2023/11/05 - 2023/11/09
7032位(同エリア25673件中)
ソウルの旅人さん
- ソウルの旅人さんTOP
- 旅行記56冊
- クチコミ8件
- Q&A回答1件
- 36,425アクセス
- フォロワー12人
大都会ソウルの街中に15~19世紀の歴史が埋もれている。「その7」はその跡を訪ねる。
タイトル写真は19世紀ソウルに建てられ、21世紀に残った「貞洞の塔」
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
PR
-
「龍山踏切」から市庁前に戻ってきた。
右の壁は徳寿宮である。 -
徳寿宮の南塀に沿った坂道が有名なトムダムキル(石垣道)で、これまで何度も歩いた。
-
本日11月9日頃は銀杏の黄葉最盛期のはずだが、既に落葉した銀杏の葉が路面を覆っていた。今年は季節の進行が早かった。
-
裸になった銀杏並木を上っていく。
観光客が絶えない道だが、午前9時過ぎなので閑散としている。
遠方に見える青い箱はポリボックスである。風雅な散歩道には似つかわしくない。 -
トムダルキムを上りきると貞洞のロータリーがある。
赤煉瓦は貞洞第一教会、その左奥がロシア大使館になる。 -
このロータリーを徳寿宮の壁なりに右折する。
この道は7年前迄は先ほどのポリボックスが監視しているようで入りづらく避けていた。今回初めて歩くことになる。保護柵が設けられた立派な歩道であった。そして何より目立つのは警察の大型バスが2台も駐まっていることであり、厳重警戒地帯の雰囲気である。 -
少し歩くと星条旗が翻っていた。
アメリカ大使公邸である。あの警察車輌はこの公邸を警備している。青のボックスには警察官が座っていた。
大使の住む建屋は平屋建てのようで、かすかに韓屋風の屋根だけが見える。塀の上の進入防止金網が無粋だが、徳寿宮と同じ韓国風の石塀であり、周囲景観によく溶け込んでいる。 -
右は徳寿宮の壁・左はアメリカ大使公邸の壁
韓国風石塀に囲まれた雰囲気を満喫できる散歩道になっている。
喧騒と猥雑の明洞・南大門・東大門もいいが、気品あるソウルを味わうならここを推奨する。 -
徳寿宮に門があった。
コネスト地図には平成門と記載されている。 -
半開の門より徳寿宮内部を覗くと、白い西洋建築物の大韓帝国歴史館が見えた。
もし、この門が19世紀末にもあったならば、ここは重要な歴史の舞台である。 -
なおも歩いて行くと三角屋根の惇徳殿が見えて来る。遠方には高層ビルが聳え、西洋風と韓国風が奇妙に混在する風景が展開される。
-
左側のアメリカ大使公邸の塀が途切れると、そこに通用口のような門があった。
-
入口に掲げてある標示板
「高宗の道」とある。高宗は19世紀末から20世紀初頭の朝鮮王朝の王様である。
英語表記は[King's Road]となっている。
こんな場所が何の由縁があっって[王様の道]となっているのか? -
管理員らしき人が立っていたが声を掛けられることはなく、入場券がいるわけでもなく、そのまま入口を潜り「高宗の道」に入っていける。
つい最近整備したと見える真新しい道である。鋼製パネルにて周囲と仕切ってある。 -
鋼製パネルに貼ってあった写真。
1900年の徳寿宮とその周辺の貴重な写真である。手前の石塀がトムダルキル(石垣道)なのだろうか?
19世紀後半から20世紀にかけては徳寿宮が歴史の主舞台となる。 -
真っ新の整備の行き届いた道が続く。アメリカ大使公邸側は石塀にて完全に遮断されていた。
“1895年10月8日に日本軍は当時の宮殿であった景福宮に討ち入り、皇后であった明成皇后を殺害する。その後、高宗は徳寿宮に軟禁状態に置かれ、日本軍の厳重な監視下にあり、自由を奪われていた。” -
反対側(北方向)はソウル市内を見渡せる。中央の煉瓦色建造物はおそらく貞洞1928アートセンター、その左後のビルはコリアナホテル、その横の細長いビルは東亜日報である。空地が残っており、今後整備される用地だろう。
“高宗は日本の強圧から逃れ、徳寿宮からの脱出を計画する。” -
両脇を石塀に囲まれて道は延びる。
“1896年2月11日に高宗は日本の厳しい監視の目を逃れ、女官の外出を装って女籠にのって脱出した。もし、日本軍に見つかれば皇后と同じ運命か、少なくとも退位を強制されるであろう。命懸けの逃亡劇である。女籠の中で恐怖に震える気弱な高宗の姿が想像される。” -
出口の門が見えて来た。ここまで上り坂300~400㍍余りか?
高宗が逃れた道はこんな整備された道ではなく、暗闇の疎林の中を道とはいえない小径を急いだに違いない。 -
門を潜ると貞洞公園に出た。
-
そして、眼前に現れたのは改修工事中の旧ロシア公使館の塔である。1896年にはここにロシア公使館が建っており、現在は塔だけが残っている。
“高宗は日本軍から逃れて、ロシア公使館に亡命したのである。「露館(俄館)播遷」と呼ばれる高宗の逃亡道を再現したのが「高宗の道」である。” -
全面足場を組んだ本格的改修である。
“高宗はロシアに庇護されて、1年近くもこの公使館で政治を執る。日本の傀儡だった内閣を廃し、親ロシアの内閣を作った。” -
改修資材が積み上げられて工事の真っ最中だった。
“日本とロシアに挟まれ、李氏朝鮮はどちらかの勢力に依拠しなければ成立しない王朝になっていた。その状況が悲劇である。親ロシア政策を進めるも日本の攻勢も激しく、日露の争いが一層激化する。” -
本日は塔が改修中でその姿が見えない。
よって、10年近く前になるが、私が2014年10月ソウル旅行時に撮影したロシア公使館塔の写真を掲載しておく。
この時は勿論「高宗の道」はなかった。 -
塔だけが寂しくポツンと単独で建っていたが、周囲の景観との違和感はない。
“1900年前後の朝鮮は高宗をはさんで日本・ロシアが制覇権を争っていた。” -
130年以上の月日が経過した塔であるが、優美な姿をそのまま保っている。
改修された姿は新築のように綺麗になっていそうだ。 -
2014年時も公園として整備されており、この塔は歴史遺物として大事にされていた。19世紀末から20世紀初頭の極東アジア歴史の生き証人である。
-
工事現場壁に貼ってあったロシア公使館の1896年の写真。偉容を誇る建物である。当時のソウルにあった最高の建造物だろう。
歴史の推移を見れば高宗の露館播遷より日露の争いが一層激化し、それが日露戦争に繋がったことがよく解る。
【年譜】
1895年 明成皇后殺害
1896年 高宗露館播遷
1899年 大韓帝国成立
1904年 日露戦争勃発
1905年 日露戦争終結 日本の勝利
1905年 日本が朝鮮を保護国化する
1907年 日本により高宗が強制退位させられる
1910年 日本が朝鮮を植民地にする
1919年 高宗死去 -
1900年のロシア公使館の全体写真
粗末な藁屋根朝鮮家屋の向こうに豪壮な公使館が聳え塔が屹立している。塔だけが残った現在の写真と比べ、時の流れが強烈に感じられる。 -
工事柵に貼ってあった想像図。
手前が徳寿宮、奥がロシア公使館であり、その間に延びる道が歩いてきた「高宗の道」である。判りやすいが、チョット出来すぎか。 -
「高宗の道」を引き返す。
King's Roadと記載された地図は古いものではなく、最近に作られた地図であることが判り、この道の歴史的信憑性が疑われているようだ。高宗の逃亡経路は不明であり、この道は歴史の捏造であると批判がおきている。 -
帰り道。案外キツイ坂道である。
捏造批判があるものの「高宗は当時徳寿宮に軟禁されていたのであり、徳寿宮から抜け出してロシア公使館に辿り着くにはこの道は最も相応しい。十分な説得力を持っている。この道が歴史の証人である確率は高い。」と考えられる。 -
高宗の道を終えて再び徳寿宮の塀沿いに歩く。
徳寿宮はこの北面だけ歩ける道がなかったが、コロナの期間中に整備され宮殿周囲をグルッと一周出来るようになった。 -
右が徳寿宮の石塀。
左は地図に記載無く不明。 -
癒やされる道
秋の陽をあびて散歩する絶好のローケーションである。 -
左側に立派な紋章を刻印した門が現れた。
イギリス大使館の通用門。 -
イギリス大使館と徳寿宮は接しており道を確保出来ない為、途中より徳寿宮の構内に入る。木柵で仕切られているので宮の敷地内には入れない。正面に見える奇妙な建築物はあのソウル市役所である。周囲景観を壊す建築物は日本にも多いが、韓国にも多い。
-
徳寿宮構内を出るとイギリス大使館である。正門か裏門かは不明。
私は八年前にイギリス大使館の写真を撮りに行った時、門衛が飛び出してきて大声で「駄目ダ!」と怒鳴られたことがある。門衛がいないので恐らく裏門である。 -
徳寿宮塀沿いの道が終わる。
警察車輌はイギリス大使館を警護している。
貞洞にロシア・イギリス・アメリカの大使館関係が軒を並べる。この辺りは19世紀ヨーロッパ列強の根拠地だった場所であり、韓国の国際的地位がこれだけ上昇しても当時の面影を残している。 -
徳寿宮周回道路の終点風景
両手を空に向けて伸び上がる人物像オブジェ、地下鉄市庁駅の標示板、道路標識、駐車している酒を積んだトラック、到着した女性ライダーなどが雑多に混在している。
この後は乙支路3街にある喫茶店に向う。 -
地下鉄乙支路3街駅1番出口を出てそのまま真っ直ぐ行き、最初の角を右に曲ると極細い路地がある。ひと一人がぎりぎり通れるほど狭い。狭い路地とは承知していたが、あまりにも狭いので気が付かずに通り過ぎ、引き返した程である。
-
左隣はノレバン(カラオケ屋)、右隣はタッカルビ屋である。
この路地はかなり知られているようで、目新しく紹介する程ではないが、一応路地入口の目印を載せておく。 -
路地に入って行く。
右側は看板に「恵民堂(ヘミンダン)」と記されケーキが並べられたデザートカフェである。朝鮮王朝時代のこの辺りは平民住居地域だった。ヘミンとは庶民を救済する意味であり、此処には貧民救済施設であった「恵民署(ヘミンソ)」があった。 -
路地の左側は珈琲専門店
コネスト地図に「珈琲韓薬房」とある。特別誂えの最高の珈琲を提供する専門店と紹介されていた。ここは朝鮮王朝時代の大医学者である許浚(ホジュン)が治療を施した医院があった場所と伝えられている。韓薬房の名前はそれに因む。許浚は16~17世紀の人であるが、縁の地で珈琲を飲むことに特別の感慨を覚える。
朝鮮王朝の歴史を実感でき、美味しい珈琲を味わえる場所である。旅行プランを組んでいる時にここを見つけ、必ず訪問する目的地とした。
入口はご覧の通り粗末な造りであるが、それがそのまま予想通の装いであり、嬉しくなる。 -
カウンターの女性は4種類ある珈琲のどれを選ぶか聞いてくる。標準と思われるミディアムを注文し、1階は既に満員なので2階に上がる。
-
2階の室内
木の机と椅子、木の壁と扉、そして木の窓枠、全てがノスタルジックを演出している。仄かなテーブルランプも時代を感じさせる。 -
1970年代は乙支路3街あたりはこのようなタバン(喫茶店)が沢山あったそうである。50年前の姿がそのまま残っているようだ。
-
天井の扇風機、虎の絵、古風な照明、愛想のない天井などレトロな雰囲気が充満する。
-
アルミサッシではない木枠の窓が特に懐旧の念を醸す。窓越しには対面する「ヘミンダン」が見える。同じ経営者なのでケーキを取り寄せてこの喫茶店で食べられるとのことだった。
-
路地の上に張り出している2階テラスに出る。
狭いスペースに電線・電話線・クーラー室外機等々が犇めき生活実感に溢れている。 -
「ヘミンダン」の窓
木製の窓枠越しに見える室内も古い洋館のようで、いい雰囲気が感じられる。 -
珈琲
私の独断では韓国のコーヒーは6年前は美味しくなかった。多くの人が同意してくれると思う。ソウルの珈琲はここ数年で飛躍的発達を遂げたとユーチューブでは伝えている。珈琲専門店「韓薬房」に期待した。
上等のコーヒーを沢山飲んできたわけではないけれど、多様な珈琲の味を経験してきた積もりである。期待度が高かった故に低い評価になるのかもしれないが、残念ながら高得点は付けられない。 -
カップは撥ねるとピンと乾いた音がする薄い磁器カップが好みである。カップにはソーサーを付けて欲しい。お盆はレトロだが高級珈琲を運ぶトレーではない。
容器にも配慮が欲しかった。 -
500年前に許浚が医療活動をしていた現地を踏み、実際に訪問出来た事が無性に嬉しかった。そして露地裏のノスタルジックな雰囲気を堪能した。
“想い”を満喫した40分の珈琲タイムだった。 -
時間が余ったので乙支路3街より乙支路4街まで歩いて中部市場まで行く。ソウル旅行中は平均25,000歩/1日歩いた。歩いて見ることが私の旅行である。
写真はその途中にある乙支路と大林・世運商店街の交差点。 -
ソウル市内の観光名所ではなく一般住民が生活している普通の町を紹介するユーチューブが幾つかある。特に露地裏歩きが多い「ソウルをおさんぽ」が面白い。
そこで紹介されていた乙支路3~4街の裏道である。 -
乙支路3街から4街にかけては古い町並みが残っている。
-
この辺りは金属加工の町工場が集住している。
通りを歩くと『鉄』の匂いがした。 -
道路沿いに面して中が見える町工場は昭和20~30年代日本にもあった。
こんな風景があった記憶がある。 -
中部市場
観光用市場ではなく地元密着の雰囲気を残している。
韓国にも大型スーパーは多いが、未だ市場が存在感を存分に発揮して頑張っている。
市場が生き残っている理由は何だろう。 -
この市場は生の魚や肉ではなく、干物系統が多い。
-
イシモチ干物の行列
-
野菜・果物等の乾物品が並べられている。
-
栗を探す。
韓国の栗は安いし、美味しい。ピッタリの栗が見つかったのだが、その店は現金だけしか扱っていない。最終日なのでほぼ現金は使い切り、WOWPASSしか持っておらず購入出来なかった。カード社会になったとはいえ、市場の小店舗では使用不可が当然だろう。WOWPASSに頼ってここでも大失敗である。 -
市場内にはWOWPASSが使える店もあった。
干柿を購入。W25,000だったが、喜ばれるお土産になった。 -
韓国の市場はとても清潔とは云えないが、ここは清潔感があった。
-
荷物を預けてあった鐘路3街の呉竹荘に戻り、最後に残しておいたタプコル公園に寄る。
-
扁額は「サムイルムン」と読める。『三一門』である。
-
園内は銀杏が色づき秋色だった。
立派な公園であるが、多くの老人が各所に座っており、観光客が入り難い雰囲気ではある。 -
公園奥にガラスの保護容器に囲われた石塔がある。
朝鮮王朝では僧侶の城内居住が認められず、徹底した仏教弾圧下にあった。なのにソウルの真中に仏寺の石塔が残っているのは何故であろう。 -
国寶第2號「圓學寺址十層石塔」と刻まれている。
この公園は15世紀に世祖王にて建立された圓學寺の跡地であり、この石塔はその寺院にあったと説明されている。
朝鮮王朝はその事績を詳細に記録した『朝鮮王朝実録』を残した。世祖の足跡も詳らかに記されている。この王は世祖ではなく王子時代の名前である「首陽(スヤン)」と呼ばれることが多く、酷薄そうなその名前が似つかわしい。首陽は韓明澮(ハンミョンヘ)らと共謀し、陰謀を巡らして反対勢力を悉く惨殺する。そして王であった端宗を廃し王位を簒奪するが、最後にはその端宗まで殺害する。凄まじい歴史である。
圓學寺はこの悪逆非道の王にて作られたお寺である。 -
首陽を始め韓明澮・成三問(ソンサンムン)・申叔舟(シンスクチュ)が活躍する15世紀李朝は古い韓国歴史ドラマの主舞台である。
ドラマにおいて首陽は政敵を倒す場合も極めて残忍であり、意識的に残虐な処刑を何度も繰り返す。最後は恨みを抱いて死んだ端宗妃の怨霊によって体全体に吹き出物(おでき)を発して呪い殺される。
悪逆王と呼ぶに相応しい姿が映像化されている。 -
圓學寺創建の由来石碑
首陽は晩年になって自己の悪行を羞じ犠牲者の往生を願って圓學寺を作ったとされている。しかし、首陽は懺悔するような人格ではあるまい。自省するような人間ではなく、単に己の‘心の平安’を願っただけのようだ。由来石碑に犠牲者は出てこない。注目すべき事実は‘心の平安’を儒教ではなく仏教に求め寺院を創建していることである。朝鮮王朝15世紀後半は既に儒教倫理が貫徹されていた世界である。にも拘わらず、仏教に縋った首陽は異端であろう。ドラマのように悪逆王の一言では片づけられない複雑な精神の持ち主だったのかもしれない。 -
老人が座っているので正面から写真が撮れない。斜めから写す。
左側に右手を挙げて演説している像と石碑が見える。 -
独立宣言の碑文
1919年3月1日にタプコル公園で独立宣言が発せられる。
長い歴史を誇る韓国人にとって植民地にされたことは耐えがたい‘屈辱の歴史’である。忘れられない民族の恥辱となっている。 -
よって、植民地独立運動は誇るべき最大の正義であり、その端緒となった「タプコル公園」は扁額に『三一門』を掲げ韓国歴史の聖地になっている。
-
ここは首陽から独立運動まで、15~21世紀に亘ってソウル発祥から現在までを眺めてきた『地』である。
「その8」はソウル駅周辺と仁川第2ターミナル
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- みちるさん 2024/02/21 18:46:58
- 朝鮮王朝の歴史を訪ねる旅♪
- ソウルの旅人さん、こんばんは
徳寿宮、最後の王様の高宗が、過ごした王宮なので、私も興味を持って行きました。
王妃の閔妃殺害までは「明成皇后」で観ました。
親ロシアだった閔妃の事は、ドラマで知りましたが、最後のシーンが嫌で、視聴は1度だけで、昔のことなので、忘れてます(-_-;)
高宗が脱走したのは、ドラマであるのでしょうか。
日本が統治した時代のは、いくつも観ましたが、やはり当然ながら反日色が強いですね。
首陽大君、安平大君、韓明澮が出るのもいくつか観ました。
最近では「王女の男」の二度目も観ましたが、首陽大君の悪どさ、端宗の悲劇とか、見所が多かったです。
「韓明澮」のドラマで、端宗が幼いのに結婚させられ、流刑もで、観ていて哀れで哀しかったです。
ソウルの旅人さんは、皆さんがガイドブックに紹介されてるような、今どきのお店でなく、地元民が行くようなお店で、良いと思います。
ホジュン、私は最初のグァンリョルさんのホジュンの方が好きですが、後のも良かったですよ。
- ソウルの旅人さん からの返信 2024/02/22 16:53:48
- Re: 朝鮮王朝の歴史を訪ねる旅♪
- みちる様、こんにちは
コメントを有難うございます。
ドラマ「明成皇后」には高宗の脱走シーンはありません。我々には厳しい内容ですが、知っておくべき事実でしょう。つい最近に作られた新しい「高宗の道」ですが、周囲景観を含めて訪問の価値がありました。
首陽・韓明澮・端宗・安平大君が生きた時代は直裁な残酷性が露わですが、当時においては当たり前の事だったかも知れません。現在の常識で判断すると首陽が可哀想かも・・・。
狭い路地裏にあるホ・ジュンの医院跡も感激でした。大袈裟になりますが、ホ・ジュンの息吹きを感じました。
今後もあまり知られていない李朝の跡をソウル市内に探す積もりです。
ソウルの旅人
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ソウルの旅人さんの関連旅行記
ソウル(韓国) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
77