耶馬溪・中津・玖珠旅行記(ブログ) 一覧に戻る
2014年11月26日から12月1日まで5泊6日で<br />九州大分県中津から高千穂、宮崎日南青の洞門、古都飫肥など訪れ、<br />カエデ、ドウタンツツジの紅葉が真っ赤に染まり、<br />黄色の銀杏の落ち葉を踏みしめながら晩秋の東九州を楽しんだ。<br /><br />九州の旅のテーマは;<br />・黒田官兵衛ゆかりの中津城を中心に中津市内を散策<br />・君が代の歌詞にある高千穂岩戸神社境内のある「さざれ石」を見学<br />・高千穂神社で夜神楽を見学<br />・宮崎日南海岸、青島、古都飫肥などを訪ねる<br />・菊池寛の小説、「恩讐の彼方に」の題材になった青の洞門を訪ねる<br />・往年のプロゴルファーが戦ったフェニックスカントリークラブを訪ねる<br /><br />そのために組んだ旅程は<br /> 第1日目	 11月26日(水)	 成田~大分~中津<br /> 第2日目	 11月27日(木)	 中津(耶馬溪ツアー参加)<br /> 第3日目	 11月28日(金)	 中津~延岡~高千穂<br /> 第4日目	 11月29日(土)	 高千穂~延岡~宮崎<br /> 第5日目	 11月30日(日)	 宮崎(日南、飫肥観光ツアー参加)<br /> 第6日目	 12月 1日(月)	 宮崎~鹿児島~成田<br /><br /><br /><br />

想い出の旅13 九州縦断の旅(2)       中津

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2014/11/26 - 2014/12/01

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リュック

リュックさん

2014年11月26日から12月1日まで5泊6日で
九州大分県中津から高千穂、宮崎日南青の洞門、古都飫肥など訪れ、
カエデ、ドウタンツツジの紅葉が真っ赤に染まり、
黄色の銀杏の落ち葉を踏みしめながら晩秋の東九州を楽しんだ。

九州の旅のテーマは;
・黒田官兵衛ゆかりの中津城を中心に中津市内を散策
・君が代の歌詞にある高千穂岩戸神社境内のある「さざれ石」を見学
・高千穂神社で夜神楽を見学
・宮崎日南海岸、青島、古都飫肥などを訪ねる
・菊池寛の小説、「恩讐の彼方に」の題材になった青の洞門を訪ねる
・往年のプロゴルファーが戦ったフェニックスカントリークラブを訪ねる

そのために組んだ旅程は
第1日目 11月26日(水) 成田~大分~中津
第2日目 11月27日(木) 中津(耶馬溪ツアー参加)
第3日目 11月28日(金) 中津~延岡~高千穂
第4日目 11月29日(土) 高千穂~延岡~宮崎
第5日目 11月30日(日) 宮崎(日南、飫肥観光ツアー参加)
第6日目 12月 1日(月) 宮崎~鹿児島~成田



  • 第1日目 11月26日(水)<br />  07:00	 Lv. 自宅<br />  08:00	 Av 成田ガレージ <br />  09:10	 Lv.成田空港<br />  11:00	 Av 大分空港<br />  11:43	 Lv. 大分空港(杵築行路線バス)<br />  12:13	 Av, 杵築バスターミナル <br /> 12:16	 Lv. 杵築バスターミナルタクシー) <br />  12:10	 Av 中津駅<br />  12:34	 Lv. 杵築駅 ソニック30号<br />  13:04	 Av 中津駅<br />  13:10~15:10	 中津市内観光(ガイドと一緒)<br />  15:10	 Lv 中津駅 宿お迎え<br />  15:30	 泊 こがね山荘 <br />九州の旅は大分、鹿児島空港が拠点になる。これらの空港へのアクセスは<br />自宅から成田空港経由で3時間弱である。<br />自宅から都心に出る時間に近く、費用もほぼ同程度。<br />いつでも気楽に行ける。便利になったものだ。<br />朝7時に家を出る。<br />雨!天気予報ではこの一週間九州地方の天候は良くない。<br />雨の日が多いらしい。<br />家から車で東関東自動車道、四街道ICに向かう。<br />この時間帯は通勤ラッシュで道路が混むのではないかと心配し早めに家をでた。<br />しかし、渋滞がなくスムースに四街道ICに入る。<br />東関東自動車道は大型トレーラーが多く、<br />水しぶきをまき散らしながら走っている。視界が遮られる。<br />注意して走行。<br />成田ICからすぐにある民間の成田ガレージに早めに到着。<br />ここに車を預け、成田空港まで送ってもらう。とても便利。<br />成田空港でLCC JETSTAR出発ロビーに向かう。<br />WEB CHECK-INで事前に印刷した搭乗券を出発ゲートで示し<br />手荷物検査を受け出発ロビーへ。<br />出発ロビーへの通路、出発ロビーは前回利用時に比べ内装が<br />良くなっている。今までは倉庫のような殺風景な内装だった。<br />搭乗案内が始まるまで可なり時間がある。<br />売店で新聞を買い、前回同様に朝食としてうどんをすする。<br />ここは安くてうまい。搭乗案内開始。<br />係員が搭乗券に記されたバーコードを読み込みOK. <br />ここからバスで搭乗機に向かう。<br />LCCは航空運賃が安いので、経費節減であろう、<br />ターミナルから直接機内に乗り込めない。<br />ターミナルから搭乗機までバスで行く。<br />今日はJALとの共同運航とのことで座席はほぼ満席。<br />我々は割り増し料金を払って前方の席を予約しておいた。<br />成田を9時10分に出発。<br />天候が悪いのにもかかわらず静かな飛行で新聞を読み、<br />お茶を飲んでいる間に大分に11時到着。<br />大分空港から路線バスで杵築バスターミナルに行き、<br />タクシーでJR杵築駅に向かう。<br />杵築バスターミナルから杵築駅まで路線バスがあるが、<br />これを利用すると、<br />杵築駅で特急ソニック30号への乗り継ぎ時間が少ないので、<br />タクシーを利用した。<br />12時34分、杵築から特急ソニック30号で中津に13時4分到着。<br />中津改札出口で中津市内ガイドをお願いしたEさんが待っていてくれた。<br />荷物をコインロッカーに預け出発。<br />Eさんは中津観光協会のスタッフで<br />市内の観光ガイドをボランティアで行っている。<br />大分では曇りであったが中津に到着したころから雨になった。<br />よく外れる天気予報も今日は予報通り。<br />中津市内も例外ではなく、町全体はひっそりとして、<br />人影はほとんどなく、往来する車は軽自動車がほとんど。<br />街中のいたるところに黒田官兵衛ののぼり旗が立てられ<br />町おこしのキャンペーンをしていた。<br />町行く人は少ないが、<br />いくつかの観光客グループがガイドさんの引率で歩いていた。<br />中津市は城下町で大分市、<br />別府市に次いで人口が大分県内で3番目に多い都市である。<br />目下放映中のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にでる話題の地とあって<br />かなりの観光客が訪れている。<br />中津駅から中津城に向かって市街地を歩く。<br />この辺りは歴史的な雰囲気はなく、一般的などこにでもある風景。<br />しばらく歩くと寺町に出る。<br />このあたりは中津城を囲むようにたくさんの寺がある。<br />そしてユニークな由来がある寺が多い。

    第1日目 11月26日(水)
    07:00  Lv. 自宅
    08:00  Av 成田ガレージ 
    09:10  Lv.成田空港
    11:00  Av 大分空港
    11:43  Lv. 大分空港(杵築行路線バス)
    12:13  Av, 杵築バスターミナル 
     12:16  Lv. 杵築バスターミナルタクシー) 
    12:10  Av 中津駅
    12:34  Lv. 杵築駅 ソニック30号
    13:04  Av 中津駅
    13:10~15:10  中津市内観光(ガイドと一緒)
    15:10  Lv 中津駅 宿お迎え
    15:30  泊 こがね山荘 
    九州の旅は大分、鹿児島空港が拠点になる。これらの空港へのアクセスは
    自宅から成田空港経由で3時間弱である。
    自宅から都心に出る時間に近く、費用もほぼ同程度。
    いつでも気楽に行ける。便利になったものだ。
    朝7時に家を出る。
    雨!天気予報ではこの一週間九州地方の天候は良くない。
    雨の日が多いらしい。
    家から車で東関東自動車道、四街道ICに向かう。
    この時間帯は通勤ラッシュで道路が混むのではないかと心配し早めに家をでた。
    しかし、渋滞がなくスムースに四街道ICに入る。
    東関東自動車道は大型トレーラーが多く、
    水しぶきをまき散らしながら走っている。視界が遮られる。
    注意して走行。
    成田ICからすぐにある民間の成田ガレージに早めに到着。
    ここに車を預け、成田空港まで送ってもらう。とても便利。
    成田空港でLCC JETSTAR出発ロビーに向かう。
    WEB CHECK-INで事前に印刷した搭乗券を出発ゲートで示し
    手荷物検査を受け出発ロビーへ。
    出発ロビーへの通路、出発ロビーは前回利用時に比べ内装が
    良くなっている。今までは倉庫のような殺風景な内装だった。
    搭乗案内が始まるまで可なり時間がある。
    売店で新聞を買い、前回同様に朝食としてうどんをすする。
    ここは安くてうまい。搭乗案内開始。
    係員が搭乗券に記されたバーコードを読み込みOK. 
    ここからバスで搭乗機に向かう。
    LCCは航空運賃が安いので、経費節減であろう、
    ターミナルから直接機内に乗り込めない。
    ターミナルから搭乗機までバスで行く。
    今日はJALとの共同運航とのことで座席はほぼ満席。
    我々は割り増し料金を払って前方の席を予約しておいた。
    成田を9時10分に出発。
    天候が悪いのにもかかわらず静かな飛行で新聞を読み、
    お茶を飲んでいる間に大分に11時到着。
    大分空港から路線バスで杵築バスターミナルに行き、
    タクシーでJR杵築駅に向かう。
    杵築バスターミナルから杵築駅まで路線バスがあるが、
    これを利用すると、
    杵築駅で特急ソニック30号への乗り継ぎ時間が少ないので、
    タクシーを利用した。
    12時34分、杵築から特急ソニック30号で中津に13時4分到着。
    中津改札出口で中津市内ガイドをお願いしたEさんが待っていてくれた。
    荷物をコインロッカーに預け出発。
    Eさんは中津観光協会のスタッフで
    市内の観光ガイドをボランティアで行っている。
    大分では曇りであったが中津に到着したころから雨になった。
    よく外れる天気予報も今日は予報通り。
    中津市内も例外ではなく、町全体はひっそりとして、
    人影はほとんどなく、往来する車は軽自動車がほとんど。
    街中のいたるところに黒田官兵衛ののぼり旗が立てられ
    町おこしのキャンペーンをしていた。
    町行く人は少ないが、
    いくつかの観光客グループがガイドさんの引率で歩いていた。
    中津市は城下町で大分市、
    別府市に次いで人口が大分県内で3番目に多い都市である。
    目下放映中のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」にでる話題の地とあって
    かなりの観光客が訪れている。
    中津駅から中津城に向かって市街地を歩く。
    この辺りは歴史的な雰囲気はなく、一般的などこにでもある風景。
    しばらく歩くと寺町に出る。
    このあたりは中津城を囲むようにたくさんの寺がある。
    そしてユニークな由来がある寺が多い。

  • 中津の城下町としての歴史は、<br />1587年に黒田官兵衛孝高が豊臣秀吉から<br />豊前6郡(京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐)の16万石と<br />馬ヶ岳城(福岡県行橋市)が与えられた後に、<br />拠点を山国川河口部に移し中津城を築城したところから始まる。<br />市街地がほぼ完成したのは1600年代中頃とされる。<br />城主は後に細川・小笠原を経て、<br />1717年(享保2年)に奥平が入封し明治維新を迎える。<br />その後城は取り壊され、現在は石垣のみが当時の面影を残している。<br /><br />・赤壁の寺 <br />最初に訪れたのは合元寺。<br />駅からまっすぐに歩き、四つ角の左側に突然赤壁の山門が現れた。<br />写真で見た印象と少し異なる。<br />赤壁の塀、山門、本堂などはこじんまりした感じだ。<br />確かに他の寺は白い漆喰が塗られているがここの壁は赤、<br />いや、赤黒い、まさに血の色だ。<br />中津の郷土史を語る会の説明を要約すると;<br />赤壁 合元寺(ごうがんじ) 通称「赤壁」といわれるこの寺は、<br />浄土宗西山派。<br />開山空誉上人は、天正15年(1587年)黒田孝高(如水、黒田官兵衛)<br />に従って姫路から中津に来た。<br />その後、天正17年4月、孝高が前領主、宇都宮鎮房(しげふさ)を<br />謀略結婚により中津城内に誘殺したとき、<br />その従臣らが中津城を脱出し、<br />この寺を拠点として戦い最期をとげた。<br />以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、<br />遂に赤色に塗られるようになった。<br />当時の激戦の様子は<br />現在も庫裏(くり)の大黒柱に刃痕が点々と残されている。

    中津の城下町としての歴史は、
    1587年に黒田官兵衛孝高が豊臣秀吉から
    豊前6郡(京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐)の16万石と
    馬ヶ岳城(福岡県行橋市)が与えられた後に、
    拠点を山国川河口部に移し中津城を築城したところから始まる。
    市街地がほぼ完成したのは1600年代中頃とされる。
    城主は後に細川・小笠原を経て、
    1717年(享保2年)に奥平が入封し明治維新を迎える。
    その後城は取り壊され、現在は石垣のみが当時の面影を残している。

    ・赤壁の寺 
    最初に訪れたのは合元寺。
    駅からまっすぐに歩き、四つ角の左側に突然赤壁の山門が現れた。
    写真で見た印象と少し異なる。
    赤壁の塀、山門、本堂などはこじんまりした感じだ。
    確かに他の寺は白い漆喰が塗られているがここの壁は赤、
    いや、赤黒い、まさに血の色だ。
    中津の郷土史を語る会の説明を要約すると;
    赤壁 合元寺(ごうがんじ) 通称「赤壁」といわれるこの寺は、
    浄土宗西山派。
    開山空誉上人は、天正15年(1587年)黒田孝高(如水、黒田官兵衛)
    に従って姫路から中津に来た。
    その後、天正17年4月、孝高が前領主、宇都宮鎮房(しげふさ)を
    謀略結婚により中津城内に誘殺したとき、
    その従臣らが中津城を脱出し、
    この寺を拠点として戦い最期をとげた。
    以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、
    遂に赤色に塗られるようになった。
    当時の激戦の様子は
    現在も庫裏(くり)の大黒柱に刃痕が点々と残されている。

  • 画像では分かりにくいが確かに庫裡の柱には<br />深い傷がいくつか残されていた。<br />また、戦死した宇都宮家の家臣は合葬し、<br />寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。<br />その空誉上人は、宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、<br />文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、<br />後事をおそれ、慶長16年、黒田長政に福岡城で誘殺された。<br />という哀史を秘めた寺である。

    画像では分かりにくいが確かに庫裡の柱には
    深い傷がいくつか残されていた。
    また、戦死した宇都宮家の家臣は合葬し、
    寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。
    その空誉上人は、宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、
    文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、
    後事をおそれ、慶長16年、黒田長政に福岡城で誘殺された。
    という哀史を秘めた寺である。

  • 中津には河童にまつわる話が多い。<br />円応寺に河童のお墓がある。しかも戒名がついている。<br />今からおよそ300年前、<br />円応寺には静誉寂玄上人(せいよじゃくげんしょうにん)という僧がいた。<br />そのころ、九州一帯は日照り続きで、<br />百姓たちは苦しい生活をしていた。<br />そんなとき、上人は川で河童が相撲を取って遊んでいるのを見かけ、<br />「人々が苦しんでいることも知らずに遊び暮らしている、<br />あわれな河童どもよ」とつぶやいた。<br />その言葉に食ってかかった河童の頭領に上人は、<br />この世は楽しいことばかりではなく、苦しみや悲しみも多いことを<br />やさしく話して聞かせた。<br />それから数日後、寺にたくさんの河童たちが訪れた。<br />頭領らしき3匹の河童たちは上人の言葉に心を打たれたこと、<br />後世の人に敬われたいと思い、上人に教えを願い出ました。<br />上人は河童たちを本堂に招き入れ、<br />河童たちは30日余りの修業を受け、<br />上人は頭領の3匹の河童に戒名を与えた。<br />河童たちは、これから寺を火の災いから守りたいと申し出、<br />その代りに頭の皿が乾かないように境内に池を掘ってほしいと<br />上人に頼んだ。<br />その後、付近に火事があると、<br />円応寺の瓦に刻み込まれた「水」という字から、<br />不思議なことに水が噴き出て寺は火災を免れたという。<br />今でも河童の池は円応寺の境内に墓とともに残っている。<br />円応寺の他に自性寺にも河童の墓がある。<br />かように中津は河童にまつわる話が多い。

    中津には河童にまつわる話が多い。
    円応寺に河童のお墓がある。しかも戒名がついている。
    今からおよそ300年前、
    円応寺には静誉寂玄上人(せいよじゃくげんしょうにん)という僧がいた。
    そのころ、九州一帯は日照り続きで、
    百姓たちは苦しい生活をしていた。
    そんなとき、上人は川で河童が相撲を取って遊んでいるのを見かけ、
    「人々が苦しんでいることも知らずに遊び暮らしている、
    あわれな河童どもよ」とつぶやいた。
    その言葉に食ってかかった河童の頭領に上人は、
    この世は楽しいことばかりではなく、苦しみや悲しみも多いことを
    やさしく話して聞かせた。
    それから数日後、寺にたくさんの河童たちが訪れた。
    頭領らしき3匹の河童たちは上人の言葉に心を打たれたこと、
    後世の人に敬われたいと思い、上人に教えを願い出ました。
    上人は河童たちを本堂に招き入れ、
    河童たちは30日余りの修業を受け、
    上人は頭領の3匹の河童に戒名を与えた。
    河童たちは、これから寺を火の災いから守りたいと申し出、
    その代りに頭の皿が乾かないように境内に池を掘ってほしいと
    上人に頼んだ。
    その後、付近に火事があると、
    円応寺の瓦に刻み込まれた「水」という字から、
    不思議なことに水が噴き出て寺は火災を免れたという。
    今でも河童の池は円応寺の境内に墓とともに残っている。
    円応寺の他に自性寺にも河童の墓がある。
    かように中津は河童にまつわる話が多い。

  • ・自性寺 河童の詫び状<br />自性禅寺大雅堂の案内書参考<br />自性禅寺は、奥平藩歴代の菩提寺で、<br />天正五年(1577年)三河国に梅心宗鉄を開山として<br />金剛山万松寺として創建された。<br />開基は藩祖奥平でその後いく度か藩の国替えで移り、<br />享保二年(1717年)六代藩主昌成の時中津に国替え、<br />七世秀巖和尚を伴って中津に住む。延享二年(1745年)自性寺と改称。

    ・自性寺 河童の詫び状
    自性禅寺大雅堂の案内書参考
    自性禅寺は、奥平藩歴代の菩提寺で、
    天正五年(1577年)三河国に梅心宗鉄を開山として
    金剛山万松寺として創建された。
    開基は藩祖奥平でその後いく度か藩の国替えで移り、
    享保二年(1717年)六代藩主昌成の時中津に国替え、
    七世秀巖和尚を伴って中津に住む。延享二年(1745年)自性寺と改称。

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  • 河童の墓と天明六年(1786年)六月二六日<br />ニケンビキ太郎(二十二才)が書いたという詫び状が残っている。<br />詫び状には<br />「自性寺に法花経(法華経)をあげておくれなさい。<br />今後は人にわざわいいたしません。<br />中津の人にわざわいいたしません。<br />女子にふたたびさわりません」と書いてあるらしい。<br />さてこの河童の話の内容は?『大分の伝説』梅木秀徳著によると;<br />当時、真玉町の、真玉寺に恵欣という十二歳の小僧がいた。<br />宇佐市四日市の農家の出身で、<br />家が貧しいため奉公に来ていたが、<br />ある日、庭の掃除をしている時、<br />いたずら心で境内の池に小石を投げ込んだ。<br />ところが運悪く、その小石が池にいたカッパの頭に当たり、<br />皿を割ってしまった。<br />ベンキン太郎は血だらけの頭で形相ものすごく池の中に立ち上がり、<br />小僧をにらみつけて恨みながら息絶えた。<br />ベンキン太郎は、そのころ豊前から豊後北部にかけ、<br />山国川を根拠地としていたカッパの一族。<br />訃報はたちまち広まった。<br />「人のいたずらが、われわれの仲間の一人を殺した」ということで<br />カッパ一族は恵欣にたたろうということになった。<br />玖珠の淀淵七郎坊、知恵者の六郎坊、大力の四郎坊らが集まり、<br />さらには筑後川の九千坊一族に応援を求め、<br />ベンキン太郎の長男であるケンビキ太郎を励まし、<br />小僧に呪いをかけ始めた。<br />真玉寺の覚道和尚は徳のある人で、<br />仏道によってカッパたちの悲しみをつぐなおうと毎朝供養を続けたが、<br />カッパ族の呪いは強く、とうとう恵欣に取りついてしまった。<br />彼は夜ごとうなされ、昼は食物ものどを通らず泣き叫び、<br />ついにはからだの自由もきかない廃人同様になってしまった。<br />覚道和尚は、それでもなんとか救ってやりたいと、<br />四日市にいる父親の利右衛門を呼んで、<br />ともに祈願をしたり薬を飲ませたりしたが、全くよくならない。<br />やむなく実家に帰らせて、しばらく様子をみることにした。<br />そんな時、自性寺にいた僧の一人が托鉢の途中でこの話を耳にし、<br />利右衛門の家を訪ねた。<br />事情を聞いた僧は、「年若くしてかわいそうなことだ。<br />いたずらでカッパを死なせたとはいえ、悪気があってのことではない。<br />カッパたちの気持ちも解らないではないが、あまりにむごい。<br />自性寺には海門和尚もいることだし、<br />一度相談に来るがよい」と言った。<br />数日後、利右衛門は恵欣を連れて自性寺を訪れた。<br />海門和尚が会ってみると、恵欣は身ぶりもカッパに似ている。<br />そこで一室に招き入れ、彼にとりついているカッパに説教を始めた。<br />最初のうちはカッパが説教に耳を傾ける様子はなかったが、<br />毎日経を読んではベンキン太郎の供養をし、<br />「ケンビキ太郎よ。父があわれな死にかたをしたといって、<br />ただ悲しみ、人にとりついていただけではなんにもならない。<br />むしろ父の霊をなぐさめ、供養することによって<br />自分自身も仏の道に従うことが大切だ」と教えてさとすうちに、<br />カッパの心もやわらいできた。<br />こうして般若心経をよむこと数百回にして、<br />ついにカッパ族も呪術を解き仏道に帰依した。<br />その結果、ケンビキ太郎はじめ四十匹のカッパが<br />わび証文を書くことになったという。<br />恵欣が元通りのからだになった。

    河童の墓と天明六年(1786年)六月二六日
    ニケンビキ太郎(二十二才)が書いたという詫び状が残っている。
    詫び状には
    「自性寺に法花経(法華経)をあげておくれなさい。
    今後は人にわざわいいたしません。
    中津の人にわざわいいたしません。
    女子にふたたびさわりません」と書いてあるらしい。
    さてこの河童の話の内容は?『大分の伝説』梅木秀徳著によると;
    当時、真玉町の、真玉寺に恵欣という十二歳の小僧がいた。
    宇佐市四日市の農家の出身で、
    家が貧しいため奉公に来ていたが、
    ある日、庭の掃除をしている時、
    いたずら心で境内の池に小石を投げ込んだ。
    ところが運悪く、その小石が池にいたカッパの頭に当たり、
    皿を割ってしまった。
    ベンキン太郎は血だらけの頭で形相ものすごく池の中に立ち上がり、
    小僧をにらみつけて恨みながら息絶えた。
    ベンキン太郎は、そのころ豊前から豊後北部にかけ、
    山国川を根拠地としていたカッパの一族。
    訃報はたちまち広まった。
    「人のいたずらが、われわれの仲間の一人を殺した」ということで
    カッパ一族は恵欣にたたろうということになった。
    玖珠の淀淵七郎坊、知恵者の六郎坊、大力の四郎坊らが集まり、
    さらには筑後川の九千坊一族に応援を求め、
    ベンキン太郎の長男であるケンビキ太郎を励まし、
    小僧に呪いをかけ始めた。
    真玉寺の覚道和尚は徳のある人で、
    仏道によってカッパたちの悲しみをつぐなおうと毎朝供養を続けたが、
    カッパ族の呪いは強く、とうとう恵欣に取りついてしまった。
    彼は夜ごとうなされ、昼は食物ものどを通らず泣き叫び、
    ついにはからだの自由もきかない廃人同様になってしまった。
    覚道和尚は、それでもなんとか救ってやりたいと、
    四日市にいる父親の利右衛門を呼んで、
    ともに祈願をしたり薬を飲ませたりしたが、全くよくならない。
    やむなく実家に帰らせて、しばらく様子をみることにした。
    そんな時、自性寺にいた僧の一人が托鉢の途中でこの話を耳にし、
    利右衛門の家を訪ねた。
    事情を聞いた僧は、「年若くしてかわいそうなことだ。
    いたずらでカッパを死なせたとはいえ、悪気があってのことではない。
    カッパたちの気持ちも解らないではないが、あまりにむごい。
    自性寺には海門和尚もいることだし、
    一度相談に来るがよい」と言った。
    数日後、利右衛門は恵欣を連れて自性寺を訪れた。
    海門和尚が会ってみると、恵欣は身ぶりもカッパに似ている。
    そこで一室に招き入れ、彼にとりついているカッパに説教を始めた。
    最初のうちはカッパが説教に耳を傾ける様子はなかったが、
    毎日経を読んではベンキン太郎の供養をし、
    「ケンビキ太郎よ。父があわれな死にかたをしたといって、
    ただ悲しみ、人にとりついていただけではなんにもならない。
    むしろ父の霊をなぐさめ、供養することによって
    自分自身も仏の道に従うことが大切だ」と教えてさとすうちに、
    カッパの心もやわらいできた。
    こうして般若心経をよむこと数百回にして、
    ついにカッパ族も呪術を解き仏道に帰依した。
    その結果、ケンビキ太郎はじめ四十匹のカッパが
    わび証文を書くことになったという。
    恵欣が元通りのからだになった。

  • 中津市内の寺町には特徴があり、興味深い寺が多い。<br />円龍寺 閻魔大王の寺<br />円龍寺にある閻魔像は、檀家の武士が旅先で<br />閻魔大王への懺悔と信仰によって、仏道に入り、<br />山国川河畔に造りのちに円龍寺に移されたと言われている。<br />門を入って左手に観音堂・閻魔堂がある。

    中津市内の寺町には特徴があり、興味深い寺が多い。
    円龍寺 閻魔大王の寺
    円龍寺にある閻魔像は、檀家の武士が旅先で
    閻魔大王への懺悔と信仰によって、仏道に入り、
    山国川河畔に造りのちに円龍寺に移されたと言われている。
    門を入って左手に観音堂・閻魔堂がある。

  • その右手奥に閻魔大王と<br />葬頭河婆(そうずかのうば)(奪衣婆(だつえば))が安置されており、<br />老若男女から恐れられ、親しまれ、<br />大衆を仏心に導くという民俗信仰が伝えられている。<br />境内の墓地には小笠原家・奥平家の家臣や<br />神戸高等商業学校(神戸大学の前身)創立者で<br />初代校長の水島銕也(てつや)、<br />南画の片山九畹(きゅうえん)らの墓がある。

    その右手奥に閻魔大王と
    葬頭河婆(そうずかのうば)(奪衣婆(だつえば))が安置されており、
    老若男女から恐れられ、親しまれ、
    大衆を仏心に導くという民俗信仰が伝えられている。
    境内の墓地には小笠原家・奥平家の家臣や
    神戸高等商業学校(神戸大学の前身)創立者で
    初代校長の水島銕也(てつや)、
    南画の片山九畹(きゅうえん)らの墓がある。

  • 西蓮寺 黒田官兵衛ゆかりの寺 <br />天正16年(1588年)に光心師によって開山。<br />光心師の俗名は、黒田市右衛門(いちえもん)であり、<br />黒田官兵衛の末弟で、<br />父・黒田美濃守職隆(みののかみもとたか)の死後出家した。<br />官兵衛が播州から中津に国替えの際、<br />兄・官兵衛を慕い共に中津に入り、寺町に西蓮寺を建立し<br />初代住職となった。<br />現在の本堂は天保14年(1844年)に再建されたもので、<br />金剛棟札によると発起人は<br />8才の童子・播磨屋助次郎(はりまやすけじろう)となっている。<br />この童子が山国川から小石を運び、<br />立派な本堂を建てる用意をしていることを聞いた<br />総代・小畑親民(おばたちかたみ)は深く感激し、<br />財を投じて再建に尽力したと言われている。

    西蓮寺 黒田官兵衛ゆかりの寺 
    天正16年(1588年)に光心師によって開山。
    光心師の俗名は、黒田市右衛門(いちえもん)であり、
    黒田官兵衛の末弟で、
    父・黒田美濃守職隆(みののかみもとたか)の死後出家した。
    官兵衛が播州から中津に国替えの際、
    兄・官兵衛を慕い共に中津に入り、寺町に西蓮寺を建立し
    初代住職となった。
    現在の本堂は天保14年(1844年)に再建されたもので、
    金剛棟札によると発起人は
    8才の童子・播磨屋助次郎(はりまやすけじろう)となっている。
    この童子が山国川から小石を運び、
    立派な本堂を建てる用意をしていることを聞いた
    総代・小畑親民(おばたちかたみ)は深く感激し、
    財を投じて再建に尽力したと言われている。

  • 浄安寺<br />小笠原長継の菩提を弔うため小笠原政直が建立、<br />山号は正寿山、浄土宗の寺院。<br />寛永17(1640)年、小笠原長次の祖父、小笠原貞慶の従弟、<br />小笠原長継の菩提を弔うため、長男の小笠原政直が建立した。<br />現在の本堂は文化8(1811)年、<br />舟町の豪商井筒屋勘之助高道の寄進により、再建した。<br />境内には富士紡績で活躍した和田豊治の墓、<br />福沢諭吉が養子になったこともある叔父 中村術平の墓、<br />中津藩の祐筆で書家の磯田崇山、東郭の墓、書家の中村寿山の墓がある。<br />浄安寺の本尊(木造阿弥陀(あみだ)如来立像)が、<br />平安時代後期の作だったことが、<br />仏教美術が専門の渡辺文雄別府大教授の調査で分かった。<br />木像はヒノキの寄せ木造り。高さ76・2センチの小像。<br />全体から繊細で手慣れた彫技がうかがえ、<br />彫眼やバランスの良い形勢、<br />面相などから、「鎌倉彫刻成立以前の和様による造形感覚が顕著。<br />銘は無かったが、12世紀半ばから後半に、<br />京都辺りの正系仏師が手掛けたものと考えられる」という。<br />同寺は1640年、小笠原政直が<br />亡き長継(小笠原信貞の子)のために建立した。<br />このため「伝来は不明だが、木像の出来は素晴らしく、<br />小笠原氏がゆかりの仏像を中津入部(1632年)の際に<br />持ち込んだものだと思う」と渡辺教授。<br />残念ながら本尊の画像が無く拝見できず残念。<br />現在の本堂は天保14年(1844年)に再建されたもので、<br />金剛棟札によると発起人は<br />8才の童子・播磨屋助次郎(はりまやすけじろう)となっている。<br />再建当時の藩主であった第8代・奥平昌服(まさもと)が<br />茶会を催したり、能が舞われた場所でもある。

    浄安寺
    小笠原長継の菩提を弔うため小笠原政直が建立、
    山号は正寿山、浄土宗の寺院。
    寛永17(1640)年、小笠原長次の祖父、小笠原貞慶の従弟、
    小笠原長継の菩提を弔うため、長男の小笠原政直が建立した。
    現在の本堂は文化8(1811)年、
    舟町の豪商井筒屋勘之助高道の寄進により、再建した。
    境内には富士紡績で活躍した和田豊治の墓、
    福沢諭吉が養子になったこともある叔父 中村術平の墓、
    中津藩の祐筆で書家の磯田崇山、東郭の墓、書家の中村寿山の墓がある。
    浄安寺の本尊(木造阿弥陀(あみだ)如来立像)が、
    平安時代後期の作だったことが、
    仏教美術が専門の渡辺文雄別府大教授の調査で分かった。
    木像はヒノキの寄せ木造り。高さ76・2センチの小像。
    全体から繊細で手慣れた彫技がうかがえ、
    彫眼やバランスの良い形勢、
    面相などから、「鎌倉彫刻成立以前の和様による造形感覚が顕著。
    銘は無かったが、12世紀半ばから後半に、
    京都辺りの正系仏師が手掛けたものと考えられる」という。
    同寺は1640年、小笠原政直が
    亡き長継(小笠原信貞の子)のために建立した。
    このため「伝来は不明だが、木像の出来は素晴らしく、
    小笠原氏がゆかりの仏像を中津入部(1632年)の際に
    持ち込んだものだと思う」と渡辺教授。
    残念ながら本尊の画像が無く拝見できず残念。
    現在の本堂は天保14年(1844年)に再建されたもので、
    金剛棟札によると発起人は
    8才の童子・播磨屋助次郎(はりまやすけじろう)となっている。
    再建当時の藩主であった第8代・奥平昌服(まさもと)が
    茶会を催したり、能が舞われた場所でもある。

  • 中津で訪れたかったところがあったのが中津カトリック教会<br />

    中津で訪れたかったところがあったのが中津カトリック教会

  • 中津カトリック教会(三ノ丁)の聖堂は、<br />窓に48枚のステンドグラスが入れられている。<br />これほどの規模は珍しく、九州でも他に例がないとのこと。<br />「中津の殉教者」と細川ガラシャの信仰」の2枚は、<br />中津との関連で興味深い。48枚のステンドグラスは、<br />イタリア生まれのセッキ神父が1987年、<br />教会の創立100周年記念祭のために<br />イタリアの技師に作らせたもの。<br />しかし、是非観たかったが時間が足りない事と、<br />ガイドさんが行ったことがないので分からない事で<br />建物を見るだけとなった。いつかまた機会があれば訪れたい。

    中津カトリック教会(三ノ丁)の聖堂は、
    窓に48枚のステンドグラスが入れられている。
    これほどの規模は珍しく、九州でも他に例がないとのこと。
    「中津の殉教者」と細川ガラシャの信仰」の2枚は、
    中津との関連で興味深い。48枚のステンドグラスは、
    イタリア生まれのセッキ神父が1987年、
    教会の創立100周年記念祭のために
    イタリアの技師に作らせたもの。
    しかし、是非観たかったが時間が足りない事と、
    ガイドさんが行ったことがないので分からない事で
    建物を見るだけとなった。いつかまた機会があれば訪れたい。

  • 中津城<br />中津市を訪れたら中津城を外すことはできないだろう。<br />中津城は中津市の最大の観光地であり、<br />多くの観光客が観光バスで訪れていた。<br />中津城は1587年黒田官兵衛孝高(如水)が豊<br />前6郡の領主として入国。<br />入国当初は大塚山の砦を修理し根拠地とし、<br />1588年中津江太郎の居城であった丸山城を修復し<br />中津城の築城に取り掛かった。<br />城の形から扇城ともいわれ、黒田如水縄張図(下の画像)には<br />本丸 2の丸 3の丸の他に京町 博多町などの記載がある。<br />その後1600年に黒田藩が福岡に国替えとなり、<br />中津城には細川忠興の息子、忠利が中津城に入り<br />1603年から1620年まで増改築を行った。<br />1615年の一国一城令で破却の危機になるが<br />例外的に残ることになり忠興が<br />1620年から隠居城として利用し<br />本丸 二の丸 三の丸 八門 二二の櫓が設けられ、<br />ほぼ現在の形になった。<br />1632年細川は熊本へ国替えとなり、<br />小笠原長次が入り城下町の整備を行う。<br />その後1717年奥平昌成が1871年(明治4年)の廃城まで居城とし、<br />新たに入国した大名が城をリフォームしている。

    中津城
    中津市を訪れたら中津城を外すことはできないだろう。
    中津城は中津市の最大の観光地であり、
    多くの観光客が観光バスで訪れていた。
    中津城は1587年黒田官兵衛孝高(如水)が豊
    前6郡の領主として入国。
    入国当初は大塚山の砦を修理し根拠地とし、
    1588年中津江太郎の居城であった丸山城を修復し
    中津城の築城に取り掛かった。
    城の形から扇城ともいわれ、黒田如水縄張図(下の画像)には
    本丸 2の丸 3の丸の他に京町 博多町などの記載がある。
    その後1600年に黒田藩が福岡に国替えとなり、
    中津城には細川忠興の息子、忠利が中津城に入り
    1603年から1620年まで増改築を行った。
    1615年の一国一城令で破却の危機になるが
    例外的に残ることになり忠興が
    1620年から隠居城として利用し
    本丸 二の丸 三の丸 八門 二二の櫓が設けられ、
    ほぼ現在の形になった。
    1632年細川は熊本へ国替えとなり、
    小笠原長次が入り城下町の整備を行う。
    その後1717年奥平昌成が1871年(明治4年)の廃城まで居城とし、
    新たに入国した大名が城をリフォームしている。

  • 明治時代初期の中津城の櫓の写真<br />1964年(昭和39年)旧藩主奥平家が中心となり<br />中津市民からの寄付も合わせて天守閣が建造された。<br />この模擬天守がある位置にはもともとこのような櫓があったらしい。<br />最初、建物の場所は特定できなかったようで<br />石垣の積み方からこの位置ではないかと思われている。<br />松の御殿と言う説もあるが、場所的に符号しないという。

    明治時代初期の中津城の櫓の写真
    1964年(昭和39年)旧藩主奥平家が中心となり
    中津市民からの寄付も合わせて天守閣が建造された。
    この模擬天守がある位置にはもともとこのような櫓があったらしい。
    最初、建物の場所は特定できなかったようで
    石垣の積み方からこの位置ではないかと思われている。
    松の御殿と言う説もあるが、場所的に符号しないという。

  • 中津市の郷土史を語る会」が作成した絵図。<br />現在の模擬天守は薬研堀(二ノ丸と書いてある文字の上)上に作られ、<br />本丸は高さの違う上段と下段に分かれ、<br />上段は神社の敷地で下段は図の松の御殿付近に<br />中津神社があるだけの広場。

    中津市の郷土史を語る会」が作成した絵図。
    現在の模擬天守は薬研堀(二ノ丸と書いてある文字の上)上に作られ、
    本丸は高さの違う上段と下段に分かれ、
    上段は神社の敷地で下段は図の松の御殿付近に
    中津神社があるだけの広場。

  • 大手門跡小学校の塀のように現在も残っている。<br /><br />

    大手門跡小学校の塀のように現在も残っている。

  • 天守の存在については不明で江戸時代の絵図には<br />天守は描かれていないが黒田孝高(如水)の手紙には<br />「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、<br />天守の存在をうかがわせる記録もある。<br />江戸時代後期の「中津城下図」には、<br />中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみ。<br />実際のところ良くわからない。<br />中津城に残る黒田孝高(如水)が<br />普請した石垣は、天正16年(1588年)に<br />普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものとある。<br />本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、<br />黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。<br />また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。<br />ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。<br />本丸上段北面石垣にある継ぎ目。<br />向かって左が細川氏、右が黒田氏普請の石垣。

    天守の存在については不明で江戸時代の絵図には
    天守は描かれていないが黒田孝高(如水)の手紙には
    「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、
    天守の存在をうかがわせる記録もある。
    江戸時代後期の「中津城下図」には、
    中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみ。
    実際のところ良くわからない。
    中津城に残る黒田孝高(如水)が
    普請した石垣は、天正16年(1588年)に
    普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものとある。
    本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、
    黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。
    また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。
    ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。
    本丸上段北面石垣にある継ぎ目。
    向かって左が細川氏、右が黒田氏普請の石垣。

  • 本丸跡から模擬天守に入ってみた。<br />天守内部は当時の遺品などの展示があるが<br />無機質なコンクリート作りのビルディング。<br />本丸周囲の城壁は低く、堀も小規模だ。<br />無防備に近い城だ。<br />敵に襲われない絶対的な自信が黒田官兵衛にあったのだろうか。<br />中津城はきれいに修復され多くの観光客が訪れているが、<br />NHK大河ドラマ軍師官兵衛が終了した後の<br />観光客の確保が問題であろう。<br />それにしても、この中津の城は敵から守る城だったのであろうか。<br />風雨が強くなり、今夜の宿泊ホテルの迎えのバスが着くころなので<br />急ぎ中津駅に向かう。<br />ガイドさんにお礼をして迎えのバスで宿に向かう。

    本丸跡から模擬天守に入ってみた。
    天守内部は当時の遺品などの展示があるが
    無機質なコンクリート作りのビルディング。
    本丸周囲の城壁は低く、堀も小規模だ。
    無防備に近い城だ。
    敵に襲われない絶対的な自信が黒田官兵衛にあったのだろうか。
    中津城はきれいに修復され多くの観光客が訪れているが、
    NHK大河ドラマ軍師官兵衛が終了した後の
    観光客の確保が問題であろう。
    それにしても、この中津の城は敵から守る城だったのであろうか。
    風雨が強くなり、今夜の宿泊ホテルの迎えのバスが着くころなので
    急ぎ中津駅に向かう。
    ガイドさんにお礼をして迎えのバスで宿に向かう。

  • 今宵の宿はインターネットで検索し、<br />評判が良い宿としてこがね山荘を選んだ。<br />海外でも国内でも個人で旅する場合はすべてインターネット情報で<br />宿の選定など行っている。<br />当たりもあれば期待外れの場合もあるが、概ね期待通りが多い。<br />中津の駅から迎えのマイクロバスにゆられて中津市街を抜け<br />やがて山里に入って行く。民家の庭先には山茶花が咲いている。<br />20分ほど走って木立の多い庭先に入る。宿に到着。<br />宿は広い雑木林の中に本館、客室、浴室などが別棟に点在していた。<br />画像はこがね山荘 本館<br />本館でチェックインし、<br />別棟の客室に入り一服してから別棟の露天風呂に入る。<br />自然石を組み合わせた野趣味のある作り、誰もいない湯船、<br />いや、岩の間に収まってゆったり貸切りのような温泉を楽しむ。<br />広い庭内を散歩したかったが雨で明日までお預け。<br />お腹が空いた。夕食は別棟の食事処。古民家を移設した建物。<br />民芸調で風情がある。<br />食事をする宿泊客少なそう。<br />風呂上り、静かな雰囲気で食事。コース料理でうまい。<br />ついつい焼酎の酒量が多くなる。<br />疲れも手伝い早々に床に着く。<br />明日は耶馬溪、青の洞門、羅漢寺などを訪れる現地ツアーに参加する。

    今宵の宿はインターネットで検索し、
    評判が良い宿としてこがね山荘を選んだ。
    海外でも国内でも個人で旅する場合はすべてインターネット情報で
    宿の選定など行っている。
    当たりもあれば期待外れの場合もあるが、概ね期待通りが多い。
    中津の駅から迎えのマイクロバスにゆられて中津市街を抜け
    やがて山里に入って行く。民家の庭先には山茶花が咲いている。
    20分ほど走って木立の多い庭先に入る。宿に到着。
    宿は広い雑木林の中に本館、客室、浴室などが別棟に点在していた。
    画像はこがね山荘 本館
    本館でチェックインし、
    別棟の客室に入り一服してから別棟の露天風呂に入る。
    自然石を組み合わせた野趣味のある作り、誰もいない湯船、
    いや、岩の間に収まってゆったり貸切りのような温泉を楽しむ。
    広い庭内を散歩したかったが雨で明日までお預け。
    お腹が空いた。夕食は別棟の食事処。古民家を移設した建物。
    民芸調で風情がある。
    食事をする宿泊客少なそう。
    風呂上り、静かな雰囲気で食事。コース料理でうまい。
    ついつい焼酎の酒量が多くなる。
    疲れも手伝い早々に床に着く。
    明日は耶馬溪、青の洞門、羅漢寺などを訪れる現地ツアーに参加する。

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