2025/05/13 - 2025/05/13
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montsaintmichelさん
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後編はどちらかと言えばマイナーな手塚治虫先生ゆかりの聖地をレポいたします。
手塚先生は、小学5年生の時、昆虫の「オサムシ」の名前をヒントに本名の「治」に「虫」を加えてペンネームとしました。その逸話からも判るように手塚先生の昆虫との向き合い方は趣味の域を超えるものでした。往時存在した宝塚昆虫館にも足繁く通った「昆虫少年」の日常のフィールドが、現在も残る蛇神社や猫神社(千吉稲荷神社)、瓢箪池(下ノ池)などであり、そこで昆虫の短い命から命の大切さを学びました。こうした実体験が1946年のデビューから1989年に60歳で没するまで、作品を通じて一貫して「自然への愛」「生命の尊さ」を訴求し続ける原動力となりました。
現在の御殿山周辺の景色は手塚少年が走り回っていた時代から大きく変貌してしまっていますが、幸いなことに蛇神社や猫神社は往時の面影を色濃く残しています。現地を訪ねて手塚先生がこれらの神社を漫画のモチーフとするに至ったその謎を解いてみたいと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
-
JR宝塚駅
今回のスタートはJR宝塚駅です。
駅の東側にある踏切を北側へ渡った所に四叉路があり、それを右側へ進みます。
この道が「清荒神宝塚停車場線」になります。
最初の目的地は宝塚市御殿山2丁目にある「手塚治虫邸跡地」です。
旧邸宅は遺されておらず、土地の所有者も代わっていますが、御殿山時代の思い出を漫画に描写したモチーフの一部が残されています。 -
今回の目的地は比較的認知度の低い場所も含まれるため、これから訪れる方の便宜を図るために散策マップを作成してみました。参考になさってください。
トータル距離はそれほどありませんが、山の手なのでアップダウンがあり、思ったより時間を要します。
「宝の塚」や「皇太神社」へのルートは記していませんが、それぞれ蛇神社や旧カウフマン邸宅跡地からは至近距離です。是非お立ち寄りください。 -
御殿山第5公園
道なりに清荒神宝塚停車場線を上っていくと、5分程で正面にマンションが立ちはだかる三叉路にでます。正面が「御殿山第5公園」、左側が「清荒神宝塚停車場線」、右側が「市道546号線」です。左手の建物が「メゾン鳥居坂」です。
この三叉路の手前にある脇道を右側へ入ります。これが「市道523号線」です。
因みに、「市道546号線」を道なりに上っていくと「下ノ池(瓢箪池)」に至ります。 -
手塚治虫邸跡地
モコモコしたインパクトあるクスノキの立つ所が、手塚先生の宝塚邸宅跡地です。
閑静な住宅街の一角に佇みます。家主も代わって家屋も建て直されていますが、何かが宿っているような生命力漲る樹齢百年超のクスノキの大樹は今も健在です。
手塚治虫先生が少年期を過ごされたのがこの御殿山です。換言すれば、御殿山は手塚ワールドを誕生させた原点です。旧手塚邸宅周辺にはタカラジェンヌの住まいが多く、「歌劇長屋」と呼ばれていました。後に母 文子さんの影響で歌劇に傾倒したことと相俟って、手塚先生の漫画には宝塚の影響が色濃く表れています。例えば晩年期(1983~85年)の大傑作『アドルフに告ぐ』に登場する芸者 絹子は「芸妓になる前に宝塚歌劇学校を受験した」との設定であり、また冒頭シーンで絹子の殺害現場を「兵庫県川辺郡小浜村の御殿山」と設定するほど、御殿山の想い出を終生描き続けたのでした。 -
手塚治虫邸跡地
手塚先生は5歳の時に一家で大阪府豊中町からここへ引っ越してきましたが、その経緯について手塚先生の弟 浩さんが『タカラヅカという夢』に所収の「治虫とTAKARAZUKAと俺」に次のように記されています。
「治虫の祖父にあたる手塚太郎は明治・大正の世にあって法曹界の英才とうたわれ、判事、検事の職を歴任、最後には長崎控訴院院長の職を全うして1925年に定年退職。そののち、どういうわけか兵庫県川辺郡の片田舎だった小浜村川面の閑静な高台のふもとに和洋折衷の広い邸宅を構えて終の住処とした。1932年に他界したあと、大阪の豊中町で生まれた孫の治少年は両親や弟妹とともにその屋敷に移り住むことになった。」。 -
手塚治虫邸跡地
2002年1月1日付けの神戸新聞にこのクスノキの記事が掲載されていました。「ぐっと、こぶしを空に突き出すように立つクスノキ。所々をコケが覆っている。生い茂る葉が静かに揺れた。宝塚市御殿山。1933年(昭和8年)、当時5歳の手塚治虫は、家族と共に大阪府豊中市から移り住んだ。自宅があった地に今も残る大樹。幼い日の彼も、きっと仰ぎみたことだろう。」。
このクスノキは1971年発表の短編怪談漫画『新聊斎志異・女郎蜘蛛』に登場します。その冒頭に手塚先生自身と実家の風景が描かれています。昔話で有名な『つるの恩返し』ならぬ『蜘蛛の恩返し』的な話ですが、前振りとして語られるのがクスノキの話です。クスノキを切り倒す話になった途端、奇妙なことばかり起こるようになります。枯れかかった老樹を職人が伐採しようとすると、突如老女が現われ「まだ生きています。切り倒さないでくだされ。後生です。」と懇願して去って行きます。結局、木を切るのは中止になります。
手前にあるモミの木も往時のまま残っているものです。 -
旧カウフマン邸宅跡地
手塚邸宅跡地の前の市道523号線と市道552号線の合流地点にあります。
ここも手塚邸宅跡地同様に建物も土地所有者も代わっています。
『アドルフに告ぐ』は、アドルフ・ヒットラーの台頭と日本の戦前・戦中の人間模様とを絡めて描いた作品で、その主人公のひとりがカウフマンという人物でした。実は、この名前は近所に住んでいたカウフマン氏から拝借したものだそうです。
手塚先生の手記には「以前から、ヒットラー総統が実はユダヤ人の血をひいている説があるという記事をどこかで読んだことがあり、そのアイデアをこの構想に加えることにしました。ちょうどぼくのかつて住んでいた宝塚の家の近くにカウフマン氏というドイツ人の家庭があり(別に情報部員でもなんでもありません)、名前を覚えていたのでなんの気なくその名を主人公に拝借したのです。」。(『アドルフに告ぐ 第4巻』文藝春秋ハードカバー版あとがきより)
手塚先生の弟 浩さんは往時の思い出を次のように語られています。
「旧手塚邸から距離で100mあまり東寄りの、山手にさしかかる右側傾斜面に瀟洒な西洋館(3角屋根の2階建)がありました。色白のお姫様のようなお嬢さんが住んでおられ、ご両親と連れ立って手塚家の前を屋敷の方へ向かって歩いているのを、偶然庭にいた私が、生け垣越しに見てしまいました。その頃はちょっと山を歩けばそこここに自生していたモミジイチゴ(いわゆる キイチゴ)のことを皆さんでお話していたようで、『あれおいしいねえ』と大阪弁のアクセントで一言言われた姫君が急に身近に感じられたのです。」。 -
市道2198号線 急坂
市道523号線を抜けて市道2199号線に入ってすぐ、左手に急坂が見えます。
この急坂も市道2198号線と言う名前があります。
市道523号線より北側はこのように急傾斜になっており、この階段を上り切ると一気に展望が開けます。
TV番組「ふるさと人間記」(1981年)で手塚先生は次のように語られています。
「僕のイメージの宝塚は50年前の宝塚です。現在でこそ観光地になっていますが、ここには虫もいたし、星も光っていました。そして歌劇という音楽の町がありました。僕の作品、人生のすべてをここで身につけました。今の宝塚は僕にとって異質の町に見えます。しかしふるさとというのは、いつまでも育った昔のイメージであって、どんなに変わろうとも、自分にとって一生残るものではないでしょうか。」。
自然への畏敬、命の尊さなど、手塚漫画の根底に流れる「手塚イズム」の原点がここ宝塚にあります。 -
旧お化け屋敷跡地
かつて手塚兄弟が「お化け屋敷あるいは化け物屋敷」と呼ぶ廃屋があった場所です。現在はマンション「ひょうご県民住宅エトワール御殿山」になっています。
お金持ちの別荘だったのか、空屋だったのかは不明だそうですが、人気のない荒れ果てた大きな家が建っており、その姿形から手塚兄弟は想像を逞しくしていたようです。さて、ここで何をしていたかと言えば、昆虫採集です。勝手に庭へ忍び込んで虫を捕ったりして遊んでいたそうです。
気になるのが、マンションが市道2198号線に飛び出していることです。市道がマンションを迂回するようにコの字型をしており、かつてのお化け屋敷の敷地の広大さを偲ばせます。 -
見晴台
市道2198号線の階段を上り切った所から少し皇太神社寄り(右側=東側)の市道2200号線からの市街地の眺望です。
市街地から北側に迫り出す御殿山は手塚先生の自然への造詣を深めた田園地帯でした。ここからだと宝塚歌劇の全貌が俯瞰できる他、左端には手塚治虫記念館も望めます。マルーンカラーの阪急電車も走っています。 -
見晴台
宝塚歌劇周辺をズームアップしてみました。
手塚兄弟はよくこの場所から市街地を見下ろしていたそうです。
宝塚大劇場で公演がある時は、風に乗ってかすかに音楽が聞こえてきたそうです。
宝塚歌劇は漫画家になってからの手塚作品にも多様な形で影響を及ぼしています。
戦争中は宝塚大劇場が閉鎖されたため歌劇から一時離れましたが、戦後公演が復活すると、手塚先生は大学の友人や漫画家仲間まで誘い込むほどの熱心なファンになり、更に漫画家デビュー後は歌劇団が発行する雑誌「歌劇」や「寶塚グラフ」に漫画を掲載しました。
『リボンの騎士』は、手塚先生の宝塚趣味が横溢する作品で、女性が男性を演じる男役のイメージはその後の少女漫画のヒーローに受け継がれています。 -
見晴台
手塚治虫記念館をズームアップしてみました。
シンボルモニュメントとなる「ガラス製の地球」のドームが目印です。 -
瓢箪池(下ノ池)
旧お化け屋敷跡地から市道2198号線の急坂を登りきると忽然と姿を現すのが「下ノ池」です。想像していたより大きな溜池です。真ん中がくびれた形をしていることから手塚兄弟は「瓢箪池」と呼んでいたそうです。
往時は池の先に見える家もなく、大自然のパノラマが広がっており、広い水面には中山連山が映り込んでいたそうです。手塚先生は昼間はこの池の奥にあったクヌギ林で遊び、夜はこの池に潜む何か得体の知れないものの夢を見ていたそうです。 -
瓢箪池(下ノ池)
今では周辺の宅地開発が進み珍しい生物との遭遇は期待できませんが、溜池には亀やカイツブリが生息し、現在でも往時の面影を偲ぶことができます。
この日は「ウシガエル」が低音の美声を響かせており、少し不気味でした。 -
瓢箪池(下ノ池)
『鉄腕アトム』の作品「ミドロが沼」は、高度な知性を備え、人間を奴隷にした沼に棲むトカゲとアトムが対峙するストーリーです。トカゲが「いずれ人間も滅びるだろう」と予言して終わる、意味深長な少し考えさせられる内容です。もしかすると、瓢箪池でそうした人間の未来に想像を逞しくしていたのかもしれません。
因みに瓢箪池の名の由来については、上ノ池とその向い側にあった下ノ池を合わせた形が瓢箪のようだからという説もあります。 -
釣り池
次なる目的地は「蛇神社」という名前を聞くだけで何やら胡乱な雰囲気が漂うスポットです。
瓢箪池の西側を通る市道546号線を北上すると左手に「御殿場公園」があります。現在は埋め立てられて公園になっていますが、手塚先生の少年時代は「釣り池」(正式名「上ノ池」)だったそうです。 -
蛇神社
手塚治虫記念館にあったジオラマでは、「蛇神社」は『モンモン山が泣いてるよ』に、後で訪ねる「猫神社」は『白縫』(1971年)に登場すると紹介していました。
幻想的な青春奇譚『白縫』はあまり知られていない作品ですのでさわりだけ紹介しておきます。環境破壊への警鐘は手塚漫画のテーマのひとつでした。
「不知火」を「白縫」という筑紫にかかる枕詞や花魁の名前でもある言葉に置き換え、野望の深さに反比例して失われていく人間の本質を如何に蘇生させるかを問うストーリーです。少年 稲垣伸二の故郷は「不知火」の出る沖中市でした。帰省した彼は、土地の顔役となった兄が、かつて不知火が見えた海岸を埋め立てて空港開発を進めていることに憤ります。不思議な童女(白縫)の出現が兄をひどく苛立たせ、やがて2人は決定的な対立へと向かいます…。
空港建設に邁進する主人公の兄が 「世の中は変わるんだ!! 俺が変えてやるんだ!! それが文明ってもんだ!!」 と必死に叫ぶ姿は哀れでもあり、今の政治家たちに重なるものが多分にあります。 -
蛇神社 参道
蛇神社は宝塚市御殿山2丁目の閑静な高級住宅地の猫の額ほどの隙間に鎮座しています。目印は背の高い銀杏の木です。
手塚作品には1979(昭和54)年に「月刊少年ジャンプ」で発表された『モンモン山が泣いてるよ』という読切り漫画があります。蛇神社はその漫画の舞台となりました。小学4年生の手塚先生自身をモデルにした主人公の少年 シゲルと蛇神社の主で白蛇の化身と称する謎の青年 ヘビ男との心の交流を描いたファンタジックな民話風の傑作です。この短編は手塚先生が愛された御殿山へのノスタルジーを凝縮したオマージュ作品とも位置付けられます。個人的には「戦争反対」「宅地開発で山が泣いている」というメッセージにも聞こえるのですが…。 -
蛇神社 参道
物語では、蛇神社の傍にポプラの木があり、そこへポプラ相撲のための葉を取りに行くというシーンがあります。青年はシゲルにポプラ相撲で悪ガキ連中にも勝てる強いポプラをくれます。やがて戦争が始まると、軍用道路を造るため蛇神社は取り壊されることになり、シゲルは何とか祠を守ろうと抵抗します。しかし、神社だけでなくポプラの木も切り倒されてしまいます。すると青年は山から忽然と姿を消してしまいます。風の噂では青年は憲兵にひっぱられて戦場へ行かされたということでしたが…。
漫画とは異なり、現在でも民家の脇で威容を放つ巨木が残されています。ただし「ポプラ」ではなく、元々あった樹齢数百年にもなる「銀杏」の巨木です。この巨木は宝塚市の保護樹木に指定されています。
余談ですが、『モンモン山が泣いてるよ』の冒頭に登場する2人のガキ大将(春巻と川縞)には、同級生に実在のモデルがいるそうです。そして、手塚先生が通った池田附属小学校の校庭にはポプラの巨木があり、秋になると「ポプラ相撲」が華々しく繰り広げられたというのも実話だそうです。 -
蛇神社 参道
地盤が固いのか、根が地表を這う姿は白蛇を彷彿とさせドキリとさせます。しかもその表面はかなり摺り減っています。如何に多くの参拝者がこの地を訪れたかを示すバロメータとも言えます。
「モンモン山」は手塚先生が少年時代を過ごされた宝塚の実家の裏山 御殿山をイメージしています。因みに「モンモン山」という奇妙な名の発祥は、父親の手塚粲氏だそうです。手塚兄弟が、親の言うことを聞かなかったり、悪戯などをした時、父親が使った「脅し・諌め」の決め台詞だったそうです。「ほら、 聞け。遠くでモーンモーンと鳴く声が聞こえてだんだん近寄ってくるだろう。あれはモンモン山がお前たちを怒っているのダ。いつまでもそんな我儘を言うと、モンモン山に連れて行かれるゾ。そら、もうそこまで やって来た!」などと言われたそうです。 -
蛇神社
お金の神様とされる白蛇神を祀っていますが、民家が密集する間に小さな祠が建立されているだけの寂びれた佇まいです。また常緑樹に囲まれているため、昼間でも小暗い感じがします。
社務所もなく無人の神社で、神社お決まりの鳥居も手水鉢もありません。ただし、祠の手前に鳥居の礎石らしきものが窺えますので、阪神淡路大震災で鳥居は倒壊したものと窺えます。 -
蛇神社
1995年の阪神淡路大震災によって祠も倒壊し、数年間そのままの状態で放置されていたそうです。しかし1998年の秋、地元住民の協力などにより、蛇神社が再建されました。
しかも『モンモン山が泣いてるよ』に登場する蛇神社の祠そっくりの小祠が再現されているのには頭が下がる思いです。再建当時は「手塚神社再建」と報道されたほどです。
手塚ファンなら一度は拝んでおきたいスポットでは!? -
蛇神社
蛇神社は「珍しい蝶が捕まえられる」という理由で、手塚少年にとって特別な場所だったそうです。
また、現在は宅地造成が進み眺望は望めませんが、かつては見晴らしも良く、手塚先生は「蛇神社からの眺めが一番好きだった」と吐露されています。 -
蛇神社
右手にある銀杏の木は以前は沢山の実を着けていたそうです。しかし、ここ数年間は実が付かなくなったそうです。何百年も経った雌の木が突然実を着けなくなり、雄に性転換したという事例もあるそうですから…。もしかしたら白蛇が気候変動への警鐘を鳴らしているのかもしれません。
銀杏は、約2億5千万年前の古生代中頃に地球上に出現した古代植物で、氷河期も奇跡的に生き残りました。ダーウインが「生きた化石」と呼んだのはそのためです。自生しているのは中国の浙江省だけで、日本には中国へ渡った留学僧が持ち帰ったとの説があります。現在では銀杏は世界中に分布していますが、遺伝子を調査した結果、中国の浙江省の銀杏がルーツだそうです。 -
蛇神社
祠の左後方にある巨木です。
こちらも白蛇を彷彿とさせる根っこのインパクトには圧倒されます。
「白蛇伝説」の由来はもしかしたらこうした「根っこ」だったのかもしれません!? -
オオウラギンヒョウモン
手塚先生は蛇神社の北側にあった原っぱで「オオウラギンヒョウモン」という宝塚では珍しい蝶を採取し標本にしています。チョウ目タテハチョウ科ドクチョウ亜科ヒョウモンチョウ族に属する草原性の一種です。主な食草はスミレ類とされ、日本のヒョウモンチョウ類では最大級です。近年は全国的に絶滅の危機に瀕しており、近畿地方でもかつては複数の生息地が知られていましたが、近年は記録がなく、すでに絶滅したものと考えられています。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
http://www.ha.shotoku.ac.jp/~kawa/KYO/SEIBUTSU/DOUBUTSU/06chou/chou/hp-10/oourag/index.html -
市道546号線
次の目的地は宝塚市川面6丁目にある「猫神社(千吉稲荷神社)」です。
下ノ池を左手に見ながら市道546号線を道なりに下ります。手塚邸宅跡地へ向かう際に正面に見えた三叉路に合流しますのでそこを右折します。この景色は下ノ池から三叉路へ向かう途中の急坂です。道路の先の茶色の路面の所が三叉路です。 -
市道546号線
振り返るとこんな感じです。
御殿山周辺の宅地造成は、昭和30年代に始まる高度経済成長期と同調して本格化され、阪急電車各駅から徒歩15分圏内の農地や溜池が、手塚少年が小学校高学年の頃には次第に周りの景色が変わりつつあったものと窺えます。そんな中、幸いにも蛇神社や猫神社はかろうじて宅地造成の触手から免れ、子どもたちの絶好の隠れ家的な遊び場となっていたのでしょう。
手塚先生は作品の中にこれらの神社を描写するに当たり、記憶を蘇らせるためにその現地を視察されたことと思います。そして記憶と現状のギャップに心揺らがせながらも、その中で強く感じたことを紡ぎながら描写されたのでしょう -
清荒神宝塚停車場線
三叉路を右折して清荒神宝塚停車場線を上っていくと30m程先にまた三叉路があります。この画像はその三叉路です。
そこを左折します。 -
三叉路から道なりに120m程進むと右手奥にこんもりした雑木林が見えてきます。
そこに目指す猫神社が佇みます。
このフェンスが途切れた所で右折すれば、直線の参道が待っています。 -
猫神社(千吉稲荷神社) 参道
フェンスが途切れた所にある道標です。
「千吉大神」とあります。
ただし、この道標は今来た道からは死角になっていて見えないので注意が必要です。 -
猫神社(千吉稲荷神社) 参道
閑静な住宅地に眠る雑木林に至るプロムナードは情緒満点の細長い畦道の参道です。その先に赤鳥居が見え隠れしています。
猫神社(千吉稲荷神社)は御殿山宅地にある傾斜地にへばり付くように鎮座しています。その手前だけぽっかりと田園風景が昔のままに取り残され、こんもりと茂る雑木林が目印です。宅地造成が進み住宅が密集する現在において、ここだけタイムスリップしたかのように奇跡的に鎮守の森が残されています。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
ここは手塚先生が弟たちと昆虫採集に夢中になった思い出の場所でもあります。
入口周辺はカラスに要注意です。特に子育て中の5~6月は子を守ろうとして親ガラスの警戒心が高まり、場合によっては襲い掛かってくることがあります。通常は鳴き声で威嚇するだけです。
対策としては「帽子を被ったり、日傘を差したりすること」が挙げられます。帽子も傘もない場合は、両腕をバンザイのように垂直に上げることも有効だそうです。カラスは翼が何かに触れることを嫌うため、「障害物」があれば攻撃してこないそうです。
鳥居の左手に白いドレスを着た女性が立っているように見えますが、これは光の加減でこう見えるだけです。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
赤鳥居群の手前には、2010年に手塚先生の生誕80年を記念して千吉稲荷世話人会により建立された、「手塚治虫 昆虫採集の森」と書かれた記念碑が建てられています。
昆虫の短い命から「生命の尊さ」と「自然への愛」を学び、その経験が手塚漫画に多大な影響を与えました。手塚先生たちはこの自然豊かな恵みの地を「猫神社」と呼び、アゲハチョウやノコギリクワガタを採集していたそうです。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
神額には「千吉大神」とあります。
何故、手塚先生は「猫神社」と呼ばれたかについては、この神社で「大きな猫」を見かけたというのが理由だそうです。
これについては、恐らく「狐」か「狸」の類が「猫」に見えたのではないかとの説があります。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
鳥居の中には片方の脚が腐食して折れているものもありますので注意してください。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
祠は、11連の赤鳥居を潜った先で、鬱蒼とした樹木に包まれながら佇みます。往時の面影を偲ばせているかのように映りますが、ここも手塚家が宝塚から東京に移った後に建て替えられたそうです。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
かつて手塚先生たちが捕虫網を手に走り回ったであろう雑木林です。
何故か二股の樹木が多いのが気になります。
戦時中を舞台とした短編作品『ゼフィルス』には昆虫採集風景が描かれています。「ゼフィルス」とは昆虫採集マニアの主人公「私」が夢中になって採集しようとしていた蝶の名前です。実は手塚先生は、戦時中も昆虫採集を続け、それは空襲が激化した終戦の1ヶ月前まで続いたと言います。もし大人にでも見つかれば「非国民」と厳しく非難された時代ですから、命がけの行動だったと言えます。
また戦時中は漫画を手にすることさえ憚られた時代でしたが、手塚先生は、勤労奉仕や勤労動員に追われながらも隠れて漫画を描き続け、やがて才能を開花させました。 -
蝶「ゼフィルス」
手塚先生が夢中になって採集しようとしていた蝶「ゼフィルス」です。
蝶の愛好家はミドリシジミの仲間を「ゼフィルス」と呼んでいます。ゼフィルスとは、ギリシアの西風の神「ゼフィロス」に由来する名前で、昔からミドリシジミ族に分類されるシジミチョウの一部を指す俗称です。日本には25種が生息し、世界では中国大陸を中心に約200種が知られています。雄が羽を開くと、金属光沢のある緑色や青色の羽を持っているものが多い。美しくキラキラ輝くので、蝶マニアに人気が高いそうです。
この画像は杉のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
https://www.forest-akita.jp/data/konchu/21-zeph/zeph.html -
猫神社(千吉稲荷神社)
最後の鳥居の神額には「千吉稲荷大神、火防稲荷大神、正勝稲荷大神」とあります。
自然との触れ合いに情熱を燃やした手塚先生の昆虫標本は10箱ほどにもなりました。しかし、終戦の2年後頃からパタリと昆虫の世界から卒業してしまうのです。医学の勉強や漫画制作のために時間的余裕を失っただけではなく、そこには別の大きな理由があったと考えるのが自然です。
一般的な見解では、戦争の影響が大きく、虫を殺すのに嫌悪感を抱いて辞めたとされます。一方、弟 浩さんは「ストーリーにおける起承転結は限りなく発展する可能性を秘めているが、昆虫の起承転結は、あくまで卵から始まり、当然そうなるべき成虫の姿で終わってしまう。手塚治虫にしてみたら、昆虫の生涯は自分で脚色しない限り、それ以上発展しないということに限界を感じたのではないかと思います。要するに自分の趣味としての昆虫に限界を感じた、それ以上に発展させることは昆虫に対する冒涜である、兄貴はそこまで考えたのではないかと思います。」と述べられています。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
手塚先生の作品には往時の宝塚でしか味わえない特有の香りが漂っているような気がします。「マンガの神様」の原点は捕虫網を手に夢中になって駆け回った御殿山にあると言っても過言ではありません。感受性が豊かだった手塚先生は、野山で目の当たりにした大自然での出来事を通じ、生命の神秘を感じ取り、敬虔な気持ちを育んだそうです。
宝塚時代の影響を色濃く受けた作品の筆頭には『ゼフィルス』が挙げられます。戦時下、裏山にある森で「ゼフィルス」と呼ばれる蝶を血眼になって追いかける中学生の物語であり、宝塚で育んだ昆虫愛と共に、当たり前の暮らしが奪われる戦争の惨い現実と不条理を描いた作品です。結局、その森は米軍のB29の爆撃で焼失してしまいます。描かれたエピソードはフィクションですが、少年の生活や心理描写には手塚先生自身の戦時中の実体験が色濃く反映されています。
尚、手塚先生はTVインタビューで次の言葉を残されています。
「少年の日、その目に映ったきらめきや畏れを今も決して忘れない」。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
神額には、千吉稲荷大明神、白玉稲荷大明神、火防稲荷大明神、正勝稲荷大明神とあり、4柱のお稲荷さんを合祀していることが判ります。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
由緒を調べてみると、明治時代初期にこの付近で火災が頻発したことを契機に創建された神社で、元々は火防(ひふせ)稲荷大明神を祀っていたようです。以後火事が無くなったことから、「千吉踊り」を奉納するようになったそうです。恐らく、元々は火防稲荷神社だったのが、「千吉踊り」を奉納したことで千吉稲荷大明神を祀るようになり、やがて千吉稲荷神社と名称が改められたものと窺えます。つまり下剋上です。また、年月と共に近隣に祀られていた他の稲荷神社の世話が困難になり、他の2柱がここへ束ねられたと窺えます。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
稲荷社にしてはお決まりの狛狐が居ないなと思ったら、祠の脇に居られました。
祠を守っている白狐の像です。どことなく神秘的な雰囲気が漂っています。
正勝稲荷大明神については、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(=天忍穂耳命)と関係があると思います。「忍穂」は稲穂の意で稲穂の神ですが稲荷との関係は不詳です。
天照大神の長男神で、天安河にて須佐男之神と行った誓約で生まれた神です。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
白玉稲荷大明神については、最後の鳥居の神額にその名がなかったことから、最後に勧請された大神と窺えます。
白は白狐や白龍、白山など神様の名としても多く使われる「清浄な色」です。白玉となると「白い勾玉」を指すのかもしれません。
一方、神戸にある祇園神社の摂社にも白玉稲荷社があり、こちらは伏見稲荷大社から勧請されたものです。そしてその白玉稲荷社には「倉稲魂命」と筆書きがなされています。
これらを総括すれば、各地に勧請された白玉稲荷神社は稲荷神・倉稲魂の聖なる魂と読めます。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
祠に世話人さんからのメッセージが貼り付けてあります。
この神社では寒施行(かんせぎょう)「寒中に、餌の乏しいキツネ・タヌキなどに食物を施すこと」をなされているようです。
小寒から節分までの「寒中」の間、夜間に小豆飯や餅、油揚げ、稲荷寿司などを祠などに置き、餌の少なくなるこの時期に狐や他の獣などに恵みます。お供えがなくなれば、その年は豊作になると伝わります。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
掲示板には「年中行事表」の横に「手塚ワールド」のキャラクターが勢揃いです。
ヒョウタンツギがお賽銭箱に投げ入れられているのが笑えます! -
猫神社(千吉稲荷神社)
何の変哲もない二股の「ナナミノキ?」ですが、実は知る人ぞ知るただならぬ木です。
手塚先生が猫神社を訪れた際、この木に手を触れられながら記念撮影されました。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
手塚先生にあやかろうと同じ所に触れるため、幹の表面が摺れているのが遠目でも判ります。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
祠の裏手に回ってみた所、石塚らしきものと石碑が隣り合わせに安置されています。
「千吉踊り」は、宝塚市川面池田地区の伝承では、火事が多発していた江戸時代に「千吉稲荷大明神のお稲荷様に踊りを奉納せよ」とのお告げがあり、火事を収めるために奉納するようになったのが起源とされます。毎年8月19日には近くの川面公園で「千吉踊り」を奉納するそうです。因みに千吉踊りとは、狐の手を真似た所作で踊るのが特徴だそうです。詳しいことは不詳ですが、某球団の「キツネダンス」でないことは確かです! -
猫神社(千吉稲荷神社)
石碑には「白玉大神御鎮座」と彫られているので、白玉稲荷大明神のことでしょう。
4柱の中では新参者ゆえ、このような石碑が建てられているのかもしれません。 -
猫神社(千吉稲荷神社)
祠の脇に何やら忘れ物らしきものが置かれています。
好奇心に勝てず恐る恐る覗き込んでみると、「招き猫の貯金箱」が沢山入っています。
「猫神社」と聞いてこれらを奉納しようとここまで来たものの、場違いであるのを認識して退散したということでしょうか!? -
猫神社(千吉稲荷神社)
雑木林の裏手はこのように宅地造成されています。 -
猫神社(千吉稲荷神社)トキワツユクサ(常盤露草)
用水路の傍らに儚げで清楚な白い花を見つけました。
ツユクサ科ムラサキツユクサ属の多年草です。ツユクサの名から連想するのは朝露を付けて咲き、夕方には閉じてしまう青色の花ですが、近年、日本各地で白色のツユクサが目立つようになりました。
南アメリカ原産で、日本へは昭和時代初期に鑑賞用として持ち込まれ、野生化した帰化植物です。葉が常緑のため常盤(トキワ)の名が付けられており、別名は「ノハカタカラクサ(野博多唐草)と呼ばれます。綺麗な花ですが、現在は外来生物法により「要注意外来生物」に指定されています。
トキワツユクサが繁殖する前に生えていた植物が居場所を占領されてしまったかと思うと、何だか切なくもなります。ウクライナを侵略しているロシア彷彿とさせる植物です。 -
宝塚市文化総合センター
位置関係が判るように屋上庭園から山の手側を見上げた画像です。
中央やや右にある鎮守の森が「皇太神社」です。
そのすぐ左横の黒い建物の所から宝塚大劇場や手塚治虫記念館を俯瞰したのが前出の見晴台の画像です。
左端にある巨大なクスノキが手塚邸宅跡地のものです。 -
番外編 「宝の塚」
宝塚市川面地区の高台にある公団「フレール宝塚御殿山」の北東端に「宝の塚」と書かれた高さ約1mの石碑があります。この石碑は、この地域が『摂陽群談』(元禄14年(1701年)刊)等の資料に記された「宝塚」の伝承地のひとつであることから、地主の小林英次氏が昭和35年頃に往時の宝塚市長 田中詮徳氏に揮毫を依頼して建立したものです。
その伝承というのは「市名発祥」であり、その根拠のひとつは江戸時代初期(1680年)に記された『新田検地帳』です。川面村には「宝塚東」「宝塚南」「宝塚北」の字名があり、地名に宝塚の文字が現れる初見とされています。
しかし阪神淡路大震災後の1997年に兵庫県が御殿山に災害復興住宅を造る際、県教委が発掘調査を行って「建設予定地に遺跡はなかった」と結論付けています。「宝の塚」は他にも2ヶ所あります。 -
番外編 「宝の塚」
宝塚の地名の由来には諸説あり、「宝物を埋蔵していると伝えられる宝の塚があり、それが地名の起源」だとか、「その近くで物を拾った人には幸運が舞い込むと信じられていた古墳があり、それが宝塚と呼ばれた」などがあります。
一方、地名ではなく山号としての「宝塚」は、1596(慶長5)年に記された『宝泉寺縁起帳』が初見です。寺院の山号として「宝塚山」と記されているます。ただ、読み方は「たからづかやま」でなく「ほうちょうざん」だったようです。 -
番外編 「皇太神社」
皇太神社は、有馬街道沿いの川面4丁目の静かな住宅地に鎮座する神社です。南雛壇の高台にあり、周囲を鎮守の森が囲みます。伊勢神宮を総本社とする神社のひとつで、他の皇大神社と混同を避けるため川面皇太神社とも称されます。
主祭神は天照皇大神(アマテラシマススメオオカミ)、配祀神は天児屋根命(アメノコヤネノミコト)を祀ります。
神社には樹木も多く、昆虫好きだった手塚先生の採集フィールドだったことは間違いありません。 -
番外編 「皇太神社」
源氏の始祖 源満仲を祭神とし970年に創設された多田神社が元々の始まりです。
創建年代は不詳ですが、満仲公の御家人 中村勘素が安庭村を開き源氏の守護神 八幡神を現在の川面1丁目付近に勧請、明城(あけしろ)大明神として創建したのが皇太神社の前身です。その後、1715(正徳5)年に明城大明神と川面5丁目附近に古代より鎮座の王依姫命を祭神とする八幡神 赤白大明神の2柱を合祀して現在地に移転しました。明治維新の神仏分離により天照皇大神と天児屋根命を奉斎し、明城大明神は東南地に遷座し、名を皇太神社と改めています。 -
番外編 「皇太神社」
1995の阪神淡路大震災で拝殿が倒壊し、その後新世紀への復興のシンボルとして再建されています。
末社には明城大明神の他、多田神社、加太神社、愛宕神社、大山祇神社、熊野神社、住吉神社、天満神社、稲荷社があります。 -
番外編 「皇太神社」
神社の裏手は本殿かと思っていましたが、「お神輿」が鎮座されています。
皆さん、拝殿からお神輿を参拝されていることになります。 -
番外編 「皇太神社」
屋根の棟には皇室御用達の「十六葉菊紋」と「城紋」が見られます。
「城」は神仏分離で遷座を余儀なくされた「明城大明神」を指すのでしょう。 -
番外編 「皇太神社」
大元となる多田神社も摂社として勧請されています。 -
番外編 「皇太神社」
稲荷神社もあります。 -
番外編 「皇太神社」
遷座後の肩身の狭さを如実に表した鄙びた祠です。 -
市花の「スミレ」をモチーフとし、周囲に観光ロゴマークにも採用された「ベル」をあしらった、宝塚らしいお洒落なマンホールです。
明るさと清潔感を出すためにスミレの花を中央に大きく、そして音楽の町・宝塚を表現するために楽器のベルを周辺に散りばめ華やかさを演出しています。
因みに「スミレ」の名の由来は、一説には花の形が大工道具の「墨入れ(墨壺)」に似ていることからこの名があるとされます。 -
所用で箕面公園(大阪府箕面市)へ立ち寄った際に写したマンホールです。
万博開催前も後も色々なトラブルが発生しているようで気を揉んでいますが、奇を衒った演出よりも、世界各国の近未来像が垣間見られる博覧会になればと思います。トラブルについては洞察力が不足していたことを真摯に反省し、良かったことも悪かったことも含めて次なる国家プロジェクトに活かせるように記録に留めていただければと願っています。
因みに箕面公園も手塚先生の昆虫採集フィールドのひとつです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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この旅行記へのコメント (3)
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- マキタン2さん 2025/07/06 08:49:45
- 628いいね!なぜだろう?教えて・・
- 霧降高原にいいね!投票ありがとうございました。
返礼にいいね!しましたが、628にもなりました。
平均5票足らずの身には信じられない高評価です。
どんな方がどんな考えでいいねしているのでしょうか。
お気づきの点がありましたら、教えてください。
- montsaintmichelさん からの返信 2025/07/11 16:58:44
- RE: 628いいね!なぜだろう?教えて・・
- マキタン2さん、こんにちは!
返信が遅くなり大変申し訳ありません。
当方の旅行記にアクセスいただきありがとうございました。
どんな考えで「いいね」されているのかは判りませんが、4travel「おすすめ旅行記」などに掲載されるとカウント数がうなぎ上りに増えるのは実感しております。また旅行誌などから画像の提供を依頼されることも多く、クレジットに「4travel/montsaintmichel」を使わせていただいているのも関係していると思います。そこから当方の旅行記にアクセスされる方も多いようです。更には「いいね」が増えるとアクセス数が増え、「いいね」のカウント数も増えるのも事実です。
その一方、仕事や学校、ボランティア関係など知人からのカウント数が圧倒的多数を占めているのも事実です。つまり「見ましたよ!」感覚のものであり、そこに大した意味はないと思っております。
マキタン2さんは、旅行記の投稿数が8300件以上もあり、アクセス数も群を抜いておられ、それだけでリスペクトに値するトラベラーさんだと思います。ですから「いいね」のカウント数を気になさらず、マキタン2さんのスタイルを貫かれるのが達成感に繋がるのではないかと察します。当方も「備忘録」と「旅行される方への参考」をポリシーに励んでおります。
montsaintmichel
- マキタン2さん からの返信 2025/07/12 12:36:41
- RE: RE: 628いいね・・返信ありがとう!
- 大人気おめでとうございます。どうも人的交流の広さがポイントのようですね。
私のページも毎日1,000回程度のアクセスがありますが、いいねは数件です。
旅行の内容や写真の質で評価される訳ではないようです。
気にする必要もないのですが、比較できるのがこれしかありません。
記録として保存し、いつか誰かの役に立つことがあれば幸いですね。
何よりも自分自身で納得できる足跡を残せることが生きがいになっています。
> マキタン2さんは、旅行記の投稿数が8300件以上もあり、アクセス数も群を抜いておられ、それだけでリスペクトに値するトラベラーさんだと思います。ですから「いいね」のカウント数を気になさらず、マキタン2さんのスタイルを貫かれるのが達成感に繋がるのではないかと察します。
当方も「備忘録」と「旅行される方への参考」をポリシーに励んでおります。
> montsaintmichel ますますのご活躍を期待しています。
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