2023/11/06 - 2023/11/06
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gianiさん
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岡山は江戸時代から全国有数の城下町でした。
まずは、城下町を横断する旧山陽道沿いを縦断します。
現在も、奉還町商店街/表町商店街/西大寺町商店街といった一大アーケードとして栄えています。一時間ほどで縦断できる距離です。
続いて、岡山城を大手門から本丸まで進みます。
最後に、城を囲む内堀/中堀/外堀/西川を巡って、城下町の全体像を把握します。
岡山の独特な街づくりが見えてきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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岡山駅に到着。
東口には、桃太郎の像があって気分が揚がります。岡山駅東口前広場 公園・植物園
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新幹線改札口横の観光案内所で、「おかやま城下町見て歩きマップ」を手に入れます。遅くまで開いているので助かります。
ももたろう観光センター 名所・史跡
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続いて西口のシティミュージアムへ。
企画展は有料ですが、常設展は無料で、簡単に歴史を学べます。岡山シティミュージアム 美術館・博物館
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1.古墳時代
吉備国と呼ばれた時代に、渡来人がもたらした技術と海上貿易を背景に、ヤマト王権に迫る勢力を誇っていました。市内の造山古墳は全国4位の規模で、天皇陵以外では日本最大の規模です。恐れを為したヤマト政権は征伐に取り掛かり、6世紀後半には勢力が衰えました。 -
2.安土桃山時代
宇喜多直家は、毛利/秀吉に味方して裸一貫から備前47万石の戦国大名になります。息子の秀家は岡山城を築いて(1590-97)、街を整備しました。 -
3.関ケ原合戦後(1601-03)
小早川秀秋が岡山に入城します。秀吉正室ねねの甥で、小早川家へ養子入りした人物です。跡継ぎを遺さずに2年で没し、改易されます。 -
4.江戸時代
小早川家断絶後に、1603年に姫路から池田家が入府します。光政/綱政の代に岡山は整備されます。学校設立/治水/新田開発等を行い、現在の姿の原型が形作られました。
五街道に次ぐ西国街道が幕府によって整備され、岡山城下を経由しました。 -
5.干拓/治水
宇喜多秀家の代から盛んにおこなわれ、昭和までに児島湾等が干拓されて岡山市域は広がりました。
特に、池田光政の治世に津田永忠が行った沖新田開発(黄緑色の部分)と百間川開削(城下町を洪水から守る放水路)は、現在へ通じるインフラ整備です。 -
江戸時代の城下町の姿です。
東から順に、旭川/内堀/中堀/外堀/西川が町を通っており、山陽道沿いに町人町が広がっています。 -
黄緑:侍屋敷
朱:町屋
では、ミュージアムを出て山陽道沿いに城下町を辿って京都方向へ東進してみます。 -
旧山陽道
左端の赤丸から東進(右方向)し、
次の赤丸で南進(下方向)、
次の赤丸で東進(右方向)し、
次の赤丸で南進(下方向)、
次の赤丸で東進(右方向)し、
次の赤丸で北進(上方向)して右端に至ります。 -
ミュージアムから北へ数分進むと、奉還町商店街。
奉還町商店街 市場・商店街
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見事なアーケードです。
実は、旧西国街道沿いに展開しています。
キムラヤ等の老舗が並ぶ魅力的なエリアです。 -
東進して、幹線道路を横断し、さらに東進します。
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線路沿いの地蔵の横の地下道に入ります。
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岡山駅手前の山陽本線を潜ります。
JR山陽本線 乗り物
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青柳橋を渡ります。
鶴をイメージして欄干がデザインされています。
水路沿いに緑道公園が整備されています。西川緑道公園 公園・植物園
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奉還町商店街からひたすら東進してきましたが、国道53号線の1本手前の路地を右折(南進)します。
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瑞雲寺
ちょっと寄り道。上の辻を右折せずに東進して北上すると、関ケ原の軍功で岡山藩主に抜擢された小早川秀秋の菩提寺があります。血統的には秀吉の義理の甥、血縁上は宇喜多秀家/毛利輝元と繋がっており、岡山と所縁のある人物でした。 -
1338年開基の古刹で、秀秋の菩提寺廟所となったのをきっかけに彼の法号(瑞雲院殿前黄門秀厳日詮大居士)に因んで黄門山瑞雲寺と改められました。
黄門は中納言(官位)の唐名で、水戸黄門も水戸藩主が中納言を世襲することに因みます。 -
山陽道に戻ります。暗くなってからの撮影になっていますが、右折した路地を桃太郎大通りまで南進します。グラン岡山というタワマンが目印です。
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終点には、旧地名を記した看板が。博労(牛馬の商人)が多く住んでいました。
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桃太郎大通りの向かいには、光珍寺が。
岡山を開府した宇喜多直家の位牌所で、宇喜多家の菩提寺です。 -
桃太郎大通りを東進します。路面電車が走る目抜き通りです。
桃太郎大通り 名所・史跡
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外堀跡を横断。現在の国道53号線(柳川筋)で、路面電車が通ります。
外堀に架かる橋には、山崎門という木戸がありました。この先は、城内域になります。 -
中堀跡を横断し、
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右折して、アムスメールのアーケードへ侵入します。
オランダ通の一筋西です。
当時も町人町で、中堀と内堀に挟まれた細長い土手のようなエリアでした。表町商店街 市場・商店街
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ちなみに右折でなく、左折すると作州道が分岐します。
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岡山シティミュージアムには、ここに設置されていた道しるべが展示されています。
左:下りみち(下関方面)
作せうみち(作州道)
反対側には、右:上りみち(京都方面)
と刻まれています。 -
アムスメールタワーを通過し、
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天満屋本店を通過します。
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時計塔のあるアーケード上の十字路を左折(東進)します。
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京町通りへ入ります。
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西大寺町商店街としてにぎわう通りです。
東側を並行していた路面電車と合流します。 -
京橋を渡ります。
現在の橋は1934年架設で、水道橋も併設されています。
1593年に宇喜多秀家が架設した歴史ある橋です。
名前の通り、山陽道の京都方面に繋がるルートに架かります。 -
京橋渡り初めの図
1847年の光景で、3つの橋が描かれています。現在地(西詰)には、木戸が描かれており、夜間は閉められていたことがわかります。 -
京橋水管橋(1904)
旭川左岸の地域へ配水する設備で、銅トラス橋としては県内最古です。翌年に完成した岡山市上水道は、全国で8番目に整備された近代水道です。
振り返った構図なので、右側に写っています。 -
旭川には、中州が2つあります。
旭川 自然・景勝地
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中橋を渡ります。
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旭川は、3本に分かれています。
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小橋を渡ります。
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河口まで7.6kmの標示があります。干拓の結果、海が遠くなりました。
岡山の路面電車は、日本で一番短い営業路線です。路面電車 (岡山電気軌道) 乗り物
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国清寺
ちょっと寄り道。
旭川を渡りきると、電車通りの右側に並行する新道(国道250号線)沿いには、岡山藩主池田家の菩提寺があります。 -
1632年に池田光政が、祖父の輝政/父の利隆の菩提寺として建立しました。
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寄り道終了。小橋を直進(東進)し、大手まんぢゅうで有名な廣榮堂本店を左折(北進)して、電車通りに別れを告げます。軒先には「岡山中納言角」と刻まれた石碑があり、山陽道の辻だった歴史を物語ります。
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旧道の右(東)側には、国道250号線が並行します。
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御成川を渡り、
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県庁通りを越えた先にある森下惣門跡までが城下町で、山陽道は大坂へと続きます。
以上が山陽道紀行です。
続いて京橋まで戻って、岡山城を目指します。 -
京橋西詰と西大寺町商店街アーケードの中間を右折して北上します。
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大手門跡
城の南にあった大手門は、城の正門/表玄関のことです。最高の格式が伴うフォーマルなスペースです。
内堀に架かる橋を渡ります。写真のような枡形構造で、突き当りを右折する手間が防衛上のミソです。 -
現在の景色。
十字路を左右に横断する道が内堀跡、その先の駐車場(青いランプ)に大手門跡の案内板が立っています。 -
津田永忠宅跡
上の十字路を左折した電車通り(城下筋)沿いには、25歳で藩政に携わった逸材の屋敷跡が。
沖新田を開発し、干拓で耕地を増大させました。
城下を流れる旭川に百間川と呼ばれる放水路を建設し、城下町を洪水から守ると同時に、沖新田等の田畑への農業用水を確保しました。
他にも飢饉の時に領民を救済するための備蓄米倉庫/藩校等の学校開設/後楽園の造成等多くの事業に携わりました。 -
津田永忠邸を中心とした17世紀の様子。
大手門がプロットされています。
京橋から西進して右折(北上)する山陽道沿いに町屋が建っています。 -
先ほども言及しましたが、表町商店街は内堀と中堀に挟まれた細長いエリアです。中堀に面した西側は土手が築かれていました。相対的に細くて短い中堀は、1881(M14)年に埋立てられました。
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東側の内堀跡は、オランダ通りの東側(写真では右側)になっています。
通り沿いには、シーボルトの娘イネが医学の修業をした場所があります。
内堀/中堀は宇喜多秀家の時代に造営され、外堀は小早川秀秋時代に造営されました。 -
津田邸のある城下筋は内堀に相当し、路面電車を通すために埋立てられました。
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桃太郎大通りと城下筋が合流する地点に、内堀の説明が書かれています。
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◎が現在地。内堀は北上するにつれて幅が広がり、この付近は幅100mに達し、池のような状態です。なぜなら、隠居した城主が居住する西ノ丸(◎の右側)に隣接しているからです。西ノ丸を囲む形で内堀は東進し、本丸を取り囲むように分岐します。
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当時の様子
内堀の北端に石関町の町屋が並び、右には渡櫓の北門と西手櫓が描かれています。 -
西ノ丸西手櫓
岡山城には34の櫓がありましたが、現存するのは此処と本丸月見櫓の2つだけです。豊臣政権が健在だった1603年頃の建築で、武器/兵糧保管庫としての物々しさが感じられます。城下筋から見学できます。 -
西手櫓の隣には、1923年築の岡山禁酒会館が建ちます。プロテスタント系の禁酒啓蒙運動の拠点として建設されました。
岡山禁酒会館 名所・史跡
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現在もNPO法人の酒害相談所が入っています。当時は、アメリカでも禁酒法が制定された時期です。
1階には喫茶店も入っています。 -
おしゃれです。
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西ノ丸は半島状に突き出ているので、石垣と内堀で厳重に保護されていました。現在は埋立てられていて、道路等になっています。
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岡山城の城郭(北を上にするために、逆さに表示しています)
東を旭川、最大で三重に囲まれた内堀/中堀/外堀で囲まれています。
山陽道は、三の丸ならぬ三の曲輪として、防衛を担っています。内堀の内側は侍屋敷のある二の丸、二重の内堀で守られた西ノ丸/二の丸内屋敷、三重の内堀で守られた本丸で構成されています。 -
石山門跡
西ノ丸の南側に位置します。石垣が途切れて通り抜けられるようになっています。石垣の上に廊下状の建物が建つ渡り櫓構造でした。 -
空襲で焼失した遺産です。豊臣家滅亡に伴う一国一城令で、廃城になった富山城の大手門が移設されました 。
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交差点の手前は西ノ丸で、渡ると左側の石垣は石山と呼ばれたエリアです。西ノ丸/石山沿いの道は、現在は烏城みちと呼ばれ、内堀が埋立てられた場所です。
烏城みち 名所・史跡
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上の写真の右側は二の丸で、烏城みち沿いに「太閤の腰掛石」があります。織田信長の命で1582年に備中高松城の水攻めを行う際に、石山の城(岡山城の前身)の本陣の中庭の石に腰掛けて軍議をしました。接待をした松浦家の末裔榎家の持ち物で、イガラシ写真館の前に展示してあります。
備中高松城水攻め見て歩き↓
https://4travel.jp/travelogue/11864502 -
二の丸内屋敷を東西に二分する場所には、桜門および桜の馬場がありました。
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現在は、こんなかんじです。
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林原美術館
岡山藩の支藩新田藩の武家屋敷の長屋門が入口、展示室は元土蔵(共に移設)です。空襲を生き残った貴重な建物です。トレハロースで有名な林原が1964年に開館。林原美術館 美術館・博物館
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余談ですが、岡山駅東口に隣接するイオンモールは、旧林原の所有した有料駐車場跡です。
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本丸を囲む内堀
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大手門から続くルートで本丸へ入るには、目安橋を渡ります。池田光政が橋のたもとに領民の投書を受け付けるための目安箱を設置したのが由来です。 吉宗よりも、かなり前の話です。
目安橋を渡ると内下馬門です。 -
もともとは橋桁のある橋で、明治に土橋になりました。
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スポット地図
⑧西ノ丸西手櫓
⑦石山門
⑥桜門
⑤目安橋/内下馬門
①天守閣 -
周囲は、烏城公園として整備されています。
烏城公園 (岡山城) 公園・植物園
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本丸の東側と北側は、旭川に囲まれています。天守閣の壁が黒いので、烏城と呼ばれています。
岡山城 名所・史跡
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目安橋の南東には、岡山藩筆家老伊木家の屋敷がありました。3万3千石の禄高は、小大名を超える知行です。
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旭川を挟んで本丸の北側には、1687~1700年にかけて池田綱政が造営した後楽園があります。当時は船で渡り、藩主しか使用できない南御成門から入園しました。
続いて、後楽園の西に位置する天神山へ移動します。 -
中堀跡
北端は、天神山を囲むように延びています。
地図の右下は、西門へ通じる現在の桃太郎大通り、下端に内堀が写り込んでいます。 -
天神山一帯は、「メザシの土光さん」こと、岡山市出身の土光敏夫氏を記念した公園になっています。
現在のIHIや東芝の再建を果たした後に経団連の会長を務めた人物で、質素な生活にまつわるエピソードが多々ありますが、美食とは正反対のメザシが毎晩の主菜という話が際立っています。 -
苑内にある天神山文化プラザには、中堀の石垣が残っています。
戦前は、県庁が建っていました。天神山文化プラザ 名所・史跡
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中堀は桃太郎大通りを横断する辺りからは、真っ直ぐ南下して外堀に合流しました。
天満屋本館の西に位置する天満屋バスステーションは、当時の中堀跡に建っています。岡山駅前を経由しない系統も多いです。天満屋バスステーション 乗り物
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外堀跡
写真の一番左に描かれている水路です。小早川秀秋が、領民と家臣を総動員した突貫工事で僅か20日間で完成させために「二十日堀」と呼ばれます。 -
北側は左右に延びます。現在の新鶴見橋に通じる道路沿いです。
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外堀は、富田町の信号付近でクランクして、柳川筋沿いに南下します。
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桃太郎大通りにぶつかると、路面電車の線路が合流します。
大雲寺の付近で再びクランクします。
外堀は、道路建設のために1875(M8)年に城郭破却の先陣を切って埋められました。しかし、先ほどの1911年の地図では、水路として細々と生き残っています。 -
西川
外堀の西側には、西川(水路)が並行しています。下流ではほかの水路と合流して枝川と名前を変えます。 -
現在も、西川緑道公園/枝川緑道公園として残されています。
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おまけ
目安橋付近で見かけた猫。 -
最後まで目つき悪かったです。
次は、後楽園を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11892691
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