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ネイサン・チェンを本格的に意識してみたのは、平昌オリンンピック<br />(2018年)の頃でした。<br />ピョンチャン五輪が迫ってきた頃、フィギュアの全米選手権大会で<br />彼が、史上初めて4回転ジャンプを一試合で5回跳んで優勝した。<br />とのニュースを聞いてからでした。<br />羽生選手を応援している1ファンには驚きと心配なニュースとして<br />捉えていました。<br />そして迎えたピョンチャンオリンピック。<br />ネイサン・チェンは、団体と個人ショートで、ことごとく<br />ジャンプを失敗。ところが、個人フリーで、オリンピックでは<br />誰もやったことがない6回の4回転ジャンプを組み入れた難易度の<br />極めて高いプログラム構成で試合にのぞみました。<br />結果、5回の4回転ジャンプを成功させてみせてくれました。<br />しかし、この演技でフリー滑走者の最高点を挙げるも、<br />ショート(17位)での不調からメダルには届きませんでした。<br /><br />それから4年後北京オリンピックで満を持してネイサン・チェンは<br />見事金メダルに輝くも、そのまま、未だ2年残っている大学での学生<br />生活を取り戻すためにあっさり引退してしまいました。<br /><br />ネイサン・チェンの滑りを一度生で観たいなぁ。<br />と思っていましたが、その機会は訪れないまま、彼は引退。<br />それが、アイスショーとはいえ彼の滑走を観る機会が<br />タイミング良くチケット発売の知らせが舞い込んだのでした。<br /><br />『The  ICE 2023』では、4回転はもちろん、競技では禁止されている、<br />バック転〈バックフリップ〉を目の前で、鮮やかに目にも止まらぬ速さで<br />やってみせてくれました。(⌒▽⌒)<br /><br />およそ一ヵ月のヨーロッパ旅から帰ってきた時には、<br />きっと、疲労感と、快い虚脱感に襲われているのだろうなぁ。<br />帰国後の楽しい計画を1つ2つ作っておけば<br />日常に早く戻すためには良いかなと思いました。<br />その一つ目になったのが、丁度その頃、<br />チケット発売のメールが届いた<br />「ネイサン・チェンが出演するアイスショー」を観に行くこと。で、<br />2つ目がその頃ロードショー公開になっているはずの<br />映画「インディー・ジョーンズ」と<br />「ミッション・イン・ポッシブル」を<br />観にゆこう! でした。<br />

『ネイサン・チェンの氷上バック転と4回転ジャンプはとにかく凄かった ~〈The ICE〉盛岡タカヤアリーナへ』

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2023/08/03 - 2023/08/04

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5

39

あの街から

あの街からさん

ネイサン・チェンを本格的に意識してみたのは、平昌オリンンピック
(2018年)の頃でした。
ピョンチャン五輪が迫ってきた頃、フィギュアの全米選手権大会で
彼が、史上初めて4回転ジャンプを一試合で5回跳んで優勝した。
とのニュースを聞いてからでした。
羽生選手を応援している1ファンには驚きと心配なニュースとして
捉えていました。
そして迎えたピョンチャンオリンピック。
ネイサン・チェンは、団体と個人ショートで、ことごとく
ジャンプを失敗。ところが、個人フリーで、オリンピックでは
誰もやったことがない6回の4回転ジャンプを組み入れた難易度の
極めて高いプログラム構成で試合にのぞみました。
結果、5回の4回転ジャンプを成功させてみせてくれました。
しかし、この演技でフリー滑走者の最高点を挙げるも、
ショート(17位)での不調からメダルには届きませんでした。

それから4年後北京オリンピックで満を持してネイサン・チェンは
見事金メダルに輝くも、そのまま、未だ2年残っている大学での学生
生活を取り戻すためにあっさり引退してしまいました。

ネイサン・チェンの滑りを一度生で観たいなぁ。
と思っていましたが、その機会は訪れないまま、彼は引退。
それが、アイスショーとはいえ彼の滑走を観る機会が
タイミング良くチケット発売の知らせが舞い込んだのでした。

『The ICE 2023』では、4回転はもちろん、競技では禁止されている、
バック転〈バックフリップ〉を目の前で、鮮やかに目にも止まらぬ速さで
やってみせてくれました。(⌒▽⌒)

およそ一ヵ月のヨーロッパ旅から帰ってきた時には、
きっと、疲労感と、快い虚脱感に襲われているのだろうなぁ。
帰国後の楽しい計画を1つ2つ作っておけば
日常に早く戻すためには良いかなと思いました。
その一つ目になったのが、丁度その頃、
チケット発売のメールが届いた
「ネイサン・チェンが出演するアイスショー」を観に行くこと。で、
2つ目がその頃ロードショー公開になっているはずの
映画「インディー・ジョーンズ」と
「ミッション・イン・ポッシブル」を
観にゆこう! でした。

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
ホテル
4.5
グルメ
5.0
交通
4.0
交通手段
新幹線 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 『The ICE  2023』の開演時間が14:00でしたのでお昼前に<br />盛岡に着くような新幹線で盛岡にやって来ました。<br />駅前の「ルートイン盛岡駅前」に小さな鞄を1個預け、盛岡に来<br />たら、いつも楽しみにしている盛岡冷麺を食べようと、この日は<br />時間も余り無いので駅前広場に面している「盛楼閣」へ。<br />まだ昼前でしたが30分待ちの表示が出ていましたが15分程で<br />席に着くことができました。

    『The ICE 2023』の開演時間が14:00でしたのでお昼前に
    盛岡に着くような新幹線で盛岡にやって来ました。
    駅前の「ルートイン盛岡駅前」に小さな鞄を1個預け、盛岡に来
    たら、いつも楽しみにしている盛岡冷麺を食べようと、この日は
    時間も余り無いので駅前広場に面している「盛楼閣」へ。
    まだ昼前でしたが30分待ちの表示が出ていましたが15分程で
    席に着くことができました。

    盛楼閣 グルメ・レストラン

  • 味は折り紙つき。別にオーダーしたキムチと<br />きゅうりのカクテキも美味しかった。<br /><br />さて、お腹を満たしたところで会場へ<br />会場へは、駅前広場(正面玄関口の反対側でした。)から<br />予約制のシャトルバスで10分くらいで着く近距離にありました。<br />

    味は折り紙つき。別にオーダーしたキムチと
    きゅうりのカクテキも美味しかった。

    さて、お腹を満たしたところで会場へ
    会場へは、駅前広場(正面玄関口の反対側でした。)から
    予約制のシャトルバスで10分くらいで着く近距離にありました。

  • 『The ICE   2023』の出演者は<br />ネイサン・チェンの他には、<br />宇野昌磨、友野一希、<br />坂本花織、三原舞依、三浦瑠来&amp;木原龍一、<br />高橋大輔&amp;村元哉中<br />の他に<br />外国選手の参加も。<br />韓国からチャ・ジュンファン、アメリカからはネイサンの他に<br />もう一人、昨年4回転アクセルを史上初めて試合で成功した<br />18歳のイリア・マリニンやおなじみジェイソン・ブラウン等など<br />豪華メンバーが揃っていました。<br />

    イチオシ

    『The ICE 2023』の出演者は
    ネイサン・チェンの他には、
    宇野昌磨、友野一希、
    坂本花織、三原舞依、三浦瑠来&木原龍一、
    高橋大輔&村元哉中
    の他に
    外国選手の参加も。
    韓国からチャ・ジュンファン、アメリカからはネイサンの他に
    もう一人、昨年4回転アクセルを史上初めて試合で成功した
    18歳のイリア・マリニンやおなじみジェイソン・ブラウン等など
    豪華メンバーが揃っていました。

  • 会場に着いて入口までの列に並んでいると、<br />「ン羽生君もいれば最高なんだけどね」とか<br />「引退したネイサン・チェンがほんとうにやって来るンだろうか」<br />「三浦&amp;木原ペアも楽しみだけど大ちゃんと村元ペアも見たかったの」<br />などファンの声を聞きながらリンクへ。

    会場に着いて入口までの列に並んでいると、
    「ン羽生君もいれば最高なんだけどね」とか
    「引退したネイサン・チェンがほんとうにやって来るンだろうか」
    「三浦&木原ペアも楽しみだけど大ちゃんと村元ペアも見たかったの」
    などファンの声を聞きながらリンクへ。

  • 終演後、ホテルに戻りチェック・イン。先ずは大浴場へ、<br />この時間は他には誰もおらず1人貸し切りで、<br />さっぱりして街へ出かけました。<br />この日盛岡は〈さんさ踊り〉(8月1日~4日)期間中でした。<br /><br />『The ICE   2023』の司会者がその事に触れ<br />「昨夜選手の皆さんは美味しいお寿司とさんさ踊りを見物しましたよ」と<br />話すのを聞いて初めて〈さんさ踊り〉期間中と知った(⌒-⌒; )のでした。<br /><br />盛岡は、涼しいのではないか。と淡い期待をして<br />向かったのですが日中は真夏日でしたし、<br />陽が落ちてからも熱帯夜。<br />〈さんさ踊り〉の宵で、駅ビルの中にも浴衣姿の人が<br />大勢見かけるようになりました。<br /><br />「ネイサン・チェンの自伝」を買うため<br />とりあえず駅ビルに行き書店を探しました。<br /><br />『The ICE』の中でネイサン・チェンだけのMCコーナー<br />があり、自身の自伝小説の話しの後、入場券の半券で抽選会が<br />あり3名が当選し 会場が盛り上がりました。<br />この時の彼のプレゼンを聞いて自伝を読んでみたくなり、<br />グッズ売り場に買いに行きましたが売れ切れでした。<br />そうなると(⌒-⌒; )余計に読んでみたくなり、先ずは<br />書店探しと、駅ビルにやって来たのでした。

    終演後、ホテルに戻りチェック・イン。先ずは大浴場へ、
    この時間は他には誰もおらず1人貸し切りで、
    さっぱりして街へ出かけました。
    この日盛岡は〈さんさ踊り〉(8月1日~4日)期間中でした。

    『The ICE 2023』の司会者がその事に触れ
    「昨夜選手の皆さんは美味しいお寿司とさんさ踊りを見物しましたよ」と
    話すのを聞いて初めて〈さんさ踊り〉期間中と知った(⌒-⌒; )のでした。

    盛岡は、涼しいのではないか。と淡い期待をして
    向かったのですが日中は真夏日でしたし、
    陽が落ちてからも熱帯夜。
    〈さんさ踊り〉の宵で、駅ビルの中にも浴衣姿の人が
    大勢見かけるようになりました。

    「ネイサン・チェンの自伝」を買うため
    とりあえず駅ビルに行き書店を探しました。

    『The ICE』の中でネイサン・チェンだけのMCコーナー
    があり、自身の自伝小説の話しの後、入場券の半券で抽選会が
    あり3名が当選し 会場が盛り上がりました。
    この時の彼のプレゼンを聞いて自伝を読んでみたくなり、
    グッズ売り場に買いに行きましたが売れ切れでした。
    そうなると(⌒-⌒; )余計に読んでみたくなり、先ずは
    書店探しと、駅ビルにやって来たのでした。

  • 盛岡駅ビルの1階にあった本屋さんで<br />「ネイサン・チェン自伝」を買うことができました。(⌒▽⌒)<br />本屋さんのカバーをかけていただいたところ<br />中にたたみ込まれたところに<br />「さわや書店」<br />わたしは、わたしの住むまちを愛したい。<br />手あかにまみれた1冊の本のように<br />   70th anniversary  SAWAYA shoten<br />                            Thank you for everything<br /><br />と印刷されてあり、創業70周年の老舗の本屋さんのがんばり<br />がうれしくなりました。<br />カバーの版画のような図案は<br />宮沢賢治の「春と修羅」より「岩手山」と書かれていました。<br /><br />Shotenと書かれたところが、微笑ましかったのと<br />店頭で、冷えた本あります。と、発泡スチロールの箱に<br />保冷剤で冷やした本を販売していました。(⌒▽⌒)

    盛岡駅ビルの1階にあった本屋さんで
    「ネイサン・チェン自伝」を買うことができました。(⌒▽⌒)
    本屋さんのカバーをかけていただいたところ
    中にたたみ込まれたところに
    「さわや書店」
    わたしは、わたしの住むまちを愛したい。
    手あかにまみれた1冊の本のように
       70th anniversary SAWAYA shoten
    Thank you for everything

    と印刷されてあり、創業70周年の老舗の本屋さんのがんばり
    がうれしくなりました。
    カバーの版画のような図案は
    宮沢賢治の「春と修羅」より「岩手山」と書かれていました。

    Shotenと書かれたところが、微笑ましかったのと
    店頭で、冷えた本あります。と、発泡スチロールの箱に
    保冷剤で冷やした本を販売していました。(⌒▽⌒)

  • お祭りでどの店も混んでいたので、<br />夕食は駅ビルでサッと食べることに。<br />暑さのせい(⌒-⌒; )か久しぶりに冷酒を飲みたくなって<br />私は冷酒。相方さんはビールで天ぷらと枝豆の<br />ツマミを頼んで和定食で〆。<br />宮沢賢治の岩手山が描かれたカバーをかけた本(下・左にチラリと)

    お祭りでどの店も混んでいたので、
    夕食は駅ビルでサッと食べることに。
    暑さのせい(⌒-⌒; )か久しぶりに冷酒を飲みたくなって
    私は冷酒。相方さんはビールで天ぷらと枝豆の
    ツマミを頼んで和定食で〆。
    宮沢賢治の岩手山が描かれたカバーをかけた本(下・左にチラリと)

  • 早々にホテルに戻り2度目の大浴場へ。<br />祭りの夜<br />又も貸し切りでした。(⌒▽⌒)

    早々にホテルに戻り2度目の大浴場へ。
    祭りの夜
    又も貸し切りでした。(⌒▽⌒)

  • ベッドに背をもたれネイサン・チェン自伝を読み始めました。<br />360ページにギッシリ文字が並ぶ読み応えのある本でした。<br /><br />それまで、ネイサン・チェンについては、リンクで滑っている姿<br />以外は見たことがなく、それも平昌オリンピックのシーズン位か<br />らですからほとんど知らないと言った方が良さそうでした。<br />彼は、中国系の移民でおそらく富裕層で、イェール大学の学生。<br />競技番組で聞いていたぼんやりとしたイメージでした。<br /><br />『ネイサン・チェン自伝』というよりチェン一家、<br />特にネイサンと母の物語でした。<br />千里之行始于足下〈千里の道も一歩から〉と書かれた扉を開くと<br />3歳の時初めて氷に乗って一歩を踏み出した。<br />ここから物語は始まりました。<br /><br />ネイサンの父は、中国南部でベトナムと国境を接し南シナ海に<br />面した広西チワン族自治区出身。祖母は、シングルマザーで、<br />チェンというのは祖母の名字だ。祖母に促され中国で最も古い<br />医療機関が前身である広西医科大学で医学の学位を取得。<br />卒業後北京へ出、軍事医学研究院で修士課程に入学。<br />教授が天津にも研究室を持ち、父も時々天津に出向いていた。<br /><br />ネイサンの母は、北京生まれだが母の父(母方の祖父)の仕事<br />の関係で天津に引越した。<br />母の父は、軍事医学研究院天津キャンパスの教授と研究員を務めていた。<br />そこで、ネイサンの両親は出会った。<br />ネイサンの両親は、学業と同様に運動も得意で<br />父は、大学では走り高跳びの選手で背丈は一番低かったが、<br />1番多くの声援を受けた。と後に父は語っている。<br />母は、水泳が得意だったが、祖父から水泳では飯が食えない。<br />と言われ、ファッションにも興味があったことから大学を卒業後<br />は、裁縫を教えていた。その頃、祖父の勧めで、50人の教師を<br />日本の大学院に派遣して教育学の学位を取得させるという中国政<br />府のプログラムに応募、高倍率の試験を突破して、1年間日本へ<br />行く資格を得た。<br />

    ベッドに背をもたれネイサン・チェン自伝を読み始めました。
    360ページにギッシリ文字が並ぶ読み応えのある本でした。

    それまで、ネイサン・チェンについては、リンクで滑っている姿
    以外は見たことがなく、それも平昌オリンピックのシーズン位か
    らですからほとんど知らないと言った方が良さそうでした。
    彼は、中国系の移民でおそらく富裕層で、イェール大学の学生。
    競技番組で聞いていたぼんやりとしたイメージでした。

    『ネイサン・チェン自伝』というよりチェン一家、
    特にネイサンと母の物語でした。
    千里之行始于足下〈千里の道も一歩から〉と書かれた扉を開くと
    3歳の時初めて氷に乗って一歩を踏み出した。
    ここから物語は始まりました。

    ネイサンの父は、中国南部でベトナムと国境を接し南シナ海に
    面した広西チワン族自治区出身。祖母は、シングルマザーで、
    チェンというのは祖母の名字だ。祖母に促され中国で最も古い
    医療機関が前身である広西医科大学で医学の学位を取得。
    卒業後北京へ出、軍事医学研究院で修士課程に入学。
    教授が天津にも研究室を持ち、父も時々天津に出向いていた。

    ネイサンの母は、北京生まれだが母の父(母方の祖父)の仕事
    の関係で天津に引越した。
    母の父は、軍事医学研究院天津キャンパスの教授と研究員を務めていた。
    そこで、ネイサンの両親は出会った。
    ネイサンの両親は、学業と同様に運動も得意で
    父は、大学では走り高跳びの選手で背丈は一番低かったが、
    1番多くの声援を受けた。と後に父は語っている。
    母は、水泳が得意だったが、祖父から水泳では飯が食えない。
    と言われ、ファッションにも興味があったことから大学を卒業後
    は、裁縫を教えていた。その頃、祖父の勧めで、50人の教師を
    日本の大学院に派遣して教育学の学位を取得させるという中国政
    府のプログラムに応募、高倍率の試験を突破して、1年間日本へ
    行く資格を得た。

    ホテルルートイン盛岡駅前 宿・ホテル

    駅ビルの向かいで立地よく、大浴場もあり盛岡ではここをベースに by あの街からさん
  • しかし、この頃には、母と父は既に結婚をしていた。<br />そして、父は南イリノイ大学カーボンデール校大学院への<br />留学が決まり母をアメリカへ連れて行こうと考えていた。<br />母自身も、日本は学生ビザの制限が厳しかったこともあり、<br />たとえ英語が話せなくてもアメリカの方が勉強してより<br />成長ができるのではと考えていた。けれど日本留学を勧めて<br />くれた祖父をガッカリさせたくなかった母は、日本へ留学する<br />には渡航前に3ヵ月間の研修が義務づけられていたことから、<br />両親に「研修を受けている間にアメリカへのビザを申請する。<br />もしもビザがおりたら父のいるアメリカへ行く。<br />ビザがおりなければ日本へ留学する。」と伝えた。<br />すると、母へのビザは間も無く発行され、<br />父は、1988年1月に。母は、同年12月に渡航した。<br /><br />両親のアメリカでの暮らしは楽ではなかった。<br />父は学生が本分だからアルバイトではたいして稼げないし<br />母は、家計を助けファッションデザインを学ぶ夢を手放さ<br />なければなかった。<br />一家はソルトレイクシティに住み、父は、ユタ大学の学生で、<br />薬剤学と薬科学の博士課程で学んでいた。<br />両親と兄2人、姉2人ネイサンは5人兄姉の末っ子。<br />この間一家は、学生用の小さなアパートで暮らしていた。<br />ネイサンが生まれて間もない頃、一軒家に引っ越すことができ<br />たが、あちこち修繕が必要だったので兄や姉たちみんなで掃除<br />ペンキ塗りをして家をつくった。<br /><br />いやぁ、第一章を読んだだけで、それまでの自分のネイサン・チェンに<br />対するイメージは吹き飛んでしまい、<br />この先の一家の行方が気になってグイグイ読み進めました。<br />

    しかし、この頃には、母と父は既に結婚をしていた。
    そして、父は南イリノイ大学カーボンデール校大学院への
    留学が決まり母をアメリカへ連れて行こうと考えていた。
    母自身も、日本は学生ビザの制限が厳しかったこともあり、
    たとえ英語が話せなくてもアメリカの方が勉強してより
    成長ができるのではと考えていた。けれど日本留学を勧めて
    くれた祖父をガッカリさせたくなかった母は、日本へ留学する
    には渡航前に3ヵ月間の研修が義務づけられていたことから、
    両親に「研修を受けている間にアメリカへのビザを申請する。
    もしもビザがおりたら父のいるアメリカへ行く。
    ビザがおりなければ日本へ留学する。」と伝えた。
    すると、母へのビザは間も無く発行され、
    父は、1988年1月に。母は、同年12月に渡航した。

    両親のアメリカでの暮らしは楽ではなかった。
    父は学生が本分だからアルバイトではたいして稼げないし
    母は、家計を助けファッションデザインを学ぶ夢を手放さ
    なければなかった。
    一家はソルトレイクシティに住み、父は、ユタ大学の学生で、
    薬剤学と薬科学の博士課程で学んでいた。
    両親と兄2人、姉2人ネイサンは5人兄姉の末っ子。
    この間一家は、学生用の小さなアパートで暮らしていた。
    ネイサンが生まれて間もない頃、一軒家に引っ越すことができ
    たが、あちこち修繕が必要だったので兄や姉たちみんなで掃除
    ペンキ塗りをして家をつくった。

    いやぁ、第一章を読んだだけで、それまでの自分のネイサン・チェンに
    対するイメージは吹き飛んでしまい、
    この先の一家の行方が気になってグイグイ読み進めました。

  • 彼の両親は、<br />いつも子供たちが教育を受け学ぶことを大切にした。<br />5人の子供たち全員が、学校だけでなく、興味を持った様々<br />な活動ができるよう心をくだいて育てていた。<br />学びを大切にするという価値観は、両親が中国で過ごした頃<br />親から受け継いだもので、中国では、教育があらゆる門戸を<br />開くと考えられている。どんな分野でも成功しようと思えば<br />その第一歩が教育なのだ。と。<br />兄弟5人ともに、ソルトレイクシティ学区の能力開発プログラ<br />ム〈ELP〉に受け入れられ特別な教育を受けることができた。<br />最近、姉や兄と話しをして改めて驚いた。<br />あの頃、よくもまぁ5人それぞれに、チェス、ヴァイオリン<br />スケート、ビオラ、チェロ、ピアノ、体操といろいろ習いごと<br />をさせてもらえたが、いったい両親はどうやって家計のやり繰<br />りをしていたのだろう。と語る。<br />母は、祖父から「成功は、才能×勤勉×機会だ」<br />才能はもって生まれたもの。勤勉は自分でなんとかできるもの。<br />そして、機会は、己が気づいて掴まなくてはいけないもの。<br />才能は自分ではあまり変えられないが、勤勉と機会は自分の心<br />がけ次第でなんとかなる。<br />しかし、この公式は掛け算だからね。ひとつでもゼロがあれば<br />全部がゼロになってしまうのよ。と、子育てを実践した。<br /><br />両親は、あれこれ算段してくれ、父がユタ大学を卒業後も家族<br />は、様々な講座や奨学金を受けることができた。<br />また父は、かっての全米チャンピオンが現役のうちに若いスケ <br />ーター育成にと作った財団に、ネイサンの将来性をプレゼンし、<br />以降10年にわたって75000ドルを受け取ることができた。<br />アメリカ社会にある成功者による社会貢献とも思われる、先輩<br />スケーターが手本をみせてくれた。<br />母は、ネイサンのスケート費用を捻出するために、父の中英医学<br />用語辞典で医学用語を学び、通訳養成クラスで資格を取り地元<br />病院の通訳となり中国語しか話せない患者と医師との通訳をした。<br />この仕事は、常態的にないためにネイサンが学校へ行っている時<br />間はよその家の掃除に行ったりパートで働いていた。<br />母は、子供たちの習い事が大きな負担になっている素ぶりは全く<br />みせたことがなかった。

    彼の両親は、
    いつも子供たちが教育を受け学ぶことを大切にした。
    5人の子供たち全員が、学校だけでなく、興味を持った様々
    な活動ができるよう心をくだいて育てていた。
    学びを大切にするという価値観は、両親が中国で過ごした頃
    親から受け継いだもので、中国では、教育があらゆる門戸を
    開くと考えられている。どんな分野でも成功しようと思えば
    その第一歩が教育なのだ。と。
    兄弟5人ともに、ソルトレイクシティ学区の能力開発プログラ
    ム〈ELP〉に受け入れられ特別な教育を受けることができた。
    最近、姉や兄と話しをして改めて驚いた。
    あの頃、よくもまぁ5人それぞれに、チェス、ヴァイオリン
    スケート、ビオラ、チェロ、ピアノ、体操といろいろ習いごと
    をさせてもらえたが、いったい両親はどうやって家計のやり繰
    りをしていたのだろう。と語る。
    母は、祖父から「成功は、才能×勤勉×機会だ」
    才能はもって生まれたもの。勤勉は自分でなんとかできるもの。
    そして、機会は、己が気づいて掴まなくてはいけないもの。
    才能は自分ではあまり変えられないが、勤勉と機会は自分の心
    がけ次第でなんとかなる。
    しかし、この公式は掛け算だからね。ひとつでもゼロがあれば
    全部がゼロになってしまうのよ。と、子育てを実践した。

    両親は、あれこれ算段してくれ、父がユタ大学を卒業後も家族
    は、様々な講座や奨学金を受けることができた。
    また父は、かっての全米チャンピオンが現役のうちに若いスケ 
    ーター育成にと作った財団に、ネイサンの将来性をプレゼンし、
    以降10年にわたって75000ドルを受け取ることができた。
    アメリカ社会にある成功者による社会貢献とも思われる、先輩
    スケーターが手本をみせてくれた。
    母は、ネイサンのスケート費用を捻出するために、父の中英医学
    用語辞典で医学用語を学び、通訳養成クラスで資格を取り地元
    病院の通訳となり中国語しか話せない患者と医師との通訳をした。
    この仕事は、常態的にないためにネイサンが学校へ行っている時
    間はよその家の掃除に行ったりパートで働いていた。
    母は、子供たちの習い事が大きな負担になっている素ぶりは全く
    みせたことがなかった。

  • 母は5人の子供たちがそれぞれに行っているどの活動にも<br />分け隔てなく関わり続けていた。<br />アリス〈姉〉は、学校のダンスドリルチームの練習で朝6時<br />からの練習があり、母は5時に起きて準備をさせた。<br />ネイサンとまる1日リンクで過ごすと、みんなの食事を用意<br />して深夜まで起きていて、子供たちの宿題のチェックをし、<br />翌朝にはアリスを朝練に送ってゆく。<br />他の兄弟が、チェロやビオラなどを練習していると、側に<br />座って耳を傾け音が外れると教えくれたりした。<br />一方 父は、兄のチェスのサポートをして週末は数100マイル<br />離れたユタ州南部のセントジョーンまで送ってゆき、ロシア人<br />のグランドマスターの指導を受けていた。<br />兄の影響もあり、ジャニス〈姉〉もチェスの学生選手権の全国<br />大会や州大会で何度も優勝した。<br />チェン家の子供たちにとって、それぞれがそれぞれの活動に<br />没頭するのは普通のことだった。<br />それが、ネイサンにとってはスケートだった。<br /><br />3歳の頃、兄弟に付いてスケートリンクに行くうちに氷の上が楽しくなったのを見た母は、兄や姉を学校へ送り出すと一般滑走のリンクへ連れていってくれた。小学中学生は学校へ行っている時間だからリンクは空いていて自由に滑ることができたが、ぐるぐる回るだけでつまらなそうなネイサンを見て、母は、グループでのレッスン教室に入れた。そこから、スケート人生が始まった。<br />スケート教室で3年程過ぎた頃になると、母はもっとジャンプ<br />技術に力を入れているコーチにも就こう。と、教室の父兄に<br />聞いたりあれこれ調べて、ジャンプの強化にと新しいコーチ<br />の元へ週2回通うことになった。<br />そこは車で1時間程離れたオグデンという街のカレルコーチの<br />レッスン所だった。ネイサンは、未だ小学生になる前だった。<br />カレルから6種類のジャンプの跳びかたの基礎を学んだ。<br />

    母は5人の子供たちがそれぞれに行っているどの活動にも
    分け隔てなく関わり続けていた。
    アリス〈姉〉は、学校のダンスドリルチームの練習で朝6時
    からの練習があり、母は5時に起きて準備をさせた。
    ネイサンとまる1日リンクで過ごすと、みんなの食事を用意
    して深夜まで起きていて、子供たちの宿題のチェックをし、
    翌朝にはアリスを朝練に送ってゆく。
    他の兄弟が、チェロやビオラなどを練習していると、側に
    座って耳を傾け音が外れると教えくれたりした。
    一方 父は、兄のチェスのサポートをして週末は数100マイル
    離れたユタ州南部のセントジョーンまで送ってゆき、ロシア人
    のグランドマスターの指導を受けていた。
    兄の影響もあり、ジャニス〈姉〉もチェスの学生選手権の全国
    大会や州大会で何度も優勝した。
    チェン家の子供たちにとって、それぞれがそれぞれの活動に
    没頭するのは普通のことだった。
    それが、ネイサンにとってはスケートだった。

    3歳の頃、兄弟に付いてスケートリンクに行くうちに氷の上が楽しくなったのを見た母は、兄や姉を学校へ送り出すと一般滑走のリンクへ連れていってくれた。小学中学生は学校へ行っている時間だからリンクは空いていて自由に滑ることができたが、ぐるぐる回るだけでつまらなそうなネイサンを見て、母は、グループでのレッスン教室に入れた。そこから、スケート人生が始まった。
    スケート教室で3年程過ぎた頃になると、母はもっとジャンプ
    技術に力を入れているコーチにも就こう。と、教室の父兄に
    聞いたりあれこれ調べて、ジャンプの強化にと新しいコーチ
    の元へ週2回通うことになった。
    そこは車で1時間程離れたオグデンという街のカレルコーチの
    レッスン所だった。ネイサンは、未だ小学生になる前だった。
    カレルから6種類のジャンプの跳びかたの基礎を学んだ。

  • 母は、強いスケーターになるにはジャンプ以外にも体の動きが<br />必要と考えた。バウンティンフルでロシア人夫妻の体操教室を<br />見つけ、ネイサンは、午前中は体操教室へバウンティンフルへ<br />乗せられてゆき、午後は、ソルトレイクシティのリンクで練習<br />をした。<br />ただ、週6回の練習は小学生になると通うことが難しく週一回<br />のレッスンにした。同時にソルトレイクシティの大手バレーカ<br />ンパニーでバレーのレッスンも受けた。<br />その頃は、学校の授業が終わるころ母が車で迎えに来てリンク<br />で2時間自由に滑った。曜日によってスケートの練習の後、バ<br />レー教室や体操教室へゆき、帰宅すると夕食をとり宿題をして<br />ピアノの練習をしてベッドに入る。その繰り返しだった。<br /><br />数年過ぎると、母はリンクのスタッフに相談してステップアッ<br />プのため若いロシア人のコーチ・ジャーニアのレッスンを受け<br />ることにした。この頃、家計は厳しくなっていて母は、ジャー<br />ニアのレッスンは週15分とした。<br />そんなことはネイサンは全く知らなかった。<br />ジャーニアは、最初のレッスンから練習時間には全くこだわる<br />ことなく、15分は30分に、それから1時間になり結局は週<br />6日レッスンをしてくれるようになった。それでも追加料金を<br />請求することはなかった。<br />この頃、地方の大会に出演する時には選手と家族がコーチの<br />飛行機代、宿泊費を出すのが普通だった。<br />ところが、ジャーニアは、飛行機代以外は一切請求しなかった。<br />2008年9歳のネイサンは、ニューヨーク州で12月開催さ<br />れる全米ジュニア選手権に出場する資格を得た。<br />しかし、ネイサンの家族にはネイサンの飛行機代も払えないこ<br />ことがジャーニアは分かっていた。そこで、ジャーニアは12月<br />に夫と開催地のある所へ旅行に行くから、一緒にリンクへ連れて<br />行ってやる。と母に申し出をした。母は、明らかに旅行は口実だ<br />と分かったが感謝をしてジュニア選手権に出場した。<br />

    母は、強いスケーターになるにはジャンプ以外にも体の動きが
    必要と考えた。バウンティンフルでロシア人夫妻の体操教室を
    見つけ、ネイサンは、午前中は体操教室へバウンティンフルへ
    乗せられてゆき、午後は、ソルトレイクシティのリンクで練習
    をした。
    ただ、週6回の練習は小学生になると通うことが難しく週一回
    のレッスンにした。同時にソルトレイクシティの大手バレーカ
    ンパニーでバレーのレッスンも受けた。
    その頃は、学校の授業が終わるころ母が車で迎えに来てリンク
    で2時間自由に滑った。曜日によってスケートの練習の後、バ
    レー教室や体操教室へゆき、帰宅すると夕食をとり宿題をして
    ピアノの練習をしてベッドに入る。その繰り返しだった。

    数年過ぎると、母はリンクのスタッフに相談してステップアッ
    プのため若いロシア人のコーチ・ジャーニアのレッスンを受け
    ることにした。この頃、家計は厳しくなっていて母は、ジャー
    ニアのレッスンは週15分とした。
    そんなことはネイサンは全く知らなかった。
    ジャーニアは、最初のレッスンから練習時間には全くこだわる
    ことなく、15分は30分に、それから1時間になり結局は週
    6日レッスンをしてくれるようになった。それでも追加料金を
    請求することはなかった。
    この頃、地方の大会に出演する時には選手と家族がコーチの
    飛行機代、宿泊費を出すのが普通だった。
    ところが、ジャーニアは、飛行機代以外は一切請求しなかった。
    2008年9歳のネイサンは、ニューヨーク州で12月開催さ
    れる全米ジュニア選手権に出場する資格を得た。
    しかし、ネイサンの家族にはネイサンの飛行機代も払えないこ
    ことがジャーニアは分かっていた。そこで、ジャーニアは12月
    に夫と開催地のある所へ旅行に行くから、一緒にリンクへ連れて
    行ってやる。と母に申し出をした。母は、明らかに旅行は口実だ
    と分かったが感謝をしてジュニア選手権に出場した。

  • この間、フィギュアスケートは、ネイサンを思わぬ世界へも<br />連れていってくれた。6歳の頃になると、ソルトレイクシティ<br />以外の場所でアイスショーに出演するようになった。<br />ラスベガスのクリスマスショーでは、サンタ役のカレルが<br />ネイサンを肩に乗せてリンクを回った。<br />ネイサンは、次第にショー出演の機会が増し、<br />観客の前で滑る楽しさを覚えていった。<br />2010年全米選手権ノービス大会の後には初めて<br />中国・杭州でのアイスショーに出演、後援者にも出会った。<br />その縁からプロスケーターとして最も長いキャリアでギネス<br />記録保持者と「雨に唄えば」をキャスト最年長75歳の彼と<br />最年少10歳のネイサンが共演した。<br /><br />やがて、全米選手権ノービス大会でタイトルを取ったことで、<br />多くの扉が開かれた。<br />ネイサンはひとつまた一つとレベルが上がってゆきジュニア<br />そして、とうとうシニアへとキャリアアップを重ねていった。<br />その頃になると、国際試合の出場選手はトリプルアクセルや<br />4回転を跳んでいた。ネイサンは、まだ試してみようとも思<br />わないジャンプだったが、彼等と戦うには、回転を増やして<br />いかなければならない。と母とネイサンは感じていた。<br />その頃には、ジャーニアと新しいコーチ、エイコップに指導<br />を受けていた。ある日、母はネイサンの技術が更にアップす<br />るにはと、エイコップに意見を求めた。<br />エイコップは、ジャンプを教えることにかけては自分よりず<br />っと優秀な人を知っている。と紹介してくれた。<br /><br />その人は、エイコップと同じアルメニア人で、後にラフと呼<br />でいたラファエル・アルトゥニアンだ。<br />彼はこれまで、オリンピックのメダリストを幾人も指導して<br />きた。その中には、バンクーバー五輪の銀メダリストの浅田<br />真央も含まれていた。当時、ラファエルはコーチを始めて<br />30年以上が経っていて、もっと完成した選手の指導に専念<br />していてネイサンのオファーは断られてしまった。<br />それでもエイコップが説得してくれようやく承諾してもらえた。<br /><br />ラファエルって、最近どこかで何度も出会いましたが、まさか<br />ここでまた、とは。笑 ジョークは置いといて<br />ネイサンは、レベルアップをしてゆく過程で、多くのコーチの<br />指導を受け、技術だけではなく様々なことを学び身につけてゆ<br />きました。<br />

    イチオシ

    この間、フィギュアスケートは、ネイサンを思わぬ世界へも
    連れていってくれた。6歳の頃になると、ソルトレイクシティ
    以外の場所でアイスショーに出演するようになった。
    ラスベガスのクリスマスショーでは、サンタ役のカレルが
    ネイサンを肩に乗せてリンクを回った。
    ネイサンは、次第にショー出演の機会が増し、
    観客の前で滑る楽しさを覚えていった。
    2010年全米選手権ノービス大会の後には初めて
    中国・杭州でのアイスショーに出演、後援者にも出会った。
    その縁からプロスケーターとして最も長いキャリアでギネス
    記録保持者と「雨に唄えば」をキャスト最年長75歳の彼と
    最年少10歳のネイサンが共演した。

    やがて、全米選手権ノービス大会でタイトルを取ったことで、
    多くの扉が開かれた。
    ネイサンはひとつまた一つとレベルが上がってゆきジュニア
    そして、とうとうシニアへとキャリアアップを重ねていった。
    その頃になると、国際試合の出場選手はトリプルアクセルや
    4回転を跳んでいた。ネイサンは、まだ試してみようとも思
    わないジャンプだったが、彼等と戦うには、回転を増やして
    いかなければならない。と母とネイサンは感じていた。
    その頃には、ジャーニアと新しいコーチ、エイコップに指導
    を受けていた。ある日、母はネイサンの技術が更にアップす
    るにはと、エイコップに意見を求めた。
    エイコップは、ジャンプを教えることにかけては自分よりず
    っと優秀な人を知っている。と紹介してくれた。

    その人は、エイコップと同じアルメニア人で、後にラフと呼
    でいたラファエル・アルトゥニアンだ。
    彼はこれまで、オリンピックのメダリストを幾人も指導して
    きた。その中には、バンクーバー五輪の銀メダリストの浅田
    真央も含まれていた。当時、ラファエルはコーチを始めて
    30年以上が経っていて、もっと完成した選手の指導に専念
    していてネイサンのオファーは断られてしまった。
    それでもエイコップが説得してくれようやく承諾してもらえた。

    ラファエルって、最近どこかで何度も出会いましたが、まさか
    ここでまた、とは。笑 ジョークは置いといて
    ネイサンは、レベルアップをしてゆく過程で、多くのコーチの
    指導を受け、技術だけではなく様々なことを学び身につけてゆ
    きました。

  • 初めてラフに出会った頃、ネイサンはトリプル・トリプルの<br />コンビネーションとトリプルループを安定して跳べるよう<br />必死だった。初めてジャンプを見たラフは、こう尋ねた。<br />〈目の前に巨大な煉瓦の壁があったとする。壁を叩き割ろう<br />とするのがいいか、まわり道を探すのがいいか?〉と<br />それまで、新しいエレメンツを覚えようとする時には、<br />数え切れない時間、何度も何度も跳ぶことで覚えてきた。<br />ラフは、〈子供の頃なら繰り返しの練習は筋肉に記憶させる<br />意味でも必要だが、トリプルアクセルから4回転へとレベル<br />アップする今、同じことを繰り返していたらたちまち身体を<br />痛めてしまう〉と。<br />ラフの指導方法は、ジャンプを分解しそれぞれのパーツを完璧<br />にしていった。ネイサンは、出会った中で最高のジャンプ技術<br />の指導者だと感じてた。<br /><br /><br />それから月に1度、母の運転するプリウスでソルトレイクシティ<br />からカリフォルニアのレイクアローヘッドまで10時間かけて<br />レッスンに通った。プリウスの走行距離は20万kmタフに動い<br />てくれた。<br />金曜日家族と夕食を共にしその後出発。ラフの元で帰る間際まで<br />リンクに立ち、日曜日の夜遅く帰宅した。<br />母は、レイクアローヘッドから山を降りたところに安いHotelを<br />見つけてくれ、レッスンの前後に1,2時間休息をした。<br />レッスンを終えて帰る途中、ユタ州南部のガソリンスタンドで車<br />を止めて2,3時間眠り翌朝また走り続けた。<br />母の運転を見ながらネイサンは学校の勉強をしたり眠ったりした。<br />母は、交通量が少ないから夜に運転するのは好きだと言って決し<br />て音をあげなかった。<br />

    初めてラフに出会った頃、ネイサンはトリプル・トリプルの
    コンビネーションとトリプルループを安定して跳べるよう
    必死だった。初めてジャンプを見たラフは、こう尋ねた。
    〈目の前に巨大な煉瓦の壁があったとする。壁を叩き割ろう
    とするのがいいか、まわり道を探すのがいいか?〉と
    それまで、新しいエレメンツを覚えようとする時には、
    数え切れない時間、何度も何度も跳ぶことで覚えてきた。
    ラフは、〈子供の頃なら繰り返しの練習は筋肉に記憶させる
    意味でも必要だが、トリプルアクセルから4回転へとレベル
    アップする今、同じことを繰り返していたらたちまち身体を
    痛めてしまう〉と。
    ラフの指導方法は、ジャンプを分解しそれぞれのパーツを完璧
    にしていった。ネイサンは、出会った中で最高のジャンプ技術
    の指導者だと感じてた。


    それから月に1度、母の運転するプリウスでソルトレイクシティ
    からカリフォルニアのレイクアローヘッドまで10時間かけて
    レッスンに通った。プリウスの走行距離は20万kmタフに動い
    てくれた。
    金曜日家族と夕食を共にしその後出発。ラフの元で帰る間際まで
    リンクに立ち、日曜日の夜遅く帰宅した。
    母は、レイクアローヘッドから山を降りたところに安いHotelを
    見つけてくれ、レッスンの前後に1,2時間休息をした。
    レッスンを終えて帰る途中、ユタ州南部のガソリンスタンドで車
    を止めて2,3時間眠り翌朝また走り続けた。
    母の運転を見ながらネイサンは学校の勉強をしたり眠ったりした。
    母は、交通量が少ないから夜に運転するのは好きだと言って決し
    て音をあげなかった。

  • 1年後、もっと近くの街へ母に引越したいと訴えたところ、<br />直ぐ上の姉コリンが大学に入学して家を離れるまではダメと<br />考えていた母だったがネイサンの<br />「ラフとのレッスン時間を増やしたい」<br />との願いを聞いてくれた。<br />家に残る父とコリンそして、コーチのジャーニャと離れる<br />のは辛かったが、ラフの元で、世界チャンピオンや<br />オリンピッククラスのスケーターとの練習の味を知った<br />ネイサンは、月1、2回の練習では物足りない。<br />もっとラフの元で練習をしたいとの思いが強くなっていた。<br /><br />引っ越して学校も見つけなければならなかった。先の能力開発<br />プログラムの登録に助けられた。基本の授業が中学校で、数学<br />は、高校で受けることができた。そのうえ、選択した科目は全<br />て自主学習でもよいと受け入れてくれた。<br /> <br />やがてネイサンは、自分の持つ全てのエネルギーと時間をかけ<br />て何ヶ月もトリプルアクセルを練習するもなかなか安定しない。<br />ましてや4回転なんて跳べそうにない。この厳しい練習が報われ<br />れる日が来るのだろうか。と考えるようになった。<br />友だちとの普通の学生生活が懐かしくなり、<br />母に「もうスケートをやめて高校に通った方が」と言ったところ、<br />母は、「止めたらソルトレイクシティに戻ることになる。」と、<br />試合に出場していることで、連盟からの資金援助を受けレッスンや<br />滑走料金の足しになっていたし、それが国際試合になると<br />順位によっては、賞金が出てトレーニング代が助かっていた。<br />止めたら家賃も払い続けることが不可能となり、<br />カリフォルニアに居られなくなる。と<br />ネイサンは、カリフォルニアの暮らしが好きだったので、<br />ここで止めるのは得策ではないと気がついた。<br />

    1年後、もっと近くの街へ母に引越したいと訴えたところ、
    直ぐ上の姉コリンが大学に入学して家を離れるまではダメと
    考えていた母だったがネイサンの
    「ラフとのレッスン時間を増やしたい」
    との願いを聞いてくれた。
    家に残る父とコリンそして、コーチのジャーニャと離れる
    のは辛かったが、ラフの元で、世界チャンピオンや
    オリンピッククラスのスケーターとの練習の味を知った
    ネイサンは、月1、2回の練習では物足りない。
    もっとラフの元で練習をしたいとの思いが強くなっていた。

    引っ越して学校も見つけなければならなかった。先の能力開発
    プログラムの登録に助けられた。基本の授業が中学校で、数学
    は、高校で受けることができた。そのうえ、選択した科目は全
    て自主学習でもよいと受け入れてくれた。
     
    やがてネイサンは、自分の持つ全てのエネルギーと時間をかけ
    て何ヶ月もトリプルアクセルを練習するもなかなか安定しない。
    ましてや4回転なんて跳べそうにない。この厳しい練習が報われ
    れる日が来るのだろうか。と考えるようになった。
    友だちとの普通の学生生活が懐かしくなり、
    母に「もうスケートをやめて高校に通った方が」と言ったところ、
    母は、「止めたらソルトレイクシティに戻ることになる。」と、
    試合に出場していることで、連盟からの資金援助を受けレッスンや
    滑走料金の足しになっていたし、それが国際試合になると
    順位によっては、賞金が出てトレーニング代が助かっていた。
    止めたら家賃も払い続けることが不可能となり、
    カリフォルニアに居られなくなる。と
    ネイサンは、カリフォルニアの暮らしが好きだったので、
    ここで止めるのは得策ではないと気がついた。

  • 時は流れ<br />2016年1月の全米選手権は、ミネソタ州のセントポールで<br />開催された。この試合で彼は、史上初めて1試合(ショート、<br />フリー合わせて)で6本の4回転を跳んでアメリカの代表選手<br />となった。このニュースが、日本にも伝わり〈あの街から〉も<br />改めて、ネイサンの存在を知った。<br /><br />試合後、エキシビジョンに出場した。<br />エキシビジョンは、試合とは違いルールや採点を気にせずに<br />滑れるので、リラックスして演技をすることができる。<br />観衆が期待しているのは4回転なので、ネイサンは<br />4回転を滑った。<br />会場から「4回転!」と声援が聞こえ「わかった、行くぞ」と<br />トーループを跳ぼうとしたのは覚えている。<br />左足をついた途端、関節が外れたように思えた。<br />どうにか着水したがもう続けるのは無理だと判断し出口へ向かった。<br /><br />現地のMRI検査で、太ももの筋肉が股関節とで肉離れを起こし<br />骨の一部も剥がれたのだ。<br />アメリカオリンピック委員会(USOC)の医療チームの<br />助けを受けサンディエゴへ行く。<br />サンディエゴ・メディカルセンターのC.R医師は<br />悪化の可能性はゼロに近くトレーニングを続けてよい。<br />と診察。<br />信じることができなかったが、選択肢が無かったのでトレーニン<br />グを続けていたが、ますます痛みが酷くなり手術することを選んだ。<br /><br />数ヶ月か後、USOC医療チームはカリフォルニアでの<br />理学治療の手はずを整えてくれた。<br />カリフォルニアで入院中は、ネイサンは学校のことしか心配する<br />ことがなく高校生活を楽しんでだ。<br />けれどそれと同時に延々と続くかのように感じていた。<br />長く苦しい理学療法が続いていた。<br />股関節や脚などを酷使するフィギュアのアスリートは<br />ケガをすることが多く、日本の選手でも、高橋大輔、羽生結弦<br />鍵山優真みんなケガに泣かされていますね。<br /><br />数ヶ月後、ラフとのレッスンを再開した。ラフは、ネイサンが<br />全米選手権のエキシビジョンで4回転を跳んだことに腹を立て<br />ていた。<br />あんなリスクを冒す必要がないのに賢明ではなかった。と。<br />ラフは、18年のピョンチャン五輪にピークを迎えるのがベスト<br />と考えていた。そして、できることをいつも他の選手に見せるの<br />は得策ではない。手の内を明かして他の選手に同様のエレメンツ<br />の練習する機会を与えたくなかった。<br />しかし、ネイサンは2種の新しいジャンプをできるだけ多くの<br />機に跳びそれが自信につながると感じていた。<br />ネイサンは、次のステップを目指してジャンプを増やす新しい<br />構成を考えていたが不安も感じていた。そのことをラフに打ち<br />明けられなかった。するとラフとの間に緊張感が生まれた。<br />自信が揺らぎ、ラフから離れはじめた。<br />

    時は流れ
    2016年1月の全米選手権は、ミネソタ州のセントポールで
    開催された。この試合で彼は、史上初めて1試合(ショート、
    フリー合わせて)で6本の4回転を跳んでアメリカの代表選手
    となった。このニュースが、日本にも伝わり〈あの街から〉も
    改めて、ネイサンの存在を知った。

    試合後、エキシビジョンに出場した。
    エキシビジョンは、試合とは違いルールや採点を気にせずに
    滑れるので、リラックスして演技をすることができる。
    観衆が期待しているのは4回転なので、ネイサンは
    4回転を滑った。
    会場から「4回転!」と声援が聞こえ「わかった、行くぞ」と
    トーループを跳ぼうとしたのは覚えている。
    左足をついた途端、関節が外れたように思えた。
    どうにか着水したがもう続けるのは無理だと判断し出口へ向かった。

    現地のMRI検査で、太ももの筋肉が股関節とで肉離れを起こし
    骨の一部も剥がれたのだ。
    アメリカオリンピック委員会(USOC)の医療チームの
    助けを受けサンディエゴへ行く。
    サンディエゴ・メディカルセンターのC.R医師は
    悪化の可能性はゼロに近くトレーニングを続けてよい。
    と診察。
    信じることができなかったが、選択肢が無かったのでトレーニン
    グを続けていたが、ますます痛みが酷くなり手術することを選んだ。

    数ヶ月か後、USOC医療チームはカリフォルニアでの
    理学治療の手はずを整えてくれた。
    カリフォルニアで入院中は、ネイサンは学校のことしか心配する
    ことがなく高校生活を楽しんでだ。
    けれどそれと同時に延々と続くかのように感じていた。
    長く苦しい理学療法が続いていた。
    股関節や脚などを酷使するフィギュアのアスリートは
    ケガをすることが多く、日本の選手でも、高橋大輔、羽生結弦
    鍵山優真みんなケガに泣かされていますね。

    数ヶ月後、ラフとのレッスンを再開した。ラフは、ネイサンが
    全米選手権のエキシビジョンで4回転を跳んだことに腹を立て
    ていた。
    あんなリスクを冒す必要がないのに賢明ではなかった。と。
    ラフは、18年のピョンチャン五輪にピークを迎えるのがベスト
    と考えていた。そして、できることをいつも他の選手に見せるの
    は得策ではない。手の内を明かして他の選手に同様のエレメンツ
    の練習する機会を与えたくなかった。
    しかし、ネイサンは2種の新しいジャンプをできるだけ多くの
    機に跳びそれが自信につながると感じていた。
    ネイサンは、次のステップを目指してジャンプを増やす新しい
    構成を考えていたが不安も感じていた。そのことをラフに打ち
    明けられなかった。するとラフとの間に緊張感が生まれた。
    自信が揺らぎ、ラフから離れはじめた。

  • 5月コロラドスプリングスでリハビリをしていたが、芸術面を<br />向上しなければと、新しい振付師を探した。<br />マリナ・ズエワは、おもにアイスダンスの選手を指導してきた。<br />指導を受けた選手には、オリンピック金メダリスト2組、銅メダ<br />リスト1組がいた。ネイサンは、彼女にショートプログラムの<br />振付を願うと応じてくれ、ミシガン州カントンを訪れ指導を受けた。<br />夏になると数日間マリナのコーチングチームとレッスンを受た。<br />9月にカントンを訪れた時には、当時世界グランプリで3度<br />チャンピオに輝いていたパトリック・チャンがカナダから移住し、<br />マリナの指導を受けていた。最初パトリックの隣で練習するのは<br />少し怖かったけれど、パトリックは温かく接してくれ時に彼の愛<br />車のスポーツカーで食事に連れていってくれたり友だちのように<br />接してくれ兄のような存在になった。<br />秋、マリナをコーチとして、グランプリシリーズ・フランス杯で<br />ラフと出会った。マリナに促され挨拶に行ったところ、ラフは気<br />にしていない風でホッとした。後で考えると、コミュニケーショ<br />ン不足だった。次のNHK杯に向け、再びラフに力を貸して欲し<br />いと頼み込んだところ温かく迎え入れてくれた。<br />マリナの指導を受けた後、ラフと練習を再開した。<br /><br /><br />2016年、17年、18年は、<br />ネイサンのキャリアにとって忘れられないシーズンとなった。<br />2017年のシーズン、子供の時から夢に描いていた<br />オリンピックの代表権を賭け、<br />日本グラングプリで羽生結弦と初めて同じリンクで戦い<br />ジャンプで苦戦したが高難度構成で結弦に次いで2位となった。<br />

    イチオシ

    5月コロラドスプリングスでリハビリをしていたが、芸術面を
    向上しなければと、新しい振付師を探した。
    マリナ・ズエワは、おもにアイスダンスの選手を指導してきた。
    指導を受けた選手には、オリンピック金メダリスト2組、銅メダ
    リスト1組がいた。ネイサンは、彼女にショートプログラムの
    振付を願うと応じてくれ、ミシガン州カントンを訪れ指導を受けた。
    夏になると数日間マリナのコーチングチームとレッスンを受た。
    9月にカントンを訪れた時には、当時世界グランプリで3度
    チャンピオに輝いていたパトリック・チャンがカナダから移住し、
    マリナの指導を受けていた。最初パトリックの隣で練習するのは
    少し怖かったけれど、パトリックは温かく接してくれ時に彼の愛
    車のスポーツカーで食事に連れていってくれたり友だちのように
    接してくれ兄のような存在になった。
    秋、マリナをコーチとして、グランプリシリーズ・フランス杯で
    ラフと出会った。マリナに促され挨拶に行ったところ、ラフは気
    にしていない風でホッとした。後で考えると、コミュニケーショ
    ン不足だった。次のNHK杯に向け、再びラフに力を貸して欲し
    いと頼み込んだところ温かく迎え入れてくれた。
    マリナの指導を受けた後、ラフと練習を再開した。


    2016年、17年、18年は、
    ネイサンのキャリアにとって忘れられないシーズンとなった。
    2017年のシーズン、子供の時から夢に描いていた
    オリンピックの代表権を賭け、
    日本グラングプリで羽生結弦と初めて同じリンクで戦い
    ジャンプで苦戦したが高難度構成で結弦に次いで2位となった。

  • 2017年シーズン股関節周辺に鋭い痛みを感じるようになり<br />USOCの医療チームに相談しMRI検査で、予想通りジャンプに<br />より関節唇(大腿骨を支えて安定させるゴムパッキンのような<br />働きをする)の損傷だった。USOCチームからコロラド州の<br />股関節専門のフィリポン医師を紹介された。手術をすればケガ<br />の大元を矯正し痛みも取り除くことは分かっていたが、回復まで<br />の期間を考えるとオリンピックまであと8ヶ月しか残されていな<br />いこの時期再手術は気が進まなかった。医師は、手術のほかに<br />もう一つの提案があった。それは、多血症板血漿(PRP)の投与<br />だった。再生医療の一種で、自分の血液から抽出した血小板を含<br />む血漿を使って、筋肉や腱、靭帯や関節の修復をうながす方法だ<br />という。この治療によって痛みが軽減されれば、抗炎症薬の量を<br />減らしステロイドも使わずにすむということだ。<br />フィリポン医師は2017年7月から始まり2018年2月のオ<br />リンピックまでのシーズンをこのPRP療法で乗り切れると確固た<br />る自信を持っていた。<br />ただこれには、一つのネックがあった。<br />それは、ベイルの病院に行き1日かけて採血し<br />成分の抽出、精製投与をして、<br />普通に歩けるまで更にひと晩かかり、<br />帰宅後も、1週間安静に過ごしてからでないと、<br />オリンピックを控えた本格的に追い込んだ練習には<br />戻れない。しかし、ネイサンはこれがベストな選択とした。<br /><br />PRPを投与しながら練習を続けた。 新しいブライトンコーチの<br />指導方を取り入れた。ネイサンにとっては初めての数式を使うのだ。<br />たとえば一度の水上練習で、自分がどれだけ力を出したか<br />1から10段階で評価し、その数字と練習時間を掛ける。<br />それがジャンプ力のエネルギー値の指標となり体が感じる負担量を表す。<br />主観的な数値ゆえどれだけ信頼できるのかチームでも未知数だった。<br />体からの声と練習量とのバランスを学び取るまで苦い経験もあった。<br />いよいよピョンチャン五輪のシーズンになると、前シーズンの好成績から<br />オリンピックでの金メダル候補として名前があがるようになってきた。<br />その間、<br />数社の大手企業とのスポンサーと契約したり、著名なデザイナーに<br />衣装を委託したり、数え切れない程のインタビューを受けたり、<br />本心ではこの時間も練習をしていたかった。<br /><br />ソルトレイクシティあのリンクでスケートを始めてから<br />ずっと夢に見ていたオリンピック。<br />この目標に向かって何年も必死に努力をしてきたのだが、<br />しかし、代表選手になれた喜びより、<br />それが重圧に変わり賞賛の声を裏切ってしまったらどうしよう。<br />と楽しみな気持ちが恐怖に変わりはじめていた。<br />

    2017年シーズン股関節周辺に鋭い痛みを感じるようになり
    USOCの医療チームに相談しMRI検査で、予想通りジャンプに
    より関節唇(大腿骨を支えて安定させるゴムパッキンのような
    働きをする)の損傷だった。USOCチームからコロラド州の
    股関節専門のフィリポン医師を紹介された。手術をすればケガ
    の大元を矯正し痛みも取り除くことは分かっていたが、回復まで
    の期間を考えるとオリンピックまであと8ヶ月しか残されていな
    いこの時期再手術は気が進まなかった。医師は、手術のほかに
    もう一つの提案があった。それは、多血症板血漿(PRP)の投与
    だった。再生医療の一種で、自分の血液から抽出した血小板を含
    む血漿を使って、筋肉や腱、靭帯や関節の修復をうながす方法だ
    という。この治療によって痛みが軽減されれば、抗炎症薬の量を
    減らしステロイドも使わずにすむということだ。
    フィリポン医師は2017年7月から始まり2018年2月のオ
    リンピックまでのシーズンをこのPRP療法で乗り切れると確固た
    る自信を持っていた。
    ただこれには、一つのネックがあった。
    それは、ベイルの病院に行き1日かけて採血し
    成分の抽出、精製投与をして、
    普通に歩けるまで更にひと晩かかり、
    帰宅後も、1週間安静に過ごしてからでないと、
    オリンピックを控えた本格的に追い込んだ練習には
    戻れない。しかし、ネイサンはこれがベストな選択とした。

    PRPを投与しながら練習を続けた。 新しいブライトンコーチの
    指導方を取り入れた。ネイサンにとっては初めての数式を使うのだ。
    たとえば一度の水上練習で、自分がどれだけ力を出したか
    1から10段階で評価し、その数字と練習時間を掛ける。
    それがジャンプ力のエネルギー値の指標となり体が感じる負担量を表す。
    主観的な数値ゆえどれだけ信頼できるのかチームでも未知数だった。
    体からの声と練習量とのバランスを学び取るまで苦い経験もあった。
    いよいよピョンチャン五輪のシーズンになると、前シーズンの好成績から
    オリンピックでの金メダル候補として名前があがるようになってきた。
    その間、
    数社の大手企業とのスポンサーと契約したり、著名なデザイナーに
    衣装を委託したり、数え切れない程のインタビューを受けたり、
    本心ではこの時間も練習をしていたかった。

    ソルトレイクシティあのリンクでスケートを始めてから
    ずっと夢に見ていたオリンピック。
    この目標に向かって何年も必死に努力をしてきたのだが、
    しかし、代表選手になれた喜びより、
    それが重圧に変わり賞賛の声を裏切ってしまったらどうしよう。
    と楽しみな気持ちが恐怖に変わりはじめていた。

  • ロサンゼルスからソウル経由で平昌に入った。<br />リンクに立てばアドレナリンが出て不安は消えるだろうと思いたかった。<br />しかし、団体戦3本全てのジャンプをミスしてしまい<br />〈今直ぐリンクから出てゆきたい〉と。<br />そして迎えた個人ショート。リンクに立ったとたん<br />団体ショートと同じ感情に襲われた。<br />最初のジャンプは、<br />ラフのアドバイスに反してフリップではなくルッツから入った。<br />転倒した時、残りのジャンプで挽回できる複雑な組み合わせを<br />滑りながら必死に考えた。しかし、心の準備が整わす残りの<br />ジャンプ全てで失敗してしまった。<br />結果、何年も取ったことのない低い点数が出た。<br /><br />選手村のベッドに戻って横になった。<br />どちらから連絡したのか覚えていないが、<br />気がついたらアリーナの外を歩く母と話した。<br />母は、「ネイサン、ひとつお願いがあるの」「なに?」<br />「明日のフリーはノーミスで滑って。あなたならできる」<br />そうしたかったが、とても約束できる心境になかった。<br />それから18時間、食事も摂らず毛布に包まって寝ていた。<br /><br />うとうとはしたが熟睡できなかった。<br />タイレノール〈睡眠導入剤〉を持参していたが<br />翌朝早い時間にフリーの公式練習が予定されて<br />いたので、ぼんやりしてリンクに立てない。<br />このまま眠れなかったらどうしよう<br />とうとう、家族に電話した。<br />みんなで話し合ってくれた。<br />一錠だけ飲めば眠れるし、翌朝早い時間でも起きられるだろう。<br />と結論を出してくれた。<br />その夜は、韓国に来て初めてよく眠れた。<br /><br />翌日のフリーでは、<br />ラフと話し合って4回転を6本で行く!と決めていた。<br />失うものは何もない。<br />試合前の練習時間中、結弦も練習にやって来てた。<br />ショートを終えた時点で結弦はもちろん1位だ。<br />会話は交わすことはなかった。<br />結弦も、これまで2回しかない、オリンピックチャンピオン2連覇<br />がかかっていて大きなプレッシャーがかかっていたが、その姿から<br />不安も畏れも感じられなかった。<br /><br />自分の勝手な印象かもしれないが、冷静に受け止めていた。<br />そしてこの場で戦えることへの感謝に満ちていた。<br />その時ふと、<br />この大会の間一度もこんな気持ちになったことはないなぁ。と<br />思ったことを覚えている。<br />そして迎えたフリープログラム。6本の4回転ジャンプで一度も<br />転ばずフリープログラムで1位となった。<br />しかし、ショートでの出遅れでメダルは実質ないも同然だった。<br />それでも心の中で、〈試合では何が起こるかわからない。もし<br />も上位7人の選手全員が、ほとんどのジャンプを失敗したら。<br />と可能性の殆どないことを考えていた。ネイサンは、残りの<br />選手がリンクにあがるのをじっと見つめていた。けれど最終<br />グループの演技がはじまると、一人滑走が終わる都度順位は<br />下へ下へと下がっていった。<br />けれど、ネイサンは、ノーミスでフリーを滑り終えるたことを <br />誇りに感じ、全ての出場選手とオリンピックの瞬間を経験でき<br />たことに感謝をした。<br />

    ロサンゼルスからソウル経由で平昌に入った。
    リンクに立てばアドレナリンが出て不安は消えるだろうと思いたかった。
    しかし、団体戦3本全てのジャンプをミスしてしまい
    〈今直ぐリンクから出てゆきたい〉と。
    そして迎えた個人ショート。リンクに立ったとたん
    団体ショートと同じ感情に襲われた。
    最初のジャンプは、
    ラフのアドバイスに反してフリップではなくルッツから入った。
    転倒した時、残りのジャンプで挽回できる複雑な組み合わせを
    滑りながら必死に考えた。しかし、心の準備が整わす残りの
    ジャンプ全てで失敗してしまった。
    結果、何年も取ったことのない低い点数が出た。

    選手村のベッドに戻って横になった。
    どちらから連絡したのか覚えていないが、
    気がついたらアリーナの外を歩く母と話した。
    母は、「ネイサン、ひとつお願いがあるの」「なに?」
    「明日のフリーはノーミスで滑って。あなたならできる」
    そうしたかったが、とても約束できる心境になかった。
    それから18時間、食事も摂らず毛布に包まって寝ていた。

    うとうとはしたが熟睡できなかった。
    タイレノール〈睡眠導入剤〉を持参していたが
    翌朝早い時間にフリーの公式練習が予定されて
    いたので、ぼんやりしてリンクに立てない。
    このまま眠れなかったらどうしよう
    とうとう、家族に電話した。
    みんなで話し合ってくれた。
    一錠だけ飲めば眠れるし、翌朝早い時間でも起きられるだろう。
    と結論を出してくれた。
    その夜は、韓国に来て初めてよく眠れた。

    翌日のフリーでは、
    ラフと話し合って4回転を6本で行く!と決めていた。
    失うものは何もない。
    試合前の練習時間中、結弦も練習にやって来てた。
    ショートを終えた時点で結弦はもちろん1位だ。
    会話は交わすことはなかった。
    結弦も、これまで2回しかない、オリンピックチャンピオン2連覇
    がかかっていて大きなプレッシャーがかかっていたが、その姿から
    不安も畏れも感じられなかった。

    自分の勝手な印象かもしれないが、冷静に受け止めていた。
    そしてこの場で戦えることへの感謝に満ちていた。
    その時ふと、
    この大会の間一度もこんな気持ちになったことはないなぁ。と
    思ったことを覚えている。
    そして迎えたフリープログラム。6本の4回転ジャンプで一度も
    転ばずフリープログラムで1位となった。
    しかし、ショートでの出遅れでメダルは実質ないも同然だった。
    それでも心の中で、〈試合では何が起こるかわからない。もし
    も上位7人の選手全員が、ほとんどのジャンプを失敗したら。
    と可能性の殆どないことを考えていた。ネイサンは、残りの
    選手がリンクにあがるのをじっと見つめていた。けれど最終
    グループの演技がはじまると、一人滑走が終わる都度順位は
    下へ下へと下がっていった。
    けれど、ネイサンは、ノーミスでフリーを滑り終えるたことを 
    誇りに感じ、全ての出場選手とオリンピックの瞬間を経験でき
    たことに感謝をした。

  • 次のミラノ選手権で練習用のリンクに立った時には、<br />体と気持ちが全てポジティブに切り替わっていた。<br />ミラノの次は、日本でアイスショーに参加。<br />体調も徐々に回復してきていた。<br />訪日中、ネイサンにうれしい知らせが届いた。<br />このところ、全米選手権とオリンピックに集中していて <br />頭から抜けていた願書を提出していた<br />イェール大学から合格通知が届いた。<br />母に知らせると、母は喜ぶと同時に、<br />勉強とスケートをどう両立させていくのか<br />気がかりなようだった。<br />しかし<br />厳しい道とはわかっていたが<br />ネイサンは<br />北京オリンピックの金メダルへ向けて歩き出すことに<br />迷いはなかった。<br /><br />こうして歩み出した『北京オリンピックへの道』<br />ネイサンは、相変わらず股関節周辺のケガを抱え、<br />アメリカ・オリンピック委員会(USOC)医療チームの<br />サポートとフィリポン医師、理学療法士ローレンなど大会<br />直前までサポートが必要だった。<br />〈大学生活〉<br />大学生活をフルタイムでカリキュラムをこなしながらスケート<br />を続けるため午前中は授業を受け、その後大学のリンクで滑り<br />この他にも1日3時間の氷上練習の確保するため、車で30分<br />移動し民間のリンクで練習した。<br />その間にも大学のリンクに空きがでたら連絡をもらって<br />滑る時間を確保するようにした。<br /><br />そんな中、大学では、最終的に父と同じ医学の道を選択。<br />次々に出される課題の提出と試験に追われ大学での授業は<br />想像以上に厳しいものだった。<br /><br />日ごと練習強度を変えるインターバル的方法とかを取り入れ、<br />スケートと学業のバランスをどのようにすれば良いかを試行錯誤<br />していく中でネイサンは、少しずつ母離れをしていった。<br />

    次のミラノ選手権で練習用のリンクに立った時には、
    体と気持ちが全てポジティブに切り替わっていた。
    ミラノの次は、日本でアイスショーに参加。
    体調も徐々に回復してきていた。
    訪日中、ネイサンにうれしい知らせが届いた。
    このところ、全米選手権とオリンピックに集中していて 
    頭から抜けていた願書を提出していた
    イェール大学から合格通知が届いた。
    母に知らせると、母は喜ぶと同時に、
    勉強とスケートをどう両立させていくのか
    気がかりなようだった。
    しかし
    厳しい道とはわかっていたが
    ネイサンは
    北京オリンピックの金メダルへ向けて歩き出すことに
    迷いはなかった。

    こうして歩み出した『北京オリンピックへの道』
    ネイサンは、相変わらず股関節周辺のケガを抱え、
    アメリカ・オリンピック委員会(USOC)医療チームの
    サポートとフィリポン医師、理学療法士ローレンなど大会
    直前までサポートが必要だった。
    〈大学生活〉
    大学生活をフルタイムでカリキュラムをこなしながらスケート
    を続けるため午前中は授業を受け、その後大学のリンクで滑り
    この他にも1日3時間の氷上練習の確保するため、車で30分
    移動し民間のリンクで練習した。
    その間にも大学のリンクに空きがでたら連絡をもらって
    滑る時間を確保するようにした。

    そんな中、大学では、最終的に父と同じ医学の道を選択。
    次々に出される課題の提出と試験に追われ大学での授業は
    想像以上に厳しいものだった。

    日ごと練習強度を変えるインターバル的方法とかを取り入れ、
    スケートと学業のバランスをどのようにすれば良いかを試行錯誤
    していく中でネイサンは、少しずつ母離れをしていった。

  • 〈パンデミック〉<br />コロナ禍、これまで誰も経験した事のない状況は、世界選手権 <br />大会が中止になったり、リンクが閉鎖されたりスケート界も同<br />じだった。そんな中、ひとつだけ、ネイサンに幸運なことがあ<br />つた。練習のため、大学を1年間か2年間休学せねばと考えて<br />いたところに、大学から全学生へ一斉メールで全学部一斉休校<br />の通知を受けた。<br />このことで、ネイサンは練習時間を確保することができた。<br />〈新しい振付師〉<br />新曲「ロケットマン」「ラ・ボエーム」に取り組み完成させた。<br />〈メンタル・トレーナーの教え〉<br />それまで、スケート関係協会主催で年に何度かメンタルについて<br />の講習会などを受講していたが、自分には必要がないことと思い<br />もし、必要となった時には、独学で出来ると思っていた。<br /><br />オリンピックのような、激しく感情を揺さぶられるイベントを<br />1人で切り抜けるのは間違いだった。と気がついた。<br />自らメンタルトレーナーを探し、<br />ドクター・エリック・ポタラットに依頼した。<br />エリックは、アメリカ海軍で20年間服務、<br />特殊部隊の主任精神科医を務め、退役後、メジャーのドジャースで、<br />メンタル面と担当部門の部長でもあった。<br /><br />カウンセリングをして1年間は全て電話かズームでの<br />セッションだった。最初のセッションは僅か20分ほどだったが<br />エリックは「保証しますよ。オリンピックが迫ってくるころに<br />は、必要な時にいい演技ができると確信できるようになります」<br />と、この言葉を聞いて任せようと確信した。<br />北京五輪シーズン突入する直前の夏、何度かセッションを<br />した。そして夏の間中、ネイサンは、エリックに習った3つの<br />スキルを練習していた。<br />ポジティブな言葉で自分に語りかける。<br />場面ごと適切な心構えを持つ。<br />そして、ポジティブなことのみを頭に思い浮かべる<br />ビジュアライゼーション。<br />を<br />

    〈パンデミック〉
    コロナ禍、これまで誰も経験した事のない状況は、世界選手権 
    大会が中止になったり、リンクが閉鎖されたりスケート界も同
    じだった。そんな中、ひとつだけ、ネイサンに幸運なことがあ
    つた。練習のため、大学を1年間か2年間休学せねばと考えて
    いたところに、大学から全学生へ一斉メールで全学部一斉休校
    の通知を受けた。
    このことで、ネイサンは練習時間を確保することができた。
    〈新しい振付師〉
    新曲「ロケットマン」「ラ・ボエーム」に取り組み完成させた。
    〈メンタル・トレーナーの教え〉
    それまで、スケート関係協会主催で年に何度かメンタルについて
    の講習会などを受講していたが、自分には必要がないことと思い
    もし、必要となった時には、独学で出来ると思っていた。

    オリンピックのような、激しく感情を揺さぶられるイベントを
    1人で切り抜けるのは間違いだった。と気がついた。
    自らメンタルトレーナーを探し、
    ドクター・エリック・ポタラットに依頼した。
    エリックは、アメリカ海軍で20年間服務、
    特殊部隊の主任精神科医を務め、退役後、メジャーのドジャースで、
    メンタル面と担当部門の部長でもあった。

    カウンセリングをして1年間は全て電話かズームでの
    セッションだった。最初のセッションは僅か20分ほどだったが
    エリックは「保証しますよ。オリンピックが迫ってくるころに
    は、必要な時にいい演技ができると確信できるようになります」
    と、この言葉を聞いて任せようと確信した。
    北京五輪シーズン突入する直前の夏、何度かセッションを
    した。そして夏の間中、ネイサンは、エリックに習った3つの
    スキルを練習していた。
    ポジティブな言葉で自分に語りかける。
    場面ごと適切な心構えを持つ。
    そして、ポジティブなことのみを頭に思い浮かべる
    ビジュアライゼーション。

  • そして臨んだ『北京オリンピック』<br />パンデミックで、リンクでは大きなクラスターが発生し多くの<br />選手が感染していた。オリンピックが近づくにつれ、陽性反応<br />が出て五輪に出場できなくなる事態が恐怖だった。直前の全米<br />選手権大会では、ずっとN95マスクの上から医療用マスクを<br />二重につけていた。会場から帰宅すると玄関に持ち物を置いて<br />着ているものは、全て洗濯した。<br />その後、エリックに不安への対処法を尋ねたところ、エリック<br />は、可能な限り感染対策をし続け、それでも感染するかどうか<br />は、自分では左右できないから、そのことでクヨクヨしてエネ<br />ルギーを使っても仕方のないこと。と<br /><br />北京入りの1週間前にロサンゼルス集合。<br />多くのセレモニーの間も感染が心配だった。<br />マスクに多少カッコ悪いがフェイスシールドをつけ、<br />北京入りをした。<br />不安が忍びよる度にエリックにメールを送った。<br />すると<br />跳びあがる時の氷の音や回転する時口に流れる空気の感触、<br />回転する時肌に衣装がまとわりつくまで思い起こす感触を<br />重視したビジュアライゼーションを1日数分の時間を見つけ<br />て日に何度かやりなさい。と<br />それでも、試合の前夜うまく寝付けなかった。<br />ネイサンは試したアプリを使ってエクササイズや呼吸法<br />を試み効果を感じた。<br /><br />選手村に到着して参加国の国旗がはためく広場を歩くと、<br />前回大会では、プレッシャーばかりで余裕がなかったが、<br />今回はワクワクした気持ちが湧き上がってきた。<br />会場はコロナ対策で、無観客で家族を呼ぶこともできなかった。<br /><br />団体で滑った後、個人ショートへ<br />最後のジャンプ4回転ルッツー3回転トゥループが着水した時<br />うれさがこみ上げてきた。<br />しかし、今シーズンの全米選手権でも同様な場面があり<br />喜んでいたら、コレオシークエンスで転んでしまった。<br />「よし! ここは気を引き締めてステップを踏もう」と<br />自分に言い聞かせ最後のスピンを終え成功した。<br />いよいよフリーだ。<br />滑走順番を待つカーテンで仕切られた小さくて恐ろしい待機場所。<br />不安が頭をもたげたが、これまでエリックと何度もやり取りした<br />ビジュアライゼーションで集中した。<br />ジャンプを成功さて滑走を終えキッスアンドクライに座って得点が出<br />ついにオリンピックチャンピオンを手にした。<br /><br />表彰式でメダルを首にかけてもらった時、母のことを思った。<br />ラフは大勢の人たちに紛れて、踊ったり、おどけた仕草をしたり<br />すごくうれしそうだ。<br />ラフやったね! 一緒に成し遂げたよ。<br />

    そして臨んだ『北京オリンピック』
    パンデミックで、リンクでは大きなクラスターが発生し多くの
    選手が感染していた。オリンピックが近づくにつれ、陽性反応
    が出て五輪に出場できなくなる事態が恐怖だった。直前の全米
    選手権大会では、ずっとN95マスクの上から医療用マスクを
    二重につけていた。会場から帰宅すると玄関に持ち物を置いて
    着ているものは、全て洗濯した。
    その後、エリックに不安への対処法を尋ねたところ、エリック
    は、可能な限り感染対策をし続け、それでも感染するかどうか
    は、自分では左右できないから、そのことでクヨクヨしてエネ
    ルギーを使っても仕方のないこと。と

    北京入りの1週間前にロサンゼルス集合。
    多くのセレモニーの間も感染が心配だった。
    マスクに多少カッコ悪いがフェイスシールドをつけ、
    北京入りをした。
    不安が忍びよる度にエリックにメールを送った。
    すると
    跳びあがる時の氷の音や回転する時口に流れる空気の感触、
    回転する時肌に衣装がまとわりつくまで思い起こす感触を
    重視したビジュアライゼーションを1日数分の時間を見つけ
    て日に何度かやりなさい。と
    それでも、試合の前夜うまく寝付けなかった。
    ネイサンは試したアプリを使ってエクササイズや呼吸法
    を試み効果を感じた。

    選手村に到着して参加国の国旗がはためく広場を歩くと、
    前回大会では、プレッシャーばかりで余裕がなかったが、
    今回はワクワクした気持ちが湧き上がってきた。
    会場はコロナ対策で、無観客で家族を呼ぶこともできなかった。

    団体で滑った後、個人ショートへ
    最後のジャンプ4回転ルッツー3回転トゥループが着水した時
    うれさがこみ上げてきた。
    しかし、今シーズンの全米選手権でも同様な場面があり
    喜んでいたら、コレオシークエンスで転んでしまった。
    「よし! ここは気を引き締めてステップを踏もう」と
    自分に言い聞かせ最後のスピンを終え成功した。
    いよいよフリーだ。
    滑走順番を待つカーテンで仕切られた小さくて恐ろしい待機場所。
    不安が頭をもたげたが、これまでエリックと何度もやり取りした
    ビジュアライゼーションで集中した。
    ジャンプを成功さて滑走を終えキッスアンドクライに座って得点が出
    ついにオリンピックチャンピオンを手にした。

    表彰式でメダルを首にかけてもらった時、母のことを思った。
    ラフは大勢の人たちに紛れて、踊ったり、おどけた仕草をしたり
    すごくうれしそうだ。
    ラフやったね! 一緒に成し遂げたよ。

  • 帰りの新幹線の中でも一気読みしながら帰路につきました。<br />旅の前後に、王や画家たちの生涯を何冊か読んでいたのです<br />が、対照的な、ネイサン・チェン一家の物語は一服の清涼剤<br />のようでした。<br />平昌と北京五輪の中継そして、この日盛岡で観た時も<br />ネイサンは、華麗な滑りを見せていましたが<br />そんなネイサンのもう一つの素顔を見る思いがして<br />自伝を読み終えました。<br /><br />リンクに登場するアスリートたちは、ひとり一人が同じように<br />練習、ケガそしてプレッシャー等を乗り越えてその日を迎えたのだ。<br />アスリートの選手に敬意をし、これからも楽しみながら<br />応援したいと思った。<br /><br />『自伝』はネイサン・チェンから<br />今、レベルアップしている若いスケーターへの<br />プレゼントの様な本にも思えるし<br />多種目のアスリートはもちろん、どの職業であっても、<br />ある種ガッツ!をもらえる本のように感じました。<br />〈あの街から〉も、読後余韻は爽やかでした。<br /><br />ここから上11枚の画像は<br />2022,12に歳末の札幌を訪れた時<br />街歩きで写した写真です。<br /><br />ネイサン・チェン自伝を読んで、<br />この物語は、<br />全アスリートたちに共通するよなぁ。<br />こうしてオリンピック目指して<br />日夜、がんばっているンだ。と改めて感じました。<br />そこで、お蔵入りにしていた冬季オリンピック<br />関連画像を思い出し、彼ら彼女らに敬意を表して<br />ここに登場してもらいました。<br /><br />2022,12の札幌への旅の帰宅後<br />旅行記を作成する段になった時<br />何やら不穏なニュースが伝えられ<br />推移を見ながらにしようと、<br />様子見をするうち、街歩き編の<br />旅行記は作らずじまいに(⌒-⌒; )なっていました。<br /> 

    帰りの新幹線の中でも一気読みしながら帰路につきました。
    旅の前後に、王や画家たちの生涯を何冊か読んでいたのです
    が、対照的な、ネイサン・チェン一家の物語は一服の清涼剤
    のようでした。
    平昌と北京五輪の中継そして、この日盛岡で観た時も
    ネイサンは、華麗な滑りを見せていましたが
    そんなネイサンのもう一つの素顔を見る思いがして
    自伝を読み終えました。

    リンクに登場するアスリートたちは、ひとり一人が同じように
    練習、ケガそしてプレッシャー等を乗り越えてその日を迎えたのだ。
    アスリートの選手に敬意をし、これからも楽しみながら
    応援したいと思った。

    『自伝』はネイサン・チェンから
    今、レベルアップしている若いスケーターへの
    プレゼントの様な本にも思えるし
    多種目のアスリートはもちろん、どの職業であっても、
    ある種ガッツ!をもらえる本のように感じました。
    〈あの街から〉も、読後余韻は爽やかでした。

    ここから上11枚の画像は
    2022,12に歳末の札幌を訪れた時
    街歩きで写した写真です。

    ネイサン・チェン自伝を読んで、
    この物語は、
    全アスリートたちに共通するよなぁ。
    こうしてオリンピック目指して
    日夜、がんばっているンだ。と改めて感じました。
    そこで、お蔵入りにしていた冬季オリンピック
    関連画像を思い出し、彼ら彼女らに敬意を表して
    ここに登場してもらいました。

    2022,12の札幌への旅の帰宅後
    旅行記を作成する段になった時
    何やら不穏なニュースが伝えられ
    推移を見ながらにしようと、
    様子見をするうち、街歩き編の
    旅行記は作らずじまいに(⌒-⌒; )なっていました。
     

  • 昨夜は、ついつい読み続けてしまい<br />翌朝、寝坊しました。(⌒-⌒; )<br />ギリギリで朝食を食べ、またまた駅ビルのカフェで<br />ネイサン・チェン自伝を読み<br />その間、相方さんは盛岡せんべいとかお土産物を買っていました

    昨夜は、ついつい読み続けてしまい
    翌朝、寝坊しました。(⌒-⌒; )
    ギリギリで朝食を食べ、またまた駅ビルのカフェで
    ネイサン・チェン自伝を読み
    その間、相方さんは盛岡せんべいとかお土産物を買っていました

  • そして、2人ともに<br />やっぱり盛岡に来たからには<br />「ぴょんぴょん舎」の冷麺を食べなければ<br />と、いつものように駅前支店へ行きました。<br />11時半頃でしたか、店の前には大勢の人が<br />バラけて待っているようでした。<br />受付機では、1時間半待ちとでていましたが<br />朝食を遅く食べまだお腹もそれほど空いていないし<br />後は、新幹線に乗るだけ。<br />待つことにしました。<br /><br />近くのカフェでまた珈琲タイム。<br />私は、「自伝」の続きを読んで(⌒-⌒; )ました。

    そして、2人ともに
    やっぱり盛岡に来たからには
    「ぴょんぴょん舎」の冷麺を食べなければ
    と、いつものように駅前支店へ行きました。
    11時半頃でしたか、店の前には大勢の人が
    バラけて待っているようでした。
    受付機では、1時間半待ちとでていましたが
    朝食を遅く食べまだお腹もそれほど空いていないし
    後は、新幹線に乗るだけ。
    待つことにしました。

    近くのカフェでまた珈琲タイム。
    私は、「自伝」の続きを読んで(⌒-⌒; )ました。

  • 1時間を少し回った頃、スマホに連絡がきて<br />ようやく、席に着くことができました。<br /><br />待った甲斐がありました。

    1時間を少し回った頃、スマホに連絡がきて
    ようやく、席に着くことができました。

    待った甲斐がありました。

    ぴょんぴょん舎 盛岡駅前店 グルメ・レストラン

  • さて、旅行記「ヨーロッパ旅2023夏」の序章編で<br />ローマからお伝えした、ローマ空港内のコンビニで<br />おにぎり1個が7Euro〈1120円〉に驚き<br />(羽田空港で両替した時のレートが1ユーロ 160円)<br />画像を旅行記に載せるよ。と書きましたが、<br />ローマ編まで<br />もう少しだけタイムラグがありそうなので(⌒-⌒; )<br />ここに載せておきます。

    さて、旅行記「ヨーロッパ旅2023夏」の序章編で
    ローマからお伝えした、ローマ空港内のコンビニで
    おにぎり1個が7Euro〈1120円〉に驚き
    (羽田空港で両替した時のレートが1ユーロ 160円)
    画像を旅行記に載せるよ。と書きましたが、
    ローマ編まで
    もう少しだけタイムラグがありそうなので(⌒-⌒; )
    ここに載せておきます。

  • ローマの両替所の情報も書きましたね。<br />これは、トレビの泉の近くにある両替所<br />180,531円 (;゜0゜)でした。<br />

    ローマの両替所の情報も書きましたね。
    これは、トレビの泉の近くにある両替所
    180,531円 (;゜0゜)でした。

  • パリの地下鉄ホームには大きな<br />「インディ・ジョーンズ」

    パリの地下鉄ホームには大きな
    「インディ・ジョーンズ」

  • パリ・モンマルトルの街歩きで<br />目にした大きな「インディ・ジョーンズ」

    パリ・モンマルトルの街歩きで
    目にした大きな「インディ・ジョーンズ」

  • ロンドンでも<br />ウォータールー鉄道駅舎内のメイン広場に<br />大きな電光掲示板が

    ロンドンでも
    ウォータールー鉄道駅舎内のメイン広場に
    大きな電光掲示板が

  • 「インディ・ジョーンズ」は最新のCGを見せてくれ<br />「ミッション・イン・ポッシブル」は、その対極で<br />シリーズをプロデュースし自ら主役を演じている<br />トム・クルーズは、あくまで実写を映像化することに賭け<br />最近作が出来上がる度、危険なアクションに、トムそろそろ<br />実写にこだわらなくても、充分楽しめるから危険は止めたら<br />良いぞ! と言ってます。<br /><br />どちらも、帰ったら観に行こう!<br />

    「インディ・ジョーンズ」は最新のCGを見せてくれ
    「ミッション・イン・ポッシブル」は、その対極で
    シリーズをプロデュースし自ら主役を演じている
    トム・クルーズは、あくまで実写を映像化することに賭け
    最近作が出来上がる度、危険なアクションに、トムそろそろ
    実写にこだわらなくても、充分楽しめるから危険は止めたら
    良いぞ! と言ってます。

    どちらも、帰ったら観に行こう!

  • 丁度、20年前のベルリン訪問の際<br />「ミッション・イン・ポッシブル」<br />の一作目がロードショー公開中でした。

    丁度、20年前のベルリン訪問の際
    「ミッション・イン・ポッシブル」
    の一作目がロードショー公開中でした。

  • 20年後のこの夏には同じ劇場で<br />「ミッション・イン・ポッシブル」の<br />最新作がロードショー公開中でした。<br /><br />20年の歳月。またここに来れた喜び<br />シネコン全盛の映画界で、単館の大きな映画館のがんばり。<br />そして、ずっと第一線で活躍しているトム・クルーズに敬意。

    20年後のこの夏には同じ劇場で
    「ミッション・イン・ポッシブル」の
    最新作がロードショー公開中でした。

    20年の歳月。またここに来れた喜び
    シネコン全盛の映画界で、単館の大きな映画館のがんばり。
    そして、ずっと第一線で活躍しているトム・クルーズに敬意。

  • ヨーロッパ旅の最終日<br />フランクフルトのレーマー広場を散策。<br />広場に続くショッピング街の映画館でも<br />「ミッション・イン・ポッシブル」<br />がロードショー公開中。<br /><br />今年の夏の旅を思い出した時には、<br />映画「インディ・ジョーンズ」や<br />「ミッション・イン・ポッシブル」<br />のことを、思い浮かべるだろうなぁ。<br />と、旅の思い出と公開中の映画を<br />繋いでおくのが〈あの街から〉の旅のスタイル(⌒▽⌒)

    ヨーロッパ旅の最終日
    フランクフルトのレーマー広場を散策。
    広場に続くショッピング街の映画館でも
    「ミッション・イン・ポッシブル」
    がロードショー公開中。

    今年の夏の旅を思い出した時には、
    映画「インディ・ジョーンズ」や
    「ミッション・イン・ポッシブル」
    のことを、思い浮かべるだろうなぁ。
    と、旅の思い出と公開中の映画を
    繋いでおくのが〈あの街から〉の旅のスタイル(⌒▽⌒)

  • 日本では、旅から帰国後の週末から<br />ロードショー公開が始まりました。<br />翌週でしたか、観にゆきました。<br />期待を裏切らない作品で楽しめました。

    日本では、旅から帰国後の週末から
    ロードショー公開が始まりました。
    翌週でしたか、観にゆきました。
    期待を裏切らない作品で楽しめました。

  • さて、ヨーロッパ旅でパリを訪れた時<br />1年後にオリンピックを控えたパリの<br />歩きで目にした大型の1964東京<br />オリンピックのポスターが貼られた看板。<br />

    さて、ヨーロッパ旅でパリを訪れた時
    1年後にオリンピックを控えたパリの
    歩きで目にした大型の1964東京
    オリンピックのポスターが貼られた看板。

  • デパートには、オリンピックのグッズ販売コーナー<br />が設置されていました。<br /><br />パリオリンピック目指して、多くのアスリートたちが<br />今も、練習と様々なプレッシャーやケガなど、自身との<br />戦いを続けているのだろうなぁ。と思います。<br />全てのアスリートに声援送を感動をありがとうを言って<br />今回の旅行記はお終いにします。<br /><br />

    デパートには、オリンピックのグッズ販売コーナー
    が設置されていました。

    パリオリンピック目指して、多くのアスリートたちが
    今も、練習と様々なプレッシャーやケガなど、自身との
    戦いを続けているのだろうなぁ。と思います。
    全てのアスリートに声援送を感動をありがとうを言って
    今回の旅行記はお終いにします。

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この旅行記へのコメント (5)

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  • yamayuri2001さん 2023/11/02 10:32:47
    ネイサン・チェン・・・
    あの街からさん、こんにちは。
    いつもありがとうございます。
    私もフィギュアスケートは、熱烈なファンではないにせよ、
    唯一好きなスポーツですので、テレビで見ては応援をしていました。
    ネイサン・チェンは本当に失敗のない選手で、
    羽生結弦のライバルとしては、最強だったと思います。
    しかし、その人生はやはり波乱万丈で、
    何の苦労もなく手にしたメダルでは無かったのだなと分かりました。
    人生には、最後まで努力しかないのだなと
    強烈に心に焼きつきました。
    あの街からさんが、このように旅行記で
    ネイサン・チェンの自伝の本を要約していただいたおかげで、
    わたしは膨大なページ数を読まずとも、
    概要を掴む事が出来ました。
    力作の旅行記、感動しながら読ませていただきました。
    ありがとうございます。
    yamayuri2001

    あの街から

    あの街からさん からの返信 2023/11/02 15:55:56
    RE: スケーター人生
    yamayuri2001さん こんにちは

    現役の指導者、スタッフの方々を実名で語る、ネイサン
    ・チェンのスケート人生。ゆえ、リアルを強く感じ、
    感動しました。
    こうして、分かち合えたと思うと(⌒▽⌒)(⌒▽⌒)
    (⌒▽⌒)です。  ありがとうございます。

    私も、羽生選手と真央ちゃんを中心に観続けてきたフィギュア
    ファンの一人として、ネイサンの突然の出現には驚きで向かい
    入れたものでした。今回、盛岡に出かけたことで直接ネイサン
    から〈自伝〉のプレゼンを聞き、手にすることができました。
    やはり、行動・旅は、大切だなぁ。と改めて感じました。

    TV中継で、彗星の如く颯爽と登場したネイサン・チェンでした
    が、彼にして、オリンピックどころか、その前段の全米選手権
    に出場するまでも、母、コーチとの長い練習の日々があって、
    挫折しそうになり、怪我を乗り越え初めて勝負のリンクに立つ
    ことができるのだ。と知りました。
    と、同時に、あのグランプリシリーズのリンクはスペシャルな
    ステージで、そこで滑っている選手一人ひとりが、ネイサンと
    同じくらい、いや、もっとかもしれない。与えられた環境の中
    で、様々なことをひとつずつ乗り換え、練習の積み重ねてこそ
    そこに立っているのだ。なぁと。
    これまで以上に応援しようと思いました。

    yamayuri2001さんの旅行記、また楽しみにしています♪

                      あの街から
  • gachinさん 2023/10/25 22:23:53
    ネイサン・チェン…
    あの街からさん こんにちは。

    コメントさせて頂くのは初めてでしょうか?
    ネイサン・チェンの自伝の話、全くの驚きでした。

    彼のスケートはそれまでに無かった新風と言いますか、素晴らしい身体能力でアメリカの若者文化を感じさせるような新しいスタイルの才能でした。
    あの街からさんと同じく、私もてっきり中華系移民の富裕層だと思っていたので自伝の内容は衝撃でした。
    ネイサンのスケートが好きで応援していましたが、ますますファンになりました。

    それにしてもネイサン・チェン始め宇野昌磨、高橋大輔、ジェイソン・ブラウンと錚々たるメンバーのThei ICE 2023は素晴らしかったでしょうね~ウラヤマシイ…

    自伝の紹介をありがとうございます。
    私も自伝を読んでから彼のスケートをもう一度見てみたいです。

    gachin。

    あの街から

    あの街からさん からの返信 2023/10/26 06:57:56
    Re: ネイサン・チェン…
    サプライズ好きなので、gachinさんの掲示板登場は
    サプライズ感 大です。(⌒▽⌒)
    この頃は映画もドラマも先に全貌を明らかにして
    それから、物語を始めるというパターンが多いですが、
    サプライズ好きの〈あの街から〉的には、その場面に
    出会って初めて驚く。という作りで物語に酔ってみたい
    なぁと常々思っています。クリスマスプレゼントみたいに、その方がより楽しさもうれしさも倍化するかな。
    と思っています。

    今回の旅行記『盛岡・自伝』も、
    フィギュアと冷麺好き。の話しがほぼ全面を占める。という、やや趣向性や嗜好性の濃いものになったので、
    gachinさんの反応は、ほんと♪うれしいです。
    ありがとうございます。
    ネイサン・チェンが、ピョンチャン五輪のフリーの演技を終え、その後から滑る選手の成績を見ながらの心境を正直に書いた様に、〈あの街から〉も正直言ってみれば、旅の空の下で偶然手にした『自伝』の面白さ、興味深さ、アスリートへの敬意、アメリカ社会の後継者を育てる力、アメリカオリンピック委員会(USOC)医療チームのサポートの厚さ。
    これは万国共通か、コーチ等の逸話にあるような一生懸命にしている人へのサポートの手。とネイサン一家の奮闘記等がぎゅっと詰まった『自伝』の存在ここにあり。
    を取り上げて
    読み進めるほどに
    ネイサンのオリンピックへの道が開いていく様子が、
    サプライズを交えながら展開していく物語を皆さんにも
    楽しんでいただけたら(⌒▽⌒)(⌒▽⌒)と思いました。

    gachinさんの旅行記楽しみにしています。
                      あの街から
  • あの街からさん 2023/10/24 16:11:57
    アイス・ショーでの出会いとツークシュピッツェの旅の思い出
    toraobasanさん こんにちは(⌒▽⌒)

    ひょんなことからネイサン・チェンの自伝を手にする
    ことになりましたが、その前段として、ヨーロッパ旅は、
    できる限り美術館を回ってこよう。と計画を立てていま
    した。
    それもあり、少しは画家たちのことを知ってから旅に出よ
    くとしましたが、一部宿題を残したまま旅に出かけ(⌒-⌒; )
    帰宅後も旅行記を作りながら、マイペースで進めておりま
    した。
    画家たちの物語は、◯◯や◯◯に、時には◯◯まで絡んだ
    物語が多く(⌒-⌒; ) それも時代ゆえなのかなぁ、と思い
    ながら目を通しましたがその後に、目にした
    ネイサン一家の物語はその対極にあるような一服の清涼剤
    のようでした。この物語は、どんなアスリートにも共通する
    練習をとり巻く環境だったり、ケガだったり、それを乗り越え
    て勝負の場に立っているのだなぁ。と改めて感じました。
    盛岡まで旅に出てこそ、この自伝との出会となり、この読後
    感を盛岡の旅と共に忘れないよう忘備録として残そう。と
    思いました。
    スポーツ好きの方には、この、旅のスタイルも興味を持って
    もらえるのでは、と思いつつも、またまた、やや趣向性の
    濃い旅行記になってしまったので、あまり見てもらえない
    旅行記になりましたが、いろいろ体験する旅のスタイルと
    してこれもアリかな。と そのまま、アップしましたので
    toraobasanのカキコはうれしいです。
    (⌒▽⌒)ありがとうございます。

    toraobasanさんのご夫婦でドイツのツークシュピッツェの旅。
    「お天気が良い」と言ってうれしそうなご主人の側で、その姿
    を見ているtoraobasanさんが、もっとうれしそうにしている
    姿が目に浮かびます。(⌒▽⌒)
    あらかじめ決まった日程に天気を合わせる難しさはほんとに、
    難しいですよね。 その分、天気になった時のうれしさも格別
    ですよね。
    麓の街ガルミッシュパルテンキルフェンのホテルに4泊してお
    天気待ちをしたご主人さまのお気持ちよ~くわかります。
    私も、ドロミティのサンタ・マッダレーナ村で、天気保険の為
    泊まったことがありましたが、それでも、2泊3日での滞在が
    予定の日程からギリギリの選択で出かけたことを思い出しました。

    ガルミッシュパルテンキルフェンのあの小さな鉄道駅から電車
    に乗って車窓からの牧歌的なあの風景とロープウェイからの絶景
    を思い出しました。こちらこそ有難うございます。♪♪
    また、旅行記を楽しみにしております。
                         あの街から

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