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秀吉の高松城水攻めは、香川県ではなく岡山県の備中松山城で起こりました。信長の命を受けて中国平定を担った秀吉が、毛利の防衛ラインを突破しようとした戦です。<br />秀吉は、毛利輝元征伐は主君信長に委ねます。信長は明智光秀に先鋒を任せ、自身は京都本能寺へ赴いて、4日後に出陣する予定でした、、、<br />図らずとも、主君を立てる秀吉の機転が、本能寺の変を後押してしまいます。遥か遠くの戦線に拘束された秀吉が、まさかの弔い合戦を指揮し、歴史は変わります。<br />水攻めのポイントは足守川。現地を見て回ります。<br />足守川紀行①はコチラ↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11864011<br />

備中高松城:歴史を変えた秀吉中国大返しの舞台 足守川紀行②

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2023/11/03 - 2023/11/03

1655位(同エリア1681件中)

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gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

秀吉の高松城水攻めは、香川県ではなく岡山県の備中松山城で起こりました。信長の命を受けて中国平定を担った秀吉が、毛利の防衛ラインを突破しようとした戦です。
秀吉は、毛利輝元征伐は主君信長に委ねます。信長は明智光秀に先鋒を任せ、自身は京都本能寺へ赴いて、4日後に出陣する予定でした、、、
図らずとも、主君を立てる秀吉の機転が、本能寺の変を後押してしまいます。遥か遠くの戦線に拘束された秀吉が、まさかの弔い合戦を指揮し、歴史は変わります。
水攻めのポイントは足守川。現地を見て回ります。
足守川紀行①はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11864011

旅行の満足度
5.0

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  • 旅の拠点はJR備中高松駅。<br />駅には、的確な観光案内が。<br />

    旅の拠点はJR備中高松駅。
    駅には、的確な観光案内が。

  • 徒歩10分で、高松城址へ到着。<br />まずはガイダンスセンターへ直行。<br />開館は10-15時という狭き枠で、前回叶わなかったスポット。<br />無料展示と、オリジナルパンフがこのあと役立ちます。<br />まずは、机上学習から。

    徒歩10分で、高松城址へ到着。
    まずはガイダンスセンターへ直行。
    開館は10-15時という狭き枠で、前回叶わなかったスポット。
    無料展示と、オリジナルパンフがこのあと役立ちます。
    まずは、机上学習から。

  • プロローグ:織田信長vs毛利輝元<br />毛利元就と織田信長の関係は良好でしたが、輝元は将軍足利義昭を庇護し石山本願寺と組んだので、羽柴秀吉に毛利攻めをさせます。<br />(中略) 1582年には同盟国備前の宇喜多秀家が毛利に大敗し、秀吉は毛利の備前侵攻を食い止めるべく2万の兵を率いて出陣します。宇喜多兵1万と合流し、合計3万です。<br />※秀家は弱冠10歳なので、後見人で叔父にあたる忠家が意思決定します。<br />

    プロローグ:織田信長vs毛利輝元
    毛利元就と織田信長の関係は良好でしたが、輝元は将軍足利義昭を庇護し石山本願寺と組んだので、羽柴秀吉に毛利攻めをさせます。
    (中略) 1582年には同盟国備前の宇喜多秀家が毛利に大敗し、秀吉は毛利の備前侵攻を食い止めるべく2万の兵を率いて出陣します。宇喜多兵1万と合流し、合計3万です。
    ※秀家は弱冠10歳なので、後見人で叔父にあたる忠家が意思決定します。

  • 羽柴秀吉vs清水宗治<br />備中には、敵(宇喜多/織田)の侵攻を食い止めるために南北に伸びる防衛ラインを引き、7つの城を配置しました(境目七城)。その要となるのが備中高松城で、清水宗治が城主でした。兵力は9,500:3万で、秀吉有利です。

    羽柴秀吉vs清水宗治
    備中には、敵(宇喜多/織田)の侵攻を食い止めるために南北に伸びる防衛ラインを引き、7つの城を配置しました(境目七城)。その要となるのが備中高松城で、清水宗治が城主でした。兵力は9,500:3万で、秀吉有利です。

  • 清水宗治は、高松城主石川孝久に仕えますが、1575年に主君が討死して、毛利氏に仕官します。小早川隆景(毛利元就の三男)の配下で忠勤と戦功を重ね、高松城を委ねられます。<br />1581年には、織田信長から備中備後2国を与えるという厚遇で寝返りを勧められるも、信長の書状を主君に送る忠義ぶりでした。

    清水宗治は、高松城主石川孝久に仕えますが、1575年に主君が討死して、毛利氏に仕官します。小早川隆景(毛利元就の三男)の配下で忠勤と戦功を重ね、高松城を委ねられます。
    1581年には、織田信長から備中備後2国を与えるという厚遇で寝返りを勧められるも、信長の書状を主君に送る忠義ぶりでした。

  • 備中高松城<br />高低差僅か4mの平城ですが、三方を広大な沼地に囲まれているのがミソです(南面は深い水堀)。攻撃を仕掛ければ沼に足を取られて、敵の射撃の餌食です。鉄砲や騎馬隊は役に立ちません。

    備中高松城
    高低差僅か4mの平城ですが、三方を広大な沼地に囲まれているのがミソです(南面は深い水堀)。攻撃を仕掛ければ沼に足を取られて、敵の射撃の餌食です。鉄砲や騎馬隊は役に立ちません。

  • 高松城は三の丸に城外と通じる細い堤防道路がありましたが、秀吉挙兵を知って破壊し、全長46mの板橋に作り変えました。写真のように橋桁代わりに舟を浮かべる舟橋です。これなら敵が来れば、即収納できます。

    高松城は三の丸に城外と通じる細い堤防道路がありましたが、秀吉挙兵を知って破壊し、全長46mの板橋に作り変えました。写真のように橋桁代わりに舟を浮かべる舟橋です。これなら敵が来れば、即収納できます。

  • 駅から三の丸へ向かう道路に、舟橋跡が残ります。

    駅から三の丸へ向かう道路に、舟橋跡が残ります。

  • 現在も、お城の周りは蓮や蒲が茂ります。<br />夏に訪れると、水をたたえて蓮の花が咲き誇る光景を楽しめます。<br />秀吉は、境目の六城を攻略しようとします。

    現在も、お城の周りは蓮や蒲が茂ります。
    夏に訪れると、水をたたえて蓮の花が咲き誇る光景を楽しめます。
    秀吉は、境目の六城を攻略しようとします。

  • 境目七城<br />南端の松島城以外は、足守川沿いに位置します。<br />北から順に近似スポットを7か所入れておきましたので、位置情報で防衛ラインを確認してみてください。

    境目七城
    南端の松島城以外は、足守川沿いに位置します。
    北から順に近似スポットを7か所入れておきましたので、位置情報で防衛ラインを確認してみてください。

  • 宮路山城<br />城主は、毛利から出向した乃美元信。兵力400。<br />調略が功を奏さず、4/15には秀吉軍の陣を向かいの鍛冶山城に移して威嚇。他の城が落ちたこともあり、5/2に開城。<br />1601年に築かれた足守藩陣屋の背後にある宮路山に位置しました。

    宮路山城
    城主は、毛利から出向した乃美元信。兵力400。
    調略が功を奏さず、4/15には秀吉軍の陣を向かいの鍛冶山城に移して威嚇。他の城が落ちたこともあり、5/2に開城。
    1601年に築かれた足守藩陣屋の背後にある宮路山に位置しました。

    木下利玄生家 名所・史跡

  • 写真は、足守陣屋町を挟んで対岸にある鍛冶山城址。<br />緒方洪庵生誕地背後の山で、稜線にNHK電波塔が並んでいるのが目印です。

    写真は、足守陣屋町を挟んで対岸にある鍛冶山城址。
    緒方洪庵生誕地背後の山で、稜線にNHK電波塔が並んでいるのが目印です。

  • 冠山城<br />城主は林重真で、清水宗治の娘婿です。兵力は300。濠で囲っていました。<br />宇喜多忠家率いる兵8000名の攻撃を撃退し、秀吉が備中国半分を餌に調略を試みるも、失敗します。

    冠山城
    城主は林重真で、清水宗治の娘婿です。兵力は300。濠で囲っていました。
    宇喜多忠家率いる兵8000名の攻撃を撃退し、秀吉が備中国半分を餌に調略を試みるも、失敗します。

  • 冠山への登山路は1つしかありません。東側、葦守八幡参道鳥居付近の県道沿いです。

    冠山への登山路は1つしかありません。東側、葦守八幡参道鳥居付近の県道沿いです。

  • 大手門を潜ると、三の丸。<br />神社参道上の近似スポットを位置情報へ入れておきます。

    大手門を潜ると、三の丸。
    神社参道上の近似スポットを位置情報へ入れておきます。

    カフェ フラウラ グルメ・レストラン

  • 間髪置かずに二の丸跡。<br />階段を上ると本丸です。<br />4/25に加藤清正は、伊賀忍者を使って城内に火を付けさせます。

    間髪置かずに二の丸跡。
    階段を上ると本丸です。
    4/25に加藤清正は、伊賀忍者を使って城内に火を付けさせます。

  • 本丸は、かなり狭いです。<br />火事で城内は大混乱。139名が討死して落城。林重真は義を通して、城内で自害します。境目七城で、最初に陥落しました。

    本丸は、かなり狭いです。
    火事で城内は大混乱。139名が討死して落城。林重真は義を通して、城内で自害します。境目七城で、最初に陥落しました。

    鼻ぐり塚 名所・史跡

  • 備中高松城<br />城主は清水宗治、兵力5,000。<br />詳細は後述。

    備中高松城
    城主は清水宗治、兵力5,000。
    詳細は後述。

    備中高松城址資料館 美術館・博物館

    良い by gianiさん
  • 加茂城(鴨庄城)<br />城将は毛利出向の林広繁で、兵力は1,000。<br />二の丸を守る生石中務が宇喜多勢の調略を受け入れたことで5/1までには落城。<br />近似スポットを入力(城は川から離れています)。<br />秀吉は戦功も多いですが、まずは調略で戦わずして勝つことを目指す人物です。

    加茂城(鴨庄城)
    城将は毛利出向の林広繁で、兵力は1,000。
    二の丸を守る生石中務が宇喜多勢の調略を受け入れたことで5/1までには落城。
    近似スポットを入力(城は川から離れています)。
    秀吉は戦功も多いですが、まずは調略で戦わずして勝つことを目指す人物です。

    惣爪塔跡 名所・史跡

  • 日幡城<br />城主は日幡景親で、兵力1,000。5/1頃に義弟が秀吉の調略に乗って敵兵を引き入れ、景親は義弟に討ち取られます。のちに小早川隆景(毛利方)が駆けつけて奪取(5/21以降)。日幡城攻略は失敗に終わります。<br />近似スポットを入力(城は足守川沿いです)。

    日幡城
    城主は日幡景親で、兵力1,000。5/1頃に義弟が秀吉の調略に乗って敵兵を引き入れ、景親は義弟に討ち取られます。のちに小早川隆景(毛利方)が駆けつけて奪取(5/21以降)。日幡城攻略は失敗に終わります。
    近似スポットを入力(城は足守川沿いです)。

    王墓山古墳 名所・史跡

    ここが by gianiさん
  • 庭瀬城<br />城主は井上有景で、兵力は1,000。沼地の中にある城で、秀吉勢の攻撃に遭っても持ち堪えました。

    庭瀬城
    城主は井上有景で、兵力は1,000。沼地の中にある城で、秀吉勢の攻撃に遭っても持ち堪えました。

    庭瀬城址 名所・史跡

  • 松島城<br />城主は梨羽中務丞で、兵力は800。唯一攻撃を受けなかった城です。だいぶ外れに位置します。現在は川崎医大の敷地になっています。<br />写真は北側から岡山平野を見下ろした写真。赤丸が松島城で、緑が庭瀬城。沿岸部で左右から山が迫り、高松城へ通じる開口部の両端にお城が配置されています。

    松島城
    城主は梨羽中務丞で、兵力は800。唯一攻撃を受けなかった城です。だいぶ外れに位置します。現在は川崎医大の敷地になっています。
    写真は北側から岡山平野を見下ろした写真。赤丸が松島城で、緑が庭瀬城。沿岸部で左右から山が迫り、高松城へ通じる開口部の両端にお城が配置されています。

    川崎医大附属病院 学生職員食堂 グルメ・レストラン

  • 水攻め<br />4/25には高松城から夜襲を受け、秀吉軍は手痛い目に遭います。<br />毛利輝元は、4万の援軍を率いて備中へ出陣します。援軍が到着する前に高松城を攻略しなければなりません。<br />黒田官兵衛は、足守川を堤防で閉め切って(赤線)、高松城を水攻めにすることを秀吉に提案します。5/2に採用され、5/8に着工されます。

    水攻め
    4/25には高松城から夜襲を受け、秀吉軍は手痛い目に遭います。
    毛利輝元は、4万の援軍を率いて備中へ出陣します。援軍が到着する前に高松城を攻略しなければなりません。
    黒田官兵衛は、足守川を堤防で閉め切って(赤線)、高松城を水攻めにすることを秀吉に提案します。5/2に採用され、5/8に着工されます。

  • 梅雨入り目前なので、工事は急を要しました。<br />全長3119mの堤防を築くにあたり、土嚢1俵を米1升と交換するという破格レートを設定して、635万個の土嚢(土留め用)を調達。5/19に、わずか12日で締め切りました。官兵衛は足守川に舟を浮かべ、次々と石を沈めて川を堰き止め、水を全て堤防内に誘導しました。

    梅雨入り目前なので、工事は急を要しました。
    全長3119mの堤防を築くにあたり、土嚢1俵を米1升と交換するという破格レートを設定して、635万個の土嚢(土留め用)を調達。5/19に、わずか12日で締め切りました。官兵衛は足守川に舟を浮かべ、次々と石を沈めて川を堰き止め、水を全て堤防内に誘導しました。

  • 豪雨と梅雨の増水を取り込んで、188haの人造湖が出現します。周囲を秀吉の軍勢が取り囲み、高松城は食料の補給ができなくなります。<br />5/21に毛利の援軍が到着した時点では、手出しできない状態になっていました。<br />かかった費用は米63500石。隣接する足守藩の稲作GDP2年半分の大プロジェクトです。

    豪雨と梅雨の増水を取り込んで、188haの人造湖が出現します。周囲を秀吉の軍勢が取り囲み、高松城は食料の補給ができなくなります。
    5/21に毛利の援軍が到着した時点では、手出しできない状態になっていました。
    かかった費用は米63500石。隣接する足守藩の稲作GDP2年半分の大プロジェクトです。

  • こちらは、足守川の水を取り入れたスポット。左岸の土合橋沿いにあります。<br />

    こちらは、足守川の水を取り入れたスポット。左岸の土合橋沿いにあります。

  • 上流に目を向けると、こんな光景。<br />JR吉備線が川を渡り、左側には足守駅が。

    上流に目を向けると、こんな光景。
    JR吉備線が川を渡り、左側には足守駅が。

    足守駅

  • JR鉄橋を越えると、対岸に水攻め用堤防の北限を示すポールが見えます。

    JR鉄橋を越えると、対岸に水攻め用堤防の北限を示すポールが見えます。

    たこつぐ グルメ・レストラン

  • 墓地に面した土手にこんな感じで立っています。<br />右岸です。

    墓地に面した土手にこんな感じで立っています。
    右岸です。

  • 11月は穏やかな流れです。

    11月は穏やかな流れです。

  • もう一方の端は、秀吉本陣のそばです。<br />水田になっていたところを市が買い取りました。<br />記録によると堤防の断面は、底辺22m頂辺11m高さ7mの台形です。

    もう一方の端は、秀吉本陣のそばです。
    水田になっていたところを市が買い取りました。
    記録によると堤防の断面は、底辺22m頂辺11m高さ7mの台形です。

    蛙ヶ鼻築堤跡 名所・史跡

    遺構 by gianiさん
  • 本丸の地面の高さが表示され、わかりやすいです。<br />

    本丸の地面の高さが表示され、わかりやすいです。

  • 1997年の発掘調査で、遺構の規模から上記の記録は間違いないと思われます。ただし、蛙が鼻から先は、ダウンサイジングしたというのが有力な見解です。

    1997年の発掘調査で、遺構の規模から上記の記録は間違いないと思われます。ただし、蛙が鼻から先は、ダウンサイジングしたというのが有力な見解です。

  • 地下を1m掘り込んで発見された基礎部分。<br />土留め用の木杭や土俵の跡が見つかっています。<br />

    地下を1m掘り込んで発見された基礎部分。
    土留め用の木杭や土俵の跡が見つかっています。

  • 背後の石井山では、秀吉が腰掛けたとされる太閤岩などが残っています。<br />着工前日の5/7に秀吉は本陣を竜王山から、城を見渡せる石井山へ移動しました。

    背後の石井山では、秀吉が腰掛けたとされる太閤岩などが残っています。
    着工前日の5/7に秀吉は本陣を竜王山から、城を見渡せる石井山へ移動しました。

  • 参考資料<br />写真は、1985年6月25日の水害の様子です。本丸跡部分以外は、ほとんど水没しています。水攻めは実際に功を奏する地形であることが証明されました。

    参考資料
    写真は、1985年6月25日の水害の様子です。本丸跡部分以外は、ほとんど水没しています。水攻めは実際に功を奏する地形であることが証明されました。

  • 高松城包囲網を見てみます。<br />まずは足守川の取水口の北に位置する法恩寺山。生石城跡で、現在は八幡神社になっています。

    高松城包囲網を見てみます。
    まずは足守川の取水口の北に位置する法恩寺山。生石城跡で、現在は八幡神社になっています。

  • 加茂城二の丸を任され、宇喜多勢の調略に乗った生石中務丞が建てた城で、彼の本拠地でした。加藤清正は、ここに本陣を敷きました。最西端の守りです。

    加茂城二の丸を任され、宇喜多勢の調略に乗った生石中務丞が建てた城で、彼の本拠地でした。加藤清正は、ここに本陣を敷きました。最西端の守りです。

  • 標高31.5mとあるように、眺望が良いです。<br />左側は大山道が通り、交通の要所です。

    標高31.5mとあるように、眺望が良いです。
    左側は大山道が通り、交通の要所です。

  • 続いて、小山城址。<br />津田与左衛門が布陣しました。

    続いて、小山城址。
    津田与左衛門が布陣しました。

  • 八幡山<br />高松八幡神社の由緒の参考欄に、宇喜多忠家の陣所となったとの記載があります。

    八幡山
    高松八幡神社の由緒の参考欄に、宇喜多忠家の陣所となったとの記載があります。

  • 奥は、竜王山の秀吉本陣。

    奥は、竜王山の秀吉本陣。

  • 左は、千石権兵衛陣所跡、右は秀吉の石井山本陣跡です。<br />

    左は、千石権兵衛陣所跡、右は秀吉の石井山本陣跡です。

  • 堤防の先には、山内一豊、花房助兵衛(スケベェではなく、すけのひょうえです。)の陣。<br />という感じで完全に包囲されました。

    堤防の先には、山内一豊、花房助兵衛(スケベェではなく、すけのひょうえです。)の陣。
    という感じで完全に包囲されました。

  • 続いて、高松城址。<br />三の丸は一番広く、兵士の多くが詰めていました。水攻めで床下浸水を起こし、兵士は睡眠で大きなハンディを背負います。

    続いて、高松城址。
    三の丸は一番広く、兵士の多くが詰めていました。水攻めで床下浸水を起こし、兵士は睡眠で大きなハンディを背負います。

  • 三の丸には、本丸の高さと築堤の高さが表示。<br />築堤のポテンシャルの恐ろしさを思い知らされます。

    三の丸には、本丸の高さと築堤の高さが表示。
    築堤のポテンシャルの恐ろしさを思い知らされます。

  • 橋を渡ると二の丸。<br />城址資料館があります。建物から反対を見ると、水田になっています。<br />その先は武家屋敷エリア。こちらは床上浸水で備蓄食料も含め、大きな損害を被ります。

    橋を渡ると二の丸。
    城址資料館があります。建物から反対を見ると、水田になっています。
    その先は武家屋敷エリア。こちらは床上浸水で備蓄食料も含め、大きな損害を被ります。

  • 本丸は、木々で覆われた部分。右側に二の丸と繋がる橋が見えます。

    本丸は、木々で覆われた部分。右側に二の丸と繋がる橋が見えます。

  • 本丸から出土した石仏。

    本丸から出土した石仏。

  • 本丸から出土した瓦<br />他では見つかっていないので、本丸のみ瓦葺きだったと思われます。

    本丸から出土した瓦
    他では見つかっていないので、本丸のみ瓦葺きだったと思われます。

  • 本丸から家中屋敷へは木の橋が架かっていますが、当時は収納可能な橋が架かり、いざという時は遮断できました。

    本丸から家中屋敷へは木の橋が架かっていますが、当時は収納可能な橋が架かり、いざという時は遮断できました。

  • 城跡を縦断する道路。両側が城址で、半分は水田/住宅、もう半分は公園として整備されています。

    城跡を縦断する道路。両側が城址で、半分は水田/住宅、もう半分は公園として整備されています。

  • 当事者間の駆け引き<br />秀吉は5/17に信長へ応援を要請する使者を送ります。敵の総大将は信長自らの手で。と主君を立てる気配りです。<br />毛利輝元は5/20に高松城へ使者を送り、城兵を救うために一時的に寝返るフリをするように清水宗治へ指示しますが、一日と言えども逆臣と言われるのは武士の恥辱と切腹を覚悟していると返答します。<br />毛利輝元は5/25に使者を送り、五国(備中/備後/美作/伯耆/出雲)割譲と城兵の助命を条件に和議を提示します。しかし、秀吉は清水宗治の切腹を要求します。<br />輝元は忠臣の切腹という条件に難色を示しますが、事情を伝え聞いた宗治は自身と3将が切腹することで城兵を助命してほしいと書状で伝えます。<br />それとは別に6/1には、秀吉へ切腹を条件に城兵の助命を乞います。<br />

    当事者間の駆け引き
    秀吉は5/17に信長へ応援を要請する使者を送ります。敵の総大将は信長自らの手で。と主君を立てる気配りです。
    毛利輝元は5/20に高松城へ使者を送り、城兵を救うために一時的に寝返るフリをするように清水宗治へ指示しますが、一日と言えども逆臣と言われるのは武士の恥辱と切腹を覚悟していると返答します。
    毛利輝元は5/25に使者を送り、五国(備中/備後/美作/伯耆/出雲)割譲と城兵の助命を条件に和議を提示します。しかし、秀吉は清水宗治の切腹を要求します。
    輝元は忠臣の切腹という条件に難色を示しますが、事情を伝え聞いた宗治は自身と3将が切腹することで城兵を助命してほしいと書状で伝えます。
    それとは別に6/1には、秀吉へ切腹を条件に城兵の助命を乞います。

  • 北側から見た布陣<br />黄色が高松城と水攻め堤防、赤が庚申山に布陣した吉川元春、青が日差山(鷹ノ巣城)に布陣した小早川隆景。毛利元就本陣に至っては、高松城から21km離れた猿掛城です。本当に戦う気があるのか?と思わせる遠巻きの布陣です。<br />秀吉軍は鉄砲等の装備が充実し、しかも戦闘のプロ集団。一方の毛利軍は農民を徴兵して、しかも装備が貧弱。毛利は、その点を理解していました。さらに瀬戸内海の水軍を秀吉が調略して制海権を奪われたために兵站(物資補給)がズタズタで、輝元は山陽道沿いの猿掛城に足止めを食らっています。

    北側から見た布陣
    黄色が高松城と水攻め堤防、赤が庚申山に布陣した吉川元春、青が日差山(鷹ノ巣城)に布陣した小早川隆景。毛利元就本陣に至っては、高松城から21km離れた猿掛城です。本当に戦う気があるのか?と思わせる遠巻きの布陣です。
    秀吉軍は鉄砲等の装備が充実し、しかも戦闘のプロ集団。一方の毛利軍は農民を徴兵して、しかも装備が貧弱。毛利は、その点を理解していました。さらに瀬戸内海の水軍を秀吉が調略して制海権を奪われたために兵站(物資補給)がズタズタで、輝元は山陽道沿いの猿掛城に足止めを食らっています。

  • 本能寺の変(6/2)<br />光秀は毛利輝元に密書を送り、秀吉を挟み撃ちにしようとします。ところが使者は秀吉方に捕まり、秀吉は信長暗殺を知ります(6/3)。<br />秀吉は講和を急ぎ、備中/美作/伯耆3国の割譲で譲歩し、清水宗治の首級を求めます。高松城のひっ迫感も鑑み、輝元は条件を受け入れます。<br />

    本能寺の変(6/2)
    光秀は毛利輝元に密書を送り、秀吉を挟み撃ちにしようとします。ところが使者は秀吉方に捕まり、秀吉は信長暗殺を知ります(6/3)。
    秀吉は講和を急ぎ、備中/美作/伯耆3国の割譲で譲歩し、清水宗治の首級を求めます。高松城のひっ迫感も鑑み、輝元は条件を受け入れます。

  • 城の明け渡しに先立ち、宗治は本丸/二の丸をきれいに掃除するよう命じます。そして伸びた髭を一本一本引き抜きます。家臣に理由を問われると、秀吉に笑われぬよう身なりを整えて切腹に臨む旨を説明します。<br />殉死しようとした家臣たちを諫め、生きて毛利に仕えるのが誠の忠誠と説きます。

    城の明け渡しに先立ち、宗治は本丸/二の丸をきれいに掃除するよう命じます。そして伸びた髭を一本一本引き抜きます。家臣に理由を問われると、秀吉に笑われぬよう身なりを整えて切腹に臨む旨を説明します。
    殉死しようとした家臣たちを諫め、生きて毛利に仕えるのが誠の忠誠と説きます。

  • 6/4切腹<br />午前10時、船を出し秀吉らが見守る中で清水宗治/兄の月清/弟の難波伝兵衛/毛利方の軍監末近信賀の4名が切腹します。

    6/4切腹
    午前10時、船を出し秀吉らが見守る中で清水宗治/兄の月清/弟の難波伝兵衛/毛利方の軍監末近信賀の4名が切腹します。

  • 水が引いた後、自刃の地として供養塔が妙玄寺に建ちます。

    水が引いた後、自刃の地として供養塔が妙玄寺に建ちます。

    清水宗治自刃の地 名所・史跡

    ここが by gianiさん
  • その横には一本の木があり、ごうやぶと書かれた札が。<br />宗治/月清の従者である七朗次郎/与十郎が互いに刺し違えたスポットです。これを見た宗治は、涙して切腹に臨んだと言われます。

    その横には一本の木があり、ごうやぶと書かれた札が。
    宗治/月清の従者である七朗次郎/与十郎が互いに刺し違えたスポットです。これを見た宗治は、涙して切腹に臨んだと言われます。

  • 宗治辞世の句が、本丸に。<br />浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののう)の 名を高松の 苔に残して

    宗治辞世の句が、本丸に。
    浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののう)の 名を高松の 苔に残して

    備中高松城址公園 名所・史跡

    再現 by gianiさん
  • 宗治の首は秀吉に預けられ、信長の検分も叶うことなく本陣の石井山に首塚が設置されました。<br />1912年に現在の本丸へ移されています。移設に際して、宗治が切腹に使用した刀などが出土しました。

    宗治の首は秀吉に預けられ、信長の検分も叶うことなく本陣の石井山に首塚が設置されました。
    1912年に現在の本丸へ移されています。移設に際して、宗治が切腹に使用した刀などが出土しました。

  • 遺体は船で本丸に戻され、埋葬されます。胴塚として今に残ります。<br />宗治を介錯した国府市佑は、ここで命を絶ちます。

    遺体は船で本丸に戻され、埋葬されます。胴塚として今に残ります。
    宗治を介錯した国府市佑は、ここで命を絶ちます。

    清水宗治胴塚 名所・史跡

    儀式 by gianiさん
  • 清水宗治八将像<br />宗家に代々伝わった作品で、宗治の下に8名が傅いています。<br />宗治切腹に関係して命を絶った6名と、冠山城で自害した林重真、老臣白井治嘉です。<br />白井治嘉は「明日は切腹とお聞きし拙者が試して見ましたが、簡単でございます」と言って、十文字に掻き切った腹を宗治に見せました。

    清水宗治八将像
    宗家に代々伝わった作品で、宗治の下に8名が傅いています。
    宗治切腹に関係して命を絶った6名と、冠山城で自害した林重真、老臣白井治嘉です。
    白井治嘉は「明日は切腹とお聞きし拙者が試して見ましたが、簡単でございます」と言って、十文字に掻き切った腹を宗治に見せました。

  • 清水宗治宛書状<br />切腹に際し、城兵をねぎらうために酒を所望した時の返書。<br />秀吉の官職が信長旗下時代の筑前守なのが、リアリティを感じさせます。<br />秀吉は求めに応じ酒肴20荷を船に乗せたと記しています。

    清水宗治宛書状
    切腹に際し、城兵をねぎらうために酒を所望した時の返書。
    秀吉の官職が信長旗下時代の筑前守なのが、リアリティを感じさせます。
    秀吉は求めに応じ酒肴20荷を船に乗せたと記しています。

  • 中国大返し<br />宗治の切腹後、秀吉は速やかに講和を結び、堤防を破壊して即時撤退します。毛利方が本能寺の変を知ったのは、翌6/5でした。<br />忠臣の死と引き換えに結んだ講和を翻すことは心情的に難しいだろうという秀吉の読みと、堤防を決壊させたことで辺りが湿地化して行軍が妨げられるという計算がありました。<br />京まで僅か10日で230kmを移動した中国大返し、6/13の山崎の合戦で光秀を破ることで天下人へ躍進したことは、周知のとおりです。一番足場の悪かった秀吉が弔い合戦をしたことは、アンビリーバブルな事実です。<br />そして秀吉の援軍要請で信長は光秀を中国に遣わし、自身は6/4に発つために京都本能寺へ入りした。図らずとも秀吉が、信長暗殺の御膳立てをしていたことが興味深いです。

    中国大返し
    宗治の切腹後、秀吉は速やかに講和を結び、堤防を破壊して即時撤退します。毛利方が本能寺の変を知ったのは、翌6/5でした。
    忠臣の死と引き換えに結んだ講和を翻すことは心情的に難しいだろうという秀吉の読みと、堤防を決壊させたことで辺りが湿地化して行軍が妨げられるという計算がありました。
    京まで僅か10日で230kmを移動した中国大返し、6/13の山崎の合戦で光秀を破ることで天下人へ躍進したことは、周知のとおりです。一番足場の悪かった秀吉が弔い合戦をしたことは、アンビリーバブルな事実です。
    そして秀吉の援軍要請で信長は光秀を中国に遣わし、自身は6/4に発つために京都本能寺へ入りした。図らずとも秀吉が、信長暗殺の御膳立てをしていたことが興味深いです。

    岡山県古代吉備文化財センター 美術館・博物館

  • 宗治の家系<br />宗治の嫡子源三郎は、秀吉から1万石で仕官するよう請われますが、父の遺訓を守り、小早川隆景に仕えます。隆景の死後は毛利輝元に仕え、長州藩では寄組として2500石の知行を与えられます。幕末に清水親春は家老として倒幕に貢献し、清水家は男爵を世襲します。そんな経緯で、清水宗治の菩提寺は山口県光市にあります。<br />

    宗治の家系
    宗治の嫡子源三郎は、秀吉から1万石で仕官するよう請われますが、父の遺訓を守り、小早川隆景に仕えます。隆景の死後は毛利輝元に仕え、長州藩では寄組として2500石の知行を与えられます。幕末に清水親春は家老として倒幕に貢献し、清水家は男爵を世襲します。そんな経緯で、清水宗治の菩提寺は山口県光市にあります。

  • 高松城のその後<br />高松城は宇喜多秀家の所領となり、花房正之が城主となります。関ケ原後は、旗本の花房職秀(助兵衛)が8220石を与えられ、高松城本丸部分を陣屋にします。現在の本丸は、助兵衛がかさ上げして土台が高くなっています。その後、阿曽に陣屋を移します。

    高松城のその後
    高松城は宇喜多秀家の所領となり、花房正之が城主となります。関ケ原後は、旗本の花房職秀(助兵衛)が8220石を与えられ、高松城本丸部分を陣屋にします。現在の本丸は、助兵衛がかさ上げして土台が高くなっています。その後、阿曽に陣屋を移します。

  • 助兵衛は戦乱で荒廃した最上稲荷を再興し、現在は三大稲荷の一つに数えられます。秀吉が竜王山に布陣した場所は、境内に取り込まれ日蓮像が立っています。<br />石井山のそばには、高さ25mの大鳥居が建ちます。柱の太さは4m以上もあります。<br />

    助兵衛は戦乱で荒廃した最上稲荷を再興し、現在は三大稲荷の一つに数えられます。秀吉が竜王山に布陣した場所は、境内に取り込まれ日蓮像が立っています。
    石井山のそばには、高さ25mの大鳥居が建ちます。柱の太さは4m以上もあります。

    最上稲荷 寺・神社・教会

    立派 by gianiさん
  • 花房家の菩提寺は、宗治自刃の地である妙玄寺です。<br />助兵衛は熱心な日蓮宗信徒だったので、領内は日蓮宗のお寺が多いです。

    花房家の菩提寺は、宗治自刃の地である妙玄寺です。
    助兵衛は熱心な日蓮宗信徒だったので、領内は日蓮宗のお寺が多いです。

    栄西禅師誕生地 名所・史跡

  • おまけ<br />JR足守駅前には、不思議なお店が。ここのたこ焼きは絶品です。明石焼きでは、出汁の上質さに言葉を失います。時間がかかるので、電話で受取時間を伝えるのがおすすめ。保健所との兼ね合いで、テイクアウトのみです。田舎に名店が埋もれていました。<br />次回は、庭瀬を訪れます↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11865136

    おまけ
    JR足守駅前には、不思議なお店が。ここのたこ焼きは絶品です。明石焼きでは、出汁の上質さに言葉を失います。時間がかかるので、電話で受取時間を伝えるのがおすすめ。保健所との兼ね合いで、テイクアウトのみです。田舎に名店が埋もれていました。
    次回は、庭瀬を訪れます↓
    https://4travel.jp/travelogue/11865136

    楯築遺跡 名所・史跡

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