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旧松本邸(後編)は2階にある4部屋の寝室と庭に設置された防空壕とワインセラーを紹介いたします。<br />2階にある各寝室は特に凝った意匠がある訳でもありません。従って、寝室に飾られている小物類にスポットを当ててレポしてみたいと思います。<br />一方、庭には半地下方式の防空壕とワインセラーがあり、洋風邸宅が建てられた時代の社会世相と阪神間プチブルの優雅な暮らしぶりの対極に立つものを目の当たりにすることができました。<br />

青嵐薫風 北摂宝塚逍遙②旧松本邸(後編)

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2025/05/13 - 2025/05/13

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

旧松本邸(後編)は2階にある4部屋の寝室と庭に設置された防空壕とワインセラーを紹介いたします。
2階にある各寝室は特に凝った意匠がある訳でもありません。従って、寝室に飾られている小物類にスポットを当ててレポしてみたいと思います。
一方、庭には半地下方式の防空壕とワインセラーがあり、洋風邸宅が建てられた時代の社会世相と阪神間プチブルの優雅な暮らしぶりの対極に立つものを目の当たりにすることができました。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
  • 後編では2階の部屋を紹介していきます。<br />2階にある4部屋は、寝室などのプライベートな空間であり、現在「床の間」が設けられている洋室④は、竣工当時には「床の間」がなく、6畳の和室だったそうです。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」<br />たからづかデジタルミュージアム<br />https://adeac.jp/takarazuka-city/top/

    後編では2階の部屋を紹介していきます。
    2階にある4部屋は、寝室などのプライベートな空間であり、現在「床の間」が設けられている洋室④は、竣工当時には「床の間」がなく、6畳の和室だったそうです。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。「掲載許可承諾済」
    たからづかデジタルミュージアム
    https://adeac.jp/takarazuka-city/top/

  • 階段<br />踏面が広く傾斜の穏やかな造りになっているのが最大の特徴です。<br /><br />施主 土井内蔵氏の遺族は、この建物をオリジナルのまま保存することに拘り、隣に土地を購入して自分たちが住むための住居を建てたそうです。そのおかげもあり、古民家では改修されがちな湯殿や炊事室、トイレなどがほぼ往時の原形を今に留めています。

    階段
    踏面が広く傾斜の穏やかな造りになっているのが最大の特徴です。

    施主 土井内蔵氏の遺族は、この建物をオリジナルのまま保存することに拘り、隣に土地を購入して自分たちが住むための住居を建てたそうです。そのおかげもあり、古民家では改修されがちな湯殿や炊事室、トイレなどがほぼ往時の原形を今に留めています。

  • 階段<br />この階段は、神戸女学院や関西学院大学を設計した住宅の階段の名手と称されるウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計よりも更に登り易い勾配になっています。<br />登り易い階段の勾配を算定する数式「蹴上高×2+踏面巾<60」でも検証されています。

    階段
    この階段は、神戸女学院や関西学院大学を設計した住宅の階段の名手と称されるウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計よりも更に登り易い勾配になっています。
    登り易い階段の勾配を算定する数式「蹴上高×2+踏面巾<60」でも検証されています。

  • 階段<br />1段目はその角部を削ったアール状の意匠が施され、圧迫感から解放してくれます。ゲストに対する気遣いがひしひしと感じられます。

    階段
    1段目はその角部を削ったアール状の意匠が施され、圧迫感から解放してくれます。ゲストに対する気遣いがひしひしと感じられます。

  • 階段<br />階段の登り口にも小さな3面鏡と小物類が置かれています。<br /><br />東京国分寺には1933(昭和8)年に建てられた土居内蔵氏の別荘(沖本家住宅)があるそうです。その設計もこの邸宅と同じく川崎忍氏が担いましたが、その別荘も長い間庭に生えた木々や竹林に隠れてその存在が忘れ去られていたそうです。ドイツ風意匠の別荘は現在はカフェにリノベーションされているようです。<br />建築後1年ほど東京の学校へ通っていた娘 瑠璃子さんが暮らしてたそうですが、1937(昭和12)年に同郷の沖本至氏に譲渡され、その居宅として使用されました。1940(昭和15)年に沖本氏により来客用として和館が増築されています。

    階段
    階段の登り口にも小さな3面鏡と小物類が置かれています。

    東京国分寺には1933(昭和8)年に建てられた土居内蔵氏の別荘(沖本家住宅)があるそうです。その設計もこの邸宅と同じく川崎忍氏が担いましたが、その別荘も長い間庭に生えた木々や竹林に隠れてその存在が忘れ去られていたそうです。ドイツ風意匠の別荘は現在はカフェにリノベーションされているようです。
    建築後1年ほど東京の学校へ通っていた娘 瑠璃子さんが暮らしてたそうですが、1937(昭和12)年に同郷の沖本至氏に譲渡され、その居宅として使用されました。1940(昭和15)年に沖本氏により来客用として和館が増築されています。

  • 階段<br />親柱はシンプルながら上品なデザインでまとめています。<br /><br />設計者の川崎忍氏は初めて聞く名前でしたが、登録有形文化財の日本基督教団本郷中央教会などの作品が遺されています。しかし、戦後、個人設計事務所を閉鎖して大成建設に入社したこともあり、個人としての作品が少なかったために研究対象にならなかった建築家であり、今後の研究が待たれるところです。

    階段
    親柱はシンプルながら上品なデザインでまとめています。

    設計者の川崎忍氏は初めて聞く名前でしたが、登録有形文化財の日本基督教団本郷中央教会などの作品が遺されています。しかし、戦後、個人設計事務所を閉鎖して大成建設に入社したこともあり、個人としての作品が少なかったために研究対象にならなかった建築家であり、今後の研究が待たれるところです。

  • 2階 階段ホール<br />階段を上ったところから撮影した2階の階段ホールです。<br />2階には寝室(洋室)が4部屋とトイレ、手洗い場があります。<br />現在の住宅と比べると天井は高く、開放的で圧迫感が全くありません。<br />天井や壁は漆喰、ドアの枠材は木製(ラワン)、床はオーク(ナラ)です。

    2階 階段ホール
    階段を上ったところから撮影した2階の階段ホールです。
    2階には寝室(洋室)が4部屋とトイレ、手洗い場があります。
    現在の住宅と比べると天井は高く、開放的で圧迫感が全くありません。
    天井や壁は漆喰、ドアの枠材は木製(ラワン)、床はオーク(ナラ)です。

  • 2階 階段ホール<br />川崎忍氏は1922(大正11)年に32歳で三菱合資会社地所部の丸ビルの建設を機に米国から帰国し片岡松井建築事務所に入所。その後JHモルガン建築事務所を経て、1928(昭和3)年に38歳で川崎忍建築事務所を開設。1940(昭和15)年に予定されていた「幻の東京オリンピック」のシンボル塔設計コンペにおいて一等入選しています。<br />設計を手掛けた主な作品には次のようなものがあります。<br />日本基督教団 本郷中央教会(1929(昭和4)年 国登録文化財)<br />川崎忍氏と元ヴォーリズ建築事務所のヴォーゲルが共同設計した作品、鉄筋コンクリート3階建(塔屋は5階建て)の教会。<br />弘前女学校(昭和4年)<br />慈愛園・クロンク幼稚園(昭和4年)<br />日本メソジスト牛込教会(昭和9年)<br />立教女学院・学生会館

    2階 階段ホール
    川崎忍氏は1922(大正11)年に32歳で三菱合資会社地所部の丸ビルの建設を機に米国から帰国し片岡松井建築事務所に入所。その後JHモルガン建築事務所を経て、1928(昭和3)年に38歳で川崎忍建築事務所を開設。1940(昭和15)年に予定されていた「幻の東京オリンピック」のシンボル塔設計コンペにおいて一等入選しています。
    設計を手掛けた主な作品には次のようなものがあります。
    日本基督教団 本郷中央教会(1929(昭和4)年 国登録文化財)
    川崎忍氏と元ヴォーリズ建築事務所のヴォーゲルが共同設計した作品、鉄筋コンクリート3階建(塔屋は5階建て)の教会。
    弘前女学校(昭和4年)
    慈愛園・クロンク幼稚園(昭和4年)
    日本メソジスト牛込教会(昭和9年)
    立教女学院・学生会館

  • 2階 階段ホール<br />右側:ジャン・バティスト・グルーズ『The Milkmaid(ミルクメイド)』<br />(1738年 ルーヴル美術館蔵)<br />何処かで出会った絵画だと思いを巡らせた所、ルーヴル美術館でご対面していました。因みに我が家には、グルーズ作品のうち『壊れた甕』(1771年 ルーヴル美術館蔵)の複製画が飾られています。<br />ブーシェやフラゴナールと並び、往時、絶大な人気を誇っていたのがグルーズでした。しかし、18世紀の忘れられた画家として不当な汚名に甘んじていました。その後、美術史を通して最も人気がある風俗画家のひとりと再評価され、名誉挽回を果たしました。<br />リヨン郊外のトゥルニュで生まれ、リヨンで学んだ後、1750年頃にパリに進出し、1755年に突如人気を得ました。アカデミーの正規コースを辿ることなく入会資格が認められ、本人は「歴史画家」としての名声を望んでいましたがアカデミーには「風俗画家」として登録しました。<br />グルーズの絵画は風俗画の中に歴史画の表現を取り入れたことが特徴です。ロココ様式に象徴される享楽的な18世紀にあって、グルーズは裸の神々の世界を描かす、純粋な子供たち、善良で美しい女性たちの姿を地に足を着けた風俗画として描きました。また、女性や子供たちの目に見える愛らしさだけでなく、誠実に生きる人々の真直ぐな心をも清潔な画風のうちに描写した作品は、革命以前のフランスにおいて、宮廷の貴族たちからブルジョワジーまであらゆる階層に愛されました。

    2階 階段ホール
    右側:ジャン・バティスト・グルーズ『The Milkmaid(ミルクメイド)』
    (1738年 ルーヴル美術館蔵)
    何処かで出会った絵画だと思いを巡らせた所、ルーヴル美術館でご対面していました。因みに我が家には、グルーズ作品のうち『壊れた甕』(1771年 ルーヴル美術館蔵)の複製画が飾られています。
    ブーシェやフラゴナールと並び、往時、絶大な人気を誇っていたのがグルーズでした。しかし、18世紀の忘れられた画家として不当な汚名に甘んじていました。その後、美術史を通して最も人気がある風俗画家のひとりと再評価され、名誉挽回を果たしました。
    リヨン郊外のトゥルニュで生まれ、リヨンで学んだ後、1750年頃にパリに進出し、1755年に突如人気を得ました。アカデミーの正規コースを辿ることなく入会資格が認められ、本人は「歴史画家」としての名声を望んでいましたがアカデミーには「風俗画家」として登録しました。
    グルーズの絵画は風俗画の中に歴史画の表現を取り入れたことが特徴です。ロココ様式に象徴される享楽的な18世紀にあって、グルーズは裸の神々の世界を描かす、純粋な子供たち、善良で美しい女性たちの姿を地に足を着けた風俗画として描きました。また、女性や子供たちの目に見える愛らしさだけでなく、誠実に生きる人々の真直ぐな心をも清潔な画風のうちに描写した作品は、革命以前のフランスにおいて、宮廷の貴族たちからブルジョワジーまであらゆる階層に愛されました。

  • 寝室③<br />階段を上がってすぐ左手にある寝室です。<br />窓から柔らかな光が差し込んで白いソファーを浮き上がらせ、ここにはゆったりとした贅沢な時間が流れています。<br />「深窓の令嬢が暮らすお部屋」というイメージがしっくりきます。

    寝室③
    階段を上がってすぐ左手にある寝室です。
    窓から柔らかな光が差し込んで白いソファーを浮き上がらせ、ここにはゆったりとした贅沢な時間が流れています。
    「深窓の令嬢が暮らすお部屋」というイメージがしっくりきます。

  • 寝室③<br />右側は3面鏡。左側は洋風ドレッサーです。洋風ドレッサーとその上に置かれた時計はアールデコ風ザインです。<br />この寝室には、3面鏡にドレッサー、そして姿見と3台もの鏡が置かれています。3面鏡は木の温もりが感じられる総紫檀材の鏡台です。3面鏡は大正時代から存在しましたが家庭にはあまり普及せず、ドレッサーとして昭和30~40年代に流行しました。丁度、松本夫妻の婚礼の時期と重なります。鏡台は鏡とそれを支える台で作られている家具です。引き出しには化粧道具などを入れておくことができます。昔は婚礼道具の定番とされていました。 <br />日本人が化粧をするようになったのは平安時代とされ、貴族の習慣として始まりました。その頃、木を組んだ脚の上に鏡を置いたのが日本の鏡台の始まりとされます。日本神話に登場する「3種の神器」のひとつでもあった鏡は、昔から神聖視され、立って鏡を見ることは良くないこととされていました。そうしたこともあり、正座をして使う鏡台が日本の様式として定着したそうです。

    寝室③
    右側は3面鏡。左側は洋風ドレッサーです。洋風ドレッサーとその上に置かれた時計はアールデコ風ザインです。
    この寝室には、3面鏡にドレッサー、そして姿見と3台もの鏡が置かれています。3面鏡は木の温もりが感じられる総紫檀材の鏡台です。3面鏡は大正時代から存在しましたが家庭にはあまり普及せず、ドレッサーとして昭和30~40年代に流行しました。丁度、松本夫妻の婚礼の時期と重なります。鏡台は鏡とそれを支える台で作られている家具です。引き出しには化粧道具などを入れておくことができます。昔は婚礼道具の定番とされていました。
    日本人が化粧をするようになったのは平安時代とされ、貴族の習慣として始まりました。その頃、木を組んだ脚の上に鏡を置いたのが日本の鏡台の始まりとされます。日本神話に登場する「3種の神器」のひとつでもあった鏡は、昔から神聖視され、立って鏡を見ることは良くないこととされていました。そうしたこともあり、正座をして使う鏡台が日本の様式として定着したそうです。

  • 寝室③<br />角部屋かつ窓の開口面積が潤沢のためとても明るいお部屋です。<br />壁にはルノワールの作品とイエス・キリストを描いた絵画が飾られています。<br />施主 土井内蔵氏の娘 瑠璃子さんの洗礼名が「アイリン」だったことから、このお部屋はクリスチャンだった瑠璃子さんの寝室だったと思われます。<br />因みに瑠璃子さんはハーフということではなく、米国生まれで、日本国籍を取得するのを失念したために米国国籍のままだったようです。

    寝室③
    角部屋かつ窓の開口面積が潤沢のためとても明るいお部屋です。
    壁にはルノワールの作品とイエス・キリストを描いた絵画が飾られています。
    施主 土井内蔵氏の娘 瑠璃子さんの洗礼名が「アイリン」だったことから、このお部屋はクリスチャンだった瑠璃子さんの寝室だったと思われます。
    因みに瑠璃子さんはハーフということではなく、米国生まれで、日本国籍を取得するのを失念したために米国国籍のままだったようです。

  • 寝室③<br />ルノワール『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)』<br />(チューリッヒ美術館蔵)<br />印象派の絵画で最も美しい肖像画とされます。しかしモデルのイレーヌ(当時8歳)の両親はこの絵が気に入らず使用人の部屋に置いたそうです。その理由は、顔は写実的だが、服や背景の強い筆触は印象派の要素を残す雑な絵と思ったからでした。『可愛いイレーヌ』が描かれたのは1880年の夏。ユダヤ人銀行家カーン・ダンヴェール伯爵邸の庭でした。前衛の印象派から伝統に回帰し、漸く名が売れ始めた頃でした。やがて起死回生を狙ったこの絵画は時代の大きなうねりに翻弄されることになりました。 <br />イレーヌは19歳で裕福な銀行家と結婚。しかし暫くして離婚し、イタリア人伯爵と再婚。絵画は最初の夫との間に生まれた娘ベアトリスに引き継がれましたが、第二次世界大戦中、ヒトラーの美術館構想によりナチスに没収されました。戦後、フランスでナチス強奪作品の展覧会が催され、絵画は74歳になったイレーヌに返還されました。<br />その3年後、パリ暮らしのイレーヌは絵画を競売にかけました。競り落としたのはスイスのコレクター、エミール・ゲオルク・ビュールレ。武器類をドイツなどに売って巨万の財をなし、その資産を名画につぎ込みました。<br />美術史に残るルノワールの傑作を何故イレーヌは手放したのでしょうか?絵画の中の自分が幼い頃の娘ベアトリスの面影と重なって見えたのかもしれません。虐殺された愛娘の悲しい思い出が蘇り、辛かったのかもしれません。娘一家は戦時中にアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなったのです。こうして世界的に有名な「少女」は再びフランスを離れることになったのです。

    寝室③
    ルノワール『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)』
    (チューリッヒ美術館蔵)
    印象派の絵画で最も美しい肖像画とされます。しかしモデルのイレーヌ(当時8歳)の両親はこの絵が気に入らず使用人の部屋に置いたそうです。その理由は、顔は写実的だが、服や背景の強い筆触は印象派の要素を残す雑な絵と思ったからでした。『可愛いイレーヌ』が描かれたのは1880年の夏。ユダヤ人銀行家カーン・ダンヴェール伯爵邸の庭でした。前衛の印象派から伝統に回帰し、漸く名が売れ始めた頃でした。やがて起死回生を狙ったこの絵画は時代の大きなうねりに翻弄されることになりました。 
    イレーヌは19歳で裕福な銀行家と結婚。しかし暫くして離婚し、イタリア人伯爵と再婚。絵画は最初の夫との間に生まれた娘ベアトリスに引き継がれましたが、第二次世界大戦中、ヒトラーの美術館構想によりナチスに没収されました。戦後、フランスでナチス強奪作品の展覧会が催され、絵画は74歳になったイレーヌに返還されました。
    その3年後、パリ暮らしのイレーヌは絵画を競売にかけました。競り落としたのはスイスのコレクター、エミール・ゲオルク・ビュールレ。武器類をドイツなどに売って巨万の財をなし、その資産を名画につぎ込みました。
    美術史に残るルノワールの傑作を何故イレーヌは手放したのでしょうか?絵画の中の自分が幼い頃の娘ベアトリスの面影と重なって見えたのかもしれません。虐殺された愛娘の悲しい思い出が蘇り、辛かったのかもしれません。娘一家は戦時中にアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなったのです。こうして世界的に有名な「少女」は再びフランスを離れることになったのです。

  • 寝室③<br />ハインリヒ・ホフマン『ゲッセマネの祈り』<br />(1890年 ニューヨーク リバーサイド教会 祭壇画)<br />アンティークな宗教画のひとつです。瑠璃子さんが敬虔深いクリスチャンであれば頷けます。イエスがエルサレムのゲッセマネにおいて、苦渋の中で天を仰ぎ、祈りを捧げているシーンです。<br />イエスは、エルサレムで弟子たちと最後の食事をした後、リーダー格のペトロとヤコブ、ヨハネのみをエルサレム東のオリーブ山にあるゲッセマネの園に連れていきます。そして、自分の死を覚悟し、最後の祈りを捧げました。その壮絶な祈りが「ゲッセマネの祈り」です。<br />マタイやマルコ、ルカの3福音書によると、イエスはそこでこれから受ける受難の苦悩を血の汗を流して祈りましたが、「ずっと起きていて」と告げたにもかかわらず弟子たちは眠ってしまいます。その苦しみは如何ばかりだったでしょうか…。<br />作者ホフマンは作家としての方が有名ですが、画家としては30点あまりの作品が紹介されるに留まっています。

    寝室③
    ハインリヒ・ホフマン『ゲッセマネの祈り』
    (1890年 ニューヨーク リバーサイド教会 祭壇画)
    アンティークな宗教画のひとつです。瑠璃子さんが敬虔深いクリスチャンであれば頷けます。イエスがエルサレムのゲッセマネにおいて、苦渋の中で天を仰ぎ、祈りを捧げているシーンです。
    イエスは、エルサレムで弟子たちと最後の食事をした後、リーダー格のペトロとヤコブ、ヨハネのみをエルサレム東のオリーブ山にあるゲッセマネの園に連れていきます。そして、自分の死を覚悟し、最後の祈りを捧げました。その壮絶な祈りが「ゲッセマネの祈り」です。
    マタイやマルコ、ルカの3福音書によると、イエスはそこでこれから受ける受難の苦悩を血の汗を流して祈りましたが、「ずっと起きていて」と告げたにもかかわらず弟子たちは眠ってしまいます。その苦しみは如何ばかりだったでしょうか…。
    作者ホフマンは作家としての方が有名ですが、画家としては30点あまりの作品が紹介されるに留まっています。

  • 寝室②<br />この部屋は物置として使われていたようです。<br />ケヤキ製和箪笥が美しい。<br />

    寝室②
    この部屋は物置として使われていたようです。
    ケヤキ製和箪笥が美しい。

  • 寝室②<br />2階の部屋は平面図上では寝室が4部屋ありますが、そのどこにも寝具はありません。その理由は、晩年は隣に別宅を建ててそちらで過ごされており、松本邸自体は来客時などにゲストハウスとして使われていたからだそうです。<br />

    寝室②
    2階の部屋は平面図上では寝室が4部屋ありますが、そのどこにも寝具はありません。その理由は、晩年は隣に別宅を建ててそちらで過ごされており、松本邸自体は来客時などにゲストハウスとして使われていたからだそうです。

  • 寝室①<br />旧松本邸で一番大きな寝室です。<br />平図面では「寝室」となっていますが、木製の大きな机や本棚が置かれており、書斎のような雰囲気を醸します。窓からの木漏れ日がとても気持ちいいお部屋です。<br />

    寝室①
    旧松本邸で一番大きな寝室です。
    平図面では「寝室」となっていますが、木製の大きな机や本棚が置かれており、書斎のような雰囲気を醸します。窓からの木漏れ日がとても気持ちいいお部屋です。

  • 寝室①<br />こうした調度も寄贈された時のままのようです。<br />

    寝室①
    こうした調度も寄贈された時のままのようです。

  • 寝室①<br />本棚の上に置かれているのは「NEWS」という文字を刻んだ木製の新聞ラックです。金文字で「祝御結婚1957年」と書かれてあります。松本夫妻の結婚祝いに贈られたものと思われます。<br />ラックには丁寧な造作が施されていることからも往時は新聞が大切にされていたことが窺えます。

    寝室①
    本棚の上に置かれているのは「NEWS」という文字を刻んだ木製の新聞ラックです。金文字で「祝御結婚1957年」と書かれてあります。松本夫妻の結婚祝いに贈られたものと思われます。
    ラックには丁寧な造作が施されていることからも往時は新聞が大切にされていたことが窺えます。

  • 寝室①<br />ここの天井も応接室と同じく、吸音テックス(吸音材)が使用されており、音や声が心地よく響く仕掛けがなされています。<br />シャンデリアはシンプルながら家紋「加賀梅鉢」を彷彿とさせる意匠です。<br />

    寝室①
    ここの天井も応接室と同じく、吸音テックス(吸音材)が使用されており、音や声が心地よく響く仕掛けがなされています。
    シャンデリアはシンプルながら家紋「加賀梅鉢」を彷彿とさせる意匠です。

  • 寝室①<br />窓辺にはレトロなビクター製家具調ステレオも置かれています。<br />

    寝室①
    窓辺にはレトロなビクター製家具調ステレオも置かれています。

  • 寝室①<br />絵葉書サイズの絵画です。<br />どこか南欧の海辺でしょうか?<br />

    寝室①
    絵葉書サイズの絵画です。
    どこか南欧の海辺でしょうか?

  • 寝室①<br />どこかの民芸品でしょうか?<br />ダルマさんのような顔の口の中にも表情豊かな小ダルマさんがいます。

    寝室①
    どこかの民芸品でしょうか?
    ダルマさんのような顔の口の中にも表情豊かな小ダルマさんがいます。

  • 寝室④<br />竣工時は和室だったそうですが、その後に洋室に改装されたようです。

    寝室④
    竣工時は和室だったそうですが、その後に洋室に改装されたようです。

  • 寝室④<br />意外なことに「床の間」は元々の和室に備えられていたものではなく、洋室への改装時に特別に追加されたそうです。<br />その証左が釣床風の意匠です。洋室とのマッチングに違和感のないように工夫されています。

    寝室④
    意外なことに「床の間」は元々の和室に備えられていたものではなく、洋室への改装時に特別に追加されたそうです。
    その証左が釣床風の意匠です。洋室とのマッチングに違和感のないように工夫されています。

  • 寝室④<br />臨済宗妙心寺派管長 梶浦逸外師の筆による色紙です。<br />「私」に見えますが「和」の崩し文字のようです。<br />「やわらぎ」とでも読むのでしょうか?<br />逸外師の著書『耐える』には椎茸栽培に関する逸話が記されています。<br />戦後の農地解放により寺領の田地が手放され、寺院財政は急激に窮乏してしまった。そこで逸外師は、数万坪の境内にある雑木を伐り倒し、それに椎茸菌を培養し、椎茸栽培を行うことを考えました。師は、椎茸栽培こそは、天地自然を相手にする最も理想的な利殖の方法であり、寺院財政再建のためには願ってもないことと考えたのでした。<br />しかし当然ながら、それに対する非難もありました。「伝統を誇る寺の境内地を伐り拓けば尊厳性がなくなってしまう」とか「あれは禅僧ではない商売人だ」など。<br />しかし師は、少しも悪いことをしているのではないとの思いで、いくら他人から罵詈雑言されても少しもこたえませんでした。だまって相手にしないこと、そしてじっと耐えることに不思議な喜びを感じるようになったと記しています。<br />師の信念は「窮して変ず、変じて通ず」。人間は一所懸命やっていると窮するのが当たり前、窮しないのは志が足らないからだと言います。そして窮した時が一番大切で、ここで逃げたり自棄を起こしたりすれば、益々災難が追いかけてくると諭します。窮しても志を曲げずにじっと耐えていれば必ず状況が変化し、良い方へと道が通じるという教えです。

    寝室④
    臨済宗妙心寺派管長 梶浦逸外師の筆による色紙です。
    「私」に見えますが「和」の崩し文字のようです。
    「やわらぎ」とでも読むのでしょうか?
    逸外師の著書『耐える』には椎茸栽培に関する逸話が記されています。
    戦後の農地解放により寺領の田地が手放され、寺院財政は急激に窮乏してしまった。そこで逸外師は、数万坪の境内にある雑木を伐り倒し、それに椎茸菌を培養し、椎茸栽培を行うことを考えました。師は、椎茸栽培こそは、天地自然を相手にする最も理想的な利殖の方法であり、寺院財政再建のためには願ってもないことと考えたのでした。
    しかし当然ながら、それに対する非難もありました。「伝統を誇る寺の境内地を伐り拓けば尊厳性がなくなってしまう」とか「あれは禅僧ではない商売人だ」など。
    しかし師は、少しも悪いことをしているのではないとの思いで、いくら他人から罵詈雑言されても少しもこたえませんでした。だまって相手にしないこと、そしてじっと耐えることに不思議な喜びを感じるようになったと記しています。
    師の信念は「窮して変ず、変じて通ず」。人間は一所懸命やっていると窮するのが当たり前、窮しないのは志が足らないからだと言います。そして窮した時が一番大切で、ここで逃げたり自棄を起こしたりすれば、益々災難が追いかけてくると諭します。窮しても志を曲げずにじっと耐えていれば必ず状況が変化し、良い方へと道が通じるという教えです。

  • 寝室④<br />この部屋にもケヤキ製和箪笥が並びます。

    寝室④
    この部屋にもケヤキ製和箪笥が並びます。

  • 寝室④<br />窓から見えるのは「防空壕」のようです。<br />

    寝室④
    窓から見えるのは「防空壕」のようです。

  • ここからは邸宅の外観や防空壕、ワインセラーを見学します。

    ここからは邸宅の外観や防空壕、ワインセラーを見学します。

  • 竣工時には応接室のベイウィンドウの外側に木製パーゴラ(日除け棚)が設置されていたそうですが、現在は撤去されています。<br />

    竣工時には応接室のベイウィンドウの外側に木製パーゴラ(日除け棚)が設置されていたそうですが、現在は撤去されています。

  • 外部から見ると一段とシャンデリアの存在感が増します。

    外部から見ると一段とシャンデリアの存在感が増します。

  • 土井内蔵氏の娘婿 松本安弘氏の「青少年の海外脅学に役立てて欲しい」との遺言により、私財のすべてが宝塚市に寄贈され、2002年に「松本・土井アイリン海外留学助成基金」が創設されました。宝塚市では、この海外留学助成基金により国際性豊かな青少年を育むため、26歳未満の市民を対象に留学費用の一部を助成しています。

    土井内蔵氏の娘婿 松本安弘氏の「青少年の海外脅学に役立てて欲しい」との遺言により、私財のすべてが宝塚市に寄贈され、2002年に「松本・土井アイリン海外留学助成基金」が創設されました。宝塚市では、この海外留学助成基金により国際性豊かな青少年を育むため、26歳未満の市民を対象に留学費用の一部を助成しています。

  • 炊事室や湯殿の辺りは平屋建てになっています。<br /><br />松本安弘氏は1929(昭和4)年に岡山県に生まれ、1949(昭和24)年に京都大学工学部電気工学科に入学。1953(昭和27)年に卒業後、三菱電機に入社。同年7月に休職してフルブライト交換留学制度の第1期生としてジョージア工科大学に留学。1953(昭和28)年ウエスチングハウス・エレクトリック・インターナショナル社で研修。翌年帰国し、三菱電機 伊丹製作所で電卓用モータの設計技師に復職。1957( 昭和32)年に土井内蔵氏の長女 瑠璃子さんと結婚。1959(昭和34)年に三菱電機を退職し、ロックウェル・インターナシヨナル社のレパブリック工場(ボイラー自動制御システム 部門)に転職。1960( 昭和35)年にイリノイ工科大学の講師に転職。 1969(昭和44)年に土井株式会社の社長に就任。後年は瑠璃子さんと翻訳関連の仕事をし、英語に関する実務書として瑠璃子さんとの共著『使える英語表現』など約30冊を上梓されています。<br />2001年宝塚市において逝去(享年72才)。

    炊事室や湯殿の辺りは平屋建てになっています。

    松本安弘氏は1929(昭和4)年に岡山県に生まれ、1949(昭和24)年に京都大学工学部電気工学科に入学。1953(昭和27)年に卒業後、三菱電機に入社。同年7月に休職してフルブライト交換留学制度の第1期生としてジョージア工科大学に留学。1953(昭和28)年ウエスチングハウス・エレクトリック・インターナショナル社で研修。翌年帰国し、三菱電機 伊丹製作所で電卓用モータの設計技師に復職。1957( 昭和32)年に土井内蔵氏の長女 瑠璃子さんと結婚。1959(昭和34)年に三菱電機を退職し、ロックウェル・インターナシヨナル社のレパブリック工場(ボイラー自動制御システム 部門)に転職。1960( 昭和35)年にイリノイ工科大学の講師に転職。 1969(昭和44)年に土井株式会社の社長に就任。後年は瑠璃子さんと翻訳関連の仕事をし、英語に関する実務書として瑠璃子さんとの共著『使える英語表現』など約30冊を上梓されています。
    2001年宝塚市において逝去(享年72才)。

  • 建物のコンクリート製の基礎は60cmあり、その一部にはモザイクタイルが遺されています。<br />腰壁の南京下見板張りは角の稜線がとても優美です。<br />下見板張りは上下の板を3cmほど重ねてあり、窓に取り付けられるブラインドのような外観を呈しています。これは南京下見板張(鎧張り)技法と言い、これにより雨水の切れを良くし、段差を設けることで雨水が内部に侵入し難い構造に仕立てています。「イギリス下見」や「アメリカ下見」などとも呼ばれ、「ドイツ下見」と比べて施行が比較的容易で、近代日本の洋風住宅の壁材として広く普及した工法といえます。ます。

    建物のコンクリート製の基礎は60cmあり、その一部にはモザイクタイルが遺されています。
    腰壁の南京下見板張りは角の稜線がとても優美です。
    下見板張りは上下の板を3cmほど重ねてあり、窓に取り付けられるブラインドのような外観を呈しています。これは南京下見板張(鎧張り)技法と言い、これにより雨水の切れを良くし、段差を設けることで雨水が内部に侵入し難い構造に仕立てています。「イギリス下見」や「アメリカ下見」などとも呼ばれ、「ドイツ下見」と比べて施行が比較的容易で、近代日本の洋風住宅の壁材として広く普及した工法といえます。ます。

  • 防空壕<br />庭の北西の片隅、斜面を生かした部分に半地下タイプの防空壕が現存しています。<br />一般的な地下を掘ったものではなく、半地下構造の全面コンクリート造シェル構造のヴォールト屋根を持つ小さな防空壕です。

    防空壕
    庭の北西の片隅、斜面を生かした部分に半地下タイプの防空壕が現存しています。
    一般的な地下を掘ったものではなく、半地下構造の全面コンクリート造シェル構造のヴォールト屋根を持つ小さな防空壕です。

  • 防空壕<br />太平洋戦争中に防空壕として設けられました。<br />土井内臓氏は米国生活が長く、米軍が投下する焼夷弾が延焼させることを主目的とした武器であることを熟知しており、耐熱性のあるコンクリート造りの方がより安全との考え方があったようです。

    防空壕
    太平洋戦争中に防空壕として設けられました。
    土井内臓氏は米国生活が長く、米軍が投下する焼夷弾が延焼させることを主目的とした武器であることを熟知しており、耐熱性のあるコンクリート造りの方がより安全との考え方があったようです。

  • 防空壕<br />入口の形状はアーチ状でお洒落です。<br />戦争と言う怒りと恐怖の間における、せめてもの慰みと言うことでしょう。

    防空壕
    入口の形状はアーチ状でお洒落です。
    戦争と言う怒りと恐怖の間における、せめてもの慰みと言うことでしょう。

  • 防空壕<br />薄肉シェル屋根の2ヶ所に丸い開口部を設けて採光用のトップライト(天窓)を構成しています。<br />

    防空壕
    薄肉シェル屋根の2ヶ所に丸い開口部を設けて採光用のトップライト(天窓)を構成しています。

  • 防空壕<br />硝子には亀甲網の硝子(亀甲硝子)が用いられています。<br /><br />

    防空壕
    硝子には亀甲網の硝子(亀甲硝子)が用いられています。

  • 防空壕<br />シェル天井の中央部には分厚いリブを這わせて補強しています。<br />内部の高さは十分すぎるほど取られ、圧迫感を緩和しています。

    防空壕
    シェル天井の中央部には分厚いリブを這わせて補強しています。
    内部の高さは十分すぎるほど取られ、圧迫感を緩和しています。

  • 防空壕<br />ブドウ池側の壁面にはリズミカルに3つの開口部を設け、その3つ窓や入口扉、そして小さなベンチレータ(通気口)の丸穴に至るまで、その上部にはセメントで小庇を設ける凝り様です。こうした防空壕に凝らされた配慮、あるいは遊び心には建築家魂が感じられます。

    防空壕
    ブドウ池側の壁面にはリズミカルに3つの開口部を設け、その3つ窓や入口扉、そして小さなベンチレータ(通気口)の丸穴に至るまで、その上部にはセメントで小庇を設ける凝り様です。こうした防空壕に凝らされた配慮、あるいは遊び心には建築家魂が感じられます。

  • ワインセラー<br />アイビーが周囲を覆う、重厚感のある玉石組みの天然ワインセラーです。

    ワインセラー
    アイビーが周囲を覆う、重厚感のある玉石組みの天然ワインセラーです。

  • ワインセラー<br />このように地上にあるワインセラーは英語で「wine room」とも呼ばれます。扉の色も建物全体にアクセントとして採用されている緑青色系でコーディネートされています。谷崎潤一郎著『細雪』に登場する阪神間プチブルの優雅な暮らしぶりが目に浮かんでくるようです。

    ワインセラー
    このように地上にあるワインセラーは英語で「wine room」とも呼ばれます。扉の色も建物全体にアクセントとして採用されている緑青色系でコーディネートされています。谷崎潤一郎著『細雪』に登場する阪神間プチブルの優雅な暮らしぶりが目に浮かんでくるようです。

  • ワインセラー<br />ワインの保存に最適な温度は13℃であり、フランスでワインの保存に使用された洞窟の温度がそれに近く、この温度は短期貯蔵と長期熟成の双方に適しているとされます。実際にこのような温度管理がこのワインセラーで可能だったかどうかについては懐疑的なところもあります。

    ワインセラー
    ワインの保存に最適な温度は13℃であり、フランスでワインの保存に使用された洞窟の温度がそれに近く、この温度は短期貯蔵と長期熟成の双方に適しているとされます。実際にこのような温度管理がこのワインセラーで可能だったかどうかについては懐疑的なところもあります。

  • ワインセラー<br />一部の壁が剥がれて玉石組みが剥き出しになっています。

    ワインセラー
    一部の壁が剥がれて玉石組みが剥き出しになっています。

  • 左から、女中室、湯殿、化粧室と並んでいます。<br />屋根瓦には黒色ながらS字瓦葺が施され、スパニッシュスタイルの影響も見て取れます。<br />

    左から、女中室、湯殿、化粧室と並んでいます。
    屋根瓦には黒色ながらS字瓦葺が施され、スパニッシュスタイルの影響も見て取れます。

  • 左側の並びの1階が瑠璃子さんの勉強室、2階が寝室です。

    左側の並びの1階が瑠璃子さんの勉強室、2階が寝室です。

  • 太平洋戦争時、宝塚には川西航空機(株)宝塚製作所があり、1945年7月24日にB29と小型戦闘機合わせて約150機から爆弾が投下されたそうです。<br />その被害は工場のみに留まらず、その周辺と仁川・段上・神呪方面の西宮市域にも及び、宝塚市域良元村の調査では、死者23人をはじめ、重傷者と家屋の全壊・半壊もかなりあったようです。負傷者は宝塚第一・良元両国民学校に収容され、そこが救護所に当てられました。<br />そんな状況の中、こうした近代洋風邸宅が焼け残ったのは奇跡としか言いようがありません。<br />この続きは青嵐薫風 北摂宝塚逍遙③手塚治虫記念館でお届けいたします。

    太平洋戦争時、宝塚には川西航空機(株)宝塚製作所があり、1945年7月24日にB29と小型戦闘機合わせて約150機から爆弾が投下されたそうです。
    その被害は工場のみに留まらず、その周辺と仁川・段上・神呪方面の西宮市域にも及び、宝塚市域良元村の調査では、死者23人をはじめ、重傷者と家屋の全壊・半壊もかなりあったようです。負傷者は宝塚第一・良元両国民学校に収容され、そこが救護所に当てられました。
    そんな状況の中、こうした近代洋風邸宅が焼け残ったのは奇跡としか言いようがありません。
    この続きは青嵐薫風 北摂宝塚逍遙③手塚治虫記念館でお届けいたします。

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