2023/11/05 - 2023/11/05
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gianiさん
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2023/11/05
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岡山から2駅目の庭瀬は、小さな城下町です。
観光客が少ないので、ゆっくりと回れるのがポイントです。
近所には、犬養毅の実家/県立記念館もあり、地味に見どころが多いです。月曜日に営業している貴重な文教施設で、おすすめです。
- 旅行の満足度
- 5.0
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岡山から2駅目のJR庭瀬駅の西側には、水路が迫ります。
朝の山陽本線は、数分おきに貨物列車が通過します。庭瀬駅 駅
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線路を背に北上。城跡を目指します。
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庭瀬城跡
江戸時代に29,200石の大名が治める庭瀬藩の城下町でした。庭瀬城址 名所・史跡
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庭瀬藩城下町
300mほど西にある撫川城址へ向かいます。途中、橋を2回渡ります。 -
撫川城址
最後に内堀を越えると、城内。
城門は江戸時代のものです。その奥には、木枠で囲まれた当時の井戸も。 -
城は濠で囲まれています。
1575年に毛利配下の井上有景が城として整備しました。
1582年の秀吉の備中高松城水攻めの際は、境目七城の一つとして防衛に当たりました。
秀吉は、この地を宇喜多秀家の所領とし、家臣の岡利勝が城主となります。 -
左側は、安土城を参考に岡利勝が1586年に築いた石垣が。一目でわかる野面積み。
後には、宇喜多秀家の本拠地である岡山城改築にもかかわります。
岡は、足守川の築堤も行いました。 -
実は、ここが庭瀬城の本丸跡です。
左右(東西)77m奥行(南北)57mの広さです。
1602年に入府した庭瀬藩主戸川達安は、三の丸(先ほどの庭瀬城址)にコンパクトな城を築き、こちら(旧本丸)は廃城となりました。
1679年に戸川家が改易され、5000石の旗本として再出発します。その際にここへ知行所を設置し、庭瀬城に対し、撫川城と呼ばれるようになりました。 -
写真は、戸川家改易(1679)前の図面。城下町を見ると、庭瀬城本丸(撫川城跡)は、旧城と記載されています。
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堀の幅は15mということで、石垣の手前の部分は明治以降に埋立てられました。
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城の西側から眺めると、立派な石垣が一面に見渡せます。こちらは原始の堀幅をとどめています。住宅街に囲まれたお城という光景にびっくりです。
石垣の高さは4mです。 -
見どころルートには幟が立ち並び、地図を持たなくても幟を目印に見て回れます。足守川へ向けて西進します。
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両側に、焼杉外壁の情緒ある家並み。
1679年に改易されるまで、武家町でした。 -
なんかホッとします。
この地域は、荒木さんと難波さんが多いです。 -
足守川沿いには古い石灯篭が。
川を照らす灯りでした。 -
河川敷も、何気に歴史ある建築が。
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庭瀬付近の足守川。浅尾藩、旗本高松領、旗本撫川領、庭瀬藩は、足守川の水運に頼っていました。山吹色の電車(山陽本線)が見えます。
岡利勝の築堤で、足守川の洪水から守られました。 -
川を遡ると、コンクリートの石段が見えます。
当時は、ここに撫川橋が架かり、陣屋町の境界でした。鴨方往還(岡山~鴨方)という岡山藩の幹線道路が走り、岡山城~庭瀬までは庭瀬往還、庭瀬~倉敷は倉敷往還と呼ばれました。
1968年に南側に橋が移設。 -
旧橋の部分を右折して、庭瀬往還を東進すると大橋と書かれた石柱と石灯篭が。
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移設される前の写真。
もともとは撫川橋東詰(コンクリート石段部分)に建ち、常夜灯として機能しました。 -
レトロな建物
園部醫院というプレートが。 -
改易前の地図では、この水路を境に手前(左)が田畑中心、奥(右)がそこそこ家が建つエリアになっています。撫川陣屋町時代は市街地に変化し、この橋の手前にも常夜灯が立っていました。
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水路を渡ると、左岸には応徳寺。1395年開基の古刹。
庭瀬往還に沿って水路が続きます。現在は道路拡張で幅が狭いですが、当時は船がすれ違える幅(5m)でした。 -
まちかどギャラリー
建物ではなく、屋外展示です。
撫川うちわ
武士の内職として始まりました。大きめの扇面には、風流な絵柄が用いられ、透かすと俳句の文字が現れる仕掛けがありました。高尚優美かつ実用的ということで、参勤交代で通過する大名行列から需要がありました。
山陽道は飛鳥時代は海沿いでしたが、江戸時代は内陸に後退し、庭瀬往還は西国を結ぶ幹線になりました。現在の山陽本線と重なるルートです。 -
金毘羅道
言わずと知れた四国の金刀比羅宮への巡礼街道です。江戸中期には、児島の瑜伽大権現の人気も沸騰し、山沿いの吉備津神社/最上稲荷(三大稲荷)を経由するルートが流行。庭瀬が巡礼ルートとして栄えるようになりました。 -
住吉神社
海岸線から離れているのに、航海安全?!
もともとは道路向かいの廻船問屋吉岡屋の敷地内で、屋敷内の神社でした。
水路の水門が写っている部分は、吉岡屋専用の船着き場でした。
自己所有の船で、大坂まで荷を運んでいました。それゆえの航海安全です。
こうした水運は、昭和初期まで現役でした。 -
吉岡屋
油屋として財を成し、廻船業にも手を伸ばします。
街道に面した間口が狭い典型的な商家造り。
吉岡屋の面する辻には、道しるべも(左下)。 -
安政6年設置とあるので、1859年の年代物。吉岡屋らが設置しました。
幕末までにこのエリアも市街化されたみたいです。 -
袖から出た手先が、それぞれ金毘羅道(九州/四国方面)と吉備津(岡山/大坂方面)を指します。
庭瀬/撫川は、庶民の巡礼ルートの要所としても栄えました。 -
郵便ポストの先で、水路を跨ぎます。
高札が立てられたことから、往来の多い重要ポイントだとわかります。 -
方万寺川(用水路)を境に左が撫川知行地、右が庭瀬藩の陣屋町です。
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信誠寺の境内には、橋沿いに立っていた常夜灯が。今も、違う形で役に立っているみたいです(笑)。
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橋の反対側
方万寺川は、高梁川(岡山県三大河川)から引かれた農業用水です。陣屋町域では、境川と呼ばれます。 -
趣ある商家
PEPSIのホーロー看板も、年季を感じさせます。 -
面白い形をしたT字路
マンホールの部分に道標(道しるべ)が立っていました。 -
こんな感じです。
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移設先で道標を見ると、こちらも安政6年設置。
北面には、右:こんぴら(児島/倉敷/玉島)と書かれています。いままで歩いてきた道を戻る方角です。 -
交差点に面した元薬屋
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趣があります
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大正期のポスターでしょうか。
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和風建築でありながら、
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内部はハイカラな空気も。
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薬の調合に使った擂鉢も。
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もう少し進んで後ろを振り返ると(写真)と、分かれ道が。庭瀬城へ通じるみたいです。
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分かれ道を進むと、大手門と書かれた橋。
庭瀬城の外堀を兼ねます。 -
橋の左側は、庭瀬内港。船着き場です。
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当時の図。
橋を渡った先に大手門がありました。橋の先は、城内です。 -
石垣を見ても、川幅が広く、船溜まりになっていたことがわかります。
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再建された常夜灯も。
庭瀬藩の表玄関でした。 -
大手門の先で、道が曲がっています。防衛上の理由です。
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アパートのある区画は、会所(藩の役所)跡。
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会所を過ぎて奥へ進むと
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内堀にぶつかり、右前の陣屋の石垣が。
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庭瀬藩の陣屋です。
1602年に戸川達安が29200石で入府。遺言で次男安尤に3400石、四男安利に3300石を分与、二代藩主正安も遺言で三男安成に1600石を分与し、三代以降は2万石となり、4代安風が跡継ぎなしで8歳で死去し、無嗣断絶で改易処分(1679)になります。 -
幕府預かり、松平氏入府を経て、1699年に板倉重高が上総から入府後は、明治維新まで庭瀬藩を預かります。弁天宮は板倉氏が1793年に設置しました。西側は丸池です。
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弁天宮の先は霞田でしたが、戸川氏時代に埋立てられ、城主の屋敷の一部になりました。
戸川家の歴代城主が分知を繰り返した結果、改易後も29200石の半分相当(14200石)をキープできたのは、不幸中の幸いです。 -
庭瀬往還へ戻ります。
町家の構造が良くわかる景色に遭遇。 -
伝統家屋が4軒並びます。その先は曲がり角で、木門が設置され、夜間は出入りができないようになっていました。
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振り返る構図。
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さらに進むと、庭瀬往還に架かる橋。当時は5m幅で、橋の手前で陣屋町は終わりです。ここにも木門が設置され、夜間は扉が閉まりました。
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伝統家屋は続きます。
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ここで庭瀬往還は右へ曲がります。この先は寺町です。
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突き当りの左側には、観音堂。道祖神的役割です。面白いのが、火伏せの御利益もあることです。お堂を移そうとしたら、火事が起きたことに因みます。
止まれを左折します。 -
右側には、JR庭瀬駅の北口。
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止まれを右折して、踏切を渡ります。
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踏切の先を左へカーブしているのが庭瀬往還。岡山城まで続きます。右枠外には、道祖神が建ちます。
庭瀬往還を離れて、真っ直ぐ南下する道を進みます。 -
三升橋
ネームプレート等はありません。目印は「樋門のある橋」です。
井出浜と呼ばれる友延港跡(庭瀬外港)です。
大手門からここまで川船で運び、ここで大坂行きの帆船に積み替えました。 -
当時の船溜まりを彷彿とさせる景色。
足守藩木下家/浅尾藩蒔田家の米蔵が建っていました。
足守からの馬借運搬料が米1俵あたり3升だったので、三升橋と呼ばれました。 -
足守川の築堤にぶつかる部分には、毘沙門天が。
ここが、岡利勝の築堤による南端です。 -
足守川には、鷺などの鳥が集まっています。
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けっこうな川幅です。
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1kmほど下流には、薗崎神社が。
友延村の氏神を祀り、境目川が足守川に合流する地点にあります。 -
境目川を遡ると、国境石が。
備前/備中の国境です。ここより友延村と書かれています。
備中庭瀬藩と備前岡山藩で領地の境界争いが生じ、両者の結論として敷設されました。 -
普通の境目は稜線や大河といったわかりやすいものですが、
普通に歩いていて越えてしまう感覚にびっくりです。
道理で、争いが起こるわけです。
さらに境目川を遡ると、、、 -
ここより備前国久米村と書かれた境界石も。
ちなみに境目川を渡る橋は、庭瀬往還です。 -
今来た道を振り返ると、こんな景色。両側が工場です。
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1702-08年にかけて、用水問題(水利権)の絡む領地争いが久米/延友村間で勃発し、こじれました。第三者の大内田村大庄屋の仲裁で解決しました。こうした国境石が13か所に建てられたそうです。
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庭瀬往還を遡ります。
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県道162号線
庭瀬往還の新道です。
岡山駅行のバスが毎時運航されています。国境石最寄りは、鉄鋼センター前バス停です。
さらに南側には、国道2号線が走ります。 -
笹ヶ瀬川を渡ります。
足守川は、薗崎神社の先で笹ヶ瀬川に合流して児島湾へ注ぎます。 -
踏切を渡ってからの行程は、こんな感じです。
笹ヶ瀬川は、右枠外です。 -
藤田薬局のあったT字路に戻り、止まれの道を進みます。自動車の先の部分に木門が設置されていました。
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交差点には、鴨方/倉敷方向から来ると、左は吉備津という道標が。
山陽道を挟んで、吉備津神社や最上稲荷があります。
旧街道を通って、犬養毅生家を目指します。 -
県道にぶつかったら、県道沿いの吉備地域センターへ寄り道。
県道向かいのお店を位置情報に入れました。麺場 田所商店 岡山庭瀬店 グルメ・レストラン
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駐車場には、常夜灯が。
元々は、足守川に架かる撫川橋の西詰にあったものです。 -
正面には、犬養毅の「話せばわかるの碑」が。
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左奥は公民館になっていて、街歩きのガイドマップの頒布や地域の歴史を学べる資料の閲覧ができます。とても役に立ちました。
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地域センター横には、バス停も。先ほどと同じ、岡山駅行のバスが走ります。
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再び金毘羅道を北上。
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のどかな風景です。
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よく見ると、雁木が。昔の水路の幅は広く、ここから直接船に乗りました。
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案内板に従うと、犬養毅の墓地が。
首相官邸で1932年に暗殺された五一五事件の当事者です。吉備の中山御陵 名所・史跡
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犬養毅の生家。
庭瀬藩の大庄屋として、地域自治に携わり、名字帯刀も許された家でした。
18世紀後半の建築で、1976年に犬養家から寄贈されました。国の重文指定。旧犬養家住宅 名所・史跡
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県営の記念館があります。
義務教育での社会科見学も大きな目的で、無料かつ平易な説明が添付されているのが魅力です。
火曜日休館で、月曜日の避難先としては最適です。
ロビーの展示と違い、展示室は史料の塊で、撮影は全面禁止です。犬養木堂記念館 美術館・博物館
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最初の15分のビデオを見ると良いです。
五一五事件、話せばわかる、憲政の神様というフレーズ以上の知識はありませんでしたが、かなり具体的なイメージを持てる内容でした。
平たく言うと、明治~昭和にかけての政治家で、デモクラシーを追い求め、藩閥→政党政治/普通選挙(納税額に関係なく)を実現しました。
ロンドン海軍軍縮条約を機に政府へ不満を抱いた海軍青年将校の起こしたクーデターの一環として、暗殺されました。
では、生い立ちから見ていきます。 -
犬飼毅は、1855年に庭瀬藩の大庄屋(複数の村を束ねる庄屋)の次男として誕生します。大庄屋なので、農民でも苗字があり、当主は帯刀も許されました。
5歳から漢学を学び、四書五経(儒学)をたしなみます。 -
13歳の時に父親が死去し、家督は兄が継ぎます。毅も家計を助けるために、自宅で開塾し、近所の子供たちに読み書きを教えます。
このあと倉敷で漢学を学び、17歳で小田県職員として笠岡で勤務時に国際法に接し、洋学に魅了され、20歳で上京します。造山古墳ビジターセンター 名所・史跡
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1875年に上京し、翌年に慶應義塾で学びます(80年中退)。生活のために郵便報知新聞(現:報知新聞)に入社し、77年には西南戦争の従軍記者として「戦地直報」を発信し、名声を博します。
81年に就職した統計院で大隈重信に出会い、1890年に施行される議会制度(第1回衆議院選)へ向けて、立憲改進党員として活動します。81-90年まで東京府議会議員を務めます。 -
帝国議会(衆議院)議員として
1890年の第1回総選挙で岡山三区から出馬して当選し、以後亡くなるまで19回連続当選します。生家の門の前には、初当選を記念して植えたクスノキが。130年を経て、大木になっています。
1898年には、文部大臣として初入閣(第1次大隈内閣)。明治維新以来、旧長州藩士主導で進められた藩閥政治に真っ向から反対しました。
1913年には、長州閥の第3次桂内閣の工作を阻止/倒閣して政党政治を守り、尾崎行雄らと共に憲政の神様と称されました。1925年の普通選挙法案成立を条件に、自身の率いる政党を立憲政友会に合流させることに同意し、引退します。総社市雪舟生誕地公園 公園・植物園
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アジア人として
漢学の造詣が深かったこともあり、孫文(中華民国建国)/朴泳孝(朝鮮)/ファンボイチャウ(ベトナム)をはじめとする祖国独立運動ゆえに母国から亡命した志士と親交があり、自身の人脈を活用して終生支援を惜しみませんでした。
※第2次大隈内閣で入閣の打診がありましたが、第一次世界大戦で大陸侵攻を進めたことを理由に謝絶しています。 -
ところが、自身の補欠選挙で地元岡山の支援者が再び当選させ、やむなく政界復帰。とはいえ、半分隠居状態で、表立って活動することはありませんでした。
ところが1929年に政友会総裁田中義一の死を経て、政友会総裁へ就任し、世界恐慌への対応等で、精力的に活動します。
写真は、記念館の日本庭園です。吉備津彦神社 寺・神社・教会
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第29代内閣総理大臣(1931-32)
1930年のロンドン海軍軍縮条約批准を端に、歴代内閣は長続きせず、犬養にお鉢が回ります。満州事変/満州国建国を画策した関東軍を良しとせず、孫文の立てた中華民国を擁護します。1932年には、五一五事件で海軍青年将校によって暗殺されます。
彼らは首相官邸へ侵入しますが、犬養は客間へ通して話を聴こうとしますが、問答無用の一言で発砲。家政婦が駆けつけた際に、話して聞かせるから彼らを呼んでくるようにと言います。これがのちに、話せばわかるの言葉になりました。最期まで「話すこと、議すること」を信条とする生き様でした。 -
首相就任時の身長は150cm。当時にしては、少し大きめです。等身大パネルがありました。
五一五事件の背景には統帥権侵犯が関係するといいますが、複雑なのでここでは省略します。ただ、犬養は親アジアだったとはいえ国防を重視し、ロンドン海軍軍縮条約を批准した(同じ政友会の)浜口内閣を批判しています。そんな訳で軍との関係は良好でした。また昭和天皇からの信頼も厚く、その人柄も天皇は高く評価していました。
憲法で統帥権の言及があまりに簡潔なために、通例を越えた解釈をした青年将校が、軍縮を認めた現体制は不敬ゆえに粛清する必要があると考え、一連のクーデターを企てました。戦前の政党政治が、様々な政治腐敗の温床になったことへの不満も含まれているかと思われます。
犬養の死は政党内閣の終焉となり、軍国化が進んでいきます。 -
犬養は、書の達人としても有名で、多くの人が一筆お願いするほどでした。こちらは、生家の掛け軸として展示してあります。
号の木堂は、論語の「剛毅朴訥、仁に近し」が由来です。
孫の道子へは、恕(ゆるす)の一字を贈り、許す心を大切にするようにと書いています。 -
犬養家の系図
県の偉人を紹介する子供向け施設という一面もあるので、闇の部分は上手くオブラートに包んでいます。毅の子供は、斎藤仙という妾との間に設けた子供で、正妻の千代子が自分の子供として育てました。戦後の吉田内閣で法務大臣を務めた犬養健も、斎藤との間の子供です。安藤サクラの母親である安藤和津は健の娘です。健が妾の荻野昌子との間に設け、後に認知しました。 -
おまけ
自分の遠祖は、吉備津彦命の随身武士であった犬飼建であると「家記大要」に書き記しています。平たく言えば、桃太郎の犬のモデルになった人物のことです。毅は、青年期に姓を犬飼から犬養に改めます。
孫へは、犬飼建は、鯉となって逃げた温羅を、鵜となって倒したと書いています。実は、吉備津彦の手柄をご先祖様にすり替えて、話を盛っています。
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