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サンスーシ宮殿の建物と庭園は、1990年<br />「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の一つとして<br />ユネスコの世界遺産に登録された。<br />以前、ポツダムの宮殿群と庭園〈公園〉は、<br />何故、ベルリンの宮殿群と抱き合せなのか。<br />どちらもプロイセン王国が関わっていることはぼんやりと<br />わかっていたものの、<br />今でこそベルリンとポツダムは電車で僅か30分前後の距離だが、<br />ベルリンとポツダムの間には距離感もあり<br />それぞれ独立して指定を受けても良いのでは。と疑問でした。<br /><br />今回、フリードリヒ大王の生涯を紐解いて、ポツダムとベルリン<br />は、それぞれに切り離せない地であると納得しました。<br /><br />そして、訪れたポツダム。<br />前日久しぶりに訪れたベルリンは、空港に到着した時から大都会<br />にも関わらず落ち着いた雰囲気でホッとしたのですが、<br />そこからポツダムにやって来てその思いはさらに強くなりました。<br /><br />快晴のもとサンスーシ宮殿と新宮殿と新旧宮殿につながる広大な<br />庭園〈公園〉を散策しながらフリードリヒ2世の生涯に思いを<br />馳せる素晴らしい旅の1日となりました。<br />

世界遺産・宮殿群と広大な庭園(公園群)中国茶館を眺めながら フリードリヒ大王を思う旅ポツダム・中編〉

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2023/07/17 - 2023/07/18

5位(同エリア210件中)

2

51

あの街から

あの街からさん

サンスーシ宮殿の建物と庭園は、1990年
「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」の一つとして
ユネスコの世界遺産に登録された。
以前、ポツダムの宮殿群と庭園〈公園〉は、
何故、ベルリンの宮殿群と抱き合せなのか。
どちらもプロイセン王国が関わっていることはぼんやりと
わかっていたものの、
今でこそベルリンとポツダムは電車で僅か30分前後の距離だが、
ベルリンとポツダムの間には距離感もあり
それぞれ独立して指定を受けても良いのでは。と疑問でした。

今回、フリードリヒ大王の生涯を紐解いて、ポツダムとベルリン
は、それぞれに切り離せない地であると納得しました。

そして、訪れたポツダム。
前日久しぶりに訪れたベルリンは、空港に到着した時から大都会
にも関わらず落ち着いた雰囲気でホッとしたのですが、
そこからポツダムにやって来てその思いはさらに強くなりました。

快晴のもとサンスーシ宮殿と新宮殿と新旧宮殿につながる広大な
庭園〈公園〉を散策しながらフリードリヒ2世の生涯に思いを
馳せる素晴らしい旅の1日となりました。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通
4.5
交通手段
鉄道 高速・路線バス 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 1745年1月 <br />フリードリヒ2世はサンスーシ宮殿の構想を終えていた。<br />夏の宮殿と言っても休養の場としてだけではなく、政務を執る<br />場ともしたいと考えていたことから宮殿には、合理的で快適さを<br />求めていたが、ラインスベルク以来の友人クノーベルスドルフに<br />設計建設を依頼した。<br />ところが、設計者は芸術的に仕上げることに重点を置いたところ<br />から両者は相反する意見をぶつけ合った。<br /><br /><br />

    1745年1月
    フリードリヒ2世はサンスーシ宮殿の構想を終えていた。
    夏の宮殿と言っても休養の場としてだけではなく、政務を執る
    場ともしたいと考えていたことから宮殿には、合理的で快適さを
    求めていたが、ラインスベルク以来の友人クノーベルスドルフに
    設計建設を依頼した。
    ところが、設計者は芸術的に仕上げることに重点を置いたところ
    から両者は相反する意見をぶつけ合った。


  • たとえば、王は宮殿の前に開かれた平面を求めどの部屋からも<br />庭に降りたてるよう希望したが、設計者は、1番上のテラスの<br />上の平面の端に宮殿を建てることで眺望の良さを優先した。<br />しかし、王は、設計図から建物の土台は外した。<br />僅か3段の段差だったが、この変更によって湿気と寒気に<br />悩まされた王は、やがて痛風の苦しみを味わうことになった。<br />

    たとえば、王は宮殿の前に開かれた平面を求めどの部屋からも
    庭に降りたてるよう希望したが、設計者は、1番上のテラスの
    上の平面の端に宮殿を建てることで眺望の良さを優先した。
    しかし、王は、設計図から建物の土台は外した。
    僅か3段の段差だったが、この変更によって湿気と寒気に
    悩まされた王は、やがて痛風の苦しみを味わうことになった。

  • 「サンスーシ宮殿」の内装は1746年夏に始まり翌年5月に<br />王が、ここに移り住む前に完成していた。<br /><br />長さ97m 単層のロココ建築はこうして1747年完成した。<br />中央の主翼には楕円形の食堂が、西翼には謁見の間、王の居室<br />図書室、ギャラリーが設けられた。<br />1756年には新たに東隣りに別棟の絵画館が建てられた。<br />建物は6段のテラスの上に建ちその下には大噴水が造られた。<br /><br />

    「サンスーシ宮殿」の内装は1746年夏に始まり翌年5月に
    王が、ここに移り住む前に完成していた。

    長さ97m 単層のロココ建築はこうして1747年完成した。
    中央の主翼には楕円形の食堂が、西翼には謁見の間、王の居室
    図書室、ギャラリーが設けられた。
    1756年には新たに東隣りに別棟の絵画館が建てられた。
    建物は6段のテラスの上に建ちその下には大噴水が造られた。

  • 世界遺産・サンスーシ宮殿の庭園には樹木や彫刻が<br />左右対称に配置されている。<br />平面幾何学式庭園で、いわゆるバロック庭園様式の<br />特徴である。

    世界遺産・サンスーシ宮殿の庭園には樹木や彫刻が
    左右対称に配置されている。
    平面幾何学式庭園で、いわゆるバロック庭園様式の
    特徴である。

  • 夏の課外授業かな

    夏の課外授業かな

  • 世界遺産の宮殿の庭園には<br />葡萄棚と無花果の木が植えられています。<br />

    世界遺産の宮殿の庭園には
    葡萄棚と無花果の木が植えられています。

  • 木陰で学生さんたちが<br />いい時間を過ごしています。

    木陰で学生さんたちが
    いい時間を過ごしています。

  • 『中国茶館』は、サンスーシ宮殿の広大な庭園の南側<br />リーガルテンと呼ばれる一角のこんもりとした<br />緑におおわれた庭園の中に在りました。

    『中国茶館』は、サンスーシ宮殿の広大な庭園の南側
    リーガルテンと呼ばれる一角のこんもりとした
    緑におおわれた庭園の中に在りました。

  • 木々の緑に一層映えるの金色の館は近づいていくと<br />18世紀ヨーロッパの王侯貴族のあいだで流行した<br />中国趣味を取り入れたエキゾチックな館は<br />ぬくもりのある輝きを放っていました。<br />

    木々の緑に一層映えるの金色の館は近づいていくと
    18世紀ヨーロッパの王侯貴族のあいだで流行した
    中国趣味を取り入れたエキゾチックな館は
    ぬくもりのある輝きを放っていました。

  • フリードリヒ2世は当時流行していた中国趣味を取り入れた茶館を<br />サンスーシ宮殿の広大な庭園の一角に造ろうと構想し<br />先ず、クノーベルスドルフで取り掛かり、亡き後を引き継いで<br />ヨハン・ゴットフリート・ビューリングの手によって建設され<br />たがプロイセンが七年戦争に参戦したことや当時例の少ない<br />中国風の館造りに時間がかかり完成まで 9 年の歳月を要し<br />1757年の完成となった。

    イチオシ

    フリードリヒ2世は当時流行していた中国趣味を取り入れた茶館を
    サンスーシ宮殿の広大な庭園の一角に造ろうと構想し
    先ず、クノーベルスドルフで取り掛かり、亡き後を引き継いで
    ヨハン・ゴットフリート・ビューリングの手によって建設され
    たがプロイセンが七年戦争に参戦したことや当時例の少ない
    中国風の館造りに時間がかかり完成まで 9 年の歳月を要し
    1757年の完成となった。

  • 中国の風景を淡い色使いで描いた天井画<br />これら、すべてフリードリヒ2世の意向で造られた。

    中国の風景を淡い色使いで描いた天井画
    これら、すべてフリードリヒ2世の意向で造られた。

  • この精巧な装飾には、こうした華麗な建築様式と<br />装飾が見て取れます。<br />エレガントなフランス窓と砂岩に金箔が施された柱、<br />外装のしっくいの美しい塗装、砂岩に金箔が施された<br />きらびやかな彫刻の一つ一つに。

    この精巧な装飾には、こうした華麗な建築様式と
    装飾が見て取れます。
    エレガントなフランス窓と砂岩に金箔が施された柱、
    外装のしっくいの美しい塗装、砂岩に金箔が施された
    きらびやかな彫刻の一つ一つに。

  • この精巧な装飾には、こうした華麗な建築様式と<br />装飾が見て取れます。<br />エレガントなフランス窓と砂岩に金箔が施された柱、<br />外装のしっくいの美しい塗装、砂岩に金箔が施された<br />きらびやかな彫刻の一つ一つに。

    この精巧な装飾には、こうした華麗な建築様式と
    装飾が見て取れます。
    エレガントなフランス窓と砂岩に金箔が施された柱、
    外装のしっくいの美しい塗装、砂岩に金箔が施された
    きらびやかな彫刻の一つ一つに。

  • これらの椅子にはフリードリヒ2世も<br />掛けたのだろうか。

    これらの椅子にはフリードリヒ2世も
    掛けたのだろうか。

  • これらの椅子でフリードリヒ2世が<br />招いた客たちがくつろいだ時間を過ごした。<br />

    これらの椅子でフリードリヒ2世が
    招いた客たちがくつろいだ時間を過ごした。

  • これらの椅子でフリードリヒ2世が<br />招いた客たちがくつろいだ時間を過ごした。

    これらの椅子でフリードリヒ2世が
    招いた客たちがくつろいだ時間を過ごした。

  • 17世紀後半から、ティーセットに代表される<br />ヨーロッパのファイアンス(彩色陶磁器)において、<br />中国陶磁器の図案をそのまま真似る方法が始まり、<br />これがロココ=シノワズリとなって<br />1740年から1770年頃大流行した。<br />この1740年は<br />フリードリヒ2世が王に即位した年だ。<br /><br />絹や磁器、真珠貝、漆器といった品々が中国との<br />貿易によってもたらされ、ヨーロッパ ロココ様式<br />と異国情緒あふれる中国デザインを融合したシノワズリが生まれた。<br /><br />

    17世紀後半から、ティーセットに代表される
    ヨーロッパのファイアンス(彩色陶磁器)において、
    中国陶磁器の図案をそのまま真似る方法が始まり、
    これがロココ=シノワズリとなって
    1740年から1770年頃大流行した。
    この1740年は
    フリードリヒ2世が王に即位した年だ。

    絹や磁器、真珠貝、漆器といった品々が中国との
    貿易によってもたらされ、ヨーロッパ ロココ様式
    と異国情緒あふれる中国デザインを融合したシノワズリが生まれた。

  • さまざまなポーズを取っている小さな立像だが<br />男性は当時のプロイセンで見かけられたのか<br />あるいはフランス渡来の書物からのイメージなのか<br />よく再現されているが女性の姿は<br />西洋のドレス姿のまま中国風の笠をかぶっている。

    さまざまなポーズを取っている小さな立像だが
    男性は当時のプロイセンで見かけられたのか
    あるいはフランス渡来の書物からのイメージなのか
    よく再現されているが女性の姿は
    西洋のドレス姿のまま中国風の笠をかぶっている。

  • さまざまなポーズを取っている小さな立像だが<br />男性は当時のプロイセンで見かけられたのか<br />あるいはフランス渡来の書物からのイメージなのか<br />よく再現されているがが女性の姿は<br />西洋のドレス姿のまま中国風の笠をかぶっている。

    さまざまなポーズを取っている小さな立像だが
    男性は当時のプロイセンで見かけられたのか
    あるいはフランス渡来の書物からのイメージなのか
    よく再現されているがが女性の姿は
    西洋のドレス姿のまま中国風の笠をかぶっている。

  • 建物から離れ俯瞰したところから丸屋根を見ると<br />日傘を差す金色の像が上に乗っているのがわかる。<br />周りを歩くと、<br />建物がクローバーの形をしておりフリードリヒ2世の<br />美的感性を見た思いがした。<br />

    建物から離れ俯瞰したところから丸屋根を見ると
    日傘を差す金色の像が上に乗っているのがわかる。
    周りを歩くと、
    建物がクローバーの形をしておりフリードリヒ2世の
    美的感性を見た思いがした。

  • 木漏れ日の美しいこの庭園で<br />フリードリヒ2世も散策を楽しんだのだろう。

    木漏れ日の美しいこの庭園で
    フリードリヒ2世も散策を楽しんだのだろう。

  • 木陰から広い路に抜けてゆくと

    木陰から広い路に抜けてゆくと

  • 世界遺産でもある庭園には直角に交差する散歩道<br />を有しているが、路幅も広~く、綺麗に整備されて<br />いて王の時代を偲ぶにはぴったりな所だった。

    世界遺産でもある庭園には直角に交差する散歩道
    を有しているが、路幅も広~く、綺麗に整備されて
    いて王の時代を偲ぶにはぴったりな所だった。

    ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群 城・宮殿

  • しかし、正直言ってあまりに広過ぎて<br />馬車などで移動できたらなぁ<br />と思っていたが<br />静かだしほんと気持ちのいい庭園だった。

    しかし、正直言ってあまりに広過ぎて
    馬車などで移動できたらなぁ
    と思っていたが
    静かだしほんと気持ちのいい庭園だった。

  • 新宮殿へ向かうことに。

    新宮殿へ向かうことに。

  • 新宮殿の敷地もかなり広く

    新宮殿の敷地もかなり広く

  • 【ここから、フリードリヒ大王の生涯を紐解いてみます】<br /><br />先ずは<br />フリードリヒ大王を軸に<br />祖父王・父王 軍人王・姉たちの年代を<br /><br />祖父・フリードリヒ1世<br />                                 1657.7~1713.2<br />父・ 軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世<br />                                   1688.8~1740.5<br />フリードリヒ2世〈フリードリヒ大王〉<br />                                      1712.1~1786.8<br />姉・ヴィルへルミーネ〈バイロイト辺境伯夫人〉<br />                                        1709.7~1758.10

    【ここから、フリードリヒ大王の生涯を紐解いてみます】

    先ずは
    フリードリヒ大王を軸に
    祖父王・父王 軍人王・姉たちの年代を

    祖父・フリードリヒ1世
    1657.7~1713.2
    父・ 軍人王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
    1688.8~1740.5
    フリードリヒ2世〈フリードリヒ大王〉
    1712.1~1786.8
    姉・ヴィルへルミーネ〈バイロイト辺境伯夫人〉
    1709.7~1758.10

  • 【フリードリヒ2世時代前から遡って始まり、皇太子時代へ】<br /><br />ブランデンブルク・プロイセンでは、<br />宗教的寛容政策が重んじられてきた。<br />近世フランスにおけるカルヴァン派のユグノーがルイ14世の<br />迫害を逃れ国外へ亡命したがブランデンブルク・プロイセンでは<br />この時にも、およそ2万人の亡命者を受け入れた。<br />移民が特に集中したベルリンでは、<br />ユグノーが住民全体の3割を占めたとされる。<br />これによりベルリンは産業の発展と復興を歩み始めた。<br /><br />フリードリヒ2世の祖父のフリードリヒ1世の時代には、<br />ベルリンは、「シュプレー河畔のアテネ」とも呼ばれ<br />芸術・科学アカデミー設立され、地元住民やユグノーの子弟たちに<br />充実した教育が提供された。<br />このフランス文化の受容と開花した。<br /><br />しかし、そんなフリードリヒ1世を<br />フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は毛嫌いし<br />軍人王となっていった。

    【フリードリヒ2世時代前から遡って始まり、皇太子時代へ】

    ブランデンブルク・プロイセンでは、
    宗教的寛容政策が重んじられてきた。
    近世フランスにおけるカルヴァン派のユグノーがルイ14世の
    迫害を逃れ国外へ亡命したがブランデンブルク・プロイセンでは
    この時にも、およそ2万人の亡命者を受け入れた。
    移民が特に集中したベルリンでは、
    ユグノーが住民全体の3割を占めたとされる。
    これによりベルリンは産業の発展と復興を歩み始めた。

    フリードリヒ2世の祖父のフリードリヒ1世の時代には、
    ベルリンは、「シュプレー河畔のアテネ」とも呼ばれ
    芸術・科学アカデミー設立され、地元住民やユグノーの子弟たちに
    充実した教育が提供された。
    このフランス文化の受容と開花した。

    しかし、そんなフリードリヒ1世を
    フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は毛嫌いし
    軍人王となっていった。

  • しかし、粗野で実用本意の軍人王とは違って<br />その妻である王妃ゾフィー・ドロテアは音楽や芸術を愛した。<br />王妃と軍人王の間には14人もの子供が生まれ<br />そのうち10人が成人したが、<br />にもかかわらず夫婦はソリが合わなかった。<br /><br />軍人王は、子供たちの1日のスケジュールを分刻みで<br />定め、3人の傅育〈ふいく〉官をつけた。<br />10人の子供のうち8人は軍人王の教育方針に従順だったが、<br />長男フリードリヒ皇太子とその姉ヴィルヘルミーネは<br />厳しい教育方針に反発した。<br />そんな時に、<br />傅育官の1人としてユグノーのラクール大佐夫人が<br />皇太子2歳から6歳まで母のように接した。<br />夫人は、フランス語しか話せず、詩を好み寛容の精神と<br />フランス文化への憧れや言語と文学的感性に大きな影響を与えた。<br />けれど、軍人王は、皇太子が6歳になると新たな傅育官を任命し<br />文学や芸術は外し変わって<br />ドイツ語や近代史や数学・地誌・経済などに加えて<br />砲術や築城術等軍事学が組み込まれた。

    しかし、粗野で実用本意の軍人王とは違って
    その妻である王妃ゾフィー・ドロテアは音楽や芸術を愛した。
    王妃と軍人王の間には14人もの子供が生まれ
    そのうち10人が成人したが、
    にもかかわらず夫婦はソリが合わなかった。

    軍人王は、子供たちの1日のスケジュールを分刻みで
    定め、3人の傅育〈ふいく〉官をつけた。
    10人の子供のうち8人は軍人王の教育方針に従順だったが、
    長男フリードリヒ皇太子とその姉ヴィルヘルミーネは
    厳しい教育方針に反発した。
    そんな時に、
    傅育官の1人としてユグノーのラクール大佐夫人が
    皇太子2歳から6歳まで母のように接した。
    夫人は、フランス語しか話せず、詩を好み寛容の精神と
    フランス文化への憧れや言語と文学的感性に大きな影響を与えた。
    けれど、軍人王は、皇太子が6歳になると新たな傅育官を任命し
    文学や芸術は外し変わって
    ドイツ語や近代史や数学・地誌・経済などに加えて
    砲術や築城術等軍事学が組み込まれた。

  • そんな中、母・王妃はベルリンの王宮にほど近い<br />モンビジュー宮殿に好んで滞在しそこには<br />秘密の図書室を作り<br />そこでは軍人王が嫌悪する哲学や文学について<br />自由に語り合うことができる空間となっていた。<br /><br />この宮殿をいわば隠れ家の様に育ったのが<br />フリードリヒ皇太子とその姉ヴィルヘルミーネだった。<br />

    そんな中、母・王妃はベルリンの王宮にほど近い
    モンビジュー宮殿に好んで滞在しそこには
    秘密の図書室を作り
    そこでは軍人王が嫌悪する哲学や文学について
    自由に語り合うことができる空間となっていた。

    この宮殿をいわば隠れ家の様に育ったのが
    フリードリヒ皇太子とその姉ヴィルヘルミーネだった。

  • 1730年夏、軍人王と皇太子は友好諸侯の宮廷を<br />訪問することになり、<br />この機に皇太子は父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世との<br />確執や軋轢から逃れるため近衛甲騎兵隊でフルートと詩作<br />など共通の趣味を持つ<br />親友のハンス・ヘルマン・フォン・カッテ少尉と<br />軍人王の小姓から歩兵連隊になっていた親友カイト少尉と<br />連携してイギリスに逃亡を計画した。<br /><br />しかし、カイト少尉の弟ロベルトが実行の当日<br />良心の呵責から軍人王に計画を全て打ち明けてしまった。<br /><br />フリードリヒ皇太子は手引きをしたカイト少尉に<br />「身を隠せ!全て発覚した」とメモ書きを送り<br />カイト少尉はイングランドに亡命。<br />この亡命を知って軍人王は激昂。<br />カッテ少尉はベルリンで逮捕された。<br />皇太子は「一切の責任は自分にある。<br />少尉は自分にそそのかされただけだ。」と懇願したが<br />皇太子は城塞に監禁され訊問された。<br />しかし皇太子は逃亡の計画は頑なに認めなかった。<br /><br />同年11月朝7時、皇太子は城塞の二階の窓辺に引きずり<br />出された。窓下の処刑場にカッテ少尉が連れてこられる姿を<br />見て、皇太子は「カッテ、私を許してくれ!」と叫ぶも<br />「殿下、私は喜んで貴方のために死にます」と言い残し<br />カッテ少尉は斬首されてしまう。<br /><br />皇太子は、カッテ少尉が太刀が下される直前に失神していた。<br />〈※後年、城塞の平面図を確認したところ処刑場は<br />窓から死角で見えないことから、皇太子は斬首は見ていない。<br />との説もある。〉

    1730年夏、軍人王と皇太子は友好諸侯の宮廷を
    訪問することになり、
    この機に皇太子は父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世との
    確執や軋轢から逃れるため近衛甲騎兵隊でフルートと詩作
    など共通の趣味を持つ
    親友のハンス・ヘルマン・フォン・カッテ少尉と
    軍人王の小姓から歩兵連隊になっていた親友カイト少尉と
    連携してイギリスに逃亡を計画した。

    しかし、カイト少尉の弟ロベルトが実行の当日
    良心の呵責から軍人王に計画を全て打ち明けてしまった。

    フリードリヒ皇太子は手引きをしたカイト少尉に
    「身を隠せ!全て発覚した」とメモ書きを送り
    カイト少尉はイングランドに亡命。
    この亡命を知って軍人王は激昂。
    カッテ少尉はベルリンで逮捕された。
    皇太子は「一切の責任は自分にある。
    少尉は自分にそそのかされただけだ。」と懇願したが
    皇太子は城塞に監禁され訊問された。
    しかし皇太子は逃亡の計画は頑なに認めなかった。

    同年11月朝7時、皇太子は城塞の二階の窓辺に引きずり
    出された。窓下の処刑場にカッテ少尉が連れてこられる姿を
    見て、皇太子は「カッテ、私を許してくれ!」と叫ぶも
    「殿下、私は喜んで貴方のために死にます」と言い残し
    カッテ少尉は斬首されてしまう。

    皇太子は、カッテ少尉が太刀が下される直前に失神していた。
    〈※後年、城塞の平面図を確認したところ処刑場は
    窓から死角で見えないことから、皇太子は斬首は見ていない。
    との説もある。〉

  • 自分のために愛する友人を殺してしまった・・・・<br />この事件が皇太子の心にどんな闇を与えたか・・・<br />カッテ少尉は皇太子にあてた遺言状には<br />「殿下、私の死に責任があるとお考えにならないでください。<br />私は国王〈軍人王〉を怨みません。殿下は陛下と和解なされ<br />今後もご両親を敬ってください」と書き残されていた。<br /><br />やがて数度開かれた軍法会議の最後に<br />皇太子は「国王陛下の慈悲にお任せします」と<br />答え嘆願書を提出した。<br />しかし、軍人王は嘆願書を破り捨て更に監視を強化し<br />皇太子の蔵書や愛馬など全て処分した。<br /><br />しばらくして冷静さを取り戻した軍人王は、処刑の2週間後に<br />皇太子の拘禁条件を緩め改めて誠実宣誓を行なわせ軍人としての<br />名誉の剣を返した。<br />しかし、その後も面会も手紙も禁止という監視は続いたが<br />軍事・御領地局で官房学を徹底的に学び吸収する日々を送った。<br /><br />1731月8月、軍人王は自ら皇太子を訪ねた際<br />多くの人々が見守る中ひざまずいて忠誠を誓った皇太子を許した。<br />こうして和解し<br />11月には姉ヴィルヘルミーネとバイロイト伯との結婚式に<br />参列を許され久しぶりにベルリンに戻ることができた。<br />翌1732年6月、父王の意向に従い、<br />オーストリア元帥の娘エリザベート・クリスティーネと結婚。<br /><br />

    イチオシ

    自分のために愛する友人を殺してしまった・・・・
    この事件が皇太子の心にどんな闇を与えたか・・・
    カッテ少尉は皇太子にあてた遺言状には
    「殿下、私の死に責任があるとお考えにならないでください。
    私は国王〈軍人王〉を怨みません。殿下は陛下と和解なされ
    今後もご両親を敬ってください」と書き残されていた。

    やがて数度開かれた軍法会議の最後に
    皇太子は「国王陛下の慈悲にお任せします」と
    答え嘆願書を提出した。
    しかし、軍人王は嘆願書を破り捨て更に監視を強化し
    皇太子の蔵書や愛馬など全て処分した。

    しばらくして冷静さを取り戻した軍人王は、処刑の2週間後に
    皇太子の拘禁条件を緩め改めて誠実宣誓を行なわせ軍人としての
    名誉の剣を返した。
    しかし、その後も面会も手紙も禁止という監視は続いたが
    軍事・御領地局で官房学を徹底的に学び吸収する日々を送った。

    1731月8月、軍人王は自ら皇太子を訪ねた際
    多くの人々が見守る中ひざまずいて忠誠を誓った皇太子を許した。
    こうして和解し
    11月には姉ヴィルヘルミーネとバイロイト伯との結婚式に
    参列を許され久しぶりにベルリンに戻ることができた。
    翌1732年6月、父王の意向に従い、
    オーストリア元帥の娘エリザベート・クリスティーネと結婚。

  • この頃になると軍人王は痛風と水腫の悪化に苦しんでいた。<br />そして1734年旅先で突然腎臓痛と高熱に襲われ戦列を離れ帰国。<br />王妃を呼び寄せて遺書をしたためる程体調が悪化していた。<br />その後、病状は奇跡的に回復戦列に復帰。<br /><br />この間皇太子からの度重なる出陣願いを拒絶。<br />戦況をみて無駄な出費を抑え代わりに<br />皇太子には、東プロイセンを5~6週間程巡察を命じた。<br />皇太子は、この巡察を通じて<br />「荒廃した地を開拓して植民し、民を幸せにした<br />軍人王のなされた事は英雄的なもの」と<br />皇太子は後年、姉のバイロイト辺境伯夫人宛に手紙を送った。

    この頃になると軍人王は痛風と水腫の悪化に苦しんでいた。
    そして1734年旅先で突然腎臓痛と高熱に襲われ戦列を離れ帰国。
    王妃を呼び寄せて遺書をしたためる程体調が悪化していた。
    その後、病状は奇跡的に回復戦列に復帰。

    この間皇太子からの度重なる出陣願いを拒絶。
    戦況をみて無駄な出費を抑え代わりに
    皇太子には、東プロイセンを5~6週間程巡察を命じた。
    皇太子は、この巡察を通じて
    「荒廃した地を開拓して植民し、民を幸せにした
    軍人王のなされた事は英雄的なもの」と
    皇太子は後年、姉のバイロイト辺境伯夫人宛に手紙を送った。

  • 1736年初秋、<br />皇太子はエリザベート・クリスティーネ妃と共に<br />森と湖に囲まれた静かな古城ラインスベルクに移り住んだ。<br />当時皇太子の勤務地の要塞から数Kmしか離れておらず、<br />なかば朽ち果てた古城に宮殿を構えたいと願い出た。<br />そして軍人王の許可が出ると自分の趣味の通りに改造した。<br /><br />その地は、ベルリンの王宮から80Kmという至近距離。<br />そこに居城を構えるというは、軍人王の信頼の表れともなった。<br />同時に皇太子夫妻の水入らずの生活で早く跡継ぎを。<br />という無言の圧力でもあった。<br />結局2人の間に子供が生まれることはなかったが、<br />この3年間は皇太子妃にとっても〈人生で最も幸せな3年間〉<br />となったと言われている。

    1736年初秋、
    皇太子はエリザベート・クリスティーネ妃と共に
    森と湖に囲まれた静かな古城ラインスベルクに移り住んだ。
    当時皇太子の勤務地の要塞から数Kmしか離れておらず、
    なかば朽ち果てた古城に宮殿を構えたいと願い出た。
    そして軍人王の許可が出ると自分の趣味の通りに改造した。

    その地は、ベルリンの王宮から80Kmという至近距離。
    そこに居城を構えるというは、軍人王の信頼の表れともなった。
    同時に皇太子夫妻の水入らずの生活で早く跡継ぎを。
    という無言の圧力でもあった。
    結局2人の間に子供が生まれることはなかったが、
    この3年間は皇太子妃にとっても〈人生で最も幸せな3年間〉
    となったと言われている。

  • 軍人王は病が重くなってきた時、廷臣達を集めて<br />「後は息子に継いでもらうから思い残すことは何も無い。<br />息子はよく統治する能力を全て備えている。<br />軍を維持することも約束してくれた。」と話した。<br /><br />皇太子は、父王の病が重くなり王位継承者の手続きを済ませると<br />ラインスベルクの宮殿に赴いては自由な時間を楽しんだ。<br />中でも4人の芸術家や将校たちとは、<br />それぞれに文学上の相談や筆耕、批評を<br />将校とは馬術の相手の他は軍の職務というより<br />コンサートや演劇、談話等<br />かって軍人王から禁じられていたことを<br />次々に楽しむことができた。<br /><br />ラインスベルク宮殿で生活する者たちは<br />皆強制されぬ自由を楽しんだ。<br />誰もが自室で読書をし考える時間を得絵を描いたり<br />楽器を演奏したり自由だった。<br />夕方になると<br />皇太子夫妻の部屋では音楽が演奏され、<br />そこへ招待される事は格別なことだった。<br /><br />※画像 〈ポツダム大学〉

    軍人王は病が重くなってきた時、廷臣達を集めて
    「後は息子に継いでもらうから思い残すことは何も無い。
    息子はよく統治する能力を全て備えている。
    軍を維持することも約束してくれた。」と話した。

    皇太子は、父王の病が重くなり王位継承者の手続きを済ませると
    ラインスベルクの宮殿に赴いては自由な時間を楽しんだ。
    中でも4人の芸術家や将校たちとは、
    それぞれに文学上の相談や筆耕、批評を
    将校とは馬術の相手の他は軍の職務というより
    コンサートや演劇、談話等
    かって軍人王から禁じられていたことを
    次々に楽しむことができた。

    ラインスベルク宮殿で生活する者たちは
    皆強制されぬ自由を楽しんだ。
    誰もが自室で読書をし考える時間を得絵を描いたり
    楽器を演奏したり自由だった。
    夕方になると
    皇太子夫妻の部屋では音楽が演奏され、
    そこへ招待される事は格別なことだった。

    ※画像 〈ポツダム大学〉

  • 皇太子は、この時期学問にも精を出したが、<br />なかでも啓蒙思想に関する知識を学び取った。<br />その成果を<br />「ヴォルフの啓蒙哲学論」の一部をフランス語に訳して<br />皇太子に献じて人生哲学の面で大きな影響を与えた<br />外交官のウルリヒ・フリードリヒ・フォン・ズームに宛てた<br />手紙には<br />「私の心は哲学に向けられています。哲学は私に素晴らしく<br />良い力を与えてくれます。哲学に感謝しなければなりません。<br />以前よりずっと落ち着いた気持ちでいられるのですから。<br />私の心はもはや激しい刺激によって<br />不安にさらされることはありません。」と書いている。<br /><br />また1736年8月から始まった哲学者ヴォルテールとは<br />往復書簡が800通を超え交わされこの交流を通じて<br />皇太子は生涯にわたって最先端の啓蒙思想に接し<br />統治姿勢に取り入れることができた。<br /><br />こうして自由を手にしたラインスベルクの宮殿での3年間で<br />多くの書物を読み多くの友人と交流した。<br />

    皇太子は、この時期学問にも精を出したが、
    なかでも啓蒙思想に関する知識を学び取った。
    その成果を
    「ヴォルフの啓蒙哲学論」の一部をフランス語に訳して
    皇太子に献じて人生哲学の面で大きな影響を与えた
    外交官のウルリヒ・フリードリヒ・フォン・ズームに宛てた
    手紙には
    「私の心は哲学に向けられています。哲学は私に素晴らしく
    良い力を与えてくれます。哲学に感謝しなければなりません。
    以前よりずっと落ち着いた気持ちでいられるのですから。
    私の心はもはや激しい刺激によって
    不安にさらされることはありません。」と書いている。

    また1736年8月から始まった哲学者ヴォルテールとは
    往復書簡が800通を超え交わされこの交流を通じて
    皇太子は生涯にわたって最先端の啓蒙思想に接し
    統治姿勢に取り入れることができた。

    こうして自由を手にしたラインスベルクの宮殿での3年間で
    多くの書物を読み多くの友人と交流した。

  • 1740年5月 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が死去。<br />軍人王と呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、<br />その誠実な働きぶりにも関わらず人気のない君主だった。<br />そのぶんだけ国民の期待は28歳の新王に向けられた。<br />国際社会では新人だったが<br />フリードリヒ2世の名はヨーロッパの政界に<br />はよく知られていた。<br /><br />新王となったフリードリヒ2世は、芸術や学問を排した父とは<br />反対に、先ず啓蒙主義哲学者ヴォルフ男爵を呼び戻して<br />ハレ大学教授に任じたり、フランスの数学者兼物理学者に<br />プロイセン科学アカデミー再建を委ねるなど精力的に政務を<br />こなした。<br />あのラインスベルク宮殿での雅宴で共に芸術と学問を論じ合った<br />仲間たちとの間にも王となったフリードリヒ2世は厳しい一線を<br />引かなければならなかった。<br />愛情を人一倍欲しながら自分を律しなければならない<br />フリードリヒ2世。<br />この専制君主はそれ程に孤独を自分に対して強いたのであった。<br />そしてまた、新王は、政務に興味を示した母も含めて<br />家族が国政に介入することも許さず、王妃とは別居。<br />以降、王妃はベルリン城と郊外のシェーンハウゼン城で<br />ひっそりと暮らした。<br />今や、プロイセンは、軍隊と国民の福祉と自分の芸術的充足を<br />合わせたものになった。<br />イギリスの宮廷はプロイセンは兵力を現在保有する半数の<br />45,000人に減らすだろうと噂していたが、ところが<br />フリードリヒ2世は1万の新兵を更に募集したのだ。<br />立派な軍備を持ちながら戦こうとはしなかった父・軍人王とは<br />違う存在であることを新王は国際社会に対して宣言したのだ。<br />そして、即位から半年も経たないうちに実力行使に出た。

    1740年5月 フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が死去。
    軍人王と呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、
    その誠実な働きぶりにも関わらず人気のない君主だった。
    そのぶんだけ国民の期待は28歳の新王に向けられた。
    国際社会では新人だったが
    フリードリヒ2世の名はヨーロッパの政界に
    はよく知られていた。

    新王となったフリードリヒ2世は、芸術や学問を排した父とは
    反対に、先ず啓蒙主義哲学者ヴォルフ男爵を呼び戻して
    ハレ大学教授に任じたり、フランスの数学者兼物理学者に
    プロイセン科学アカデミー再建を委ねるなど精力的に政務を
    こなした。
    あのラインスベルク宮殿での雅宴で共に芸術と学問を論じ合った
    仲間たちとの間にも王となったフリードリヒ2世は厳しい一線を
    引かなければならなかった。
    愛情を人一倍欲しながら自分を律しなければならない
    フリードリヒ2世。
    この専制君主はそれ程に孤独を自分に対して強いたのであった。
    そしてまた、新王は、政務に興味を示した母も含めて
    家族が国政に介入することも許さず、王妃とは別居。
    以降、王妃はベルリン城と郊外のシェーンハウゼン城で
    ひっそりと暮らした。
    今や、プロイセンは、軍隊と国民の福祉と自分の芸術的充足を
    合わせたものになった。
    イギリスの宮廷はプロイセンは兵力を現在保有する半数の
    45,000人に減らすだろうと噂していたが、ところが
    フリードリヒ2世は1万の新兵を更に募集したのだ。
    立派な軍備を持ちながら戦こうとはしなかった父・軍人王とは
    違う存在であることを新王は国際社会に対して宣言したのだ。
    そして、即位から半年も経たないうちに実力行使に出た。

  • 【若い日のフリードリヒ2世は、<br />          啓蒙思想をあれほど学んでいたのだが】<br /><br />28歳の皇太子がフリードリヒ2世と<br />なって即位した同じ年の<br />1740年<br />ウィーン・神聖ローマ帝国カール6世が死去。<br />カール6世には男児がおらず、そのため彼の死によって<br />ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を失うことになってしまう。<br />そこで、カール6世は、これに先立って1713年、<br /><プラグマティッシェ=ザンクティオン>を公布し各国に<br />ハプスブルク家の家督相続規定し女子の家督相続権を認めていた。<br /><br />カール6世の死去によって長女で23歳のマリア・テレジアが <br />ハプスブルク家領を相続。<br />しかし、直ぐに周辺諸国がそれを反故にし付け入ろうと<br />いう動きが出、<br />バイエルン選帝侯カール=アルブレヒトは帝位を要求。<br /><br />フリードリヒ2世はチャンスとが到来と口火を切って参戦。<br />フリードリヒの家系であるホーエンツォレルン家はもともと<br />オーストリア・ハプスブルク家の家臣格で、プロイセン王国になった<br />際にもその保護の下で実現したことなので、正面から反旗をひるがえ<br />すことはできなかったが、フリードリヒ2世は大胆な提案をウィーン<br />に対して行った。<br /><br />12月9日、<br />フリードリヒ2世はプラグマティッシェ=ザンクチオン<br />での定めの通りマリア=テレジアの家督相続は認めるが、<br />その交換条件として石炭と鉄の資源が豊かな地域で<br />ウィーンからは遠くベルリンには近いシュレジェン<br />(現在のポーランド領)を領地とすることを申し入れた。<br /><br />ウクライナ戦争を思い起こしてしまうが<br />シュレジェンはハプスブルク家の領地でプロイセンには<br />何らその領有権を主張する根拠はなかったが、<br />女性君主の弱みにつけ込んだ力による <br />侵略以外の何ものでもなかった。<br />

    イチオシ

    【若い日のフリードリヒ2世は、
              啓蒙思想をあれほど学んでいたのだが】

    28歳の皇太子がフリードリヒ2世と
    なって即位した同じ年の
    1740年
    ウィーン・神聖ローマ帝国カール6世が死去。
    カール6世には男児がおらず、そのため彼の死によって
    ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を失うことになってしまう。
    そこで、カール6世は、これに先立って1713年、
    <プラグマティッシェ=ザンクティオン>を公布し各国に
    ハプスブルク家の家督相続規定し女子の家督相続権を認めていた。

    カール6世の死去によって長女で23歳のマリア・テレジアが 
    ハプスブルク家領を相続。
    しかし、直ぐに周辺諸国がそれを反故にし付け入ろうと
    いう動きが出、
    バイエルン選帝侯カール=アルブレヒトは帝位を要求。

    フリードリヒ2世はチャンスとが到来と口火を切って参戦。
    フリードリヒの家系であるホーエンツォレルン家はもともと
    オーストリア・ハプスブルク家の家臣格で、プロイセン王国になった
    際にもその保護の下で実現したことなので、正面から反旗をひるがえ
    すことはできなかったが、フリードリヒ2世は大胆な提案をウィーン
    に対して行った。

    12月9日、
    フリードリヒ2世はプラグマティッシェ=ザンクチオン
    での定めの通りマリア=テレジアの家督相続は認めるが、
    その交換条件として石炭と鉄の資源が豊かな地域で
    ウィーンからは遠くベルリンには近いシュレジェン
    (現在のポーランド領)を領地とすることを申し入れた。

    ウクライナ戦争を思い起こしてしまうが
    シュレジェンはハプスブルク家の領地でプロイセンには
    何らその領有権を主張する根拠はなかったが、
    女性君主の弱みにつけ込んだ力による 
    侵略以外の何ものでもなかった。

  • 1740年12月16日、<br />フリードリヒ2世のプロイセン軍はシュレジェンへの国境を<br />越えて侵攻を開始した。冬季の行軍は難航したが、<br />プロテスタントの住民が歓迎する中プロイセン軍は<br />短期間にシュレジェンを占領。 (第1次シュレジェン戦争)<br /><br />1742年6月のブレスラウの和議で、<br />オーストリアは泣く泣くプロイセンの<br />シュレジェン領有を承認した。<br /><br />1744年、フリードリヒ2世は再び出兵した。<br />オーストリアと協定を結んでいるイギリスが出兵するのでは<br />ないかと危惧し先手を打ったのであった。<br />しかし、イギリスは資金援助にとどまり出兵しなかった<br />事もあり、またもプロイセンは勝利した<br />(第2次シュレジェン戦争)。<br /><br />1745年12月、ドレスデンの和議でプロイセンは<br />狙い通りシュレジエン割譲を認めさせた。<br />それと同時にプロイセンはオーストラリアのフランツ<br />(マリア=テレジアの夫)の神聖ローマ皇帝就任を承認。<br />このオーストリア継承戦争は、<br />1748年10月18日、<br />オーストリア・プロイセン・フランス・イギリス間の<br />国際的な講和条約であるアーヘンの和約が締結されて<br />最終的に終結した。

    1740年12月16日、
    フリードリヒ2世のプロイセン軍はシュレジェンへの国境を
    越えて侵攻を開始した。冬季の行軍は難航したが、
    プロテスタントの住民が歓迎する中プロイセン軍は
    短期間にシュレジェンを占領。 (第1次シュレジェン戦争)

    1742年6月のブレスラウの和議で、
    オーストリアは泣く泣くプロイセンの
    シュレジェン領有を承認した。

    1744年、フリードリヒ2世は再び出兵した。
    オーストリアと協定を結んでいるイギリスが出兵するのでは
    ないかと危惧し先手を打ったのであった。
    しかし、イギリスは資金援助にとどまり出兵しなかった
    事もあり、またもプロイセンは勝利した
    (第2次シュレジェン戦争)。

    1745年12月、ドレスデンの和議でプロイセンは
    狙い通りシュレジエン割譲を認めさせた。
    それと同時にプロイセンはオーストラリアのフランツ
    (マリア=テレジアの夫)の神聖ローマ皇帝就任を承認。
    このオーストリア継承戦争は、
    1748年10月18日、
    オーストリア・プロイセン・フランス・イギリス間の
    国際的な講和条約であるアーヘンの和約が締結されて
    最終的に終結した。

  • ※マリア=テレジアは<br />オーストリア大公妃兼ボヘミア王、ハンガリー王も兼ねていた。<br />1765年に夫のフランツ1世が死去して以降は皇帝となり<br />息子のヨーゼフ2世が共同統治者としての地位は続いた。<br />マリア=テレジアはヨーゼフ2世を愛していたがその革新的な<br />姿勢に不安を感じ実権を与えなかった。<br /><br />オーストリア継承戦争で、オーストリアからシュレジエンを<br />形式上は譲渡ということで領地となった。<br /><br />こうして、フリードリヒ2世は、国勢を伸ばすことに成功する。<br />当時のシュレジエンの人口は約150万人だったが、<br />この併合によって<br />プロイセンの人口は一気に400万人へ税金の金額も一気に増えた。<br />これによりプロイセンはヨーロッパの列強国の仲間入りを果たし、<br />フリードリヒ2世は人々から「大王」と呼ばれるようになった。<br />

    ※マリア=テレジアは
    オーストリア大公妃兼ボヘミア王、ハンガリー王も兼ねていた。
    1765年に夫のフランツ1世が死去して以降は皇帝となり
    息子のヨーゼフ2世が共同統治者としての地位は続いた。
    マリア=テレジアはヨーゼフ2世を愛していたがその革新的な
    姿勢に不安を感じ実権を与えなかった。

    オーストリア継承戦争で、オーストリアからシュレジエンを
    形式上は譲渡ということで領地となった。

    こうして、フリードリヒ2世は、国勢を伸ばすことに成功する。
    当時のシュレジエンの人口は約150万人だったが、
    この併合によって
    プロイセンの人口は一気に400万人へ税金の金額も一気に増えた。
    これによりプロイセンはヨーロッパの列強国の仲間入りを果たし、
    フリードリヒ2世は人々から「大王」と呼ばれるようになった。

  • 【7年戦争】<br />(1756年~1763年 実質の世界大戦となった。)<br /><br />一方のマリア=テレジアにとってはシュレジェンの奪回は<br />次なる国家課題となり奪還をめざして<br />プロイセンと戦うためには、 <br />フランスと手を結ぶこが有利と考え<br />思い切って外交方針を一変させ<br />イタリア戦争以来長年の宿敵であった<br />フランスのブルボン家と提携するという決断をした。<br /><br />フランスとの提携を強力にテレジアに進言したのが、<br />カウニッツ伯で<br />オーストリア継承戦争後に駐フランス大使として赴任。<br />その後マリア=テレジアはカウニッツ伯を宰相に任命した。<br />彼は数年にわたって忍耐強く外交を重ねた結果、<br />1756年5月、<br />ルイ15世の宮廷で「無冠の女王」と言われていた<br />王の愛妾ポンパドゥール夫人を動かしフランスとの提携を<br />実現し 同盟を結んだ。<br />このブルボン家とハプスブルク家との同盟は、<br />「外交革命」と呼ばれ<br />ヨーロッパ史において画期的なことだった。<br />さらにロシア(エリザヴェータ女帝)との同盟交渉に成功。<br />こうして、マリア=テレジアは、フランスのポンパドゥール夫人、<br />ロシアのエリザヴェータ女帝とで同盟を促進し<br />プロイセンの包囲が確立した。<br /><br />※後年、マリア=テレジアはブルボン家〈フランス〉との<br />和平の証にと、フランスの皇太子(のちのルイ十六世)に<br />人質として愛娘マリー・アントワネットを差し出した。<br /><br />このことによって、18世紀後半のヨーロッパ国際政治の<br />対立軸は、イギリスVSフランス、プロイセンVSオーストリア<br />という二重対立に集約され、イギリスとプロイセン、フランスと<br />オーストリアが同盟するという構図になった。<br /><br />プロイセンのフリードリヒ2世は、<br />ヨーロッパで孤立を余儀なくされたが<br />一か八かの形勢逆転をねらい、先手を打って<br />オーストリアを攻撃し開戦した。<br />こうして、7年戦争(1756~63年)<br />〈第3次シュレジェン戦争とも云う〉へ<br />と進んでゆくこととなった。<br />

    【7年戦争】
    (1756年~1763年 実質の世界大戦となった。)

    一方のマリア=テレジアにとってはシュレジェンの奪回は
    次なる国家課題となり奪還をめざして
    プロイセンと戦うためには、 
    フランスと手を結ぶこが有利と考え
    思い切って外交方針を一変させ
    イタリア戦争以来長年の宿敵であった
    フランスのブルボン家と提携するという決断をした。

    フランスとの提携を強力にテレジアに進言したのが、
    カウニッツ伯で
    オーストリア継承戦争後に駐フランス大使として赴任。
    その後マリア=テレジアはカウニッツ伯を宰相に任命した。
    彼は数年にわたって忍耐強く外交を重ねた結果、
    1756年5月、
    ルイ15世の宮廷で「無冠の女王」と言われていた
    王の愛妾ポンパドゥール夫人を動かしフランスとの提携を
    実現し 同盟を結んだ。
    このブルボン家とハプスブルク家との同盟は、
    「外交革命」と呼ばれ
    ヨーロッパ史において画期的なことだった。
    さらにロシア(エリザヴェータ女帝)との同盟交渉に成功。
    こうして、マリア=テレジアは、フランスのポンパドゥール夫人、
    ロシアのエリザヴェータ女帝とで同盟を促進し
    プロイセンの包囲が確立した。

    ※後年、マリア=テレジアはブルボン家〈フランス〉との
    和平の証にと、フランスの皇太子(のちのルイ十六世)に
    人質として愛娘マリー・アントワネットを差し出した。

    このことによって、18世紀後半のヨーロッパ国際政治の
    対立軸は、イギリスVSフランス、プロイセンVSオーストリア
    という二重対立に集約され、イギリスとプロイセン、フランスと
    オーストリアが同盟するという構図になった。

    プロイセンのフリードリヒ2世は、
    ヨーロッパで孤立を余儀なくされたが
    一か八かの形勢逆転をねらい、先手を打って
    オーストリアを攻撃し開戦した。
    こうして、7年戦争(1756~63年)
    〈第3次シュレジェン戦争とも云う〉へ
    と進んでゆくこととなった。

  • 『7年戦争突入~後』<br />この戦争ではフランス、ロシア、オーストリアそこにスウェーデンが<br />オーストリア支援にまわり、プロイセンはわずかにイギリスの支援を<br />受けるだけであったが、イギリスは兵力を送らず財政援助のみ両国の<br />兵隊の数はプロイセン20万、連合軍40万ほどでプロイセンは劣勢<br />を強いられ苦戦を続けていた。<br />しかし、この状況下でもフリードリヒ2世は、常に戦場で最高司令官<br />となり王自ら大砲や銃の性能を高める工夫などをして士気を高め、<br />さらには伝統的で厳格な軍律と徹底した練兵は行軍速度を速め<br />果敢に戦い続けた。<br />そんな中<br />フリードリヒ2世は農民の生活安定を考えドイツ南西部で<br />栽培され始めたジャガイモに着目。 <br />この普及が農民を救い、それがプロイセンの国力強化につながると<br />植え付けを奨励と同時に種芋を無料配布。植え付けから収穫までを<br />見張り番や兵士に厳しくチェックさせた。<br />七年戦争の始まった1756年には「ジャガイモ令」を公布し小冊子<br />を配って栽培を強制するなど父・軍人王を思わせる政策をも用いた。<br />※文献によっては、王が奨励したジャガイモ栽培は<br />1768年になっても不人気だった。との記述もあったが、<br />現在ドイツでのジャガイモ栽培やジャガイモ食の普及は王の力に<br />負うところが大きいのだろうと思う。

    『7年戦争突入~後』
    この戦争ではフランス、ロシア、オーストリアそこにスウェーデンが
    オーストリア支援にまわり、プロイセンはわずかにイギリスの支援を
    受けるだけであったが、イギリスは兵力を送らず財政援助のみ両国の
    兵隊の数はプロイセン20万、連合軍40万ほどでプロイセンは劣勢
    を強いられ苦戦を続けていた。
    しかし、この状況下でもフリードリヒ2世は、常に戦場で最高司令官
    となり王自ら大砲や銃の性能を高める工夫などをして士気を高め、
    さらには伝統的で厳格な軍律と徹底した練兵は行軍速度を速め
    果敢に戦い続けた。
    そんな中
    フリードリヒ2世は農民の生活安定を考えドイツ南西部で
    栽培され始めたジャガイモに着目。 
    この普及が農民を救い、それがプロイセンの国力強化につながると
    植え付けを奨励と同時に種芋を無料配布。植え付けから収穫までを
    見張り番や兵士に厳しくチェックさせた。
    七年戦争の始まった1756年には「ジャガイモ令」を公布し小冊子
    を配って栽培を強制するなど父・軍人王を思わせる政策をも用いた。
    ※文献によっては、王が奨励したジャガイモ栽培は
    1768年になっても不人気だった。との記述もあったが、
    現在ドイツでのジャガイモ栽培やジャガイモ食の普及は王の力に
    負うところが大きいのだろうと思う。

  • 1759年8月のクーネルスドルフの戦いでは大敗し、<br />一時ベルリンも危機に陥った。<br />ところが、ところがフリードリヒ2世にとっては幸運が続いた。<br /><br />1762年1月ロシアのエリザヴェータ女帝が急死し跡を継いだ<br />ピョートル三世がフリードリヒ大王を崇拝していたことから、<br />同年5月にはサンクトペテルブルク条約でプロイセンと講和さらに<br />6月には攻守同盟を締結。<br />ロシアは、兵を即引き上げプロイセンから勝ち取った領地を全て<br />プロイセンに返還し情勢は一変した。<br />こうしてプロイセンは、何度もオーストリアと戦いながら、<br />最終的にシュレジエンを手中に収める。と<br />同時に、ヨーロッパの弱小国だったプロイセンは、<br />一躍イギリスやフランスと肩を並べる「大国」となっていった。<br /><br />プロイセンは国の規模に比べて軍事力が異常に膨れ上がった <br />軍事国家だった。<br />プロイセンの常備軍は18世紀を通じて増え続け、1688年には<br />3万人であったが1740年には8万1000となり1786年には<br />19万6000人にまで膨れ上がっていた。<br />当然軍事支出も大きくなり、より多くの国庫収入を得る<br />必要があった。<br />この巨額の軍事支出を賄うため、フリードリヒ2世は、<br />殖産興業に乗り出し<br />製糖業に力を入れオーダー川<br />(現在のポーランドとドイツ国境を流れる川)<br />流域の都市シュテッティン近郊に製糖所を建設。<br />当時、砂糖貿易は大きな収益を上げたことから製糖業を発展させ、<br />国富増大を図ったが、ヨーロッパの製糖業の中心はハンブルクで、<br />シュテッティンの砂糖は最終的に<br />ハンブルクとの価格競争に勝てなかった。<br /><br />これに対してイギリスは、所得弾力性が高い商品に消費税を<br />かけることで 税収を増やしつつ、戦争になると国債を<br />発行して戦費を調達し、それを平時に返済し、<br />それを議会が保証するというシステムを<br />構築していたが、プロイセンにはこのシステムがなかった。<br /><br />フリードリヒ2世は、プロイセンをヨーロッパの列強国に押し上げ<br />たが、軍事費が国家予算を圧迫し続けていた。<br />武力対決が国家の命運を分けた時代だったが、その軍事力を支える<br />経済力を保ち続せるための財政制度の優劣が決定的要因になっていた。<br /> 

    1759年8月のクーネルスドルフの戦いでは大敗し、
    一時ベルリンも危機に陥った。
    ところが、ところがフリードリヒ2世にとっては幸運が続いた。

    1762年1月ロシアのエリザヴェータ女帝が急死し跡を継いだ
    ピョートル三世がフリードリヒ大王を崇拝していたことから、
    同年5月にはサンクトペテルブルク条約でプロイセンと講和さらに
    6月には攻守同盟を締結。
    ロシアは、兵を即引き上げプロイセンから勝ち取った領地を全て
    プロイセンに返還し情勢は一変した。
    こうしてプロイセンは、何度もオーストリアと戦いながら、
    最終的にシュレジエンを手中に収める。と
    同時に、ヨーロッパの弱小国だったプロイセンは、
    一躍イギリスやフランスと肩を並べる「大国」となっていった。

    プロイセンは国の規模に比べて軍事力が異常に膨れ上がった 
    軍事国家だった。
    プロイセンの常備軍は18世紀を通じて増え続け、1688年には
    3万人であったが1740年には8万1000となり1786年には
    19万6000人にまで膨れ上がっていた。
    当然軍事支出も大きくなり、より多くの国庫収入を得る
    必要があった。
    この巨額の軍事支出を賄うため、フリードリヒ2世は、
    殖産興業に乗り出し
    製糖業に力を入れオーダー川
    (現在のポーランドとドイツ国境を流れる川)
    流域の都市シュテッティン近郊に製糖所を建設。
    当時、砂糖貿易は大きな収益を上げたことから製糖業を発展させ、
    国富増大を図ったが、ヨーロッパの製糖業の中心はハンブルクで、
    シュテッティンの砂糖は最終的に
    ハンブルクとの価格競争に勝てなかった。

    これに対してイギリスは、所得弾力性が高い商品に消費税を
    かけることで 税収を増やしつつ、戦争になると国債を
    発行して戦費を調達し、それを平時に返済し、
    それを議会が保証するというシステムを
    構築していたが、プロイセンにはこのシステムがなかった。

    フリードリヒ2世は、プロイセンをヨーロッパの列強国に押し上げ
    たが、軍事費が国家予算を圧迫し続けていた。
    武力対決が国家の命運を分けた時代だったが、その軍事力を支える
    経済力を保ち続せるための財政制度の優劣が決定的要因になっていた。
     

  • 7年戦争が終結した1763年フリードリヒ大王は<br />新たな宮殿の建設に着手した。<br />正面から眺める宮殿の幅は220m。<br />屋根のバルコニーをギリシャ神話の神々が取り囲んでいる。<br /><br />隣接するサンスーシ宮殿の場合と同じくその目的は<br />国威発揚であり雇用対策であった。<br />完成までに6年を要した。<br />新宮殿の建設費は国庫に負担をかけぬようにと<br />全てが大王の私費で賄われた。<br />

    7年戦争が終結した1763年フリードリヒ大王は
    新たな宮殿の建設に着手した。
    正面から眺める宮殿の幅は220m。
    屋根のバルコニーをギリシャ神話の神々が取り囲んでいる。

    隣接するサンスーシ宮殿の場合と同じくその目的は
    国威発揚であり雇用対策であった。
    完成までに6年を要した。
    新宮殿の建設費は国庫に負担をかけぬようにと
    全てが大王の私費で賄われた。

    新宮殿 (ポツダム) 城・宮殿

  • 【7年戦争後】<br />無謀とも言える7年戦争が終わった時、王は「私はロバの様に<br />灰色になった。毎日歯が1本ずつ抜けてゆき痛風で身体は麻痺<br />状態だ」と自ら語った。<br />1763年3月<br />フリードリヒ大王を迎えたベルリンの宮殿人や外交官たちは髪が<br />白く前屈みになった不機嫌な王の姿を見て驚いた。<br />それでも、ベルリン市民の人気は大変なものだった。<br /><br />戦後の民政に努力するフリードリヒ大王は、21人万の軍人のうち<br />6万人を除隊させ住宅地の建設と農業に従事させた。<br />シュレージェンだけでも1万3千の建物が再建された。<br />だか5年経つとプロイセンの兵力は22万人に戻っていた。<br />やはりプロイセンは軍事大国であることをやめようとはしなかった。<br /><br />マリア=テレジアへ宛てた少し前の手紙で王は<br />「わが国では強者が弱者を圧迫する事を禁じております」<br />と書き送っていたにもかかわらず・・・<br />

    イチオシ

    【7年戦争後】
    無謀とも言える7年戦争が終わった時、王は「私はロバの様に
    灰色になった。毎日歯が1本ずつ抜けてゆき痛風で身体は麻痺
    状態だ」と自ら語った。
    1763年3月
    フリードリヒ大王を迎えたベルリンの宮殿人や外交官たちは髪が
    白く前屈みになった不機嫌な王の姿を見て驚いた。
    それでも、ベルリン市民の人気は大変なものだった。

    戦後の民政に努力するフリードリヒ大王は、21人万の軍人のうち
    6万人を除隊させ住宅地の建設と農業に従事させた。
    シュレージェンだけでも1万3千の建物が再建された。
    だか5年経つとプロイセンの兵力は22万人に戻っていた。
    やはりプロイセンは軍事大国であることをやめようとはしなかった。

    マリア=テレジアへ宛てた少し前の手紙で王は
    「わが国では強者が弱者を圧迫する事を禁じております」
    と書き送っていたにもかかわらず・・・

  • マリア=テレジアの夫フランツ1世帝が1765年に<br />死去した時、フリードリヒ2世はマリア=テレジアとの<br />約束を守ってその息子ヨーゼフ2世とテレジアとの<br />共同統治を認めた。すると<br />ヨーゼフ2世は母マリア=テレジアの反対を押し切り<br />ロシアに対して<br />プロイセンがオーストリアと手を組むことを主張した。<br />これに対し7年戦争時にロシアから助けてもらった<br />フリードリヒはオーストリアに積極的に同調することは避けた。<br />後に行われたフリードリヒとヨーゼフ2世の会見は、<br />1772年のポーランド分割を生む。<br />ザクセンのポーランド王の死後、<br />野心に燃えたエカテリーナ女帝はプロイセンの同意を得て<br />次期のポーランド王を選出させ、その後、オーストリア、<br />ロシア、プロイセンの三国はポーランド分割を決した。<br />このポーランド3分割で、プロイセンが新たに領地と<br />した面積は、他の2国の取得分より僅かだったが<br />プロイセンは飛び領地となっていた西プロイセンを<br />併合することで文字通りのプロイセン王国になった。<br /><br />1778年、<br />今度は、バイエルン選帝侯が世継ぎを残さずに死去すると<br />オーストリアがその領地を要求したのだ。<br />ヨーゼフ2世はこの期にも母の反対を押し切って<br />バイエルン領に進軍させた。<br />そこでフリードリヒ大王はヨーゼフ2世に撤兵させようと<br />したが応じようとはしなかった。<br />フリードリヒ大王はプロイセン軍に出撃を命じた。<br />この時66歳の大王は、主力軍が<br />オーストリア軍を包囲したが攻撃を加えることはなかった。<br />そこに、フランスとロシアが介入平和条約が結ばれた。<br /><br />それから間もなくマリア=テレジアが死去。<br />フリードリヒ大王は<br />「私は彼女と戦いましたが一度たりとも<br />彼女の敵ではありませんでした。」とフランスに書き送った。<br />テレジアはそれまでヨーゼフ2世の攻撃的な政務の<br />中庸を保つ努力をしていたが、彼女の死によって<br />オーストリアは〈糸の切れたタコ〉となった<br />ヨーゼフ2世を大王は憂いた。

    イチオシ

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    マリア=テレジアの夫フランツ1世帝が1765年に
    死去した時、フリードリヒ2世はマリア=テレジアとの
    約束を守ってその息子ヨーゼフ2世とテレジアとの
    共同統治を認めた。すると
    ヨーゼフ2世は母マリア=テレジアの反対を押し切り
    ロシアに対して
    プロイセンがオーストリアと手を組むことを主張した。
    これに対し7年戦争時にロシアから助けてもらった
    フリードリヒはオーストリアに積極的に同調することは避けた。
    後に行われたフリードリヒとヨーゼフ2世の会見は、
    1772年のポーランド分割を生む。
    ザクセンのポーランド王の死後、
    野心に燃えたエカテリーナ女帝はプロイセンの同意を得て
    次期のポーランド王を選出させ、その後、オーストリア、
    ロシア、プロイセンの三国はポーランド分割を決した。
    このポーランド3分割で、プロイセンが新たに領地と
    した面積は、他の2国の取得分より僅かだったが
    プロイセンは飛び領地となっていた西プロイセンを
    併合することで文字通りのプロイセン王国になった。

    1778年、
    今度は、バイエルン選帝侯が世継ぎを残さずに死去すると
    オーストリアがその領地を要求したのだ。
    ヨーゼフ2世はこの期にも母の反対を押し切って
    バイエルン領に進軍させた。
    そこでフリードリヒ大王はヨーゼフ2世に撤兵させようと
    したが応じようとはしなかった。
    フリードリヒ大王はプロイセン軍に出撃を命じた。
    この時66歳の大王は、主力軍が
    オーストリア軍を包囲したが攻撃を加えることはなかった。
    そこに、フランスとロシアが介入平和条約が結ばれた。

    それから間もなくマリア=テレジアが死去。
    フリードリヒ大王は
    「私は彼女と戦いましたが一度たりとも
    彼女の敵ではありませんでした。」とフランスに書き送った。
    テレジアはそれまでヨーゼフ2世の攻撃的な政務の
    中庸を保つ努力をしていたが、彼女の死によって
    オーストリアは〈糸の切れたタコ〉となった
    ヨーゼフ2世を大王は憂いた。

    新宮殿 (ポツダム) 城・宮殿

  • 【晩年のフリードリヒ大王】<br />老いた王は、政務に没頭する。<br />夏は4時冬は5時に起床。執務机に向かい、次に閲兵。<br />12人か14人までの客を招いて昼食。<br />午後10時に執務室を退き、2~3時間読書か執筆。<br />5時間の睡眠で充分だと豪語していた。<br />また、王は、ラインスベルク宮殿以降<br />食事、音楽、読書に喜びを見出していた。<br /><br />暴力的で無理解な父王のもとで死ぬにも死ねない逆境に耐え<br />そんな頃には親しい仲間たちとウィットを飛ばし合った王は、<br />美食家でフルート楽曲を作曲自ら演奏した。

    【晩年のフリードリヒ大王】
    老いた王は、政務に没頭する。
    夏は4時冬は5時に起床。執務机に向かい、次に閲兵。
    12人か14人までの客を招いて昼食。
    午後10時に執務室を退き、2~3時間読書か執筆。
    5時間の睡眠で充分だと豪語していた。
    また、王は、ラインスベルク宮殿以降
    食事、音楽、読書に喜びを見出していた。

    暴力的で無理解な父王のもとで死ぬにも死ねない逆境に耐え
    そんな頃には親しい仲間たちとウィットを飛ばし合った王は、
    美食家でフルート楽曲を作曲自ら演奏した。

  • 自ら建築設計案や室内装飾をした宮殿造り<br />宮殿には絵画館を併設し絵画を収集。<br />フリードリヒ大王もまたポンパドール夫人やマリア=テレジア、<br />ルイ15世と同じ優雅で温かいロココの同時代人だったのである。<br />

    自ら建築設計案や室内装飾をした宮殿造り
    宮殿には絵画館を併設し絵画を収集。
    フリードリヒ大王もまたポンパドール夫人やマリア=テレジア、
    ルイ15世と同じ優雅で温かいロココの同時代人だったのである。

    サンスーシ絵画館 博物館・美術館・ギャラリー

  • そんな王の晩年は親しい人々に次々と先立たれ、人嫌いになり、<br />孤独を好むようになっていった。<br />そして山の様な病気を背負いながら精いっぱい生きようと努力した。<br /><br />やがて、王の病状が重く名医をサンスーシ宮殿に呼んだ。<br />医者は「陛下の食欲はいかがですか」と側近に質問<br />「王は、連日食欲旺盛だ」と答えた。<br />「旺盛な美食は王さまには大敵なのです」と診断したが、<br />その後も王の食欲は衰えることはなかった。<br />しかし、王は食事以外贅沢と言えばタバティエール〈煙草ケース〉の<br />収集くらいで他は簡素な生活を送っているのを見ていた側近は<br />王の食事への口出しは最小限に止めざる得なかった。<br /><br />1786月8月 <br />フリードリヒ大王は執務室のソファにもたれたまま崩御した。<br />最後の日々は痛風とリューマチの悪化で椅子に座ることもベッドに<br />横たわることもできなかったという。<br />

    そんな王の晩年は親しい人々に次々と先立たれ、人嫌いになり、
    孤独を好むようになっていった。
    そして山の様な病気を背負いながら精いっぱい生きようと努力した。

    やがて、王の病状が重く名医をサンスーシ宮殿に呼んだ。
    医者は「陛下の食欲はいかがですか」と側近に質問
    「王は、連日食欲旺盛だ」と答えた。
    「旺盛な美食は王さまには大敵なのです」と診断したが、
    その後も王の食欲は衰えることはなかった。
    しかし、王は食事以外贅沢と言えばタバティエール〈煙草ケース〉の
    収集くらいで他は簡素な生活を送っているのを見ていた側近は
    王の食事への口出しは最小限に止めざる得なかった。

    1786月8月 
    フリードリヒ大王は執務室のソファにもたれたまま崩御した。
    最後の日々は痛風とリューマチの悪化で椅子に座ることもベッドに
    横たわることもできなかったという。

  • 迫害された難民たちを喜んで受け入れ、人種的にも宗教的にも<br />寛容な王国を受け継いだフリードリヒ大王は、宗教や民族の隔て<br />なく全ての人が身分に応じて暮らしていくための寛容の「祖国」<br />造りに生涯を賭けて尽力した。<br />けれど、150年後その地にはナショナリズムの大嵐が吹き荒れ<br />プロイセンが解体され消滅したのは、まさに歴史の皮肉というほかはない。<br /><br /><br /><br /><参考文献><br />「フリードリヒ大王」~啓蒙君主のペンと剣 <br />           飯塚信雄著・中公新書<br />〈補足・参考文献等〉<br />「家系図で読み解く世界史」~神野正志 PHP研究所<br />「フリードリヒ大王」~祖国と寛容 <br />           屋敷二郎著・山川出版<br />「森と山と川でたどるドイツ史」 <br />           池上俊一著・岩波ジュニア新書<br />wikipedia

    イチオシ

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    迫害された難民たちを喜んで受け入れ、人種的にも宗教的にも
    寛容な王国を受け継いだフリードリヒ大王は、宗教や民族の隔て
    なく全ての人が身分に応じて暮らしていくための寛容の「祖国」
    造りに生涯を賭けて尽力した。
    けれど、150年後その地にはナショナリズムの大嵐が吹き荒れ
    プロイセンが解体され消滅したのは、まさに歴史の皮肉というほかはない。



    <参考文献>
    「フリードリヒ大王」~啓蒙君主のペンと剣 
               飯塚信雄著・中公新書
    〈補足・参考文献等〉
    「家系図で読み解く世界史」~神野正志 PHP研究所
    「フリードリヒ大王」~祖国と寛容 
               屋敷二郎著・山川出版
    「森と山と川でたどるドイツ史」 
               池上俊一著・岩波ジュニア新書
    wikipedia

    サンスーシー宮殿 城・宮殿

  • わぁ この空気感。<br />フリードリヒ2世は<br />この庭園を散策しながら見上げたのだろうなぁ。と<br />そんなことを考えながら<br />ポツダムにやって来てよかった!<br />と旅の喜びにしばし浸っていました。<br /><br />

    わぁ この空気感。
    フリードリヒ2世は
    この庭園を散策しながら見上げたのだろうなぁ。と
    そんなことを考えながら
    ポツダムにやって来てよかった!
    と旅の喜びにしばし浸っていました。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • あの街からさん 2024/03/31 16:23:05
    歴史好きのヒンメルさんへ
    ヒンメルさん こんにちは
    フリードリヒ2世の生涯<編>気に入って
    いただきありがとうございます。
    歴史好きのヒンメルさんへ書き切れなかった
    逸話を今少しお話しすることにします♪

    フリードリヒ2世は、あれ程父の祭り事を嫌い反発していたのに、
    権力の座に着くとフリードリヒよお前もか!状態になってしまっ
    たのは、時代のせいとは言っても哀しい人間の歴史をまたまた
    見せられた気がしました。
    プロイセンの歴史を祖父の時代から遡ってみると、難民や異宗教
    者を受け入れる寛容さを取り入れて政務を遂行していたのですね。

    祖父夫妻の時代にはヨーロッパ諸国の王侯達がフランス文化に
    憧れ豪華な式典で自らの権利にこぞって酔っていたバロック時
    代で、フリードリヒ1世は国庫収入を遥かに上回る宮廷生活を
    続けていたのですが、反面教師となって王太子フリードリヒ・
    ヴィルヘルム1世は、王に即位すると24以上もあった離宮を
    競売や賃貸しにしたり、フランス式花壇をキャベツ畑にしたり
    城内を飾っていた燭台や銀器を溶かして銀貨としたり喜劇の上演
    や舞踏会も市民の楽しみだった射的大会も禁じ徹底して倹約に努
    め傾いた財政を立て直しました。
    そして、軍備を整え軍人王と言われたが、その実、弱腰と陰口を
    言われようとも無益と分かる戦いには兵を動かすことをせずフリ
    ードリヒ2世が皇太子時代王が体調を崩した際、皇太子の度重なる
    出陣要請を撥ねつけ自国の領地を巡視させ、荒れ果てていた領地
    を開拓し民の暮らしを少しでも豊かにと願った父王でした。
    市民の楽しみの一部を禁じたりして市民には不人気の王でしたが、
    前旅行記でイングランドの血生臭い王室の歴史から翻ってみれば、
    父軍人王はむしろ、良い王様ではなかったのか。とも感じてしま
    います。歴史は、誰の視点に立つて書かれているかも重要だな。
    とも感じました。

    たしかに、フリードリヒ2世は大王と呼ばれ市民からも人気で、
    カッテ少尉の処刑などドラマチックな場面もありますが、視点を
    変えてみると、父王が皇太子に厳しい教育の場を設けたり、脱走
    を企てしたりすれば、あの時代それもありなん。とも取れます。
    まあ、だからと言って虐待の様な暮らしを強いる。ことには
    理解できませんが。

    祖父王の時代は、浪費での国家財政の傾斜の一方で学問と芸術が
    開花し、軍人王と呼ばれた父王の時代には、倹約政策で一時期、
    学問と芸術が尻つぼみとなる一方で軍事力を整え、今度は、
    フリードリヒ2世が即位をすると、父王の反面教師だった皇太子
    時代から一変し軍事力を強化。と同時にまるで隔世遺伝の如く学問
    にも芸術にも力を注いだ生涯で、そのバランスたるや、
    もううこれは、どの王の統治が良かったのかとは一概には難しく
    やはり、歴史の事実として俯瞰して捉えることにしました。

    今日は、先週の金曜日から日本でもロードショーが始まった
    映画「オッペンハイマー」を早速観てきました。なにしろ、
    なるべく事前情報は、あえて蓋をしていたのですが『ポツダム会議』
    がもしかしたら出てきそうな気がしてこのタイミングで観ようと
    思いました。
    私の事前の予想とは違い、ほぼファーストシーンから聴聞会での聴き
    取りシーンが続き、膨大な台詞劇となっていました。大量のセリフが
    全編ほぼ切れ間なく、結構早いペースで交わされ、その背景(バック)
    には、こちらも絶え間なく速いリズムの音楽〈BGM〉が結構高い音量
    で全編に流れ、その中、聴聞会に次々に登場する大勢の関係者。
    ますます、この人とこの人の関係?とかどちらを推している人か?
    など考える間も無く話しは進んで行き、そこのところは、Blu-rayが
    出たらレンタルしてもう一度見ようと思いました。

    さすがに広島や長崎の原爆投下後の映像は流れませんでしたが、
    投下によって民間人がどれほど犠牲になったかは科学者たちと
    政府関係者との会話で観客に知らされることになります。
    そして、投下のニュースが流れると、これで戦争を終結できる。
    と目の前の事だけを捉えたアメリカ市民たちが、これで戦争は終わる。
    と歓喜するシーンは、複雑な思いが込み上げてきました。
    そして、ラスト、湖の湖畔でアンシュタインがオッペンハイマーに
    対してささやく言葉の重さ。
    原爆よりさらに桁違いの破壊力の水爆を手にした人間の愚かさ。
    改めて考えさせられる映画でした。

    そして、何度も〈ポツダム会議〉の話題が登場し
    この時期に4Tの旅行記に丁度、ポツダム編を
    アップすることになった不思議さを感じました。
    ポツダムの次の旅行記は少し方向転換して積み
    残してきた、パリやローマ編にしようかベルリン編にしょうか
    と検討中なのですが、
    ヒンメルさんは、順調にブルージュまで進行中
    ですね。楽しみにしています。
                    あの街から
  • frau.himmelさん 2024/03/31 00:03:07
    凄い!!としか言いようがない
    あの街さんこんばんは。

    すごいですね~~、よくぞここまで詳しくお調べになって・・。またそれをわかり易く説明してくださりこれも凄い! 本当にありがとうございました。
    拝見してからしばらく時間も経っているのにまだ感動しております。

    私もドイツやオーストリアへはあちこち出かけまして歴史的にも興味があり、薄っぺらい勉強はしておりました。今回、あの街さんによる詳しいフリードリヒ大王の年表を追いながら、私の旅行の中で断片的に勉強してきた歴史の数々が思い出され、点と点が繋がりおぼろげな線になっていくような気がしました。

    軍人王である父王との確執、あれはもう虐待ですね。逃亡を手助けしてくれた友人を見殺しにせざるを得なかったあの出来事は、テレビでもやっていましたね。

    ほんと、歴史って面白い。
    いつも深く掘り下げて旅行記を作ってくださるあの街さんにはいつも感謝です。
    次回も楽しみにしております。

    himmel

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