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ほぼ池田家岡山藩の備前国とは対照的に、小藩が林立する備中国。<br />大坂夏の陣で断絶した豊臣家とは別に、正室北政所の家系は、秀吉の旧姓木下家を存続させていました。<br />足守藩の藩庁は、平成30年以降路線バスが休止中で政令指定都市とは思えない静けさ。<br />江戸時代から続く建築物も多く、魅力的な町です。

足守川紀行① 足守陣屋町:秀吉の家名は、大名家として明治維新を切り抜けた。

5いいね!

2023/11/02 - 2023/11/02

1198位(同エリア1681件中)

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77

gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

ほぼ池田家岡山藩の備前国とは対照的に、小藩が林立する備中国。
大坂夏の陣で断絶した豊臣家とは別に、正室北政所の家系は、秀吉の旧姓木下家を存続させていました。
足守藩の藩庁は、平成30年以降路線バスが休止中で政令指定都市とは思えない静けさ。
江戸時代から続く建築物も多く、魅力的な町です。

旅行の満足度
5.0

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  • 鬼ノ城/阿曽郷から延々歩くと、岡山市(北区)の標示。<br />ド田舎です。

    鬼ノ城/阿曽郷から延々歩くと、岡山市(北区)の標示。
    ド田舎です。

  • 足守地区に入ると、伝統的建築がお出迎え。<br />というか、唐箕など昔ながらの農具まで野ざらし、、、

    足守地区に入ると、伝統的建築がお出迎え。
    というか、唐箕など昔ながらの農具まで野ざらし、、、

  • 足守ふれあい歴史通りに分岐した途端に、こんな建物のオンパレード。<br />足守のポテンシャル怖ろしや。

    足守ふれあい歴史通りに分岐した途端に、こんな建物のオンパレード。
    足守のポテンシャル怖ろしや。

  • 関ヶ原から明治維新まで続いた足守藩の陣屋町です。

    関ヶ原から明治維新まで続いた足守藩の陣屋町です。

  • バス停<br />実は、運転手不足で2018年から休止しています。<br />足守駅を結ぶオンデマンドのコミュニティタクシー(500円)があるらしいです。<br />足守川沿いの県道にこんなバス停が幾つもありました。

    バス停
    実は、運転手不足で2018年から休止しています。
    足守駅を結ぶオンデマンドのコミュニティタクシー(500円)があるらしいです。
    足守川沿いの県道にこんなバス停が幾つもありました。

  • 足守プラザ<br />観光拠点です。トイレ、地場産ショップ、飲食店等が整備されています。<br />歴史を記した簡単なパネル展示もあります。<br />それによると、、、

    足守プラザ
    観光拠点です。トイレ、地場産ショップ、飲食店等が整備されています。
    歴史を記した簡単なパネル展示もあります。
    それによると、、、

    足守プラザ 名所・史跡

  • 葦守神社<br />足守は、当初葦守と表記されました。<br />第15代応神天皇の后である兄媛(えひめ)の故郷です。天皇は望郷の念に駆られた兄媛を里帰りさせ、後日行幸して迎えに行きます。その際に后の実家でもてなしを受けたとされるのが、現在の境内です。<br />もてなしを喜んだ天皇は、兄媛の兄弟5名に領地を与えます。以上が、日本書紀の記述です。

    葦守神社
    足守は、当初葦守と表記されました。
    第15代応神天皇の后である兄媛(えひめ)の故郷です。天皇は望郷の念に駆られた兄媛を里帰りさせ、後日行幸して迎えに行きます。その際に后の実家でもてなしを受けたとされるのが、現在の境内です。
    もてなしを喜んだ天皇は、兄媛の兄弟5名に領地を与えます。以上が、日本書紀の記述です。

    葦守八幡宮 寺・神社・教会

  • 応神天皇の死後、徳を讃えるために神社が創建されました。<br />

    応神天皇の死後、徳を讃えるために神社が創建されました。

  • 足守藩主からも重んじられ、代々参拝に訪れています。<br />全国の八幡神社の主祭神は応神天皇で、全国の武家から武運の神として崇敬を集めています。

    足守藩主からも重んじられ、代々参拝に訪れています。
    全国の八幡神社の主祭神は応神天皇で、全国の武家から武運の神として崇敬を集めています。

  • 石鳥居(国重文指定)<br />柱の刻銘から、1361年に奉納されたものだとわかります。現存する日本最古の石鳥居とされ、名工妙阿の作品。基部に稚児柱を伴う珍しい形式です。<br />社殿から離れた参道入り口に立っているので、見逃さないように!<br />

    石鳥居(国重文指定)
    柱の刻銘から、1361年に奉納されたものだとわかります。現存する日本最古の石鳥居とされ、名工妙阿の作品。基部に稚児柱を伴う珍しい形式です。
    社殿から離れた参道入り口に立っているので、見逃さないように!

  • 近所には岡山空港があるので、大きな姿の機体を眺められます。空港バスは、足守地区は停車しないので悪しからず。

    近所には岡山空港があるので、大きな姿の機体を眺められます。空港バスは、足守地区は停車しないので悪しからず。

  • 足守荘<br />中世の葦守(足守)は、吉備津神社の社家(神主)をルーツとする賀陽(かや)氏の本拠地でした。1169年に後白河法皇へ土地を寄進することで、足守荘となります(賀陽氏は、荘園の管理人として従事)。1184年には、所有権が京都の神護寺に移ります。写真の荘園図は神護寺所蔵で、国の重文指定です。<br />臨済宗の始である栄西(1141-1215)は、吉備津神社権禰宜賀陽貞遠の子として生まれます。比叡山や海を渡って宋まで留学できたのは、実家の財力あってこそです。栄西が得度した安養寺は、足守の数キロ上流に位置します。

    足守荘
    中世の葦守(足守)は、吉備津神社の社家(神主)をルーツとする賀陽(かや)氏の本拠地でした。1169年に後白河法皇へ土地を寄進することで、足守荘となります(賀陽氏は、荘園の管理人として従事)。1184年には、所有権が京都の神護寺に移ります。写真の荘園図は神護寺所蔵で、国の重文指定です。
    臨済宗の始である栄西(1141-1215)は、吉備津神社権禰宜賀陽貞遠の子として生まれます。比叡山や海を渡って宋まで留学できたのは、実家の財力あってこそです。栄西が得度した安養寺は、足守の数キロ上流に位置します。

  • 毛利配下へ<br />戦国時代は、毛利氏の配下になります。<br />重文指定の石鳥居の50m先には、冠山城の入口があります。<br />秀吉の毛利攻めの際に、水攻めに遭った備中高松城を支える城の一つでした。

    毛利配下へ
    戦国時代は、毛利氏の配下になります。
    重文指定の石鳥居の50m先には、冠山城の入口があります。
    秀吉の毛利攻めの際に、水攻めに遭った備中高松城を支える城の一つでした。

  • 豊臣政権下では、岡山城の宇喜多秀家が足守も支配します。

    豊臣政権下では、岡山城の宇喜多秀家が足守も支配します。

  • 足守藩は、秀吉正室ねね(北政所)の実兄-木下家定が関ケ原後に入府したのが始まりです。関ケ原の戦いの時点では姫路城で25,000石でしたが、京都にいる実姉ねねの警護に専念し、中立を貫きました。家康は姫路城を娘婿池田輝政に委ね、家定は足守藩25,000石に移封されました。<br />家系図を見ると、関ケ原でキーパーソンになった小早川秀秋は、実は木下家定の実子(五男)、ねねの甥っ子です。

    足守藩は、秀吉正室ねね(北政所)の実兄-木下家定が関ケ原後に入府したのが始まりです。関ケ原の戦いの時点では姫路城で25,000石でしたが、京都にいる実姉ねねの警護に専念し、中立を貫きました。家康は姫路城を娘婿池田輝政に委ね、家定は足守藩25,000石に移封されました。
    家系図を見ると、関ケ原でキーパーソンになった小早川秀秋は、実は木下家定の実子(五男)、ねねの甥っ子です。

  • 家定の死から大坂の陣まで<br />1608年に家定(写真右)が亡くなると、家康は長男勝俊と次男利房で領地を半分分けするよう命じますが、ねねの独断で長男勝俊に相続させます。いざこざが生じ、家康の鶴の一言で領地は没収されます。勝俊は京都で隠居し、歌人として芭蕉に影響を与える存在になります。<br />一方の利房(写真左)は、関ケ原で西軍に組した汚名を返上すべく、大坂冬の陣/夏の陣で戦功を挙げます。その結果足守藩の相続を認められ、以後明治維新まで存続する大名家となります。<br />

    家定の死から大坂の陣まで
    1608年に家定(写真右)が亡くなると、家康は長男勝俊と次男利房で領地を半分分けするよう命じますが、ねねの独断で長男勝俊に相続させます。いざこざが生じ、家康の鶴の一言で領地は没収されます。勝俊は京都で隠居し、歌人として芭蕉に影響を与える存在になります。
    一方の利房(写真左)は、関ケ原で西軍に組した汚名を返上すべく、大坂冬の陣/夏の陣で戦功を挙げます。その結果足守藩の相続を認められ、以後明治維新まで存続する大名家となります。

  • 陣屋町の整備<br />4代藩主利当が着手し、5代利貞によって完成します。写真の町割りは1686年のものです。<br />橙が町家で、中央を現在の足守ふれあい歴史通り(赤:現在地)が通ります。武家町とは2つの門(青)で区切られています。

    陣屋町の整備
    4代藩主利当が着手し、5代利貞によって完成します。写真の町割りは1686年のものです。
    橙が町家で、中央を現在の足守ふれあい歴史通り(赤:現在地)が通ります。武家町とは2つの門(青)で区切られています。

  • プラザを後に、まちなみ館を目指します。<br />

    プラザを後に、まちなみ館を目指します。

  • ちょっと突っ込んだ展示が多いです。

    ちょっと突っ込んだ展示が多いです。

    備中足守まちなみ館 美術館・博物館

  • 内部は、こんな感じ。<br />参考:足守の公開施設は16:30になると一斉に閉まります。16:00までに入館すると確実です。すべて無料です。

    内部は、こんな感じ。
    参考:足守の公開施設は16:30になると一斉に閉まります。16:00までに入館すると確実です。すべて無料です。

  • 木下家の家紋<br />豊臣家と同じ五七の桐(左)を紋所として使用しました。

    木下家の家紋
    豊臣家と同じ五七の桐(左)を紋所として使用しました。

  • 享保年間に発行した藩札。<br />凝った図柄なのは、シンプルに偽造防止のため。紙もレアものを使用。<br />今の紙幣に通ずるノウハウですね。

    享保年間に発行した藩札。
    凝った図柄なのは、シンプルに偽造防止のため。紙もレアものを使用。
    今の紙幣に通ずるノウハウですね。

  • さらに奥へ進むと、右側に大きな一軒家。

    さらに奥へ進むと、右側に大きな一軒家。

  • 商家藤田千年治邸<br />幕末に建てられ、明治(1868-)に入って手が加えられました。<br />未だにマスクの貼り紙ありますが、政府の方針通りノーマスクでも大丈夫です。

    商家藤田千年治邸
    幕末に建てられ、明治(1868-)に入って手が加えられました。
    未だにマスクの貼り紙ありますが、政府の方針通りノーマスクでも大丈夫です。

  • 建物は、敷地にコの字型に建っていて、中庭があります。足守商家の典型的構造です。大通りから見ると⊂の形になります。

    建物は、敷地にコの字型に建っていて、中庭があります。足守商家の典型的構造です。大通りから見ると⊂の形になります。

  • 商店時代の看板が並びます。<br />化学肥料や塩など、街や村の御用達のお店でした。<br />藤田家は明治に大地主になり、岡山へ出るには必ず藤田の土地を跨がねばならない。と言われるほどの土地持ち/資産家でした。<br />商家の慣例に従い、繁栄と共に醤油づくりを始めます。

    商店時代の看板が並びます。
    化学肥料や塩など、街や村の御用達のお店でした。
    藤田家は明治に大地主になり、岡山へ出るには必ず藤田の土地を跨がねばならない。と言われるほどの土地持ち/資産家でした。
    商家の慣例に従い、繁栄と共に醤油づくりを始めます。

  • 伝統的な醤油の作り方<br />重量で見ると、原料の半分は丸大豆、もう半分は小麦です。<br />①釜で大豆を蒸します。小麦は煎ってひきわります。加熱することで澱粉質をアルファ化させ、殺菌も兼ねます。<br />

    伝統的な醤油の作り方
    重量で見ると、原料の半分は丸大豆、もう半分は小麦です。
    ①釜で大豆を蒸します。小麦は煎ってひきわります。加熱することで澱粉質をアルファ化させ、殺菌も兼ねます。

  • かまどは地下に据え付けられ、レンガ組みです。<br />実際に使用された釜は、展示よりもひとサイズ大きなものだったそうです。

    かまどは地下に据え付けられ、レンガ組みです。
    実際に使用された釜は、展示よりもひとサイズ大きなものだったそうです。

  • ②①(蒸した大豆/煎った小麦)と麹菌(種麹)を混ぜ合わせ、麹蓋(写真)に盛り、発酵させます。こうして麹が出来上がります。<br />麹菌の餌となる澱粉を加熱/α化することで、麹菌が出す酵素による分解が促進されます。生米より炊いた米の方が、唾液中のアミラーゼで分解しやすいのと同じ理屈です。

    ②①(蒸した大豆/煎った小麦)と麹菌(種麹)を混ぜ合わせ、麹蓋(写真)に盛り、発酵させます。こうして麹が出来上がります。
    麹菌の餌となる澱粉を加熱/α化することで、麹菌が出す酵素による分解が促進されます。生米より炊いた米の方が、唾液中のアミラーゼで分解しやすいのと同じ理屈です。

  • これが麹蓋を安置する麹室(こうじむろ)。手前に原料を加熱した釜が見えます。<br />麹室は第一に種麹の培養、次いで原料を発酵させて麹を作ることです。麹菌は醤油の味を決めるカギで、各蔵ごとに固有の菌が住み着き、壁は麹菌で黒ずんだ状態になります。<br />麹菌はデリケートなので、麹室の壁は分厚く、壁の中心には籾殻の層を作って保温に努めます。土間(床)にも籾殻を敷き詰め、地面からの湿気を遮断します。一定の温度/湿度を維持できるよう細心の注意が払われています。<br /><br />

    これが麹蓋を安置する麹室(こうじむろ)。手前に原料を加熱した釜が見えます。
    麹室は第一に種麹の培養、次いで原料を発酵させて麹を作ることです。麹菌は醤油の味を決めるカギで、各蔵ごとに固有の菌が住み着き、壁は麹菌で黒ずんだ状態になります。
    麹菌はデリケートなので、麹室の壁は分厚く、壁の中心には籾殻の層を作って保温に努めます。土間(床)にも籾殻を敷き詰め、地面からの湿気を遮断します。一定の温度/湿度を維持できるよう細心の注意が払われています。

  • ③②(麹)と食塩水を仕込桶に入れて、仕込蔵で1-3年間熟成させます。仕込蔵に住み着く酵母菌や乳酸菌も発酵に加担し、香りや風味が増します。桶に立て掛けてある櫂で定期的に攪拌して空気を送り込み、温度を均一にします。こうして諸味(もろみ)が出来上がります。<br />

    ③②(麹)と食塩水を仕込桶に入れて、仕込蔵で1-3年間熟成させます。仕込蔵に住み着く酵母菌や乳酸菌も発酵に加担し、香りや風味が増します。桶に立て掛けてある櫂で定期的に攪拌して空気を送り込み、温度を均一にします。こうして諸味(もろみ)が出来上がります。

  • ④③(諸味)を搾り袋に入れて、槽の中に次々と投入し、蓋をします。

    ④③(諸味)を搾り袋に入れて、槽の中に次々と投入し、蓋をします。

  • 搾り機<br />てこの原理を利用して、大きな力を生み出して圧搾します。<br />シーソー形ではなく、裁断機のタイプです。

    搾り機
    てこの原理を利用して、大きな力を生み出して圧搾します。
    シーソー形ではなく、裁断機のタイプです。

  • 実際の搾り機<br />先端には、錘として125kgの石を4個(500kg)使用しました。<br />奥に鎖、その奥に地下に埋まる槽があります。

    実際の搾り機
    先端には、錘として125kgの石を4個(500kg)使用しました。
    奥に鎖、その奥に地下に埋まる槽があります。

  • 先端の天井には、滑車が付いています。<br />拷問用の器具ではありません。

    先端の天井には、滑車が付いています。
    拷問用の器具ではありません。

  • 梁材等は、真っ直ぐではなく曲がった太い幹を巧みに配置。意外と質実剛健です。

    梁材等は、真っ直ぐではなく曲がった太い幹を巧みに配置。意外と質実剛健です。

  • MAXに圧搾された状態。槽の底の口から、液体だけが抽出されます。これが生(き)醤油です。圧搾のポイントは、時間をかけてゆっくりと行うことです。

    MAXに圧搾された状態。槽の底の口から、液体だけが抽出されます。これが生(き)醤油です。圧搾のポイントは、時間をかけてゆっくりと行うことです。

  • ⑤圧搾した生醤油を釜で火入れします。<br />火入れ釜で加熱殺菌することで微生物の発酵作用を終了させ、品質を安定させます。そして、色(見た目)や味/香りを整えます。火加減やタイミングが命で、醤油づくりは「一麹、二櫂、三火入れ」と言われます。<br />

    ⑤圧搾した生醤油を釜で火入れします。
    火入れ釜で加熱殺菌することで微生物の発酵作用を終了させ、品質を安定させます。そして、色(見た目)や味/香りを整えます。火加減やタイミングが命で、醤油づくりは「一麹、二櫂、三火入れ」と言われます。

  • ⑥火入れした醤油を濾過して、出荷します。<br />店頭での量り売りのほかに、写真のような樽に入れて大八車に載せ、遠くは総社まで配達も行いました。<br />写真の建物は米蔵で、醸造に伴い原料保管庫になります。大地主なので、小麦や大豆も小作人に耕作させて原料も自給自足でした。鼠を防ぐために、内壁は総トタン張りです。これでは自慢の爪を以てしても登れません。

    ⑥火入れした醤油を濾過して、出荷します。
    店頭での量り売りのほかに、写真のような樽に入れて大八車に載せ、遠くは総社まで配達も行いました。
    写真の建物は米蔵で、醸造に伴い原料保管庫になります。大地主なので、小麦や大豆も小作人に耕作させて原料も自給自足でした。鼠を防ぐために、内壁は総トタン張りです。これでは自慢の爪を以てしても登れません。

  • 1950年頃まで醸造業を続け、藤田家は大阪へ移転します。<br />瓶詰の時代になると、様々なラベルが登場します。<br />右下には、中国5県の品評会で一等賞を取ったものも。

    1950年頃まで醸造業を続け、藤田家は大阪へ移転します。
    瓶詰の時代になると、様々なラベルが登場します。
    右下には、中国5県の品評会で一等賞を取ったものも。

  • 帳場<br />入口の左側(大通りから見て奥方向)に展開します。

    帳場
    入口の左側(大通りから見て奥方向)に展開します。

  • 往時の帳面。

    往時の帳面。

  • 藤田邸を出て、大通りをさらに奥へ進みます。

    藤田邸を出て、大通りをさらに奥へ進みます。

  • 駐車場にこんな石柱が。<br />1971年に岡山市へ編入されるまでは、吉備郡足守町でした。町役場の跡地です。

    駐車場にこんな石柱が。
    1971年に岡山市へ編入されるまでは、吉備郡足守町でした。町役場の跡地です。

  • 町家エリアを越えて、武家町へ。<br />家老杉原家の武家屋敷。長屋門の右側は茶室、左側は中間(使用人)部屋でした。

    町家エリアを越えて、武家町へ。
    家老杉原家の武家屋敷。長屋門の右側は茶室、左側は中間(使用人)部屋でした。

    旧足守藩侍屋敷遺構 名所・史跡

  • 門を潜ると、玄関。<br />藩主や賓客をもてなす際に使用されます。

    門を潜ると、玄関。
    藩主や賓客をもてなす際に使用されます。

  • 式台の間(8畳)<br />左奥は上床、右奥(襖の奥)は仏間です。切腹は仏間で行うのがしきたりで、武家屋敷必須のスペースです。

    式台の間(8畳)
    左奥は上床、右奥(襖の奥)は仏間です。切腹は仏間で行うのがしきたりで、武家屋敷必須のスペースです。

  • 藩主が訪問する際は、長屋門の右にある御成門を使用しました。

    藩主が訪問する際は、長屋門の右にある御成門を使用しました。

  • 二の間(13畳)<br />式台の間の右に位置します。<br />賓客の家臣等が控えの間として使用します。<br />ねねの父親は織田信長の家臣で、杉原道松といいます。<br />藩主一族は、旧姓の杉原を名乗りました。<br />徳川/松平と同じ関係です。

    二の間(13畳)
    式台の間の右に位置します。
    賓客の家臣等が控えの間として使用します。
    ねねの父親は織田信長の家臣で、杉原道松といいます。
    藩主一族は、旧姓の杉原を名乗りました。
    徳川/松平と同じ関係です。

  • 一の間(8畳)<br />母屋の右端に位置。藩主や賓客をもてなす部屋です。周囲は縁側(戸締り可能)で囲まれ、セキュリティ上も外と直接接しない部屋です。中級以上の武家屋敷では、こうした表向き(公的スペース)が存在します。

    一の間(8畳)
    母屋の右端に位置。藩主や賓客をもてなす部屋です。周囲は縁側(戸締り可能)で囲まれ、セキュリティ上も外と直接接しない部屋です。中級以上の武家屋敷では、こうした表向き(公的スペース)が存在します。

  • 書院には、花頭窓が設けられています。額の書は、10代藩主利徳の筆。ここなら幕府の目も届かないので、豊臣(江戸時代は禁断ワード)利徳とサインしています。久居藩藤堂家から1805年に養子入りした人物です。令和2年に寄贈。<br />以上の3部屋は、家主も個人使用しない特別な場所です。

    書院には、花頭窓が設けられています。額の書は、10代藩主利徳の筆。ここなら幕府の目も届かないので、豊臣(江戸時代は禁断ワード)利徳とサインしています。久居藩藤堂家から1805年に養子入りした人物です。令和2年に寄贈。
    以上の3部屋は、家主も個人使用しない特別な場所です。

  • 1750年頃の建築で270年経ちますが、ほとんど手を加えられず、オリジナルの姿を保っています。1973年に市に寄贈され、補修工事が行われました。写真の柱は継木してあり、上はオリジナル、下は傷んでいて取り換えられたものです。

    1750年頃の建築で270年経ちますが、ほとんど手を加えられず、オリジナルの姿を保っています。1973年に市に寄贈され、補修工事が行われました。写真の柱は継木してあり、上はオリジナル、下は傷んでいて取り換えられたものです。

  • 額の反対側には、遠州式庭園が。<br />御成門も見えます。

    額の反対側には、遠州式庭園が。
    御成門も見えます。

  • 古木が多い中で、こちらの椎の木は樹齢350年。武家住宅の庭に古木はマストです。なぜなら、敵に囲まれて立て籠もる際に、煮炊き用の薪になるからです。

    古木が多い中で、こちらの椎の木は樹齢350年。武家住宅の庭に古木はマストです。なぜなら、敵に囲まれて立て籠もる際に、煮炊き用の薪になるからです。

  • 反対側へ移動します。<br />長屋門の窓は、茶室のものです。<br />ちなみに中間部屋は、管理人さんの事務室として使用されています。

    反対側へ移動します。
    長屋門の窓は、茶室のものです。
    ちなみに中間部屋は、管理人さんの事務室として使用されています。

  • 表玄関の左側へ移動。<br />母屋は24×9mです。

    表玄関の左側へ移動。
    母屋は24×9mです。

  • 玄関を挟んで土間の反対には米蔵が建ちます。

    玄関を挟んで土間の反対には米蔵が建ちます。

  • 土間には、内玄関が。家族や使用人は、ここから出入りしました。正面が玄関の間(6畳)で、奥に表向き(式台の間/二の間/一の間)が並びます。左は合いの間(4畳)、手前左(枠外)も土間/台所で、炊事道具が揃います。台所は土間が通常ですが、身分が高いと板敷きになります。ほかの部屋より一段低くなっています(男>女)。

    土間には、内玄関が。家族や使用人は、ここから出入りしました。正面が玄関の間(6畳)で、奥に表向き(式台の間/二の間/一の間)が並びます。左は合いの間(4畳)、手前左(枠外)も土間/台所で、炊事道具が揃います。台所は土間が通常ですが、身分が高いと板敷きになります。ほかの部屋より一段低くなっています(男>女)。

  • 合の間の奥は茶の間(6畳)で、囲炉裏があります。その先(上床の奥)は内蔵に通じる通路、その先が脇の間(3畳)、奥の間(写真 7畳半)です。当主の居間です。二の間の裏側です。以上のが奥向き(私的スペース)です。表向きと奥向きの床面積は、ほぼ半分半分です。

    合の間の奥は茶の間(6畳)で、囲炉裏があります。その先(上床の奥)は内蔵に通じる通路、その先が脇の間(3畳)、奥の間(写真 7畳半)です。当主の居間です。二の間の裏側です。以上のが奥向き(私的スペース)です。表向きと奥向きの床面積は、ほぼ半分半分です。

  • 屋根は茅葺の入母屋造りで、萱が調達できずに葺き替えが半分でストップしています(来年予定)。予算の問題ではなく、萱と職人の調達が年々難しくなっており県内調達は過去の話、全国の伝統的家屋共通の問題になっています。

    屋根は茅葺の入母屋造りで、萱が調達できずに葺き替えが半分でストップしています(来年予定)。予算の問題ではなく、萱と職人の調達が年々難しくなっており県内調達は過去の話、全国の伝統的家屋共通の問題になっています。

  • 足守小学校の角に立派な長屋門が。

    足守小学校の角に立派な長屋門が。

  • 1846年築の木下権之助屋敷北門です。藩主木下利房が養子にした権之助利古の家系で、当主は代々権之助を名乗りました。別名北木下家。屋敷の表門で、永らく小学校の正門として使用されました。<br />

    1846年築の木下権之助屋敷北門です。藩主木下利房が養子にした権之助利古の家系で、当主は代々権之助を名乗りました。別名北木下家。屋敷の表門で、永らく小学校の正門として使用されました。

  • 明治時代の写真が展示されます。<br />余りにも立派な門構えのために、藩主の怒りを買ったというエピソードが残っています。

    明治時代の写真が展示されます。
    余りにも立派な門構えのために、藩主の怒りを買ったというエピソードが残っています。

  • 現在は、学校の倉庫として使用されています。

    現在は、学校の倉庫として使用されています。

  • 小学校の向かいには、地域センターが。

    小学校の向かいには、地域センターが。

  • 小学校の奥は、陣屋跡。お殿様が暮らし、政庁が所在した場所です。<br />堀が今も残ります。

    小学校の奥は、陣屋跡。お殿様が暮らし、政庁が所在した場所です。
    堀が今も残ります。

  • 今は公園になっています。<br />直近は、小学校のプールと幼稚園でした。

    今は公園になっています。
    直近は、小学校のプールと幼稚園でした。

  • 陣屋跡には、木下利玄の生家も。<br />最期の藩主利恭の甥ですが、4歳の時に利恭が跡継ぎ不在のままで亡くなったので、急遽養子入りし14代当主になります。<br />敷地入口の長屋門から、1982年に秀吉の関白叙任書やら家康が小早川秀秋へ宛てた書簡やら、お宝がたくさん見つかりました。

    陣屋跡には、木下利玄の生家も。
    最期の藩主利恭の甥ですが、4歳の時に利恭が跡継ぎ不在のままで亡くなったので、急遽養子入りし14代当主になります。
    敷地入口の長屋門から、1982年に秀吉の関白叙任書やら家康が小早川秀秋へ宛てた書簡やら、お宝がたくさん見つかりました。

    木下利玄生家 名所・史跡

  • まちなみ館の展示。<br />25歳の時に結婚し、白樺派として文壇でも活躍しました。<br />旧大名家当主は華族なので華族学校(学習院)へ通い、サクッと東京帝大文学科卒。

    まちなみ館の展示。
    25歳の時に結婚し、白樺派として文壇でも活躍しました。
    旧大名家当主は華族なので華族学校(学習院)へ通い、サクッと東京帝大文学科卒。

  • 陣屋の右側は、小堀遠州作の庭園が。<br />1608年の駿府奉行時の役職名ですが、実は幕府では備中国奉行を務め、大坂の陣では倉敷から大量の兵糧を供給しています。足守は近所です。<br />当代きっての文化人であり、藩主利房の実兄勝俊とも仲が良かったので、その繋がりで作庭したのでしょう。

    陣屋の右側は、小堀遠州作の庭園が。
    1608年の駿府奉行時の役職名ですが、実は幕府では備中国奉行を務め、大坂の陣では倉敷から大量の兵糧を供給しています。足守は近所です。
    当代きっての文化人であり、藩主利房の実兄勝俊とも仲が良かったので、その繋がりで作庭したのでしょう。

    近水園 公園・植物園

  • 園内には、マリア灯篭も。<br />遠州はキリシタンではありませんでしたが、茶道の師匠が古田織部で、織部灯篭はキリシタン灯篭ともいわれるので、その影響かもしれません。岡山市は、隠れキリシタンが設置したと(推測)しています。

    園内には、マリア灯篭も。
    遠州はキリシタンではありませんでしたが、茶道の師匠が古田織部で、織部灯篭はキリシタン灯篭ともいわれるので、その影響かもしれません。岡山市は、隠れキリシタンが設置したと(推測)しています。

  • 現在の足守の街並み

    現在の足守の街並み

  • 大通りの突き当りには、藩医の屋敷跡を庭園にしたスペースが。山田貞順は、適塾の門徒です。

    大通りの突き当りには、藩医の屋敷跡を庭園にしたスペースが。山田貞順は、適塾の門徒です。

    足守歴史庭園 公園・植物園

  • 葵橋で足守川を渡ると、

    葵橋で足守川を渡ると、

  • 緒方洪庵(1810-64)生誕地<br />右の顕彰碑の底部には、へその緒と元服時の遺髪が埋まっているそうです。<br />実は、足守藩士の息子です。<br />

    緒方洪庵(1810-64)生誕地
    右の顕彰碑の底部には、へその緒と元服時の遺髪が埋まっているそうです。
    実は、足守藩士の息子です。

    緒方洪庵生誕地 名所・史跡

  • 14歳の時に大坂蔵屋敷勤務になった父に同行し、刺激を受けます。16歳で長崎へ遊学し蘭学を修め、1838-50年まで大坂で適塾を開き、福沢諭吉らが蘭学を師事。1850年に藩主の要請で帰郷、藩の除痘館で日本初の種痘(ワクチン接種 天然痘)を行い、名を上げます。1862年に幕府奥医師兼西洋医学所頭取に就任。

    14歳の時に大坂蔵屋敷勤務になった父に同行し、刺激を受けます。16歳で長崎へ遊学し蘭学を修め、1838-50年まで大坂で適塾を開き、福沢諭吉らが蘭学を師事。1850年に藩主の要請で帰郷、藩の除痘館で日本初の種痘(ワクチン接種 天然痘)を行い、名を上げます。1862年に幕府奥医師兼西洋医学所頭取に就任。

  • 街中には、こんなアピールも。<br />足守は半日で楽しめるコンパクトで癒されるスポット。<br />遅い昼食を楽しんで、ゆっくりとしたい町です。<br />※飲食店は、15-16時に閉まります。<br />足守駅から片道4kmがネックですが、自動車族には優しい町なので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか?<br />できれば名産の足守メロンが旬の時期に、、、<br /><br />次は、本能寺の変で天下の流れを大きく変えた備中高松城(秀吉の備中大返し)を訪れます↓

    街中には、こんなアピールも。
    足守は半日で楽しめるコンパクトで癒されるスポット。
    遅い昼食を楽しんで、ゆっくりとしたい町です。
    ※飲食店は、15-16時に閉まります。
    足守駅から片道4kmがネックですが、自動車族には優しい町なので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか?
    できれば名産の足守メロンが旬の時期に、、、

    次は、本能寺の変で天下の流れを大きく変えた備中高松城(秀吉の備中大返し)を訪れます↓

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