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2023年3月4日(土)お昼前の11時半過ぎ、日吉神社から七谷川の南を東に歩き、亀岡市最北東部の旭町の中心部の国道477号線から南に進み、大堰川を渡って亀岡市河原町で国道9号線までを結ぶ京都府道405号郷ノ口余部線を南に少し進んで、東側に入った先にある丹波国分寺跡に到着。<br /><br />この辺りは旧千歳(ちとせ)村だった。1875年(明治8年)に出雲村・中村・江島里村・小口村が合併して千歳村となり、1889年(明治22年)の町村制の施行により、国分村、毘沙門村も含めて千歳村となったが、1955年の亀岡市誕生に伴って消滅した。今も亀岡市千歳町として名前は残る。千歳はおそらく出雲大神宮があることから来ていると思われる。<br /><br />丹波国分(僧)寺は明確な創建は不詳だが、出土瓦から創建は奈良時代末期と見られている。聖武天皇の発願によって全国に建立された国分寺の一つで、9世紀初頭までに伽藍が整えられたと考えられている。この付近は古代丹波国の中心地で、現在も跡地の北に丹波国一宮の出雲大神宮や千歳車塚古墳などが残る。<br /><br />平安時代初期から中期の間に塔や金堂が廃絶し、平安時代末期頃に再建したものと発掘調査で認められている。しかし、律令制の衰微とともに国家の財政的な庇護を失い、鎌倉時代には金堂も焼失した。そして、戦国時代の明智光秀の丹波攻めにより焼失し、山門は亀山城の雷門に、また毘沙門天は亀山城内に鎮守されたと伝わる。<br /><br />1982年から86年に掛けて発掘調査が実施され、伽藍の規模及び主要な建物の配置等が確認された。現在は「丹波国分寺跡 附八幡神社跡」として国の史跡に指定されている。<br /><br />寺域は2町(約218m)四方あり、金堂、塔(七重塔)、中門、僧房、鐘楼等の遺構や鎮守社の八幡神社と見られる遺構が認められた。西に金堂、東に塔を配した法起寺式伽藍配置で、これらを取り囲み回廊が巡らされた(ただし回廊は南面のみで他3面は築地の可能性もある)。<br /><br />金堂は現境内の南西、山門西側にあり、創建当初の瓦積基壇は南辺25m、平安時代末期頃の再建時の乱石積基壇は東西19.6m、南北15.4m、高さ約1.2mで、南面中央に幅9.5mの階段4段を有した。再建建物の推定規模は東西桁行15.8m、南北梁行11.6mで、桁行5間・梁行4間。この再建建物は上述のように鎌倉時代後期に焼失した。<br /><br />七重塔は現境内の南東、山門東側にあり、創建当初の基壇は15.6m四方、平安時代末期頃の再建時の基壇は16.4m四方。基壇上には建物跡として出柄式の礎石17個が完存。塔の初層の一辺は8.9m、中央間は3.1mで脇間は2.9m。<br /><br />講堂は現本堂と重複。瓦積基壇で、東西32.8m、南北20.9m。基壇上の建物は東西桁行26.8m、南北梁行14.9mで、桁行7間・梁行4間。<br /><br />僧房は現本堂北側で瓦積基壇だった。基壇上の建物は、東西桁行の柱間は3.6m、南北梁行の柱間のうち北側3間は3.3mで南側1間は3m。これより、南側1間は通路部分と推定される。<br /><br />なお寺跡から1km足らず東にある愛宕神社の境内社に八幡宮神社があるが、江戸後期の1835年に国分寺鎮守社を遷座したものと伝わる。<br /><br />府道から300mほど東に進むと寺跡に建てられている丹波国分寺に到着。光秀の丹波攻めにで焼失した後、江戸中期の1774年に建立された寺院で、丹波国国分(僧)寺の後継寺院にあたる。浄土宗の寺院で、山号は護国山。本尊は薬師如来。無住で亀岡城址の南にある専念寺により管理されている。<br /><br />残こっている本堂、山門、鐘楼は、いずれも1774年に建てらえたもの。いずれも亀岡市指定文化財に指定されている。本堂は上述したように講堂跡に建てられている。本堂には国の重文に指定されているご本尊の木造薬師如来坐像が納められている。平安時代後期の作。<br /><br />また、境内には古い石仏が集められた石仏群や亀岡市指定天然記念物の雌株のオハツキイチョウや雄株のカゴノキ、ムクノキもある。オハツキイチョウはイチョウの変種で葉の上に実を付けるもので、全国に20本ほどしかない珍しいもの。枝からの突起物(気根)に触れると母乳がよく出ると伝えられ、乳(ちぶさ)イチョウと呼ばれて信仰されている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.28118167787826545&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />聖武天皇は国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置するように命じており、府道に戻って少し南から西に入ったころにある御上人林(おしょうにんばやし)廃寺跡が丹波国分尼寺跡と比定されている。行ってない。<br /><br /><br />府道を南に進んで旧勝林島村に向かうが、続く

京都 亀岡 千歳 丹波国分寺跡(Ruin of Tanba Kokubunji temple,Chitose,Kameoka,Kyoto)

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2023/03/04 - 2023/03/04

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旅行記グループ 亀岡川東

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年3月4日(土)お昼前の11時半過ぎ、日吉神社から七谷川の南を東に歩き、亀岡市最北東部の旭町の中心部の国道477号線から南に進み、大堰川を渡って亀岡市河原町で国道9号線までを結ぶ京都府道405号郷ノ口余部線を南に少し進んで、東側に入った先にある丹波国分寺跡に到着。

この辺りは旧千歳(ちとせ)村だった。1875年(明治8年)に出雲村・中村・江島里村・小口村が合併して千歳村となり、1889年(明治22年)の町村制の施行により、国分村、毘沙門村も含めて千歳村となったが、1955年の亀岡市誕生に伴って消滅した。今も亀岡市千歳町として名前は残る。千歳はおそらく出雲大神宮があることから来ていると思われる。

丹波国分(僧)寺は明確な創建は不詳だが、出土瓦から創建は奈良時代末期と見られている。聖武天皇の発願によって全国に建立された国分寺の一つで、9世紀初頭までに伽藍が整えられたと考えられている。この付近は古代丹波国の中心地で、現在も跡地の北に丹波国一宮の出雲大神宮や千歳車塚古墳などが残る。

平安時代初期から中期の間に塔や金堂が廃絶し、平安時代末期頃に再建したものと発掘調査で認められている。しかし、律令制の衰微とともに国家の財政的な庇護を失い、鎌倉時代には金堂も焼失した。そして、戦国時代の明智光秀の丹波攻めにより焼失し、山門は亀山城の雷門に、また毘沙門天は亀山城内に鎮守されたと伝わる。

1982年から86年に掛けて発掘調査が実施され、伽藍の規模及び主要な建物の配置等が確認された。現在は「丹波国分寺跡 附八幡神社跡」として国の史跡に指定されている。

寺域は2町(約218m)四方あり、金堂、塔(七重塔)、中門、僧房、鐘楼等の遺構や鎮守社の八幡神社と見られる遺構が認められた。西に金堂、東に塔を配した法起寺式伽藍配置で、これらを取り囲み回廊が巡らされた(ただし回廊は南面のみで他3面は築地の可能性もある)。

金堂は現境内の南西、山門西側にあり、創建当初の瓦積基壇は南辺25m、平安時代末期頃の再建時の乱石積基壇は東西19.6m、南北15.4m、高さ約1.2mで、南面中央に幅9.5mの階段4段を有した。再建建物の推定規模は東西桁行15.8m、南北梁行11.6mで、桁行5間・梁行4間。この再建建物は上述のように鎌倉時代後期に焼失した。

七重塔は現境内の南東、山門東側にあり、創建当初の基壇は15.6m四方、平安時代末期頃の再建時の基壇は16.4m四方。基壇上には建物跡として出柄式の礎石17個が完存。塔の初層の一辺は8.9m、中央間は3.1mで脇間は2.9m。

講堂は現本堂と重複。瓦積基壇で、東西32.8m、南北20.9m。基壇上の建物は東西桁行26.8m、南北梁行14.9mで、桁行7間・梁行4間。

僧房は現本堂北側で瓦積基壇だった。基壇上の建物は、東西桁行の柱間は3.6m、南北梁行の柱間のうち北側3間は3.3mで南側1間は3m。これより、南側1間は通路部分と推定される。

なお寺跡から1km足らず東にある愛宕神社の境内社に八幡宮神社があるが、江戸後期の1835年に国分寺鎮守社を遷座したものと伝わる。

府道から300mほど東に進むと寺跡に建てられている丹波国分寺に到着。光秀の丹波攻めにで焼失した後、江戸中期の1774年に建立された寺院で、丹波国国分(僧)寺の後継寺院にあたる。浄土宗の寺院で、山号は護国山。本尊は薬師如来。無住で亀岡城址の南にある専念寺により管理されている。

残こっている本堂、山門、鐘楼は、いずれも1774年に建てらえたもの。いずれも亀岡市指定文化財に指定されている。本堂は上述したように講堂跡に建てられている。本堂には国の重文に指定されているご本尊の木造薬師如来坐像が納められている。平安時代後期の作。

また、境内には古い石仏が集められた石仏群や亀岡市指定天然記念物の雌株のオハツキイチョウや雄株のカゴノキ、ムクノキもある。オハツキイチョウはイチョウの変種で葉の上に実を付けるもので、全国に20本ほどしかない珍しいもの。枝からの突起物(気根)に触れると母乳がよく出ると伝えられ、乳(ちぶさ)イチョウと呼ばれて信仰されている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.28118167787826545&type=1&l=223fe1adec

聖武天皇は国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置するように命じており、府道に戻って少し南から西に入ったころにある御上人林(おしょうにんばやし)廃寺跡が丹波国分尼寺跡と比定されている。行ってない。


府道を南に進んで旧勝林島村に向かうが、続く

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