2023/09/16 - 2023/09/16
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しにあの旅人さん
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文京区弥生の弥生美術館・竹久夢二美術館訪問記です。
大正文学青年である私は、夢二と相性がいいのですが、いい爺さんが「夢二が好き」というのは、面はゆいものがあります。隠れ夢二ファンでありました。
By妻はもともと興味がなかった。夢二作品を見たあとは「大いっ嫌い」になったそうです。
いわく「あんな背骨が軟骨でできているような女は許しがたい」
いつもは鉄壁の結束を誇るしにあ夫婦ですが、今回はそうもいかないようです。さてさて、どうなるか。
一書に曰く、
竹久夢二というアーチストは、名前の通り夢のような作品を残したひとで、私も、ごくごく若いころ、中学生のころは憧れておりました。
あの、「ま~てど暮らせど」のうたには、なんだか知らず涙ぐむ気持ちになったものです。
たまきさんとかひこのさんとか、、、憧れておりました。
わたしも夢二に選んでほしかったのでしょうかね。
今思えば、へそが茶わかしますが。
が、しかーし、長ずるに及んで、我が身の現実を知るようになりますと、
夢二って、単なる浮気者じゃない?
と、振られ女が、夢から覚めたここち。
夢二が嫌いになると、描かれた女性像も、何やらくにゃくにゃして、いかにも受け身で、待ち続ける女、選んでもらうのを待つ女って感じになって、イライラ。
しっかりせんかい!
べそべそ泣くんじゃない!!
とか叫びそうになりました。
はい。現在のby妻の愛読書は、佐藤愛子と平家物語でございます。
By妻
参考書は以下の通り。引用に際し、僭越ながら敬称を略させていただきます。
「岬 附・東京災難画信」竹久夢二/作品社/2022年
「竹久夢二美術館」(カタログ)竹久夢二美術館/2011年、引用では「美術館カタログ」とします。
「竹久夢二―大正ロマンの画家、知られざる素顔」竹久夢二美術館監修/河出書房新社/2014年
「竹久夢二伊香保記念館・大正ロマン夢二の館」1999年
「竹久夢二」木暮亨/竹久夢二伊香保記念館/平成27年
「夢二記念館・館長のひとり言一、二」木暮亨/竹久夢二伊香保記念館/平成17年、24年
「出帆」竹久夢二/作品社/2022年12月17日
「竹久夢二写真館・女」/栗太勇/新潮社/1983年
「夢二書簡1,2」長田幹雄編集/岩波ブックサービスセンター/1991年
「夢二日記1-4」長田幹雄編集/岩波ブックサービスセンター/1987年
投稿日:2023/11/28
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
木立の向こうの白い建物が竹久夢二美術館。本館より渡り廊下でつながっています。階段上ったり下りたり、神社なみです。
文京区弥生町、道路つまり暗闇坂の反対側は東大構内。
一書に曰く、
東大行ったひとには、なじみの町なんだろうけれど、我々二人とも、とうだい?なんだい?
のまちで、きょきょろしました。
静かで、好い町ですよ。
道際のお宅の車庫に、名前さえ分からん、えらい高そうな外車が駐めてあって、ムカッとしたけどね。
シャッター閉めとけよ。みせびらかしとんのかい!
by夫は、ランボルギーニ1台より軽トラ3台の方が便利だというタイプですから、なんとも思わないらしい。
歩いて行く途中で、若いけれども若くない位の女性に行き違いました。
黒っぽいJimmyな服装で、うつむきがちに歩かれる様子も、よかったです。
東大のまちに、いとつきづきし であります。
東大の助手さんかな。
日本の良さは、富と名誉の分離なんですよ。
東大付近を、豪華ケンランなノリカが歩いていてご覧なさい。不愉快極まりない。
By妻弥生美術館 美術館・博物館
-
正面が弥生美術館、高畠華宵の作品と特設展示会場。
一書に曰く、
2023年9月猛烈な残暑、田舎者2人、やっとたどり着きました。
入り口手前に、カフェがありまして、最初は、これも記念館の一部で、ここからも入れるのかと思ったのですが、違いました。かの有名な「夢二カフェ港や」です。
カレーを食べました。
しまった!白い洋服着てきちゃいました。
正面美術館入ると、昭和チックなおもちゃの展覧会でした。
ほとんどリアルタイムで知ってるんだよね。
なんか さびしい。
By妻夢二カフェ 港や グルメ・レストラン
-
今日のお目当ては特設展「夢二が見つめた1920年代 -震災からモダンガールの表現まで-」
会期は2023年7月1日~9月24日。NHKの日曜美術館で2度取り上げられたくらいの、ハイレベルの展覧会でした。
私たちが行ったときは、専門キュレーターさんの丁寧な説明付きでした。質問にも答えていただき、By妻はいろいろ聞いておりました。
注目は「東京災難画信」です。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災直後、9月14日から10月4日まで都新聞に連載した文章と絵のルポルタージュ。
ただしこれは写真撮影禁止でした。ちゃんと撮影禁止マークがついていました。
上は会場風景です。これはOK。
受付におたずねしたら、それ以外もフラッシュ、三脚を使わなければ撮影可能でした。
作品写真は絵はがき、美術館カタログを使いました。竹久夢二美術館 美術館・博物館
-
「岬 附・東京災難画信」表紙。
夢二は震災当時都新聞に小説「岬」を連載中でしたが、それを休載して「東京災難画信」を書きました。「岬」と「東京災難画信」とが1冊にまとめられたのは、この本が初めてだそうです。(末國善己解説P202)
第1信。 -
★昨日まで、新時代の伊達男が、所謂文化貴婦人の左の手を取って、ダンシングホールからカフェーへと、ジャック・ピックルの足取りで歩いていた、所謂大正文化の模範都市と見えた銀座街が、今日は、一望数里の焦土と化した。(以下略)★(P161)
「金(?)町四丁目
九月十二日」
とあります。
この日夢二自身は渋谷の自宅にいて、揺れはひどかったが、家そのものの被害は少なかった、と説明のキュレーターさんがおっしゃっていました。
2日に蔵前の被服廠まで行っています。毎日10km歩いて都心に向かったそうです。
夢二のレポートは、堀辰雄紀行・向島編であらためて取り上げます。堀辰雄も震災の被害者で、水泳が得意だったので隅田川を泳ぎ渡り、九死に一生を得ました。
一書に曰く、
夢二って、大震災のルポをしているのですよ!
ビックリだわ。
震災の時、おんなの懐に潜り込んで震えていたのかと思ってました。
ちょっと見直し。
そういえば、たまきさんにも商売させて、結構リアリストかも。
By妻 -
第二のテーマは大正モダンガール。展示会説明パネルより。
撮影禁止マークなし。
★明治期に職業を持つ女性はごく僅かでしたが、大正期には不況や低賃金労働者の需要が高まり、女性が社会進出する機会が増加しました。★
驚いたのはガソリンスタンドの給油係。着物着てやってる。
上に着ているのは何だろうね、By妻さん。長めの道行みたい。ちりよけってことですか?油よけになったのかな? -
和文タイプかな、仮名タイプか。見たことはあるけれど、触ったことはありません。
このおねえさん、当時の最先端技能労働者ということです。フォトショップで機械をパソコンに置き換えれば、現代の職場風景です。 -
バスガールや薬剤師もこの頃からだそうです。
1950年代、私の子供時代は路線バスにバスガールさんが乗っていました。大きながま口みたいなカバンを前にぶら下げて、切符を車内で売っていました。たぶんあれと同じ。
一書に曰く、
バスガールさんって、最初は、選考基準がいろいろあって、今はそう呼ばないらしいのですが、スチュワーデスさんくらいの憧れの職業だったらしいです。
今なら女子アナですかね。
その後、車掌なしの運転手だけのバスを、わざわざワンマンカーなんて呼ぶのが出てきて。
運転手の負担が重くなるとか言って、賛否もめました。
あれから何年でしょうか。運転手もいないバスが走っているんですってよ!
By妻 -
2階「モダンガールの表現」
「婦人倶楽部を飾るモダン女性像」のコーナー。 -
美術館カタログ表紙です。美術館ではとにかくカタログを買うことにしています。伊香保の夢二記念館のカタログももっていますが、この2冊に代表作はほとんどはいっているはず。
表紙の作品「水竹居」(すいちくきょ、1933年/昭和8年)は、夢二ベルリン滞在中にドイツ人女性をモデルに描いたもので、晩年の傑作だそうです。
以前画集か何かで見たことがありました。うーん、あきらかに顔立ちや体つきが違う、と思いました。ドイツ人か。 -
美術館カタログよりP72-73
木版画を表紙に一枚一枚貼ったそうです。
★夢二は婦人クラブの仕事を大正12年(1923年)から15年にかけて行いその人目を引く木版画は人気を博した。★
本は捨てても、木版画だけでもとっておいたら、一財産。うちの先祖にそういう気の利いたのはいなかった。 -
1階です。
セノオ楽譜のコーナー。 -
美術館カタログより。
★「セノオ楽譜」
セノオ楽譜は妹尾孝次郎(幸陽)が、古今東西の名曲を紹介するために発行したものである。★(92)
1000点以上が出版され、夢二がデザインしたのは280枚だそうです。
このうち、右下の宵待草など、夢二が作詞したもの24曲。流行歌作詞家でもあったのか。
私は何ページもある歌曲集だと思っていたのですが、A3くらいの紙1枚でした。表と裏が夢二の絵で、開くと見開き2ページに楽譜と歌詞が書いてありました。
説明のキュレーターさんによると「宵待草」初版は着物姿の娘さんでしたが、あとで洋装に変わりました。「モダーンでいこう」ということになったのです。
腕も躯も首までくねくねしている。乙女の恥じらいということなのですが、こういうのがBy妻には気に入らないらしい。 -
これは伊香保の夢二記念館編集の「竹久夢二」P29の写真。着物姿の宵待草。初版ですね。娘のくねくねぶりは同じ。
ホントだ、見開き2ページの楽譜だったんだ。 -
美術館監修の「竹久夢二」です。
絵は「この夜ごろ」
晩年の作品に特有の頽廃の漂う優品だそうです。唄が絵にそえられております。
大正ロマン、裏をかえせば大正デカダンス、いいなあ。
★
格子の外に
しのびよる
夜をまたせて
化粧のひまに
昨日別れた人をまつ
逢ふ時いふことを
独言してはつかしや
この夜ごろ
夢生作
★(美術館カタログP5-6)
淡谷のり子
▲▼▲▼▲
この本にはおもしろいエピソードがいっぱい。夢二ファン必読です。
若き日の淡谷のり子、夢二の思いで。
淡谷のり子は生年1907年です。1929年(昭和4年)に音楽学校を出たとき22才、夢二45才です。淡谷のり子の没年は1999年ですから、夢二を直接知る人々はつい最近までお元気だったのです。
淡谷によれば、この楽譜で「宵待草」や「蘭灯」を歌ったそうです。
彼女は子供のころから夢二ファン。女学校では、
★「夢二が描いたような人ね」というのが代表的な美人の形容でしたからね。★
そうだったんだ!
1931年(昭和6年)夢二の渡米資金援助のために、後援者による「夢二画伯外遊送別舞踏と音楽の会」が、高崎や前橋などで開催されました。淡谷も喜んでノーギャラで参加。
旅の途中のこと、夢二はずっと展示即売用の墨絵を描いていました
★わたしが墨をするお手伝いをしていましたら、夢二さんが「そこに掛けてください」と言って、わたしを椅子に掛けさせて、わたしをモデルに夢二さんが絵を描いたんですよ。(中略)あの夢二さんに自分を描いてもらったということが、わたしはもう嬉しくて、嬉しくてねえ。★
その絵は戦災で焼けてしまいました。なお、藤田嗣二や東郷青児に描いてもらった絵も失ったそうです。3点並べて見たかったなあ。
★夢二さんと会ったのは、本当にその音楽会の旅の間だけでしたから、それに夢二さんが旅の間もほとんど喋らない人でしたから、夢二さんとはそれほど深いお付合いがあったわけではないんですけれども、小さいときから好きで好きでしょうのなかった夢二さんのために歌い、その人と一緒に旅ができ、そのうえ、幾つかの忘れがたい思い出が作れたということです。★
(「竹久夢二・渡航前 竹久夢二とまわった音楽会のことなど」P71-73/初出:青春と読書・第20号第12巻/1985年/集英社)
当時夢二は、若い女性たちの間で絶大な人気がありました。これを読むとしみじみと分かります。
それにしても現物の夢二は、のり子がいうように無口で、しかも風采の上がらない人物だったようです。
それがなんで美女ばかりにもてるんだろう。
一書に曰く、
淡谷のり子って、上野美術学校のモデルをしていたんですよね。
だからモデル慣れしていたのだろうに、こんなに喜ぶなんて、夢二は特別だったのですね。
その時代の夢二の立ち位置がわかります。
でも、彼女は夢二のアフロディーテではなかったと思います。
年取ってからしか知らないけれど、目の細い、むっちり太ったひとでした。
でも、肌は透き通って美しかったです。
本物を見かけたことあるんです。さすがでございましたよ。
By妻
横尾忠則
▲▼▲▼ -
「雛によする展覧会」ポスター/1930年(昭和5年)
「竹久夢二カタログ」よりP78
このポスター、私はなんとなく横尾忠則を連想するのです。似ているかどうかではなく、思い出す。
「竹久夢二」の横尾によれば、
この文章を書いた段階で(1977年)過去4回「夢二は嫌いだ」と書いていたそうです。それなのに、
★他人の目には僕と夢二の共通性がどこかに見えるのかもしれない。★
5回目の執筆依頼では、
★ぼくの初期の作品がどこか夢二を彷彿とさせているような気がしますから・・・こんなふうに誘われると、つい、・・・そうですか?・・・と例の「魔」というやつが差して引き受け、そしてたった今ぼくはこんなふうに苦しんでいるのである。★
横尾によれば、2人の作品は似ていないそうです。しかし、
★しかし、どこか夢二と似ているといわれれば気のせいかそんな気がしないでもない。そして奇妙なことにこんなふうにいわれるとなぜか嬉しいような気もするのである。この「嬉しい気持ち」がどうも曲者で、僕の気持ちを曖昧にしているのだ。「嫌いだが好き、好きだが嫌い」といっているようでどうも始末におえない。★(竹久夢二P132-138・嫌いだが好き、好きだが嫌い/初出:NHK日曜美術館第2集/1977年/学習研究社)
似ていると思うのは私だけではない。横尾自身も似ていることを認めているようです。しかもどこが似ているか本人も分かっていない。
夢二は100年ワープして横尾忠則に飛んでくるのです。
一書に曰く、
横尾忠則って、そうです。似てます。
似てないんだけれど、似ているんです。
考えました。
イラストなんだけれど、芸術性があるところ。
芸術絵画だけれど、限りなくイラストに近いところ。
ピカソ、モディリアニーに近いんだけれど、でも違うんだよねってところが共通なんだと、にわか美術評論家by妻は思うのであります。
By妻 -
「美しき装い」1925年(大正14年)
美術館絵はがきより。
夢二のモダンな風俗の絵は大ヒットしました
なんかちょっと違うけれど、このまま現代でも通じそう。約100年前です。
高畠華宵
▲▼▲▼
大正モダンが現代に直結するというのは、夢二だけではないみたい。 -
弥生美術館2階、高畠華宵展示室です。等身大パネルがおいてありました。
-
「ニューファッション」(大正末-昭和初期)
弥生美術館絵はがきより。
高畠華宵(たかばたけ・かしょう、1888-1966)
和服を現代風に着るというのは、このころからあったのか。
1970年代なかば、パリのチェルヌスキー美術館で、久保田一竹(1917-2003)の一竹辻が花の展覧会を見に行きました。そこに辻が花の着物を現代風に、つまり上みたいな着付けのお嬢さんが、しゃなりしゃなり歩いていました。一竹のスタッフでした。
たしか褄を高くとって、着物に固定していた。膝から下の脚はむきだし、ハイヒールでした。普通衣服には全く興味がない私がここまで覚えているのですから、相当ビックリしたということです。
バディム・エリセイエフ(1918-2002)館長も驚いていました。館長は日本学者で日本美術に精通していました。彼でも驚いた。
高畠華宵から半世紀後です。
一書に曰く、
これって、明菜がしていたファッションですよね。
ハイヒールではなくて、ブーツだったと思うけれど。
By妻 -
「春の丘」1929年(昭和4年)
美術館絵はがきより。
「男女7才にして席を同じゅうせず」とされた時代、少年少女2人組みを絵にすると当局から睨まれる。しからば同性2人ならいいだろうと、華宵が描いたのがこれ。
一書に曰く、
いやいや、男女別学教育の時代って、日本中が妖しいってこと?!
えー!弥生式土器なんか掘りながら、東大の学徒が、ドキドキもやもやしてたってこと?
「三四郎」にも「雁」にもそんなこと出てこないような。
今と違って、あの時代の方々は、現実と空想とが、くっきり離れていたのでしょうね。
麦飯にたくわん食べながら、憧れるは、手に入らない同性か、夢二の美女かってことですかね
By妻 -
「ダンス」1930年(昭和5年)
美術館絵はがきより。
こっちのほうが、男女2人よりもっと妖しい、怪しい。
一書に曰く、
この時代は、これが妖しくなかったんだねー。
異性間にしかエロは存在しなかったんだ。
でも、その昔は、森蘭丸とか、男色はあったんですよね。
では、女性の同性愛って、なかったのかな。
山本周五郎の時代小説に、妻が同性愛の話がありましたけど、小説だし、書かれたのは昭和だし。
うーーむ。
By妻
解説に、こういう絵が人気を博したのは、
★当時の旧制中学・高校や女学校にあった同性愛的文化の存在もあるようです。★
100年前に「同性愛的文化」なるものがあったのですか。ビックリ!
1970年代以降に出現した所謂少女コミック、たとえば山岸凉子「日出処の天子」などほぼ相似形に見えます。 -
山岸凉子「日出処の天子」3巻、5巻カバー
高畠華宵が現代によみがえってもいいし、山岸凉子が大正末-昭和初期にタイムスリップしてもいい。
カバーの絵は厩戸皇子つまり聖徳太子です。私も最初はビックリしました。なぜこういう中性的、というか両性具備みたいな絵になるか、原本を読むしかないでしょう。
夢二式美人
▲▼▲▼▲
今回は特設展示のためか、夢二式美人画が少なかったのです。 -
「稲荷山」1921年(大正10年)ごろ。
美術館カタログよりP23
通常展示ですと、たぶんこういうのがあったはずです。
By妻がいうところの「背骨が軟骨でできている女」です。
モデルはお葉さんだそうです。
着物の着方がずいぶんユルユルに見えますが、本来着物はこういうふうにふわっと体に巻き付け、着てとても楽なもの。現代のようにキチッと体を縛らないそうです。
By妻の妹、着付けの専門家から聞きました。
一書に曰く、
ありましたよ。くにゃくにゃへろへろ女性像が。
どうして、まっすぐ立てないんだろう。シャキッとせんかい。
佐藤愛子は、倒れるときでさえ直立不動で倒れたそうですよ。
理想だわ~
By妻 -
真打ち登場。
2階奥、ガラスケースに展示された3幅の掛け軸。
夢二の恋人2人の絵。 -
美術館カタログより。
「柳美人」大正中-後期
モデルはお葉。 -
お葉さん。1904-1980
16才から21才まで夢二の恋人でありましたが、夢二と別かれてから医師と結婚し、幸せな生涯を送ったようです。 -
絵はがきより。
「夏姿」1915年(大正4年)ごろ
モデルは彦乃。 -
彦乃さん。1896-1920
1915年夢二と出会い、しばらくは京都で暮らしましたが、父親により夢二と引き離され、翌年結核で世を去りました。満23才。 -
絵はがきより。
「最後の手紙」1927年(昭和2年)
モデルは彦乃。
夢二が最も愛した女といわれます。
★
ぬれて
来ば
よしや
涙に
あら
ず
とも
うれしきものを
山のおとづれ
夢生
★(美術館カタログP26)
夢二には戸籍上妻となったたまきという女性がいますが、この美術館ではお留守でした。
彦乃もお葉も、写真は夢二が撮ったものです
夢二の写真は約2000枚あり、女を写した写真が多いそうです。「竹久夢二写真館・女」では、モデルは圧倒的にお葉です。そのほとんどが夢二によりポーズを指定されている感じ。
絵の方がずっといい。写真だとあまりに生々しい。あたりまえですね。
この写真集にはお葉のヌード写真が4枚載っています。
スナップ写真とはあきらかに違います。二人だけの撮影会。
ああしろこうしろ、横向けなどとうるさかったはず。行水中のお葉さん、あきらかにぶーたれた顔。
20世紀はじめには写真の展覧会はあったらしいのですが、夢二の年譜を見ると、写真展をやった記録はないのです。
この時代ヌード写真を公開することはできなかったと思います。
なんのために写真を撮ったのだろう。
なお、望月百合子(評論家、翻訳家、1900-2001)によると、お葉は「今夢二の絵から抜け出して来たか」とうたがうばかりの美女で、ある人は年は19,30を超しているという人もいた。「妖精かもね、という人もいた」
本当は17才だったそうです。(竹久夢二P62) -
弥生美術館・竹久夢二美術館は、タイムマシーンです。
大正ロマンの世界にOn y va!
「昭和のかほり」といいますが、残り香は私たち年寄りの記憶にわずかに残っています。
大正となると、もはや本の中。
しかしここに漂っている雰囲気は、驚くほど現代に近い。
あの戦争がなければ、東京オリンピックは1946年に開催され、東海道新幹線は1940年から工事が始まり1955年には開通するはずでした。すると大正ロマンは爛熟しながらその後の日本に流れ込んでいくことになります。
ここから先は筒井康隆の世界ですから、やめ。
幕末明治となるともう歴史です。しかし大正は私たちの爺さん婆さんの時代です。
私の祖母は1900年生まれでしたから、大正元年で12才。以降夢二の最盛期と彼女の少女、青春時代はかさなります。
おぼろげな記憶では、祖母は女性週刊誌のグラビアで、夢二の絵を見て何か言っていました。当時私は生意気な高校生、バルザックさんやヴァレリー君と友だちだったので、夢二に興味なし。
なんと言っていたか、ちゃんと聞いておけばよかった。
そういえば、1911年(明治44年)伊香保在住の松沢みどりが夢二に可愛いファンレターを書き、後日夢二を伊香保に結びつけることになるのですが、そのときみどりちゃんも12才でした。
大正デモクラシー、大正ロマン、大正モダン、大正デカダンス、自由な時代で、それ以前ともそれ以降とも違っていたみたい。
この美術館に、そういう雰囲気をちょっと味わいに行ってみませんか。
と、かすかに観光ブログのまねをします。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2023/12/01 16:08:45
- 夢二もいいですが、高畠華宵はもっと。。。
- こんにちは、しにあさん&by妻さん(*^^)v
11月26日から29日までの3泊4日、娘と孫姫(0歳と4歳)の三人が来ておりました。
昨日はくたびれ果てて一日中寝ておりました!
恐るべし!子どもの破壊力、あの動きと赤ん坊の泣き声にはついてゆけません。
そんな、孫でしょ!という意見が多々あるとは思いますが、私はやはり子どもは苦手です(+_+)今日はやっと買い物に行く元気が出て参りました。
そんなこんなで、4トラご訪問もできておりませんでした。
今は(=^・^=)と二人、やっと本来の静けさが戻ってきましたよ。
さて数年前、いつも東大弥生門から「東大の講座」に通っておりました。
ですから、この界隈は懐かしいです。
港やで食事をしたこともあります。
このすぐ隣に「立原道造記念館」がありました。
今はどなたかのお住まいになっていたり、一部は駐車場になっていたりしますが。
立原の記念館が取り壊されてゆく様を、指をくわえながら眺めておりました。
あの辺りの土地を買い占める財力があったなら、必ずやあの記念館を守ったでしょうが、哀しいかな一庶民にその術はありませんでした。
昔、夢二がひそやかなブームになった頃があって(もちろん昭和です)、ドラマ化されました。
夢二役は岡田英二(素敵でしたよね!)、彦野は萩尾みどりさんだったような?
お葉は浜木綿子さんだったかな?
女性二人はうろ覚えですが、岡田さんの夢二はハマッていたと思います。
ストーリーはほとんど覚えていません。ただあの「待てど暮らせど来ぬ人の。。。」のメロディーが焼き付いていて。
まぁ、しかし夢二の描く女性は、確かにby妻さんのおっしゃるように、くにゃくにゃへろへろですねぇ。
榛名山を背景にした赤い着物の女性は、構図が大胆ではっとさせられますが、後は大概ナヨナヨですね。
当時の男性の女性観って、あんなものなんですかねぇ。
私もby妻さんと同意見!というところが多々ありますよ。
高校生の頃は、夢二の女性ステキとか思いましたが、今ではカンベンしてくれと言いたくなります( ̄▽ ̄)
すると高畠華宵も然りとなりますが、私はこの華宵さんと蕗谷虹児さんの絵本で育ったので、この二人には弱いのです。
宇和島の「華宵記念館」や、新発田の「蕗谷虹児記念館」にも行ったことがあります。
山岸涼子氏の「日出処の天子」の登場には驚かされましたが、あの独特の世界は読んでみなければ分からないですよね。
私はあれで、蘇我蝦夷がけっこう好きになったりしました(^_-)-☆
あの作品は、厩戸皇子の壮絶な孤独感みたいなものは、よく出ていたと思うのですが。
作者が出版社とケンカして、最後が尻切れトンボになったのは、返す返すも残念です。
もう一度最後の部分を書き直そうという気になってくれればいいのですが。
いずれにせよ、東大弥生門周辺、暗闇坂を登ってくるあの一角は独特の雰囲気がありますよね。
※
実は12月3日から2泊で、また奈良に行きます。(>_<)
性懲りもないですね(>_<)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/12/01 17:05:06
- Re: 夢二もいいですが、高畠華宵はもっと。。。
- 「日出処の天子」にはそんないきさつがあるのですか。たしかによく分からない終わり方です。
私がもっているのは7巻ものの白泉社版ですが、最後に「馬屋古女王」という短編みたいなのがついています。これが「日出処の天子」の一部なのか、独立した一遍なのか不鮮明。ページ数あわせで強引にくっつけたのかな。
華宵と山岸の作品の雰囲気が似ているのでビックリです。7巻の表紙絵にはもっと華宵ぽいきわどいのがありますが、4トラ編集部が気絶するといけないのでやめました。
夢二の日記と書簡集を読み込んでいます。晩年3年間はじつに荒涼とした人生でした。単なる女たらしというイメージは、どうも間違いだという印象です。
塚越迪子という、従来取り上げられなかった女性も出てきたりして、あと2回ほどお付き合い下さい。
ただ時代が新しくて、書きにくいですね。本人はともかく、子供か孫は現存の可能性が高いのです。
奈良2泊、いいですね。
じつは私たちも1月末か2月に、行ってみようかと思っているところです。
立ち回り先は外国人観光客にはあまり関係ないところのはずですが、最近はとんでもないマイナーなところまで押しかけてくるようです。
集団でなければいっこうにかまわないのですが。
それがちょっと心配。
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