謗していたが、日本人パヨクに対しては確かに頷ける言葉ではある。
ただ、大多数の日本人はパヨクほど、愚か者ではないのは確かなのだが。
さて、小栗上野介のゆかりの地への訪問である。
場所は現在の高崎市、旧倉渕村の中にある。
三桁国道を延々と走った先に小栗卿を祀った寺がある。
しかしながら、小栗卿のことはあまり知られてはいないため、注意深く道を走っている人でなければ、その寺の存在を見落としてしまうかもしれない。
駐車場は小さく、道端に幟が経っており、それを見てようやく気付く、という程度。
寺の中に入っても現物の資料は少ない。
小栗卿は徳川埋蔵金伝説の中心人物であり、「新政府軍」を自称する略奪者によって、徹底的に略奪されたから、とのことであった。
明治維新は薩長が盗んだ、とはよく言われるが、そのことを象徴するようなエピソードだともいえる。
前回、訪問した時には気づかなかったが、小栗卿の遺族と東郷平八郎元帥は交流があり、東郷元帥が揮毫した書が残されていた。(もちろん、小栗卿の遺族に当てたもの)
「逆賊」とされたたため表立って小栗卿に感謝を伝えることはできないが、せめて、ということらしい。
海軍軍人のスマートさ(狡猾さともいう)が感じられる故事かもしれない。
小栗卿ゆかりの地を巡り、「勝者のプロパガンダ」ではない、歴史の一旦を感じるのも良いかもしれない、と感じた。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.0
- 交通
- 1.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
-
小栗卿知行地近くの道の駅「くらぶち小栗の里」には小栗上野介コーナーが設けられていました。
くらぶち小栗の里 道の駅
-
小栗卿が葬られている東善寺に到着
駐車場は無料でした小栗上野介忠順の墓 名所・史跡
-
東善寺の参道
-
記念館建設予定地の看板。
以前訪れた時もあったような気が・・・
大河ドラマになったことで、募金が進むかなぁ・・・ -
東郷提督と小栗卿が並んだポスター。
一方は英雄になり、一方は歴史に葬られた存在。
とはいえ、東郷提督が小栗卿のことに言及したのは救いか。 -
書院にて拝観料200円と線香代200円を払います。
寺の住職さんから、丁寧な説明を頂きました。 -
案内図。
住職さんからは最後に本堂の「宝」を見てください、と言われました。
東郷平八郎が小栗卿の子孫に贈った書があるとのこと -
小栗卿の遺品館に向かいます
-
遺品は驚くほど少ないですが、遺品が少ない理由は遺品館内に説明がありました。
小栗卿の罪状を明らかにすることなく
「問答無用」
で処刑した後、薩長土軍は小栗卿の家財全てを
「略奪」
したため、とあります。
「官軍」とやらが「田舎の土豪」でしかなかったことを示す事例です。
当然、この事実は隠されました。
この問答無用のやり方。
515事件を思いだします。
「話せばわかる」と反乱軍将校に語り掛けた犬養毅首相に対し、
「問答無用」としか応じずに犬養首相を射殺した反乱軍。
薩長土軍と帝国陸軍は精神の面で本質的に同じであったことが良くわかります。
会津に行ったときも感じましたが、薩長土は日本を西欧の侵略から守ったのではなく、日本を盗んだのです。 -
馬の鞍からぶら下げるホルダー。
小栗卿は旗本なので、騎乗できる身分でした。
この当時、馬上で短銃を使う装備が普及していたのを示す貴重な資料だと思います。 -
小栗卿が処刑された後、妻子はどうなったのか、に対する答えを示す資料。
妻子は家臣と「村人」に護衛されて新潟経由で会津に脱出しました。
護衛人の肩章が会津軍の「會」の字です -
小栗卿の写真。
左下は小栗卿の遺児「国子」さん。
右下は「養子又一」とあるので、高崎城にて「問答無用」に斬首された小栗卿の継嗣・又一のものと思われます。
ちなみに、又一の実父は陸軍奉行並の駒井朝温卿
小栗卿も陸軍奉行並だったので、その縁? -
小栗家が採用していた歩兵銃
略奪を免れたのは幸い。 -
麻の裃。
夏用のもののようです。
時代が変わり、裃を着けることもないことから略奪を免れたのでしょう。
しかし、自称官軍の薩長土軍の賊軍っぷりよ! -
小栗卿は隠宅として近くの観音山に居を構える予定だったようです。
自称官軍の横暴でそれはかないませんでしたが、図面と資材は前橋で活用され、建築に至ったようです -
小栗家家臣の写真。
左は継嗣又一。 -
小栗卿が処刑場に運ばれる際に載せられた籠。
籠の「屋根」の部分には小銭がいっぱい。
気持ちはわかります・・・ -
栗本鋤雲の説明文。
小栗卿と仲の良かった人物で、外国奉行・勘定奉行・函館奉行等を歴任した人物。 -
栗本鋤雲の胸像。
-
小栗卿の胸像
-
小栗卿の説明文。
簡素です。 -
小栗卿の墓の説明文
-
小栗卿の家臣の墓の説明文。
右二つは小栗卿夫人を会津まで護衛した家臣の墓。
真ん中から左までの三つは、最後まで小栗卿に従い、一緒に斬首された家臣の墓。 -
小栗卿の家臣の墓
-
別の家臣の墓の説明文。
悲しくなるのは一番左、塚本チカの説明文。
祖母と共に脱出したものの、自害、とある。
しかも、その歳7歳。数え歳だとすると満6歳くらいだろうか・・・
地蔵峠は権田からそう遠くはない。
逃げ切れぬ、と悟った祖母がチカを手にかけた、というのが真実であろう。
薩長土の野蛮人はこのような罪なき幼子の命まで失う様なことをしていたのだ・・・ -
一番左が塚本チカの墓。
墓石が小さいのがまた悲しい。
一番右が父にあたる塚本真彦の墓。
チカの右となりは祖母ミツが眠る。 -
小栗上野介の墓、とある。
実際は供養塔で、本墓は裏の山を登った中腹にある。
焼香はここで。 -
小栗上野介の右隣は継嗣・又一の墓(供養塔)
-
本墓に向かう山道を登ります
-
途中に歴代住職の墓の地点で分岐。
左に曲がります。 -
更に分岐。
左に曲がります。 -
本墓。
親子そろって埋葬されていますが、揃って埋葬されるまでに、歳月を要したのは、脇にある説明文で知りました。 -
墓石近景。
合掌。 -
小栗卿とその息子・又一は首実検のため、館林に送られ、東山道(中山道・日光例幣使街道・奥州街道が通る国)鎮撫総督(臨時征伐軍司令官)・岩倉具視の首実検にかけられた。
首実検後は館林の法輪寺に埋葬されたようです。
岩倉具視は維新十傑の一人。
その岩倉具視直々の首実検とは、薩長土軍として、小栗卿をそれだけ恐れていた証左でしょう。
さて、その首を家臣が奪取し、ここに埋葬した、とあります。
主君として、家臣に慕われていたことがよくわかるエピソードです。 -
こちらは小栗卿に最後まで従って斬首された家臣の墓
-
説明板以前にあったであろう説明碑。
歳月ゆえ、文字は読みにくくなっています。 -
本殿に戻ってきました。
-
大河ドラマの宣伝が貼られていました。
小栗卿のことをもっと多くの日本人に知ってもらいたいものです。 -
本殿に入ります。
-
本殿は左手。
本殿は撮影禁止です。
「お宝(東郷平八郎揮毫の書)」は位牌がある、進んだ最奥の欄間に飾られていますが、写真は撮りませんでした。
実地で見るべきでしょう。 -
造船所として横須賀が選ばれた理由の説明文。
-
後に訪問した小栗卿の顕彰碑を建立するまでの苦労を説明した展示。
「官軍」に斬られたのだから「逆賊だ」と内務省に言われ、「罪なくして斬られる」との文を入れた碑文建立はダメだ!と言われ、その後、建立に至る経緯が記されています。
最終的には田中義一首相(昭和2~4年)の判断で立てることができた、とあります。
昭和2年の段階で、まだ「官軍」「逆賊」の感覚が残っていたことを示す、証拠の一つです。
そういえば、山本五十六提督も、長岡出身故、逆賊の汚名を背負いつつ、軍歴を重ねていたのでした。
「逆賊」側が対米開戦に反対していたのは歴史の皮肉でしょう。 -
パネル展示にで、造船所建設にあって語った小栗卿の言葉がありました。
「幕府の命運に限りがあろうとも、日本国の運命には限りがない」
無責任で、日本国より自分の保身にしか興味がない、日本史上最悪の宰相・ゲルに聞かせてやりたい言葉です。
尤も、ゲルは「恥を知らない」、日本人の価値観を持たない、大陸側の人間なので、日本やあ日本人の将来など、 -
小栗卿夫人を護衛して会津まで行った村人の説明文。
新潟経由で会津(福島)まで行ったわけだが、そのルートはここから野反池(現在の野反湖)から長野県下水内郡栄村の秋山郷を経由し、上越に至るコース。
野反湖から秋山郷には道はなく、中津川が流れるのみ。
沢伝いに逃げたのが想像されるが、小栗卿夫人は身重の身。
追手の恐怖と戦いながら道なき道を逃亡するのは想像を絶するものがある。
それを守っていった村人の精神力も。
小栗卿は村人にかなり慕われていたことが良くわかる -
頂いたパンフレット。
東郷平八郎の書は真ん中、上段にあります。 -
小栗卿終焉の地の碑がある場所に向かいます。
烏川にほど近い農地の中にあります小栗上野介忠順終焉の地 名所・史跡
-
到着。
-
終焉の地の説明文
-
高崎市の指定史跡になっています
-
「偉人小栗上野介罪なくして此処に斬らる」と刻まれています。
これを民間が建てたことが重要。
この短い一文に、地元の人に慕われた小栗卿への想いが詰まっていると感じます。 -
裏面はすり減っていてよく読めませんでした・・・
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