2024/04/02 - 2024/04/02
328位(同エリア786件中)
Lily-junjunさん
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この旅行記のスケジュール
2024/04/02
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電車での移動
北千住駅発(9:00)※千代田線 ⇒大手町駅(三田線乗換)⇒御成門駅(9:28着)※三田線
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連山夢想 ※都営三田線「御成門駅」A5出口を出てすぐの御成門緑地
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連山夢想⇒看護婦教育所発祥の地 ※徒歩2分140mほど
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看護婦教育所発祥の地⇒東京病院発祥の地 ※徒歩2分160mほど
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東京病院発祥の地⇒青松寺 ※徒歩4分280mほど
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青松寺⇒伝叟院 ※徒歩2分170mほど
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伝叟院⇒日本放送協会放送博物館 ※愛宕山エレベーターまでは、徒歩1分10mほど
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日本放送協会放送博物館⇒愛宕神社 ※徒歩2分160mほど
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愛宕神社⇒天徳寺 ※徒歩5分300mほど
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天徳寺⇒明和の大火死者供養墓 ※徒歩5分350mほど
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明和の大火死者供養墓⇒光明寺 ※ 参道奥にあります。
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光明寺⇒専光寺 ※光明寺の隣
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専光寺⇒光円寺 ※ 徒歩5分350mほど
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光円寺⇒芝浄水池跡 ※ 徒歩2分120mほど
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芝浄水池跡⇒幸稲荷神社・瘡護神社 ※ 徒歩1分70mほど
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幸稲荷神社・瘡護神社⇒千里社稲荷 ※ 徒歩5分400mほど
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千里社稲荷⇒「森の記憶」高田洋一作 ※ 「千里社稲荷」へ行く途中
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「森の記憶」高田洋一作⇒松蓮社 ※ 徒歩4分250mほど
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松蓮社⇒雲晴院 ※ 徒歩1分30mほど
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電車での移動
御成門駅(14:00発)※三田線 ⇒大手町駅(千代田線乗換)⇒北千住駅着(14:30)※千代田線
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この旅行記スケジュールを元に
今回は、「愛宕神社」周辺の地域を散策してみました。4月の初旬に回ったので、桜の花はつぼみや咲き初めのところが多く、ピンクの絨毯を見るには少し早過ぎました。「北千住」から東京メトロ千代田線を利用し、「大手町」で都営三田線に乗り換え「御成門駅」で下車し、主たる目的地である「愛宕神社」周辺を目指しました。都営三田線「御成門駅」のA5番出口を降りてすぐのところにある「御成門緑地」には「連山夢想」という素晴らしいパブリック・アートがありました。「連山夢想」は、造形作家である「眞板雅文」の平成7年(1995年)の作品です。次に向かったのは、「東京慈恵会医科大学附属病院」敷地内にある「看護婦教育所発祥の地」と「東京病院発祥の地」です。「看護婦教育所発祥の地」には、日本の看護教育は、「東京慈恵会医科大学」の創設者である「高木兼寛」が、英国留学時代に「セント・トーマス病院」に付設されていた「ナイチンゲール看護学校」を模範とした看護婦教育所を「有志共立東京病院」(現在の附属病院の前身)に設置したのが始まりだそうです。「東京病院発祥の地」は、「増上寺」の子院である「天光院」に「有志共立東京病院」という慈善病院を発足させ、それがオリジンなっています。次が「青松寺」で、「龍の吐水口」、「法輪大観音」など見どころも沢山ありました。特に「青松寺」の「本堂」裏にある日本庭園は、京都の寺社の庭園を連想させるような素晴らしいものでした。次におとずれたのは、「伝叟院」です。「伝叟院」は、青松寺の子院で、曹洞宗大本山「総持寺」の出張所を兼務しています。次が、「日本放送協会放送博物館」を見学しました。「日本放送協会放送博物館」は、放送の歴史が順序立てて、分かりやすく展示してあります。入場無料で大変勉強になりました。次は、「愛宕山」の上にある「日本放送協会放送博物館」に隣接してある「愛宕神社」です。特に、「出世の石段」(男坂)は、行きはよいよい帰りは恐いの表現がピッタリ当てはまります。こんな急勾配の坂を馬に乗り駆け上がったなんて想像もつきません。次に向かったのが、「天徳寺」です。「天徳寺」は、「本堂」と「鐘楼」がユニークな形をしていて、境内は広々としていてここが大都会という感じがしませんでした。次は、「光明寺」の参道にある「明和の大火死者供養墓」です。「明和の大火死者供養墓」は、忘れてはならない大惨事を今にとどめる旧跡です。そして、参道の奥に「光明寺」があります。「光明寺」は、昔から「梅のお寺」として知られてきました。その他に見るべきものはないと思っていたら、素晴らしい発見をしました。それは、「本堂」2階ににある都会のオアシスのような「寺カフェ」の「神谷町オープンテラス」です。次に向かったのは、「専光寺」です。「光明寺」に立ち寄った時に「神谷町オープンテラス」からお寺らしき建物が隣に見えたので訪ねてみました。それが「専光寺」ですが、あまり見るべきものはありませんでした。「専光寺」の次は、「切通坂」にある「光円寺」を訪ねました。「光円寺」は、京都の「東本願寺」が本山である真宗大谷派に属する寺院です。「和夫地蔵尊」に心が癒されました。次は、「切通坂」を上り、「オランダ王国大使館」の先のすぐ右手にある「芝浄水池跡」へ向かいました。旧芝給水所は都民の暮らしにかかせない水を約100年近く送り続けてきました。次は、道路を隔て「芝浄水池跡」の反対側にある「幸稲荷神社・瘡護神社」を参拝しました。「幸稲荷神社」は、二つの社号が掲げられている珍しい神社です。「幸稲荷神社・瘡護神社」の次は「千里社稲荷」へ向かいました。「千里社稲荷」は、愛宕グリーンヒルズMORIタワーの一角に佇む稲荷社です。実は、先ほど参拝した「青松寺」の一部でした。ここでは、祠の裏側にある「狐穴」に注目です。次は、「千里社稲荷」へあがる坂のところにあったパブリック・アートの「森の記憶」高田洋一作を見学しました。「森の記憶」は、風の動きを捉えダイナミックに大空に幾何学模様を描いているように見えました。「森の記憶」高田洋一作の次は、「松蓮社」です。「松蓮社」は、山門はありましたが一見してお寺とは皆目見当がつきませんでした。ここには、パワースポットである洞窟霊場の「弁天洞」があります。「弁天洞」は、NHKのテレビ番組の「ブラタモリ~東京タワー・芝~」でも放映されたそうです。そして、今日、最後に訪れたのが、「雲晴院」です。境内には、悲しい過去と交通事故撲滅を祈願し建立された「聖観世音菩薩像」、私も思わず合掌しました。今回の散策巡路を取りまとめると次のようになります。
【今回の散策巡路】
①《連山夢想》⇒②⦅看護婦教育所発祥の地⦆⇒③⦅東京病院発祥の地⦆⇒④⦅青松寺⦆⇒⑤⦅伝叟院⦆⇒⑥⦅日本放送協会放送博物館⦆⇒⑦⦅愛宕神社⦆⇒⑧⦅天徳寺⦆⇒⑨⦅明和の大火死者供養墓⦆⇒⑩⦅光明寺⦆⇒⑪⦅専光寺⦆⇒⑫⦅光円寺⦆⇒⑬⦅芝浄水池跡⦆⇒⑭⦅千里社稲荷⦆⇒⑮⦅「森の記憶」高田洋一作⦆⇒⑯⦅松蓮社⦆⇒⑰⦅雲晴院⦆
それでは、今回、訪れたところを詳しく説明していきたいと思います。
01_「連山夢想」
都営三田線「御成門駅」のA5出口を出て目の前の御成門緑地には、自然石と金属製輪型を組み合わせた「連山夢想」と題するモダンオブジェが設置されています。今日は、「愛宕神社」、「日本放送協会放送博物館」などが主な目的地でしたが、都営三田線「御成門駅」のA5出口のすぐのところに素晴らしいパブリック・アートがあったので、写真を撮り、家に帰って調べてみました。「連山夢想」は、造形作家である「眞板雅文」の平成7年(1995年)の作品です。オブジェ脇に数個の石ベンチもあり、ちょっとした休養スペースにもなっています。「眞板雅文」は、昭和19年(1944年)に中国東北部である旧満州の奉天生まれです。「眞板雅文」は、自然の素材を使った立体造形やインスタレーションを数多く制作し、国内外で幅広く活躍した彫刻家です。「眞板雅文」は、イタリアのベニスで開催された第37回ヴェネチア・ビエンナーレ(1976年)と42回ヴェネチア・ビエンナーレ(1986年) に参加しています。また、80年代後半からは全国各地で野外彫刻やパブリック・アートを数多く制作しています。
02_「看護婦教育所発祥の地」
「連山夢想」の次は「看護婦教育所発祥の地」を目指します。「連山夢想」から「看護婦教育所発祥の地」へは、徒歩2分140mほどの距離です。「日比谷通り」を新橋方面に向かいます。30mほど進むと一つ目の角のところに「CoCo壱番屋 港区御成門駅前店」あります。そこを左折し、70mほど進むと突き当たりになります。突き当りには「慈恵看護専門学校」があり、右折し50mほど進むと、「慈恵看護専門学校」の入口付近に「看護婦教育所発祥の地」の石碑があります。
日本の看護教育は、「東京慈恵会医科大学」の創設者である「高木兼寛」が、英国留学時代に「セント・トーマス病院」に付設されていた「ナイチンゲール看護学校」を模範とした看護婦教育所を「有志共立東京病院」(現在の附属病院の前身)に設置しました。明治17年(1884年)10月17日には、米国から宣教師の「M・E・リード女史」を招き、看護婦取締りに任じて、金曜と土曜日に看護教育を行わせたことに始まります。明治19年(1886年)には、前年秋に初めて生徒見習として採用された13名のうち5名が第1回生として採用されました。第1回生はわずか5名でしたが、病院の総裁である皇后の臨席をえて卒業式が行われました。授業は、解剖・生理・看護法の講義、解剖・包帯・巴布〈ぱっぷ〉(=湿布)製法の実習があり、教育課程は2年でした。日本の「看護教育の発祥の地」であり、また現在も、医療を支えその最前線で活躍する看護師の育成が行われている場所です。現在の「慈恵看護専門学校」はこの流れを汲むものです。平成11年(1999年)10月12日に港区の文化財(史跡)に指定されました。
03_「東京病院発祥の地」
「看護婦教育所発祥の地」の次は「東京病院発祥の地」へ向かいます。「看護婦教育所発祥の地」から「東京病院発祥の地」へは、2分160mほどの距離のところにあります。「看護婦教育所発祥の地」をそのまま進むと突き当りに「慈恵医大病院」の旧外来棟(現A・B棟)玄関入口があり、向かって左側に「東京病院発祥の地」の石碑があります。
「東京慈恵会医科大学」の歴史を紐解いてみると、「東京慈恵会医科大学」の始まりは、明治14年(1881)5月1日、「高木兼寛」によって創立された「成医会講習所」です。「高木兼寛」は、明治8年(1875年)から5年間、海軍生徒として英国「セント・トーマス病院医学校」に留学しました。帰国後すぐに、この「成医会講習所」という医育機関を創設しました。ついで、明治15年(1882)、高木は「戸塚文海」とともに、「増上寺」の子院である「天光院」に「有志共立東京病院」という慈善病院を発足させました。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしています。「有志共立東京病院」の資金は有志の拠金によるものであり、「有志共立」という名はそこから由来したものです。病院総長としては「有栖川威仁親王」を招きました。そして、明治20年(1887年)には、「有志共立東京病院」は皇后を総裁に迎え、その名も「東京慈恵医院」と改め、経費は主に皇室資金によることになりました。「成医会講習所」も「成医学校」に、次いで「東京慈恵医院医学校」に改称されました。昭和37年(1962)10月に名称を「東京慈恵会医科大学附属病院」、通称「慈恵大学病院」と改称しました。「東京病院」の名称がなくなるため、その由緒を刻んだ「東京病院発祥の地」の石碑を附属病院玄関に向かって左脇に建立しました。「東京病院発祥の地碑」には、「明治二十四年高木兼寛 東京病院をこの地に開き 大正十一年本大学付属病院に移管され昭和三十七年慈恵大学病院と改称す」と刻まれていました。
04_「青松寺」
“本堂の右側の通路を進むと素晴らしい日本庭園がありました。”
港区西愛宕2丁目にある「青松寺」についての情報を発信していきます。今回、「青松寺」を訪れたのは2024年月日です。「青松寺」へのアクセスは、都営三田線「御成門駅」のA5出口を出て、回り込むように進むとすぐのところに信号(表示名「御成門」)があります。そこを右折し、道なりに230mほど進むと歩道橋があるので、渡り道路の反対側に降ります。右方向の「愛宕神社」方面に120mほど進むと左手に大きな山門のある「青松寺」が目に入ってきます。
「東京病院発祥の地」の次は「青松寺」へ向かいます。「東京病院発祥の地」から「青松寺」へは、徒歩4分280mほどの距離のところにあります。「東京病院発祥の地」から右方向に進み「愛宕山」方面に160mほど進むと信号(表示名「愛宕神社前」)があります。横断歩道を渡り100mほど進むと右手に大きな山門のある「青松寺」が目に入ってきます。
最初に「青松寺」の歴史を紐解いてみると、「青松寺」は、曹洞宗の寺院で、文明8年(1476年)に「太田道灌」が開基し、慶長5年(1600年)に、「徳川家康」が江戸城の外堀をつくる際に、現在地に移りました。開山当初は、現在の「国立劇場」、「最高裁判所」の周辺にあり、「江戸貝塚青松寺」と呼ばれていました。移転にあたっては、面白い言い伝えがあります。それは、「青松寺」の「俊徳和尚」と「増上寺」の「開山酉譽上人」とは法友で、末永く寺門を並べて、ともに繁榮をしようと約束したので「増上寺」が芝へ移転したのを追って、「青松寺」も移転したと言われています。「青松寺」の中には、僧堂である「獅子窟」があり、明治8年(1875年)に、「獅子窟学寮」内に曹洞宗専門学本校が開校します。宗派の教育機関として、多くの僧を排出したそうです。翌年の明治9年(1876年)には、「駒込吉祥寺」の「旃檀林」と合併し、現在の「駒澤大学」のルーツへとなっていきます。江戸時代には、「曹洞宗江戸三ヶ寺」(青松寺、泉岳寺、総泉寺)の一つとして触頭を勤めていました。広い境内には都旧跡に指定されている江戸時代中期の儒者「井上金峨の墓」や港区登録有形民俗文化財に指定されている「奴地蔵(槍持勘助墓)」、「法輪大観音像」、「智正庵」、「竹林」、「湧水」など見るべきものがあります。下記の参拝巡路で「青松寺」を見て回りました。
【「青松寺」の参拝巡路】
①《山門》⇒②《鐘楼堂》⇒③《龍の吐水口》⇒④《法輪大観音》⇒⑤《槍持勘助の墓》⇒⑥《智正庵》⇒⑦《坐禅堂》⇒⑧《本堂》⇒⑨《観音聖堂》⇒⑩《誕生童子・花祭りの童子》⇒⑪《西觀世音像》
① 「山門」
では、さっそく、「山門」をくぐり参拝したいと思います。都道301号(白山祝田田町線)沿いにある「青松寺」の「山門」は異彩を放っています。特に通りに面した「山門」は迫力があり、「青松寺」に用事がなくても通りかかると必然的に目につきます。まず、「山門」の階段を上ります。すると1階の部分には青で「青松寺」と書かれた大きな扁額が、2階の回廊部分には、「青松寺」の山号である「萬年山」と書かれた扁額が掛けられています。そして、「山門」下層部には平成14年(2002年)に制作された「四天王像」が、上層部には「十六羅漢」が座しています。ちなみに、「十六羅漢」は、仏のみ教えを護り、広く世に伝えることを誓う人々に慕われた仏様です。「四天王」は、仏教世界観の中の「須弥山」の頂上に住まう「帝釈天」に仕え、仏法を護持することを念願としています。それぞれの足元には、仏のお示しの親切が未だ分からない邪鬼を踏みつけておられます。また、「十六羅漢像」のある山門の屋根には、見上げると「隅龍」四方に取りつけられています。
② 「鐘楼堂」
「山門」をくぐった左手、境内の西側の「愛宕ヒルズタワー」の近くには立派な「鐘楼堂」があります。現在の「鐘楼堂」は青松43世「鉄肝省吾大和尚」により建立されました。そして、現在の「梵鐘」は昭和31年(1953年)に鋳造されました。創建当初から伝わる「梵鐘」は、戦時中の金属供出令により一時どこかに集められていましたが、鐘が溶かされる前に終戦となり、再び「青松寺」に返還されました。しかし、その時にはすでに新しい鐘が完成していたため、オリジナルの鐘は現在「本堂」の左脇に設置されています。そして、毎日夕方5時に鐘が鳴らされます。ちなみに、梵鐘の「梵」とは、インドの古代語で神聖・清浄を意味し、そのような音「梵音」を奏でる鐘が「梵鐘」です。
③ 「龍の吐水口」
「鐘楼堂」から「坐禅堂」に向かい手前の道に入ると「協定公園」の疎水に、驚くほど大きな「龍の吐水口」が取りつけられています。この彫刻は彫刻家の「薮内佐斗司」の制作によるものです。「薮内佐斗司」は、昭和28年(1953年)に大阪市で生まれ、東京藝術大学の副学長、教授も務めています。ちなみに、「薮内佐斗司」は、平城遷都1300年祭のマスコット「せんとくん」の制作者でもあります。水が勢いよく龍の口から吐き出されている光景は迫力があり、清涼感も感じられます。
④ 「法輪大観音」
「龍の吐水口」の次は、「法輪大観音」です。来た道を戻り、「鐘楼堂」の脇の道を入ります。「坐禅堂」の西側には、緑の木々に囲まれてそびえ立つ「法輪大観音」があります。ちなみに、「法輪」とは、「仏の教え」のことで、仏さまがその教えを説かれることを「転法輪」というそうです。輪は昔のインドの円盤状の武器のことで、仏教の教えである法が広まって人々の煩悩を打ち消していく様子を表現しています。「法輪大観音」の手前には、「十観音」のレリーフと赤ん坊を抱えた「消災地蔵尊」もありました。
⑤ 「槍持勘助の墓」
「青松寺」の墓地は、愛宕山に続く高台にあり、階段のある入口近くに人の形に作られた「槍持勘助の墓」があります。「槍持勘助」(本名芦田義勝)は、美作津山藩(岡山県)主「松平越後守宣富」の足軽で、当時「越後守」の槍はとても長くて重く、倒せば打ち首になるという大変な代物でした。これを持つ苦労を後に残すまいと、義侠心の強い「槍持勘助」は槍の柄の下方を切り、自ら切腹して果てました。元禄14年(1701年)9月のことであったといわれています。松平家では再び切られるのを恐れて、槍の柄に鉄の筋金を入れたといいます。「槍持勘助の墓」は「奴地蔵」とも呼ばれ、下の病によく効くと願をかける人が増え、全治した人は竹筒にお酒を入れてお礼をしたといわれます。「奴地蔵」(槍持勘助墓)は、平成5年(1993年)3月23日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
⑥ 「智正庵」
お墓の前を通ると、階段があります。ま坂道を進んでみると「智正庵」があります。「智正庵」は、境内の自然を楽しむことができ、茶室、舞台となる広間です。「智正庵」の庭には、干支の可愛らしいブロンズ製の「摩尼車」が立ち並びます。「摩尼車」は、チベット発祥の仏具で、心を込めて一度回すと「摩尼車」の経文を一回読むのと同じ功徳があるとされています。
⑦ 「坐禅堂」
来た道を「本堂」の方へ戻ります。先ほど通り過ぎた「坐禅堂」へ向かいます。「山門」をくぐって「中雀門」を通り、「本堂に」向かって左手側の建物が「僧堂」で、一般的に「坐禅堂」と呼ばれています。修行僧をはじめ寺を訪れる方々の学びの場になっている道場で、中央に納められた「聖僧様」を囲んで周囲に単(坐禅の席)を設け、坐禅を中心に食事から瞳眠までの一切の生活が行われます。中央に「聖僧様」、「文殊菩薩」、「観音」、「大迦葉」などを安置するので、正しくは「聖僧堂」といいます。ちなみに、「聖僧」とは、聖者として尊敬される高僧や禅院の僧堂の御本尊で中央に安置してある仏像のことをいい、多くは 「文殊菩薩」が安置されているそうです。また、「坐禅堂」の入口の上には、「雲堂」と書かれています。これは、「坐禅堂」が、諸国を行脚する雲水達が一時ここに留まり弁道修行する堂だからだそうです。そして、一般の方にも座禅修行の場として利用されているそうです。
⑧ 「本堂」
「中雀門」をくぐると正面が、御本尊」のいらっしゃるところが「本堂」です。御本尊は「釈迦牟尼仏」、脇侍に「文殊菩薩」と「普賢菩薩」という、典型的な「釈迦三尊」となっています。堂内は誰でも参拝できるそうです。そして、「内陣」左右の柱には、大本山永平寺77世「慈眼福海禅師」の筆による「聯」が掛けられています。そこには、「ここ萬年山はみ仏の道を今日に至るまで真っすぐに行い、広く伝えてきたお寺。今もみ仏の願いをいきいきと輝かせ、なお実践に励みつとめて行く者が集まる道場である。」ということがかかれていました。大正12年(1923年)9月の関東大震災で境内堂宇全てが焼失し、昭和4年(1929年)に新たに建立された「本堂」は、関東大震災で火災を被った後ということもあり、当時としては、まだ珍しい鉄筋コンクリートで造られたそうです。
⑨ 「観音聖堂」
「山門」をくぐって「中雀門」を通り、「本堂に」向かって右手側の建物が「観音聖堂」です。「観音聖堂」は「礼拝堂」のことで、多目的ホールのようにイベントに使用されるほか、人々が観音菩薩の優しい眼差しの前で心を投げ出して過ごせる空間となっています。「観音聖堂」の入口の上には、「観音聖堂」と書かれた大きな扁額がありました。中には入れそうもなかったので、家に帰り「観音聖堂」について調べたところ、堂内の天井には「飛天」が舞い堂内の空間は天空へと突きぬけ、また道元禅師の御詠「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」が描かれているそうです。「飛天」は、日本画家「高橋秀年」の制作によるものです。また、堂内には、彫刻家「江里康慧師」制作の「聖観音菩薩立像」が安置されています。
⑩ 「誕生童子・花祭りの童子」
「観音聖堂」から「山門」に向かうと途中に「誕生童子・花祭りの童子」があります。「誕生童子」の周りを4体の「花祭り童子」が囲んでいます。「花祭りの童子」からは、噴水のように水が出るようになっています。「誕生童子・花祭りの童子」は、彫刻は彫刻家の「薮内佐斗司」の制作によるものです。「誕生童子」が参拝者を迎えるような形になっているそうです。可愛らしくて見ていると心が和みホッとした気分になりました。
⑪ 「西觀世音像」
最後に都道301号(白山祝田田町線)沿いにある「青松寺」の「山門」の右手には「西觀世音像」を見ることができます。
05_「伝叟院」
「青松寺」の次は「伝叟院」へ向かいます。「青松寺」から「伝叟院」へは、徒歩2分170mほどの距離のところにあります。「青松寺」の「山門」を左方向へ110mほど進むと、先ほど渡った横断歩道の信号(表示名「愛宕神社前」)のすぐ左手にあります。
「伝叟院」は、曹洞宗の寺院で、開山は「青松寺」の第10世「十洲補道大和尚」が、正保3年(1646年)開創しました。「伝叟院」は「青松寺」の子院で、現在は、曹洞宗大本山「総持寺」の出張所を兼務しています。境内にある「震災記念聖観世音菩薩像」は、関東大震災の火災のときに、港区横死者の火葬場となった場所であり、関東大震災の火災の犠牲者のために建立されたものです。また、「伝叟院」は、長州江戸藩邸没収事件の犠牲者が葬られたとされる寺院でもあります。
06_「日本放送協会放送博物館」
「伝叟院」の次は「日本放送協会放送博物館」へ向かいます。「伝叟院」から「日本放送協会放送博物館」へは、「NHK放送博物館」と「愛宕神社」専用の「愛宕山エレベーター」が便利です。「伝叟院」から「愛宕山エレベーター」までは、徒歩1分10mほどの距離のところにあります。
最初に「NHK放送博物館」と放送に関する歴史を紐解いてみると、「日本のラジオ第一声」は、大正14年(1925年)3月22日朝9時30分、東京芝浦の東京放送局仮放送所から第一声が流れました。そして、同年7月に「愛宕山」で本放送が始まり、「愛宕山」は「放送のふるさと」と呼ばれるようになりました。「NHK放送博物館」は、世界最初の放送専門のミュージアムとして、昭和31年(1956年)に「愛宕山」に開館しました。
「NHK放送博物館」には、ラジオからデジタル放送までの放送の歴史に関するさまざまな実物が展示してあります。また、「NHK放送博物館」では、だれもが自由に利用できる「番組公開ライブラリー」なども公開しています。ちなみに、放送の歴史に関する約2万7千件の資料と約8千点の図書を所蔵し、順次公開しているそうです。また、番組公開ライブラリーでは約1万件の番組が、愛宕山8Kシアターでは最新の8K番組が視聴できるそうです。
「NHK放送博物館」で見学できるのは、1Fから4Fまでで、1Fが「ウェルカムゾーン」、2Fが「テーマ展示ゾーン」、3Fが「ヒストリーゾーン」そして、4Fが「図書・史料ライブラリーと番組公開ライブラリー」により構成されています。それでは、「NHK放送博物館」の中に入ります。下記のような見学巡路で見て回りました。
《「NHK放送博物館」の見学巡路》
①《1F: ウェルカムゾーン》⇒②《1F: 放送歴史絵図》⇒③《2F: 放送体験スタジオ》⇒④《2F: 愛宕山8Kシアター》⇒⑤《2F: テレビドラマの世界》⇒⑥《2F: オリンピックの感動を伝える》⇒⑦《2F: NHKと音楽》⇒⑧《2F: こども番組がいっぱい》⇒⑨《2F: 放送文化賞コーナー》⇒⑩《3F: 放送のはじまり》⇒⑪《3F: 全国に広がるラジオ》⇒⑫《3F: 戦時下の放送》⇒⑬《3F: 占領と放送》⇒⑭《3F: テレビの実験時代》⇒⑮《3F: テレビの登場》⇒⑯《3F: テレビ時代の本格化》⇒⑰《3F: 多様化するテレビ番組》⇒⑱《3F: 多チャンネル時代の到来》⇒⑲《4F: 図書・史料ライブラリー》⇒⑳《4F: 番組公開ライブラリー》
01_《1Fの「ウェルカムゾーン」》
「NHK放送博物館」の正面入口を入ると右側に受付があり、こちらでパンフレット等をもらうことができます。1Fには「ウェルカムゾーン」、ラジオ放送開始からの放送の歴史をイラストで紹介してある「放送歴史絵図」、時代ごとのテレビ、ラジオ、スピーカーなどの貴重な放送器材が展示してあります。また、受付の左奥には、「チコちゃん」のコーナーが愛想よく出迎えてくれました。その他、NHKの朝ドラ関係のポスター等が展示してあり、「ブギウギ」の記念撮影スポットも設けてありました。
02_《2Fの「テーマ展示ゾーン」》
2Fの「テーマ展示ゾーン」へ向かいます。階段を上がったところに、奥に「放送体験スタジオ」と手前に「愛宕山8Kシアター」があります。2FというよりM2Fと言った方がいいかもしれません。「放送体験スタジオ」には、案内の女性の係員がいて、「実際にニュース、気象予報やバーチャル映像を体験できるのでやってみませんか?」と声掛けしてくれました。せっかく薦めてくれたのですが、一人ではちょっと恥ずかしかったので、ニューススタジオと気象スタジオの見学のみにしました。また、ここではテレビ画面を構成する3原色の原理などが学ぶことができます。「愛宕山8Kシアター」には、200インチの大型スクリーンが設置され、8Kスーパーハイビジョンの魅力を体験することができます。
また、2Fの「テーマ展示ゾーン」では、「テレビドラマの世界」、「オリンピックの感動を伝える」、「NHKと音楽」そして「こども番組がいっぱい」の4つのテーマを通して放送の歴史や技術が体験できます。
まず、「テレビドラマの世界」のコーナーには、NHKテレビドラマの年表や映像などがあり、昔見た番組を振り返ることができます。それを見ると思わず懐かしさが胸にこみ上げてきます。ドラマにまつわるセットや衣装もありました。次が、「オリンピックの感動を伝える」のコーナーには、過去の激闘の名場面シーンや中継用カメラなどの器材も展示されています。「東京オリンピック」を契機として放送技術が飛躍的に発展したそうです。次の「NHKと音楽」のコーナーでは、年末恒例の看板番組である「紅白歌合戦」の各種資料や「NHK紅白歌合戦優勝旗」も展示されていました。その他に現在でも続いている「NHKのど自慢コーナー」やNHKが育んできた音楽・伝統芸能の世界、番組を彩った名曲のアーカイブスなども展示してありました。次が「こども番組がいっぱい」のコーナーです。ここには、歴代の懐かしい人形劇やこども番組のキャラクターの人形や着ぐるみもかわいらしく並べて展示してありました。これで終わりかと思ったら「放送文化賞コーナー」というものがありました。毎年、日本放送協会が放送事業の発展に寄与し、放送文化の向上に貢献があった方々に、お贈りしている放送文化賞のコーナーでした。
03_《3F「ヒストリーゾーン」》
大正14年(1925年)からの始まったラジオ放送開始から現在までの放送の歴史を学べる種々様々な展示がされています。この中で一番印象に残ったのは、技術の進歩と革新もさることながら、昔の懐かしい茶の間の風景である「わが家にテレビがやってきた」のコーナーです。子供の頃の懐かしい思い出が一気に蘇りました。2Fから階段を上ると「ヒストリーゲート」がありますので、そこ抜けると最初に「放送のはじまり」のコーナーがあります。ラジオ放送が1920年代初頭に、アメリカで始まったラジオの事業化の波は世界に広がり、大正14年(1925年)3月22日、日本でラジオ放送が始まりました。次が「放送のはじまり」のコーナーの前にある「仮放送所」のコーナーです。大正14年(1925年)7月に「愛宕山」で本放送が始まり、「愛宕山」は「放送のふるさと」と呼ばれるようになりました。ここには、仮放送所で使ったマイクや当時の仮放送所の看板や写真が展示してあります。「全国に広がるラジオ」のコーナーでは、当初、京、大阪、名古屋にそれぞれ放送局があり、翌年の大正15年(1926年)に合同し、「社団法人日本放送協会」となりました。そして、昭和3年(1928年)に全国の中継網が完成し、番組が多様化していったそうです。その先に進むと「戦時下の放送」コーナーです。ここでは何と言っても昭和20年(1945年)8月15日の「玉音放送」でしょう。この放送を聞き日本国民は敗戦を知りました。このシーンは、第二次世界大戦の敗戦を知り、人々が泣き崩れるシーンがテレビでは必ずと言っていいほどが放送されます。次の「占領と放送」のコーナーでは、昭和25年(1950年)に放送法が施行され、NHKが特殊法人として生まれ変わり、民間放送の開設が認められた。そして、昭和26年(1951年)には初の民間放送が大阪と名古屋に開設されました。「テレビの実験時代」のコーナーでは、日本の「テレビの父」と呼ばれ、昭和元年(1926年)に世界で最初に電子式テレビジョンの開発に成功した「高柳健次郎」から昭和28年(1953年)のテレビ放送開始までのテレビ研究について紹介・展示してありました。ちなみに、「高柳健次郎」はNHK技術研究所のチームを率い、昭和15年(1940年)にテレビの実験放送に成功しています。続いては、「テレビの登場」のコーナーです。昭和28年(1953年)にNHKがテレビの本放送を開始し、続いて初の民放テレビ局として日本テレビも開局しました。やはり忘れることのできないのは、街頭テレビは黒山の人だかりで、プロレスや大相撲中継に熱狂していたました。これ以来、テレビ時代が本格化的に訪れ、テレビ番組も多様化しました。テレビで一番印象に残っているのは、東京オリンピックにテレビが格段と技術革新を遂げ、昭和46年(1971年)には、NHK総合などが全面カラー化されたことです。それと携帯電話でテレビが見ることができるようになったことでしょう。人も世界も多様化し、それぞれ趣向に合わせた多チャンネル時代が到来し、今や衛星放送により世界のニュースや情勢が瞬時に分かる時代になりました。
04_《4F「図書・史料ライブラリーと番組公開ライブラリー」》
4Fに上がると「図書・史料ライブラリー」と「番組公開ライブラリー」があります。「図書・史料ライブラリー」では、放送に関する図書や放送文化研究所の刊行物などが閲覧できます。利用時間は二部制になっていて、午前10時~正午と午後1時~午後4時15分です。「番組公開ライブラリー」は一台のテーブルを四つに仕切ってあって、番組検索用のパソコン、ヘッドフォンなどが備え付けてあります。個人のプライバシーが守られる空間です。NHKが放送した番組から約1万本を視聴することができます。午前10時~午後4時15分の間で、1日1回、2時間以内の利用が可能です。
07_「愛宕神社」
「日本放送博物館」から「愛宕神社」までは、1分80mほどの距離のところにありますが、「愛宕神社」へ来たからには、「出世の石段」(男坂)を上らなくては、「愛宕神社」へせっかく来た意味がありません。「愛宕山エレベーター」を降りて、「愛宕神社」へ向かいました。距離にして2分160mほどです。「愛宕神社前」の信号まで戻り右折し、50mほど進むと「愛宕神社」の「鳥居」があります。
「愛宕神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「愛宕神社」は、慶長8年(1603年)に、江戸幕府の開祖である「徳川家康」の命により「防火の神様」として創建されました。「防火の神様」として、愛宕神社に祀られている主祭神は「火産霊命」という火の神様で、火にまつわる災厄よけや防火・防災のほか、印刷・コンピューター関係、商売繁盛、恋愛・縁結びなどのご利益があります。また、「愛宕神社」は、「伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり」と言われた由諸があります。慶長15年(1610年)、「庚戊本社」をはじめ、「末社仁王門」、「坂下総門」、「別当所」等など将軍家の寄進により、多くの堂宇が建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものだったといわれています。その後江戸時代の大火災で境内の堂宇が全焼してしまいましたが、明治10年(1877年)9月に「本殿」、「幣殿拝殿」、「社務所」の再建がなりました。
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災、昭和20年(1945年)5月24日東京大空襲により「太郎坊神社」を残し「社殿」は焼失してしまいました。戦後の昭和33年(1958年)9月に、氏子中の寄付により、「御本殿」、「幣殿」、「拝殿」などが再建されて現在に至ります。
「愛宕神社」は、標高25.7mの「愛宕山」の山頂にあり、「愛宕山」は、東京23区内の自然の山として一番高く、江戸時代には、街を見渡せる名所として見物客で賑わったそうです。「愛宕山頂」からは東京湾や房総半島まで見られたそうです。また、江戸城の無血開城に向けて重要な役割を果たした場所でもあります。「愛宕山」に「勝海舟」が「西郷隆盛」を誘い、山頂から江戸の町を指さし、兵火にさらすことのむなしさを訴えた話が伝えられています。そして、武士が騎馬にて上下し出世をした「出世の石段」で有名です。この伝承の由来は、講談で有名な「寛永三馬術」の中で登場する「曲垣平九郎」の故事といわれています。ちなみに伝承の由来というのは、寛永11年(1634)年に、当時の江戸三代将軍「徳川家光」が、「増上寺」を参詣した帰りに「愛宕神社」の下を通りました。春の「愛宕山」には満開の梅が咲いており、「誰か馬に乗ってあの梅を取ってこい」と家臣に命じたのです。「愛宕山」は非常に険しく、歩いて登るのもやっとなほどの急勾配です。馬に乗って登るなど無謀な行為で、運が良くて重傷、運が悪ければ命を落とす危険な挑戦でした。誰もが顔を背けて名乗り上げない状況のなか、「徳川家光」の機嫌が悪くなっていきます。そのとき、馬に乗って颯爽と石段を登り始める男がいました。その男こそが四国丸亀藩の家臣である「曲垣平九郎」だったのです。「曲垣平九郎」は見事「愛宕山」の山頂で梅を手折り、「徳川家光」に梅を献上しました。「徳川家光」は卓越した馬術の腕と鍛錬に励んだ努力を認め、「日本一の馬術の名人」と讃えました。当時無名だった家臣「曲垣平九郎」の名は、たった1日にして全国に知れ渡ったのです。「拝殿」前の左手には、「徳川家光」に献上されたという梅が残っています。この故事により、「愛宕神社」正面の坂(「男坂」)が出世の石段と呼ばれるようになったのです。ちなみに、江戸時代以降にも「男坂」を馬で登り下りすることに挑戦し、成功をおさめた人が何人かいるそうです。驚くべきことですが、9月に行われる大祭では、隔年でなんとお神輿が上り下りするそうです。そして、毎年6月23日と24日に行われる「千日詣り」は、この日に参拝すると千日分のご利益があるといわれ、境内は「ほおづき市」で賑わいます。「ほおづき市」と言えば東京の浅草が有名ですが、実は始まりは東京の愛宕神社だそうです。では、早速「愛宕神社」を参拝したいと思います。下記のような巡路で「愛宕神社」を参拝しました。
《「愛宕神社」のお薦め参拝巡路》
①《大鳥居》⇒②《出世の石段(男坂)》⇒③《女坂》⇒④《三角点》⇒⑤《一の鳥居》⇒⑥《手水社》⇒⑦《丹塗りの門》⇒⑧《招き石》⇒⑨《将軍梅》⇒⑩《社殿》⇒⑪《太郎坊社》⇒⑫《福寿稲荷社》⇒⑬《大黒天社》⇒⑭《社務所》⇒⑮《弁財天社》⇒⑯《》⇒⑰《》⇒⑱《》⇒⑲《》⇒⑳《》
「愛宕山トンネル」付近にある「愛宕山エレベーター」を利用すれば「愛宕神社」へ簡単に行くことができますが、「愛宕神社」へ来たからには、「出世の石段」(男坂)を上らなくては、「愛宕神社」へせっかく来た意味がありません。都道301号(白山祝田田町線)沿いに「愛宕神社」の「社号標」があり、その奥に朱色の「大鳥居」があります。そして、すぐその先には、急勾配の「出世の石段」(男坂)があります。見るからに結構きつそうです。「大鳥居」の手前には、「石灯籠」と「愛宕神社出世の石段」と書かれた看板もありました。「出世の石段」(男坂)の右隣には、勾配の緩やかな「女坂」があります。「男坂」の右手には細い階段(「女坂」)が伸びており、こちらは「男坂」よりも一段の高さがそれほどでもないので、体力に自信がない方は「女坂」を選びましょう。行きは「男坂」から登って仕事運のご利益をもらい、帰りは少し緩やかな「女坂」を利用するのがベストです。「出世の石段」(男坂)を登り上から見下ろしてもその急勾配のすごさが実感できます。「出世の石段」は、傾斜角度40度、86段の石段です。2分ほどで上まで登れるのですが、傾斜が急で一段の高さも不揃いで高いため、登っていて恐怖を感じます。もちろん息もきれます。特に、下りは上りよりも恐怖心が増します。「社殿」の左手には専用のエレベーターがあるので、私のような高齢者や足腰に自信のない方は、エレベーターの利用をお薦めします。「男坂」を登ると右手には、「愛宕神社」が23区内で一番高い山にあることを証明する標石である「三角点」があります。先へ進むと「一の鳥居」があり、「一の鳥居」をくぐると左手に「手水社」があります。「手水社」で身を清め「社殿」に向かう時にくぐるのが「丹塗りの門」です。この「丹塗りの門」は、江戸幕府ゆかりの印として、葵の御紋が施されています。「ほおずき市」の時には、茅の輪が設置され、これをくぐると災いを避けられるといいます。石の素材そのままの「一の鳥居」と対照的な鮮やかな朱色と金色が目を引きます。「丹塗りの門」をくぐるとすぐ左手にあるのが、「将軍梅」です。寛永11年(1634)年に、「曲垣平九郎」が将軍「徳川家光」に献上したと言われる梅です。正面には「社殿」があります。「社殿」前の左手にあるのが「招き石」です。こ「招き石」をなでると福が身につくといいます。たくさんの参拝客に撫でられたせいか、表面がツルツルになっています。不思議な形の石で、見ているだけで神秘的な力を感じるパワースポットです。よく見てみると子犬が後ろ足で立ち上がっているようにも見えます。いよいよ参拝です。「社殿」は、主祭神「火産霊命」を祀っています。「火産霊命」は別名「火之迦具土神」と言い、「伊邪那美命」から最後に産まれた炎の神です。しかし炎の神ゆえに、「伊邪那美命」に大やけどを負わせてしまい、これが原因で「伊邪那美命」は亡くなってしまいました。お正月や毎月1日、15日、24日の「月次祭」の際には、「本殿」の正面の御扉が開かれるので、それにあわせて行くのもいいですね。「社殿」の右手を進むと、末社のお社が3つ並んでいます。一番左手にあるのが、「太郎坊社」で、「猿田彦神」(天狗様)を祭神とする末社です。「猿田彦大神」は、「天照大神」の命を受けた「瓊杵尊」を高千穂へと導いたといわれています。「猿田彦神」は道案内、お導きの神様です。「福寿稲荷社」は、末社の真ん中にあります。「宇迦御魂神」を祭神とする「福寿稲荷社」です。全国の「稲荷神社」で祀られる神様で、「お稲荷さん」と呼ばれ親しまれています。「宇迦御魂神」は、福徳開運、衣食住の守護神です。右手にあるのが、「大國主命」と「事代主命」を祭神とする「大黒天社」です。「大国主命」は出雲に大国をつくった国づくりの神で、縁結びの神様として有名です。「事代主命」は「大国主命」の子で、「大国主命」にかわって「天照大神」の使者に国譲りの意を伝えます。「事代主命」は、七福神の恵比須様と同一視され、商売繁盛・五穀豊穣・縁結びの神様として崇められています。水の神、子どもの守り神、財宝・交通運輸・技芸の神様として知られ、安産祈願、子授かり・子宝祈願、商売繁盛、旅行・交通安全、金運上昇、技芸・芸能などにご利益があります。「社務所」は、「社殿」に向かって右手にあります。おみくじやお守り、祈祷などの受付をしています。最後が「弁財天社」です。「弁財天社」は、「出世の石段(男坂)」を上り切った左手にあります。「弁財天社」は、「市杵島姫命」を祭神とする末社です。「弁財天社」は、慶長15年(1610年)に安芸(広島)の厳島より勧請されました。「市杵島姫命」は、「天照大神」と「須佐之男」の「誓約(うけい)」と呼ばれる古代の占いによって生まれた神様で、「弁財天」・「弁天様」と同一視され、日本の神様では馴染み深い、七福神の1人としても有名です。「弁財天社」は、池のほとりにあり、その奥には、「児盤水の滝」があります。かつては、この愛宕山には「児盤水」という霊験あらたかな名水が湧き出ていました。承平3年(933年)の「平将門の乱」のときに「源経基」がこの「児盤水」で「水垢離」をし、乱が鎮まることを神に祈ったといわれているそうです。また、「児盤水」=「小判水」として、金運のご利益がいただける場所だそうです。
08_「天徳寺」
「愛宕神社」のかなり急な「出世の石段」を恐る恐る降りて「天徳寺」へ向かいました。「愛宕神社」から「天徳寺」までは、5分300mほどの距離です。「愛宕神社」の鳥居を出て右方向に進み、「愛宕神社前」の信号の所を右折し、「愛宕山トンネル」を抜けて、170mほど進むと「天徳寺」が左手にあります。
「天徳寺」の歴史を紐解いてみると、「天徳寺」は、浄土宗の寺院です。天文2年(1533年)に「三蓮社縁譽稱念上人」によって、)紅葉山(現在の皇居内)に創建されました。「天徳寺」は、江戸城拡張工事により「霞が関」に移転し、慶長16年(1611年)に現在の地に移転しました。「天徳寺」は、江戸時代には「浄土宗江戸四ヶ寺」の一つとして、寺格も高く、愛宕山西側一帯を寺域とするほどの大きな寺院であったそうです。そして、元和元年(1615年)に江戸幕府初代将軍「徳川家康」より50石、元和9年(1623年)には2代将軍「徳川秀忠」より100石の朱印を賜った御朱印寺だそうです。「江戸三十三観音霊場20番札所」、また、現在活動していませんが、かつては「西方三十三所観音5番」でした。そして、「天徳寺」には、昭和61年(1986年)10月20日に港区指定有形文化財に登録された「弥陀種子板碑」、昭和62年(1987年)10月28日に港区登録有形文化財に登録された「絹本着色阿弥陀三尊図」などの文化財もあります。
さっそく「天徳寺」を参拝したいと思います。「山門」の右手には、昭和61年(1986年)10月20日に港区指定有形文化財に登録された「弥陀種子板碑」の説明板があります。ちなみに、「板碑」は、鎌倉時代から戦国時代にかけて各地で造られた板状の石造物で、本来は先祖の供養など民間信仰によって立てられた塔婆の一種です。「山門」の左手には、「西之窪観音」と刻まれた石標もありました。「山門」を入るとすぐ左手に、「高芙蓉」と「河井筌廬」の墓とその説明板があります。説明板によると「高芙蓉」は、江戸時代中期の儒学者、篆刻家で画家でもありました。日本における印象制度を確立して印聖と呼ばれています。「河井筌廬」は、近代日本の篆刻家で金石学に基づく篆刻を日本に啓蒙しその発展に尽くしたそうです。ちなみに、「篆刻」とは、篆書体の文字をはんことして刻むことです。はんこの材料としては象牙や石やつげなどが用いられます。「高芙蓉」と「河井筌廬」の墓の隣には、「阿弥陀如来像」と「如意輪観音像」が置かれていました。その隣には、「聖観音像」が置かれ、その左端にある小さな石碑が「弥陀種子板碑」です。「港区教育委員会」の説明板によると「弥陀種子板碑」は、「緑泥片岩(秩父青岩)の一尊種子板碑で、高さ68センチ、幅29センチ、頭部を山形に造り、その下に二段の切り込みを入れ、身部の幅は同等で変わらない。身部上半に蓮華座上に梵字「キリーク」(阿弥陀仏9を異字体で表し、下半には「永仁6年7月日」(西暦1298年)の銘を刻む。梵字が分断直裁の薬研彫でやや浅く、年が草体で記されており、時代の特徴をよく示している。鎌倉時代の造立刻銘をもつ種子板碑の典型であり、港区内には稀少な存在である。」と書かれていました。その隣には、奇抜なデザインの「鐘楼」があります。「鐘楼」の屋根はドーム型のような12角形で、平成19年(2007年)に建立されたものです。しかし、「梵鐘」は寛永12年(1635年)に鋳造された梵鐘で、23区内に現存する「梵鐘」としては最古のものだそうです。その奥には「本堂」があります。二層八角の美しい形をした「本堂」です。平成17年(2005年)に完成し、八角形の頂点には鬼瓦が載せられ、その鬼が口を開けて威嚇しているのが印象的でした。「本堂」に向かって右手には「仮本堂」がありました。
09_「明和の大火死者供養墓」
「天徳寺」の次は「明和の大火死者供養墓」へ向かいます。「天徳寺」から「明和の大火死者供養墓」までは、5分350mほどの距離です。「天徳寺」の「山門」を出て、右方向に200mほど進むと突き当りになります。そこを右折して90mほど進むと信号(表示名「神谷町」)がありますので、左折して横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ったら左方向に50mほど進むと「光明寺」の参道の右手に「明和の大火死者供養墓」があります。
「明和の大火死者供養墓」の右手にある港区教育委員会の説明板によると「明和9年(1772年)2月29日の午後に、「目黒行人坂」の「大円寺」より出火しました。当日は、西南の風が強く、火は麻布・芝から江戸城郭内、京橋、日本橋、神田、本郷、下谷、浅草などに延焼し、千住まで達して翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦3年(1657年)1月18日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は1万4700人、ほかに行方不明者も4000人を超えています。「光明寺」の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当寺の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。」と書かれていました。
ちなみに、江戸時代の「三大大火」は、明暦3年1月18日から19日(1657年3月2日から3日)にかけて発生した俗に「振袖火事」と呼ばれる「明暦の大火」、明和9年(1772年)2月29日、目黒行人坂大円寺から出火し、別名「行人坂火事」と呼ばれる「明和の大火」、そして、文化3年(1806年)3月4日に芝車町から出火し、別名「車町火事」、あるいは「丙寅火事」ともいわれる「文化の大火」の三つの大火のことです。「明和の大火死者供養墓」は、平成22年10月27日に港区の旧跡に登録されました。
10_「光明寺」
「明和の大火死者供養墓」の次は「光明寺」へ向かいます。参道がありその奥に「光明寺」があります。
最初に「光明寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「光明寺」は浄土真宗本願寺派の寺院で、昔から「梅のお寺」として知られてきました。創建は古く、「僧浄榮」が鎌倉時代の建暦2年(1212年)に霞ヶ関付近に創建しました。「光明寺」が現在の地へ移転したのは慶長9年(1604年)のことです。なぜ、「梅のお寺」として知られてきたかというとその答えは、境内にある「光明寺の縁起」に次のように書かれていました。「天正19年(1591年)、「徳川家康」と親交のあった光明寺第17世住職「証高」が、境内の紅梅に和歌を添えて献上し、家康をたいそう喜ばせた。そのことを縁として、毎年正月の幕府への寺社献上の第一番として「光明寺」の梅が献上されました。正保2年(1645年)、三代将軍「徳川家光」が「光明寺」に立ち寄った際、「徳川家康」が「光明寺」の梅を喜んだ故事を聞き、山号を「梅上山」と改めるよう命ぜられた。これにより、以後、「梅上山光明寺」と称するようになった。」です。
早速「光明寺」を参拝したいと思います。正門の階段の手前には、「西久保幼稚園の碑」があります。「西久保幼稚園」は、地域からの要望もあり、昭和24年(1949年)に、「光明寺」の境内に設立されました。「本堂」の建設工事のため、その歴史に幕を降ろすこととなりました。現在は、富山県出身の彫刻家「岩城信嘉」の制作による「西久保幼稚園」の事跡を伝える石碑です。階段を上ると、右手の「客殿」前に「梵鐘」だけがありました。この「梵鐘」は、延宝6年(1678年)に鋳造されました。第二次世界大戦の際に供出しましたが、幸いにも平成8年(1996年)に戻ってきたそうです。現在、鐘楼建設を計画中だそうです。左手には、「光明寺の縁起」と梅の木があります。さらに、左手奥には、「常楽堂」があります。「常楽堂」は、歴代住職の遺骨や納骨を希望された門徒(檀家)の方々の遺骨が納められている永代納骨堂です。そして、「本堂」が正面にあります。「光明寺」の「本堂」は、境内の階段をあがって二階にあります。浄土真宗のお寺の「本堂」は、昔から「仏教の教えを学ぶ道場(聞法の道場)」と言われてきたそうです。誰でも自由にお参りできるということなので、階段を上り二階にある「本堂」に行ってみました。そして、「本堂」の先の「広縁」には、「寺カフェ」の「神谷町オープンテラス」がありました。周辺のサラリーマンや住民に愛される「神谷町オープンテラス」です。しかし、「光明寺」の境内からは「神谷町オープンテラス」の存在を確認することができません。「神谷町オープンテラス」は、「本堂」の階段を上ると、あたかも都会のオアシスのようなゆったりと、静かに広がる「広縁」があります。この「本堂」前の広い空間にテーブルやソファが置かれ、誰でも好きな席を使うことができるように開放され、飲食の持ち込みも自由です。「光明寺」が「神谷町オープンテラス」を始めたのは平成22年(2005年)です。お寺が憩いの場所になるようにとの想いから、それまで何もなかった「広縁」をカフェのように整えました。ちなみに、「広縁」とはその字のごとく広い縁側を指す建築用語ですが、別の意味があるそうです。それは、「広くご縁が生まれる場所」だそうです。目の前に広がるお墓、生い茂る緑に青空、東京タワーなどが一つの額縁の中の世界のように見えます。「神谷町オープンテラス」は、「お寺カフェ」との愛称でも親しまれ、カフェに変身するのが、毎年4月から秋までの期間の毎週水曜日の11:00~14:00です。予約優先で手作りの和菓子やほうじ茶、コーヒーを提供するというものです。ただし、金額は設定されておらず、お礼の気持ちで合掌とお焼香をしていただければとのことです。そして、お茶と甘味を頂くには事前 web予約が必要なので要注意です。
11_「専光寺」
「光明寺」の次は「専光寺」です。「専光寺」は当初の予定にはありませんでしたが、「光明寺」に立ち寄った時に「神谷町オープンテラス」からお寺らしき建物が隣に見えたので訪ねてみました。
「専光寺」は、浄土真宗系単立(東本願寺派)の寺院です。「専光寺」は、天文12年(1543年)に桜田に創建、慶長元年(1596年)に現在の地へ移転したと云われています。ちなみに、「浄土真宗単立」とは「浄土真宗」には十の派があり、代表的な派が「本願寺派」(お西さん)や「大谷派」(お東さん)です。「単立寺院」とはそのような派には所属せず、独立したお寺の運営を行っている寺院のことだそうです。立ち寄ったものの文化財等所蔵もなく見るべきものもありませんでした。あえて挙げるとするならば、「本堂」の向拝に立派な龍の彫刻が施されていました。
12_「光円寺」
「専光寺」の次は「光円寺」へ向かいます。「専光寺」から「光円寺」までは徒歩5分350mほどの距離にあります。「専光寺」の「山門」を出て右方向に90mほど進みます。通りに突き当たるので右折し160mほど進むと一つ目の信号(芝学園下)があります。そこを右折し「切通坂」を30mほど上ると右手に「光円寺」の「山門」があります。
「光円寺」は、400年以上の歴史を誇る浄土真宗の寺院です。京都の「東本願寺」が本山である真宗大谷派に属しています。「光円寺」は、「了空」が開山となり、慶長元年(1596年)に桜田地域(現在の新橋)で創建され、江戸時代中期に現在の場所に移転しました。「山門」に向かって右手手前には、三日月の形をした「真宗大谷派光円寺」の寺号標があります。そして、正面には「本堂」、右手には「和夫地蔵尊」がありました。「本堂」の扁額には山号である「桜田山」が書かれ、「本堂」の左手には「梵鐘」がありました。「光明寺」の「梵鐘」と同じような歴史を辿ったのでしょうか。「和夫地蔵尊」の由来は不明です。「和夫地蔵尊」を眺めていると心が和むような感じがしました。
13_「芝浄水池跡」
「光円寺」の次は「芝浄水池跡」へ向かいます。「光円寺」から「芝浄水池跡」までは徒歩2分120mほどの距離のところにあります。「光円寺」から120mほど「切通坂」を道なりに上っていくと「オランダ王国大使館」の先のすぐ右手に「芝浄水池跡」があります。
「芝浄水池跡」は、「駐日オランダ王国大使館」の隣にある「芝給水所」に保存されていました。まず、目に入ってくるのが、昭和40年(1965年)に廃止された「淀橋浄水場」の移設された立派な石造りの門です。立ち入り禁止と書かれていたので、残念ながら門の柵越しからしか見ることができませんでしたが、その門の奥には、「芝給水所」の遺構が庭に展示されています。門の右手に説明板があり、それによると右から「配水池のレンガ」、「馬蹄型通路」、「水道管」と説明板に書かれていました。そして、門から先に進むと「芝給水所公園」へ通じる階段があり、その手前に歴史を感じることのできるレンガ造りの遺構である「芝浄水池跡」の碑があります。レリーフ板には「芝給水所の歴史」が次のように書かれていました。
「芝給水所の歴史」 ※説明板からを転記
「芝給水所は、芝増上寺の北西部の高台に位置し、信濃小諸藩主 牧野遠江守康済の屋敷跡地に、芝給水工場として明治29年(1896年)8月に竣功、明治31年12月に淀橋浄水場から浄水を受け給水を開始しました。この給水所は、淀橋浄水場、本郷給水工場と共に、東京近代水道の始まりとなった施設で
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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《連山夢想》都営三田線「御成門駅」のA5出口を出て目の前の御成門緑地には、自然石と金属製輪型を組み合わせた「連山夢想」と題するモダンオブジェが設置されています。
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《連山夢想》今日は、「愛宕神社」、「日本放送協会放送博物館」などが主な目的地でしたが、都営三田線「御成門駅」のA5出口のすぐのところに素晴らしいパブリック・アートがあったので、写真を撮り、家に帰って調べてみました。
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《連山夢想》「連山夢想」は、造形作家である「眞板雅文」の平成7年(1995年)の作品です。オブジェ脇に数個の石ベンチもあり、ちょっとした休養スペースにもなっています。「眞板雅文」は、昭和19年(1944年)に中国東北部である旧満州の奉天生まれです。
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《連山夢想》「眞板雅文」は、自然の素材を使った立体造形やインスタレーションを数多く制作し、国内外で幅広く活躍した彫刻家です。「眞板雅文」は、イタリアのベニスで開催された第37回ヴェネチア・ビエンナーレ(1976年)と42回ヴェネチア・ビエンナーレ(1986年) に参加しています。また、80年代後半からは全国各地で野外彫刻やパブリック・アートを数多く制作しています。
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《看護婦教育所発祥の地》「連山夢想」から「看護婦教育所発祥の地」へは、徒歩2分140mほどの距離です。「日比谷通り」を新橋方面に向かいます。30mほど進むと一つ目の角のところに「CoCo壱番屋 港区御成門駅前店」あります。そこを左折し、70mほど進むと突き当たりになります。突き当りには「慈恵看護専門学校」があり、右折し50mほど進むと、「看護婦教育所発祥の地」の石碑があります。
看護婦教育所発祥の地 名所・史跡
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《看護婦教育所発祥の地》日本の看護教育は、「東京慈恵会医科大学」の創設者である「高木兼寛」が、英国留学時代に「セント・トーマス病院」に付設されていた「ナイチンゲール看護学校」を模範とした看護婦教育所を「有志共立東京病院」(現在の附属病院の前身)に設置しました。
看護婦教育所発祥の地 名所・史跡
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《看護婦教育所発祥の地》明治17年(1884年)10月17日には、米国から宣教師の「M・E・リード女史」を招き、看護婦取締りに任じて、金曜と土曜日に看護教育を行わせたことに始まります。
看護婦教育所発祥の地 名所・史跡
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《看護婦教育所発祥の地》明治19年(1886年)には、前年秋に初めて生徒見習として採用された13名のうち5名が第1回生として採用されました。第1回生はわずか5名でしたが、病院の総裁である皇后の臨席をえて卒業式が行われました。授業は、解剖・生理・看護法の講義、解剖・包帯・巴布〈ぱっぷ〉(=湿布)製法の実習があり、教育課程は2年でした。
看護婦教育所発祥の地 名所・史跡
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《看護婦教育所発祥の地》日本の「看護教育の発祥の地」であり、また現在も、医療を支えその最前線で活躍する看護師の育成が行われている場所です。現在の「慈恵看護専門学校」はこの流れを汲むものです。平成11年(1999年)10月12日に港区の文化財(史跡)に指定されました。
看護婦教育所発祥の地 名所・史跡
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《看護婦教育所発祥の地》「東京慈恵会医科大学」の創設者である「高木兼寛」
看護婦教育所発祥の地 名所・史跡
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《看護婦教育所発祥の地》米国から宣教師の「M・E・リード女史」
看護婦教育所発祥の地 名所・史跡
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《東京病院発祥の地》「東京慈恵会医科大学」の歴史を紐解いてみると、「東京慈恵会医科大学」の始まりは、明治14年(1881)5月1日、「高木兼寛」によって創立された「成医会講習所」です。「高木兼寛」は、明治8年(1875年)から5年間、海軍生徒として英国「セント・トーマス病院医学校」に留学しました。帰国後すぐに、この「成医会講習所」という医育機関を創設しました。
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《東京病院発祥の地》ついで、明治15年(1882)、高木は「戸塚文海」とともに、「増上寺」の子院である「天光院」に「有志共立東京病院」という慈善病院を発足させました。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしています。
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《東京病院発祥の地》「有志共立東京病院」の資金は有志の拠金によるものであり、「有志共立」という名はそこから由来したものです。病院総長としては「有栖川威仁親王」を招きました。そして、明治20年(1887年)には、「有志共立東京病院」は皇后を総裁に迎え、その名も「東京慈恵医院」と改め、経費は主に皇室資金によることになりました。
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《東京病院発祥の地》昭和37年(1962)10月に名称を「東京慈恵会医科大学附属病院」、通称「慈恵大学病院」と改称しました。「東京病院」の名称がなくなるため、その由緒を刻んだ「東京病院発祥の地」の石碑を附属病院玄関に向かって左脇に建立しました。
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《青松寺》山門付近…最初に「青松寺」の歴史を紐解いてみると、「青松寺」は、曹洞宗の寺院で、文明8年(1476年)に「太田道灌」が開基し、慶長5年(1600年)に、「徳川家康」が江戸城の外堀をつくる際に、現在地に移りました。開山当初は、現在の「国立劇場」、「最高裁判所」の周辺にあり、「江戸貝塚青松寺」と呼ばれていました。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近…移転にあたっては、面白い言い伝えがあります。それは、「青松寺」の「俊徳和尚」と「増上寺」の「開山酉譽上人」とは法友で、末永く寺門を並べて、ともに繁榮をしようと約束したので「増上寺」が芝へ移転したのを追って、「青松寺」も移転したと言われています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近…「青松寺」の中には、僧堂である「獅子窟」があり、明治8年(1875年)に、「獅子窟学寮」内に曹洞宗専門学本校が開校します。宗派の教育機関として、多くの僧を排出したそうです。翌年の明治9年(1876年)には、「駒込吉祥寺」の「旃檀林」と合併し、現在の「駒澤大学」のルーツへとなっていきます。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近…江戸時代には、「曹洞宗江戸三ヶ寺」(青松寺、泉岳寺、総泉寺)の一つとして触頭を勤めていました。広い境内には都旧跡に指定されている江戸時代中期の儒者「井上金峨の墓」や港区登録有形民俗文化財に指定されている「奴地蔵(槍持勘助墓)」、「法輪大観音像」、「智正庵」、「竹林」、「湧水」など見るべきものがあります。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近…山門の扁額…まず、「山門」の階段を上ります。すると1階の部分には青で「青松寺」と書かれた大きな扁額が、2階の回廊部分には、「青松寺」の山号である「萬年山」と書かれた扁額が掛けられています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近…「山門」下層部には平成14年(2002年)に制作された「四天王像」が、上層部には「十六羅漢」が座しています。ちなみに、「十六羅漢」は、仏のみ教えを護り、広く世に伝えることを誓う人々に慕われた仏様です。「四天王」は、仏教世界観の中の「須弥山」の頂上に住まう「帝釈天」に仕え、仏法を護持することを念願としています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近…それぞれの足元には、仏のお示しの親切が未だ分からない邪鬼を踏みつけておられます。また、「十六羅漢像」のある山門の屋根には、見上げると「隅龍」四方に取りつけられています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近の扁額
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近「多聞天」…「多聞天」は、夜叉を率いて世界の北方を守護しています。別名「毘沙門天」ともいいます。仏の道場を護って説法に耳を傾けています。剣と宝塔を持っています。また福徳を司るとして個別に信仰されています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近「持国天」…「持国天」は、世界の東方を守護しています。国を支える役を司っています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近「増長天」…「増長天」は、世界の南方を守護しています。五穀豊穣を司っています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》山門付近「広目天」…「広目天」は、浄天眼をもって観察し、世界の西方を守護しています。悪心をいさめ、仏心を起こさせるはたらきを司っています。筆と巻子を持っています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》境内から撮影した山門付近
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「鐘楼堂」…山門をくぐった左手に「鐘楼堂」があります。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「鐘楼堂」…「鐘楼堂」は、大正12年(1923年)の関東大震災で、境内堂宇全てが消失しました。現在の鐘楼堂は青松43世鉄肝省吾大和尚が建立したものです。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「鐘楼堂」…現在の梵鐘は昭和31年(1956年)に鋳造されました。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「鐘楼堂」…梵鐘の「梵」とは、インドの古代語で神聖・清浄を意味し、そのような音「梵音」を奏でる鐘が「梵鐘」です。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「龍の吐水口」…「鐘楼堂」から「坐禅堂」に向かい手前の道に入ると「協定公園」の疎水に、驚くほど大きな「龍の吐水口」が取りつけられています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「龍の吐水口」…この彫刻は彫刻家の「薮内佐斗司」の制作によるものです。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「龍の吐水口」…「薮内佐斗司」は、昭和28年(1953年)に大阪市で生まれ、東京藝術大学の副学長、教授も務めています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「龍の吐水口」…ちなみに、「薮内佐斗司」は、平城遷都1300年祭のマスコット「せんとくん」の制作者でもあります。水が勢いよく龍の口から吐き出されている光景は迫力があり、清涼感も感じられます。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」…「龍の吐水口」の次は、「法輪大観音」です。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」…来た道を戻り、「鐘楼堂」の脇の道を入ります。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」…「坐禅堂」の西側には、緑の木々に囲まれてそびえ立つ「法輪大観音」があります。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」…ちなみに、「法輪」とは、「仏の教え」のことで、仏さまがその教えを説かれることを「転法輪」というそうです。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」…輪は昔のインドの円盤状の武器のことで、仏教の教えである法が広まって人々の煩悩を打ち消していく様子を表現しています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」の手前にある赤ん坊を抱えた「消災地蔵尊」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」の手前にある赤ん坊を抱えた「消災地蔵尊」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」の前にある「消災地蔵尊」の石碑
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」の前にある「消災地蔵尊」の石碑
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「槍持勘助の墓」…「槍持勘助の墓」は「奴地蔵」とも呼ばれ、下の病によく効くと願をかける人が増え、全治した人は竹筒にお酒を入れてお礼をしたといわれます。「奴地蔵」(槍持勘助墓)は、平成5年(1993年)3月23日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」の手前にある「十観音」のレリーフ
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「法輪大観音」の手前にある「十観音」のレリーフ
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」…お墓の前を通ると、階段があります。ま坂道を進んでみると「智正庵」があります。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」…「智正庵」は、境内の自然を楽しむことができ、茶室、舞台となる広間です。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「」東屋
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」…「智正庵」の庭には、干支の可愛らしいブロンズ製の「摩尼車」が立ち並びます。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」…「摩尼車」は、チベット発祥の仏具で、心を込めて一度回すと「摩尼車」の経文を一回読むのと同じ功徳があるとされています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「智正庵」の庭園にある「摩尼車」
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「座禅堂」…来た道を「本堂」の方へ戻ります。先ほど通り過ぎた「坐禅堂」へ向かいます。「山門」をくぐって「中雀門」を通り、「本堂に」向かって左手側の建物が「僧堂」で、一般的に「坐禅堂」と呼ばれています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「座禅堂」…修行僧をはじめ寺を訪れる方々の学びの場になっている道場で、中央に納められた「聖僧様」を囲んで周囲に単(坐禅の席)を設け、坐禅を中心に食事から瞳眠までの一切の生活が行われます。中央に「聖僧様」、「文殊菩薩」、「観音」、「大迦葉」などを安置するので、正しくは「聖僧堂」といいます。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「座禅堂」…ちなみに、「聖僧」とは、聖者として尊敬される高僧や禅院の僧堂の御本尊で中央に安置してある仏像のことをいい、多くは 「文殊菩薩」が安置されているそうです。また、「坐禅堂」の入口の上には、「雲堂」と書かれています。これは、「坐禅堂」が、諸国を行脚する雲水達が一時ここに留まり弁道修行する堂だからだそうです。そして、一般の方にも座禅修行の場として利用されているそうです。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「観音聖堂」…「山門」をくぐって「中雀門」を通り、「本堂に」向かって右手側の建物が「観音聖堂」です。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「観音聖堂」…「観音聖堂」は「礼拝堂」のことで、多目的ホールのようにイベントに使用されるほか、人々が観音菩薩の優しい眼差しの前で心を投げ出して過ごせる空間となっています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「観音聖堂」の扁額…「観音聖堂」の入口の上には、「観音聖堂」と書かれた大きな扁額がありました。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「観音聖堂」…堂内の天井には「飛天」が舞い堂内の空間は天空へと突きぬけ、また道元禅師の御詠「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」が描かれているそうです。「飛天」は、日本画家「高橋秀年」の制作によるものです。また、堂内には、彫刻家「江里康慧師」制作の「聖観音菩薩立像」が安置されています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近…「中雀門」をくぐると正面が、御本尊」のいらっしゃるところが「本堂」です。御本尊は「釈迦牟尼仏」、脇侍に「文殊菩薩」と「普賢菩薩」という、典型的な「釈迦三尊」となっています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近…「本堂」は、大正12年(1923年)9月の関東大震災で境内堂宇全てが消失し、昭和4年(1929年)に新たに建立された本堂は、大震災で火災を被った後ということもあり、当時はまだ珍しい鉄筋コンクリートで造られたそうです。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近…ご本尊様は「釈迦牟尼如来」、脇侍に「文殊」、「普賢」の両菩薩を従えています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近「本堂の扁額」…堂内は誰でも参拝できるそうです。そして、「内陣」左右の柱には、大本山永平寺77世「慈眼福海禅師」の筆による「聯」が掛けられています。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近…大正12年(1923年)9月の関東大震災で境内堂宇全てが焼失し、昭和4年(1929年)に新たに建立された「本堂」は、関東大震災で火災を被った後ということもあり、当時としては、まだ珍しい鉄筋コンクリートで造られたそうです。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近の鐘楼
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近の花頭窓
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近の天水桶
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂正面
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近の仁王像
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂付近の仁王像
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂裏にある日本庭園
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂裏にある日本庭園
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂裏にある日本庭園
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》本堂裏にある日本庭園
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「誕生童子・花祭りの童子」籔内佐斗司…「観音聖堂」から「山門」に向かうと途中に「誕生童子・花祭りの童子」があります。「誕生童子」の周りを4体の「花祭り童子」が囲んでいます。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》「誕生童子・花祭りの童子」籔内佐斗司…「花祭りの童子」からは、噴水のように水が出るようになっています。「誕生童子・花祭りの童子」は、彫刻は彫刻家の「薮内佐斗司」の制作によるものです。「誕生童子」が参拝者を迎えるような形になっているそうです。可愛らしくて見ていると心が和みホッとした気分になりました。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》西觀世音像…都道301号(白山祝田田町線)沿いにある「青松寺」の「山門」の右手には「西觀世音像」を見ることができます。
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》西觀世音像
青松寺 寺・神社・教会
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《青松寺》西觀世音像
青松寺 寺・神社・教会
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《伝叟院》「外観」…「青松寺」の次は「伝叟院」へ向かいます。「青松寺」から「伝叟院」へは、徒歩2分170mほどの距離のところにあります。「青松寺」の「山門」を左方向へ110mほど進むと、先ほど渡った横断歩道の信号(表示名「愛宕神社前」)のすぐ左手にあります。
伝叟院 寺・神社・教会
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《伝叟院》「総持寺出張所の石柱」…「伝叟院」は「青松寺」の子院で、現在は、曹洞宗大本山「総持寺」の出張所を兼務しています。
伝叟院 寺・神社・教会
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《伝叟院》「社号標」…「伝叟院」は、曹洞宗の寺院で、開山は「青松寺」の第10世「十洲補道大和尚」が、正保3年(1646年)開創しました。
伝叟院 寺・神社・教会
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《伝叟院》「本堂」
伝叟院 寺・神社・教会
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《伝叟院》「本堂」
伝叟院 寺・神社・教会
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《伝叟院》「本堂」
伝叟院 寺・神社・教会
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《伝叟院》「本堂」の愛宕山の扁額
伝叟院 寺・神社・教会
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《伝叟院》「災記念聖観世音菩薩像」…境内にある「震災記念聖観世音菩薩像」は、関東大震災の火災のときに、港区横死者の火葬場となった場所であり、関東大震災の火災の犠牲者のために建立されたものです。
伝叟院 寺・神社・教会
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《伝叟院》「災記念聖観世音菩薩像」…また、「伝叟院」は、長州江戸藩邸没収事件の犠牲者が葬られたとされる寺院でもあります。
伝叟院 寺・神社・教会
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《NHK放送博物館》への順路…「伝叟院」の次は「日本放送協会放送博物館」へ向かいます。「伝叟院」から「日本放送協会放送博物館」へは、「NHK放送博物館」と「愛宕神社」専用の「愛宕山エレベーター」が便利です。「伝叟院」から「愛宕山エレベーター」までは、徒歩1分10mほどの距離のところにあります。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》への順路の看板…愛宕神社前の信号の向こうにあるトンネルの手前に専用のエレベーターがあります。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》への順路…このエレベーターを使い2Fまで上がります。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》への順路…このエレベーターを使い2Fまで上がります。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》への順路…2Fでエレベーターを降りこの連絡通路を渡ります。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》への順路…2Fでエレベーターを降りこの連絡通路を渡ります。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》外観…「日本のラジオ第一声」は、大正14年(1925年)3月22日朝9時30分、東京芝浦の東京放送局仮放送所から第一声が流れました。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》正面入口…同年7月に「愛宕山」で本放送が始まり、「愛宕山」は「放送のふるさと」と呼ばれるようになりました。「NHK放送博物館」は、世界最初の放送専門のミュージアムとして、昭和31年(1956年)に「愛宕山」に開館しました。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》外観…「NHK放送博物館」には、ラジオからデジタル放送までの放送の歴史に関するさまざまな実物が展示してあります。また、「NHK放送博物館」では、だれもが自由に利用できる「番組公開ライブラリー」なども公開しています。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》外観…ちなみに、放送の歴史に関する約2万7千件の資料と約8千点の図書を所蔵し、順次公開しているそうです。また、番組公開ライブラリーでは約1万件の番組が、愛宕山8Kシアターでは最新の8K番組が視聴できるそうです。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」放送歴史絵図…「NHK放送博物館」で見学できるのは、1Fから4Fまでで、1Fが「ウェルカムゾーン」、2Fが「テーマ展示ゾーン」、3Fが「ヒストリーゾーン」そして、4Fが「図書・史料ライブラリーと番組公開ライブラリー」により構成されています。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」放送歴史絵図…「NHK放送博物館」の正面入口を入ると右側に受付があり、こちらでパンフレット等をもらうことができます。1Fには「ウェルカムゾーン」、ラジオ放送開始からの放送の歴史をイラストで紹介してある「放送歴史絵図」、時代ごとのテレビ、ラジオ、スピーカーなどの貴重な放送器材が展示してあります。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」放送歴史絵図…その他、NHKの朝ドラ関係のポスター等が展示してあり、「ブギウギ」の記念撮影スポットも設けてありました。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」放送歴史絵図
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」朝ドラ関係
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」放送歴史絵図
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」放送歴史絵図
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」放送歴史絵図
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」朝ドラ関係…「ブギウギ」の記念撮影スポット
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」朝ドラ関係
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》1F「ウェルカムゾーン」チコちゃんが出迎えてくれました。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》M2・2F「ウェルカムゾーン」フロア案内図
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》M2案内板…「愛宕山8Kシアター」、「放送体験スタジオ」…2Fの「テーマ展示ゾーン」へ向かいます。階段を上がったところに、奥に「放送体験スタジオ」と手前に「愛宕山8Kシアター」があります。2FというよりM2Fと言った方がいいかもしれません。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》M2案内板…「放送体験スタジオ」ニュースキャスターコーナー…「放送体験スタジオ」には、案内の女性の係員がいて、「実際にニュース、気象予報やバーチャル映像を体験できるのでやってみませんか?」と声掛けしてくれました。せっかく薦めてくれたのですが、一人ではちょっと恥ずかしかったので、ニューススタジオと気象スタジオの見学のみにしました。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》M2案内板…「放送体験スタジオ」ニュースキャスターコーナー…また、ここではテレビ画面を構成する3原色の原理などが学ぶことができます。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》M2案内板…「放送体験スタジオ」の説明板…「愛宕山8Kシアター」には、200インチの大型スクリーンが設置され、8Kスーパーハイビジョンの魅力を体験することができます。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「テレビドラマの世界」…、2Fの「テーマ展示ゾーン」では、「テレビドラマの世界」、「オリンピックの感動を伝える」、「NHKと音楽」そして「こども番組がいっぱい」の4つのテーマを通して放送の歴史や技術が体験できます。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「テレビドラマの世界」…「テレビドラマの世界」のコーナーには、NHKテレビドラマの年表や映像などがあり、昔見た番組を振り返ることができます。それを見ると思わず懐かしさが胸にこみ上げてきます。ドラマにまつわるセットや衣装もありました。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「オリンピックの感動を伝える」…「オリンピックの感動を伝える」のコーナーには、過去の激闘の名場面シーンや中継用カメラなどの器材も展示されています。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「オリンピックの感動を伝える」…「東京オリンピック」を契機として放送技術が飛躍的に発展したそうです。
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「オリンピックの感動を伝える」
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「オリンピックの感動を伝える」
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「オリンピックの感動を伝える」
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「オリンピックの感動を伝える」
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)「NHKと音楽」…「NHKと音楽」のコーナーでは、年末恒例の看板番組である「紅白歌合戦」の各種資料や「NHK紅白歌合戦優勝旗」も展示されていました。
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)「NHKと音楽」…その他に現在でも続いている「NHKのど自慢コーナー」やNHKが育んできた音楽・伝統芸能の世界、番組を彩った名曲のアーカイブスなども展示してありました。
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)「NHKと音楽」…「NHK紅白歌合戦優勝旗」も展示
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「こども番組がいっぱい」…「こども番組がいっぱい」のコーナーです。ここには、歴代の懐かしい人形劇やこども番組のキャラクターの人形や着ぐるみもかわいらしく並べて展示してありました。
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「こども番組がいっぱい」
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「こども番組がいっぱい」
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》2F(テーマゾーン展示)…「こども番組がいっぱい」
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)案内板
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)フロア案内図
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…大正14年(1925年)からの始まったラジオ放送開始から現在までの放送の歴史を学べる種々様々な展示がされています。ラジオ放送が1920年代初頭に、アメリカで始まったラジオの事業化の波は世界に広がり、大正14年(1925年)3月22日、日本でラジオ放送が始まりました。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…仮放送所で使ったマイク
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」仮放送所…「放送のはじまり」のコーナーの前にある「仮放送所」のコーナーです。大正14年(1925年)7月に「愛宕山」で本放送が始まり、「愛宕山」は「放送のふるさと」と呼ばれるようになりました。ここには、仮放送所で使ったマイクや当時の仮放送所の看板や写真が展示してあります。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…仮放送所
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…仮放送所
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…仮放送所
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…全国に広がるラジオ…「全国に広がるラジオ」のコーナーでは、当初、京、大阪、名古屋にそれぞれ放送局があり、翌年の大正15年(1926年)に合同し、「社団法人日本放送協会」となりました。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…全国に広がるラジオ…昭和3年(1928年)に全国の中継網が完成し、番組が多様化していったそうです。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…全国に広がるラジオ
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…戦時下の放送…「戦時下の放送」コーナーです。ここでは何と言っても昭和20年(1945年)8月15日の「玉音放送」でしょう。この放送を聞き日本国民は敗戦を知りました。このシーンは、第二次世界大戦の敗戦を知り、人々が泣き崩れるシーンがテレビでは必ずと言っていいほどが放送されます。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」テレビの実験時代…「テレビの実験時代」のコーナーでは、日本の「テレビの父」と呼ばれ、昭和元年(1926年)に世界で最初に電子式テレビジョンの開発に成功した「高柳健次郎」から昭和28年(1953年)のテレビ放送開始までのテレビ研究について紹介・展示してありました。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」テレビの実験時代…「高柳健次郎」はNHK技術研究所のチームを率い、昭和15年(1940年)にテレビの実験放送に成功しています。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの実験時代
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの実験時代
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの実験時代
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの実験時代
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの実験時代
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…終戦と玉音放送
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…終戦と玉音放送
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」大盛況街頭テレビ…続いては、「テレビの登場」のコーナーです。昭和28年(1953年)にNHKがテレビの本放送を開始し、続いて初の民放テレビ局として日本テレビも開局しました。やはり忘れることのできないのは、街頭テレビは黒山の人だかりで、プロレスや大相撲中継に熱狂していたました。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…大盛況街頭テレビ
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの登場
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの登場
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの登場
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの登場
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの登場
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの登場
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビの登場
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」テレビ時代の本格化…テレビ時代が本格化的に訪れ、テレビ番組も多様化しました。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」テレビ時代の本格化…テレビで一番印象に残っているのは、東京オリンピックにテレビが格段と技術革新を遂げ、昭和46年(1971年)には、NHK総合などが全面カラー化されたことです。それと携帯電話でテレビが見ることができるようになったことでしょう。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」テレビ時代の本格化…人も世界も多様化し、それぞれ趣向に合わせた多チャンネル時代が到来し、今や衛星放送により世界のニュースや情勢が瞬時に分かる時代になりました。
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…テレビ時代の本格化
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…カラーテレビとVTR
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…カラーテレビとVTR
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…カラーテレビとVTR
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…衛星放送とハイビジョン
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…多様化するテレビ番組
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…多様化するテレビ番組
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…多様化するテレビ番組
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…多様化するテレビ番組
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…多様化するテレビ番組
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…多様化するテレビ番組
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…多様化するテレビ番組
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…わが家にテレビがやってきた
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…わが家にテレビがやってきた
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《NHK放送博物館》3F(ヒストリーゾーン)「放送の歴史」…わが家にテレビがやってきた
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
NHK放送博物館 美術館・博物館
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《NHK放送博物館》3F(企画展示室)「博物館コレクションによる大河ドラマ」
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《愛宕神社》大鳥居付近…「愛宕山トンネル」付近にある「愛宕山エレベーター」を利用すれば「愛宕神社」へ簡単に行くことができますが、「愛宕神社」へ来たからには、「出世の石段」(男坂)を上らなくては、「愛宕神社」へせっかく来た意味がありません。都道301号(白山祝田田町線)沿いに「愛宕神社」の「社号標」があり、その奥に朱色の「大鳥居」があります。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある「社号碑」その奥には朱色の「大鳥居」が見えます。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近…大鳥居と出世の石段…鳥居は世俗と神域との結界です。ここから先は神様の住む場所になります。すぐその先には、急勾配の「出世の石段」(男坂)があります。見るからに結構きつそうです。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある出世の階段の案内板…「大鳥居」の手前には、「石灯籠」と「愛宕神社出世の石段」と書かれた看板もありました。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある石灯籠(右側)、右奥は「女坂」です。「男坂」の右手には細い階段(「女坂」)が伸びており、こちらは「男坂」よりも一段の高さがそれほどでもないので、体力に自信がない方は「女坂」を選びましょう。行きは「男坂」から登って仕事運のご利益をもらい、帰りは少し緩やかな「女坂」を利用するのがベストです。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある石灯籠(右側)
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある社名の入った提灯
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある狛犬(左側)
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある狛犬(左側)
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある狛犬(右側)
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》大鳥居付近にある狛犬(右側)
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》出世の石段(男坂)…曲垣平九郎の故事にちなみ「出世の石段」と名づけられた急な石段です。下から撮影
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》出世の石段(男坂)…「出世の石段」(男坂)を登り上から見下ろしてもその急勾配のすごさが実感できます。「出世の石段」は、傾斜角度40度、86段の石段です。2分ほどで上まで登れるのですが、傾斜が急で一段の高さも不揃いで高いため、登っていて恐怖を感じます。もちろん息もきれます。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》出世の石段(男坂)…特に、下りは上りよりも恐怖心が増します。「社殿」の左手には専用のエレベーターがあるので、私のような高齢者や足腰に自信のない方は、エレベーターの利用をお薦めします。「男坂」を登ると右手には、「愛宕神社」が23区内で一番高い山にあることを証明する標石である「三角点」があります。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》一の鳥居付近…出世の石段を上ったらすぐ正面の所にあります。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》手水舎付近…「一の鳥居」をくぐると左手に「手水社」があります。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》手水舎付近
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》手水舎付近
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》「手水社」で身を清め「社殿」に向かう時にくぐるのが「丹塗りの門」です。この「丹塗りの門」は、江戸幕府ゆかりの印として、葵の御紋が施されています
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》丹塗りの門付近…「ほおずき市」の時には、茅の輪が設置され、これをくぐると災いを避けられるといいます。石の素材そのままの「一の鳥居」と対照的な鮮やかな朱色と金色が目を引きます。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近の招き石…「社殿」前の左手にあるのが「招き石」です。こ「招き石」をなでると福が身につくといいます。たくさんの参拝客に撫でられたせいか、表面がツルツルになっています。不思議な形の石で、見ているだけで神秘的な力を感じるパワースポットです。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近の招き石…よく見てみると子犬が後ろ足で立ち上がっているようにも見えます。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…葵の紋入った賽銭箱、左上の小さな箱は外貨用の箱です。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…社殿に掲げられた扁額
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近の風景…「愛宕神社」は、慶長8年(1603年)に、江戸幕府の開祖である「徳川家康」の命により「防火の神様」として創建されました。「防火の神様」として、愛宕神社に祀られている主祭神は「火産霊命」という火の神様で、火にまつわる災厄よけや防火・防災のほか、印刷・コンピューター関係、商売繁盛、恋愛・縁結びなどのご利益があります。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近の燈籠(左側)…「愛宕神社」は、「伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり」と言われた由諸があります。慶長15年(1610年)、「庚戊本社」をはじめ、「末社仁王門」、「坂下総門」、「別当所」等など将軍家の寄進により、多くの堂宇が建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものだったといわれています。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近の燈籠(右側)…その後江戸時代の大火災で境内の堂宇が全焼してしまいましたが、明治10年(1877年)9月に「本殿」、「幣殿拝殿」、「社務所」の再建がなりました。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近「将軍梅」…「丹塗りの門」をくぐるとすぐ左手にあるのが、「将軍梅」です。寛永11年(1634)年に、「曲垣平九郎」が将軍「徳川家光」に献上したと言われる梅です。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近「将軍梅」
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…「社殿」は、主祭神「火産霊命」を祀っています。「火産霊命」は別名「火之迦具土神」と言い、「伊邪那美命」から最後に産まれた炎の神です。しかし炎の神ゆえに、「伊邪那美命」に大やけどを負わせてしまい、これが原因で「伊邪那美命」は亡くなってしまいました。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…幣殿と本殿:お正月や毎月1日、15日、24日の「月次祭」の際には、「本殿」の正面の御扉が開かれるので、それにあわせて行くのもいいですね。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…幣殿と本殿:大正12年(1923年)9月1日の関東大震災、昭和20年(1945年)5月24日東京大空襲により「太郎坊神社」を残し「社殿」は焼失してしまいました。戦後の昭和33年(1958年)9月に、氏子中の寄付により、「御本殿」、「幣殿」、「拝殿」などが再建されて現在に至ります。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…幣殿と本殿…「愛宕神社」は、標高25.7mの「愛宕山」の山頂にあり、「愛宕山」は、東京23区内の自然の山として一番高く、江戸時代には、街を見渡せる名所として見物客で賑わったそうです。「愛宕山頂」からは東京湾や房総半島まで見られたそうです。また、江戸城の無血開城に向けて重要な役割を果たした場所でもあります。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…幣殿と本殿…「愛宕山」に「勝海舟」が「西郷隆盛」を誘い、山頂から江戸の町を指さし、兵火にさらすことのむなしさを訴えた話が伝えられています。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近にある由緒板…「拝殿」前の左手には、「徳川家光」に献上されたという梅が残っています。この故事により、「愛宕神社」正面の坂(「男坂」)が出世の石段と呼ばれるようになったのです。ちなみに、江戸時代以降にも「男坂」を馬で登り下りすることに挑戦し、成功をおさめた人が何人かいるそうです。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近にある由緒板…驚くべきことですが、9月に行われる大祭では、隔年でなんとお神輿が上り下りするそうです。そして、毎年6月23日と24日に行われる「千日詣り」は、この日に参拝すると千日分のご利益があるといわれ、境内は「ほおづき市」で賑わいます。「ほおづき市」と言えば東京の浅草が有名ですが、実は始まりは東京の愛宕神社だそうです。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…石碑
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…石碑
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近…石碑
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近の絵馬掛け
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社殿付近のお御籤掛け
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社三社…「太郎坊社」、「福寿稲荷社」、「大黒天社」
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社三社…「社殿」の右手を進むと、末社のお社が3つ並んでいます。「太郎坊社」、「福寿稲荷社」、「大黒天社」
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社「太郎坊社」…一番左手にあるのが、「太郎坊社」で、「猿田彦神」(天狗様)を祭神とする末社です。「猿田彦大神」は、「天照大神」の命を受けた「瓊杵尊」を高千穂へと導いたといわれています。「猿田彦神」は道案内、お導きの神様です。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社「福寿稲荷社」…「福寿稲荷社」は、末社の真ん中にあります。「宇迦御魂神」を祭神とする「福寿稲荷社」です。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社「福寿稲荷社」全国の「稲荷神社」で祀られる神様で、「お稲荷さん」と呼ばれ親しまれています。「宇迦御魂神」は、福徳開運、衣食住の守護神です。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社「恵比寿大黒天社」…右手にあるのが、「大國主命」と「事代主命」を祭神とする「大黒天社」です。「大国主命」は出雲に大国をつくった国づくりの神で、縁結びの神様として有名です。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社「恵比寿大黒天社」「事代主命」は「大国主命」の子で、「大国主命」にかわって「天照大神」の使者に国譲りの意を伝えます。「事代主命」は、七福神の恵比須様と同一視され、商売繁盛・五穀豊穣・縁結びの神様として崇められています。水の神、子どもの守り神、財宝・交通運輸・技芸の神様として知られ、安産祈願、子授かり・子宝祈願、商売繁盛、旅行・交通安全、金運上昇、技芸・芸能などにご利益があります
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社「弁財天社」…「弁財天社」は、「出世の石段(男坂)」を上り切った左手にあります。「弁財天社」は、「市杵島姫命」を祭神とする末社です。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》末社「弁財天社」「弁財天社」は、慶長15年(1610年)に安芸(広島)の厳島より勧請されました。「市杵島姫命」は、「天照大神」と「須佐之男」の「誓約(うけい)」と呼ばれる古代の占いによって生まれた神様で、「弁財天」・「弁天様」と同一視され、日本の神様では馴染み深い、七福神の1人としても有名です。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》「弁財天社」は、池のほとりにあり、その奥には、「児盤水の滝」があります。かつては、この愛宕山には「児盤水」という霊験あらたかな名水が湧き出ていました。承平3年(933年)の「平将門の乱」のときに「源経基」がこの「児盤水」で「水垢離」をし、乱が鎮まることを神に祈ったといわれているそうです。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》境内風景「弁財天社」
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》境内風景「弁財天社」「児盤水」=「小判水」として、金運のご利益がいただける場所だそうです。
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社務所
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社務所
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》社務所
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》境内風景
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》境内風景
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》境内風景
愛宕神社 寺・神社・教会
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《愛宕神社》境内風景…記念撮影スポット
愛宕神社 寺・神社・教会
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《天徳寺》山門付近…「愛宕神社」のかなり急な「出世の石段」を恐る恐る降りて「天徳寺」へ向かいました。「愛宕神社」から「天徳寺」までは、5分300mほどの距離です。「愛宕神社」の鳥居を出て右方向に進み、「愛宕神社前」の信号の所を右折し、「愛宕山トンネル」を抜けて、170mほど進むと「天徳寺」が左手にあります。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》山門付近…「天徳寺」の歴史を紐解いてみると、「天徳寺」は、浄土宗の寺院です。天文2年(1533年)に「三蓮社縁譽稱念上人」によって、)紅葉山(現在の皇居内)に創建されました。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》山門付近…港区指定文化財「弥陀種子板碑」の説明板…「山門」の右手には、昭和61年(1986年)10月20日に港区指定有形文化財に登録された「弥陀種子板碑」の説明板があります。ちなみに、「板碑」は、鎌倉時代から戦国時代にかけて各地で造られた板状の石造物で、本来は先祖の供養など民間信仰によって立てられた塔婆の一種です。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》山門付近…「天徳寺」は、江戸城拡張工事により「霞が関」に移転し、慶長16年(1611年)に現在の地に移転しました。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…「河井荃蘆」と「高芙蓉」の墓…「山門」を入るとすぐ左手に、「高芙蓉」と「河井筌廬」の墓とその説明板があります。説明板によると「高芙蓉」は、江戸時代中期の儒学者、篆刻家で画家でもあった。日本における印象制度を確立して印聖と呼ばれています。「河井筌廬」は、近代日本の篆刻家で金石学に基づく篆刻を日本に啓蒙しその発展に尽くしたそうです。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…「河井荃蘆」と「高芙蓉」の墓の説明板…ちなみに、「篆刻」とは、篆書体の文字をはんことして刻むことです。はんこの材料としては象牙や石やつげなどが用いられます。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》「河井荃蘆」の墓…「河井筌廬」は、近代日本の篆刻家で金石学に基づく篆刻を日本に啓蒙しその発展に尽くしたそうです。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…「河井荃蘆」の墓
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内「高芙蓉」の墓…「高芙蓉」は、江戸時代中期の儒学者、篆刻家で画家でもありました。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…「高芙蓉」の墓
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…山門を入って左手にある、「高芙蓉」と「河井筌廬」の墓の隣には、「阿弥陀如来像」と「如意輪観音像」が置かれていました。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…山門を入って左手にある「如意輪観音像」
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…山門を入って左手にある石碑
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…山門を入って左手にある「聖観音像」の左隣にあるのが「弥陀種子板碑」です。「弥陀種子板碑」は、「緑泥片岩(秩父青岩)の一尊種子板碑で、高さ68センチ、幅29センチ、頭部を山形に造り、その下に二段の切り込みを入れ、身部の幅は同等で変わりません。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…奇抜なデザインの「鐘楼」があります。「鐘楼」の屋根はドーム型のような12角形で、平成19年(2007年)に建立されたものです。しかし、「梵鐘」は寛永12年(1635年)に鋳造された梵鐘で、23区内に現存する「梵鐘」としては最古のものだそうです
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内…山門を入って左手にある23区内に現存する「梵鐘」としては最古の「」鐘楼
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内風景「仮本堂」
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》境内風景「仮本堂」
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》本堂付近…「天徳寺」は、江戸城拡張工事により「霞が関」に移転し、慶長16年(1611年)に現在の地に移転しました。「天徳寺」は、江戸時代には「浄土宗江戸四ヶ寺」の一つとして、寺格も高く、愛宕山西側一帯を寺域とするほどの大きな寺院であったそうです。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》本堂付近…そして、元和元年(1615年)に江戸幕府初代将軍「徳川家康」より50石、元和9年(1623年)には2代将軍「徳川秀忠」より100石の朱印を賜った御朱印寺だそうです。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》本堂の扁額…「江戸三十三観音霊場20番札所」、また、現在活動していませんが、かつては「西方三十三所観音5番」でした。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《天徳寺》本堂付近…「天徳寺」には、昭和61年(1986年)10月20日に港区指定有形文化財に登録された「弥陀種子板碑」、昭和62年(1987年)10月28日に港区登録有形文化財に登録された「絹本着色阿弥陀三尊図」などの文化財もあります。
光明山 天徳寺 寺・神社・教会
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《明和の大火死者供養墓》「天徳寺」の次は「明和の大火死者供養墓」へ向かいます。「天徳寺」から「明和の大火死者供養墓」までは、5分350mほどの距離です。
明和の大火死者供養墓 名所・史跡
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《明和の大火死者供養墓》「天徳寺」の「山門」を出て、右方向に200mほど進むと突き当りになります。そこを右折して90mほど進むと信号(表示名「神谷町」)がありますので、左折して横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ったら左方向に50mほど進むと「光明寺」の参道の右手に「明和の大火死者供養墓」があります。
明和の大火死者供養墓 名所・史跡
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《明和の大火死者供養墓》「明和の大火死者供養墓」の右手にある港区教育委員会の説明板によると「明和9年(1772年)2月29日の午後に、「目黒行人坂」の「大円寺」より出火しました。当日は、西南の風が強く、火は麻布・芝から江戸城郭内、京橋、日本橋、神田、本郷、下谷、浅草などに延焼し、千住まで達して翌晦日の午後にようやく鎮火しました。
明和の大火死者供養墓 名所・史跡
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《明和の大火死者供養墓》説明板…いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦3年(1657年)1月18日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。
明和の大火死者供養墓 名所・史跡
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《明和の大火死者供養墓》説明板…死者は1万4700人、ほかに行方不明者も4000人を超えています。「光明寺」の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当寺の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。
明和の大火死者供養墓 名所・史跡
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《光明寺》「社号標」…「明和の大火死者供養墓」の次は「光明寺」へ向かいます。参道がありその奥に「光明寺」があります。
光明寺 寺・神社・教会
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「?西久保幼稚園の碑」…正門の階段の手前には、「西久保幼稚園の碑」があります。「西久保幼稚園」は、地域からの要望もあり、昭和24年(1949年)に、「光明寺」の境内に設立されました。「本堂」の建設工事のため、その歴史に幕を降ろすこととなりました。現在は、富山県出身の彫刻家「岩城信嘉」の制作による「西久保幼稚園」の事跡を伝える石碑です。
光明寺 寺・神社・教会
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《光明寺》「水鉢」…江戸時代末期の天保3年(1832年)に「和泉屋重次郎」が寄進した「石嗽鉢」です。石鉢には「梅上山」の山号が彫られており、「光明寺」では「梅上山」の文字は、この石鉢の書体をいつも利用しているそうです。
光明寺 寺・神社・教会
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《光明寺》「水鉢」…ちなみに、「石嗽鉢」とは、寺院などに参詣する前に、水で口をそそぐために使われた鉢のことです。
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《光明寺》「梵鐘」…階段を上ると、右手の「客殿」前に「梵鐘」だけがありました。この「梵鐘」は、延宝6年(1678年)に鋳造されました。第二次世界大戦の際に供出しましたが、幸いにも平成8年(1996年)に戻ってきたそうです。現在、鐘楼建設を計画中だそうです。
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《光明寺》「本堂」外観…最初に「光明寺」の歴史と概要を紐解いてみると、「光明寺」は浄土真宗本願寺派の寺院で、昔から「梅のお寺」として知られてきました。創建は古く、「僧浄榮」が鎌倉時代の建暦2年(1212年)に霞ヶ関付近に創建しました。
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《光明寺》2Fにある「本堂」…「光明寺」が現在の地へ移転したのは慶長9年(1604年)のことです。
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《光明寺》2Fにある「本堂」の扁額…光明寺」の「本堂」は、境内の階段をあがって二階にあります。浄土真宗のお寺の「本堂」は、昔から「仏教の教えを学ぶ道場(聞法の道場)」と言われてきたそうです。
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《光明寺》「光明寺と梅」の説明板…なぜ、「梅のお寺」として知られてきたかというとその答えは、境内にある「光明寺の縁起」に次のように書かれていました。「天正19年(1591年)、「徳川家康」と親交のあった光明寺第17世住職「証高」が、境内の紅梅に和歌を添えて献上し、家康をたいそう喜ばせました。
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《光明寺》「光明寺と梅」の説明板…そのことを縁として、毎年正月の幕府への寺社献上の第一番として「光明寺」の梅が献上されました。正保2年(1645年)、三代将軍「徳川家光」が「光明寺」に立ち寄った際、「徳川家康」が「光明寺」の梅を喜んだ故事を聞き、山号を「梅上山」と改めるよう命ぜられた。これにより、以後、「梅上山光明寺」と称するようになりました。
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《光明寺》「永代納骨堂 常楽堂」…「常楽堂」は、歴代住職の遺骨や納骨を希望された門徒(檀家)の方々の遺骨が納められている永代納骨堂です。
光明寺 寺・神社・教会
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《光明寺》「」永代納骨堂 常楽堂
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《光明寺》「客殿」
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《光明寺》「本堂」と「神谷町オープンテラス」はこの階段から上がります。
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」内観…浄土真宗のお寺の「本堂」は、昔から「仏教の教えを学ぶ道場(聞法の道場)」と言われてきたそうです。誰でも自由にお参りできるということなので、階段を上り二階にある「本堂」に行ってみました。そして、「本堂」の先の「広縁」には、「寺カフェ」の「神谷町オープンテラス」がありました。
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」内観…周辺のサラリーマンや住民に愛される「神谷町オープンテラス」です。しかし、「光明寺」の境内からは「神谷町オープンテラス」の存在を確認することができません。「神谷町オープンテラス」は、「本堂」の階段を上ると、あたかも都会のオアシスのようなゆったりと、静かに広がる「広縁」があります。
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」内観…「本堂」前の広い空間にテーブルやソファが置かれ、誰でも好きな席を使うことができるように開放され、飲食の持ち込みも自由です。「光明寺」が「神谷町オープンテラス」を始めたのは平成22年(2005年)です。お寺が憩いの場所になるようにとの想いから、それまで何もなかった「広縁」をカフェのように整えました。
光明寺 寺・神社・教会
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」内観…ちなみに、「広縁」とはその字のごとく広い縁側を指す建築用語ですが、別の意味があるそうです。それは、「広くご縁が生まれる場所」だそうです。
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」からの「東京タワー」の眺望
光明寺 寺・神社・教会
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」からの「東京タワー」の眺望…目の前に広がるお墓、生い茂る緑に青空、東京タワーなどが一つの額縁の中の世界のように見えます。
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」からの眺望…「神谷町オープンテラス」は、「お寺カフェ」との愛称でも親しまれ、カフェに変身するのが、毎年4月から秋までの期間の毎週水曜日の11:00~14:00です。予約優先で手作りの和菓子やほうじ茶、コーヒーを提供するというものです。
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」からの眺望…ただし、金額は設定されておらず、お礼の気持ちで合掌とお焼香をしていただければとのことです。そして、お茶と甘味を頂くには事前 web予約が必要なので要注意です。
光明寺 寺・神社・教会
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《光明寺》「神谷町オープンテラス」からの眺望
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《専光寺》山門付近…「光明寺」の次は「専光寺」です。「専光寺」は当初の予定にはありませんでしたが、「光明寺」に立ち寄った時に「神谷町オープンテラス」からお寺らしき建物が隣に見えたので訪ねてみました。
専光寺 寺・神社・教会
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《専光寺》山門付近…「専光寺」は、浄土真宗系単立(東本願寺派)の寺院です。「専光寺」は、天文12年(1543年)に桜田に創建、慶長元年(1596年)に現在の地へ移転したと云われています。
専光寺 寺・神社・教会
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《専光寺》山門付近…ちなみに、「浄土真宗単立」とは「浄土真宗」には十の派があり、代表的な派が「本願寺派」(お西さん)や「大谷派」(お東さん)です。「単立寺院」とはそのような派には所属せず、独立したお寺の運営を行っている寺院のことだそうです。
専光寺 寺・神社・教会
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《専光寺》山門付近…境内から撮影
専光寺 寺・神社・教会
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《専光寺》本堂付近…立ち寄ったものの文化財等所蔵もなく見るべきものもありませんでした。あえて挙げるとするならば、「本堂」の向拝に立派な龍の彫刻が施されていました。
専光寺 寺・神社・教会
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《専光寺》本堂付近
専光寺 寺・神社・教会
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《専光寺》本堂付近
専光寺 寺・神社・教会
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《専光寺》本堂付近…天水桶
専光寺 寺・神社・教会
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《光円寺》山門付近…「専光寺」の次は「光円寺」へ向かいます。「専光寺」から「光円寺」までは徒歩5分350mほどの距離にあります。「専光寺」の「山門」を出て右方向に90mほど進みます。通りに突き当たるので右折し160mほど進むと一つ目の信号(芝学園下)があります。そこを右折し「切通坂」を30mほど上ると右手に「光円寺」の「山門」があります。
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《光円寺》山門付近…「山門」に向かって右手手前には、三日月の形をした「真宗大谷派光円寺」の寺号標があります。
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《光円寺》山門付近…境内から撮影
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《光円寺》山門付近…境内から撮影
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《光円寺》本堂付近……「光円寺」は、400年以上の歴史を誇る浄土真宗の寺院です。京都の「東本願寺」が本山である真宗大谷派に属しています。
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《光円寺》本堂付近
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《光円寺》本堂付近…「光円寺」は、「了空」が開山となり、慶長元年(1596年)に桜田地域(現在の新橋)で創建され、江戸時代中期に現在の場所に移転しました。
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《光円寺》本堂付近…扁額
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《光円寺》本堂付近「梵鐘」…「本堂」の左手には「梵鐘」がありました。「光明寺」の「梵鐘」と同じような歴史を辿ったのでしょうか。
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《光円寺》「扁額」…「本堂」の扁額には山号である「桜田山」が書かれていました。
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《光円寺》和夫地蔵尊…正面には「本堂」、右手には「和夫地蔵尊」がありました。
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《光円寺》和夫地蔵尊…「和夫地蔵尊」の由来は不明です。
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《光円寺》和夫地蔵尊…「和夫地蔵尊」を眺めていると心が和むような感じがしました。
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《芝浄水池跡》説明板…「光円寺」の次は「芝浄水池跡」へ向かいます。「光円寺」から「芝浄水池跡」までは徒歩2分120mほどの距離のところにあります。「光円寺」から120mほど「切通坂」を道なりに上っていくと「オランダ王国大使館」の先のすぐ右手に「芝浄水池跡」があります。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》説明板
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》説明板
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》「芝給水所」…「芝浄水池跡」は、「駐日オランダ王国大使館」の隣にある「芝給水所」に保存されていました。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》「芝給水所」…まず、目に入ってくるのが、昭和40年(1965年)に廃止された「淀橋浄水場」の移設された立派な石造りの門です。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》右から「配水池のレンガ」、「馬蹄型通路」、「水道管」…立ち入り禁止と書かれていたので、残念ながら門の柵越しからしか見ることができませんでしたが、その門の奥には、「芝給水所」の遺構が庭に展示されています。門の右手に説明板があり、それによると右から「配水池のレンガ」、「馬蹄型通路」、「水道管」と説明板に書かれていました。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》「芝給水所」
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》そして、門から先に進むと「芝給水所公園」へ通じる階段があり、その手前に歴史を感じることのできるレンガ造りの遺構である「芝浄水池跡」の碑があります。レリーフ板には「芝給水所の歴史」が次のように書かれていました。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》「芝給水所は、芝増上寺の北西部の高台に位置し、信濃小諸藩主 牧野遠江守康済の屋敷跡地に、芝給水工場として明治29年(1896年)8月に竣功、明治31年12月に淀橋浄水場から浄水を受け給水を開始しました。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》この給水所は、淀橋浄水場、本郷給水工場と共に、東京近代水道の始まりとなった施設で、その後約100年にわたり、関東大震災や戦災に見舞われながらも、東京都民の暮らしに欠かせない水を送り続けてきました。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》旧芝給水所は煉瓦造りであり、東京における近代水道創設当時の高い土木技術を物語る文化的・技術的遺産です。芝給水所を改築するに当たり、先人の偉業を称え、旧芝給水所の一部を保存し後世に伝えるものです。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》…「水道水」の使用量は各家庭や各事業所によって時間ごとに変動するので、「浄水場」から送る水を使用量の変動に合わせて細かく調整するのは難しいので、その変動を吸収するため送水量が使用量を上回った場合は、一時的に「給水所」にある配水池に貯水し、反対に使用量が送水量を上回った場合は、貯水した水を使って使用量に合った水を各家庭や事業所に配水するようしています。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》ちなみに、常識的なことですが。「水道水」は、浄水場」から「給水所」を経て各事業所や家庭に配水されています。「芝給水所」はその施設の一つです。
芝給水所公園 公園・植物園
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《芝浄水池跡》「芝浄水池跡」付近からの「東京タワー」の眺望
芝給水所公園 公園・植物園
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《幸稲荷神社・瘡護神社》鳥居付近…「芝浄水池跡」の次は「幸稲荷神社・瘡護神社」へ向かいます。「幸稲荷神社・瘡護神社」は、「芝浄水池跡」の道路の反対側にあります。距離にして1分70mほどです。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》鳥居付近「幸稲荷神社社号標」…「幸稲荷神社」の歴史を紐解いてみると、「幸稲荷神社」は稲荷神社で、江戸初期の寛永年間に「府内古社十三社」に定められ、 東京でも最も古い神社の一つと考えられています。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》鳥居付近「瘡護神社社号標」…瘡護神社」は、その昔、疱瘡という流行病が発生し、その病を鎮めるために建てられたとされる神社です。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》鳥居の「幸稲荷神社扁額」…「幸稲荷神社」の創立は時代を更にさかのぼる応永元年(1394年)4月に、武蔵国豊島郡岸之村(現在の芝大門付近芝公園十号地あたり)の鎮守として応永元年(1394年)に勧請したといわれています。当初は、「岸之稲荷」と称されていたましたが、氏子崇敬者に幸事が次々起こったことから、寛永元年(1624年)に「幸稲荷」に改称しました。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》手水舎と絵馬掛け…「幸稲荷神社」と同じ地域にありましたが、管理することができなくなり、当社に御祭神を移してお祀りすることになりました。「瘡護神社」には、病気の際に土の団子を供え、平癒したら米の団子を供えるという風習があったとされ、「幸稲荷神社」に移ってからもその風習が続き、参拝者が本社である「幸神社」より多かったと言われています。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》手水舎…本来は摂社の一つなのですが、崇拝者が多くいたことから、本社である「幸神社」と並んで「瘡護神社」の社号が掲げられています。「幸稲荷神社」は、二つの社号が掲げられている珍しい神社です。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》絵馬掛け「幸せに成る絵馬」
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》絵馬掛け「幸せに成る絵馬」
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》本殿付近…「鳥居」をくぐると右手に「手水舎」、正面には「社殿」があります。「手水舎」の「水盤」は古いもので、萬延2年(1861年)に奉納されたものです。「旧社殿」は、昭和20年(1945年)の東京大空襲によって焼失しました。現在の「社殿」は、昭和35年(1960年)に再建されたものです。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》狛犬(右側)
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》狛犬(右側)
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》狛犬(右側)
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》扁額「幸神社」…「社殿」の「扁額」は、社号場と同じように、右側に「幸神社」、左側に「瘡護神社」の2社の「扁額」が掲げられていました。かつて疱瘡という流行病を鎮めるために建てられた同地域の「瘡護神社」が合祀されたもので、「瘡護神社」は位置付け的には摂社ですが、その風習が続き、参拝者が本社「幸神社」より多かったと言われています。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》扁額「瘡護神社」…本来は摂社の一つなのですが、崇拝者が多くいたことから、本社である「幸神社」と並んで「瘡護神社」の社号が掲げられているそうです。参拝者が多かったことからふたつの社号が並べられているということです。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「御祠石」(みふくらいし)…境内社の左側には、慶長年間より伝わる社宝の病気平癒の「御祠石」があります。「御祠石」は、この石に水をかけ願い事をすると、いかなる熱病も癒え、子供の夜泣きもただちに止むと信仰を集めたそうです。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「御祠石」(みふくらいし)「御祠石」の前には、水をかけられるように水入れと柄杓が置かれていました。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「御祠石」(みふくらいし)
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「御祠石」(みふくらいし)説明板
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「御祠石」(みふくらいし)案内板
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「御祠石」(みふくらいし)案内板
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「社殿」の左手に回ると、「本殿」と「本殿」をバックにビルの谷間に「東京タワー」を発見しました。実は、「東京タワー」を運営する「日本電波塔株式会社」は、昭和52年(1977年)に創立20周年を記念し、「東京タワー」のメインデッキに「タワー大神宮」を創建しました。「伊勢神宮」より御分霊を勧請し、「幸稲荷神社」の境外末社という位置づけとなっているそうです。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「社務所」…「社務所」は、「御祠石」から「社殿」沿いに進むと奥にあり、ここで御朱印が頂けるそうです。
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《幸稲荷神社・瘡護神社》「社務所」
幸稲荷神社 寺・神社・教会
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《千里社稲荷》外観…「幸稲荷神社・瘡護神社」の次は「千里社稲荷」へ向かいます。「千里社稲荷」は「幸稲荷神社・瘡護神社」から徒歩5分400mの距離のところにあります。
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《千里社稲荷》狐像(左側)…「切通坂」を下ると信号(表示名「芝学園下」)があるので、横断歩道を渡ります。右折して100mほど進むと、ちいばす「麻布東ルート」の「御成門北」バス停があります。その左手奥に階段がありますので、上ると愛宕グリーンヒルズMORIタワーの敷地内に「千里社稲荷」があります。
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《千里社稲荷》狐像(左側)…実は、私も知らなかったのですが、「千里社稲荷」は「青松寺」の一部らしいということです。確かに、「千里社稲荷」の正面にある道を進むと、「青松寺」の「法輪大観音」がありました。
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《千里社稲荷》狐像(右側)気お具「千里社稲荷」は、大小の三社が並んでいます。その手前には、「稲荷堂」の社と同じくらい大きさの「狐像」が鎮座していました。右側の「狐像」が阿形で鍵を抱え、左側の「狐像」が吽形で宝珠を抱えていました。
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《千里社稲荷》狐像(右側)
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《千里社稲荷》祠…また、由緒板や説明板らしきものは何もありませんでした。真ん中の大きな社に「稲荷堂」と書かれた扁額のようなものがあるだけです。
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《千里社稲荷》祠
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《千里社稲荷》祠
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《千里社稲荷》祠
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《千里社稲荷》祠
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《千里社稲荷》「稲荷堂」の裏に小さな岩の山のようなものがあったので、回り込んでみると、岩を積み上げてできた「狐穴」がありました。
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《千里社稲荷》その左右に狐像が配されているけど、顔や首が欠けていました。
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《千里社稲荷》ちなみに「狐穴」とは、稲荷社などの社殿裏に空いた穴で、祀られる狐や狼などが自由に出入りするための穴だそうです。
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《「森の記憶」高田洋一作》「千里社稲荷」の次は「森の記憶」高田洋一作です。「森の記憶」高田洋一作は、「千里社稲荷」へ行く途中のちいばす「麻布東ルート」の「御成門北」バス停があります。その左手に階段があり、すぐその先の歩道沿いに「森の記憶」高田洋一作があります。
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《「森の記憶」高田洋一作》パブリックアートである「森の記憶」は、平成2年(1950年)に彫刻家の「高田洋一」によって制作されました。
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《「森の記憶」高田洋一作》二枚の赤い羽根が風の動きによって、いろいろな形を織りなします。作品の反対側に「愛宕グリーンヒルズMORIタワー」へ通じる階段があり上に登ってみると、また違った顔を見せてくれます。是非、階段の上から眺めてください。
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《「森の記憶」高田洋一作》「高田洋一」は、昭和31年(1956年)に大阪府に生まれました。「大阪芸術大学美術学科」を卒業後に文化庁芸術家在外研修員としてベルリンに滞在しました。「高田洋一」は、空気の僅かな動きや、風など、風のエネルギー、自然の見えない力を可視化する作品を制作しています。
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《松蓮社》山門付近…「森の記憶」高田洋一作の次は「松蓮社」です。「松蓮社」は「森の記憶」高田洋一作から徒歩4分250mほどのところにあります。「森の記憶」高田洋一作から左方向に70mほど進むと歩道橋があります。歩道橋を渡り道路の反対側に降ります。そのまま40mほど進むと右手に「松蓮社」の「山門」があります。「山門」を入ると大きな駐車場とその奥に民家のような建物があります。これが「松蓮社」です
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《松蓮社》境内付近…「松蓮社」は、浄土宗の寺院で「増上寺」の子院です。「松蓮社」は、「徳川家光」の長女で、「徳川光友」の正室だった「千代姫」(霊性院殿)の位牌殿として、尾張徳川家が寛永10年(1633年)に建立したものです。
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《松蓮社》本堂付近…実は、「松蓮社」の「本堂」は、太平洋戦争中に、空襲によって焼失してしまいました。この建物は、管理者が住む家屋だそうです。どうりで、どう見てもお寺には見えないはずですね。
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《松蓮社》弁財天入口案内板…「松蓮社」の敷地の西側は崖地になっていて、下部に「弁財天」が祀られている洞窟霊場である「弁天洞」があります。「本堂」らしき建物の前には、「弁財天入口」の案内板がありました。それに従い「本堂」沿いに右手奥に進みます。
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《松蓮社》弁財天…「弁天洞」の入口右手に説明板があり、それによると毎月1日と17日の二日間だけ公開されそうです。残念ながら訪れた当日は、参拝することができませんでした。再度、チャレンジしてみたいと思います。
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《松蓮社》弁財天…洞窟霊場である「弁天洞」は、NHKのテレビ番組の「ブラタモリ~東京タワー・芝~」でも放映されたそうです。
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《松蓮社》弁財天
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《松蓮社》弁財天…「弁天洞」の「弁財天」は、いわゆる七福神の一神としての「弁財天」ではなく、千代姫のために特別に作られた「勝利弁財天」だそうです。
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《松蓮社》弁財天の説明板
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《雲晴院》山門付近…「松蓮社」からさらに30mほど進むとその先に「雲晴院」の「山門」があります。
雲晴院 寺・神社・教会
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《雲晴院》山門付近…「雲晴院」は、浄土宗の寺院で「増上寺」の子院です。雲晴院」は、松浦藩ゆかりの寺で、松浦肥前守室(雲晴院尼)が檀主となり、寛永10年(1633年)に建立しました。増上寺17世照譽上人了學大和尚が「遊學院」と号して開山し、後年法名より「雲晴院」と改号しました。
雲晴院 寺・神社・教会
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《雲晴院》境内…聖観世音菩薩…「聖観世音菩薩像」のプレートには、次のような文章が刻まれていました。
雲晴院 寺・神社・教会
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《雲晴院》境内…聖観世音菩薩…建立の辞 平成2年(1990年)11月26日朝、小学4年生の当寺の子が、いつものように途中まで見送ってくれた祖父に手を振って別れ、独りで学校に向った直後、御成門の交差点の横断歩道で後方から左折して来た自動車にはねられ、9才の命を失ってしまった。
雲晴院 寺・神社・教会
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《雲晴院》境内…聖観世音菩薩…本人もさぞ無念であったろう、残された者達の哀別の涙は盡きることがない。「観世音菩薩」の大慈悲をもって早く浄土に往登し成仏されることを願うと共に、このような悲しい事故災害の断絶を祈念してこの像が建立された。将来の雲晴院住職として期待されていた正雄の短かった人生の生き甲斐の一つとしたい。
雲晴院 寺・神社・教会
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《雲晴院》境内
雲晴院 寺・神社・教会
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《雲晴院》境内
雲晴院 寺・神社・教会
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《雲晴院》本堂付近…「山門」くぐると、直線の参道の先に、コンクリート造、銅板葺き、宝形造り屋根の端正な「本堂」があります。境内には、「聖観世音菩薩像」と「法然上人」と思われる像がありました。実は、この「聖観世音菩薩像」には、悲しい過去がありました。
雲晴院 寺・神社・教会
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《雲晴院》本堂付近…扁額
雲晴院 寺・神社・教会
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