2024/02/12 - 2024/02/12
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たびたびさん
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この時期は毎年どこかのひな祭りに出かけるのですが、その第一弾は城下町長府ひなまつりにしてみました。長府はしばらく行っていないし、下関にも寄って唐戸桟橋からあの眺めの良い海を見ながら気晴らしするのも悪くないですよね。瀬戸内海に臨む美しい街というと尾道と下関はやっぱり双璧。元気をチャージするにはもってこいです。
ただ、例によって、長府というか長府藩のことに少し触れておきたいと思います。長府藩の祖は毛利秀元。毛利元就の四男、穂井田元清の次男ですが、毛利輝元に子がなかったため、毛利輝元の養子になる。それは、毛利家の世嗣となる意味でしたが、輝元に男子(秀就)が生まれると世嗣を辞退、独立大名として別家を建てたのが長府藩の始まりです。少しごたごたしたのかなという感じもありますが、それは秀吉のお声がかりで毛利輝元の養子になった時からの約束。予定通りのことでした。世継を辞退しても毛利家の大黒柱であることに変わりなく、慶長の役では輝元に代わって3万の兵を率いて朝鮮に渡り、蔚山城の戦いでは孤立した加藤清正の救援に成功するなど応分の活躍もしています。しかし、微妙な雲行になってくるのは、関ケ原の戦い辺りからでしょうか。南宮山に陣取った毛利軍の大将は毛利秀元でしたが、西軍は心もとないと判断し、徳川方と内通したのは吉川広家。宰相殿の空弁当で毛利の大軍を足止めし、東軍の勝利を呼び込みました。秀元は当然戦う気満々だったと思いますが、結果そうなっては仕方なし。吉川広家に対して面白くない気持ちはあったにせよそんなことより徳川家との関係修復とか巻き返しの方に目標を転換する。この辺り意外に毛利元就のDNAを色濃く受け継いだ人物ではなかったかと思います。毛利輝元は毛利元就の嫡男、隆元の子ですが、そもそも隆元は弟の小早川隆景や吉川元春ほどの才覚はないと自覚していたようなところがある人物。毛利秀元と吉川広家を頼りにしていたのも隆元を彷彿とさせるスタンスですね。
ついでに、吉川広家のことですが、安国寺恵瓊への責任転嫁等もあって、策士的なイメージもなくはない。ただ、大前提として、毛利家は豊臣家にも徳川家にも恨みがあるわけではなく、冷静に状況判断ができる立ち位置だったということ。吉川広家も、もしかしたら、どちらが勝つか負けるかではなく、世の中がどう収まるかという視点があったし、戦乱の世に戻してはならないという声なき声にも背中を押されていたのではないでしょうか。時代が下って、幕末に蛤御門の変で敗れ朝敵となった長州藩ですが、その時でも世間での人気は変わることはなかったとか。私的には毛利氏には時代の風を読む独特のDNAが備わっていると解釈したくなるのですが、ちょっと強引でしょうかね。
また余談が長くなりましたが、元に戻ってひな祭りのこと。会場は、長府毛利邸や長府庭園もありますが、忌宮神社の一角、蔵造りの建物が会場となったひな人形が一番インパクトありですね。中央にメインの段飾りを据えて、その手前にひな人形の大集団。天井に張られた桃色のシートも全体を良くまとめる効果があって、なかなかのセンス。ひな祭りの音楽もずっと流れていて、静かに眺める雰囲気がとてもいいと思いました。ひな祭りは、町の歴史や文化が自ずと匂うもの。秀元のクレバーさやそれを引き継いでその後も毛利宗家を支えようとしてきた長府藩の気構えとか。いろいろ思いを巡らせることで味わいは深くなる。長府のひな祭りも一興です。
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広島から新下関駅に到着して、まずは、住吉神社へ。新下関駅から歩いて訪ねます。
住吉神社は、神功皇后の三韓征伐に関わりのある神社で、長門国の一宮。大阪の住吉大社、博多の住吉神社と並んで日本三大住吉のひとつでもあります。
石鳥居から -
参道を
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進んで
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一段高い場所に楼門と本殿。
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本殿前の拝殿は、天文8年(1539年)、毛利元就の寄進の寄進。
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本殿は国宝ですが、第一から第五の5殿が連なる九間社流造。建徳元年(1390年)、大内弘世の寄進です。
この辺りは少し狭いので、全体の姿が入りきらないのが難点です。
また、新下関駅に戻って、そこから長府駅へ。長府駅からはさらにバスに乗り換えとこの辺りがちょっと面倒くさいところです。 -
長府の市街に近いバス停で降りて。
長府観光会館は、国道2号線沿いにあって、駐車場も広いしそれなりの建物なのですが、 -
少し古びているし、商品の並べ方とかも昔風。長府にあっては大型観光バスを迎えれる貴重な施設だと思いますが、あんまりテンションは上がりませんね。もうちょっと何とかならないかなという感じです。
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では、市街の方へ。
長府の維新発祥之地碑ですが、維新発祥はどう捉えるかによって、いろんなところが発祥之地になるのですが、ここは、蛤御門の変の以降、幕府への恭順派が主流となった長州にあって、元治元年(1864年)の高杉晋作の功山寺の挙兵をもってそれとする考え方。私もそれはまったく同感。常人では考えられない決断だったと思います。 -
では、さっそく、最初のひな祭りの会場、忌宮神社の方へ。
忌宮神社は、長門国二宮だし、長府の街の中心といった神社ですからね。 -
祭礼の赤い旗が賑々しいですが、これは境内社の荒熊稲荷神社のものでした。
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忌宮神社自体はむしろひっそり。
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イチオシ
ひな祭りはどこでしょうか。
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本殿の方に上がってみますが、
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はっきりしませんねえ。
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うろうろ探して、脇の方にあるこの建物を見つけました。
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なるほど、ここですね。
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イチオシ
入ってみると
ありゃりゃりゃあ。
建物一杯を使った段飾りに、天井の花模様も一体になってこれはいいですね。 -
段飾りの方は、さほどぎっしり感がなくてほどよいゆったり感。
対して、前面の方は大賑わい。 -
不揃いな人形でもこうして集まると
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独特の面白さが醸し出されるんですよね。
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イチオシ
そして、それだけではなく、創作人形の世界があちこちに潜ませてあって、
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その絶妙のバランスが素晴らしいですね。
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どこをどう組み合わせたらバランスがいいか、面白くなるか。
無限大の可能性の中から、それを探ってこの選択をしたという楽しい作業が想像できますね。 -
人形の一つ一つは特別なものではないと思いますが、結局最後は飾る人のセンスで人形は命を吹き込まれる。この人形は○○作なんですとかを自慢するひな祭りもありましたが、そういうのは一番いただけない。子供たちの成長を願い、子供たちの笑顔を見たいという思い。それが一番大事ですからね。
これは、とてもいいひな飾りだと思います。 -
次の会場は長府毛利邸ですが、途中にある三吉慎蔵生家跡。
この三吉慎蔵なる人物は、坂本龍馬の盟友。薩長同盟締結後の慶応2年(1866年)、伏見寺田屋で龍馬が伏見奉行所の捕吏群に襲われた際には大活躍し、龍馬を守ったという事件が人生の華。生家には龍馬も訪ねてきたということです。 -
土塀の続く武家屋敷の通りを
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進んだ先にあるのが
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長府毛利邸。
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イチオシ
明治36年、長府毛利家14代元敏によって建てられた邸宅で、
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明治天皇の行在所としても使われたところ。
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落ち着いた構えの玄関を入ると
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ここのひな飾りはつるし雛が中心ですね。
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つるし雛は、特に長府とか山口の伝統ということではないと思いますが、
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この邸宅を考えると
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こうした飾り方は
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イチオシ
確かに
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ぴったりはまっているし、
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どっちにしても、柳川や稲取の専売特許というものでもないでしょう。
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ただ、これだけのものを作るのはそれなりの人手と時間がかかるはず。
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イチオシ
地元の有志の皆さんの
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協力があってこそできるものですよね。
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つまり、この邸宅も邸宅だけでは寂しいもの。
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地元の方々に支えられて
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愛されて
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初めて、その価値が活かされるというものでしょう。
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ちょいちょい独自の飾りもあるし、
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一輪挿しも悪くない。
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けっこう楽しく拝見させてもらいました。
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ここからは少しひな祭りを離れて。。
笑山寺は、長門国長府藩の初代藩主、毛利秀元が父、穂井田元清の霊位を移して創建された功山寺、覚苑寺と並ぶ長府毛利家の菩提寺です。 -
本堂のさらに奥の方、
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下関市指定文化財の十三重石塔を過ぎた先が
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墓所。
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長府藩主2代の毛利光広、7代の毛利師就の墓所があるはずですが、
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どれがどれなのかはちょっと分かりません。
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続いては、近くの下関市立歴史博物館。
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ここは今回が初めてです。
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一度は嗣子のいなかった毛利輝元の後継者とされたものの秀成が生まれたことで別家し、長府藩の初代藩主となった秀元の紹介から始まって、地元の下関が文人墨客が訪れる文化の交流点となったり、幕末には攘夷戦からの下関戦争や第二次長州征伐の小倉戦争では前線となったことなどバランスよく説明されていて、とても分かりやすいですね。
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源平合戦のシリーズは
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常盤御前に
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一の谷の合戦
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壇ノ浦の戦いも、まさにここは地元です。
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毛利元就画像
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毛利元就書状
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毛利元就筆 秀歌撰
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イチオシ
毛利秀元筆 手鑑
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頼山陽聨
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頼山陽詩書
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小倉戦争戦闘絵図写
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坂本龍馬書状 三吉慎蔵宛
それぞれに味わい深いものがありますね。 -
そして、下関の商家に伝わった源氏物語の屏風絵も美しくて印象的。
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桐壺
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帚木
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若紫
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絵合
長府藩の豊かな歴史と文化を改めて強く感じました。 -
で、ここを出ると功山寺はもう目と鼻の先。
総門から入って -
しばらく歩いて
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山門に至る。
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七卿潜居の間もある本堂もいいですが、
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山門の正面奥に建つ仏殿は国宝。元応2年(1320年)の建立というのですが、功山寺の創建は嘉暦2年(1327年)。これより7年早いというのは、ちょっと謎ではあるんですけどね。
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イチオシ
そして、これが高杉晋作 回天義挙の銅像です。
いわゆる功山寺の挙兵は、元治元年(1864年)12月15日雪の夜。禁門の変の敗北以降、主流派となっていた保守派の俗論党を打倒するために起こしたクーデターで、当初の勢力は、石川小五郎率いる遊撃隊と伊藤俊輔の力士隊を合わせた約800名ほど。奇兵隊の合流はその後ですが、これに勝利することで長州藩を再び倒幕への道に導くことになりました。
像の高杉は奇跡を起こした英雄というより少年のような風貌。感慨深く拝見しました。 -
あとは長府毛利家の墓所も
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少し拝見しておしまい。
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ひな祭りの最後の会場、長府庭園に向かいます。
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長府庭園は、長府毛利藩の家老格、西運長(にしゆきなが)の屋敷跡。
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敷地は広大。
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長府庭園というだけに
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庭園の見応えが素晴らしい。
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回遊式庭園の
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どこのアングルも絵になります。
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大名好みの
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イチオシ
庭園ですね。
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では、屋敷の方へ。
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こちらは、駒子の紙人形という企画。
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解説によれば、駒子は、創作人形師、石垣駒子という方の名前から。
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作品は、人形教室で生徒さんが作られたもののようですね。
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お座敷には
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それぞれに趣向を凝らした駒子の人形。
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これは違いますが、
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紙で作った素朴さと
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想像力を働かせる自由な気分が
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独特の面白さ。
作る側からしても気持ちを込める楽しさがあるような気がします。 -
長府からは、予定通り下関に回って帰ることにします。まだ時間も早いし、遅い昼飯は唐戸市場ですよね。
ただ、その前に春帆楼本店へ。 -
というか、日清講和記念館へ。
春帆楼本店は、下関でふぐ料理のお店ならここというくらい有名なお店なのですが、一方で、日清戦争の講和条約である下関条約が結ばれた歴史の場所でもあるんですね。 -
記念館では、交渉の現場である部屋の様子が生々しく再現されていて、
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今でもけっこうな迫力。
日本側全権、伊藤博文、陸奥宗光、清国側全権、李鴻章、李経方。日本が勝ち取ったのは、朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖諸島の日本への割譲に賠償金支払い。列強の植民地になることを恐れていた東アジアの小国、日本はここからどうなったのか。まだまだ総括できないことが少なからず残っているような気がします。 -
では、唐戸市場へ。ふぐの街、下関ではやっぱりここを外すわけにはいきませんね。
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新鮮な海産物を売るブースが軒を並べる中、大勢の観光客が行きかってすごい活気。
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ここでお寿司とかいろいろ買ったら、海辺の方に出て、関門海峡を眺めながらそこでゆっくりと食事タイム。
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そうした自由さも併せて大きな魅力となっていると思います。
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ただ、私はそれは面倒くさいので、唐戸市場の二階にある海転からと市場寿司の方へ。
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ネタは下関や瀬戸内海とは関係ないものも多いのですが、やっぱり新鮮な感じはあって、けっこうおいしいですね。
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勢いでガバガバいただきました。
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イチオシ
落ち着いたところで、海の方へ。
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この爽やかな景色は下関ならでは。
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同じ瀬戸内海の眺めでも、この開放感はほかではないもの。
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ここをぶらぶらするだけでも、下関の価値はあるというものです。
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あとは、ついでにマイナースポットのチェックをいくつか。
聖フランシスコ ザビエル下関上陸の地は、唐戸市場の東側。海を望む一角です。
ザビエルが下関に上陸したのは、天文19年(1550年)。京都に向かうため九州を発ち、途中、下関に寄ったザビエルは、大内義隆を訪ね、布教の許可を得て数ヶ月の間、布教活動を行ったとか。なかなかゆかりが深いです。 -
そのまま進むと、あるかぽーと。唐戸地区にあるウォーターフロントの施設です。海を臨むウッドデッキのスペースやゆったりとした遊歩道。それに沿って建つ明るいい建物には手軽な飲食店もあって、それら全体がくつろぎの空間。
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巨大なふぐのモニュメントもちょっとびっくりです。
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床屋発祥之地碑は、亀山八幡宮の正面大鳥居の横。
鎌倉時代の中期頃の話。亀山天皇に仕えていた北面の武士、藤原基晴なる人物が不始末から職を辞し、三男、采女之亮政之を連れて下関に。その時、新羅人の髪結職から技術を学ぶ。また、結髪所の奥には床の間があり、これが床屋の始まりだということ。ちょっとマニアックな話かもしれません。 -
放浪記で有名な林芙美子のゆかりの地で一番に頭に浮かぶのは尾道。13~19歳の多感な時期を過ごしました。生誕地の碑はこうして下関にありましたが、出生届は鹿児島だし、そこまでのゆかりはあると言えるのかどうか。碑は神社の鳥居の横に建っていて、流麗な文字が刻まれていました。
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海峡メッセ下関は、下関駅と唐戸地区のちょうど中間くらい。海峡ゆめタワーに隣接して、かっこいい近代的なビルが建っています。
最上階は国際会議場。その他は一般の企業も含めて、オフィスビルとなっていて、あんまり観光的な要素はないかなと思います。 -
かなり歩いて、下関駅の方に到着しました。
車両航送発祥の地のレリーフは、下関駅前のシーモールのビルの壁面。
車両航送というのは、鉄道車両ごと連絡船に乗せて運搬する方法のこと。船内にレールを敷いたり、岸壁では船が接岸する際にレールを連絡させる特殊な桟橋を作るとか高度な技術が必要となるようです。 -
平家踊りの群像は、下関駅のペデストリアンデッキ。ライオンズクラブが建てたもののようですが、平家踊りは壇之浦で敗れた平家一門の供養の盆踊りに起源があるものだとか。舞い手と太鼓の叩き手がいて、まあ、下関にはこういうものがあるということですね。
日帰りの長府、下関は以上で終了。お天気にも恵まれて、上々の一日となりました。お疲れさまでした。
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