2018/11/28 - 2023/11/10
10889位(同エリア25697件中)
砂布巾さん
1936年8月9日 マラソン日本初の金メダルは孫選手(人物、韓国)
日本「代表」としてマラソンに参加し、2000年に高橋尚子選手がシドニー大会でメダルを獲るまで、この競技で唯一の金メダルを日本にもたらしていた孫基禎(ソン・キジョン)選手の人生を1994年7月24日に日本テレビ系列で放映された「知ってるつもり!?」、自伝「ああ月桂冠に涙」(講談社 絶版)などを参考に紹介する。
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心からの感謝を込めて 砂布巾
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彼は植民地化の2年後、1912年に中国と国境を接する新義州で4人兄弟の末っ子として生まれた。家が貧しく遊び道具を買ってもらえなかったので、小さい頃から走るのが大好きだった。やがてマラソン大会で好成績を挙げるようになる。
予選では3人の枠中2人が朝鮮人となったので、軍部の意向もあって現地に4人の選手が派遣された。6月に下関を出発し、鉄道でユーラシア大陸を横断するルートで故郷を通って(数千人が激賞してくれた)ベルリンに向かった。
競技の数日前に現地で最終予選が行われた。日本人1人は途中で脱落、もう1人は先回りしたが2位に入れず、最終的に日本代表の3人のうち2人が朝鮮半島出身者となった。 -
マラソンは8月9日15時にスタートした。2位に入賞したハーパー選手(イギリス)のアドバイスもあって優勝し、もう1人の朝鮮人南昇龍選手(2001年2月20日死去)も3位に入賞した。「オリンピックに出場するまで、優勝者の栄光をたたえて国旗を掲揚し、国歌が演奏されるという儀式を知らず」、表彰式では戸惑った。
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マラソンは8月9日15時にスタートした。2位に入賞したハーパー選手(イギリス)のアドバイスもあって優勝し、もう1人の朝鮮人南昇龍選手(2001年2月20日死去)も3位に入賞した。「オリンピックに出場するまで、優勝者の栄光をたたえて国旗を掲揚し、国歌が演奏されるという儀式を知らず」、表彰式では戸惑った。
その夜、日本選手団本部が開いた祝賀パーティーには参加せず、ベルリン在住の安鳳根氏(安重根義士の従弟!)に招かれ、祖国の旗「太極旗」を初めて目にし、熱いものが身体を流れていった。以後、名前をハングルで書き、その横に朝鮮半島の地図を描くか、Koreaと書くよう心掛けた。
祖国では、8月25日の東亜日報(トンアイルボ)が胸の「日の丸」を抹消して新聞に掲載したため、朝鮮総督府から発行停止を命じられた。 -
事件の1ヶ月後、長崎に帰国した。別室に呼ばれ、「帰国途中、誰に会い、どのような話をしたのだ」と追求された。どこへ行っても監視の目がついて回り、「優勝を返上したい気分」だった。1936年10月に祖国へ帰っても一切の歓迎行事を禁止された。普専商科(現高麗大学)に入学しても新入生歓迎行事を秘密集会と通報され、2学期には退学した。
再び来日し、「陸上はやらない、静かにしている」を条件に明治大学への入学が許された。人目に付く場では走らなかった。1941年に太平洋戦争が始まると、祖国では日本式姓名が強要(創氏改名)された。また学徒兵志願の勧誘で各地を回らざるを得なかった。1939年には結婚したが、解放直前に妻は病死した。 -
終戦で祖国が解放されると、コーチとして後身の指導にあたった。1947年のボストン・マラソンでは、徐潤福選手が優勝した。1950年の同マラソンでは、1位から3位までを大韓民国の選手が独占し、国旗太極旗が3本掲揚された。胸に熱いものがこみ上げた。
帰国5日目には朝鮮戦争が開戦。朝鮮民主主義人民共和国軍占領下のソウルで尋問したのは実の甥だった。1951年にはボストン・マラソンへの韓国の参加はならなかったが、優勝した田中茂樹選手に日本語読みの「そん きてい」名で「田中くんの優勝はアジアの優勝です」とした祝電が届いた。 -
1970年には韓国の国会議員がベルリン・オリンピック優勝記念塔に銘記してある国籍「Japan」の文字をノミで削り「Korea」と彫り直し、再び国籍問題が注目を集めた。
*「韓国初」の五輪金メダル 掲げられたのは日本国旗?
http://www.recordchina.co.jp/b167302-s0-c50.html -
*2023年9月29日 ベルリン、オリンピックスタジアムで撮影
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1981年西ドイツで開かれたIOC総会で名古屋との決選投票に勝ち、「つき上げる感動で息苦しく」なった。1988年のソウル・オリンピックでは、聖火ランナーも努めた。ベルリンで受け取った月桂樹は、ソウルの市立孫基禎公園で今もスクスク育っている。
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2002年11月15日に90歳で亡くなり、大田(テジョン)の国立墓地(2005年訪問)に埋葬された。その人生は日本の植民地支配、戦後の朝鮮半島分断に翻弄されたと言える。このような20世紀の朝鮮半島の歴史を生きた多くの人々の中の1人に過ぎないことを、私たちはきちんと受け止めなければならない。
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前項目で触れた映画「民族の祭典」の中でもランナーの心理状態に焦点を当てたマラソンは、一番の見所と言える。ハーパー選手が「スロー、スロー」と声を掛けている場面や、表彰台上でうつむいている場面も収められている。
*12分と長いですが、マラソンを取り上げた全シーンをお楽しみください ハーパーが声掛けしているシーンも登場します
https://www.youtube.com/watch?v=4yIe3wneuM8 -
*うつむく孫選手 胸の日の丸にもご注目
2004年は7年ぶり6回目の韓国訪問は2泊だった。ハングルを考案した世宗(セジョン)の名を冠した文化会館で、その日まで「五輪108年 そして孫基禎展」が行われているという情報を朝鮮日報日本語版HPで入手したので、日程を当初から1日早めた。
会場には写真や新聞記事などが展示されており、興味深かった。「民族の祭典」で「君が代」が流れた時は年配の女性が「ヒノマル」と冷静な口調で言っていた。世宗文化会館 建造物
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すぐ前に東亜日報本社を発見したので突撃訪問。受付で決まり文句となった「チョヌン (私は)イルボネ(日本の)コドゥンハッキョ(高等学校)セーケーサ(世界史)ソンセン(先生)イムニダ(です)」と切り出し、英語で続けた。資料として創刊号など社史に残る重要記事を集めた特別紙面を提供して頂いた。日本語ができる係の方の説明によると、日の丸が抹消された写真横の消された部分(日本による検閲の結果)は日の丸を太極旗に差し替えたものだったそうだ。これには目から鱗が落ちる思いだった。
最後は市立孫基禎公園。番組にも登場した月桂樹やブロンズ像があった。月桂樹の前に立つと、ベルリンのスタジアムと公園が瞬間的に結びついて、不思議な気分になった。 -
*地下商街で足形購入
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2006年のテーマは、豊臣秀吉と高麗大蔵経が収蔵される世界遺産海印寺(ヘインサ 九ちゃんの命日を迎えた)だった。ソウルは通過のつもりで行ったが、市役所前の広場には孫さんの展示があった。金メダル獲得から70年目だったのだ。涙ぐんでしまった。(2004年8月10日,2005年8月12日,2006年8月11日訪問)
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*一番右が表彰台の写真
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*一番右の写真がレニ・リーフェンシュタールとの写真、砂布巾にとっては物凄い組み合わせ
もくじへ http://4travel.jp/travelogue/10681693 -
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*右下は優勝インタビューを受ける孫選手と南選手(右)
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*右下はソウル・オリンピック最終聖火ランナー
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*独立記念館にあった孫さんの展示
独立記念館訪問記は http://4travel.jp/travelogue/10230292独立記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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*2018年5月4日の朝日新聞で取り上げられる
今でも日本が獲得した156個の金メダルとして数えられていることが紹介
1948年に建国された韓国では初の金メダルとして数えられている場合もある
記事中には孫さんが孫の李さんに「私は『克日』の時代を生きたが、君は『親日』の時代を生きなさい」と語った話が紹介されている独立記念館 博物館・美術館・ギャラリー
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旅行記グループ 砂布巾のLW「進化し続ける自叙伝的旅行記…」 第3章 2つのオリンピック(バルセロナとベルリン)
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