2023/10/27 - 2023/10/27
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しにあの旅人さん
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更新記録 2023/12/16:不二彦の年令訂正
県道33号を下ってきたらいきなりナビさんが「目的地に到着しました」
「えっ!」とまわりを見まわしても何もなし。あわてて目の前の駐車場に車を止めました。左の頭の上にありました。かなりの急斜面です。
竹久夢二が作ったアトリエ。ただし復元したもの。
「榛名山美術研究所」とともに、夢二の文字通りの夢でした。
しかし夢二は気に入らなかったようです。ほとんど使っておりません。
参考書は、
「夢二夢のあと1 大正ロマンへのタイムマシーン、弥生美術館・竹久夢二美術館」
https://4travel.jp/travelogue/11869366
にならべました。
引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2023/12/06
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
一書に曰く、
あっあれだ!と思ったのは、お隣のお宅でした。
きっと、どなたか絵描きさんのアトリエではないかと思うのですが、目指す夢二の家は、その隣。
想像していたより遙かに遙かに普通の家っぽい。
絵描きのアトリエって、窓を大きくとって、光が入るようにしてありますが、この程度なら普通の家と変わらない。
夢二だからもっと派手かと思っていたけれど、そうでもない。
質素でした。
By妻竹久夢二アトリエ 名所・史跡
-
夢二が榛名湖畔にアトリエを作りたいと思ったのは、1929年(昭和4年)くらいのようです。
安成二郎宛て3月29日付けの手紙で、
★・・・昨日榛名を馬にてきわめ湖畔の一角を永代無償にて借りうける契約をいたし候。これは此度の唯一の収穫にて御座候。山を好きな小生つひには山へ帰る隠棲の地となるやと案じ且喜び居候★
(P240、句点挿入は筆者)
アトリエを作り始めたのは1930年(昭和5年)5月です。
その後画会などをして資金集めを始めました。ということはお金のメドがあって始めた計画ではなかった。(P270)
6月2日には、山口正一郎に美人画10口引き受けてくれなどと頼んでいます。
★資金がまったくまとまらないのです★
(P271)
などと愚痴るくらい。
それでも6月19日には棟上げ式まできている。(P274)
次男不二彦(当時19才)が現場監督でした。
11月18日付け浜本浩あて手紙では、
★山の家もやうやくできそうだ。不二彦が専念やっている。★
よかったね。でも、
★パンと水で生きる工夫もやっとついたが、貧血で時々ねる。★
だいじょうぶかね。貧血が持病らしく、このあとアメリカでもヨーロッパでもたびたび貧血で動けなくなっている。
12月7日付け二瓶式爾宛て
★いよいよ山の家も出来上り此春から引うつり仕事をはじめたくおもいながら何からはじめるかを考えてゐます。★(P300)
12月13日付け天江富弥宛て
★榛名山の家もどうやら入れそうになりました、★(P301)
わあ、できた!
心配しましたよ
ところがですね、夢二はほとんど新築のアトリエに住んでいないのです。
「夢二日記3」より。
12月7日は東京の自宅、24日は「揚出し」という朝飯屋、29日は有島生馬、島崎藤村、藤島武二訪問、年末の挨拶ですかね。不二彦同伴というから、現場監督も帰京しています。
31日は銀座です。
年がかわって1931年(昭和6年)1月1日、住んでもいない上州榛名山湖畔より新年挨拶が出ました。
★思立って榛名湖畔へ山小屋を造り正月から仮に住んでゐます。★(P303)
これからは「夢二日記4」
1月1日に伊香保に行っています。
まず行ったのは伊香保温泉の定宿、越塚旅館。旅館の娘迪子(みちこ)に出迎えられました。初対面は、1928年(昭和3年)迪子17才のときですが、その後夢二は迪子モデルの作品を数多く残しているそうです。アトリエ完成時、迪子20才くらいです。
2日「神社へ詣ず」とありますから、伊香保神社でしょう。4日、迪子(みちこ)と榛名山に行き、初めて完成したアトリエを見ています。
日記、手紙によると、夢二晩年の3年間は荒涼たるものですが、迪子はそのなかで唯一明るく輝いています。陽気で、活発なお嬢さんだったようです。
「夢二書簡2」に、渡米直前前月4年24日付けの手紙が1通残っています。短歌が7首書かれています。心のこもった手紙です。
2023年9月12日から12月3日まで、岡山の夢二郷土美術館で展覧会「竹久夢二と榛名」が行われましたが、それに欧米滞在中の夢二発迪子あて手紙や絵はがきが展示されたそうです。
「夢二郷土美術館・館長メッセージ」
夢二生誕139年記念 見ごたえある「竹久夢二と榛名―理想郷を求めた夢二―」展 | 館長メッセージ|夢二郷土美術館 (yumeji-art-museum.com)
夢二研究の第一人者長田幹雄編集の「夢二書簡」(1991年/平成3年)にはありませんので、近年発見された新資料だと思います。高崎市が保管しているようです。見たいなあ。
1月5日に不二彦とともにアトリエに行っています。
「正月から仮に住んでゐます」というのはこれからの数日か。
これから5月3日までは日記は空白。
手紙にも、アトリエに行ったという明白な記述はなし。2月以降、欧米旅行の資金稼ぎの展覧会が連続して、榛名山に落ち着く余裕はなかったと思われます。 -
当時の資料をもとに忠実に再現したそうです。
復元は1989年などという資料もありましたが、どうもはっきりしません。場所も同じかな。
そこで榛名観光協会に電話したら、調べてくれました。
1993年(平成5年)でした。
オリジナルのアトリエの場所はやはりすこし違うようです。厳密にはもう分からない。
ただしそれほど離れてはいないであろう。
係の方はとても親切で、ありがとうございました。 -
「竹久夢二」より。(P42)
当時の写真です。手を腰に、カッコつけているのは多分夢二。 -
すぐ近くの駐車場からの榛名富士。山の中腹に頭を出している山頂の見え方からいうと、もう少し南または南東じゃないかと思います。
いずれにしても、この近くであることは間違いありません。 -
アトリエ展示の写真より。
アトリエの前にはなにもありません。転がってゆけばそのまま榛名湖にドボン。 -
木だの家だの、いっぱい。
当時は道路も駐車場もありません。斜面の草原の一軒家だった。
今だったら、ぽついけが取材に来る。 -
一書に曰く、
高台にあるので、階段を登ろうと探しますが、草ぼうぼう。
やっと、らしき道をたどって玄関へ。
By妻 -
平面図
-
建物入り口。平面図では2階となっていますが、事実上ここが1階で、その下は半地下のようです。
一書に曰く、
閉まってます。
見学は、×時から○時と書いてある張り紙がありました。
その見学時間なのですがね。
どなたも開けには来て下さらず。
仕方ないから、家の周りをぐるぐる回って、ちょっとでも見えるところを探します。
結局、玄関と湖に面したガラス戸からしか見えません。
ガラスに頭をこすりつけて、のぞきます。
そんなことをしていると、下の道路を何組かのグループが通り過ぎるのですが、皆さん、ここには目もくれません。
隣というか、地続きの小公園に登って行きます。
みなさ~ん、夢二のおうちはここですよ~
叫んで教えてあげようかしら。
と思い悩む間に、みなさん小公園をお楽しみになって湖畔の方へ。
ガイドらしい人もいるんですから、まちがったわけでもなく、公園が目的なのでしょう。
出しゃばらない。出しゃばらない。
By妻 -
しょうがない。ガラス越しでぼんやりした写真です。まあ、こんな雰囲気だったということで。
玄関入ると台所、奥が和室6畳。玄関左も和室6畳。 -
台所の窓から失礼、夢二さん、お留守ですか~~
6畳ですね。奥に廊下があって、そこから榛名湖独り占めです。いい眺めだったでしょうね。当時は湖までなにもないのです。 -
手すりの下が1階。
アトリエだそうです。2階から階段はなくて、一度外にでなければなりません、 -
一書に曰く、
手すりの下の部屋は、不思議な部屋でした。
半分が土間で、向こう半分の座敷の床下まで見えます。
土台の石積み。石がむき出しです。冬はしんしんと冷えたでしょう。
山の絞り水、しみ出てきたんじゃないかな。
今で言うサンルームなのかな。
この土間に、雪に濡れたコートを干したり、薪積んでおいたり。
そんなことを想像しながらしげしげ見ております間、室内から、宵待草だのスコットランド民謡だのがオルゴールで流れておりました。
雰囲気よかったです。これがなかったら、どろぼーかストーカーみたいだもんね。
By妻
2階にも囲炉裏などはなかったようです。
当時の写真でも煙突のようなものはない。暖房はなんだったのでしょうか。
火ばちだけ?
12月前半の、榛名湖畔の最低温度は3度です。
ここ数年は湖面は凍りませんが、かつては厚い氷が張って、ワカサギ釣りができたそうです。寒さは半端じゃないですよ。
5日に夢二親子はアトリエに行っていますが、不二彦は1月8日には東京の自宅に帰っている。
夢二は年始早々山形県酒田市に旅行で、その後の手紙は東京市外松沢村松原、現在の世田谷区松原の自宅から出ています。5月7日には横浜よりアメリカに出港していますから、ほとんどアトリエには住んでいないことになります。
まあ、住みたくても住めなかったでしょうね。
住みたくもなかったようです。
1月4日迪子と、完成した建物を初めて見たとき、
★山の家はおもったほどではない。特に外観がわるい。ひどい大工だ。★ -
夢二アトリエのすぐ近くにあるのは「榛名 湖畔の宿記念公園」
高峰三枝子が歌った「湖畔の宿」の舞台は榛名湖だそうです。
以下はBy妻独演会。
ということで、見学は終わり。
わざわざ来たのに、あっけない。
帰ろう帰ろう。
と、by夫。
でも、あまりにあっけない。
さっきの団体の人たちは、なにを見てたの?
結構ご満足のご様子でしたよ。
ということで、公園へ。
by夫は、目的以外興味がない人なので、車に行っちゃいました。湖畔の宿記念公園 公園・植物園
-
湖を見渡す公園。
彫刻は「乙女の像」
作者は分部順治(1911-1995)
これもなかなか分からなくて、by夫が榛名湖観光協会から教えていただきました。 -
と、「またお会いしましたね。」
高峰三枝子さん。
堀辰雄のところで、「一度お目にかかりました。」
高峰三枝子って、やっぱりスターなのね。
あちこちで名前がでます。
そう言えば、高校の時、化学の先生が、高峰といっても、美人の方ねと秀子との違いを強調しました。(関係ないけれど私の好みは秀子です。)
ある時代の人達には、大スターなのでしょう。
そのヒット曲です。
「湖畔の宿」
公園のはじっこの鉄柵をたたくと、このメロディになります。
みなさん
や、ま、の、し、ず、か、な~
と、おぼつかなく奏でておいででした。
道路にも、車が踏んで行くと曲になる道がありますね。
あれと同じ。
子供には楽しいかな。でも、子供は「湖畔の宿」なんか知らないよねえ。
駐車場にくるお客さんは全部この公園に来ました。
夢二アトリエにはだれも行きません。 -
夢二は三枝子に負けました。
ガンバレ夢二!
まずアクセス道を整備しようか。
By妻 -
夢二アトリエ(赤丸)から坂をくだって道なり800m、湖畔に夢二の歌碑(青丸)があります。
-
「さだめなく鳥やゆくらむ青山の青のさびしさかぎりなければ 夢二」
夢二没後1935年(昭和10年)有島生馬などが中心になって建てた歌碑です。
生馬はアメリカ・ヨーロッパ旅行中の夢二に、原稿の雑誌掲載を仲介するなど、おおいに援助した親友でした。榛名湖 自然・景勝地
-
京都・釜屋了貫宛て1929年(昭和4年)4月11日付け書簡の末尾。巻紙83センチの墨絵です。
「竹久夢二」より。
★伊香保にて一つの収穫は榛名湖畔の信州越後かみつけの山々を見はらす山腹の土地に画室
「(或は方丈)建設のことかない、山にこもって見たくなり候」★
(P245)
「 」が写真に写っています。 -
♪
-
♪♪
♪♪+♪と2枚横に並べると墨絵の通りです。ここから描いたのでしょう。 -
夢二アトリエより。
このかっこつけ写真もここっぽい。湖畔、波打ち際でポーズをとっているみたい。
当時の写真機には、セルフタイマーなどというものがついていなかったようですが、夢二のセルフィがかなり残っています。これは不二彦撮影かな。
不二彦がまだ子供のころは「ここをポチッと押すんだよ」と教えて、撮影させていたようです。
一書に曰く、
今、こんなポーズで写真撮る人いますかね。
あつ、ユージローもこんなポーズでしたような。
すんません。
でも、かっこいいですかね。
ユージローは脚長いからカッコいい
湖畔は、人気もまばら。
しかも、夢二?なにそれ?食ったことないって感じの人ばっかりでした。
夏の湘南みたいな雰囲気。チャラい。
夢二のほうも嫌いだろう。自分とはチャラさがちがう、チャラさが!と夢二はきっと言う。大正浪漫と太陽の季節の違いなんだろうなあ。大正浪漫は脚の長さを問題にしなかったんだね。
佳き時代なり。
By妻 -
ウイークデイですが、カップルがちらほら。なかよくアヒルボートに乗っていました。
夢二が初めて榛名湖を訪れたのは1919年(大正8年)お葉と一緒でした。
夢二とお葉の旅は、また改めてたどることにいたします。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2023/12/12 17:13:55
- 夢二は、ホント!カッコつけてますねぇ( ̄▽ ̄)
- しにあさん&by妻さん、こんにちは。
5日に奈良から戻ったのですが。。。
なんと、奈良のホテルでドジをやらかし、顔面強打、妖怪顔(歌舞伎の隈取状態!)しかも今日で一週間経つのに、昨日あたりから左の心臓下が肋間神経痛のように痛んできました。この辺りも打ったのかも(+_+)
そんなわけで、なかなかコメントできませんでした。
両目の周囲が腫れて黒ずんでいるのですが、ひどい方の左目に眼帯をして外出しています。(買い物もしなければならないので)
夢二が今の私を見たら、何と言うのかなと想像したりしています(^-^;
奈良では談山神社と音羽山観音寺に登山してきました。
中大兄と鎌足が密談を交わしたと言われる「談山(かたらい山)」にも行きました。
そして午後には標高600メートルの音羽山観音寺の急こう配を登ったので、帰りの下りで膝が笑ってしまい、困りました。
まぁ、そのうちに旅行記をアップします。
さて榛名湖畔の夢二のアトリエ、確かにアトリエには見えません。
しかも半地下の石積みが露出しているところなんて、冬は寒くて住めないと思います。
大工さんが才能なかったのかな?
榛名山バックに腕組みをしたり、カメラを向けられるとポーズをとってしまうのは夢二のクセなんでしょうか?
カメラそのものが珍しい時代ですから、後世に残るかもと思うと、自然にポーズをとってしまうのかな?
ちなみに私も高峰三枝子より秀子の方が好きです。
団体さんは三枝子の曲には耳を傾けても、夢二アトリエは通過ですか。
アトリエに見えないから仕方ないですね。
外観を眺めてみれば、これが夢二の好みでなかったことは理解できます。
カッコつけのポーズや貧血で倒れたりと、妄想分野では好みですが、そばにこんなヤツがいたら、うしろからケリいれたくなりますねぇ。
か弱い男性は嫌いではないのですがねぇ"(-""-)"
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/12/13 21:02:35
- Re: 夢二は、ホント!カッコつけてますねぇ( ̄▽ ̄)
- 奈良のけがは大変でしたね。
1週間後では肋骨にヒビでもないでしょうが、お大事に。
目の周りが黒ずんでいるのでは、せっかくの美貌台無し。
音羽観音寺は初耳です。
旅行記をはよう、はよう。
榛名湖畔の夢二アトリエはおすすめではありません。とにかく夢二本人が気に入ってないのですから、我々が行く義理はないでしょう。
このアトリエは、夢二の夢の結実みたいなブログがありますが、日記と手紙という本人の肉声を聞いてみると、気に入っていないみたいです。
何事も原典にあたるという面白さです。
夢二は、前日光さん好みのか弱いタイプではないですよ。
滞米、滞欧中の日記など、ちょっと4トラのブログでは書けないような文章があちこち。
煩悩の四十男の放浪の記録です。
千葉では県立図書館には日記がありました。夢二日記4です。幻滅するといけないので、あまりお勧めしませんが。
堀辰雄、室生犀星は相愛の妻に恵まれましたが、夢二にはそういう妻はいませんでした。
ひこのさんが死ななかったとしても、さあ、どうでしょう。添い遂げたとは思えない。
女から女へ渡り歩いた男の末路、とでもいうべきか。
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旅行記グループ 夢二夢のあと
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