2009/04/22 - 2009/04/22
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“北バイエルン;フランケン地方とオーバープファルツ地方を巡る旅
:フランケンワイン、ボックスボイテル街道、古城街道;フランケン・シュヴァイツの古城群、陶磁器・ガラス街道、マイン、ペグニッツ、ナーブ、レグニッツ川を巡る:
期間:2009年4月17日(金)~5月1日(金)15日間
バイエルン州は面積がドイツ最大、人口も二番手となる有力州であり、それぞれが個性的な四つの地方からなる。州都ミュンヘンを中心とするOberbayern高地バイエルン地方、レーゲンスブルクを中心としたOstbayern東バイエルン地方、ニュルンベルクを中心としたフランケン地方、アウグスブルクが中心都市となるアルゴイ・バイエリッシャー-シュヴァーベン地方である。
昨年はこのうち前述の2地方を回ったので、今回はフランケンワインの産地であり、数限りなく蛇行しながら流れるマイン川の流域を走り、更に東バイエルン地方の北部Oberpfalzオーバープファルツは陶磁器やガラス生産地として知られ、Weidenバイデンを中心とした南北に長い地域を巡る予定である。
写真は100mの岩壁上にたつBurg Egloffsteinエグロフシュタイン城の雄姿。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
昨日、4月21日(火)は朝から大快晴で、18℃と暖かい。この日は古城街道の各地の古城、城址を巡った(137km)。
まず、昨夜(20日)前向きに駐車したレンタカーのメルセデスA-180を城主の大きな車を傷つけないようにバックして出なければならない。バックが苦手なので、私が躊躇していたら、なんと御親切にも城主自らが私の車に乗って、簡単にバックし、車を出してくれた。今日はスタートから恐縮だ。
出かける前に若い煙突掃除夫に出口でばったり。“こいつは朝から縁起が良い!”と彼に声をかけると、“その通りだよ!”と声が返ってくる。
ドイツでは煙突掃除夫は「幸運を運ぶ人」と言われる。
写真はエグロフシュタイン城からースヴァインシュタイン城に向かう道、車を走らせる両側はリンゴの木が真っ白な花を咲かせ、ドイツの春を感じた。 -
Fränkische Schweizフランケン・スイス地方の古城群巡りは古城好きには実に楽しい。
Burg Egloffsteinエグロフシュタイン城(古城ホテル)、Burg Gößweinsteinゲースヴァインシュタイン城、Burg Rabensteinラーベンシュタイン城(古城ホテル)、Burg Pottensteinポッテンシュタイン城、Teufelshöhleトイフェルスヘーレ(悪魔の洞窟) 鍾乳洞 等を訪ねて、夕食は城下のGasthof Zur Postガストホフ・ツール・ポストで食べて、20時にエグロフシュタイン城の部屋に戻った。
写真は夕方に写したBurgenstrasseブルゲンシュトラッセ(古城街道)の標識 -
昨日同様に6時起床。海抜500mの城から、100m下の村へ、城の礼拝堂横の階段を降りていく。村のパン屋さんWirthビルトのCafé Mühle カフェミューレ(旧水車小屋)で朝食を頂く。
旧水車小屋だけに、たいへん清らかな、冷たい水がCafé前を流れ、岩壁上の古城が青空の中にくっきりと見えた。
写真はカフェの敷地内からエグロフシュタイン城を遠望する。 -
イチオシ
朝食後は高台まで戻り、ちょっと村内を散策。
ホテルに戻る途中、宿泊棟になっていた旧役所の歴史表示を読んでいたら、人懐こい67歳のドイツの方(旧村長さんだった)に話しかけられた。
10分ほどの立ち話(以前、日本の学生がドイツの建築物の研修に来たことがあって、お世話をしたことがあると・・・)ができた。
写真は100mの岩壁上にたつBurg Egloffsteinエグロフシュタイン城の雄姿。 -
(2泊)④⑤Burg Egloffstein古城ホテル エグロフシュタイン城
D-91349 Egloffstein、Rittergasse 80b
古城ホテル・・・Ferienwohnung休暇施設(1&2階)
全2室・?星、 *Euro77x2=154 (現金払い)
http://www.burg-egloffstein.de/
Trubachtalトゥルバッハ谷に臨み、100mの高さの岩壁に立つ古城Egloffsteinエグロフシュタイン城の姿は絵画的な美しさである。
この城は9世紀に築城したEgiloffエグロフという騎士がEgloffsteinエグロフシュタイン城と名付けたとされている。
11世紀にはこの辺りを支配する騎士・領主の居城となるが、しばしば城は破壊されたと云う。30年戦争では特に大きな被害を受けたが、再建されている。
1750年にはプロテスタントの教会も古城の横に創建されて、今に残っている。
代々の伯爵家の中でも、Julieユリエ伯妃は画家としてもその名を残し、1816年~29年まで、ワイマールに滞在し、かのゲーテとも親交を深めたとある。その後、ミュンヘンに至り、バイエルン王ルードヴィヒ1世や王妃の肖像画を描いたと伝えられている。
現在も貴族の後裔によって、城は所有され、城内には博物館が併設されている。
写真は4・5泊目の古城ホテル エグロフシュタイン城の2階寝室。 -
今の城主は70歳である。貴族階級に見られる長身で、年齢以上に頑健な体は、軍人だった過去を窺い知ることができる。25年の軍務の間、外国を含めて、転勤続きの生活だったと言う。退役と共に漸く、故郷に戻ってきたのだと言っていた。
写真は古城ホテル エグロフシュタイン城の2階居間 -
ともかく、古城の維持は大変な様子であった。城主夫人は目下、旅行中の由で会えなかったが、息子と娘がいて、孫も3人である。城主の素晴らしい家具の置かれた居間に通された時に家族の写真を拝見して分かった。
Jägerhausイエガーハウス (城内の狩猟館)にもFerienwohnungフェーリエンボーヌング(休暇施設)が2部屋あり、そこに宿泊すると思っていたのだが、多分、管理上もあってか、城主の住む棟並びの部屋を提供された。
写真は古城ホテル エグロフシュタイン城の2階寝室前の部屋 -
芝生のテラスに面した1階には良くできた素晴らしい居間と自炊用の台所があり、2階には梁がむき出しとなった寝室があり、バイエルン風の家具や、がっちりしたダブルベッドが置かれていた。
隣にはモダンな浴室、書庫などがあるメゾネットタイプのものです。誠に各部屋は色彩のセンスも良く、広々としたもので、普段は家族の帰省時に使うものを提供されたと思われた。
城に到着と共に、城主自ら、親切に部屋を隅から隅まで、案内・説明して頂いて、大変恐縮した。
・・・・・
写真は古城ホテル エグロフシュタイン城の1階通路 -
写真は古城ホテル エグロフシュタイン城の1階台所・・・自分で料理も可能
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【フランケンの古城:100mの岩壁上にたつエグロフシュタイン城、不敗神話が残るローゼンベルク大要塞を巡る】
4月22日(水) 今日も朝から大快晴。14~17℃。 158km
6時半起床。9:00城主のガイドでEgloffsteinエグロフシュタイン城内の見学。10:00Egloffstein を出発。 =>L?B2(Pegnitzペグニッツ)=>A9(Bayreuthバイロイト)=>A9・70・B85(Kulmbachクルムバッハ)=>113km Kronachクローナハ:人口18千人。Festung Rosenberg大要塞;要塞の一室にFränkische Galerieフランケンギャラリーがあり、 Riemenschneiderリーメンシュナイダーの作品;Hl.Anna Selbdritt・1490~1500年頃の作品。Muttergottes mit Kind・1500年頃の作品見学(11:45~12:30)、城郭ガイド(12:30~13:50)=>14:00 Kronachクローナハを出発し、Kulmbachクルムバッハに向かう。
写真は古城ホテル エグロフシュタイン城の部屋から庭先を写す。 -
*22日、6時半起床。本日もきれいに晴れている。
1階居間の前の芝生のテラスは朝日を受けて、光っている。
写真は古城ホテル エグロフシュタイン城の庭先から宿泊棟をバックに。 -
イチオシ
写真は古城ホテル エグロフシュタイン城の城主(代々伯爵を名乗る)の住居(この奥に私共が2泊した宿泊棟が並ぶ)と右に本城郭が見える。
-
昨夜は車をバックして出すことのないように、城の手前の広い駐車スペースに車を置いた。宿泊棟下には八重桜と紫色の芝桜、黄色のレンギョ、チューリップの花が咲き誇っていた。
昨日、お願いしていた城内見学は9:00の約束でしたので、定刻に教会前に待っていた。城主自らのガイドは本来やらないようである。
特に2人だけでは、誠に恐縮であったが・・・。
写真はエグロフシュタイン城の宿泊棟が上に見え、下った所に車を停めて、まず附属教会、本城内を見学した。 -
<Egloffsteinエグロフシュタイン城内の見学>
まず傍の礼拝堂(1750年・巡礼教会)にいく。
美しい礼拝堂は城主一族の為のものだが、普段は誰でも入れるようにしている。
さっきも村の子供達が引率の先生と来ていた。
写真はエグロフシュタイン城の附属教会(1750年・巡礼教会)前で。 -
城主に“ここで結婚式を挙げたのか?”と聞いてみたが、転勤族の軍人であった為か、ここでは挙げなかったそうだ。
写真はエグロフシュタイン城の附属教会の内部を拝見。 -
1000年歴史を経過した城門を抜けて、村を見下ろすテラスに出て、トゥルバッハ谷に臨みながら、周囲を見渡す。
100mの高さの岩壁はすごいものだ。この岩壁は幸いにも昨日見学したBurg Pottensteinポッテンシュタイン城と違って、もろくなっていないと、城主は言う。
写真はエグロフシュタイン城の見学はここから始まる。70歳の城主自らのガイド! -
様々な部屋に、アンチークな品・家具。
写真はエグロフシュタイン城の見学:アンチークな品・家具 -
写真はエグロフシュタイン城の見学:
-
中でも興味深いのはオスマントルコの兵士たちが上部に乗った、大きな時計で、城主は扉を開けて、自らネジを巻く。
写真はエグロフシュタイン城の見学:大きな時計 -
暖炉の間、寝室など、祖先伝来の品々、絵画があり、いまだに一族の来訪時にはこれらの部屋を使用しているとのことだ。
おかしかったのはあの暖房設備は祖父が、この水道設備は父がと、私はこの城を美しく大改装し、今も住む事が出来るようにした・・・と城主の口から出てきたことだ。
昔はブドウ畑もあったとか。やはり本音では、一族の古い大事なものを収集し、その長い歴史を大事にし、できることならば、博物館としたくないのだと、私には思えたが・・・。
写真はエグロフシュタイン城の見学:暖炉の間 -
この名門貴族の一族からは、バンべルクやヴュルツブルクの司教・領主やゲーテとも親交のあった画家などがでている。一族の歴史がいっぱいの城である。
台所、使用人の部屋、使用人たちの古い衣服などなど・・・。そしてJägerhausイエガーハウス (城内の狩猟館)にもFerienwohnungフェーリエンボーヌング(休暇施設)の2部屋も拝見する。
最後は城主の父が営んだ農林業の施設、狩猟の獲物のはく製などを拝見して、一時間のガイドは終わった。
写真はエグロフシュタイン城の見学:狩猟の獲物のはく製など。 -
ご自宅の居間で宿泊代(2泊分Euro154)をお支払いしたが、感謝を込めて、見学料(ガイド料・Euro 26)を少し多めに支払うことにした。 (9:00~10:00)
写真はエグロフシュタイン城の見学を終えて、城主宅の居間に招かれて、城主夫人は旅行中だった。 -
イチオシ
10:00、Egloffsteinエグロフシュタイン を出発。
Kronachクローナハに向かう道の途中、Ottenhofオッテンホフの村で珍しい復活祭の兎一家の人形を見る。
この地域はこうした風習なのだろうが、初めて見る楽しい人形の姿に感心した。
小屋の中に子供の兎が3匹居て、外のベンチに人間の洋服を着た、人間並みの大きな兎の夫婦が座っている。小屋や傍の木には色とりどりに塗られた、オースターアイ(復活祭の卵)が飾ってある。
わざわざ車を降りて写真を撮った。復活祭の季節は楽しい。
写真はOttenhofオッテンホフ・復活祭の兎一家の人形。 -
PegnitzペグニッツでアウトバーンA9にのり、(Bayreuthバイロイト)A9・70・B85(Kulmbachルムバッハ)を経由し、一気に Kronachクローナハへ113km を走る。
写真はフランケンのMap(右手に中心となる町Selbゼルプなど巡る陶磁器街道がある) -
<Kronachクローナハは古城街道上にある(Wiki)>
Kronachクローナハは人口18千人の小都市だが、画家クラーナハとローゼンベルク大要塞で知られている。
フランケンヴァルトの周縁部に位置し、ハースラハ川、クローナハ川、ローダッハ川に沿って発展した町は古城街道上にあり、ほぼ完全に保存されている城壁を持つ、ドイツで最大規模の中世要塞がある。
木組み建築の家、門、塔のある旧市街の町並みはオーバーフランケンで最も見事なものだと云われている。
写真はクローナハ郡のMap -
クローナハの歴史 :
この町は1003年に「Urbs Crana」として初めて文献に現れる。従って、2003年には町の創立1000年の記念祭が催されている。
皇帝ハインリヒ5世が1122年にクローナハをバンベルク司教区に寄進したことで、その後、19世紀初めに至るまで、バンベルクの領主司教がこの町を7世紀間、支配した。
1520年頃から始まる宗教改革と三十年戦争後の1648年のヴェストファーレン条約との間の時期、クローナハはザクセンのプロテスタント勢力に対する、カトリック(バンベルク司教区)の北の防塁と見なされた。
その境界上に位置した為、ローゼンベルク大要塞は最大且つ、最新鋭の城郭施設として整備された。新旧キリスト教徒の三十年戦争(1618年~48年)では、1632年から1634年の間に何度もクローナハは新教派の大軍勢に包囲されたが、守備に適した街の構造と、主婦を先頭とした!勇敢な住民達の働きにより(毎年、この町で開催されているスウェーデン行進では女性が先頭を歩き、勇敢であった史実を誇らしいものとして、行進が行われている)、こうした攻撃を何度もしのいだと云う。また、1759年のプロイセンによる包囲も失敗に終わっている。1803年、バイエルン王国領になる。
第二次大戦では比較的軽微な被害で済んだ。戦後はソビエトの管理地域、後の旧東ドイツの隣接地域となり、故郷を逐われた数多くの人々の拠り所となったと云われている。
参考写真はKronachクローナハ・Festung Rosenbergローゼンベルク大要塞の俯瞰(森林に囲まれた大要塞)この星型に見える城郭は函館の五稜郭に似ている。 -
町中を高台目指して登ると、大要塞際に駐車場がある。
嬉しい事に無料のようだ。駐車して、石畳みの道を城門に向かって、上がっていく。
若い生徒さんが、見学を終えて出てくる。
参考写真はクローナハ・ローゼンベルク大要塞と町を森側から見る。 -
【Festung Rosenbergローゼンベルク大要塞】
ガイド案内まで、まだ45分もあったので、切符売場の方のアドバイスに従い、先に大要塞の一室にある「Fränkische galerieフランケンギャラリー」(1983年創立、バイエルン州立博物館の分館)を見ることにした。
参考写真はローゼンベルク大要塞の城門 -
ローゼンベルク大要塞内にある「Fränkische galerieフランケンギャラリー」という美術館は一見の価値がある。
有名なドイツ人画家Lucas Cranach d. Ä.ルーカス・クラーナハ(父)をはじめ、中世からルネサンスにかけてフランケン地方で生まれた絵画や彫刻品が展示されている。
因みにクラーナハはクローナハの町で生まれた画家で、彼の苗字はこの町の名前に由来していると云う(当時、クローナハの町はクラーナハという名前だった)。
【Fränkische galerieフランケンギャラリー】
(11:45~12:30)
ここには25室の展示場があり、
この町出身の画家Lucas Cranachルーカス・クラーナハの作品;Alter Mann und Mädchen金持ちの老人と若い女・1530/1540年、Friedrich der Weise & Johann der Beständige(フリードリヒ3世(Friedrich IIIはザクセン選帝侯。賢明公(der Weise)と称される。宗教改革の指導者であるルターを保護し、プロテスタントを承認したことと、ヴィッテンベルク大学の設立の功績で知られる。ヨハン(Johann)もザクセン選帝侯。不変公(der Beständige)と呼ばれる)・1532年や、
Tilman Riemenschneiderティルマン・リーメンシュナイダーの作品を中心に見た。Hl. Magdalena und Hl. Anna聖マグダラ像と聖アンナ像・1515年頃の工房作。Hl.Anna Selbdritt聖アンナたち・1490~1500年頃の作品。Muttergottes mit Kind聖母子像・1500年頃の作品などである。
参考写真はローゼンベルク大要塞の城内:確か、左手にチケット販売所があり、右手に「Fränkische galerieフランケンギャラリー」、その入口は左手白っぽい建物にある。 -
<ルーカス・クラーナハ親子のこと>
Lucas Cranach der ältereルーカス・クラーナハ(父) (1472年クローナハ~ 1553年ワイマール)はルネサンス期のドイツの画家。
同名の息子も画家であるため、Lucas Cranach d. Ä.ルーカス・クラーナハ (父) と表記される事が多い。
ヴィッテンベルクに工房を構え、当地の領主ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢明公)に御用絵師として仕えた。主に宗教画で多数の作品を残したほか、宗教改革者ルターの友人であったので、彼とその家族の肖像画を多く残している。
クラーナハの描く、腰の細くくびれた独特なプロポーションのヴィーナス像は独特の官能美をかもし出している。
Lucas Cranach the Youngerルーカス・クラーナハ (子) (1515年 ~1586年)はルネサンス期のドイツの画家。同名の著名な画家であった父ルーカス・クラーナハの工房で絵画を学ぶ。父の死後、父の工房を引き継いだと見られている。多くの肖像画や寓話的・神話的な作品を残したが、父親の作風を受け継いでいるため、親子のどちらのものか、未判明な作品もある。
写真はローゼンベルク大要塞のFränkische galerieフランケンギャラリー:Cranachクラーナハの作品;ungleiches Liebespaar 金持ちの老人と若い女(1528年) -
写真はローゼンベルク大要塞のフランケンギャラリー:クラーナハの作品(1532年)である。
(左)Kurfürsten Friedrich III. des Weisen, ザクセン選帝侯フリードリヒ3世・*賢明公と、
(右)Kurfürst Johann der Beständige,ザクセン選帝侯ヨハン・*不変公
Wikiによれば、
*賢明公
フリードリヒは、1463年、ザクセン公国のトルガウで、ザクセン選帝侯エルンストとその妃であったバイエルン公アルブレヒト3世の公女エリーザベトの第2子として生まれた。
1486年、父エルンストの死に伴いザクセン選帝侯に就任。当時の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に仕える。1519年、マクシミリアン1世の死に伴う皇帝選挙で候補の一人に挙げられるもこれを辞退、既にスペイン王カルロス1世として即位していたマクシミリアンの孫を推薦して、皇帝カール5世を誕生させた。
しかし、1521年にヴォルムス帝国議会でルターが自説の撤回を拒否し、カール5世からドイツ国内で法律の保護対象外(事実上の国外追放処分)に置かれると、皇帝の決定に反して「ルターを誘拐した」という名目で居城であるヴァルトブルク城に匿った。
皇帝カール5世にとってフリードリヒ3世は自らの皇帝即位の立役者である上、当時のドイツはイタリア戦争最中の非常に政情不安定な状況にあったため、皇帝は彼に対して別段の処置を採らなかった。またローマ教皇にとってもフリードリヒはハプスブルク家に対抗するために蔑ろにできない大諸侯ということもあり、表立った圧力が加えられることはなかった。外出も満足に出来ずヴァルトブルク城に篭もりきりの生活は、時としてルターには精神的に辛いものだったようだが、ともかくも身の安全を保障されて、ルターはこの時期に著名な新約聖書のドイツ語訳を行っている。
1525年ランガウにて死亡し、ヴィッテンベルク城教会に葬られた。死の間際にルター派へ改宗している。
*不変公:
1468年にマイセンで、エルンストとその妃であったバイエルン公アルブレヒト3世の公女エリーザベト(1443年 - 1486年)の第5子として生まれた。
マルティン・ルターの庇護者として名高い兄フリードリヒ3世(賢明公)には正妻がいなかったため、1525年に兄が死去すると選帝侯位を嗣いだ。渾名「不変公」が示すとおり、ヨハンは兄が採った宗教改革への支持を継続した。
1527年にルター派をザクセンの国教会に定めたほか、1531年には長男ヨハン・フリードリヒがヘッセン方伯フィリップ1世(寛大伯)らとともにシュマルカルデン同盟(ドイツのでカトリック側に立つ皇帝と諸侯に対して、プロテスタント側についた諸侯と都市が結成した同盟)を結成している。
その後もエルンスト系のザクセン公はドイツ宗教改革の流れの中でルター派諸侯の中心となっていく。
ヨハンは1532年8月16日にヴィッテンベルクのシュヴァイニッツ城で死去し、ヴィッテンベルク城教会に葬られている。 -
参考写真はローゼンベルク大要塞のフランケンギャラリー:Lucas_Cranach_d.Ä._クラーナハの作品;Jesus und die Ehebrecherin *キリストと姦淫で捕らえられた女
*【新改訳2017】ヨハネの福音書7章53節~8章11節
53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。
1 イエスはオリーブ山に行かれた。
2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。
3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」
6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。
9 彼らはそれを聞くと、(良心によって責められながら) 年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された(=カタレイポー:καταλείπω=見捨てられた)。
10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか(回復訳=「罪に定めなかったのか」)。」
11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない(罪に定めない)。行きなさい。
これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕
(参考引用:牧師の書斎) -
参考写真はローゼンベルク大要塞のフランケンギャラリー:Cranachクラーナハの作品;Venus und Armor (Cupid)、ヴィーナスと(ハチミツを盗んで蜂に刺された)キューピッド、1531年
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写真はローゼンベルク大要塞のフランケンギャラリー:聖母像
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<Tilman Riemenschneiderティルマン・リーメンシュナイダーのこと>
Tilman Riemenschneiderティルマン・リーメンシュナイダー(1460年頃 - 1531年)は、中世ドイツの彫刻家である。
北ドイツのLandkreis Osterode am HarzのOstenburgオステンブルクに生まれる。後に家族と共にヴュルツブルクに移住し、工房をかまえ、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がけたと云う。その追随を許さぬ技術で評価を高めた。
特に女性の彫像はその顔の表情が豊かで、独特の作品が多く、印象強い作品である。一方、1520年から1521年まで、ヴュルツブルクの市長を務めている。
ドイツ農民戦争(1524年~25年、主にドイツ南部・中部の農民が起こした大規模な反乱)の際、元市長として戦争に加担したとされ、反乱の鎮圧後に逮捕され、大事な利き腕を折られ、再び彫刻家として活躍ができなくなった。
その死後、歴史から忘れ去られた。
その作品はフランケン地方一帯の教会、修道院などに、作者はティル親方とか、ディルとかいった名前だけが伝えられて、残っていたそうだ。
1822年に漸く彼の墓碑が発見され、再びその作品群と共に、歴史上にその名が復活することになったという。
参考写真はTilman Riemenschneiderティルマン・リーメンシュナイダーの自画像 -
イチオシ
参考写真はWürzburgのマリエンベルク要塞のマインフランケン博物館;Riemenschneider・Hl. Barbara聖バルバラ像
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参考写真はローゼンベルク大要塞のフランケンギャラリー:リーメンシュナイダーMuttergottes mit Kind聖母子像1500年頃
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参考写真はローゼンベルク大要塞のフランケンギャラリー:リーメンシュナイダーHl.Anna Selbdritt聖アンナたちの像・1490~1500年頃
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参考写真はMuttergottes auf der Mondsichelリーメンシュナイダー三日月の聖母像
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参考写真はHeilige Magdalena Heilige Anna (?) Werkstatt Tilman Riemenschneider Würzburg um 1515、聖マグダラ像と聖アンナ像 リーメンシュナイダーWürzburgの工房製作 1515年頃 、
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参考写真はHeiliger Petrus und heiliger Paul1510、リーメンシュナイダー聖ペテロ像と聖パウロ像1510年
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写真はZwölf Apostel und Krönung Mariens (Altarreliefs) Mitteldeutschland, um 1510 bis 1520、リーメンシュナイダー12人の使徒とマリアの戴冠式(祭壇のレリーフ) ドイツ中部、1510年頃から1520年
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参考写真はTod Mariä Flügelrelief 1510、リーメンシュナイダー聖母マリアの死 翼のレリーフ(浮彫り) 1510 年
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イチオシ
【ローゼンベルク大要塞:城郭ガイド】
(博物館と城郭ガイド料はEuro 14 、ガイドさんにEuro 5 。)
(12:30~13:50)
女性のガイドさんが私共二人だけの為に1時間以上の時間をとり、懇切・丁寧な説明をしてくれた。二人だけの見学は、今日の朝とこれで二度目になった。
この大要塞は23.6ヘクタールの広大な台上にある。(先の大要塞の俯瞰を参照)
厚い城壁・深い堀・15世紀の塔や建物・中世の天守閣など、現在も見事な、その姿を保っている。
ガイドさんの話では、バイエルン王がクローナハの地を支配下に置いた際に、城を不要として、町に譲渡したという。その時、城内の貴重な品々を殆どミュンヘンに持って行ってしまった為、城内は見るものがないとガイドさんが言っていた。
従い、今は城の建物は主に青少年の施設に利用されているようだ。
一段と目立った中央の塔(天守閣)は10mの高さに緊急出入り口を設けていたという。先日観てきたフレンキッシェ・シュヴァイツ地域の古城Aufsessアゥフゼース城で見たものと全く同じである。
写真はクローナハ・ローゼンベルク大要塞の城郭。 -
前述の事もあって、大要塞の外回りが主たるガイド地域のようだ。
最初は大要塞の入口に戻って、堅固な城門の説明からスタートした。
門の上部から敵兵に煮立った湯水(若しくはコールタール)を浴びせた穴(これを称して“Nasenlöcher鼻水の穴(多分、Pechnaseペチナーゼのこと)”と言ったのには笑った。
・・・城の守備兵が城門まで迫った敵兵めがけ、上から煮えたぎる油、焼けたピッチ、石などを浴びせることは効果のある防御策だった。当時の城門には出窓(Pechnaseペヒナーゼ)を設けるのが普通で、「ペヒ」とはピッチ(コールタールみたいなもの)、「ナーゼ」とは鼻、突出部が鼻のように見えたから付いた名前。
写真はローゼンベルク大要塞の城門前で。 -
城郭はもちろん石で出きているわけだが、この建物や城壁には何やらX印や、上下の矢印など様々な印がある。
これは石工が自分の仕事分を明確にしたもので、仕事賃の計算に間違いのないように利用したのだと・・・ドイツで初めて見聞きした話でした。
写真はローゼンベルク大要塞の城壁部分・・・石工が自分の仕事分を明示したX印や矢印が見られた。 -
城内への微妙に曲げた道は敵兵が撃ちにくく、侵入しにくい事。
大砲の発達から、次第に城壁の厚さを増し、3.5mのものになっている。
しかも、この城塞は3段ともなる、3重の城壁がはりめぐらせたもので、城内は5つの堡塁が相互に補完されるように建ち、防御力を高めている。
かつてバンベルクの司教・領主が何回来訪したのかは、ともかくとして、こちらに彼らの為の城門があり、樫の丈夫な木で作られた門は600年の歴史がある古いものだそうだ。
そこには、人がくぐる小さな穴(扉)が開けてあり、普段、人々はここを利用して行き帰したのだと・・・。
写真はローゼンベルク大要塞:600年以上の歴史を持つ、古い樫の門 -
昔の堀をぐるりと回りながら、ある地点に来ると、ガイドさんが「さー、これから堡塁内に入ります。」と言って、傍らの箱から、蝋燭を出し、火を付けた。
其々が蝋燭一本をもって、階段を下がり、地下トンネル巡り(普段もガイドツアー見学)となった。
坑道の中には、所々に細い切込みがあって、それは敵兵が近付くのを知り、空気の出入り口にもなり、坑道の中に溜まる雨水を流す目的があったと言う。
当時のまま残る地下通路を火のついた蝋燭を持って通り抜ける体験は面白かった。
階段を上がり、外に出ると堡塁上に出た。
ここは要塞の北側で一番弱い部分だそうだ。なるほど、目の先にはここと変わらない高さの台地があり、今は森になっている。確かにここは敵が攻撃しやすく、敵兵が侵入しやすい。この備えの為に、更に前面に小さな郭を持ち、侵入路は曲線にして、直接の攻撃ができないような形にしている様子が、上から見るとその様子が良く分かった。城好きな私には今日のガイドはとても興味深い。
参考写真はローゼンベルク大要塞:地下トンネル巡り(ガイドツアー)の様子。 -
さて、ローゼンベルク大要塞は歴史上10回の攻防戦がありながら、一度として敗れていないと言われた。三十年戦争(1618~48年)の最中、1632年、*新教派のスウェーデン軍の攻撃に対し、城を守る女性陣がよく戦い、また、5人の勇気ある兵士が敵の大砲に釘を詰め、大砲の使用を止めたという逸話も残っている。
*クローナハは、ザクセンのプロテスタント勢力に対する、カトリック(バンベルク司教区)の北の防塁と見なされた。こうした境界上に位置したため、ローゼンベルク大要塞は、最大にして、当時の最新鋭の城郭施設として整備された。
新旧キリスト教徒の三十年戦争では、1632年から1634年の間に何度も、クローナハはスウェーデンの大軍勢に包囲された。守備に適した街の構造と、主婦を先頭とした勇敢な住民達の働きにより、こうした攻撃を何度もしのいだ。
写真はクローナハ・ローゼンベルク大要塞の城郭 -
今日、毎年開催されている**「Schwedenprozessionスウェーデン行進」では、女性が先頭を歩き、この出来事を誇らしい歴史として記憶されている。
**クローナハのSchwedenprozessionスウェーデンの行進は、1632年の町の最初の包囲戦で町の人々が立てた誓いにさかのぼり、毎年ドイツの祝日・「***Fronleichnam(聖体祭)」の後の日曜日に行われている。1634年以来、クローナハの女性たちがスウェーデン人から街を守った勇気を称えられている。
最初はスウェーデン行進にはギルドと市民軍が参加していたが、後にはクラブ、地方自治体、様々な市民グループが参加するようになった。
1970年代から教区教会での聖体の祭典から始まり、その後、参加者は旧市街を通ってローゼンベルク大要塞までの道を往復する。
***「Fronleichnam(聖体祭)」とはカトリック教徒の多い州の祝日で「聖体祭」は、最後の晩餐として知られるキリストが十字架にかけられる前の晩に、弟子たちにパンとワインを自分の体と血だと言って分け与えたことに由来している。
(Wiki)
参考写真はクローナハ:Schwedenprozessionスウェーデン行進の女性たち
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(2025年03月06日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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この旅行記へのコメント (4)
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- kawausoimokoさん 2025/03/08 13:58:53
- 「車でヨーロッパの古城ホテルに宿泊して旅する」・・・なんて魅力的なのでしょう!
- jijidarumaさん
こんにちは。
「車でヨーロッパの古城ホテルに宿泊して旅する」、まさにこんな旅ができたら素敵だなと思い、とても楽しませていただきました。
私も現役時代にアメリカではレンタカーで国立公園などを周遊していましたが、昔パリで運転して懲りて以来、ヨーロッパでは車で移動したことがありません。
最近では、国内でも運転して旅行するのがだんだん億劫になり、今度5月に予定している4か国周遊も、重いキャリーを転がしながらの電車移動になりそうです。
ルーカス・クラーナハのファンなので、フランケンギャラリーの情報は大変参考になりました。
彼は単なる宮廷画家ではなく、宗教改革の視覚的な伝達者であり、時代の変遷の中で巧みに立ち回った政治的センスを持つ人物でもあった点が非常に興味深いですね。
仕えていたヨハン・フリードリヒ4世がシュマルカルデン戦争で神聖ローマ皇帝カール5世に敗北し、1547年にザクセン選帝侯の地位を剥奪され幽閉された際にも、クラーナハは彼に忠誠を貫き、最後まで行動を共にしました。
幸い、カール5世のお気に入りの画家でもあったため処罰は免れ、画家としての人生を全うしました。
また、ご存じのとおり、クラーナハはマルティン・ルターを支援し、ルターの肖像画を描くことで宗教改革を視覚的に広め、資金援助も行っていましたね。
息子のルーカス・クラーナハ(子)も父の影響を受けながら独自のキャリアを築き、ヴィッテンベルクからドレスデンへ移り、アルベルティン家の宮廷画家となりました。
彼の人生もまた波乱万丈だったことが想像されます。
いつかクローナハを訪れてみたいと思います。
続きの旅行記も楽しみにしています!
kawausoimoko 拝
- jijidarumaさん からの返信 2025/03/08 19:07:03
- Re: 「車でヨーロッパの古城ホテルに宿泊して旅する」・・・なんて魅力的なのでしょう!
- Kawausoimokoさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
先ほど、レンタカーの旅その2(~2016年)をご一読頂きありがとうございました。結構長文の旅行記だったと思いますが、古城ホテルに泊まる楽しさも感じて頂けた様子、古城好き、古城ホテル好きとしては誠に嬉しいものです。(同じ駐在体験しても、私共のようにドイツの田舎を楽しんだ駐在員はいなかったかと・・・)
実はコロナ騒ぎでドイツの旅を断念して以来、南ドイツとザルツカンマ―グートなどを再訪すべく、計画しましたが、傘寿を過ぎて、段々レンタカーの旅も難しいかなと思うようになりました。5月に4か国周遊を計画との事、実に羨ましく思います。
レンタカーの運転ですが、次のような事を書いたことがあります(駐在時や定年後の旅でヨーロッパは凡そ20万kmを走りました):
「ヨーロッパ各国を車で走った経験ではやはりドイツ系の国・ドイツ、オーストリア、スイス、リヒテンシュタインが一番安心して走ることができる。運転技術やマナーがベストと言える。次にドイツ語をしゃべる地域をもったオランダ、ルクセンブルグ、ベルギーで、ドイツ系の人たちの影響があるのだろうか。
3番手にイギリス。4番手はイタリアで、最後はフランスがくる。
私もパリには数回訪れているが、パリ市内などはドイツ人に言わせると“Chaosカオス(混乱、無秩序)”だそうだ。この表現には納得する。」・・・レンタカーに乗るにはドイツから始めるのが一番です・・・もっとも難民が多くなった今は???。
さて、ドイツの画家で同世代を生きたニュルンベルクのデユーラーとクローナハのクラーナハ、前者の代表的な自画像やカール大帝の肖像画、後者の金持ちの老人と若い女、ヴィーナスと(ハチミツを盗んで蜂に刺された)キューピッド、ルターの肖像画(工房のあったヴィッテンベルクも訪れました) などを見ると、対照的ですね。
特にクラーナハはルターの友人でもあった所為か、政治的にも宗教的にも一歩踏み込んだ対処をしていたのは、作品の独特な印象からうけるのとは、別な気骨のある面を見せていて、それが面白いです。
又含蓄のある美術紀行を拝見しに参ります。
それではまた。コメントありがとうございました。
jijidaruma
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- pedaruさん 2025/03/07 05:57:21
- 古城ホテル
- jijjidarumaさん おはようございます。
古城ホテルは私の憧れです。ちなみに昨年行ったアイビースクエアにある
倉敷紡績創業の旧工場で、改修されたホテル、つまり「工場ホテル」でした。
旅行記ののっけから城主自ら車を出してくれたり、煙突掃除のチンチムリーにであったり、幸運が重なり、幸先良い出だしとなりましたね。
城主といえば今でこそ対等にお話もできるようですが、昔なら、なれなれしいぞ、と捕縛され地下の拷問室でひどい目にあいそうです。
それにしても、言葉が出来るという事はなんとすばらしいことでしょう。
旗を持った添乗員の後に着き、ひととおり表面を見て回る、旅行中現地の人とひとことも言葉を交わさない、こういうのと比べると、深く思い出に残る旅になりますね。
羨ましいです。
pedaru
- jijidarumaさん からの返信 2025/03/07 16:43:40
- Re: 古城ホテルと工場ホテル!
- pedaruさん、
今日は。いつもありがとうございます。
それにしても早々と、冴えたコメントを頂きありがとうございました。
実に驚きです。
私などは怠け者にて、遅寝遅起きと老人らしからぬ日常で、家内に叱られています。夜分が一番落ち着き、何故か古いパソコンもスムースに動きます。
頭の方は固くて、スムースでないのが残念ですが、こうして十数年前の旅を
思い出し、懐かしみながら、投稿させて頂きました。
(2009年の旅行記はこれで漸く二件目です)
最近、日本もお城の一角をホテル(すごく贅沢、高い宿泊費)にしているのをTVでみました。倉敷も大阪単身時代の頃に、家内の来阪の際に足を延ばしました。美術館や美観地区巡りで訪れ、取引のあったクラボーさんの<倉敷紡績創業の旧工場で、改修されたホテル、つまり「工場ホテル」>もその頃すでにありました。でも「工場ホテル」はオアシが無くて、断念しました(-_-;)。
思えば、退職後のドイツ感傷旅行の方が、田舎周りだった所為か、オアシにやさしい古城ホテルが多かったようです(笑)。
城主さまは代々の伯爵、当時70歳で、元軍人らしい姿勢の良い方でした。
親切で、日本人にも優しく接して頂いたのは今も嬉しい思い出です。
長い歴史を継続して守るという事は素晴らしいことで、もう日本ではそうした事を見るのも少なくなりました。さすがに古城を守っていく難しさを城主さまがつい愚痴っぽく口に出された事を今も記憶に残っています。
何年か後に近くを通り、写真と同じように高々とした古城を望みました。
それではまた。ありがとうございました。
jijidaruma
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