2023/10/27 - 2023/10/27
60位(同エリア259件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記210冊
- クチコミ220件
- Q&A回答17件
- 198,883アクセス
- フォロワー71人
この旅行記スケジュールを元に
竹久夢二伊香保記念館に3度行きました。2022年4月と10月、今回23年10月。
1回目の22年4月は、神社まわりばっかりじゃ気の毒だと、By妻懐柔策で行きました。
あんまり喜んでなかったみたい。
2回目は「夢二の描くあのひとこのひと」の情報をどこかで仕入れてきたことがきっかけ。夢二といったら美人画ですから、でれでれと行って参りました。
3回目もまたでれでれでれ・・・
よくBy妻が一緒に来てくれると感謝。
By妻は1回目で「なによこれ」と思ったらしい。2回目で「大いっ嫌い」になったそうです。
参考書は、
「夢二夢のあと1 大正ロマンへのタイムマシーン、弥生美術館・竹久夢二美術館」
https://4travel.jp/travelogue/11869366
にならべました。
引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきます。
記念館の内部は会場全体の撮影は可能ですが、作品の接写はNG。掲載した写真は、絵はがき、購入したカタログなどからのスキャンです。
投稿日:2023/12/16
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
夢二黒船館です。
これはなにかの既存の建物で、それを美術館に転用したと思っていましたが、創立者で現館長の木暮享(こぐれ・すすむ)が、1981年、私費で夢二記念館として建設したものでした。
一書に曰く、
この記念館、素敵ですよ。
昔、暮らしの手帖という雑誌に、「お金持ちの家を見たいなら、古賀政男記念館に行けばよい。」とあったのですが、ここが、まさにそれ。
建物も、フランスならパビヨンと呼ばれる、貴族の邸宅みたい。
周囲を雑木林が囲む、なかなか風情のあるたたずまいです。
働いているスタッフの方々も、静かな上品な様子。
走り回る子も、大声を上げるような人もいないし、子供も静かに足音を忍ばせて歩く雰囲気。
オルゴール売り場で、小さな声で、ママと、オルゴールを聞き比べていた女の子なんて、もう天使のよう!
By妻竹久夢二伊香保記念館 美術館・博物館
-
入ってすぐピアノと大きなオルゴールがおかれたホールがあります。このオルゴールと夢二となにか深いえにしがあるのかと思いましたが、直接の関係はないようです。大正ロマンの香りが共通している、とでもいうのかな。
「宵待草」のオルゴールが流れておりました。
一書に曰く、
夢二と、この洋館と、どういう関係だろうなぞ思いながら、拝見していますと、館内放送。
ピアノ演奏会が行われるそうです。
三回行きましたが、三回とも演奏会はありました。
最初に、展示してある、蓄音機だの、さぞかし価値があるのだろうという、古いオルゴールだのの説明があって、それからピアノの演奏でした。
宵待草や、シューベルト、ベートーベン、誰でもが知っている親しみやすい優美な曲ばかりで、どこぞのお宅のパーティにお呼ばれしたような。
それが一層、お金持ちのおうち感を強くします。
By妻 -
ここには、夢二が伊香保を愛するようになった、つまりなぜこの記念館が伊香保にあるのか、そのきっかけになった手紙が展示されています。
写真中央の細長い手紙です。 -
「竹久夢二P44」より。夢二発ミドリ宛て書簡。
明治44年(1911年)のことです。夢二のファンであった松沢ミドリ、当時12歳の少女からファンレターが届きました。ミトリちゃんは伊香保在住、町で夢二を見たと思って送った手紙に、夢二が送った返事です。
文面より夢二はこのときまだ伊香保に行ったことがないのが分かります。
加藤(旧姓松沢)ミドリはこの手紙を70年間大事に手元におき、記念館建設に着手した木暮に手紙を寄贈しました。記念館への寄贈資料第1号でした。
木暮はミドリを記念館開館式典に招待しましたが、体調不良で出席できず、3ヵ月後82歳で天寿を全うされました。(以上「館長のひとり事1」P23-24)
一書に曰く、
子供の手紙と、うち捨ててもいいのに。
夢二さん、なかなか丁寧な人だったのですねえ。
逢ったこともない、どんな姿、形かもわからない女の子に、
「それが私であったならと、心惜しく思われる」とか
「お逢ひする日があったなら、その日を楽しみませう。」
とか、よくおっしゃるものです。
なるほどなるほど。こういう調子で、女の子をコロリととりこにしちゃうのね。
そして!最後が
「さらば春の花の世をすごさせたまえ」
ですってよ!!?
~くらり~ やられた~
これ、12才の少女に書いたんですよ。
もらったみどりちゃん、こりゃ宝だわ。死ぬまで肌身離さず持ってたわね。きっと。
あれ?その割には、なんでここにあるの?
みどりさん 見せびらかしているのね。
うらやまし。
By妻 -
黒船館から渡り廊下で本館に入ります。ここのメインは「榛名山賦」の部屋。
-
「榛名山賦」は夢二の代表作のひとつ。
作品の接写はできませんので絵はがきから。 -
正面の絵です。「榛名山賦」1931年(昭和6年)
賛は、
「久方の光たたえて匂ふなり榛名の湖に春たちにけり」
早春の榛名山を背景に春の女神佐保姫だそうです。
モデルは死別した彦乃さんですかね。春の女神には見えない憂いいっぱいの表情です。
夢二は彦乃とは榛名湖に来ていません。夢二が初めて榛名湖に来たとき、傍らにいたのはお葉。でも死に別れた彦乃を忘れていなかったのか。
このあたり、夢二は煮え切らないというか、未練たらしいというか。
一書に曰く、
着ている着物の袖さえも重そうな、立っているのがやっとという風情の女が、どうして春の女神なものか。
春は、明朗で健やかでなくっちゃ。
By妻竹久夢二アトリエ 名所・史跡
-
「榛名山賦」の部屋中央、ガラスケースに入った「青山河(せいさんが)」
夢二は1931年(昭和6年)5月7日に出港、アメリカに渡りました。
世界恐慌で夢二の絵はアメリカでまったく売れず、困窮しました。
以下の引用は「夢二書簡2」
到着早々6月、恩地孝四郎あての手紙で、
★すこし、或いは二十年おそく来たようです。何もかも、おもしろくもおかしくもないので困りものです。★(P323)
10月14日の小沢武雄への手紙では、最初の個展のあと、
★アメリカ人に作品を理解させること――いや見せることすら困難です。(展覧会の会場を)ミシンのように歩いてつきぬける。★(P330)
「ミシン」というのはマシーン、機械のことでしょう。
恐慌のせいか、このころのアメリカ人の文化レベルなのか、絵画には興味がない。
私のパリの画家の友人によると、現代では絵を見たアメリカ人が「いいねえ」と言ったら、そのあと必ず、
“How much?”
フランス人だと「素晴らしい」というような単語を半ダースくらい並べて、
“Mais j’ai pas d’argent!”「でも、お金ないの!」
時代が変わったようです。 -
絵はがきより。「青山河」
「青山河」は1931年(昭和6年)5月-1932年9月、夢二滞米中に描いたものです。
裸婦のモデルはアメリカ人でしょうね。背景の山は榛名山のようです。「榛名山賦」と同じ山容です。榛名湖 自然・景勝地
-
「青山河」の裏面です。
右面に大きく「青山河」
左面に、
★
山は歩いて
来ない。
やがて私は
帰るだろう。
榛名山に寄す
千九百三十二年九月九日
欧州へ立つ前夜
坂井米夫様
謹呈
竹久夢二
★
坂井宛1932年8月29日の手紙で、
★欧州もついに怡(よろこば)しきところにはあるまじく、早くハルナの山へ帰りたく存知候榛名の山も今は初秋の風、梢をならして居るべく、今日を住みかねるものが明日をまつことが凡夫のあさましさに候べく、どこへゆくもこの身のうちにらくばくの風起こること、万々承知しての船出★
(P338)
榛名山への望郷の念は強かった。それをそのまま「青山河」に裏書きしたのです。
アメリカでの計画がうまくいかず、これから行く欧州でも希望をもてない、夢二はそんな心境だったようです。
夢二が渡米したのは、落ち目になった人気を回復し、絵を売りさばいて一攫千金を狙ったという説もあるようです。
もしそうなら、めどが立たない欧州などやめて、ここで帰国してもよかったのです。
9月10日欧州にむけ出帆したとき、手持ち全財産は268円35銭でした。ロスアンジェルス-パナマ経由-ハンブルグの船賃が185円だそうで、日本に帰る気なら帰れたはず。(夢二日記4P141)
なにかが、夢二をあてのない旅に突き動かしていたのです。47才です。分別のある中年です。
「今日を住みかねるものが明日をまつ」「どこへゆくもこの身のうちにらくばくの風起こること、万々承知しての船出」
なんか、すごいなあ。
欧州ではドイツに腰を据えるのですが、夢二の手紙は景気の悪い話ばかりで、あいかわらず絵は売れません。
旅行に行ったパリでお金がなくなりました。送金の手違いのようです。日本人の宿屋の主人がお金を貸してくれました。
「巴里のパンはまるで餅のようにうまく」パンが1本2フラン、2日の食事に足りました。
日本からの送金がついたので、リヨンの織物の美術館をおとずれたところ、大通りで行き倒れになりました。貧血のようです。お金がなさそうにみえたのでしょう、タクシーも乗せてくれません。ポリスにお金をみせたら、やっと宿まで送ってくれました。
(以上1932年11月21日付け高橋しげ宛て書簡P359-360)
夢二と巴里と2フランのバゲット
▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲
一書に曰く、
パリでお金がなくなった。
そりゃあ大変でした。
パリジャンは、正直者だから、自分の感情をむき出しにします。
異邦人に冷たい。貧乏人に冷たい。年寄りに冷たい。美人じゃない人に冷たい。
ありゃ、全部に当てはまる。
竹久夢二 大変でしたでしょう。
頑張りました。
描く絵はウエットでも、ご本人は結構、スカーレット・オハラで
Tomorrow is another day
だったのですね。
パンが2フランと言っていますね。
私たちのフランス生活の最初が、フランでした。途中からユーローに変わりましたが、今でもついフランといってしまいます。
パンの値段は、忘れてしまいました。
着いてすぐは、パンが買えたって喜びました。
三ヶ月もしたら、パンしか買えない。と嘆きの元になりました。
と言うのも、マルシェに行っても、黙っていては買えません。
ただほしいだけではダメなのですよ。
例えば、アボカドを買うとします。すると、いつ食べるのか?どうやって食べるのか?と聞かれるのです。
向こうの質問が分かって、答えられないと買い物も成立しないのです。
スーパーマーケットが恋しかったです。
あの頃は、蜜柑もフランスにはありませんでした。
オレンジばっかり。
帰国するころには、クレマンティヌといって、日本よりおいしいミカンがあふれましたが。
夢二は、バゲットと水で暮らしたのでしょうか。
それは!
頑張りました。
パリのバゲッドは、そりゃあ、世界一おいしいパンですが。
道路工事のおじさん達は、バゲットにワイン、それにカマンベール食べてました。
夢二さん大変でした。
パリで苦労した同士、親しみを感じます。
By妻
パリの貧乏暮らしをパリジャンは「バゲットにムタルド(からし)をぬって食べる」といいます。
ムタルドはディジョンのからし、実はあんがいおいしいモノですよ。夢二もたぶんこれをやったはず。
1933年2月からベルリンの美術学校で日本画の教室をもちました。(P369)
★私はとうとう伯林へおちつきました。日本画を教えてその日暮らしをしてゐます。しかし伯林も貧乏でみんなほそぼそと生きている形です。私も日本へ帰りたくおもいます。★
(1933年3月16日付け高橋しげ宛P372)
日本の雑誌へ送る原稿の稿料が生活費でした。
★近く有島生馬さんの手許へ若干の原稿を送ります。その稿料が私の3月までの兵糧になるわけですが、実に外国の貧乏は骨身にこたえるものです。★
(1933年1月10日づけ高橋利郎あて書簡P368)
私は夢二の「外遊」というのは、近ごろパリで展覧会をやる日本の絵描きさんと同じだと思っていました。日本からパリに短期間やってきて、貸し画廊で個展をやって、経歴に「パリで個展」と書き込むのが目的です。パリで絵が売れる、評価されるというのは初めから当てにしていません。
夢二は真剣勝負でアメリカ、ヨーロッパにやって来たのでした。
破れたりとはいえ、試みた。
美人画を描いて、ついでにモデルをたぶらかす女たらし、というイメージは間違いのようです。
帰国したのは1933年(昭和8年)9月18日。2年4ヶ月の放浪でした。
この困難な生活が、夢二の健康を蝕んでいったのです。結核です。
1年後、1934年(昭和9年)9月1日、信州富士見高原療養所にて没。49才。 -
夢二黒船館の目玉は「黒船屋」
しかしこの絵は非公開で、年に1回決まった日にしか公開されません。
黒船館の2階に「黒船屋」のレプリカが展示されていますが、これも撮影禁止です。
部屋全体がほぼ撮影禁止でしたので、会場風景もありません。 -
黒船館は建物そのものが見所いっぱいです。
創立者で館長の木暮亨によると、内装はすべて本物の木材を使い、窓枠、部屋の扉、枠などは日本木材です。
照明器具、家具なども、夢二の生きた大正時代のデザインに統一しました。大正ムードの再現に徹したということです。 -
一書に曰く、
照明は夢二の時代の本物。
ハンデルランプというそうです。1906年から1936年までアメリカで制作された照明器具。ちょうど夢二が活躍したころです。 -
レプリカではありません。
-
豪華なお屋敷大公開は、何処までも何処までも続きます。
まず家具調度の豪華さ。優雅さ。 -
ということで、結局、竹久夢二は、ここに住んだわけじゃない。
館長の小暮さんが、夢二のファンで、集めたコレクションを公開したというわけでした。
すてきでしたよ。 -
トイレだってすてきでした。
もちろんこれは夢二の時代のものではありません。しかしデザインは夢二調。
乙女チックで、エレガントでした。
ぜひぜひ、ご覧になって下さいませ。
By妻 -
「館長のひとり言」は記念館館長、木暮亨の、非常に優れた夢二紹介書です。
記念館建設のいきさつ、作品収集の経緯、夢二作品の見所などが、情熱を込めて書かれています。
「館長のひとり事1」で、木暮は夢二の軸物の鑑賞の極意を教えてくれました。(P53-54)
★
絵は、ある一瞬(現在)をとらえた静止画。でも名画は、そこに未来への予感と過去からの出来事がちゃんとひそんでいるものである。(中略)
そのためには軸物は落款(署名・押印)の位置が大変重要だ。多少の例外はあるとしても、それが向かって画面の右側にあれば、その絵の右外が過去、目に見える画面そのものが現在、そしてその左外が未来。落款が左にあれば、まったくその逆。
こうして絵画を過去・現在・未来と読み取ると、描かれた人物の思いが分かり、動きが見え、音が聞こえ、見る人にとって一人一人の素晴らしい物語が作られていく。
★
やってみました。 -
絵はがきより。夢二の代表作「黒船屋」
落款は右下、ということは画面右外が過去、左が未来。
この娘さんは画面右からネコを抱いて入ってきた。箱に座ってからネコが飛び乗ったというのはないな。
我が家のネコはBy妻の膝が窮屈なのです。足が短いから体が収まらない。この黒猫も大きいから箱の上に座った娘の膝には乗りたがらないはず。だからネコは初めから抱かれていた。
娘さんは何を考える。「夢二さんにはいつ会えるのかしら・・・」これが現在。
考えてもしょうがない、そうだ手紙を書こう、と決意して画面左に出て行く。などというのはいかがでしょう。
ネコはどうした。
そのまま抱いていった。
箱の上に残した。
残されてなるものかとネコが爪を立てた。
「痛いわね!」と地面に投げ捨てた。「フギャア~~~」
さあ、どれでしょう。 -
「運命を占ふむすめ」
絵はがきより
この軸には娘さんの頭の上に賛があります。縦長すぎるので絵はがきではカットしたみたい。
★
運命を占ふむすめによせて
こすもすや
人も柱に
よりかかる
夢生
★
ひょろっとして一人では立っていられないコスモスのように、人も柱によりかかる、という意味でしょうか。
占いにせめてもの救いを求める娘さん、かな。
なにやら浮かない顔です。
珍しく、左に花押があります。
恋人から手紙が来ない。
左から入ってきて、トランプ占いを始めた。あの人は私を好き、嫌い・・・
何度やっても卦は「嫌い」
疲れちゃって、柱にもたれかかる。
もうやめよう、と思って、しょんぼり右に出ていく。
あんがい、これでいいかも。 -
絵はがきより。「五月の朝」
制作は1932年(昭和7年)ということは、アメリカ滞在中です。「青山河」と同じく坂井米夫氏に贈られたものです。
夢二日記4の1932年(昭和7年)2月16日、
★所謂夢二式美人画をかく。★P106
3月3日に、
★お七とお園をかく。★P112
これでしょうか。
賛は、
★
西鶴五人女の中の吉祥寺のお七
(5文字読めません)
夢生
★
モデルはアメリカ人ということです。
座敷から玄関に出てきました。上がりかまちにどさっ。
あんまりお行儀よくない。
乱暴に脱いだ下駄の右をはきました。
このあと左の下駄を履こうとしたら、下駄が曲がっていてうまく履けない。
ヒステリーを起こして、片足裸足で出ていっちゃったとさ。
西鶴五人女のお七というのは、八百屋お七です。
吉祥寺というのは、火事で焼け出されて避難した吉祥寺のお寺。吉三郎に会いたくて焦っていたのでしょう。
恋人に会うために放火するという積極的な娘。こんな物語でもいいんじゃないの~~~
蛇足。
この絵とほぼそっくりの絵があります。「山の茶亭」(大正中期)胸がはだけた遊女ぽい女。西鶴五人女の賛はありません。
それをアメリカ娘に置き換えたのが「五月の朝」です。こちらの方が可憐な感じ。 -
夢二記念館の前、道路に面するおそば屋さん。10月、3回目です。
以前から気になっていました。このあと一気に千葉まで帰ります。ここでお昼にしちゃおう、ということで入ってみました。木暮茶寮 グルメ・レストラン
-
ところが入ってみたら、これが記念館館長の木暮亨が、中之条から移築した古民家の長屋門だったのです。1977年(昭和52年)のこと。
日本古来の工法で釘を一本も使っていません。移送復元したのは、民家建築の大家、山本勝美。
当時木暮は背後の森の中で木暮山荘という小さな旅館を経営していました。この長屋門の移築が、夢二記念館の建設の端緒になったそうです。 -
「木暮茶寮」とのれんが下がっていました。出てから気がつきました。
一書に曰く、
3回目のときに、ちょうどお昼だったので、初めて食べてみることにしました。
和食フルコースなんて出てきたら、困るな。とおずおず入って行くと、ただのおそば屋さんでした。
館長の小暮亨さんという方は、この建物にお金はかかっていないとかパンフレットに書いてありますが、いやいや、なかなか。
けれど、ただのお金持ちとは違って、お金の使い方をよくご存知なようで、記念館が洋風で、こちらは日本建築の美しさです。
ここも素敵でした。
美しいものがお好きなのですね。
私だって好きですが、なかなか諸事情?で、自分では持てません。
でも、ありがたいことに、こうやって楽しませていただけます。
小暮さん ありがとう。
By妻
吉屋信子(1896-1973)は夢二の絵のファンでした。
吉屋の「徳川の夫人たち」(1966年)はテレビドラマ「大奥」の原作だそうです。
私が見たのは1983年のフジテレビ版。
ナレータ岸田今日子が、毎回アルトの色っぽい声で、
「今夜はこのくらいにいたしとうございます」と〆たのでした。
By妻が色っぽく、
「このシリーズは、とりあえずこのくらいにいたしとうございます」
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (4)
-
- 前日光さん 2023/12/22 00:05:37
- 「徳川の婦人たち」!
- 持ってますよー!
ドラマでは佐久間良子さんがお万の方を演じていました。
家光が江原信二郎〈信太郎でしたっけ?)だったかな?
平幹次郎氏は、有栖川宮熾仁親王役で出演されていました。
こんばんは、しにあさん&by妻さん
自分の旅行記に手間取っていて、今頃コメントしています。
伊香保の夢二黒船館は、私も行ったことがあるのでよく覚えています。
女子トイレの写真が、私の旅行記にもほぼ同じ角度で載っていて、笑えました。
ホント!あそこは乙女チックでロマンチックで、どこまでやれば気が済むの?と思いましたよ。
でもこの建物は小暮亨氏の趣味だったんですねぇ。
よほど夢二の世界が好きだったんですね。
大仕掛けのオルゴールはよく覚えています。
私が行ったのは、二月だったか三月だったかの寒い時期でした。
「黒船屋」ですが、どうも以前からこの絵のデッサンが気になっていて。
右腕の角度(右肩かな?)、ちょっと不自然な感じがします。
黒猫がよほど大きくて重いのでしょうか?
右腕に力をいれないと猫が落ちてしまうのかな?
猫はこの後、膝から飛び降りたのでは?
美人さんの膝が狭すぎて、猫は人間の美醜なんてどうでもよくて、居心地が第一なので、早いとこ逃げ出したかったんじゃないのかと(^_-)-☆
記念館の前のお蕎麦屋さんって、記憶にございません。
寒くて周囲を見渡す余裕がなかったのかも。
ちなみに私は、お決まりの「水沢うどん」を食べました。
うどんよりは蕎麦の方が好きですが。
伊香保温泉もしばらく行っていません。
季節の良いときに、ゆっくり訪れたいものです。
夢二シリーズ、これにてひとまず終了ですか。
夢二のいろいろな側面を教えていただきました。
ありがとうございます。
良いお年をお迎えくださいね!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/12/22 15:45:42
- Re: 「徳川の婦人たち」!
- 夢二記念館のトイレの写真、本当に同じ角度ですね。
こちらのブログはまた改めてお伺いいたします。まだ未拝見のブログを発見して、楽しみです。
ロマンティック、乙女ティック、夢二チックというのは同義語のようです。それであの記念館を作ってしまうのですから、小暮氏のロマンティズムはすごいものです。
夢二の絵はいい加減もいいところですが、若い頃の習作をみると、デッサン力がないわけではないらしい。あの12頭身くらいの榛名山賦の女神さんも、黒船屋の娘のアンバランスな大きな手も、わざとなんです。
女神さんだって、幼稚園の子供の絵みたいに、足が画面の外に出ちゃっている。
なんなんですかね。
このあたりは専門の評論家さんにお任せして、私は今後も夢二の週刊誌的な話題を追うつもりです。
岡山の夢二郷土美術館に行くのが楽しみ。ここは邑久なんですよ。もうお分かりでしょう。大伯皇女の生まれ故郷、大伯または大来です。
だからと言って、なんか関係があるかというと、ないでしょうね。何か見つけられたら、それこそ大騒ぎでぶち上げるつもりです。
長屋門のおそば屋さん、そのうちお時間がありましたらどうぞ。蕎麦つゆは、醤油味が強いかと思っていましたが、さっぱり。
北関東は醤油が濃いという先入観がありました。
高崎育ちの昔の友人が、讃岐うどんを連絡船の上で食べた時、「こんなどんぶりの底が見えるようなうどんが食えるか」と怒って、どんぶりごと海に放り投げたそうです。
京都人は、関東の真っ黒なうどんつゆを見て悲しくなった、という話も聞いたことがあります。
私はどちらかというと、真黒系です。
By妻は関西系。
栃木はどうですか
-
- mistralさん 2023/12/17 09:31:02
- 竹久夢二伊香保記念館
- しにあの旅人さん
おはようございます。
竹久夢二伊香保記念館の旅行記、拝見しました。
伊香保に家族で宿泊した折、竹久夢二記念館があるようだ、と言われ
あまり興味を持てなかったものでスルーしてしまいました。
今回の旅行記を拝見して、あの時に行っておけば良かったと後悔しました。
by妻さんが書かれておられました。
貴族の邸宅みたい、なかなか風情のある佇まいです、、、と。
最初の外観お写真を拝見して、まさにそんな印象を受けました。
自費で美術館を建築されたという小暮亨さんという方に興味をおぼえ
検索してみましたら、小暮さんのブログに出会いました。
(竹久夢二伊香保記念館、館長ブログより)
ステンドグラス、照明器具など一点一点に細かい解説などがされていて
とても興味深いものでした。(まだすべて拝見できていませんが。)
<黒船館一階奥のホール天井ステンドグラスについては、アントワープ
貿易商の館を飾っていたもので
「もの」であっても人と同じように経験したたくさんの情報を私たちに
伝えているのではないでしょうか、、、>
などと書かれていて、それらのものたちが伝えてくれる情報・気配・
空気感・・・などなどによって大正ロマンあふれる雰囲気が一層
漂ってきていると想いました。
小暮亨氏の竹久夢二愛が感じられました。
絵を収蔵するための美術館は、単なる箱ものであれば良いのではなく
収蔵される絵と一体感のあるものでなくてはならない、との想いで
しょうか。
私が美術館を見学しましたら、アールヌーボーいっぱいのステンド
グラス、照明器具などなどの旅行記になってしまいそうでした。
今年一年、旅行記をとおして交流させていただきまして、有難うございました。
来る年も、ご夫妻にとりまして良いお年になりますように。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2023/12/18 09:48:10
- Re: 竹久夢二伊香保記念館
- 伊香保記念館はインテリアに興味のある方には必見です。
直接夢二に関係ないものがいっぱいありますが、大正ロマンということで、20世紀初頭アールデコ、アール・ヌーボーの時代に重なりますから、それらしきムード満載です。
私にはネコに小判で、あんまりピンときません。アールデコ、アール・ヌーボーも実は区別できません。
じっくりとご覧になることをお勧めします。
ただコロナ騒ぎの後遺症か、見学時間の制限がいろいろあって、事前チェックが面倒です。
ガラス工芸なら同じ敷地内の義山楼だそうです。ここも夢二とは関係なし。最初から美術館にするために設計された日本建築だそうです。
たぶんMinstralさん御用達。
私たちのばあいは、いつ行っても閉館中でした、
ミュージアム・ショップのキュレイターさんのお話では、木暮亨氏は90才過ぎでも元気なようです。ただ「館長のひとり言」も2年以上更新が止まっていますので、ちょっと心配。
とにかく彼の個性でもっているような美術館です。
とりあえず夢二夢のあとは今回でおしまい。金沢と岡山の夢二美術館に行って、また再開したいのですが、いつになるか。車の運転はあと5年と思っています。5年以内にやっつけます。
今年もブログをよく読んでいただきました。ご苦労様でした。
つぎは北関東ネタです。古文書などを引っ張り出しますので、ますますふつーの4トラベラーさんには煙たがられそうです。数少ない読者さんですので、今後ともよろしくお願いします。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
この旅行で行ったグルメ・レストラン
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 夢二夢のあと
4
24