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「赤穂義士」の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡りの第5回目は、いよいよ、私の「赤穂義士」の道のりとゆかりの地の旅の最終章に入ります。今回は、「吉良上野介義央」の墓のある「萬昌院功運寺」、そして真相不明の赤穂義士の一人である「寺坂吉右衛門信行」の墓のある「曹渓寺」へお参りに行き、その他に「赤穂義士」のゆかりの地である谷中の「観音寺」、そして、元禄赤穂事件の発端の地である皇居東御苑の「松之大廊下跡」と「浅野たくみのかみ」が運び出された「平川門」などを巡りレポートしたいと思います。また、今回は、狭い東京都内ですが結構広範囲になったので、さすがに徒歩でという訳にはいかないので、地下鉄を乗り継いで目的地まで徒歩で行きました。<br /><br />《赤穂義士関連の見学ルート》<br />①「観音寺(赤穂義士供養塔)」⇒②「松之大廊下跡」⇒③「平川門」⇒④「吉良上野介義央」の墓のある「萬昌院功運寺」⇒⑤「寺坂吉右衛門信行」の墓のある「曹渓寺」⇒⑥「堀部武庸加功遺跡碑」がある「水稲荷神社」<br /><br />《「観音寺」までの交通経路》<br />当日は、自宅から電車を乗り継ぎ、まず、東京メトロ千代田線「千駄木駅」で下車しました。「観音寺」へのアクセスは、東京メトロ千代田線「千駄木駅」の1番出口を出て左方向に進むとすぐに信号(表示名「団子坂下」)があります。その信号の横断歩道を渡り、右折して信号の道路の反対側に渡ります。「ミスタードーナッツ千駄木ショップ」のがあり、ゆるやかな「三崎坂」になりますので、それを570mほど上ると、「谷中墓地」の手前の信号の左側に中華料理「珎々亭」があります。そこを左折し、250mほど直進すると左手に「観音寺」の「山門」があります。徒歩で11分ほどかかりました。<br /><br />①「観音寺(赤穂義士供養塔)」<br />「観音寺」は、慶長年間(1596年-1615年)に神田北寺町に建立し、延宝8年(1680年)に神田から現在地に移転し、以来「谷中寺町」の一角を形成しています。「観音寺」は、谷中のシンボルであり、幕末の頃に作られた「築地塀」で有名です。「築地塀」は、国の登録有形文化財に指定されています。また、平成4年(1992年)には、歴史的文化財の多い台東区において「まちかど賞」を受賞しています。「観音寺」は、はもと「長福寺」と称し、享保元年(1716年)に「観音寺」と改称しました。「築地塀」のそばを通ると江戸時代の風景が見えてくるような気がしました。<br />「赤穂浪士供養塔」は、「本堂」に向かって右側にある「宝篋印塔」です。「赤穂浪士」討入りに名を連ねた「近松勘六行重」と「奥田貞右衛門行高」が「観音寺」の第6世「朝山大和尚」の兄弟であったことから、「赤穂浪士討入り」の会合にもよく使われ、討入り後には「赤穂浪士供養塔」が建立されました。<br />また、「観音寺」門前の道は、不忍池からひぐらしの里(日暮里)まで通じる、いわゆる「谷中のみち」で、江戸時代には文人墨客や粋人たちが、四季おりおりに杖をひいたと言われています。そして、「観音寺」は、「御府内八十八ヶ所霊場」42番札所、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」32番、御府内二十一ヶ所霊場3番札所となっています。<br />【「観音寺」の見どころ】<br />? 「築地塀」とは<br />今まで知らなかったのですが、「観音寺」を訪れ初めて「築地塀」の正しい読み方を学習しました。正しくは、「築地塀」は、「つきじべい」いではなく「ついじべい」と発音するそうです。「観音寺」は、谷中のシンボルであり、幕末の頃に作られた「築地塀」で有名です。「築地塀」は、国の登録有形文化財に指定されています。また、平成4年(1992年)には、歴史的文化財の多い台東区において「まちかど賞」を受賞しています。「築地塀」とはいわゆる土塀のことで、単に築地とも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築工法で作られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。古くは土のみで作られましたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど、様々です。<br />? 「赤穂浪士供養塔」<br />「赤穂浪士」の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られています。47士に名をつらねる「近松勘六行重」と「奥田貞右衛門行高」は、当時に「長福寺」と呼ばれていた後の「観音寺」で修行していた「文良」の兄と弟でした。「文良」とは、「長福寺」第6世となった「朝山大和尚」のことです。寺伝によれば、「文良」は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたそうです。明治末の「福本日南」の著作「元禄快挙録」には、「勘六」は死にのぞみ「今日の仕儀「勘六」喜んで身罷ったと、「長福寺」の「文良」へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されています。「観音寺」はもと「長福寺」と称し、享保元年(1716年)に「観音寺」と改称しました。 本堂に向かって右側にある「宝篋印塔」は「四十七士慰霊塔」として古くから霊を弔う人が訪れている。上部に「四方仏」を表す種字(梵字)、下部に「宝篋印陀羅尼経」、宝永4年(1707年)3月吉日、長福寺6世朝山の名が刻まれています。<br />次は、「皇居東御苑」にある「松之大廊下跡」と「平川門」へ向かいます。<br /><br />《「松之大廊下跡」と「平川門」までの交通経路》<br />「観音寺」から東京メトロ千代田線「千駄木駅」まで戻り、元禄赤穂事件の発端となる歴史的事件が起こった「皇居東御苑」にある「松之大廊下跡」へ向かいます。東京メトロ千代田線「千駄木駅」から「大手町駅」までは8分ほどの乗車時間です。そして、東京メトロ千代田線「大手町駅」のC13a出口を出ると皇居の「大手門」が左手前方に見えます。「大手門」から「松之大廊下跡」までは、徒歩7分600mほどです。「松之大廊下跡」から「平川門」まで徒歩11分750mほどの距離です。<br /><br />②「松之大廊下跡」<br />「江戸城本丸」の「表御殿大広間」から「白書院」に続いていたのが有名な「松之大廊下」(松之廊下)です。「江戸城」で2番目に長い廊下で、襖戸に松並木と千鳥が描かれていました。元禄14年(1701年) 3月14日に、赤穂藩主の「浅野内匠頭長矩」が高家衆筆頭の「吉良上野介義央」に対し起こした刃傷事件の現場として有名です。「浅野内匠頭長矩」は、「此間の遺恨覚えたるか」と叫んでいきなり背中から、「吉良上野介義央」を切りつけました。驚いた「吉良上野介義央」が振り向いたところを更に額に一太刀きりつけました。烏帽子の金具で止まった額の傷は三寸五分から六分(約11センチ)で、背中の傷は三針縫う程度でした。何とこれが討ち入りの時には額の傷痕は残っていませんでしたが、背中の傷が本人確認の決め手となったそうです。<br />そして、この日は、幕府にとって大切な日でもありました。何故かというと、朝廷からの使者(勅使)を返礼する儀式が行われていたからです。「吉良上野介義央」は軽傷でしたが、殿中での刃傷はご法度であったので、第5代将軍「徳川綱吉」は激怒し、「浅野内匠頭長矩」は、その日のうちに切腹を命ぜられました。その後、赤穂藩は取りつぶしとなり、家臣たちは浪士となりました。一方、「吉良上野介義央」には、おとがめなしという非常に不平等なものだったのです。<br />「松之大廊下」は、「本丸表御殿」の大広間から将軍との対面所である「白書院」に至る西へ19m、北へ31m、幅5m、畳敷きの廊下です。「忠臣蔵」では、「赤穂浪士」(あこうろうし)討ち入りの引き金となった事件として描かれ、映画などでは「松之大廊下」がシーン名にもなっています。「松之大廊下」の跡地には標石と解説板が設置されています。また、今改装のため休館中ですが、「江戸東京博物館」には、「松の大廊下」の模型が展示されているそうです。<br />③「平川門」<br />「皇居」の「平川門」は、大奥の奥女中や大奥出入りの商人、さらには北の丸周辺に屋敷を構えた「徳川御三卿」の「清水家」、「田安家」、「一橋家」が使った門です。また、別名「不浄門」とも呼ばれ、江戸城で重罪を犯した人、死んだ人はここから搬出されました。元禄14年(1701年)には、殿中の「松之大廊下」で刃傷沙汰である「赤穂事件」を起こした「浅野内匠頭」は重罪人として、城内の座敷牢に留め置かれた後、この「平川門」から一関藩主「田村邸」へ移され、当日切腹となりました。「平川門」は、色々なドラマが生まれた門と言っても過言ではないでしょう。その他にも正徳4年(1714年)に、「絵島生島事件」の奥女中「絵島」もこの門から、さらに「天璋院篤姫」を幼児から育てた老女「菊本」も大奥で自害したため、この門から出されています。天明4年(1784年)に、本丸御殿中ノ間から桔梗ノ間に移る途中、新番組の旗本「佐野善左衛門」(佐野政言)から切りつけられ2日後に死亡した若年寄「田沼意知」もこの門から出されて小伝馬町の牢屋敷に移されています。ユニークな事件では、3代将軍家光の乳母で権勢をふるった「春日局」は、門限に遅れ門衛が掟の例外を認めず寒い一夜を門前で過ごしました。幕府は門衛の「小栗又一郎」をお咎めなしとし、逆にお褒めと500石の加増となっています。<br />ちなみに、「平川門」の歴史を紐解いてみると、「太田道灌」が江戸城を築いた15世紀には、江戸湾に面した現在の「平川門」周辺には、「上平川村」、「下平川村」という村があったのが「平川門」の名の由来です。「太田道灌」の時代から門が築かれていたと推測され、3代将軍「徳川家光」の治世である寛永12年(1635年)に、「高麗門」(第一門)、「渡櫓門」(第二門)という強固な枡形門のスタイルとなりました。門の前の「平川濠」には今も「木橋」が架かっていますが、「高麗門」、「渡櫓門」で構成される「枡形門」で、「木橋」が往時のように残されるのは江戸城でもここだけです。<br />次は、「吉良上野介義央」の墓のある「萬昌院功運寺」へ向かいます。<br /><br />《「平川門」から「萬昌院功運寺」までの交通経路》<br />「吉良上野介義央」の墓のある「萬昌院功運寺」へは、まず、「平川門」から東京メトロ東西線の「竹橋駅」1a口へ行きます。「平川門」から徒歩4分270mほどの距離です。次の駅の「九段下駅」で都営新宿線に乗り換えます。「新宿駅」まで乗車し、都営大江戸線に乗り換え、「東中野駅」で下車します。都営大江戸線「東中野駅」のA2出口を出て、右方向に進みます。30mほど進むと「エイブル」がありますので、手前の角を右折して「東中野銀座通り」に入ります。後は道なりに11分700mほど直進すると右手に「萬昌院功運寺」の山門があります。途中に「早稲田通り」があり、そこから300mほどの距離です。<br />「萬昌院功運寺」に到着すると山門が閉まっていました。山門の前で途方に暮れていると、柵の向こう側に警備員がいて、どのような用件か訊かれました。「吉良上野介義央」の墓をお参りしたい旨を告げると、訪問者一覧のノートに月日、氏名、住所を記載するように言われました。そして、警備員から境内では写真撮影は一切禁止であると告げられました。せっかくここまで来て写真が撮れなかったのは残念でしたが、それはルールなので仕方がないと思い、「吉良上野介義央」の墓参りをしました。<br />④「萬昌院功運寺」<br />「萬昌院功運寺」は、曹洞宗の寺院です。実は、昭和23年(1948年)に合併するまでは「久寶山萬昌院」と「竜谷功運寺」という別々のお寺でした。「久寶山萬昌院」は、戦国武将として有名な「今川義元」の子である「今川(一月)長得」(開祖)が天正2年(1574年)に「佛照圓鑑禅師」(開山)をまねいて半蔵門の近くに開きました。その後、いくどか移転し、大正3年(1914年)に、牛込より中野に移りましたが、3年後の大正6年(1574年)に本堂が焼失してしまいました。「竜谷山功運寺」は、慶長3年(1598年)に、「永井尚政」(開祖)が父「永井尚勝」・祖父「永井重元」のため、「黙室芳誾禅師」(開山)をまねいて桜田門外に開いたお寺です。「功運寺」がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922年)のことです。<br />「萬昌院功運寺」には、忠臣蔵で有名な「吉良上野介」、作家の「林芙美子」、戦国武将の「今川家」、浮世絵師の「歌川豊国」など有名人の墓が沢山あります。「吉良家」の墓所は、平成3年(1991年)に中野区登録文化財に指定されています。また、昭和55年(1980年)には、「吉良上野介」の墓の前には、「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。<br />次は、最後の訪問地である「寺坂吉右衛門信行」の墓のある港区南麻布の「曹渓寺」に向かいました。<br /><br />《「萬昌院功運寺」から「曹渓寺」までの交通経路》<br />「寺坂吉右衛門信行」の墓のある「曹渓寺」へは、都営大江戸線「東中野駅」から「麻布十番駅」へ行き、東京メトロ南北線に乗り換え「白金高輪駅」で下車しました。「曹渓寺」へのアクセスは、東京メトロ南北線「白金高輪駅」の3番出口を出て左方向に10mほど進むと「麻布通り」(都道415号線)になります。そこを左折し、「麻布通り」沿いに道なりに480mほど進みます。途中に「首都高速2号目黒線」の高架をくぐります。「みずほ銀行麻布支店」の手前の角を左折します。100mほど進むと「古川橋病院」があり、進行方向正面に細い路地がありますので、それを道なりに進むと「曹渓寺」の山門があります。<br /><br />⑤「曹渓寺」<br />「曹渓寺」は、臨済宗妙心寺派の寺院です。「曹渓寺」は、酒井雅楽頭忠世の室で榊原式部少輔康政の息女「聖興寺殿梅月慈光大姉」が開基しました。そして、「勅諡圓覺大鑑禅師絶江和尚」が元和9年(1623)に麻布今井に開山し、承応2年(1653年)の現在の地へ移転しました。ちなみに、時代の背景として、江戸時代には、参勤交代の大名に江戸屋敷を与えるために移転させられた寺院が多かったそうです。また、赤穂義士の一人「寺坂吉右衛門信行」が寺男として「曹渓寺」で働いていました。そして、明治23年(1890年)には「麻布獣医学園麻布大学」の前身が当寺境内で設立されましたという由緒あるお寺です。<br />赤穂義士の「寺坂吉右衛門信行」は足軽頭の「吉田忠左衛門」の組下で、足軽ではただ一人の加盟者でした。討ち入りまでは「伴介」と変名し、「吉田忠左衛門」の下僕として働き、仇討ちの後、「大石内蔵助」の使者として浅野内匠頭夫人である「瑶泉院」に終始を報告し、更に大石夫人のいる但馬国豊岡へ向いました。その後、「吉田忠左衛門」の長女が嫁いでいる伊藤家に仕え、それから麻布「曹渓寺」の寺男となり、最後は或る人の紹介で旗本の山内家へ出仕し、83才で大往生したと伝えられています。曹渓寺の墓には「節岩了貞信士 寺坂信行 延亨四丁卯年十月六日卒」と刻まれています。延亨4年は西暦1747年で、「寺坂吉右衛門」は83才でした。隣には、寄り添うように「粛室知秋信女 寺坂信行妻 延亨二乙牛年九月十二日」と刻まれた妻の墓もありました。 <br />また、「寺坂吉右衛門」の墓は46士とともに「泉岳寺」にもあります。刻まれている文字は「遂道退身信士 寺坂吉右衛門信行 元禄十六年二月四日」となっています。「大石内蔵助」を始め四十六士の戒名には「刃」と「剱」の文字がありますが、「寺坂吉右衛門」にはそうした文字は刻まれていません。<br />次は、最後の訪問地である「堀部武庸加功遺跡碑」がある新宿区西早稲田の「水稲荷神社」に向かいました。<br /><br />《「曹渓寺」から「堀部武庸加功遺跡碑」がある「水稲荷神社」までの交通経路》<br />東京メトロ南北線「白金高輪駅」から「四ツ谷駅」で東京メトロ丸の内線に乗り換え「新宿三丁目駅」へ行きます。次に、東京メトロ副都心線へ乗換え、「雑司ケ谷駅」に行き、さらに、都電荒川線に乗り換え「西早稲田駅」で下車します。「水稲荷神社」へのアクセスは、都電荒川線「早稲田駅」の改札口を出て、右側にある横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ったら右折し、180mほど道なりに進みます。最初の信号を渡り左折します。130mほど直進すると右手に、「水稲荷神社」へ通じる石段があります。<br /><br />⑥「水稲荷神社」<br />「水稲荷神社」は、新宿区西早稲田にある神社です。「水稲荷神社」の創建年代は不詳ですが、天慶4年(941年)に鎮守府将軍「俵藤太秀郷朝臣」が、現在の境内から南方およそ300mにあった旧社地の富塚の上に「稲荷大神」を勧請しました。古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」といわれていました。また、別の説として、文亀元年(1501年)に「上杉治部少輔朝良」が勧請したともいわれています。天文19年(1550年)には「牛込主繕正時国」が社殿を造営しました。そして、江戸中期には境内の大椋に霊水が湧き、「水稲荷神社」の霊水が眼病治癒に効果あり、また、火難除けにも効果があると信仰され、それ以来「水稲荷」と呼ばれるようになりました。<br />そして、「水稲荷神社」には、赤穂義士の一人である「堀部武庸加功遺跡碑」があることでも有名です。「水稲荷神社」の石段を登ったところに、この石碑は建っています。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場がありました。元禄7年(1694年)に、そこで行われたのが、「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いです。助太刀をした「堀部安兵衛」は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。その後、「堀部武庸」(安兵衛)はこの助太刀が評判となって赤穂藩の「堀部金丸」と養子縁組、赤穂藩に仕官することとなります。まさに人生を大きく左右する分岐点であったことにはまちがいありません。<br /><br />これで、赤穂義士のゆかりの地を巡る私の旅は、当初の目的を達成することができました。これから日本各地を旅することがあるので、他府県に赤穂義士のゆかりの地を発見したら、口コミという形でレポートして行きたいと思います。<br />

泉岳寺への義の道のり~赤穂義士のゆかりの地を求めて~第5回目【都内各所】

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2024/01/12 - 2024/01/12

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Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2024/01/12

  • 東京メトロ千代田線「北千住駅」(9:00発)⇒東京メトロ千代田線「千駄木駅」(9:08着)

  • 東京メトロ千代田線「千駄木駅」(9:50発)⇒東京メトロ千代田線「大手町駅」(9:58着)

  • 東西線「竹橋駅」(10:45発)⇒「九段下駅」⇒新宿線「新宿駅」⇒大江戸線「東中野」(11:25着)

  • 大江戸線「東中野駅」(12:15)⇒「麻布十番駅」⇒南北線「白金高輪駅」(12:44着)

  • 南北線白金高輪駅(13:45)⇒四谷駅⇒丸の内線新宿三丁目駅⇒雑司ケ谷駅⇒西早稲田駅(14:35)

この旅行記スケジュールを元に

「赤穂義士」の足跡とゆかりの地と周辺の名所・旧跡の巡りの第5回目は、いよいよ、私の「赤穂義士」の道のりとゆかりの地の旅の最終章に入ります。今回は、「吉良上野介義央」の墓のある「萬昌院功運寺」、そして真相不明の赤穂義士の一人である「寺坂吉右衛門信行」の墓のある「曹渓寺」へお参りに行き、その他に「赤穂義士」のゆかりの地である谷中の「観音寺」、そして、元禄赤穂事件の発端の地である皇居東御苑の「松之大廊下跡」と「浅野たくみのかみ」が運び出された「平川門」などを巡りレポートしたいと思います。また、今回は、狭い東京都内ですが結構広範囲になったので、さすがに徒歩でという訳にはいかないので、地下鉄を乗り継いで目的地まで徒歩で行きました。

《赤穂義士関連の見学ルート》
①「観音寺(赤穂義士供養塔)」⇒②「松之大廊下跡」⇒③「平川門」⇒④「吉良上野介義央」の墓のある「萬昌院功運寺」⇒⑤「寺坂吉右衛門信行」の墓のある「曹渓寺」⇒⑥「堀部武庸加功遺跡碑」がある「水稲荷神社」

《「観音寺」までの交通経路》
当日は、自宅から電車を乗り継ぎ、まず、東京メトロ千代田線「千駄木駅」で下車しました。「観音寺」へのアクセスは、東京メトロ千代田線「千駄木駅」の1番出口を出て左方向に進むとすぐに信号(表示名「団子坂下」)があります。その信号の横断歩道を渡り、右折して信号の道路の反対側に渡ります。「ミスタードーナッツ千駄木ショップ」のがあり、ゆるやかな「三崎坂」になりますので、それを570mほど上ると、「谷中墓地」の手前の信号の左側に中華料理「珎々亭」があります。そこを左折し、250mほど直進すると左手に「観音寺」の「山門」があります。徒歩で11分ほどかかりました。

①「観音寺(赤穂義士供養塔)」
「観音寺」は、慶長年間(1596年-1615年)に神田北寺町に建立し、延宝8年(1680年)に神田から現在地に移転し、以来「谷中寺町」の一角を形成しています。「観音寺」は、谷中のシンボルであり、幕末の頃に作られた「築地塀」で有名です。「築地塀」は、国の登録有形文化財に指定されています。また、平成4年(1992年)には、歴史的文化財の多い台東区において「まちかど賞」を受賞しています。「観音寺」は、はもと「長福寺」と称し、享保元年(1716年)に「観音寺」と改称しました。「築地塀」のそばを通ると江戸時代の風景が見えてくるような気がしました。
「赤穂浪士供養塔」は、「本堂」に向かって右側にある「宝篋印塔」です。「赤穂浪士」討入りに名を連ねた「近松勘六行重」と「奥田貞右衛門行高」が「観音寺」の第6世「朝山大和尚」の兄弟であったことから、「赤穂浪士討入り」の会合にもよく使われ、討入り後には「赤穂浪士供養塔」が建立されました。
また、「観音寺」門前の道は、不忍池からひぐらしの里(日暮里)まで通じる、いわゆる「谷中のみち」で、江戸時代には文人墨客や粋人たちが、四季おりおりに杖をひいたと言われています。そして、「観音寺」は、「御府内八十八ヶ所霊場」42番札所、「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場」32番、御府内二十一ヶ所霊場3番札所となっています。
【「観音寺」の見どころ】
? 「築地塀」とは
今まで知らなかったのですが、「観音寺」を訪れ初めて「築地塀」の正しい読み方を学習しました。正しくは、「築地塀」は、「つきじべい」いではなく「ついじべい」と発音するそうです。「観音寺」は、谷中のシンボルであり、幕末の頃に作られた「築地塀」で有名です。「築地塀」は、国の登録有形文化財に指定されています。また、平成4年(1992年)には、歴史的文化財の多い台東区において「まちかど賞」を受賞しています。「築地塀」とはいわゆる土塀のことで、単に築地とも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築工法で作られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。古くは土のみで作られましたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど、様々です。
? 「赤穂浪士供養塔」
「赤穂浪士」の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られています。47士に名をつらねる「近松勘六行重」と「奥田貞右衛門行高」は、当時に「長福寺」と呼ばれていた後の「観音寺」で修行していた「文良」の兄と弟でした。「文良」とは、「長福寺」第6世となった「朝山大和尚」のことです。寺伝によれば、「文良」は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたそうです。明治末の「福本日南」の著作「元禄快挙録」には、「勘六」は死にのぞみ「今日の仕儀「勘六」喜んで身罷ったと、「長福寺」の「文良」へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されています。「観音寺」はもと「長福寺」と称し、享保元年(1716年)に「観音寺」と改称しました。 本堂に向かって右側にある「宝篋印塔」は「四十七士慰霊塔」として古くから霊を弔う人が訪れている。上部に「四方仏」を表す種字(梵字)、下部に「宝篋印陀羅尼経」、宝永4年(1707年)3月吉日、長福寺6世朝山の名が刻まれています。
次は、「皇居東御苑」にある「松之大廊下跡」と「平川門」へ向かいます。

《「松之大廊下跡」と「平川門」までの交通経路》
「観音寺」から東京メトロ千代田線「千駄木駅」まで戻り、元禄赤穂事件の発端となる歴史的事件が起こった「皇居東御苑」にある「松之大廊下跡」へ向かいます。東京メトロ千代田線「千駄木駅」から「大手町駅」までは8分ほどの乗車時間です。そして、東京メトロ千代田線「大手町駅」のC13a出口を出ると皇居の「大手門」が左手前方に見えます。「大手門」から「松之大廊下跡」までは、徒歩7分600mほどです。「松之大廊下跡」から「平川門」まで徒歩11分750mほどの距離です。

②「松之大廊下跡」
「江戸城本丸」の「表御殿大広間」から「白書院」に続いていたのが有名な「松之大廊下」(松之廊下)です。「江戸城」で2番目に長い廊下で、襖戸に松並木と千鳥が描かれていました。元禄14年(1701年) 3月14日に、赤穂藩主の「浅野内匠頭長矩」が高家衆筆頭の「吉良上野介義央」に対し起こした刃傷事件の現場として有名です。「浅野内匠頭長矩」は、「此間の遺恨覚えたるか」と叫んでいきなり背中から、「吉良上野介義央」を切りつけました。驚いた「吉良上野介義央」が振り向いたところを更に額に一太刀きりつけました。烏帽子の金具で止まった額の傷は三寸五分から六分(約11センチ)で、背中の傷は三針縫う程度でした。何とこれが討ち入りの時には額の傷痕は残っていませんでしたが、背中の傷が本人確認の決め手となったそうです。
そして、この日は、幕府にとって大切な日でもありました。何故かというと、朝廷からの使者(勅使)を返礼する儀式が行われていたからです。「吉良上野介義央」は軽傷でしたが、殿中での刃傷はご法度であったので、第5代将軍「徳川綱吉」は激怒し、「浅野内匠頭長矩」は、その日のうちに切腹を命ぜられました。その後、赤穂藩は取りつぶしとなり、家臣たちは浪士となりました。一方、「吉良上野介義央」には、おとがめなしという非常に不平等なものだったのです。
「松之大廊下」は、「本丸表御殿」の大広間から将軍との対面所である「白書院」に至る西へ19m、北へ31m、幅5m、畳敷きの廊下です。「忠臣蔵」では、「赤穂浪士」(あこうろうし)討ち入りの引き金となった事件として描かれ、映画などでは「松之大廊下」がシーン名にもなっています。「松之大廊下」の跡地には標石と解説板が設置されています。また、今改装のため休館中ですが、「江戸東京博物館」には、「松の大廊下」の模型が展示されているそうです。
③「平川門」
「皇居」の「平川門」は、大奥の奥女中や大奥出入りの商人、さらには北の丸周辺に屋敷を構えた「徳川御三卿」の「清水家」、「田安家」、「一橋家」が使った門です。また、別名「不浄門」とも呼ばれ、江戸城で重罪を犯した人、死んだ人はここから搬出されました。元禄14年(1701年)には、殿中の「松之大廊下」で刃傷沙汰である「赤穂事件」を起こした「浅野内匠頭」は重罪人として、城内の座敷牢に留め置かれた後、この「平川門」から一関藩主「田村邸」へ移され、当日切腹となりました。「平川門」は、色々なドラマが生まれた門と言っても過言ではないでしょう。その他にも正徳4年(1714年)に、「絵島生島事件」の奥女中「絵島」もこの門から、さらに「天璋院篤姫」を幼児から育てた老女「菊本」も大奥で自害したため、この門から出されています。天明4年(1784年)に、本丸御殿中ノ間から桔梗ノ間に移る途中、新番組の旗本「佐野善左衛門」(佐野政言)から切りつけられ2日後に死亡した若年寄「田沼意知」もこの門から出されて小伝馬町の牢屋敷に移されています。ユニークな事件では、3代将軍家光の乳母で権勢をふるった「春日局」は、門限に遅れ門衛が掟の例外を認めず寒い一夜を門前で過ごしました。幕府は門衛の「小栗又一郎」をお咎めなしとし、逆にお褒めと500石の加増となっています。
ちなみに、「平川門」の歴史を紐解いてみると、「太田道灌」が江戸城を築いた15世紀には、江戸湾に面した現在の「平川門」周辺には、「上平川村」、「下平川村」という村があったのが「平川門」の名の由来です。「太田道灌」の時代から門が築かれていたと推測され、3代将軍「徳川家光」の治世である寛永12年(1635年)に、「高麗門」(第一門)、「渡櫓門」(第二門)という強固な枡形門のスタイルとなりました。門の前の「平川濠」には今も「木橋」が架かっていますが、「高麗門」、「渡櫓門」で構成される「枡形門」で、「木橋」が往時のように残されるのは江戸城でもここだけです。
次は、「吉良上野介義央」の墓のある「萬昌院功運寺」へ向かいます。

《「平川門」から「萬昌院功運寺」までの交通経路》
「吉良上野介義央」の墓のある「萬昌院功運寺」へは、まず、「平川門」から東京メトロ東西線の「竹橋駅」1a口へ行きます。「平川門」から徒歩4分270mほどの距離です。次の駅の「九段下駅」で都営新宿線に乗り換えます。「新宿駅」まで乗車し、都営大江戸線に乗り換え、「東中野駅」で下車します。都営大江戸線「東中野駅」のA2出口を出て、右方向に進みます。30mほど進むと「エイブル」がありますので、手前の角を右折して「東中野銀座通り」に入ります。後は道なりに11分700mほど直進すると右手に「萬昌院功運寺」の山門があります。途中に「早稲田通り」があり、そこから300mほどの距離です。
「萬昌院功運寺」に到着すると山門が閉まっていました。山門の前で途方に暮れていると、柵の向こう側に警備員がいて、どのような用件か訊かれました。「吉良上野介義央」の墓をお参りしたい旨を告げると、訪問者一覧のノートに月日、氏名、住所を記載するように言われました。そして、警備員から境内では写真撮影は一切禁止であると告げられました。せっかくここまで来て写真が撮れなかったのは残念でしたが、それはルールなので仕方がないと思い、「吉良上野介義央」の墓参りをしました。
④「萬昌院功運寺」
「萬昌院功運寺」は、曹洞宗の寺院です。実は、昭和23年(1948年)に合併するまでは「久寶山萬昌院」と「竜谷功運寺」という別々のお寺でした。「久寶山萬昌院」は、戦国武将として有名な「今川義元」の子である「今川(一月)長得」(開祖)が天正2年(1574年)に「佛照圓鑑禅師」(開山)をまねいて半蔵門の近くに開きました。その後、いくどか移転し、大正3年(1914年)に、牛込より中野に移りましたが、3年後の大正6年(1574年)に本堂が焼失してしまいました。「竜谷山功運寺」は、慶長3年(1598年)に、「永井尚政」(開祖)が父「永井尚勝」・祖父「永井重元」のため、「黙室芳誾禅師」(開山)をまねいて桜田門外に開いたお寺です。「功運寺」がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922年)のことです。
「萬昌院功運寺」には、忠臣蔵で有名な「吉良上野介」、作家の「林芙美子」、戦国武将の「今川家」、浮世絵師の「歌川豊国」など有名人の墓が沢山あります。「吉良家」の墓所は、平成3年(1991年)に中野区登録文化財に指定されています。また、昭和55年(1980年)には、「吉良上野介」の墓の前には、「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。
次は、最後の訪問地である「寺坂吉右衛門信行」の墓のある港区南麻布の「曹渓寺」に向かいました。

《「萬昌院功運寺」から「曹渓寺」までの交通経路》
「寺坂吉右衛門信行」の墓のある「曹渓寺」へは、都営大江戸線「東中野駅」から「麻布十番駅」へ行き、東京メトロ南北線に乗り換え「白金高輪駅」で下車しました。「曹渓寺」へのアクセスは、東京メトロ南北線「白金高輪駅」の3番出口を出て左方向に10mほど進むと「麻布通り」(都道415号線)になります。そこを左折し、「麻布通り」沿いに道なりに480mほど進みます。途中に「首都高速2号目黒線」の高架をくぐります。「みずほ銀行麻布支店」の手前の角を左折します。100mほど進むと「古川橋病院」があり、進行方向正面に細い路地がありますので、それを道なりに進むと「曹渓寺」の山門があります。

⑤「曹渓寺」
「曹渓寺」は、臨済宗妙心寺派の寺院です。「曹渓寺」は、酒井雅楽頭忠世の室で榊原式部少輔康政の息女「聖興寺殿梅月慈光大姉」が開基しました。そして、「勅諡圓覺大鑑禅師絶江和尚」が元和9年(1623)に麻布今井に開山し、承応2年(1653年)の現在の地へ移転しました。ちなみに、時代の背景として、江戸時代には、参勤交代の大名に江戸屋敷を与えるために移転させられた寺院が多かったそうです。また、赤穂義士の一人「寺坂吉右衛門信行」が寺男として「曹渓寺」で働いていました。そして、明治23年(1890年)には「麻布獣医学園麻布大学」の前身が当寺境内で設立されましたという由緒あるお寺です。
赤穂義士の「寺坂吉右衛門信行」は足軽頭の「吉田忠左衛門」の組下で、足軽ではただ一人の加盟者でした。討ち入りまでは「伴介」と変名し、「吉田忠左衛門」の下僕として働き、仇討ちの後、「大石内蔵助」の使者として浅野内匠頭夫人である「瑶泉院」に終始を報告し、更に大石夫人のいる但馬国豊岡へ向いました。その後、「吉田忠左衛門」の長女が嫁いでいる伊藤家に仕え、それから麻布「曹渓寺」の寺男となり、最後は或る人の紹介で旗本の山内家へ出仕し、83才で大往生したと伝えられています。曹渓寺の墓には「節岩了貞信士 寺坂信行 延亨四丁卯年十月六日卒」と刻まれています。延亨4年は西暦1747年で、「寺坂吉右衛門」は83才でした。隣には、寄り添うように「粛室知秋信女 寺坂信行妻 延亨二乙牛年九月十二日」と刻まれた妻の墓もありました。 
また、「寺坂吉右衛門」の墓は46士とともに「泉岳寺」にもあります。刻まれている文字は「遂道退身信士 寺坂吉右衛門信行 元禄十六年二月四日」となっています。「大石内蔵助」を始め四十六士の戒名には「刃」と「剱」の文字がありますが、「寺坂吉右衛門」にはそうした文字は刻まれていません。
次は、最後の訪問地である「堀部武庸加功遺跡碑」がある新宿区西早稲田の「水稲荷神社」に向かいました。

《「曹渓寺」から「堀部武庸加功遺跡碑」がある「水稲荷神社」までの交通経路》
東京メトロ南北線「白金高輪駅」から「四ツ谷駅」で東京メトロ丸の内線に乗り換え「新宿三丁目駅」へ行きます。次に、東京メトロ副都心線へ乗換え、「雑司ケ谷駅」に行き、さらに、都電荒川線に乗り換え「西早稲田駅」で下車します。「水稲荷神社」へのアクセスは、都電荒川線「早稲田駅」の改札口を出て、右側にある横断歩道を渡ります。横断歩道を渡ったら右折し、180mほど道なりに進みます。最初の信号を渡り左折します。130mほど直進すると右手に、「水稲荷神社」へ通じる石段があります。

⑥「水稲荷神社」
「水稲荷神社」は、新宿区西早稲田にある神社です。「水稲荷神社」の創建年代は不詳ですが、天慶4年(941年)に鎮守府将軍「俵藤太秀郷朝臣」が、現在の境内から南方およそ300mにあった旧社地の富塚の上に「稲荷大神」を勧請しました。古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」といわれていました。また、別の説として、文亀元年(1501年)に「上杉治部少輔朝良」が勧請したともいわれています。天文19年(1550年)には「牛込主繕正時国」が社殿を造営しました。そして、江戸中期には境内の大椋に霊水が湧き、「水稲荷神社」の霊水が眼病治癒に効果あり、また、火難除けにも効果があると信仰され、それ以来「水稲荷」と呼ばれるようになりました。
そして、「水稲荷神社」には、赤穂義士の一人である「堀部武庸加功遺跡碑」があることでも有名です。「水稲荷神社」の石段を登ったところに、この石碑は建っています。江戸の昔、この近辺には「高田馬場」と呼ばれた馬の練習場がありました。元禄7年(1694年)に、そこで行われたのが、「高田馬場の決闘」として有名な果たし合いです。助太刀をした「堀部安兵衛」は、ただ1人生き残って名を挙げ、さらに7年後には赤穂浪士の仇討ちにも参加して、伝説的な豪傑となりました。その後、「堀部武庸」(安兵衛)はこの助太刀が評判となって赤穂藩の「堀部金丸」と養子縁組、赤穂藩に仕官することとなります。まさに人生を大きく左右する分岐点であったことにはまちがいありません。

これで、赤穂義士のゆかりの地を巡る私の旅は、当初の目的を達成することができました。これから日本各地を旅することがあるので、他府県に赤穂義士のゆかりの地を発見したら、口コミという形でレポートして行きたいと思います。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
私鉄 徒歩

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