2023/11/02 - 2023/11/02
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gianiさん
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ほぼ池田家岡山藩の備前国とは対照的に、小藩が林立する備中国。
大坂夏の陣で断絶した豊臣家とは別に、正室北政所の家系は、秀吉の旧姓木下家を存続させていました。
足守藩の藩庁は、平成30年以降路線バスが休止中で政令指定都市とは思えない静けさ。
江戸時代から続く建築物も多く、魅力的な町です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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鬼ノ城/阿曽郷から延々歩くと、岡山市(北区)の標示。
ド田舎です。 -
足守地区に入ると、伝統的建築がお出迎え。
というか、唐箕など昔ながらの農具まで野ざらし、、、 -
足守ふれあい歴史通りに分岐した途端に、こんな建物のオンパレード。
足守のポテンシャル怖ろしや。 -
関ヶ原から明治維新まで続いた足守藩の陣屋町です。
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バス停
実は、運転手不足で2018年から休止しています。
足守駅を結ぶオンデマンドのコミュニティタクシー(500円)があるらしいです。
足守川沿いの県道にこんなバス停が幾つもありました。 -
足守プラザ
観光拠点です。トイレ、地場産ショップ、飲食店等が整備されています。
歴史を記した簡単なパネル展示もあります。
それによると、、、足守プラザ 名所・史跡
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葦守神社
足守は、当初葦守と表記されました。
第15代応神天皇の后である兄媛(えひめ)の故郷です。天皇は望郷の念に駆られた兄媛を里帰りさせ、後日行幸して迎えに行きます。その際に后の実家でもてなしを受けたとされるのが、現在の境内です。
もてなしを喜んだ天皇は、兄媛の兄弟5名に領地を与えます。以上が、日本書紀の記述です。葦守八幡宮 寺・神社・教会
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応神天皇の死後、徳を讃えるために神社が創建されました。
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足守藩主からも重んじられ、代々参拝に訪れています。
全国の八幡神社の主祭神は応神天皇で、全国の武家から武運の神として崇敬を集めています。 -
石鳥居(国重文指定)
柱の刻銘から、1361年に奉納されたものだとわかります。現存する日本最古の石鳥居とされ、名工妙阿の作品。基部に稚児柱を伴う珍しい形式です。
社殿から離れた参道入り口に立っているので、見逃さないように! -
近所には岡山空港があるので、大きな姿の機体を眺められます。空港バスは、足守地区は停車しないので悪しからず。
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足守荘
中世の葦守(足守)は、吉備津神社の社家(神主)をルーツとする賀陽(かや)氏の本拠地でした。1169年に後白河法皇へ土地を寄進することで、足守荘となります(賀陽氏は、荘園の管理人として従事)。1184年には、所有権が京都の神護寺に移ります。写真の荘園図は神護寺所蔵で、国の重文指定です。
臨済宗の始である栄西(1141-1215)は、吉備津神社権禰宜賀陽貞遠の子として生まれます。比叡山や海を渡って宋まで留学できたのは、実家の財力あってこそです。栄西が得度した安養寺は、足守の数キロ上流に位置します。 -
毛利配下へ
戦国時代は、毛利氏の配下になります。
重文指定の石鳥居の50m先には、冠山城の入口があります。
秀吉の毛利攻めの際に、水攻めに遭った備中高松城を支える城の一つでした。 -
豊臣政権下では、岡山城の宇喜多秀家が足守も支配します。
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足守藩は、秀吉正室ねね(北政所)の実兄-木下家定が関ケ原後に入府したのが始まりです。関ケ原の戦いの時点では姫路城で25,000石でしたが、京都にいる実姉ねねの警護に専念し、中立を貫きました。家康は姫路城を娘婿池田輝政に委ね、家定は足守藩25,000石に移封されました。
家系図を見ると、関ケ原でキーパーソンになった小早川秀秋は、実は木下家定の実子(五男)、ねねの甥っ子です。 -
家定の死から大坂の陣まで
1608年に家定(写真右)が亡くなると、家康は長男勝俊と次男利房で領地を半分分けするよう命じますが、ねねの独断で長男勝俊に相続させます。いざこざが生じ、家康の鶴の一言で領地は没収されます。勝俊は京都で隠居し、歌人として芭蕉に影響を与える存在になります。
一方の利房(写真左)は、関ケ原で西軍に組した汚名を返上すべく、大坂冬の陣/夏の陣で戦功を挙げます。その結果足守藩の相続を認められ、以後明治維新まで存続する大名家となります。 -
陣屋町の整備
4代藩主利当が着手し、5代利貞によって完成します。写真の町割りは1686年のものです。
橙が町家で、中央を現在の足守ふれあい歴史通り(赤:現在地)が通ります。武家町とは2つの門(青)で区切られています。 -
プラザを後に、まちなみ館を目指します。
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ちょっと突っ込んだ展示が多いです。
備中足守まちなみ館 美術館・博物館
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内部は、こんな感じ。
参考:足守の公開施設は16:30になると一斉に閉まります。16:00までに入館すると確実です。すべて無料です。 -
木下家の家紋
豊臣家と同じ五七の桐(左)を紋所として使用しました。 -
享保年間に発行した藩札。
凝った図柄なのは、シンプルに偽造防止のため。紙もレアものを使用。
今の紙幣に通ずるノウハウですね。 -
さらに奥へ進むと、右側に大きな一軒家。
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商家藤田千年治邸
幕末に建てられ、明治(1868-)に入って手が加えられました。
未だにマスクの貼り紙ありますが、政府の方針通りノーマスクでも大丈夫です。 -
建物は、敷地にコの字型に建っていて、中庭があります。足守商家の典型的構造です。大通りから見ると⊂の形になります。
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商店時代の看板が並びます。
化学肥料や塩など、街や村の御用達のお店でした。
藤田家は明治に大地主になり、岡山へ出るには必ず藤田の土地を跨がねばならない。と言われるほどの土地持ち/資産家でした。
商家の慣例に従い、繁栄と共に醤油づくりを始めます。 -
伝統的な醤油の作り方
重量で見ると、原料の半分は丸大豆、もう半分は小麦です。
①釜で大豆を蒸します。小麦は煎ってひきわります。加熱することで澱粉質をアルファ化させ、殺菌も兼ねます。 -
かまどは地下に据え付けられ、レンガ組みです。
実際に使用された釜は、展示よりもひとサイズ大きなものだったそうです。 -
②①(蒸した大豆/煎った小麦)と麹菌(種麹)を混ぜ合わせ、麹蓋(写真)に盛り、発酵させます。こうして麹が出来上がります。
麹菌の餌となる澱粉を加熱/α化することで、麹菌が出す酵素による分解が促進されます。生米より炊いた米の方が、唾液中のアミラーゼで分解しやすいのと同じ理屈です。 -
これが麹蓋を安置する麹室(こうじむろ)。手前に原料を加熱した釜が見えます。
麹室は第一に種麹の培養、次いで原料を発酵させて麹を作ることです。麹菌は醤油の味を決めるカギで、各蔵ごとに固有の菌が住み着き、壁は麹菌で黒ずんだ状態になります。
麹菌はデリケートなので、麹室の壁は分厚く、壁の中心には籾殻の層を作って保温に努めます。土間(床)にも籾殻を敷き詰め、地面からの湿気を遮断します。一定の温度/湿度を維持できるよう細心の注意が払われています。 -
③②(麹)と食塩水を仕込桶に入れて、仕込蔵で1-3年間熟成させます。仕込蔵に住み着く酵母菌や乳酸菌も発酵に加担し、香りや風味が増します。桶に立て掛けてある櫂で定期的に攪拌して空気を送り込み、温度を均一にします。こうして諸味(もろみ)が出来上がります。
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④③(諸味)を搾り袋に入れて、槽の中に次々と投入し、蓋をします。
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搾り機
てこの原理を利用して、大きな力を生み出して圧搾します。
シーソー形ではなく、裁断機のタイプです。 -
実際の搾り機
先端には、錘として125kgの石を4個(500kg)使用しました。
奥に鎖、その奥に地下に埋まる槽があります。 -
先端の天井には、滑車が付いています。
拷問用の器具ではありません。 -
梁材等は、真っ直ぐではなく曲がった太い幹を巧みに配置。意外と質実剛健です。
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MAXに圧搾された状態。槽の底の口から、液体だけが抽出されます。これが生(き)醤油です。圧搾のポイントは、時間をかけてゆっくりと行うことです。
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⑤圧搾した生醤油を釜で火入れします。
火入れ釜で加熱殺菌することで微生物の発酵作用を終了させ、品質を安定させます。そして、色(見た目)や味/香りを整えます。火加減やタイミングが命で、醤油づくりは「一麹、二櫂、三火入れ」と言われます。 -
⑥火入れした醤油を濾過して、出荷します。
店頭での量り売りのほかに、写真のような樽に入れて大八車に載せ、遠くは総社まで配達も行いました。
写真の建物は米蔵で、醸造に伴い原料保管庫になります。大地主なので、小麦や大豆も小作人に耕作させて原料も自給自足でした。鼠を防ぐために、内壁は総トタン張りです。これでは自慢の爪を以てしても登れません。 -
1950年頃まで醸造業を続け、藤田家は大阪へ移転します。
瓶詰の時代になると、様々なラベルが登場します。
右下には、中国5県の品評会で一等賞を取ったものも。 -
帳場
入口の左側(大通りから見て奥方向)に展開します。 -
往時の帳面。
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藤田邸を出て、大通りをさらに奥へ進みます。
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駐車場にこんな石柱が。
1971年に岡山市へ編入されるまでは、吉備郡足守町でした。町役場の跡地です。 -
町家エリアを越えて、武家町へ。
家老杉原家の武家屋敷。長屋門の右側は茶室、左側は中間(使用人)部屋でした。旧足守藩侍屋敷遺構 名所・史跡
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門を潜ると、玄関。
藩主や賓客をもてなす際に使用されます。 -
式台の間(8畳)
左奥は上床、右奥(襖の奥)は仏間です。切腹は仏間で行うのがしきたりで、武家屋敷必須のスペースです。 -
藩主が訪問する際は、長屋門の右にある御成門を使用しました。
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二の間(13畳)
式台の間の右に位置します。
賓客の家臣等が控えの間として使用します。
ねねの父親は織田信長の家臣で、杉原道松といいます。
藩主一族は、旧姓の杉原を名乗りました。
徳川/松平と同じ関係です。 -
一の間(8畳)
母屋の右端に位置。藩主や賓客をもてなす部屋です。周囲は縁側(戸締り可能)で囲まれ、セキュリティ上も外と直接接しない部屋です。中級以上の武家屋敷では、こうした表向き(公的スペース)が存在します。 -
書院には、花頭窓が設けられています。額の書は、10代藩主利徳の筆。ここなら幕府の目も届かないので、豊臣(江戸時代は禁断ワード)利徳とサインしています。久居藩藤堂家から1805年に養子入りした人物です。令和2年に寄贈。
以上の3部屋は、家主も個人使用しない特別な場所です。 -
1750年頃の建築で270年経ちますが、ほとんど手を加えられず、オリジナルの姿を保っています。1973年に市に寄贈され、補修工事が行われました。写真の柱は継木してあり、上はオリジナル、下は傷んでいて取り換えられたものです。
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額の反対側には、遠州式庭園が。
御成門も見えます。 -
古木が多い中で、こちらの椎の木は樹齢350年。武家住宅の庭に古木はマストです。なぜなら、敵に囲まれて立て籠もる際に、煮炊き用の薪になるからです。
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反対側へ移動します。
長屋門の窓は、茶室のものです。
ちなみに中間部屋は、管理人さんの事務室として使用されています。 -
表玄関の左側へ移動。
母屋は24×9mです。 -
玄関を挟んで土間の反対には米蔵が建ちます。
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土間には、内玄関が。家族や使用人は、ここから出入りしました。正面が玄関の間(6畳)で、奥に表向き(式台の間/二の間/一の間)が並びます。左は合いの間(4畳)、手前左(枠外)も土間/台所で、炊事道具が揃います。台所は土間が通常ですが、身分が高いと板敷きになります。ほかの部屋より一段低くなっています(男>女)。
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合の間の奥は茶の間(6畳)で、囲炉裏があります。その先(上床の奥)は内蔵に通じる通路、その先が脇の間(3畳)、奥の間(写真 7畳半)です。当主の居間です。二の間の裏側です。以上のが奥向き(私的スペース)です。表向きと奥向きの床面積は、ほぼ半分半分です。
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屋根は茅葺の入母屋造りで、萱が調達できずに葺き替えが半分でストップしています(来年予定)。予算の問題ではなく、萱と職人の調達が年々難しくなっており県内調達は過去の話、全国の伝統的家屋共通の問題になっています。
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足守小学校の角に立派な長屋門が。
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1846年築の木下権之助屋敷北門です。藩主木下利房が養子にした権之助利古の家系で、当主は代々権之助を名乗りました。別名北木下家。屋敷の表門で、永らく小学校の正門として使用されました。
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明治時代の写真が展示されます。
余りにも立派な門構えのために、藩主の怒りを買ったというエピソードが残っています。 -
現在は、学校の倉庫として使用されています。
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小学校の向かいには、地域センターが。
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小学校の奥は、陣屋跡。お殿様が暮らし、政庁が所在した場所です。
堀が今も残ります。 -
今は公園になっています。
直近は、小学校のプールと幼稚園でした。 -
陣屋跡には、木下利玄の生家も。
最期の藩主利恭の甥ですが、4歳の時に利恭が跡継ぎ不在のままで亡くなったので、急遽養子入りし14代当主になります。
敷地入口の長屋門から、1982年に秀吉の関白叙任書やら家康が小早川秀秋へ宛てた書簡やら、お宝がたくさん見つかりました。木下利玄生家 名所・史跡
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まちなみ館の展示。
25歳の時に結婚し、白樺派として文壇でも活躍しました。
旧大名家当主は華族なので華族学校(学習院)へ通い、サクッと東京帝大文学科卒。 -
陣屋の右側は、小堀遠州作の庭園が。
1608年の駿府奉行時の役職名ですが、実は幕府では備中国奉行を務め、大坂の陣では倉敷から大量の兵糧を供給しています。足守は近所です。
当代きっての文化人であり、藩主利房の実兄勝俊とも仲が良かったので、その繋がりで作庭したのでしょう。近水園 公園・植物園
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園内には、マリア灯篭も。
遠州はキリシタンではありませんでしたが、茶道の師匠が古田織部で、織部灯篭はキリシタン灯篭ともいわれるので、その影響かもしれません。岡山市は、隠れキリシタンが設置したと(推測)しています。 -
現在の足守の街並み
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大通りの突き当りには、藩医の屋敷跡を庭園にしたスペースが。山田貞順は、適塾の門徒です。
足守歴史庭園 公園・植物園
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葵橋で足守川を渡ると、
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緒方洪庵(1810-64)生誕地
右の顕彰碑の底部には、へその緒と元服時の遺髪が埋まっているそうです。
実は、足守藩士の息子です。緒方洪庵生誕地 名所・史跡
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14歳の時に大坂蔵屋敷勤務になった父に同行し、刺激を受けます。16歳で長崎へ遊学し蘭学を修め、1838-50年まで大坂で適塾を開き、福沢諭吉らが蘭学を師事。1850年に藩主の要請で帰郷、藩の除痘館で日本初の種痘(ワクチン接種 天然痘)を行い、名を上げます。1862年に幕府奥医師兼西洋医学所頭取に就任。
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街中には、こんなアピールも。
足守は半日で楽しめるコンパクトで癒されるスポット。
遅い昼食を楽しんで、ゆっくりとしたい町です。
※飲食店は、15-16時に閉まります。
足守駅から片道4kmがネックですが、自動車族には優しい町なので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか?
できれば名産の足守メロンが旬の時期に、、、
次は、本能寺の変で天下の流れを大きく変えた備中高松城(秀吉の備中大返し)を訪れます↓
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