2024/08/25 - 2024/08/25
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gianiさん
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新山口の一つ手前の四辻駅には、歴史の詰まったスポットがありました。
平安時代に貨幣造成所が作られ、江戸時代には大村益次郎が誕生した土地柄です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは四辻駅、
駅の南側へ、県道208号線を5分ほど歩きます。四辻駅 駅
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大村会館(公民館)の横に、陸軍の父こと大村益次郎生家跡があります。
3歳の時に移転しているので、現在は公園整備されています。大村益次郎生誕地 名所・史跡
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国道2号線を延々と歩くと、郷土館があります。1956年以来山口市域です。
地名の鋳銭司は、周防鋳銭司跡です。鋳銭司郷土館 美術館・博物館
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日本の貨幣史
古代は物々交換でしたが、飛鳥時代末に初めて貨幣が鋳造されます(708)。しかし銅が不足して平安時代半ばに鋳造は中止され、11cには銭貨の流通が途絶え、絹/布/米が貨幣として機能しました。12c後半以降は、中国から銅銭を輸入しました。
応仁の乱の頃には中国からの輸入銭が減少し、私鋳銭が穴埋めに横行します。 -
江戸時代に貨幣は統一され、金/銀/銅貨は計量ではなく定位貨幣へ変化します(18c中まで銀貨は計量貨幣)。貨幣の改鋳や藩札の横行で、度々経済が混乱しました。金銀貨は、16世紀の精錬技術向上で物量が増えたことも背景にあります。
明治政府は貨幣の品質/規格を統一してます。その後、紙幣や安価な材料の硬貨が出回るようになります。
続いて、中国の貨幣史も併せて考えます。 -
貝貨(ばいか)
BC15cの殷やBC11cの周は内陸部に位置するために、東南アジアとの交易で得られる貝殻は貴重品で、貨幣として用いられました。経済活動に関わる漢字に貝の字が多く用いられるのは、この時期に成立した漢字に起因します。写真は左から順に、子安貝/二枚貝/淡水貝/骨製/滑石製です。
淡水貝以降は原材料ではなく、貝を模したことで価値を生み出しました。 -
古代中国では、刀/鍬/干魚/布などが物品貨幣として交易に用いられました。後にその形が銅で造られて使われるようになりました。
写真は左より、銅製の刀幣/魚幣/布幣です。 -
半両
BC221年に秦の始皇帝は初めて中国を統一し、度量衡を統一します。半両という円形の銅貨を製造します。
写真は左上より、蟻鼻銭(ぎびせん:青銅で貝を模ったもの。楚)/四銖(ししゅ)半両/上横文五銖/大泉五十(新:14年)/貸泉(新:14年)
下段:秦半両(重量が一両の半分)/後漢五銖/内郭五銖(梁:502年)/北周布銭(561年)/五行大布(北周:574年)/白銭五銖(隋:581年)
1両は24銖で、五銖銭はBC118年に前漢の武帝が鋳造し、唐代(621年)まで流通しました。 -
開元通宝(621年)
300年続いた通貨で、和同開珎のモデルにもなります。度量衡が10進法で統一され、新たに1両=10銭=100分=1000厘=10000毫となります。 -
古代日本
勾玉/耳環/石器/稲/布などが物品貨幣として、交易に使われました。条件は、物品そのものに価値を見出せること/保存できること/持ち運びできることです。 -
和同開珎(708)
日本最初の統一通貨で、この年に武蔵国秩父で良質の銅が発見されたことを記念して、年号を和同に改元しました。1文の価値があり、当時の労働者一日分の賃金/米2kgに相当しました。直径24mm/中央に7mm四方の穴が開いた銅貨です。 -
皇朝十二銭
250年間に12種類の銅貨が鋳造されました。鋳造順に、和同開珎/萬年通宝/神功開宝/隆平永宝/富寿神宝/承和昌宝/長年大宝/饒益神宝/貞観永宝/寛平大宝/延喜通宝/乾元大宝です。 -
鋳銭司
貨幣の鋳造は河内/長門/岡田(山城)/田原(河内)などで行われます。中断を経て、825年に周防に設けられ、200年ほど続きました。
周防では、富寿神宝~乾元大宝の8つが鋳造されました。 -
周防鋳銭司
陶春日神社の絵馬に描かれた様子です。国司一行の横にある政所(事務所)が、現在地付近です。総社は現在の陶春日神社で、周囲に鋳銭工場/鍛冶場/銭屋(倉庫)海に面した積出港が描かれています。 -
鋳銭司関連の遺跡を地形図にプロットしたもの。
中心部は現住所の鋳銭司/陶の境界線で、積水ハウス工場の南側です。青色で表示した当時の海岸線(現在の標高3mラインで比定)を見ると、山口市街を流れる椹野川(ふしのがわ)が作った沖積平野は形成されていないことが分かります。周防鋳銭司跡 名所・史跡
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地名の陶は、古墳時代に伝来した須恵(すえ)器が由来で、大内氏傍系が陶氏を名乗った本拠地です。陶晴賢は、日本史で習ったかと思います。
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銭貨の鋳造工程
まずは見本となる母銭を作成、それに基づいて複数の種銭を作ります。種銭を粘土に押し付けて、表面と裏面の鋳型を作ります。鋳型(表/裏面)を合わせて銅を流し込み、冷却後に取り出します(枝銭)。櫛団子のような形状の枝銭から銭を切り離し、ヤスリでバリを削ります。砥石で側面や表面を磨いて出来上がりです。 -
鋳銭工房跡(模型)
12×30mの掘立柱建物が発見され、6つの炉跡が見つかっています。1番は溶解炉で、2-6は鋳造炉です。 -
工房の配置と内部の様子
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鞴(ふいご)で風を送り、炉の温度を上げます。鞴と炉を結ぶのが鞴羽口で、高温に耐えられるよう土でできています。炉の上には坩堝(るつぼ)が置かれ、金属を溶かします。
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鋳造に関わる遺物
上より、有孔板材(鋳型から出した銭を填めて、表面を磨くための道具)/砥石/坩堝/鞴羽口。 -
使用方法の復元図
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2018年に発掘された断片(左:拡大)は、2022年に饒益神宝の仕損じだと判明しました。仕損じ銭が出たことは、ここが鋳銭工房であることの証です。
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生産管理に関わる発掘品
土師器/須恵器の杯は、木簡に文字を記す際の硯として用いられました。木簡には、原料/製品の重量が記載されています。印鑑には宗□私印と刻まれ、866-868年に鋳銭司長官を務めた阿倍宗行のものとされます。
鋳銭司長官は防府に滞在する国司が兼任するようになり、清少納言父の清原元輔も任務に当たりました。 -
渡来銭
有望な銅山不在の中、中国(南宋~明)との貿易で銭貨を輸入しました(渡来銭)。平清盛は大量の渡来銭を輸入し、市中にも貨幣社会が浸透し始めました。 -
鎌倉時代の市場の様子
代金の支払いに宋銭を使用している様子が描かれ、庶民にも貨幣が浸透していき、貨幣の需要が増していることが読み取れます。 -
鎌倉時代の逸話
10文銭を川に落とした青砥藤綱は、50文を払って松明を買い無事に川から回収しました。庶民から見たら愚かな散財に映りますが、宋銭の損失は国家の損失だが、松明代金の50文は通用するので損失ではないとコメントします。興味深いエピソードです。 -
永楽通宝
明で鋳造され、高品質のため租税や物価の基準となった渡来銭。永楽通宝の一貫文(1000文)は、ほかの渡来銭の四貫文(4000文)の価値がありました。
永楽通宝以外の低品質/贋銭を、びた銭と呼ぶようになりました。 -
江戸時代の貨幣
幕府は渡来銭の使用を禁止し、統一貨幣を鋳造しました(三貨制度)。大きく金貨/銅貨=変動相場/銀貨=固定相場に大別されます。1両=4分=16朱という体形で、古代中国の度量衡(1斤=16両)/2の乗数に倣ったものです。 -
徳川家康の目指した貨幣制度(頓挫)
慶長6年に江戸幕府を開いた徳川家康は、金貨を中心とした貨幣制度を導入しようと考え、一枚ずつ数えて使う計数貨幣を発行しました。少額貨幣については、銅貨が深く浸透していました。
一方、銀が採れる西日本では、日本経済を握る関西商人らが貿易で銀塊(秤量)を利用しました。家康の政治権力を以てしても、大坂商人の経済力に叶わず、関東の金遣い/関西の銀遣いという慣習が残りました。これには決済毎の秤量/両替の必要が伴いました。 -
金貨の体系
大判(10両)は記念硬貨に近く、権力者が下賜するもので、流通が目的ではありませんでした。
小判(1両)が最高峰で、次いで二分金、一分金でした。1両=4分なので、二分金なら2枚/一分金なら4枚で1両になります。
※小判十両で首が飛ぶ。刑法で10両以上の窃盗は死刑になりました。 -
両/分の下の単位は朱で、二朱金、一朱金がありました。1分=4朱なので、二朱金なら2枚/一朱金なら4枚で1分になります。4進法採用は、古代中国の度量衡を引き継いだものです。2の乗数なので、塊を半分に割って決済した名残です。
※一文銭96枚が100文として通用していたのも、16もしくは32の倍数という考え方が実用的だったことによります。 -
銀貨
左は丁銀と呼ばれるナマコ形の銀棒です。重量は43匁と、2の乗数/2の倍数でもない不便な係数です。秤量後に紙に包んで封印し「包銀」として使用されました。財布に入れるサイズではありませんでした。1両は60匁でした。
実際に市中を出回っていたのは右の豆銀で、重量は10匁以下でした。取引の度に秤で重量を測りました。金/銅貨への換金には、両替屋の存在(手数料)が欠かせませんでした。 -
銀貨/金貨のレート固定への試み
田沼意次の命を受けた勘定奉行川井久敬が1765年に明和五匁銀を発行しました。いわゆる定位銀貨で、12枚(5×12=60)で小判1枚(1両)と交換できましたが、品質が粗悪/単位が中途半端なので普及しませんでした。
川井は1772年に南鐐(なんりょう=純銀)二朱銀を発行します。良質(=信用の担保)の銀貨で「南鐐8片を以て、小判1両に換う」と打刻されます。金貨とリンクした計数銀貨は計算等が簡単明瞭で、市中に普及します。小判(金貨)を軸とする計数貨幣制度が、遂に実現します。補助貨幣として、1朱銀(右)も発行されます。 -
改鋳
支配者が権威を示すために行う点が、まず挙げられます。徳川家康の慶長小判は、豊臣から徳川へ移ったことのアピールになり、純金の含有率の高さは幕府の経済基盤と社会的信用を得る点で有効でした。
鉱山の産出量減少と幕府の財政悪化に伴い、時代が下るにつれ概して小判の重量や品位は低下します。貨幣経済が農村にまで浸透/経済活動が活発化し、流通量が増えたことも大きな原因です。低品位の元禄小判がもたらしたインフレを終息させるために、宝永/正徳享保では品位/重量を上げる(幕府による)市場介入も行われました。出目(改鋳益)を得るために、低品位へ改鋳することも行われます。 -
寛永通宝(1636-)
徳川家光の時代に鋳造が開始され、明治維新まで230年間鋳造された銅貨。4000文=1両で、30年後には永楽通宝(渡来銭)や私鋳銭を駆逐しました。1朱=250文で、銀/金貨は現代の金銭感覚では高額紙幣、銅貨はコインに相当します。
18世紀以降は貨幣の品質が低下し、1文の価値も低下(インフレ)しました。真鍮の合金は信用を維持しましたが、鉄銭は市場で嫌われました。 -
さし
金/銀貨と銅貨の差は最低でも250倍ということで、1文銭96枚をさしと呼ばれる紐に通して流通しました。刺し棒は元々角柱で、硬貨の中心が昔から正方形の理由(名残)です。
雁首銭
雁銭の中で最もポピュラーなもので、キセルの雁首を叩いて平らにして、上記「さし」に混ぜる手法。 -
藩札
藩内だけに通用する地域貨幣で、1661年に福井藩が発行したのを発端として18世紀以降乱発されます。18世紀に各藩は商品作物の栽培を奨励し、生産者から買い取る流通量が不足している鋳貨の代わりに使用されました。商品作物を買い取る豪商が藩札を裏書することで、信用を創造しました。
一方で、赤字続きの藩の予算を補填すべく乱発することもしばしばで、インフレと悪評が伴いました。藩札は和紙(丈夫)製で、偽造防止のために透かし等の細工が施されました。優れた製紙技術あっての地域貨幣です。 -
開国後の問題
日本の金銀比価は1:5に対し、欧米は1:15でした。長崎貿易は銅貨決済のために問題ありませんでしたが、日米通商修好条約(開国)後は国際基準の銀貨決済になり、大量の天保小判が海外流出します。メキシコドル銀貨4枚を両替屋で1分銀12枚に替え、更に両替屋で銀12分を小判3両に替え、帰国後母国で小判3枚を両替するとメキシコドル銀貨12枚に化けるからくりです。
幕府は安政小判を発行(1859)して対抗しますが、米領事の抗議で僅か3週間で発行停止になります。最終的に、天保小判と同品位で重量を1/3に抑えた万延小判を発行(1860)して均等を測りますが、国内市場は混乱します。 -
明治以降
明治元年(1868)に初の紙幣「太政官札(右上/右下)」が誕生します。政府発行ですが、藩札に似た外観です。
明治3年には新しい通貨制度が定められ、明治大宝(中下)が発行されました。ただの紙切れを、金本位制度(金1.5g=1円)で信用創造しました。
明治5年には国立銀行が全国153箇所に設置され、紙幣を発行します。西南戦争の予算捻出のために紙幣を乱発し、大インフレを引き起こします。
明治14年には国立銀行に代わり、中央銀行(日本銀行)が設立され、現在に至ります。
少額貨幣は、銅貨が担います。 -
明治4年の新貨条例により、1円=100銭=1000厘という貨幣単位が導入されます。硬貨も近代洋式製法で鋳造され、(伊藤博文が導入した)金本位制度(金1.5g=1円)で信用創造しました。1円金貨は1ドル金貨に相当します。金不足ゆえに、紙幣の兌換は名目だけでした。
その後銀本位制度を経て、明治30年には日清戦争の賠償金を元手に再び金本位制度(金0.75g=1円)を採用します。1932年に金貨製造は停止(金本位制度の停止)し、管理通貨制度へ移行し現在に至ります。 -
1871年の新貨条例により1円銀貨も鋳造されますが、貿易決済でのみ通用する特殊通貨(⇔法定通貨)でした。1878年に法貨になります。1882年に大蔵大臣松方正義は日本銀行を設立し、兌換紙幣の発行、金銀複本位制度を施行します。とはいえ、金貨は流出が激しく、事実上の銀本位制度でした。1897年制定の貨幣法で金本位制度採用に際し、銀貨は運用停止になります。
※銀貨は1957年に100円玉として復活しますが生産は58年までで、1967年に白銅製に替わります。 -
1953年には、銭は切り捨てになり、円のみが通用します。
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郷土館の右半分は、鋳銭司村出身の大村益次郎のコーナーです。
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1825年に、代々医者を営む村田家で生を受けます。
鋳銭司村四辻生まれです。写真の戸籍を見ると、幼名は宗太郎で浄土真宗の檀家です。 -
医者を継ぐべく17歳で、三田尻の蘭医でシーボルト門下の梅田幽斉に弟子入りし、蘭学に触れます。
20歳で、大坂の緒方洪庵の適塾へ入門し、塾頭になります。福沢諭吉らと共に過ごします。 -
適塾でのテキスト
医学のみならず、兵学/数学/語学等を学びました。
四辻へ戻り、開業医として活動します。翌年25歳で琴子と結婚します。臨床医としては、藪医者/不愛想だったといわれます。 -
仕官
1853年に黒船が来航し、各地で防衛意識が高まると宇和島藩へ上士待遇で出仕し、兵学/医学を教えます。宇和島では、奇しくもシーボルトの実娘である楠本イネへ蘭学を教授します。 -
舶工須知未定稿
1854年には造船技術の蘭書を翻訳して、日本初の蒸気船を製造しました。樺崎砲台も設計します。 -
海軍銃卒練習規範(1856)
広義の傍ら、積極的に翻訳に励みます。
宇和島の大村ゆかりのスポット↓
https://4travel.jp/travelogue/11773061 -
1856年には、藩主の参勤交代に同行して江戸へ滞在、宇和島藩士の身分で同年に幕府が開設した蕃書調所で教授職を務めます。西洋の海防文献の翻訳が主要任務で、旗本子息の洋学教授も行いました。東大の源流です。
翌年には講武所の教授も兼任し、洋式軍事調練/砲術等を伝授します。
私塾の鳩居堂を開設し、久坂玄瑞らが入門します。 -
長州藩士として(1860~)
緒方洪庵と同門で長州藩医の青木周弼(しゅうすけ)の推薦(写真)で、長州藩に召し抱えられます。やはり100石取です。藩命で、姓名を大村益次郎に改めます。 -
ヘボンへ師事
1862年には、宣教師で幕府嘱託の英語/数学教師ヘボンに師事し、横浜で英語と数学を学びます。 -
長州ファイブの留学(1863-)
西洋を実地検分することは有益であると考え、5名の藩士をロンドンへ留学するための5000両を工面しました。鎖国令に抵触する行為に関わることで大きなリスクを担いました。後に彼らは、新政府で重要な役割を果たします。 -
1863年に帰国し、萩から移鎮した山口で藩の軍制を改革します。藩校の山口明倫館兵学寮や私塾で教鞭を取り、陸軍仕官を養成します。
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兵学寮は歩兵/騎兵/砲兵の三塾から成り、西洋式軍隊のいろはを学びました。写真は、大村直筆の砲術塾規則。幕府/朝廷の第一次長州征伐も迫り、緊急性を帯びました。武器選定も行い、南北戦争で長足の進歩を遂げたアメリカ製最新兵器事情にも通じます。
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第二次長州征伐(1866)
四方向から長州へ幕府軍が侵入、いわゆる四境戦に直面します。武士以外の部隊も編成し、育成した大勢の士官が投入されます。写真上は、長崎で4000丁調達した最新兵器のメニエー銃で、他藩の「最新式(ゲベール銃)」ライフルと比べ飛距離/命中率が違いました。200m先の命中率はメ=45%/ゲ=10%、500m命中率はメ?0%/ゲ=0%と圧倒的です。 -
石州口の作戦図
指揮官/参謀となった大村は、石見の浜田藩(松平家)の城下町浜田を攻撃する際に、作戦図を遺しています。敗走兵を横田川左岸の道へ誘導する内容で、合理性と用意周到さを感じさせます。
※大島口/小倉口は海軍トップの高杉晋作、芸州口は岩国藩が参画します。 -
軍務局
大政奉還後は明治元年(1868)新政府の軍務局に仕官し、西郷隆盛と共に下参謀に任ぜられます(写真下)。上司三名は皇族/公卿なので、実務上のトップです。写真上のように、軍旗や軍服といった基本から大村は制度化していきます。 -
戊辰戦争
戊辰戦争で西郷は、指揮を大村に任せます。上野山に立て籠もった彰義隊との戦闘で指揮を取ります。この際、江戸の歴代の大火の記録を調べて、戦闘で生じ得る火災で江戸へ引火しないような作戦を立てています。 -
兵部省
明治2年の制度改革で二官六省制になり、軍務局は兵部省になります。大村は大輔(次官 長官の卿は皇族による名誉職)に就任(写真)します。靖国神社/廃藩/廃刀令/士官学校開設/武士ではなく徴兵制による軍制を計画します。 -
志半ばで
明治2年(1869)9月、出張先の京都で反対派の刺客に襲われ、2カ月後に大阪の病院で死亡します。享年44歳でした。 -
私人として
目覚ましい活躍とは裏腹に、本人は質素を好み、好物は酒の肴の豆腐でした。趣味の骨董も、予算は1両以内と自分を律しました。芸者嫌いとしても有名でした。生涯に渉り、洋服を着なかったようです。 -
妻の琴子は1905年まで生き続け、大村家は子爵を世襲します。
琴子がミカンの皮で作った盃(写真)も残ります。 -
資料館の裏には、大村神社があります。
大村神社 寺・神社・教会
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社殿には、ゆかりの地の写真が展示されていました。
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更に裏には、大村益次郎夫妻の墓があります。
大村益次郎の墓、大村神社、鋳銭司郷土館 名所・史跡
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その横には、明治21年築の古い鳥居。実は、こちらが元祖大村神社です。
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明治5年に岩倉具視/木戸孝允らが天皇の名代としてお墓参りをするに及んで、鋳銭司村の人々が建立しました。昭和21年に現在地へ移動しています。
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郷土館の前には、長沢池があります。
周囲4.2km面積37haの大きな人工溜池で、宇部の常磐池に次ぐ大きさです。長沢池 自然・景勝地
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顕彰碑も立ちます。
1642年に小郡宰判の代官になった東條九郎右衛門は、新田開発を行うにあたり、日照りの多いこの地に溜池建設を計画、少しの田畑/家を潰すことなく1651年に完成し、150haの田畑が潤いました。焼畑池/八伏池なども造営し、1670年に没します。 -
国道2号線からの眺め
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防府~小郡は、防長交通の路線バスも走ります。
次は、山口市街を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11929725
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