2023/11/04 - 2023/11/04
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gianiさん
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この旅行記のスケジュール
2023/11/04
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そもそも、なぜ吉備に鬼が出没したのか?
鬼は本当に悪者だったのか?
こうした素朴な疑問を歴史書/考古学に照らし合わせて、専門家の述べる見解をまとめてみました。
主観部分は、その旨を記します。
スポットは岡山市北区に偏在しますが、一部総社市/倉敷市にも分布します。
付録で、伝説と関係ない雪舟生誕地も載せています。
物語の筋を追った現地訪問は↓
https://4travel.jp/travelogue/11860472
https://4travel.jp/travelogue/11863592
- 旅行の満足度
- 5.0
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§吉備国の成り立ち§
岡山市の造山古墳ビジターセンターには、シンプルな解説がありました。所々で、岡山に有利なマイナー説を前面に押し出すのが玉に瑕ですが、、、造山古墳ビジターセンター 名所・史跡
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稲作の影響
弥生時代の2大事案は、水田耕作と金属器の伝来です。
稲作には水田の造営/用水路開削/高床式倉庫建設が関係し、今まで以上に人々の協力関係が重要になります。豊作を願う祭りを通して団結を促進し、ムラが誕生します。
水田開発(土地/水利権)を巡ってムラ同士の争いが生じると、多くのムラを束ねる首長とクニが誕生します。 -
吉備の中山には、埋蔵文化財の展示室があります。
岡山県古代吉備文化財センター 美術館・博物館
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人のかたしろ(人形)
人形の語源通り、写真の作品は宗教的意味合いを持つものでした。高塚遺跡は全身、伊福定国前遺跡は半身、百間川原尾島遺跡は顔面。キノコのような形とユルい顔がツボにはまります。 -
動物のかたしろ
豊作を願う儀式で用いられ、犬/猪/鳥といった身近な生き物を模っています。全長5cmほどの小さなものです。 -
弥生時代の吉備の実力
首長同士の争いも生じ、クニは大きくなります。王も誕生します。
弥生時代後期に、古墳の前身といえる(写真)首長の王墓が吉備に建設されます(楯築遺跡)。
※記録に残る最古の王は、107年に中国へ使いを送った倭国王帥升です。(飛鳥時代まで日本は文字文化を持たなかったこともあり、中国側の記録頼みで、誰を指すのかは謎です。) -
★楯築遺跡(倉敷市)
命名の由来となった景観は、桃太郎のモデルになった吉備津彦命が、鬼のモデルとなった温羅の攻撃をかわすために石の盾を設けたとされます。 -
解説の通り2世紀後半から3世紀に造られた中円墳墓で、中円部に写真のような岩が環状に配置されています。和製ストーンサークルです。
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宅地開発等で原状が失われた部分もありますが、図のような形状で、ヤマト発祥の前方後円墳のルーツとされます。
全長80m/円の直径40mのスケールは、同時期のものとしては日本最大級です→弥生後期の吉備は強かった! -
王墓/古墳は、領民に権力をアピールするために、人々の目に付く場所に建設されました。
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遺跡に建つ楯築神社の収蔵庫には、御神体が安置されています。国の重文指定のお宝で、左右の小窓から中を覗けます。
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旋体文石
側面は、帯でぐるぐる巻いたような旋体文で覆われ、立体的な展開は高度な幾何学を反映したもので、それまでの弥生社会では見られなかったものです。正面は、鬼の顔にも見えます。地元では、鬼が乗った空飛ぶ乗り物と伝わっています。
※1980年の遺跡調査で、同じ様式の旋体文石が見つかり、遺跡と同時代のものであることが判明しました。 -
遺跡の石室に安置された棺には、32kg相当の水銀朱(ベンガラ)が敷かれていました。当時は大変貴重なもので、破格の量が見つかったことは、埋葬者が卓越した財力/権力を持っていたことの証拠です。
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特殊器台(写真は後代の宮山型)
弥生時代に生まれた器台は、壺や甕を上に載せる丈の低い台座です。儀式で供物を捧げる器の台座です。墓の前で行う儀式では高さ1mを越えるものが使用され、器を載せずに単独の祭具(特殊器台)として独立します。
最も古い様式は、立坂型(楯築ver.)と呼ばれます(岡大が所蔵)。吉備で作られ、畿内にも伝播しました。→吉備の文化は周囲の憧れるステイタスだった -
左:特殊壺/右:特殊器台
参考までに当初の器台は、写真のように丈の低い実用的なものでした。器台の上の壺や甕を載せても、この高さです。
こうした吉備の力の源は何だったのでしょうか? -
鉄器
当時の鉄とは、大陸産の鉄塊でした。流通は、九州から日本海(出雲)を経由するルートと瀬戸内(吉備)ルートが存在します。
大和と吉備は手を結んで、瀬戸内ルートへ一本化し、交易で多くの富を蓄えました。
農作物
吉備の語源は黍と言われるように、古くから農作物が豊かに穫れる地域でした。鉄製農具は生産性を向上させ、さらなる富を蓄えます。 -
製塩
海沿いに住んでいない限り、塩は自給自足ができません。対価を払って手に入れる必需品です。
弥生~古墳時代にかけて吉備の海沿いでは、土器で海水を煮詰めて作る製塩業が盛んでした。製塩土器と共に蛸壺や錘も発掘され、漁業と並行して行われたことがわかります。他にも製塩用の炉が見つかっています。
※奈良時代に土器から鉄鍋へシフトします。 -
古墳時代の地形
青色は、当時海で現在は陸地の部分。
岡山平野は現在の1/3程の面積で、大半は吉備の穴海でした。児島半島は存在せず、小豆島よりも大きな島(児島)でした。目安として山陽新幹線が海岸線で、山陽本線/国道2号線は水没と考えてください。
穴海とあるように、安全な航路(交通の要衝)でした。 -
古墳時代前期
鉄の部分で触れたように、初期の古墳(前方後円墳)は大和/吉備/筑紫に偏ります。吉備津彦命の墓とされる★中山茶臼山古墳も、前期の前方後円墳です。
前方後円墳は大和/吉備/出雲/筑紫のローカル墳墓のスタイルをミックスして誕生したもので、大和が発祥。一歩抜きん出たヤマトが畿内~北九州を統治し、ヤマト政権公認の地域支配者には前方後円墳を造ることを許可(輸出)しました。吉備の中山御陵 名所・史跡
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前方後円墳はヤマト政権への服従の証であると同時に、権力の正統性(ヤマトからのお墨付き)を領内に誇示するものでした。なので、古墳は街道沿いに多く分布します。
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造山古墳(古墳時代中期)
楯築遺跡の近くに位置し、全長350mの前方後円墳。日本で4番目に大きな古墳です。天皇陵以外では、日本最大です。
5世紀初頭に築かれ、建造時点では当時の天皇陵を凌ぐ日本最大の古墳でした。 -
造山古墳の航空写真
美しい前方後円墳で、周辺に陪塚(親族/有力家臣)が幾つも並びます。名前の通り、人々からは巨大な山が現れた!という驚きがあったのでしょう。
歴代天皇を凌ぐ巨大墳墓を造ったことは、吉備がヤマト政権に肉薄していたことと、奢る気持ちを体現したことを教えてくれます。
仁徳天皇陵も、必要に迫られて大きくしたのかもしれません。 -
埴輪円筒棺
造山古墳の陪塚から出土。写真は上半分で、元々の高さ169cm。
埴輪円筒棺は大和発祥の埋葬様式。吉備の埋葬品からも出土していることから、吉備はヤマトに従属していた関係が見て取れます。 -
陪塚の5号墳(千足古墳)の棺には、全国でも珍しい直弧紋が彫られています。
造山古墳と陪墳は、全国から職人/技術者が召集され、当時の権力の大きさを物語ります。
では、実際に古墳へ侵入してみます。 -
前方部には荒神社が鎮座。横には刳り抜き式の石棺が置いてあります。
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幅30mの掘割で前方部は隔離されています。向こうの丘が後円部です。
造山古墳は天皇陵(宮内庁管理)でないのが幸いして、自由に立ち入れる古墳としては日本最大です。 -
前方部との段差がわかります。前方には桜の林が。
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後円部は、戦国時代に城が築かれました。柱跡などの遺構が見られます。
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後円部から鬼ノ城を望みます。
伝説では、平野部で激戦が繰り広げられました。
中央には、秀吉の高松城水攻めの際に、小早川隆景が陣を敷いた日差山も見えます。
手前の丘の先には、同時代の作山古墳(282m第10位の規模)もあります。
造山/作山共に音が一緒なので、学界ではぞうざん/さくざんと読んで、聴き分けられるようにしています。作山古墳 名所・史跡
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弱まる吉備(古墳時代後期)
造山古墳以降の古墳を見ると、どんどん小型化(350→282→206m)しています。そして、巨大古墳自体が消滅します。 -
手掛かりとなるのが日本書紀。
吉備の反乱伝承と呼ばれる3つの事件が描かれています。
雄略天皇の治世に起きた田狭の反乱と前津屋事件、天皇の死後に起きた星川事件です。いずれも首謀者は征伐(殺害)されます。
ヤマト政権は吉備に武力行使し、瀬戸内海の権益も奪って独占します。 -
武具/馬具(古墳時代後期)
大陸伝来の鍍金/象嵌といった金工技術を用いて、金銀で飾られた武具/馬具が畿内で生産されます。畿内だけの専売技術です。ヤマト政権は、各地の有力者にそれらを賜与しました。
後期の古墳からは、こうしたものが多く出土します。 -
頭椎(かぶつち)大刀
柄頭が拳状に膨れている刀で、古墳時代後期のトレンドと一つです。実戦ではなく、儀式用です。
続く飛鳥時代には中央集権化が進み、律令制の下で吉備は備前/備中/備後に分かれ、中央政府の官僚が国司として派遣されるようになります。
吉備の歴史を概観すると、弥生時代以降頭角を現した地域でヤマト政権に肉薄するも、古墳時代中期以降に武力で権力を削がれ、日本の一地方に納まったという経緯です。 -
§吉備と渡来人§
吉備の優位性の背後には、大陸で育まれた技術を日本へ伝えた渡来人の存在があります。例えば、土器よりも高温で焼き上げる須恵器の工房が、吉備絶頂期の造山古墳周辺で見つかっています。渡来人が住み着いて、特殊な技術を活かしていた痕跡(高塚遺跡等)です。 -
阿知使主(あちのおみ)
第15代応神天皇の治世に渡来し、漢の霊帝(治世中に黄巾の乱が起きる)の曾孫とされます。日本書紀等によると、呉の織工等を連れて帰化しました。吉備にも居を構えます。
倉敷の阿智神社の縁起でも、阿知の子孫が住み着いたゆえの地名であり、吉備の穴海の別名が阿知潟であることも触れています。吉備にも、専門技術を持つ渡来人のコミュニティが存在した証拠と言えます。 -
鬼の出どころ
温羅は、自分は百済の王子だと吉備津彦に言っています。
外観については、目が凛凛として体毛や髪が赤毛だと描写します。
さらに住民に鉄の技術を伝えました。
以上の点から、温羅は百済から亡命した渡来人で、騎馬民族の血も入っているかもしれないと推測できます。 -
温羅の軍事拠点である鬼ノ城は谷の上に位置し、この谷には血吸川が流れています。血吸川は、赤目と呼ばれる砂鉄が穫れる川で、砂鉄(酸化鉄)は血の色を連想させます。
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鬼ノ城からは、温羅と阿曽媛が夫婦で暮らした阿曽の里が見下ろせます。血吸川が縦断し、古くから鋳物業が盛んでした。
温羅は、村人のために鉄の農具を作り、作業の効率が上がったことで村人は感謝し、温羅の結婚も祝福しました。亡命して吉備に着いた時は赤鬼としていじめられたものの、鉄を伝えて恩人になりました。 -
千引カナクロ谷遺跡
鉄器や鍛冶は弥生時代に各地へ広がりましたが、最も古い製鉄は総社市の千引カナクロ製鉄遺跡で、6世紀後半のものです。現地から製炭窯3基とは炉が4 基見つかり、第1炉から鉄鉱石、2-4炉から須恵器が見つかっています。
もっと昔から製鉄していたという説もありますが、十分な証拠で確証されているものとしては、現時点でここが最古です。 -
上の写真の左端に繋がる構図で、阿曽の里が右端に写っています。丸で囲んだ部分が千引カナクロ谷遺跡で、現在は鬼ノ城ゴルフ倶楽部のコース内です。
製鉄と須恵器がセットという点に注目できます。
須恵器は古墳時代に朝鮮半島から伝来し、還元炎(1100度以上)が必須なので、日本の野焼き(土器)技術では不可能です。鉄鉱石や砂鉄から原料鉄を取り出すには、渡来人の技術でないと溶解や還元は行えませんでした。鬼ノ城ゴルフ倶楽部 ゴルフ場
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ごく狭い範囲でこれだけの要素が揃うと、100%創作とは考えづらく感じます。
まとめると、温羅は外見/技術からしても渡来人で、吉備に鉄等の最新技術を持ち込んで国を豊かにした人物。民を苦しめた悪者ではないという人物像が浮かび上がります。
黍団子が絡むのは、桃太郎ではなく鬼だというのも新発見です。 -
鬼退治の真相
ヤマト王の息子吉備津彦が温羅を征伐した逸話は、ヤマト政権が渡来技術を駆使して栄えた吉備国を危険視し、軍事侵攻して叩き、傘下に完全掌握した出来事をあらわしていると考えるのが妥当ではないでしょうか。
戦争プロパガンダには大義名分が必要なので、民を苦しめる鬼キャラが誕生します。竹取物語における大伴氏のように、(桃太郎では省略される)阿曽の里のくだりは、滅ぼされた吉備側のささやかな抵抗のあらわれと言えるかもしれません。
海の向こうの鬼ヶ島はストーリー性があって最適なだけでなく、温羅が海を渡って吉備へ流れついたことの名残とも思えます。 -
具体的に歴史上のどの時代?どの出来事?
桃太郎のモデルとなった人物は、712年に編纂された古事記によれば、第7代孝霊天皇が皇子の彦五十狭芹彦命に吉備征伐を命じます。吉備を平定した彦五十狭芹彦命は、名前を吉備津彦命に改めます。
ただ、孝霊天皇の存在等を証明する証拠が乏しく(欠史八代のひとり)128年生きたという記述からも、年代計算するのはナンセンスです。並行する日本書紀の記述と矛盾する点が多いので、特定=推測/憶測になります。 -
結論
温羅の棲む鬼ノ城は、7世紀後半に中大兄皇子らによって建築されたものだったり、時代の辻褄が合いません。数百年の間に起った吉備/大和の抗争史を掻い摘んで、短期間の出来事(物語)に業種に凝縮したのでは?というのが、個人的結論です。 -
感想
両者が鯉やら鵜やらに化けたり、異常な怪力、オカルト等が印象的な伝説で、100%フィクションという気持ちで、物語ゆかりのスポット巡りを始めましたが、現地を回ると余りにも偶然が揃い過ぎていると感じました。火のない所に煙は立たないではありませんが、何らかの歴史的下地が複数存在したのではないか?と確信させる旅でした。 -
おまけ
桃太郎に出てくる犬は、犬飼部 犬飼健という吉備津彦の家来をモデルとしています。伝説では、首部の白山神社に晒した温羅の首が夜な夜な叫ぶので、犬に命じて顔の肉を喰わせたなんていうミッションも。
代々吉備津神社に仕えた犬飼家は犬飼健の子孫とされ、19世紀に犬養と改めます。犬養毅は自伝の中で9ページも割いて、自分は犬飼健の子孫であることを強調しています。 -
犬養毅の生家の前を山陽新幹線の高架が横切ります。
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高架の先は吉備の中山。吉備津神社の境内は目前です。
生家から吉備津神社本殿までは2kmの道のりです。
ちなみに犬は裏鬼門も守る生き物。偶然ですが、生家は吉備津神社の裏鬼門(南西)に位置します。
史実性はともかく、桃太郎伝説には様々な歴史スポットが絡んできて本当に面白いです。 -
吉備津神社から徒歩数分の場所には、栄西(1141-1215)の生誕地もあります。南宋に留学し、禅宗(臨済宗)や茶の湯をもたらした人物です。実は、吉備津神社に代々仕えた賀陽氏の出自です。
栄西禅師誕生地 名所・史跡
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栄西のみならず、雪舟の生誕地もありました。
こちらは同じ禅宗でも、教義ではなく芸術面で大きな足跡を残した禅師です。
現住所は、温羅が流した地で土地が赤く染まったとされる赤浜です。総社市雪舟生誕地公園 公園・植物園
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雪舟(1420-1502)
禅を修める過程の水墨画で名を馳せた画聖。11歳の時に涙で描いたネズミが上手すぎて、動き出した逸話は有名。これを機に京都へ送り出されます。1467-69年まで明に渡り、大内氏の庇護のもと山口を拠点に活動を続けます。没年は、1506年という説もあります。 -
日中の各地を旅します。おかげで、各地の景色を作品として世に送り出しています。
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国宝に指定されている5点は風景画。
「四季山水図巻」は、40㎝×15.8mの大作。右から始まり、景観が変化すると同時に春夏秋冬と季節も変化します。67歳の時の作品。防府の毛利美術館蔵。 -
「秋冬山水図」(右/中)
46×29㎝七十代末の作品
「破墨山水図」(左)
148×33㎝(絵画部分)、75歳の時の作品。
いずれも東京国立博物館蔵
中国各地を歩いて回った成果が、感じられます。 -
「天橋立図」
90×170cm、80代の時の作品、京都国立博物館蔵。
各地の景色を描いて後世に残す。雪舟はまさに室町のブロガー、旅行記を投稿する人たちの大先輩です! -
「慧可断臂図(えかだんぴず)」
184×113cm、77歳の時の作品で、国宝指定作品で唯一風景画でない作品。京都国立博物館蔵。
禅宗の祖達磨(通称ダルマさん)に弟子入りするために、自ら切断した左腕を差し出す慧可の姿を描いています。両者は、禅宗の二祖と呼ばれます。
有名な絵ですが、そんなグロテスクなシーンだとは知りませんでした。 -
「山水図」(牧松周省・了庵桂悟賛)
118×36cm(絵画部分)、80代の時の作品。個人蔵。 -
以上が国宝6点ですが、国重文等の絵画や各地に残る庭園も素晴らしいです。
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総社駅の先には、雪舟がネズミの絵を描いて動き出したという逸話で有名な宝福寺もあります。
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