1963/09/28 - 1963/10/01
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jijidarumaさん
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【セピア色の青春:六十二年前、川端康成の小説「伊豆の踊子」に憧れて、天城路を歩いた。】
今は違うだろうが、当時の高校生は、藤村や啄木といった詩集を好み、自ら真似事の詩作を試みた者も多かったように思う。
そうした高校生が読んだ、川端康成の小説「伊豆の踊子」は読者も多く、映画にもなり、今でいうアイドル的な女優が主演したことで、映画の人気は高く、上映作品はしばしば繰り返し話題となっていた。
この小説「伊豆の踊子」は私共の身近にあった作品だったと思う。
1962年(昭和37年)に高校を卒業し、予備校に通っていた頃、同じ予備校仲間に高校時代の友人O君がいて、休み時間に「大学に合格したら、二人で是非、天城路を歩こう」と話したものだった。
O君は北を夢見ていたのだろう、札幌の農学部に合格して、北に去ったので、お互いが遠くなり、「天城路を歩こう」という機会が無くなった。
写真は天城路:八丁池にて・・・普段あまりしないリュック姿の私。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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さて、私の天城路の思いは、その後大学に入ると復活した。
1963年春、高校野球部仲間のM君(点取り屋の三番バッター、ファースト)と、私(切り込み隊長の一番バッター、センター)は同じ大学に入学した。彼とはその後、其々親泣かせの1年留年をして、大学の卒業式を二人一緒に迎えた。今に至るまで親交があり、良い仲間で過ごしてきた。
M君は第一理工学部で、クラブ活動も少々ビックリした、珍しい自動車部だった。
私は第一法学部、クラブ活動は当時まだ各大学にも少なく、漫画の世界でしか知らなかった少林寺拳法部に入部(創部から第4期目)していた。
大学1年でのクラブ活動とは別に、OB会に頼まれて、週末や暇な時間に母校野球部に出向いて、チームの監督を1年間の約束でやっていた。そして、M君にも助監督として助けてもらった。
夏の大会は指導者が悪かった(´;ω;`)所為か、残念にも早々と負けてしまい、秋季大会からは指導役を野球部の1年後輩に引き継いでいた。
9月は大学のクラブ活動も夏合宿(8月)の余韻が残っていて、関東大会に出場するための練習開始まで時間が空いていた。
それで空いた期間の9月末に、M君を誘って念願の天城路を歩いたのだ。
参考写真:伊豆の踊子・伊豆半島Map修善寺温泉 温泉
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【川端康成作:伊豆の踊子】
日本人に親しまれている名作であり、今までに6回映画化されている。
ヒロインである踊子・薫には1933年(昭和8年)松竹:田中絹代から、
1954年(昭和29年)松竹:美空ひばり、
1960年(昭和35年)松竹:鰐淵春子、
1963年(昭和38年)日活:吉永小百合、
1967年(昭和42年)東宝:内藤洋子、
1974年(昭和49年)東宝:山口百恵まで
当時のアイドル的な女優が演じている。
2022年(令和4年)時点で、新潮文庫版だけでも約338万部を売り上げていると云う。
参考写真:伊豆の踊子の新潮文庫本 -
孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ一人旅に出た青年が、修善寺、湯ヶ島、天城峠を越え湯ヶ野、下田に向かう旅芸人一座と道連れとなり、踊子の少女に淡い恋心を抱く旅情と哀歓の物語。
『伊豆の踊子』は川端康成の初期を代表する名作というだけでなく、川端作品の中でも最も人気が高く、その評論も膨大な数に上る。
参考写真:4作目の映画「伊豆の踊子・*吉永小百合と*高橋英樹の映画ポスター」
*吉永小百合(よしなが さゆり)は1945年3月生まれで私共の2歳下になる、80歳の老齢乍ら、相変わらず元気にその姿を見ることが多い。
1960年代を代表する人気映画女優として、多くの映画に出演し、数多くのレコードも世に送り出している。ファンは「サユリスト」と呼称される。
初期の代表作は1962年『キューポラのある街』、1963年『伊豆の踊子』、1964年『愛と死を見つめて』、1974年『男はつらいよ 柴又慕情』など。
*高橋英樹(たかはし ひでき)は、1944年〈昭和19年〉2月の早生まれだから、私共と同学年になる。日活ニューフェース第5期出身で、日活の任侠映画シリーズに主演し、若い頃から愛称「ナイスガイ」と呼ばれて人気を博し、後に時代劇俳優としても多くの作品に出演した。現在も毎日どこかのTVで元気な様子を見る。
初期の代表作は1961年『高原児』、1962年『激流に生きる男』、1963年『男の紋章』、1963年『伊豆の踊子』で吉永小百合と共演、1968年時代劇初出演、1971年『おらんだ左近事件帖』など。 -
参考写真:伊豆の踊子作品の撮影現場に赴いた作者の*川端康成と吉永小百合
*(かわばた やすなり)日本の小説家・文芸評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。1899年~1972年、享年72歳(自死)。
代表作は1926年『伊豆の踊子』、1935~48年『雪国』、1949~52年『千羽鶴』、1949~54年『山の音』、1960~61年『眠れる美女』、1961~62年『古都』など。 -
<伊豆の踊子(1963年 日活作品) >
監督:西河克己 、
出演:吉永小百合/高橋英樹/大坂志郎/堀恭子/浪花千栄子/茂手木かすみ/十朱幸代/南田洋子
『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている。
伊豆の踊子 | 映画 | 日活 (nikkatsu.com)
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川端康成の短編小説「伊豆の踊子」の発表は『文藝時代』1926年1月号(第3巻第1号)だそうだが、翻訳版はOscar Benl(1914年~1986年)オスカー・ベンル訳のドイツ語(独題:Die kleine Tänzerin von Izu 1942年と1948年、Die Tänzerin von Izu 1968年以後)など多数があると云う。
参考写真:天城路ハイキングコースMap1・・・今はこのような立派な地図が手に入る。思えば、あの時は地図を片手に歩いた覚えがない。 -
もう古い話で、アルバムもセピア色に変わっていたが、生来の筆まめもあって、当時の行程はしっかり書き残していた。
【伊豆の踊子の旅(1963年(昭和38年)9月)】
天城路こそは伊豆の旅情である(川端康成)
(行程)
1963.09.28.(土)
東京発14:46 準急いこい(330円)=>三島発18:51(60円)=>修善寺駅着17:20(10円)=>修善寺温泉着17:35 桂川上流にキャンプを設営し、18:30~19:00 夕食20:00、就寝22:00。
この天城を越える山道は素敵だ。当時に比べれば、バスや自動車が走り、それが無ければ、この舞台は一高生と踊り子たちが歩き続けた道であった。
・・・・・
2025年6月27日、TV東京の昼間の映画番組を見ていたら、大統領のシークレットサービスが活躍する話でした。
大学1年の1963年といえば、ケネディ大統領暗殺事件が起きた年である。
1963年11月22日金曜日、現地時間12時30分にテキサス州を遊説中の現職の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがダラス市内を、パレード中に銃撃され、死亡したのだった。
私共が天城路を歩いた、1ヶ月半後にケネディ米大統領の暗殺があったわけで、当時の新聞記事を思い出した。
・・・・・
参考写真:天城路ハイキングコースMap2 -
(行程)
09.29. (日)
起床6:00、朝食7:30 キャンプ地発8:30 =>修善寺バス停留所発9:45=>浄蓮の滝着10:45、発11:26 =>水生地発11:50・・・・・八丁池着13:30 貸しボートに乗る (昼食)・・・・・ハイキングコース発14:00・・・・・天城峠トンネル15:45・・・・・寒天橋着16:15、バス停留所発16:46=>下田着18:18、夕食19:00・・・・・下田・鍋田浜着20:00、*東京教育大(現筑波大)の臨海実験所近くの浜でキャンプ設営21:00、就寝23:00。
一高生と踊り子たちは宿屋に泊まったが、私共はテントを担ぎ、適当な場所にキャンプをした。
昨夜は17時過ぎに修善寺駅に着いた。もう夕刻であり、暗い中をキャンプ地探しで、うろうろしてしまった。ご親切な小父さん、小母さんに出会って、適当な場所(修善寺の町から少し遡った桂川の上流)を教えて頂いた。またご厚意で燃料用のマキまで頂いた。嬉しかったので、翌日出発前に御礼に行き、居合わせた子供さんにキャラメルとチョコレートをあげた。ところが、其のお礼にまた沢庵を頂いてしまった。旅先のご親切は深く身にしみて嬉しいものだ。
今日の朝食を、桂川の川原で食べている。
起床は6時、朝食を7時半にとった。出発時間は8時半、修善寺をバスで出たのは9時45分と遅めのスタートとなった。
写真は伊豆の踊子の旅:修善寺の桂川上流で朝食 -
<修善寺(しゅぜんじ)>
伊豆市修善寺964
修禅寺は修善寺温泉街の中心にあり、807年(大同2年)、弘法大師の創建と伝えられている。寺の目の前を流れる桂川では、温泉がわき出ており、独鈷の湯(とっこのゆ)という伊豆最古の温泉地・修善寺温泉としても知られている。
そのため、独鈷の湯での湯治療養の需要もあり、修禅寺も栄えたと云われている。
写真は伊豆の踊子の旅:朝食後、眠くなって、丸太に乗って船をこぐ -
イチオシ
【川端康成『伊豆の踊り子』 の概要
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい速さでふもとから私を追って来た。
私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり紺がすりの着物にはかまをはき、学生カバンを肩にかけていた。一人伊豆の旅に 出てから四日目のことだった。
修善寺温泉に一夜泊まり、湯ケ島温泉に二夜泊まり、そして朴歯(ほうば)の高下駄で天城を登って来たのだった。
重なり合った山々や原生林や深い渓谷の秋に見とれながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでいるのだった。
・・・・・
写真は1963.09.28.~10.01.アルバム:伊豆の踊子の旅・・・浄蓮の滝、八丁池の近くでM君、水生地から八丁池に向かう道、八丁池の近くで私、下田港到着。 -
写真は1963.09.28.~10.01.アルバム:伊豆の踊子の旅・・・桂川の上流でキャンプし、翌朝の朝食のM君、伊豆半島の地図、浄蓮の滝の私、下田港の巡視船ゲンカイをバックにしたM君、桂川の上流で朝食の私、浄蓮の滝。
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写真は1963.09.28.~10.01.アルバム:伊豆の踊子の旅・・・桂川の上流で丸太に乗る、浄蓮の滝でM君、 浄蓮の滝の二人、八丁池近くでM君。
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<浄蓮の滝(じょうれのたき)>
〒410-3206 静岡県伊豆市湯ヶ島892-14
玄武岩の崖に落差25m、幅7mの滝が落ちる。深い木々が生い茂り、静寂な雰囲気の中、激しい音を立てて流れ落ちる姿は迫力がある。
滝への道は明治末期に開かれ、昔は人も近づかぬ神秘的な場所であったと云う。
周辺は山の冷気と水しぶきで夏でも肌寒いほどだ。
滝壺の下流には天城国際鱒釣場があり、渓流沿いには天城名物のわさび田が続いている。日本の滝100選のひとつとなっている。
駐車場から徒歩約5分、200段の階段を降りると、雄大な浄蓮の滝が姿を現す。
「天城越え」にも歌われるなど、多くの文化人に親しまれてきた。
写真は伊豆の踊子の旅:激しい音を立てて流れ落ちる姿は迫力がある浄蓮の滝で私。浄蓮の滝 自然・景勝地
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少林寺拳法部の2期後輩に実業家のM君がいるが、新しく建てた伊豆の別荘に家内と招待された(2020年2月27日~29日2泊3日)。
28日、メルセデス350という大型車に乗せてもらい、久しぶりに下田港やこの浄蓮の滝などを周遊させてもらった。
浄蓮の滝は川端康成の「伊豆の踊子」の舞台にもなっているので、学生と踊り子の像が立っていた。
写真は2020年 伊豆:浄蓮の滝・伊豆の踊子の像 -
イチオシ
狩野川(かのがわ)の水源は天城山にあり、長さ46kmと短いが伊豆半島を流れて駿河湾に流れ込む。
狩野川の上流部は天城山の北西麓を流れる本谷川(ほんたにがわ)で、1万7000年前に伊豆東部火山群の鉢窪山(はちくぼやま)スコリア丘が噴火した際に流れ出した溶岩流によってできた崖に流れ込む流水で、「浄蓮の滝」が出来た。
浄蓮の滝の落差は25m、幅は7m、滝壺の深さ15mの滝だそうだ。
滝壺まで下って行くと、浄蓮の滝が目の前にある。
その前に立つと、2月末だったが、水量も多く、美しい水しぶきを上げて、滝壺は深く、色濃く、なかなかの景観であった。
写真は2020年2月 伊豆:浄蓮の滝 -
写真は2020年2月 伊豆:浄蓮の滝・・・演歌歌手石川さゆりのヒット曲「天城越え」の歌碑楽譜が書かれたが滝傍にあった。(1986年に発売された曲で第28回日本レコード大賞・金賞受賞曲)
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写真は2020年2月 伊豆:浄蓮の滝・本谷川(ほんたにがわ)沿いには、清らかな水で育てられるワサビ田が見られる。
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滝にはよく伝説が残る。
浄蓮の滝にも、雪女ならぬ、女郎蜘蛛の伝説があった。
伝説好きでもあり、以下に引用した。
写真は伊豆の踊子の旅:2020年2月 伊豆:浄蓮の滝にある伝説の看板
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<浄蓮の滝:滝壺には美しい女郎蜘蛛の化身が棲む>
浄蓮の滝の滝壺に美しい女郎蜘蛛の化身が棲むとの伝説が残されている。
物語は、浄蓮の滝の滝頭にある畑で農夫が腰をおろしていると、女郎蜘蛛が足に糸を巻きつけてくるので糸を切らないようにはずし、近くの切り株に糸をかけ農作業に戻ろうとすると、その直後、轟音と共に切り株が根こそぎ引き抜かれて浄蓮の滝壺に落下していったそうだ。やさしい農夫は事なきを得たのだった。
それ以来、村人は滝へ近づかなくなったのだが、そのことを知らない樵(きこり)が浄蓮の滝で仕事をしていて、あやまって鉈を滝壺に落としてしまった。
樵が鉈を探しに滝壺へ飛び込むと、滝壺から鉈を手にした“美しい女”があらわれ、鉈を返すかわりに「私と会った事を誰にも漏らさぬこと。この約束を破ればお前の命が無いと思え」と云われたそうだ。
所が、日が経ち、約束を忘れた樵は或る晩、酒の席で“美しい女”のことを自慢げに仲間に話してしまった。恐ろしいことに、女郎蜘蛛の化身であった“美しい女”が言った通り、その夜、しこたま飲んで酔いつぶれた樵はそまゝ死に絶えて、再び起きることはなかったと伝えられている。
・・・・・ -
1963年当時は浄蓮の滝に残る、怖い伝説を知る由も無く、私共は先に進む。
水生地より八丁池へ登るコースは逆コースで、登りがキツイ。
八丁池、ちょっとこんな湖(池)は見たことが無い、小さくて可愛らしくて、周囲の木々に囲まれている様子は格別美しい。
笹竹が山の斜面を覆い、その葉が太陽に光る様はなんとも美しい。
見晴らし台からの眺望は富士山や駿河湾が見えず、残念。
写真は伊豆の踊子の旅:水生地より八丁池へ -
イチオシ
<天城峠(あまぎとうげ)>
天城峠は静岡県伊豆市と賀茂郡河津町の境にある峠だが、古来あった峠ではなく、1904年(明治37年)に完成した天城トンネルによってできた峠である。
トンネルの標高は710m 前後で、直上の山稜の標高は830 mほどである。
天城峠は伊豆半島の内陸と南部を結ぶ重要な峠であり、このトンネルのできる前の天城越えは下田街道の難所であった。天城トンネルができる前には二本杉峠が使われ、それより前は古峠が天城越えの峠として使われてきた。
天城峠の天城トンネルは川端康成の小説、伊豆の踊子の舞台となっている。
また、昭和時代に国道414号の新天城トンネルも完成した。
天城峠の山稜から東へは八丁池をへて天城山へ至る登山道である天城縦走路が続き、西へは伊豆半島北西部へ至る伊豆山稜線歩道が始まる。
写真は伊豆の踊子の旅:天城峠を八丁池に向かう私。 -
八丁池ハイキングコースはこれまた楽しく、気分よく歩く。
もう少し季節がずれていたら、道沿いの木々の紅葉も美しかったであろう。
写真は伊豆の踊子の旅:天城峠を八丁池に向かうM君。 -
<八丁池(はっちょういけ)>
〒410-3206静岡県伊豆市湯ケ島
八丁池は天城山のブナ林に囲まれた西陵にある池で、「天城の瞳」の愛称がある。「青スズの池」のいう別称でも呼ばれている。
又、天然記念物「モリアオガエル」の生息地でもある。
八丁池は標高1,170m付近にあり、周囲が8丁(約870m)あることが名前の由来といわれる。(尚、実際には周囲560m程度で、5.1丁ほどである)
八丁池は谷の最奥部が活断層のずれによって窪地となり、水が溜まってできた断層湖である。
この池は天城縦走路の途中にあるためハイカーの憩いの場となっており、池の南の高台には見晴台とトイレが設置されている。
写真は伊豆の踊子の旅:天城峠、八丁池でボートに乗る。八丁池 自然・景勝地
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湖畔に写真の様な登山者用の「八丁池荘」があった。
これは国が1962年(昭和37年)に建て運営し、1978年(昭和53年)に解体されてしまったのだが。
前の写真に見られるが、当時は八丁池には手こぎのボートもあり、これに乗る事が出来た。
写真は伊豆の踊子の旅:八丁池荘とボート乗り場 -
参考写真:伊豆の踊子・天城峠、八丁池周辺の景観
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写真は1963.09.28.~10.01.アルバム:伊豆の踊子の旅・・・八丁池周辺の「八丁池荘」とボート漕ぎ、下田の鍋田の浜、石廊崎。
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参考写真:伊豆の踊子・旧天城トンネル・・・小説の主人公はこのトンネルの脇にあった天城峠の茶屋で、はじめて踊子と会話した。
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「伊豆の踊子」から:
20歳の一高生の「私」は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱(ゆううつ)に堪え切れず、1人伊豆への旅に出る。
「私」は、湯ヶ島の道中で出会った旅芸人一座の1人の踊子(薫)に惹かれ、天城峠のトンネルを抜けた後、彼らと一緒に下田まで旅することになった。
一行を率いているのは踊子の兄で、大島から来た彼らは家族で旅芸人をしていた。
踊子(薫)は14歳。当初「私」には17歳くらいに見える。旅芸人一座の一員。古風に結った髪に卵形の凛々しい小さい顔の初々しい乙女。
天城峠の茶屋の老婆から聞いていた旅芸人を見下げた話から、夜、湯ヶ野の宿で踊子が男客に汚されるのかと「私」は心配して眠れなかったが、翌朝、朝湯につかっている「私」に向って、川向うの湯殿から無邪気な裸身を見せて大きく手をふる踊子の幼い姿に、「私」の悩みはいっぺんに吹き飛び、「子供なんだ」と自然に喜びで笑いがこぼれた。
・・・・・天城山隧道 (旧天城トンネル) 名所・史跡
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天城峠トンネルを15:45に通過し、寒天橋のバス停留所を16:46で出た。
下田に着いたのは夕方の18時過ぎだった。
参考写真:伊豆の踊子・下田公園(城山公園)から見る下田港
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「伊豆の踊子」から:
下田に着いて、翌日は別れの(東京に戻る)旅立ちの日、昨晩遅く寝た女たちを置いて、踊子の兄だけが「私」を下田港の乗船場まで送りに来た。
乗船場へ近づくと、海際に踊子がうずくまって「私」を待っていた。2人だけになった間、踊子はただ「私」の言葉にうなずくばかりで一言もなかった。
「私」が船に乗り込もうと振り返った時、踊子はさよならを言おうとしたようだが、もう一度うなずいて見せただけだった。
船がずっと遠ざかってから、踊子が艀(はしけ)で白いものを振り始めた。
伊豆半島の南端が後方に消えてゆくまで、一心に沖の大島を眺めていた「私」は、船室の横にいた少年の親切を自然に受け入れ、泣いているのを見られても平気だった。
「私」の頭は「澄んだ水」のようになり、流れるままの涙がぽろぽろと零れて、後には「何も残らないような甘い快さ」だった。
・・・・・ -
【川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(『少年』第14章の中)】
旅情と、また大阪平野の田舎しか知らない私に、伊豆の田舎の風光とが、私の心をゆるめた。そして踊子に会つた。いはゆる旅芸人根性などとは似もつかない、野の匂ひがある正直な好意を私は見せられた。
いい人だと、踊子が言つて、兄嫁が肯つた(うなずく)、一言が、私の心にぽたりと清々しく落ちかかつた。いい人かと思つた。
さうだ、いい人だと自分に答へた。
平俗な意味での、いい人といふ言葉が、私には明りであつた。
湯ヶ野から下田まで、自分でもいい人として道づれになれたと思ふ、さうなれたことがうれしかつた。
・・・・・
参考写真:伊豆の踊子・*鍋田浜海水浴場
*鍋田浜海水浴場
下田市街に一番近いビーチなので、地元の人たちに親しまれている。
和歌の浦遊歩道の外れにあり、海際を歩くことが出来る。
入り江のためほとんど波がなく、家族連れに人気である。 -
街中で多分、夕食を食べて、下田・鍋田浜にもう暗い午後8時に着いた。
月夜の浜である。
バタバタと東京教育大(現筑波大)の臨海実験所近くの浜にキャンプを設営し、何やら、この旅に相応しい恋愛論を語り合う、就寝したのは23時になっていた。
写真は伊豆の踊子の旅:下田の鍋田浜はそろそろ夕闇鍋田浜海水浴場 ビーチ
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イチオシ
下田の東京教育大(現筑波大)臨界実験場傍にキャンプを勝手ながら!設営させて頂いた。
翌朝に撤収すべく、テントをたたむ作業をしたが、この写真を見ると、昨夜はよく分からなかったが、教育大の施設は直ぐ近くに見える。
写真は伊豆の踊子の旅:臨界実験場傍にキャンプ撤収。 -
参考写真:伊豆の踊子・*東京教育大(現筑波大)の下田臨海実験所
*下田臨海実験所
〒415-0025 静岡県下田市5-10-1
当時の東京教育大(現筑波大)の下田臨海実験所の歴史は以下の通り。
1933年(昭和8年)、東京文理科大学附属臨海実験所として発足した。
1949年(昭和24年)、東京教育大学理学部附属臨海実験所と改称され、1976年(昭和51年)、筑波大学創設に伴い筑波大学下田臨海実験センターと改められ、学内教育研究施設として位置づけられた。
2010年(平成22年)には全国教育研究施設に改組した。
・・・・・ -
(行程)
09.30. (月)
起床7:00、朝食7:30 キャンプ地発8:15 =>石廊崎着9:15、発10:30
=>堂ヶ島着13:00、発15:20、=>下田着17:00、
下田の城山公園発17:30・・・・・玉泉寺18:00着、発18:30・・・・・白浜着19:00、発19:15・・・・・(この間、自動車に便乗)・・・・・河津浜着20:25、発20:40・・・・・
熱川着21:10、発21:30=>伊東着22:30、発22:35=>熱海着23:15
10.01. (火)
熱海発2:36(夜行列車)=>東京着5:30、発5:35 =>三鷹着6:00解散
参考写真:南伊豆町:石廊崎と灯台 -
30日は石廊埼、伊豆の松島の感じがある堂ヶ島を巡る。
<石廊崎灯台(いろうざきとうだい)>
静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎125
石廊埼灯台は南伊豆町、伊豆半島の最南端である石廊崎に立つ、白亜の塔形をした中型灯台で、「日本の灯台50選」にも選ばれている。
その昔より石廊崎は航海の難所で、この沖の岩礁で座礁、難破する船も多くあったため、灯台の設置が求められていた。
1871年10月5日(明治4年8月21日)に設置・初点灯した。
「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計による八角形の木造灯台として建設され、日本では10番目に古い洋式灯台だった。
写真は南伊豆町:石廊崎灯台を写す。 -
写真は南伊豆町:石廊崎灯台前でM君は背が高い。
石廊埼灯台 名所・史跡
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写真は南伊豆町:石廊崎下の波
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写真は南伊豆町:石廊崎下に降りて、波と戯れた。
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写真は1963.09.28.~10.01.アルバム:伊豆の踊子の旅・・・石廊崎灯台、灯台下の海岸、石廊崎下に降りて、蟹を見つけた、下田の東京教育大(現筑波大)臨界実験場傍にてキャンプ設営・撤収。
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伊豆半島の中でも、景勝地として知られる堂ヶ島だが、今回の旅の行程では半島の西側に寄り過ぎて行きにくい場所だった。
先に石廊崎灯台を見て、いったん下田に戻ってから、堂ヶ島を目指した。
奇岩や景勝地が多彩に並ぶ堂ヶ島には天窓洞や三四郎島、トンボロ(陸地と島とをつなぐ砂州)などが観光名所になっている。
参考写真:西伊豆町・堂ヶ島公園(静岡県賀茂郡西伊豆町仁科2910-2)堂ヶ島 自然・景勝地
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象島・中ノ島・高島の3つの小島を総称して三四郎島と呼ぶ。
干潮時、島と陸地の間に幅約30mの磯が出現して道となり、歩いて渡れるようになる。これを称してトンボロ現象といって有名な場所だ。
島の名は昔、この島に隠れ住んだ源氏の若武者・三四郎に由来し、三四郎と土地の娘・小雪との悲恋伝説が残されているとか・・・。
参考写真:西伊豆町・三四郎島のトンボロが見える。 -
大学時代の合宿は地方が多かったので、合宿帰りに、仲間と観光地を巡り、地方出身の友人宅に泊らせて頂きながら、自宅に帰ったものでした。
行きあたりばったりのざっくりした貧乏旅行ばかりをした記憶が残っていますが、
それもまた、「セピア色の青春」になっている。
伊豆の踊子の旅もテント持参の貧乏旅行でした。
最終日の30日は下田を起点にして、石廊埼、堂ヶ島を巡った。西伊豆は少々不便で、小雨降る夕方17時に下田に戻った。
東京に帰る日、もう夜の道、それも小雨の降る海岸沿いの道を熱海に向かって歩きだす。何と嬉しいこと!途中、白浜から河津浜まで、見知らぬ方の自動車(オート三輪車)に便乗させて頂いた。このような御親切は学生の身には大変ありがたく、今も伊豆の旅の良かった事の第一にあげられる。
夜の海をオート三輪車の荷台に乗りながら眺めつつ、河津浜に着いた。その後は出来るだけ東京近くにと、熱川、伊東、熱海と乗り継ぎ、23時15分熱海着。
もう翌日になった熱海発2時36分の東京行き夜行に乗った。
ホッとした気分になって、座席で二人とも東京までグッスリ。
早朝の5時半に東京駅に着き、中央線で三鷹に6時に着いた。
詳しく覚えていないのだが、多分、むさくるしい格好でM君宅に向かい、朝食を御馳走になってから、青梅の自宅に帰った。
写真は1963.09.28.~10.01.アルバム:伊豆の踊子の旅 ・・・9月30日の最終日は石廊崎灯台、堂ヶ島の海女さんが泳ぐのを撮る、三四郎島を巡って、小雨降る夕方に下田港に戻った。 -
川端康成は「天城路こそは伊豆の旅情である」と語った。
M君と二人、川端康成の名作”伊豆の踊り子”と同じ道を歩こうと天城峠を歩いて越えた旅はなかなか面白く、飯盒で炊いた飯はおかずも無いような、妙な食事もありましたが、よく歩いた所為で二人とも完食でした。
未知の旅は若者には楽しいのだ。修善寺から、浄蓮の滝、水生地、八丁池、暗い天城峠トンネルなどを抜け、天城路では「伊豆の踊り子」のような出会いはありませんでしたが、「天城路こそは伊豆の旅情である」を大いに感じました。
写真は1963.09.28.~10.01.アルバム:伊豆の踊子の旅・・・堂ヶ島に立寄り、下田に戻って下田公園(城山公園)から下田港の夜景を望む。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もう少し日数があれば、大島に渡りたかった。下田港で別れた一高生と踊り子たちを思いつつ、「今度は大島に渡ろう」と、M君と約束したものです。
(2025年6月27日Wiki・HP参考、編集追記)下田公園 公園・植物園
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この旅行記へのコメント (2)
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- pedaruさん 2025/07/02 05:25:16
- 天城越え
- jijidarumaさん おはようございます。
昨日はじっくり読むだけにして、今朝コメントを書いています。
jijidarumaさんはロマンチストですねぇ。何十年前かの友人との旅行をブログにして思い出を蘇らせました。これは私と同年代だけに懐かしくて涙が出そうです。
私も同級生と16歳だったと思いますが、裏磐梯に出かけました。友は昨年他界しましたが、私にとって青春の宝ともいうべき出来事でした。
伊豆の踊子の冒頭、道がつづら折りになって、雨脚が私を追ってきた。というのは
大好きな一節です。伊豆の踊子の物語通り歩いたなんてやはり青春のかけがえのない思い出ですね。
当時の舗装されてない道を行くお二人、セピア色の写真がいい味を出していますね。フィルム写真のころは多くて36枚撮りでしたから、大事にシャッターを切りました。今のように景色だけという写真は少なかったですね。
4トラベルでも珍しい旅行記です。私も真似して‥と思いますが、几帳面でないから
記録も皆無だし、その代わり記憶は?これも群馬県人らしくさっぱりと忘れ、旅行記を書ける条件は意欲だけですから、だめですねー。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2025/07/02 19:55:58
- RE: 天城越え
- pedaruさん、
今晩は。お立ち寄りとコメント、いつもありがとうございます。
62年前の旅日記、意外に時間がかかりました。写真が少ないのはご指摘の通りで、フィルム写真を大事に撮っていますね。しかも人物が主体。
アルバムも写真をしっかりのり付けて貼ってしまったので、剥がせず、アルバムの頁をそのまま、スキャンしました。一部デジカメで古い写真を取り直して載せてみたり、参考写真や2020年の後輩に招待された別荘招待時の写真も付け加えるなど、苦心して40枚の定例の旅日記を作りました。
確かにこのようなものは珍しい旅日記ですが、青春の一頁ですので、ご容赦ください。ちょっと時間を頂いて、大島の旅を投稿する予定です(笑)、
大兄は同年齢とあって、似たようなエピソードをお持ちだろうと思いました。
投稿してから、3度ほど追記・編集しました。このような事は私としても大変珍しいのですが、セピア色の青春は大事にしたかったのでしょう。
じっくりお読み頂いた事はとても嬉しいものです。
一高生であった私(川端康成)が涙もろく、感受性豊かな表現には今も途中途中を読みながら、ある意味で彼は羨ましいと思いました。
冒頭の一節も、何時までも頭に残る一節ですね。
コメントありがとうございました。
それではまた。
jijidaruma
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