2024/02/24 - 2024/02/24
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morisukeさん
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オッサンネコです。
それは戦後まもない日本のお話。
経済復興。
それは戦争で壊滅的なダメージを受けた日本の大きな課題でした。
一にも二にも経済復興ファーストの施策が採択されていったわけですが、
鉄道輸送や重工業の発展の為に、石炭は貴重な燃料源であり、
資源に乏しい日本では、国策に近い形で石炭の増産が進められました。
しかし、時は間もなくエネルギーの主役は石油の時代に切り替わり、
国策の特需は長く続かず、日本各地で石炭の需要は激減していきます。
日本最大級の炭鉱であった「三井三池炭鉱」も来る波には抗えず、
経営合理化を迫られる事になります。
そんな背景の中で三井三池炭鉱が起こした日本最大級の二つの事件。
戦後最大の労働争議と、戦後最悪の炭塵爆発事故。
結局、この二つの事件の後、日本の炭鉱産業は衰退の一途を辿る事になり、
三井三池炭鉱も時代の潮流と共に、1997年に閉山となるのです。
そして時は流れて現在、
「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産に登録されたのを皮切りに、
激動の時代を駆け抜けた炭鉱産業の歴史を後世に伝える思念が活発化。
三井三池炭鉱も、ずっと放置されていた施設の一部が公開されるなど、
その価値を見直すムーブメントが巻き起こっているのであります。
過去から学ぶことをモットー(緩々)にしているモリネコにとって、
そんな吉報を聞いてしまったからには… 行かねばならぬでしょう。
果たして再び時が流れ始めた炭鉱遺跡は何を語るのか?
そこには想像の斜め上を行く廃業当時のありのままの姿があったのでした。
その時の記録です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自転車 ANAグループ 私鉄
-
前回のお話からの続きになります (`∀´*)
新銀座商店街を見学した後、駅前の観光プラザでチャリをレンタル。
終日1,100円とお値段張りますが、まぁ機動力が上がるので致し方なし。
というわけで、少し頼りないチャリのペダルをキコキコ回して、
無事に三池炭鉱 三川抗跡地までやってきました♪
三川抗跡地は土日のみ開放ですが、気になる料金は無料!
ホント大牟田市に感謝☆感謝です。
それでは張り切って中に入っていきまっしょい (´∀`*)ウフフ -
とりあえず事務所に声を掛けたのですが、
誰も出て来なかったので1人でぷらぷら回る事にします。
ガイドが付いてくれた方が「知」には繋がるんですけどね。
正面に見えるのが炭鉱マンたちが坑道に入る時に使った入昇坑口。
この先に大斜坑があり、そこから人車で採掘場に入っていったそうな。
此処から先は禁煙… そりゃそうですよね (*´з`) -
こちらは繰込み場と斜坑入口を繋ぐ連絡通路。
炭鉱マンたちがヤマに入る時は皆この通路を通って行ったわけですな。
今でも装備を整えた炭鉱マン達が出てきそうな雰囲気すら漂ってますが…
おや… (・-・`)?
当時の炭鉱マンを再現した人形が既にスタンバイしてる様ですね。 -
いやなんか思ってたんと違う ──Σ(゚Д゚;──ッッ!!!
私がイメージする炭鉱マンは、パズーの親方みたいな屈強な漢たちで、
こんな燃え尽きちまった後のあしたのジョーではない…。 -
顔がね…もう燃え尽きちまった感で満ち足りとるやないかい ( ゚Д゚)
否!炭鉱でのお仕事はここまで過酷だったと言いたいのか…
平凡な勤め人モリネコには到達できない世界…なのかもしれない。 -
繰込み場。
繰込みとは炭鉱用語で、その日その日の作業と各人の役割を決める事。
要はここで炭鉱マンたちがその日の持ち場の指示を受けてたわけですな。
残念ながら、今は老朽化が激しくネットで何とか原型を留めている状態。
見る限り昭和時代の木造建築…
そりゃあ遅かれ早かれこうなるよね ( ゚Д゚)
クラファンで資金を調達し、何とか再建をして欲しいものである。 -
イチオシ
こちら人車点検場。
まず三川坑最大の特徴「斜坑」についての話ですが、
炭鉱というのは、地下の奥底で石炭が層になっているので、
まず何とかしてその層まで到達する必要があるのです。
最もよく見られるのが竪掘りという垂直に穴をあける方法で、
垂直に彫った穴から石炭の層に沿って坑道を広げていく方法。
これはリフトで人や機材、石炭やボタを荷揚げしなければいけないので
時間と手間がかかるのです。
ラピュタに出てくる鉱山はまさに縦掘り式のスタイルですね。
一方で、三川坑は斜めに穴を掘っていく方法(斜坑)を採択しています。
三川坑は斜度12度の斜坑に計12台、全長2,070mのベルトコンベアを通し、
斜坑の先から伸びた坑道で採掘された石炭を一気に輸送するという
当時では最新の設備を導入し、石炭の増産体制を築き上げてきました。
斜坑はずっと海の方まで伸びており、実際に採掘を行っていた場所は
有明海の海底のさらに下の方だったわけです。
三池炭鉱はこの斜坑方式によって飛躍的に増産を成し遂げてきました。
ただ1960年代には海外産の廉価な石炭や石油の台頭により、
日本の石炭はさらに苦境に立たされる羽目になります。
三池炭鉱も経営合理化(増産体制と人員削減)の至上命題を課せられ、
最も軽視してはならない安全の観点がおざなりになっていった事で、
後の三池炭鉱炭塵爆発事故を引き起こす結果になったと言われています。 -
敷地内に放置されてある人車。ボロボロです。
三川坑には2本の斜坑がありましたが、
第一斜坑は石炭を運び出す坑道、第二斜坑は人を送り出す坑道、
この様に役割が異なっていました。
なので人車が放置されてあるこちらは第二坑道跡でござんす (*´з`) -
遠目から見た人車点検場と繰込み場。
レールまで残った状態を間近に見学できるのが素晴らしいっす (*´艸`)ムフフ -
敷地内にある山の神神社。
正しくは大山祗神社と言い、炭鉱の神が祀られています。
事故多き炭鉱ではゲンを担ぐためにもすがるものは必要だったんでしょう。 -
この狛犬がいつから此処に鎮座しているかは分からないのですが、
いろんな景色を見てきたんだろうなぁと (*´з`) -
敷地内はホント色んなものが放置されたままになっています。
この状態で公開に踏み切った大牟田市は立派なのである ( ´Д`)
コンプレッサー室の前にはトロッコが草ヒロ状態に…
10年後には完全に朽ち果て、ただ錆びた鉄の塊になっているのかなぁ。 -
この長い円筒状の物体は… ボイラーですかね。
当時、炭鉱マンたちが掘削に使っていたのはコールピックという機械。
ものすごく簡単に言うと、ツルハシを機械にした様なものですな。
炭鉱では採掘中に火花が出てしまうと、そりゃもう大変な事になるので、
コールピックの動力源には圧縮空気が使用されたのです (`∀´*)
恐らくは減圧する蒸気を取り込み、蒸気が膨張する際に出るエネルギーで
エアコンプレッサーを回し、圧縮空気を生成していたんじゃなかろうと。 -
逆側から見た巨大なボイラー装置。
とにかくそのスケール感に圧倒されますぞ ( ゚Д゚) -
外に放置されてあった巨大なワイヤーリール。
いや…でかいな… ( ゚Д゚)
この形を見ると、家庭科の裁縫の授業に出てきたボビンを思い出す…。
今も昔もソーイングは苦手です。 -
こちらは第一巻揚機室の宿直部屋…ですかね。
簡易的なベッドに毛布。
作業員が此処で交代で仮眠を取っていたのかな (*´д`) -
デスクには懐かしのクロ電話。
ここに電話カバーがあれば間違いなく「ザ・昭和」だったのですが、
野郎ばっかの職場にそんな繊細なものがある方が不自然ですな(笑)
これを見たら衝動的にジーコジコしたくなるのです (ノД`)・゜・。 -
宿直室に張ってあったカレンダー。
1997年11月で時が止まったままになっています。
三池炭鉱の閉山が1997年の3月末なので、
誰かが会社に残って何かしらの作業をしていたのでしょうか。
ちなみに日曜祝日が抜けていますが、どうやら色落ちしちゃってる模様。
時代の流れが定量的に見られる貴重なもの…なのかもしれんです `∀´)ウシシ -
第一巻揚機の巻揚げ機。
今すぐにでも動きそうな臨場感。
少しくすんだ緑色が時代の重みを醸し出してます。
やっぱ部屋は雨風がしのげるので装置の保存状態がいいですね。
ここでは第一斜坑の炭車(トロッコ)を引っ張っていました。
第一斜坑ではベルトコンベアで採掘した石炭を搬送していたのですが、
当然採掘には石炭以外の岩石(ボタ)もたくさん出る事になります。
第一斜坑にはベルトコンベアと並走する形で炭車の軌道が敷かれ、
この巻揚機でボタが積まれた炭車を引っ張っていたのです。
1963年の炭塵爆発事故は、このボタが積まれた炭車の連結ピンが外れ、
計8両の炭車が軌道を外れ逸走し、坑道内に浮揚した炭塵雲に着火して
発生した爆発事故だと言われています。 -
屋外にあった何かのタンク。
塗装が剥がれ落ち、下地の錆と緑が絶妙のコントラストになってます。
炭鉱はやたら緑色に塗装されているのですが、これは理由がありまして、
朝も昼も分からない暗闇の中で働く炭鉱マンに対して、
坑道から出てきた時に目の負担を軽減する色、それが緑なんだとか。
医学的根拠は不明です (*´з`) -
続いて第二巻揚機室。
ここでは第二斜坑の人車を引っ張っていました。
これを見て想像するのは、やはり天空の城ラピュタですかね。
パズーが昇降機のブレーキをかけ損ねてヒヤッとする場面がありましたが、
いやいや、炭鉱の記録では本当に昇降機の操作タイミングを間違えて
全員死亡なんて事故がざらにあったそうです ( ゚Д゚)コワッ -
第二巻揚機室の巻揚げ機。
こちらもひたすらにでかい ( ゚Д゚) -
巻揚げ機が2台あるので… 人車も2軌道あったんですかね。
こういう時、ガイドさんが付いてくれたらなぁとしみじみ思ふ (*´з`) -
ロッカーの中には当時の新聞が残っていました。
若花新小結 (・-・`)?
当方、相撲には疎いのでこれが何時なのか分かりませんが…
1997年の閉山と若干時代が合ってない気がすんだけどなぁ。 -
そして第一斜坑の今の姿。すでに坑口はコンクリートで埋められ、
その上に1963年の炭塵爆発で亡くなった方の慰霊碑が立てられています。
死者458名 負傷者839名 戦後最悪の炭鉱事故であるこの事件。
その原因を紐解くと、単なる事故ではなく人災事故だと位置付けられてます。
事故の真因を遡ると、1959年の三池争議に端を発する事になるのですが、
その前年、業績が悪化していた三井鉱山は1,200名の人員削減を決定。
解雇する人員の整理案を労働組合に提出したのがトリガーになって、
戦後最大の労働争議と言われる「三池争議」の発展に至りました。
結局、三池争議は組合側の敗北という形で結末を迎えるのですが、
解雇された1,200名の中には炭鉱の保安に携わる方が多く含まれており、
稼働を再開した現場は保安要員が絶対的に不足した状態だったそうです。
ちなみに、三池争議が収まった翌年1961年には16名の死者、
1962年には15名の死者、1963年の炭塵爆発の前までに16名の死者…
現場では、炭車を点検する人も、坑道内の炭塵を清掃する人も不足しており、
粉塵が舞うのを防止するための散水も行っていない。
そもそも炭塵爆発の怖さを教えられる人がいない。
真に起こるべくして起こった事故としか言いようがない気がします。
慰霊碑の前でただただ黙祷。
私たちにできる事はこの事故を語り継ぐ事。 -
イチオシ
屋外にはトロッコ(炭車)の実物も放置されています。
ラピュタに出てきた貨物車よりは小ぶりです(笑) -
こちらは第二斜坑に残された状態の良い人車。
炭鉱マンたちはこれに乗って地底の奥へと向かっていきました。
果たしてどんな気持ちで暗闇の中へ入っていったのか。
モリネコの様なゆるっと生きているマンには分からぬ心境なのでしょう。 -
人車とう乗注意事項。
これを見ると人車には「車掌」と呼ばれる人が乗っていたんですねぇ。
恐らくは巻揚げ室の操縦士と信号でやり取りしていたのではないかと。 -
イチオシ
坑口から眺め見る外の光。
暗闇から帰ってきた炭鉱マンと同じ景色を見ているわけですな (-ω-)/
あゝ光ってすんばらしい… -
第一斜坑の入り口。
奈落へと続く入り口は、現在冷たいコンクリで固く封鎖されています。
この封印が解かれる事は未来永劫ないはずですが、
この奥にはアリの巣状の地底世界が確かに存在するのです。
まるでパラレルワールドが実在するかの既視感…。
日本の経済成長を支えてくれた「炭鉱」に畏敬の念を抱くと共に、
炭鉱で働いた人たちの歴史を刻み、私たちは前に進むのでしょう。
三川坑跡はこれにておしまいですが、この話、もう少し続きます。
それではまた~ (=゚ω゚)ノ
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この旅行記へのコメント (6)
-
- Antonioさん 2025/01/11 08:27:08
- 若大将
- おはようございます。三池炭鉱と言えば、ジャイアンツの原元監督のお父様が地元チームの高校野球の監督だったのをいつも思い出しますね。
- morisukeさん からの返信 2025/01/20 19:38:30
- RE: 若大将
- Antonio様
こんばんは~。返信が遅くなりまして申し訳ありません。
三池炭鉱と言えば、皆様、原元監督のお父様の話を教えてくれるのですが、全く存じ上げませんでした。これは地元?その界隈?では有名なお話なのですね。
かつて炭鉱で栄えた町には、ひとつの大きな産業が去って、否が応にも衰退の影がちらつく負のイメージを感じ取ることが多いのですが、大牟田市は比較的穏やかで、地方再生(なんか住みやすそうな雰囲気)がうまく回っている気がしました 。完全に個人的主観ですが(笑)
今後ともよろしくお願いします。
Mori Neko
-
- Decoさん 2024/12/16 16:18:57
- 三川坑
- morisukeさん、こんにちは。度々失礼致します。
三川坑…またまたシブい場所に行かれましたね。
ガイドさんがいなかった(?)のは残念でした。遠方からの見学客が来られると、ガイドの皆さんのテンションが上がるようなのですよね(笑)
三川坑は三年程前から時折訪れていますが、行くたびに少しずつ崩壊しているように思います。特に繰込場は以前はもうちょっと建物としての形があったのですが…。他にも既に崩壊した建物もあるようです。
世界遺産に指定された三池炭鉱ですが、三川坑は大正時代からなので指定外で…厳しい市の財政の中、どれだけ維持して行けるのか心配です。ボランティアの皆さんが一生懸命に維持管理されているのですが。第二斜坑や事務棟のあたりはなんとか維持されると思いますが、それ以外は…。
今回の旅行記は、morisukeさんらしい見方が感じられるとともに、炭じん爆発事故やその背景もわかりやすく説明されていて、見応え読み応えがありました。慰霊碑や神社も取り上げてくださって、良かったと思いました。
Deco
- morisukeさん からの返信 2024/12/24 07:43:21
- RE: 三川坑
- Deco様
毎度、返事が遅れ申し訳ありません _(._.)_
三川坑、ガイドさんのお話を是非聞きたかったのですが、タイミング合わずでした。この後の万田坑もタイミング合わず、結局、宮原坑だけ付いてくれたのが幸いでした。やはり実際に話を聞く/聞かないではリアリティが違いますね。
三川坑は、皆様の過去の写真などを拝見していると、崩壊が加速しているのがよく分かります。我々「廃の人」にはその状態こそが美しいと思うのですが、これだけ歴史的価値のある建造物であれば、やはりもったいないと感じました (ノД`)・゜・。
炭塵爆発の事故は、事故の事後報告が論文になっていましたので、それを参考にしています。結局は政治的・社会的な背景があって、三池争議という大きな瑕があって、連鎖的な繋がりの中で起こった事故だと捉えると、起こるべくして起こった事がよく分かります。本当に教訓とすべき事故ではあるのですが、最近の若い世代の方はあまり知らないというのが少し寂しい気がします。
暮れの折、寒さも厳しさを増していますので、どうぞ体調にはご自愛くださいませ。
今後ともよろしくお願いします。
Mori Neko
-
- 万歩計さん 2024/12/03 18:39:06
- 三川抗跡
- morisukeさん、こんばんわ。
本旅行記、廃墟ファンとして興味深く拝見しました。
いやー、リアルですね。錆び付いた電車、ぼろぼろの木造建物、閉山と共に燃え尽きたような炭鉱マンの人形等。2代目若乃花(おにいちゃん)が新小結になった事を記事にした新聞は最高です。まさに閉山と共に放置され、そのまま時間が止まった世界です。今ここに人を配置して「パン!」と手を叩けば、人や機械ががそのまま動き出しそうです。
三井鉱山は世界遺産の指定を受けたことで、あちこちで修復保存が始まっています。しかしこのリアルさは何とか残してほしいものです。単なる「展示品」になれば、この世界遺産の魅力は半減すると思うのです。
万歩計
- morisukeさん からの返信 2024/12/05 16:00:22
- RE: 三川抗跡
- 万歩計様
いつもありがとうございます!
この荒廃の世界観に共感して頂いて嬉しい限りです d(-∀-*)
三川坑跡の何がすごいって、閉山時のそのままの姿が鮮やか?に残されているコトですかね(笑) 同じ三池炭鉱の中でも、世界遺産に登録されている万田坑や宮原坑とは明らかに異なる点だと思います (*´з`)
三川坑はこのままだと崩壊が進むので、仰られる様にどこかで修復・撤去路線に切り替えるのではないかと予測していますが、修復・撤去後にはこの荒廃感のリアルは確実になくなると思います。切実な問題ですが、まぁそれもしようがないのかと。廃の者は、自然の摂理に従い、ゆっくりと朽ちていく姿に美しさを感じるのですが、とは言え、このままだと完全に無になってしまうので、「自然のまま」と「保存」の世界観のバランスをうまく取って欲しいなぁと思っています。あくまでも廃の者のエゴです(笑)
今回、新聞の様な過去の“日常”がそのまま残っているシーンに出くわしましたが、この瞬間は少しドキッとしますね。これも過去の遺構を眺める醍醐味だと思います。
今後ともよろしくお願いします。
Mori Neko
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