
2023/03/04 - 2023/03/04
342位(同エリア348件中)
ちふゆさん
2023年3月4日(土)、午後からのサンガの試合を見に行く前に、サンガスタジアムの北、亀岡市北部の川東地域を歩いた。10時半過ぎ、山陰本線の千代川(ちよかわ)駅に到着。亀岡市で一番北側の駅。
山陰本線に付いては、以下に書いたが、京都から園部までは1899年(明治32年)に開通。1990年に電化、2009年に複線化されている。
https://4travel.jp/travelogue/11748728
千代川駅は1933年(昭和8年)の山陰本線全通後の1935年(昭和10年)に開業。1987年の国鉄分割民営化によりJR西の駅となった。相対式ホーム2面2線を持つ地上駅。下りホームの2番線の外側に開業時からの木造駅舎がある(下の写真1)。
駅の名前は、駅が出来た当時は桂川右岸(西)のこの辺りが千代川村だったことから来ている。千代川村は1889年(明治22年)の町村制の施行により、北ノ庄村・湯井村・拝田村・川関村・千原村・今津村・高野林村・小川村・小林村の区域をもって発足したが、1955年の亀岡市誕生に伴って消滅した。今も亀岡市千代川町で名前は残る。
亀岡市と京都府に付いては以前に書いた。
https://4travel.jp/travelogue/11748728
https://4travel.jp/travelogue/11837208
跨線橋を渡って東口に出る。2016年に東口駅前にもロータリーが出来た。ロータリーの前の道を北に進み、突き当りを右折すると3分ほどで月読橋に出る。橋の名は多分だが、千代川駅の南西、国道9号線(旧山陰道)沿いにある月読神社から取られたと思われる。1973年竣工(下の写真2)。
月読橋が架かっているのは桂川だが、この辺りは大堰(おおい)川と呼ばれている。桂川は京都市左京区の奥、広河原から美山町へ向かう佐々里峠から花脊、京北を経て園部に出て、八木、亀岡から保津峡を抜けて桂に出、木津川・宇治川と合流して淀川となる全長107kmの川だが、通称として部分的に大堰川や保津川、上桂川と呼ばれる。
大堰川は主に園部から嵐山の渡月橋までの間だが、亀岡から保津峡を流れる間は保津川となる。大堰は渡来人の秦氏が下流域に大堰(おおぜき)を築いて開拓したことから名付けられた。ちなみに桂川は渡月橋の先で桂の里(旧桂村)を通っていたことから来ている。
月読橋を渡ると川東地域に入る。亀岡北部の大堰川左岸の馬路・千歳・河原林・旭の各町は総称して川東と呼ばれる。東部の愛宕山系を水源とする七谷川や三俣川の扇状地。古代の山陰道は川東を縦断していた。
月読橋を渡ったところは旧馬路(うまじ)村だった。1889年(明治22年)の町村制の施行により、馬路村・大芝原新田の区域をもって発足したが、1955年の亀岡市誕生に伴って消滅した。今も亀岡市馬路町として名前は残る。
馬路村を中心とする川東地域は、かつての古代丹波の中心地として栄え、右岸より早くから拓けていた。その後は「京の台所」として、豊富な食材をや材木等の一大供給地として京の都を支えて来た。馬路は狭いを意味する「せまじ」から来ているものと思われ、馬路郷の集落を抜ける古代の山陰道が狭かったことから来ているのではと云われる。
戦国時代から馬路は身分的には百姓だが苗字帯刀の特権をもつ地侍の人見と中川の2家の郷士が支配しており、「馬路の両苗」と呼ばれていた。この両苗一族の中の一人が我が母校である立命館大学の創始者の中川小十郎。その叔父の中川謙二郎は東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)校長などを務めた。
月読橋を渡った先に南丹高校がある(下の写真3)が、大堰川左岸の堤防に折れて下流に進む。南丹高校は1979年創立の府立高校。普通科を置かず、普通科の5倍以上の科目から選択できる総合学科のみ設置されている。
大堰川左岸の堤防を南に進み、旧河原林村エリアに入るが、続く
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旅行記グループ
亀岡川東
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