2018/11/27 - 2023/09/30
2117位(同エリア2402件中)
砂布巾さん
1936年8月1日 初の聖火リレー、ベルリンオリンピック開幕(ドイツ)
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心からの感謝を込めて 砂布巾
2023年「砂布巾のLWほぼ完結の旅」で写真を一新するなどの改訂を行いました
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*さあガイドツアーがスタートします どうせ言葉が分からないから、時間が近くて自分にとって耳障りの良いドイツ語によるツアーに参加します
オリンピア シュタディオン スタジアム・スポーツ観戦
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ヒトラーが握手を拒否したという逸話も残る黒人選手ジェシー・オーエンスの大活躍、
*一番下の写真右側がオーエンステロのトポグラフィー 博物館・美術館・ギャラリー
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「がんばれ」のラジオ放送でも知られる前畑選手の力泳、後述する村社選手の力走、棒高跳びにおける大江・西田両選手の友情のメダルなど、数々の名勝負が展開されたオリンピック・ベルリン大会は、初めて聖火リレーが行われた大会でもあった。リレーは大会期間中から「ヒトラーの戦争準備」と囁かれ、1941年4月にバルカン作戦が始まると、実際リレーの逆ルートで攻め込んだ。オリンピックはナチスの国際的威信を向上させるための政治宣伝(プロパガンダ)であると同時に、戦争準備の一環に過ぎなかった。
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ワイマール共和国の時代に開催が決まっていたこともあって、当初ヒトラーはオリンピックに関して、「ユダヤ主義に汚れた芝居など、国家社会主義のドイツでは上演できないだろう」と述べるなど冷淡だった。しかし宣伝相ゲッペルスの説得などもあって、1933年秋には国家プロジェクトに格上げされた。
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*反対側にも同じようなプレートが 優勝者ではないように思ったので、細かい写真は撮らなかった
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1936年の国内事情について。前年に「ドイツ人の血と名誉を守る法」、「帝国市民法」(ニュルンベルク法)が制定された。影響はスポーツ界にも及び、ユダヤ人はスポーツ・クラブ、福祉団体などからも排除された。
テロのトポグラフィー 博物館・美術館・ギャラリー
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組織委員会会長のレヴァルトは、祖父の1人がユダヤ人でその職を追われた。抗議が行われた結果、レヴァルトは復職し、ユダヤ人がナショナルチームから排除されないことが宣言された。実質的には変わらなかった。
*一番左がレヴァルト 1947年死亡 -
多くのユダヤ人が住むアメリカでは、反発が強まり、ボイコットの動きも高まった。国内では最後まで激論が交わされたが、国内問題不干渉の立場を取るIOCの意向もあって2票差で参加が決定し、結局当時としては史上最多の51カ国が参加して開催された。
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*貴賓席の様子など
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国際情勢では、3月にはフランス議会で仏ソ条約が批准されたことを口実に、ヴェルサイユ条約の条項で、ロカルノ条約でも非武装が再確認されていたラインラントへ進駐した。ドイツの再軍備はまだ十分ではなく、実際ヒトラーは後に「ラインラントに進駐したあとの48時間は、自分の一生でもっとも神経を痛めた時間であった。フランスが兵を進めれば、シッポを巻いて撤退しなくてはならなかった」と語っている。明白な条約違反行為に対しても、口先だけの抗議しか行われず、何らの具体的な対抗措置もとられなかった。もちろんこのことがオリンピックの開催に際して考慮されることもなかった。
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ベルリン大会が記憶に残っているのは、女流監督レニ・リーフェンシュタールの記録映画「民族の祭典」、「美の祭典」(通称「オリンピア」)の存在も大きい。芸術的観点から製作された映画は、現在でも高い評価を受けているが、彼女は戦後2回逮捕され、有罪とはならなかったが、ナチスの同調者と認定された。「ナチスのプロパガンダに一役買った」というわけである。より大きな批判の的となったのが、1934年にニュルンベルクで開かれたナチス党大会の記録映画「意志の勝利」を撮影していることだ。だが「自分は決して悪いことはしていない」の信念から謝罪しておらず、戦後は映画界から事実上追放された。アフリカのヌバ族や深海の世界に新たな活動の場を見出し、精力的な活動を続けた。
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彼女が現在でも批判されているのは気の毒と言うほかない。責任があるとしたら映画を観て支持した人が居たことに対する道義的責任だろう。当然「意志の勝利」の方がプロパガンダ色は強い。それすら芸術性を追求していたに過ぎないし、フランスの映画賞を受賞していることに留意する必要がある。
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「深夜特急」(旅の楽しさが伝わってくる)の著者で元祖バッグパッカー沢木耕太郎氏は、著書に「オリンピア」のタイトルを付けるにあたり、彼女に「仁義を切りに」インタビューに行き、副題「ナチスの森で」(集英社)の中で紹介している。ジェシー・オーエンスの伝説が誤解に基づくものである(黒人に偏見を持っていたのは疑いない)こと、棒高跳びの決勝の映像が後にリメイクしたものであることも明らかにしている。
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ビデオ・ドキュメンタリー「レニ」(レイ・ミュラー監督)では、その人生が映像を交えて紹介されている。(本項目のもう1人の主役孫基禎は次の項目で詳しく触れる)
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2002年8月17日付読売新聞には百歳の誕生日を目前に50年振りの新作「水中の印象」を発表したとの記事が載る一方、24日付の朝日新聞には百歳の誕生日を迎えた22日に、フランクフルトの地方検察庁がホロコースト(ユダヤ人大虐殺)がなかったような言動をした民衆扇動罪と死者に対する名誉毀損の疑いで、捜査を開始したとの記事が載った。後者の詳細は不明だが、先入観が影響しているのかも知れない。
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彼女は2003年9月8日に101歳で亡くなった。第一報は砂布巾の影響でファンになった川崎氏のメールだった。一層の活躍を期待していただけに残念だ。
*西田・大江の友情のメダル https://www.youtube.com/watch?v=053kEB41DaQ 暗くなってからの映像がリメイクと思われる -
*ここまでの6枚の写真はポツダム広場にあるシネマ博物館(有難いことに入場料無料)のものを使用しました
かなり長いですが、オリンピア前半部分、「民族の祭典」をどうぞ
https://www.youtube.com/watch?v=H3LOPhRq3Es -
本項目の参考文献であるダフ・ハート・デイヴィス著「ヒトラーへの聖火」(東京書籍 絶版)には、オリンピックをめぐる政治情勢や逸話が紹介されているが、2つ紹介する。
1935年にテニスチームが優勝した際、党幹部による審査が行われた結果、ナチス思想の理解が不十分との理由で取り消された。ナチスはスポーツの分野でさえ統制下に置いた。 -
期間中にドイツ国内を旅行したイギリス人青年グループは、よちよち歩きの子どもでさえ「ハイル・ヒトラー」と挨拶するのを見て、ヒトラーのプロパガンダが地方都市でも徹底しているのには戸惑ったという。
開会式前日に次回1940年大会の東京開催が決まったが、日中戦争拡大などの国際情勢下、1938年7月に返上したことも付け加えておく。(代替地はフィンランドのヘルシンキになったが、大戦で結局中止となった) -
最後にAERA 2000年2月7日号の「五輪伝説」から一部を紹介する。
メダルに手が届かなかったとはいえ、五輪の舞台で村社講平ほど人々に感動を与えた選手は、そうはいまい。北欧の大男を相手に大接戦を演じたベルリン大会の1万メートルと5千メートルの決勝レースは、正に伝説の名勝負である。 -
(1万メートル決勝)レースは最終の25周目までもつれ、ゴールまであと300メートル地点でフィンランド勢に抜かれて4位となった。
5千メートル決勝は、3位のヨンソンに3メートル及ばず、14分30秒でまたも4位にとどまった。しかし、死力を尽くして食い下がる姿は多くの人々に深い感銘を与えた。 -
高校時代から村社の指導を受けた愛弟子で、60年代に毎年フィンランドへ遠征していた順天堂大監督の沢木啓祐は、ある時“村社”を体験している。
「先頭を走っているとスタンドから『ムラコソ』『ムラコソ』という声援が飛ぶ。はじめは何だろうと思ったけど、アッそうか、と。30年経っても『ムラコソ』は忘れられていなかったんです」。ライバルたちの母国での逸話だ。
小柄な戦士は、伝説の中でずっと走り続けている。
https://www.youtube.com/watch?v=5D_CHIZuckE -
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*東京(1964)
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*サラエボ(1984)
ソウル(1988) -
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*リレーランナー
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*現在はブンデスリーガ― ヘルタ・ベルリンの本拠地としてサッカースタジアムとして活用されており、試合がある日はガイドツアーも無い ここを通って選手はグランドへ出る(下の写真)
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*ユニフォーム
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*なぜかチェペルが
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*なぜか日本語が
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*Sバーンのオリンピアシュタディオーン駅
Uバーン(地下鉄)にも同名の駅がある -
*試合がある日は人であふれかえるに違いない
もくじへ https://4travel.jp/travelogue/10681693
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旅行記グループ 砂布巾のLW「進化し続ける自叙伝的旅行記…」 第3章 2つのオリンピック(バルセロナとベルリン)
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