2024/11/22 - 2024/11/22
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スネフェルさん
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平均寿命22歳。
ある仕事の従事者の平均寿命である。
昔は人権なんかクソ喰らえ!
こんな仕事が多かったのだ!
といえばそれまでだが、若い盛りに死を迎えていたことを聞いて人はどう思うだろうか?
生まれては苦界
死しては浄閑寺
と呼ばれた世界がかつて日本にあった。
吉原である。
人身売買の結果、自由を奪われ、娼婦として人間の尊厳を売り続け、病気となり、人生の楽しみを知らぬまま、誰に看取られることもなく死を迎える。
死して供養されることなく打ち捨てられる。
そこに人間としての尊敬は無い。
正に苦界である。
そんな苦界にあって、燦然と輝く人間もいる。
明治大正期の日本文学好きなら知っている人も多いとは思うが、花魁・若紫はそんな女性だった。
花魁とは現代で言えば高級娼婦ということだが、一晩の契りの値段は現代のコールガールより高いかもしれない。(価格はそこそこ名の知れた女優と一晩寝る価格と等しいと思う)
源氏名・若紫は、当時の花魁の頂点の女性だった。
本名は勝田信子。
武家の出だったと伝わる。
美貌と教養で当時多くの富豪・文人に愛され、幾多の身請け話を受けるもことごとく断り続けた。
その理由が、身請けされる前、自由だった頃の恋人と一緒になるため。
身請け前だから、彼は金持ちでは無い。
むしろ貧乏人と考えるのが自然だろう。
煌びやかな世界を知りながら、その世界に染まることなく、好きになったオトコと添い遂げたいと想う。
人身売買された際の借金を返すために股は開いても心までは売らない、ということなのだろう。
欲望に塗れたオトコに身は汚されても、心までは犯せない、という矜持を感じる。
汚れた俗世にあって、まるで新雪のような美しさすら感じる。
彼女の矜持に純愛を感じるのは私だけだろうか。
ちなみに、花魁のトップでありながら、心尽くす女性であり、優しく、奢ったところは少しもなかった女性だという。
源氏名の若紫とは源氏物語の紫の上の幼名だが、その名に恥じない、当時の理想の女性像を体現していたのだと思う。
物語か作り話と言われた方がむしろ信じやすいが、実在の人物である。
吉原トップの花魁であり続け、身請け話を断り続け、やがて借金返済が終わり、年季明け後は吉原の大門を「生きて」出ることが決まる。
死して大門をくぐるのが大半の遊女達にとって希望の星となった若紫。
身請け話を断られた大身のオトコ達も、ここで嫉妬してはオトコが廃るとばかりに、意地でも祝福した、という。
年季明けを客も遊女も盛大に祝ったという。
当時のアイコンと言っても良い女性だったのだと思う。
そんな若紫。
年季明けまであと5日という明治36年(1903年)8月24日。
気狂いのオトコに通り魔的に刺され、命を落とす。
行年22。
なんとも悲劇的で劇的な最期。
繰り返すが、物語りでは、と言われた方が信じやすいが、現実である。
(この話を聞いた時、「皇妃エリザベート」を思い出した。絶世の美女だったエリザベートの最期も劇的だった。)
ちなみに、遊女は浄閑寺に投げ捨てるのが「掟」である。
それは若紫も同じだった。
しかし、当時のアイコン、若紫を一遊女として扱うのに納得できる当時の人は少なかった。
その結果、遊女が投げ込まれる浄閑寺に若紫の墓が建てられることになる。
前振りが長くなったが、その浄閑寺に赴いた。
歴史を知らなければ浄閑寺は街中にある、何の変哲もない寺である。
しかし、歴史に埋もれてしまった民衆の暗い歴史を見つめ続けた寺でもある。
若紫の墓は墓地スペースの山門を潜って直ぐ、右手にあった。
花が添えられ、線香を焚いた跡があった。
今でも参る人がいるのだろう(自分もだが)
若紫が亡くなったのは今から120年以上も前。
生きた若紫を知る人は当然、この世には居ない。
でも惹きつけられる人は今の世にも居る、ということなのだろう。
人は二度死ぬ、と言われる。
二度目の死は自分を知る人が居なくなった時、とは良く言われる話。
その意味で、若紫はまだ死んでいない。
訪れたのが朝の時間だった、ということもあったのかも知れないが、若紫の墓の前に立ち、見つめていると、何かはわからないが、感情を揺さぶる何かを感じた。(ちなみに霊感は無い)
不思議な感覚である。
ただの墓石を前にしただけなのに。
若紫の墓銘は「若紫」であった。
裏書には「勝田」の文字があったので、俗名は書いてあるのかも知れないが、戒名は見当たらなかった。
墓はあれど、戒名は無い。
つまり、あの世に旅立つにあたり、仏弟子にはしてもらえなかった、ということか・・・
遊女は死してなお、差別された、というのは良く聞くが、絶世の美女であった花魁でも、この制約から逃れられなかったのか・・・
この辺もやるせない気持ちになる。
その後、浄閑寺から吉原まで歩いてみた。
ゆっくり歩いても15分はかからない。
昔なら10分というところだろう。
近いとまでは言えないが遠くは無い。
死んだ遊女を運ぶのにさほど苦になる距離ではないのは理解できた。
ちなみに、投げ込まれた遊女は寺で合葬はされたらしい。
今は日本堤通りとなっている川に流された遊女も多かったらしいから浄閑寺に投げ込まれた遊女はまだマシだったのかも知れない。
それが唯一の救いか。
境内には遊女だけでなく、仇に逆撃されて亡くなった兄弟の墓や心中したカップルの慰霊碑もある。
その話だけでも戯曲の一本でも書けそうな逸話が背後にある墓が多い。
民衆史なので教科書に載ることはないが、民衆の歴史を今に伝える貴重な寺である。
とはいえ、なかなかにいたたまれない気持ちにはなる。
そんな気持ちを抱きながら吉原の街を歩くと、朝9時なのに呼び込みのオッさんに声をかけられた。
景色を眺めているのを店を物色してるオッさんだ、と思ったらしい(苦笑)
確かにそんな街だけどさ・・・
ちなみに、朝の吉原ですれ違う女性は若く美人で、落ち着いた服装だったが、オフィスで働いてる女性の雰囲気は無い。
まぁ、そういうことなのだろう・・・
その後、吉原から浅草に向かって歩いた。
池波翔太郎ゆかりの場所を巡りながら。
剣客商売の根岸や鬼平犯科帳の本所などはこの界隈である。
入谷のドヤ街などの下町の雰囲気があの名作を生み出したのは、歩いてみて納得がいく。
令和の今は最早ドヤ街ではなくなったが、独特の雰囲気がある界隈ではある。
良い街歩きだった。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
最寄りは日比谷線三の輪駅。
-
三番出口を出て右折
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直ぐの脇道へ入る為右折(三番出口裏側に回るイメージ)
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浄閑寺に到着。徒歩1分くらい。
浄閑寺(投込寺) 寺・神社・教会
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門の脇には地蔵と説明文
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右の比翼塚だが、心中したカップルを祀ったもの。
場所柄(吉原近く)なのか、悲運な人々が祀られる比率が高い気がする。 -
史跡の説明文。
ちなみに、史跡にある本庄兄弟は仇を討ちに上京してきたけど、逆に仇に逆襲されて殺された、という悲運な兄弟。
先に兄が討たれて、その兄の首を洗ってる時に仇に襲われて弟も命を落としたという。 -
若紫の墓は墓地エリアに入って直ぐの場所にある。
-
生前の姿を知る人は既に居ないはずなのに花が手向けられている。
ちなみに、墓と対面した時、体に何か貫くような感覚を覚えた。
もちろん、自分には霊感は無い。
別の人のブログで何かを感じた、と言っていた人が居たが、若紫のことを知って訪れると確かに何かを感じるのかもしれない。 -
失礼して墓碑の裏書を見てみた。
裏書はすり減って良く見えないが、「若紫」の字は確認できる。 -
遊女が合葬された墓。
合葬といっても「個」として供養されることはない。
いたたまれない気持ちになる。 -
合葬碑には有名な一文が刻まれている。
-
永井荷風碑。
確か、永井荷風は「若紫」と同時代人だったはず。 -
永井荷風の碑の説明文
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ひまわり地蔵尊。
入谷(ドヤ街)の人の人生を祀った地蔵尊らしい。ドヤ街の人が行き倒れると行き着く先はここ、浄閑寺だったのかもしれない。
「丹下段平」がここにいるような気分になってくる。 -
ひまわり地蔵尊の説明文。
ひまわりは太陽の下で懸命に生きて来た日雇い労働者の象徴だ、と。
ドヤの人々へのリスペクトを感じる・・・
そう言えば、星一徹も日雇い労働者だったな・・・ -
ひまわり地蔵は小さい地蔵に囲まれていりるが、その中の一体の地蔵様には「俗名」が確認できる。
なんとも言えない気持ちになる。 -
浄閑寺を後にする。
寺に良くあるブッダの言葉ですが、なかなか心に刺さった。 -
途中で見かけた共産党のポスター。
同じオトコとして痴漢撲滅は全く同意するけど、その手段は?ってツッコミたくなる。
犯罪犯すのは個人やん?
個人の自由を制限すれば撲滅は可能だろうけど、日本を監獄国家にしたいのか?(共産党ならしたいだろうけど。もちろん、看守が共産党で、人民の人権なんかはマル無視ね)
個人の自由を維持しつつ撲滅するなら、各車両に最低1人、制服警官でも配置しないと撲滅は不可能。
でも、それって現実的か?
サヨクってタテマエしか言わないから胡散臭いんだよな。 -
日本堤通りに佇む「あしたのジョー」の像。
あしたのジョーは入谷のドヤ街が舞台だもんな。
でも、なんか、マンガとイメージが違う・・・ -
スカイツリーが見える。
台東区って感じ! -
吉原到着。
吉原大門入り口と日本堤通りの交差点にある「見返り柳」
吉原から出た客がここで遊女との別れを惜しんで振り返ったのが由来だそうな。
ちなみに、昔は日本堤通りは川で、ここに船着場があったんだよね吉原大門 名所・史跡
-
見返り柳。
今はガソリンスタンドの脇にひっそりと。
看板が無いと気づかないよね。
この柳、若い気がするけど、何代目なのかな? -
日本堤から吉原へのクランク。
この道から吉原大門は見通せない、とは聞いていたけど、確かに。
ってか、結構広い通りだったのね。
江戸期はこの道以外は田圃だったとか。
田舎だった雰囲気はまるで無い。 -
吉原大門跡。
痕跡は綺麗に無いねぇ -
吉原の説明文。
「蔦屋」って、あのTSUTAYAかね?
だとすると、かなりの老舗だったんだね。 -
土地柄、夜の店が多い。
とはいえ、訪問時は朝9時なので快適に歩けた(笑)
意外かも知れないけど、猥雑さんは感じない。
看板の字を読まないと、何かの商店街?と思うほど、落ち着いた雰囲気。
高い夜の店だと、猥雑さが減るんだね・・・(庶民の私には縁が無さそう) -
吉原で行ってみたかった吉原神社に到着
-
境内に明治期の吉原の地図が神社に掲示されていた。
吉原神社は中央を貫く大通りに面し、「おはぐろどぶ」の直ぐ下のエリア。
なんと!
明治期に吉原神社は無い!
吉原に閉じ込められた遊女が苦界での救いを求めて来ていた神社だと思って訪問したのだが、吉原内には神社がなかったとは!
希望の無い世界で遊女はどうやって正気を保っていたのだろう?
いつも思うが、昔の人は鋼のメンタル持ってたと思う。
そうでなければ生き残れない時代だったのだろうけど。
「昔は良かった」という「エセ保守派」の言説の怪しさはこんなところに垣間見える。
どんな時代であっても光あれば闇がある。
光ばかり見て闇を見なかったことにするのはフェアでは無いと思う。吉原神社 寺・神社・教会
-
吉原とシャバを分けた「おはぐろどぶ」は細い路地になっていた。
こちらは神社側の「どぶ」
「どぶ」だった時代の雰囲気はある。 -
反対側の「おはぐろどぶ」
こちらを通って浅草に向かう。
実はこの後、方向を間違えて歩いてしまった。
吉原は「北枕」にならないよう、南北から45度ずれていることを失念していたため。
ってか、街の路地が吉原起点で伸びるのは反則よねぇ。 -
途中わ、いい感じの店を発見。
孤独のグルメに出て来そう。 -
これもいいよなぁ~。
孤独のグルメに出てきそうな雰囲気。 -
銭湯も残る。
下町っていいね! -
待乳山聖天に到着
本龍院(待乳山聖天) 寺・神社・教会
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池波翔太郎の生誕地だったか!
記念碑あり。池波正太郎生誕地碑 名所・史跡
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待乳山聖天の説明文
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待乳山聖天の山門。
境内にはお祀り用の大根が売っていた。
大根で有名? -
メトロ浅草駅に到着
-
などと思いながら書店に入ると「紫」の写真を扉にした雑誌と遭遇。
ちなみにこの写真、「若紫」の写真として有名だけど、実際には別の楼の「小紫」らしいともいわれている。
「小」の花魁ですらこの美貌。
「若」はもっと美人だったのだろう。
「禿」が両脇を固めているが、この「禿」は美人には見えないなぁ・・・
「紫」が幕末期から戦前の美人とすると、現代の美人と近世の美人の水準は変わってないんだね。
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