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人吉市内を駆け足で巡って、人吉駅から人吉インターにタクシー移動。人吉~熊本間も現在列車での移動が出来ないため、バスで移動。<br />人吉インター(12:37)~熊本桜町(14:15)<br /><br />熊本到着後にラーメンを食べ、すぐ近くに見えていた熊本城を訪問。<br />熊本城は3度目ですが、あまりにも昔のため、ほぼ記憶なし。<br />熊本城は熊本地震による被害から復興中ですが、まだ全体の2割ほどしか修復が終わっていないとのことで、痛々しい傷跡が残されたままでした。

熊本訪問2024②(修復途中の熊本城を訪問:熊本市・熊本城、水前寺公園他)

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2024/03/04 - 2024/03/05

775位(同エリア2108件中)

旅行記グループ 熊本訪問

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赤い彗星

赤い彗星さん

この旅行記スケジュールを元に

人吉市内を駆け足で巡って、人吉駅から人吉インターにタクシー移動。人吉~熊本間も現在列車での移動が出来ないため、バスで移動。
人吉インター(12:37)~熊本桜町(14:15)

熊本到着後にラーメンを食べ、すぐ近くに見えていた熊本城を訪問。
熊本城は3度目ですが、あまりにも昔のため、ほぼ記憶なし。
熊本城は熊本地震による被害から復興中ですが、まだ全体の2割ほどしか修復が終わっていないとのことで、痛々しい傷跡が残されたままでした。

旅行の満足度
4.0
  • 人吉で食事をする時間がなかったので、お腹がペコペコ。<br />熊本来たら、熊本ラーメンということで黒亭にやってきました。<br />結果的に中途半端な時間だったので、並ぶことなく着席。<br />デジカメが急に不調になったようで、ラーメンの写真が残っていなかった。。

    人吉で食事をする時間がなかったので、お腹がペコペコ。
    熊本来たら、熊本ラーメンということで黒亭にやってきました。
    結果的に中途半端な時間だったので、並ぶことなく着席。
    デジカメが急に不調になったようで、ラーメンの写真が残っていなかった。。

    熊本ラーメン 黒亭 下通店 グルメ・レストラン

  • 熊本城前の西南の役回顧の碑。<br />西南の役で鹿児島から北上してきた西郷軍13,000人に包囲された谷干城率いる官軍3,500人は、熊本城で50日余りの籠城戦を戦い、援軍が来るまで守り抜きました。

    熊本城前の西南の役回顧の碑。
    西南の役で鹿児島から北上してきた西郷軍13,000人に包囲された谷干城率いる官軍3,500人は、熊本城で50日余りの籠城戦を戦い、援軍が来るまで守り抜きました。

  • 熊本城を築城した城づくりの名人でもある加藤清正像。

    熊本城を築城した城づくりの名人でもある加藤清正像。

  • 熊本城への入口に立っている大きな石碑。

    熊本城への入口に立っている大きな石碑。

  • 重要文化財にも指定されている長塀。<br />坪井川に沿って、242Mも真っ直ぐに続く城壁です。<br />熊本地震で一部が崩れましたが、令和3年(2021)に復旧が完了しました。

    重要文化財にも指定されている長塀。
    坪井川に沿って、242Mも真っ直ぐに続く城壁です。
    熊本地震で一部が崩れましたが、令和3年(2021)に復旧が完了しました。

  • 熊本城敷地内に設けられた「桜の馬場 城彩苑」。<br />城下町をイメージした建物内に多くの飲食店や土産物屋が並んでいて、多くの観光客や修学旅行生で賑わっていました。

    熊本城敷地内に設けられた「桜の馬場 城彩苑」。
    城下町をイメージした建物内に多くの飲食店や土産物屋が並んでいて、多くの観光客や修学旅行生で賑わっていました。

  • 平成15年(2003)に復元された未申櫓。<br />南西に位置している事から、方角を表す名前が付けられています。<br />2層3階の櫓です。

    平成15年(2003)に復元された未申櫓。
    南西に位置している事から、方角を表す名前が付けられています。
    2層3階の櫓です。

  • 未申櫓が建っている奉行丸を囲む石垣は、金網で崩れないように補強されていました。熊本地震による被害からの熊本城復興計画は、2052年完了予定とのことなので修復待ちなのかもしれません。

    未申櫓が建っている奉行丸を囲む石垣は、金網で崩れないように補強されていました。熊本地震による被害からの熊本城復興計画は、2052年完了予定とのことなので修復待ちなのかもしれません。

  • 平成元年(1989)に復元された数寄屋丸二階御広間。<br />修復待ちの状態なので、熊本地震の影響で崩れた中央付近の石垣や歪んでひび割れている建物もそのまま残されています。

    平成元年(1989)に復元された数寄屋丸二階御広間。
    修復待ちの状態なので、熊本地震の影響で崩れた中央付近の石垣や歪んでひび割れている建物もそのまま残されています。

  • 櫓を組んで修復中の箇所。<br />建物だけではなく、土台となる石垣のダメージも大きいので、解体して一から修復するとなると何十年も修復に時間が掛かるのは当然ですね。

    櫓を組んで修復中の箇所。
    建物だけではなく、土台となる石垣のダメージも大きいので、解体して一から修復するとなると何十年も修復に時間が掛かるのは当然ですね。

  • 天守と二様の石垣を眺められる場所。<br />既存の石垣の上に石垣を継ぎ足したことが分かる場所です。<br />修復途中でも城内見学が出来るように設けられた特別見学ルートは高い位置にあるので、下から眺めるよりは全体が見やすいかもしれません。

    天守と二様の石垣を眺められる場所。
    既存の石垣の上に石垣を継ぎ足したことが分かる場所です。
    修復途中でも城内見学が出来るように設けられた特別見学ルートは高い位置にあるので、下から眺めるよりは全体が見やすいかもしれません。

  • 天守と壁の剥落した本丸御殿大広間。<br />以前、熊本城を訪れた際には、本丸御殿大広間は復元されておらず、今回も修復が終わっていないため、まだ一度も見る事が出来ていません。

    天守と壁の剥落した本丸御殿大広間。
    以前、熊本城を訪れた際には、本丸御殿大広間は復元されておらず、今回も修復が終わっていないため、まだ一度も見る事が出来ていません。

    熊本城 名所・史跡

    復旧途中の日本三名城の一つ by 赤い彗星さん
  • 本丸御殿大広間の闇り通路。建物の下に設けられた地下通路です。<br />本丸御殿は地震の被害を受けましたが、闇り通路は被害が無く、天守閣に向かう際に通る事が出来ます。<br />ここまで来て、デジカメに黒亭以降の写真が残っていないことに気付いた。<br />普段であれば別ルートを進んでそのまま城外に出たりするのだけど、今回は元のルートを戻りながら写真を撮り直し。

    本丸御殿大広間の闇り通路。建物の下に設けられた地下通路です。
    本丸御殿は地震の被害を受けましたが、闇り通路は被害が無く、天守閣に向かう際に通る事が出来ます。
    ここまで来て、デジカメに黒亭以降の写真が残っていないことに気付いた。
    普段であれば別ルートを進んでそのまま城外に出たりするのだけど、今回は元のルートを戻りながら写真を撮り直し。

  • 鎧と加藤清正の兜が用意され、顔部分だけ穴が開いている記念撮影用の顔出し”パネル”ではなく、顔出し人形とでも言うのかな。

    鎧と加藤清正の兜が用意され、顔部分だけ穴が開いている記念撮影用の顔出し”パネル”ではなく、顔出し人形とでも言うのかな。

  • 熊本市のイメージキャラクター「ひごまる」。<br />妖精さんということで、熊本城の子供のようなキャラクターです。

    熊本市のイメージキャラクター「ひごまる」。
    妖精さんということで、熊本城の子供のようなキャラクターです。

  • 天守閣前広場から眺めた大天守と小天守。

    天守閣前広場から眺めた大天守と小天守。

  • 熊本城は、姫路城・名古屋城と共に日本三名城の一つに挙げられています。<br />どの城も大きな天守を備え、城郭の敷地も広大なお城ばかりですね。

    熊本城は、姫路城・名古屋城と共に日本三名城の一つに挙げられています。
    どの城も大きな天守を備え、城郭の敷地も広大なお城ばかりですね。

  • 天守の最下層は、がっちりとした鉄筋に支えられて、耐震化が図られていました。

    天守の最下層は、がっちりとした鉄筋に支えられて、耐震化が図られていました。

  • 天守内で展示されている天守軸組模型。<br />模型ではありますが、縮尺1/10の大きさなので人よりも大きいぐらいの模型です。

    天守内で展示されている天守軸組模型。
    模型ではありますが、縮尺1/10の大きさなので人よりも大きいぐらいの模型です。

  • こちらは大天守最上段部分のみを復元した御上段模型。

    こちらは大天守最上段部分のみを復元した御上段模型。

  • 外観だけではなく、内部の襖絵まで忠実に再現されています。

    外観だけではなく、内部の襖絵まで忠実に再現されています。

  • 幕末か明治初期に撮られた在りし日の熊本城の写真。<br />周りに高い建物も無い時代なので、現代以上に熊本の象徴的な建物としての役割を担っていたんでしょうね。

    幕末か明治初期に撮られた在りし日の熊本城の写真。
    周りに高い建物も無い時代なので、現代以上に熊本の象徴的な建物としての役割を担っていたんでしょうね。

  • 在りし日の天守と小天守。<br />所々剥落している個所もありますが、台風や雷などで致命的な損害を受ける事もなく、明治時代まで300年近く残ったのは奇跡的な確率なのかもしれません。<br />西南戦争の籠城戦が始まる前に故意に火をつけたとも云われていますが、戦火にも合わずに現在まで残されていたら、規模的にも姫路城に匹敵するような歴史遺産になっていたでしょうね。

    在りし日の天守と小天守。
    所々剥落している個所もありますが、台風や雷などで致命的な損害を受ける事もなく、明治時代まで300年近く残ったのは奇跡的な確率なのかもしれません。
    西南戦争の籠城戦が始まる前に故意に火をつけたとも云われていますが、戦火にも合わずに現在まで残されていたら、規模的にも姫路城に匹敵するような歴史遺産になっていたでしょうね。

  • 第三の天守とも呼ばれる五層の巨大な櫓・宇土櫓。<br />熊本地震での被害修復のため、解体を進めている最中でした。

    第三の天守とも呼ばれる五層の巨大な櫓・宇土櫓。
    熊本地震での被害修復のため、解体を進めている最中でした。

  • 天守の展望台からの小天守。

    天守の展望台からの小天守。

  • 天守から眺めた天守閣前広場。

    天守から眺めた天守閣前広場。

  • 「桜の馬場 城彩苑」に一角を占めている熊本城ミュージアム わくわく座。<br />楽しみながら学べる体験型ミュージアムとなっていて、外国人観光客や子供が喜びそうだなあという展示内容に感じました。

    「桜の馬場 城彩苑」に一角を占めている熊本城ミュージアム わくわく座。
    楽しみながら学べる体験型ミュージアムとなっていて、外国人観光客や子供が喜びそうだなあという展示内容に感じました。

    熊本城ミュージアム わくわく座 名所・史跡

  • レゴで造られた熊本城の模型。

    レゴで造られた熊本城の模型。

  • 複製された十三幡連馬験。<br />加藤清正の馬印で、旗には加藤家の家紋が記されています。

    複製された十三幡連馬験。
    加藤清正の馬印で、旗には加藤家の家紋が記されています。

  • 熊本城前で見かけた、原哲夫氏が描いた花の慶次かと思ったら、加藤清正がデザインされたタクシー。個人タクシーではなさそうなので、タクシー会社が依頼したのかな。

    熊本城前で見かけた、原哲夫氏が描いた花の慶次かと思ったら、加藤清正がデザインされたタクシー。個人タクシーではなさそうなので、タクシー会社が依頼したのかな。

  • 時間は一気に飛んで、翌日の午後。<br />午前中は阿蘇神社に参拝し、午後熊本市内に戻ってきました。<br />阿蘇からの帰りのバスを水前寺公園前で降り、水前寺公園周辺を散策します。

    時間は一気に飛んで、翌日の午後。
    午前中は阿蘇神社に参拝し、午後熊本市内に戻ってきました。
    阿蘇からの帰りのバスを水前寺公園前で降り、水前寺公園周辺を散策します。

    熊本洋学校教師館 (ジェーンズ邸 日赤記念館) 名所・史跡

  • バス停近くの熊本洋学校教師ジェーンズ邸は、明治4年(1871)に教師用の官舎として建てられ、幾度かの移築や用途変更を経ながら保存されていた熊本県内最古の洋館でしたが、平成28年(2016)の熊本地震で全壊してしまいました。<br />令和4年(2022)に現在の電車通り沿いに移築・復旧されています。

    バス停近くの熊本洋学校教師ジェーンズ邸は、明治4年(1871)に教師用の官舎として建てられ、幾度かの移築や用途変更を経ながら保存されていた熊本県内最古の洋館でしたが、平成28年(2016)の熊本地震で全壊してしまいました。
    令和4年(2022)に現在の電車通り沿いに移築・復旧されています。

  • アメリカ人のジョーンズは教師として赴任後、洋風の食事(パン、牛肉、牛乳等)や印刷機、西洋農具などを使った生活改善を図り、熊本に多大な影響を与えた人物だったようです。

    アメリカ人のジョーンズは教師として赴任後、洋風の食事(パン、牛肉、牛乳等)や印刷機、西洋農具などを使った生活改善を図り、熊本に多大な影響を与えた人物だったようです。

  • 水前寺公園のすぐ横に位置している夏目漱石の第3旧居にやってきました。

    水前寺公園のすぐ横に位置している夏目漱石の第3旧居にやってきました。

    夏目漱石第3旧居(大江旧居) 名所・史跡

  • 夏目漱石は、熊本で暮らしていた間に何度も引っ越しをし、6ヶ所の家にすんでいました。漱石が、3ヶ所目の住まいとしていた大江村の旧居を現在地に移築復元したものです。

    夏目漱石は、熊本で暮らしていた間に何度も引っ越しをし、6ヶ所の家にすんでいました。漱石が、3ヶ所目の住まいとしていた大江村の旧居を現在地に移築復元したものです。

  • 円窓や床の間があり、京都のお寺にでも来たような造りの小さな部屋。

    円窓や床の間があり、京都のお寺にでも来たような造りの小さな部屋。

  • 教師時代に同僚であった大正天皇の侍従を務めた落合東郭が、東京勤務で不在だった7ヵ月の間、東郭から借りていた部屋です。<br />漱石はかなりこの邸宅を気に入っていたようですが、東郭が東京勤務を終え、熊本に還ってくることになったため、引っ越しを余儀なくされたようです。

    教師時代に同僚であった大正天皇の侍従を務めた落合東郭が、東京勤務で不在だった7ヵ月の間、東郭から借りていた部屋です。
    漱石はかなりこの邸宅を気に入っていたようですが、東郭が東京勤務を終え、熊本に還ってくることになったため、引っ越しを余儀なくされたようです。

  • 水前寺成趣園に北門から入場。<br />北門近くの稲荷神社。京都の伏見稲荷大社の御分霊を祀っている出水神社の末社です。

    水前寺成趣園に北門から入場。
    北門近くの稲荷神社。京都の伏見稲荷大社の御分霊を祀っている出水神社の末社です。

  • 富士山に見立てた築山。

    富士山に見立てた築山。

  • 水前寺成趣園は、初代熊本藩主の細川忠利が、豊前中津の羅漢寺から熊本に来ていた玄宅和尚のために水前寺を建立し、茶屋を設けたのが始まりです。

    水前寺成趣園は、初代熊本藩主の細川忠利が、豊前中津の羅漢寺から熊本に来ていた玄宅和尚のために水前寺を建立し、茶屋を設けたのが始まりです。

    水前寺成趣園 名所・史跡

  • 水前寺成趣園は、大きな池を中心にした池泉式回遊庭園です。<br />池の水は、阿蘇の伏流水が湧き出ているそうです。<br />熊本は地下水が豊富な土地ですし、よく見なかったけど池の水も澄んでたのかな。庭園の池は、緑に濁っているイメージがあるので。

    水前寺成趣園は、大きな池を中心にした池泉式回遊庭園です。
    池の水は、阿蘇の伏流水が湧き出ているそうです。
    熊本は地下水が豊富な土地ですし、よく見なかったけど池の水も澄んでたのかな。庭園の池は、緑に濁っているイメージがあるので。

  • 庭園内には、出水神社が鎮座しています。<br />水前寺成趣園は、この出水神社が所有・管理しています。

    庭園内には、出水神社が鎮座しています。
    水前寺成趣園は、この出水神社が所有・管理しています。

    出水神社 寺・神社・教会

  • 西南戦争で荒廃した熊本の復興を願って、旧熊本藩士を中心に建立された神社です。肥後細川家の初代細川藤孝公を始めとした歴代藩主や二代忠興夫人のガラシャが祀られています。<br />明治11年創建時の社殿は太平洋戦争時の戦災で焼失し、昭和48年に復元されたものが現在の社殿です。

    西南戦争で荒廃した熊本の復興を願って、旧熊本藩士を中心に建立された神社です。肥後細川家の初代細川藤孝公を始めとした歴代藩主や二代忠興夫人のガラシャが祀られています。
    明治11年創建時の社殿は太平洋戦争時の戦災で焼失し、昭和48年に復元されたものが現在の社殿です。

  • 「長寿の水」と呼ばれている御神水。<br />阿蘇火山系の水を湛えている石水盤は、二代忠興が「袈裟」と名付け、庭に置いて楽しんでいたものを使用しています。

    「長寿の水」と呼ばれている御神水。
    阿蘇火山系の水を湛えている石水盤は、二代忠興が「袈裟」と名付け、庭に置いて楽しんでいたものを使用しています。

  • 季節は丁度合間でしたが、庭園内には梅や桜、肥後の名花なども植えられており、季節の花も楽しむ事が出来るようです。

    季節は丁度合間でしたが、庭園内には梅や桜、肥後の名花なども植えられており、季節の花も楽しむ事が出来るようです。

  • 京都御所内にあった古今伝授の間を復元した建物。

    京都御所内にあった古今伝授の間を復元した建物。

  • 細川藤孝(幽斎)が、後陽成天皇の弟にあたる智仁親王に古今伝授を行った「古今伝授の間」。京都御所内の部屋が復元されたものです。<br />関ケ原の合戦前の争いで東軍に付いた細川家は、当主の忠興が東国に従軍しており、西軍に包囲される中、留守居の幽斎が田辺城に籠城していました。<br />幽斎の戦死を恐れた後陽成天皇が、田辺城に勅使を送り開城することで、幽斎の命もメンツも保たれ、無事古今伝授も継続する事が出来ました。

    細川藤孝(幽斎)が、後陽成天皇の弟にあたる智仁親王に古今伝授を行った「古今伝授の間」。京都御所内の部屋が復元されたものです。
    関ケ原の合戦前の争いで東軍に付いた細川家は、当主の忠興が東国に従軍しており、西軍に包囲される中、留守居の幽斎が田辺城に籠城していました。
    幽斎の戦死を恐れた後陽成天皇が、田辺城に勅使を送り開城することで、幽斎の命もメンツも保たれ、無事古今伝授も継続する事が出来ました。

  • 徳富蘇峰の旧邸と徳富記念館で構成された徳富記念園にやってきました。<br />旧邸は外観見学のみ可で中に入ることは出来ませんでした。<br />明治3年に水俣から、徳富家が移り住んだ邸宅です。<br />明治というより、昭和の香りがするような建物に感じます。

    徳富蘇峰の旧邸と徳富記念館で構成された徳富記念園にやってきました。
    旧邸は外観見学のみ可で中に入ることは出来ませんでした。
    明治3年に水俣から、徳富家が移り住んだ邸宅です。
    明治というより、昭和の香りがするような建物に感じます。

    徳富記念園 美術館・博物館

  • 教科書で見かけたことがあるぐらいの知識しかありませんでしたが、明治初期の神風連の乱や西南戦争なども子供の頃に体験していたんですね。

    教科書で見かけたことがあるぐらいの知識しかありませんでしたが、明治初期の神風連の乱や西南戦争なども子供の頃に体験していたんですね。

  • 熊本の総鎮守と呼ばれている藤崎八旛宮にやってきました。<br />承平5年(935年)に朱雀天皇により、平将門の乱平定を祈願するために創建された古い神社です。

    熊本の総鎮守と呼ばれている藤崎八旛宮にやってきました。
    承平5年(935年)に朱雀天皇により、平将門の乱平定を祈願するために創建された古い神社です。

  • 当初は石清水八幡大神を祀るために藤崎台に創建されましたが、西南戦争で社殿が焼失してしまったために現在地に再建されました。

    当初は石清水八幡大神を祀るために藤崎台に創建されましたが、西南戦争で社殿が焼失してしまったために現在地に再建されました。

    藤崎八旛宮 寺・神社・教会

  • ほぼ一日中雨だったため、境内には人がいない。。

    ほぼ一日中雨だったため、境内には人がいない。。

  • 参拝を終えた後、帰京するために熊本空港に向かいましたが、このような天気だったこともあり、空港が濃霧に覆われ飛行機が降りられない事態に。<br />結局遅れに遅れてどうにか着陸。無事羽田に向けて離陸出来ましたが、自宅に着いた時にはほぼ午前様でした。。

    参拝を終えた後、帰京するために熊本空港に向かいましたが、このような天気だったこともあり、空港が濃霧に覆われ飛行機が降りられない事態に。
    結局遅れに遅れてどうにか着陸。無事羽田に向けて離陸出来ましたが、自宅に着いた時にはほぼ午前様でした。。

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